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MA8384T3 - 生きることはまた、終わることをも意味している。 home
公開講話、第3回
インド、マドラス(チェンナイ)
1984年1月7日


0:19 私たちは、今晩、 大変多くのことについて、 ともに 話し合うべきです。 私たちは、なぜ人間たちが傷つくのかに ついて、話し合うべきです - 生物学的に、ではなく、 心理的に、です。 その傷を、彼らは、生涯を通じて ずっと、持ち運んでいきます。 私たちはまた、 悲しみの問いについても、 ともに 話し合うべきです - その悲しみは、いったい 終わりうるのかどうかと、 悲しみの終わりに、関与している 含意について、です。 そしてまた、これは、終わりから 二番目の講話なので、 私たちはまた、死とは何かの 問いにも、入るべきです。 1:31 なぜなら、明日、もし あなたが、ここにおられるなら、 そして私も、たぶん ここにいるでしょうが、 私たちは、冥想について、 話すべきであるからです。 そして、生には、本当に神聖な ものが、あるのかどうか、です。 私たちは明日、それについて、 話すでしょうが、今日、今晩 - かなり麗しく、 すばらしい雲です。 あなたがそれに注目したのか どうか、私は知りません -
2:10 私が言いましたように、 私たちはともに、話し合うべきです。 なぜ人間たちは、 子ども時代から、死ぬまで、 この重荷を、 この傷の痛みを、 心理的に、内的に、 持ち運んでいくのかを、です。 そして、けっして 傷つかないこと、 けっして傷ついたのを 知らない頭脳を持つことは、 可能なのかどうかを、です。 理解されますか。
2:50 私たちはまた、先の二回の 講話で、言いましたように - それが反復されるのを、 気になさらないなら、ですが - これは、 講義ではありません。 これは、会合、集会 - すなわち、 講演者が、 他の人たちを教示したり、 他の人たちに情報を与えたり するところではありません。 私たちは、会話を 行っています。 二人の友だちが、 樹の下に、静かに、 幸せに座って、寛いで 自分たちの日常生活について、 話しています。 生きることの芸術について、 話しています - それは、最も 偉大な芸術です。 彼らのどちらも、相手を 説得していません。 確信について、 どの種類の宣伝をもしたり、 相手を一定の論議に、 屈させたりしていません。 しばらくの間、互いに 知り合ってきた二人の友として、 自分たちの生について、 話しています。 あなたと語り手が、今、 しているように、です。 4:16 それは、 一つの形の対話です。 それは、 とても複雑な問いです - 「対話」という言葉、 二人の人たちの間の会話は、です。 私は、あなたに、問いを示します。 あなたに、質問します。 あなたは、その問いに 返答します。 その返答に、 語り手は、その問い、 その返答に、挑戦します。 で、二人の人々がともに 話し合う、この過程、 そして、ともに 話し合う、過程の中で、 彼らはどちらも、 消え去ります。 問いと答えだけが、 残っています。 理解されますか。 たぶんあなたは、けっして、その種類の 会話をしたことが、ありません。 けっして、そういう対話を したことが、ありません。 私たちは、それを 試そうとしています。 すなわち、 あなたは、問いを出します。 それに、語り手は返答します。 あなたは、その返答に 応答します。 行ったり来たり、 ついに、あなたが、自分の 先入観を、消耗しつくしたし、 語り手もまた、自分の確信を、 消耗しつくすまで、です。 それで、私たちが、どちらも 自由であるように、です。 ゆえに、あなたと語り手は、 残っていなくて、 問いだけが、 残っています。 6:11 これを、少し 理解されましたか。 たぶんあなたは、一度もこの種類の ことを、試したことがありません。 なぜなら、私たちはみんな、出来合いの 答えに、満ちているからです。
6:27 で、私たちは、初めに、 生きることの芸術に、 入ろうとしています。 「芸術」(アート)という 言葉は、繋ぎ合わせることです - 語源的に、繋ぎ合わせる、 という意味です。 物事を、繋ぎ合わせる。 が、私たちはそれに、全然違った 意味を、与えるべきだと、私は思います。 芸術(アート)は、あらゆる物事を、 その所属するところに、収めること、 物事を、それらの正しい所に、 収めることです。 で、聞くことの芸術が、 あります。 学ぶことの芸術が、 あります。 知覚の芸術が、 あります。 私たちは短く、それに 入ろうとしています。 聞くことの芸術、 単に、言葉が 聞こえるだけではない。 言葉が聞こえることは、 聞く芸術より、 全く異なった過程です。 7:51 聞く芸術は、あなたが実際に 聞いている、という含意です - 解釈しているのではなく、 同意しているのではなく、 抵抗を設けている のではなくて、 他の一人が言うべきことを、 聞いている。 それで、あなたは、言われつつ あることの翻訳者ではないのです。 あなたは、自分の結論、 先入観、意見、 判断を、投影しません。 あなたは、実際に 聞いています。 それは、一定の注意を、 必要とします。 その注意の中、聞き手と してのあなたは、消え去ります。 あなたは、ただ 聞いています。 あなたは、あれらのカラスと、 あれらの鳥を、聞いているなら、 あなたは、 聞いています。 8:57 あなたは、「あれは、カラスが 呼ぶ騒ぎ声だ」と、言いません。 あなたは、ただ 聞きます。 あなたは、そう注意深く 聞くとき、 同意も、不同意も、 ありません。 あなたは、注意の状態に あるだけです。 語り手が言っていることに、 だけではなく、 また、あなたの 妻と夫にも、聞きます。 そのほうが、 はるかに困難です。 なぜなら、あなたは、それに 慣れてしまったからです - 互いに、です。 が、不幸にも、あなたは、 語り手を知りません。 語り手は、あなたを 知りません。 それで私たちは、どちらもが、 何の先入観もなく、聞けます。 それは、大きな敏感さ、 という含意です -あなたの感覚を 活動的にしている、 それで、あなたは、こうも完全に 聞いている、という意味合いです。 そう注意深く聞くなら、 一定の奇跡が、 起きつつあるのです。 10:19 それは、別の意見に反する、 一つの意見を、聞くことではない。 または、別の論議に反する、 一つの論議を、ではない。 どれほど合理的でも、どれほど 歪んで、幻影でも、です。 聞くこと - そこに 静寂が、あるものです。
10:43 そして、学ぶことの 芸術が、あります。 私がこのように話すのを、 気になさいませんか。 指摘してもよろしいなら、そう容易く、 そうすばやく、同意しないでください。 語り手が話しているとき、 それをしてください。 あのカラスを、 聞いてください。 で、あなたは、自分の感覚で もって、自然に聞きます。 耳で聞こえる だけではなく、 あなたの感覚すべてを目覚めさせて、 あれを聞いてください。 そのとき、あなたは、 存在しません。 音だけです。 音は、生において、とてつもない 重要性を、持っています。 私が、このように 進んでもいいですか。 気にされませんか。 海の音、 あなたの妻や夫の 声の音、 木の葉の間の音、 波の音、 樹の音 - きわめてしーんと しているものの、です。 12:15 音は、とてつもない重要性を、 持っています。 そして、学ぶ芸術は、 記憶の蓄積ではありません。 あなたは、学校へ 行きます。 そこであなたは、 記憶を養成しています - 数学、生物学、 物理学、などです。 あなたは、情報を 与えられつつあります。 あなたの頭脳は、 情報を集めています。 知識を蓄えています - 数学や 地理学、歴史について、 - 何でも、 お好きなことについて、です。 その知識は、頭脳に 留まり、蓄えられています。 生計を立てる中で、 上手にか、下手にか、 使うために、です。 で、知識は、 静止的です。 あなたは、それに付け加えられます。 あなたは、それから取り去られます。 が、それの中核は、 静止しています。 13:35 ですね? それは、 動的ではありません。 動的であるものを、付け加えたり、 取り去ったりできません。 本来的にそれは、動的ですが、 知識は、そうではありません。 知識は、単なる 情報の蓄積です。 多くの蓄えられた経験の、 結果のそれです。 保たれているものは、 動的ではありません。 動いているもの - 川に似ています - それは、動的です。
14:20 で、学ぶことの 芸術が、あります。 すなわち、あらゆる物事を、 その正しい所に、収めることです。 数学は、 学ばなくてはいけません - もしあなたが、技術者や 物理学者になりたいなら、です。 あなたは、知識を蓄積しなければ なりません。 それは必要です。 が、彼は、すでに自分が知って いることへ、付け加えています。 で、知識は、次第に 静的になります。 ところが、学びの行為は、 あなたは、 動いています。 けっして、同じ所に、留まったり、 保ったりしていません。 あなたは付いてきて・ ・・ 私は、何かを伝えていますか。 私たちは、互いに 理解しあっていますか。 15:28 私とともに、働いてください。 そうしてくださるでしょうか。 私たちは、ともに 働いています。 あなたは、語り手に、 聞いているだけではありません。 あなたと語り手は、 ともに働いています。 ともに学んでいます。 語り手が言ってきたことを、 学んで、蓄積していて、 家に帰って、「これが、彼が言った ことだ」と言っているのではありません。 それは、 学びではありません。 学びは、 言われつつあることを、 今、適用することです。 そして、 それが真実なのか、虚偽なのかを あなた自身で、発見することです。 それが真実であるなら、 行為するのです。 世の中では、 理論と行為や生は、 互いに何の関わりをも、 持っていません。 16:25 特に、この国では、 そうです。 あなたたちは、理論で 満ちています。 見込み、可能性に、 満ちています。 そして、一つのことを言い、 別のことをする。 そうね、あなたたちが やるゲームですよ。 で、学ぶことは、何か 全体的なことなのです。 知識がそうであるように、 断片化していないのです。 これらを理解されるのか どうかと、思われます。 それは、川のような 動きです - ものすごい嵩をもち、 動いています。 学びは、です。 それが、 学ぶことの芸術です。
17:15 そのとき、知覚の芸術が、 あります。 知覚は、見るのより、 異なっています。 知覚は、 時のではありませんが、 見ることと、見えたものを 行為へ翻訳することには、 一定の時の期間が、 関与しています。 ですね? 私は、自分が何 をすべきかを、見ます。 そして私は、 それをするでしょう。 見ることと、すること - 隔たり、間隔が、あります。 それが、時です。 ですね? それは、単純です。 ですね? 語り手は、何か神秘的なことを、 言っていません。 これは、 起きつつあることです。 あなたは、何か すべきことが、見えます。 そしてあなたは、 それについて、考えます。 あなたは、それが都合がよいのか よくないのかを、論議します - 有益なのか、無益なのか、 などを、です。 そのすべてが、行為の前の、時の 間隔を、含意しています。 ですね? ところが、知覚は、見ること、 そして、することです。 それで、行為と知覚との間に、 間隔が、ないのです。
18:48 私は、見ます。 私は、知覚します - 自分はヒンドゥー教徒である べきでないことを、です。 なぜなら、ヒンドゥー教徒である ことの理由の一つは、 安全保障の目的の ためであるからです。 そしてまた、それは、 戦争の原因の一つです - 民族主義、部族主義は、 戦争の原因の一つです。 で、私は、それを見ます。 私は それを知覚します - すみません。 私は、それを、 真理であると知覚します。 ゆえに、私はもはや、 ヒンドゥー教徒ではありません。 ところが、私が、 「なぜ私は、ヒンドゥーでは いけないのか」と言うなら - 「それは都合がよい。 それは、 私に一定の安心感を、与えてくれる。 私は、流れに乗って いかなければならない。 私はむしろ、自分一人で立つには、 弱すぎる」などなどなどと、です。 それらの論議と 逃避の中で、 あなたはやはり、その終わりに、 ヒンドゥー教徒に留まっています。 19:56 ところが、あなたは、 その危険が見えるなら - イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、 仏教徒、キリスト教徒など、 何でもあることの、です - それの危険が見えて、 あなたは、即座に行為します。 ですね?  あなたは、コブラが 見えるとき、即座に行為します。 もしも、今、コブラが、 あなたたちの間に、いたなら、 何ともまあ、あなたは どう、行為するでしょうか。 で、知覚することに、何が含意 されているかを、見てください - それは、注意、気づかいを 必要とします。 見出すように、物事を 見守ることを、です。 で、聞く芸術、 学ぶ芸術、そして、 知覚の芸術が、 あります。 この芸術でもって 生きるなら、 生は、とてつもないものに なります。 なぜなら、それは、大いなる敏感さ、 気づかい、注意を、 必要とするからです。
21:32 で、それらを言ったので、 探究しましょう - 探究です。 なぜなら、探究の中、 あなたは、 自由に探究できなければ ならないからです。 が、あなたは、自分の特定の 結論に、執着しているなら、 探究することは、 可能ではありません。 そのとき、あなたの結論が、あなたの 探究を、方向づけます。 ですね? で、探究するには、 自由が、なければなりません。 私たちは、ともに 探究しようとしています - なぜ、世界中の 人間たちは、傷つくのか。 心理的に、 負傷するのか。 この痛みの重荷を、生涯ずっと、 運んで行くのか、です。 そして、頭脳が 傷ついているとき、 それは、神経症、 精神病になります。 あらゆる種類の 幻影、迷信の中に、生きます。 22:45 ほとんどの人間たちは、 子ども時代から、 心理的に、 負傷しています。 あなたたちは、みんな 負傷していませんか。 あなた自身に、少し 正直であってください。 あなたは、 負傷していませんか。 学校で教師は、「君は、あの 少年ほど良くない」と、言います。 それは、あなたを傷つけます。 そうでないですか。 母親や父親は、 こう言います - 「おまえは、兄さんほど 良くない」と。 あなたは、嫉妬を、目覚めさせます - 競争、傷を、です。 ですね? 深く、心理的、内的に 傷ついている人たちは、 生涯ずっと、彼らは 恐れを、持っています - もはや 傷つかないように、です。 それで、彼らは、自分自身の まわりに、壁を築きます。 自分自身を孤立させます。 24:00 あなたたちは、みんな、 これをしませんか。 あなたたちは、みんな、 傷ついたことがない人々ですか。 あなたの夫や妻は、何か 残酷なことを、言います - ふとした言葉、 ずきずきとして、それは、 頭脳に記録されて、残ります。 その傷は、あらゆる種類の恐れ、 心配、痛みを、生み育てます。 ほとんどの人々は、これら すべての傷に、気づいていません。 自分が傷ついていることに、 気づいて、 その傷の帰結が、 見えるなら、 そのとき、傷ついているのは、 何ですか - 私たちは、訊ねています。 傷ついているのは、 誰ですか。 あなたは聞いています - 私は、そう望みます - 学んでいます。 私が、「昨日あなたが言ったことで、 私は傷ついている」と、言うとき、 傷ついている「私」は、 誰ですか。 25:36 どうぞ、これを 聞いてください。 なぜなら、それは、あなたの 生であるからです。 語り手の生ではありません。 それは、あなた個人の生です。 私たちは、生きる芸術を、 学んでいます - その中で、人間たちが、 まったく傷つかないものを、です。 それで、彼らは、まったく 傷を持たない頭脳を、持ちます - ゆえに、抵抗を 持たないものを、です。 傷つかないことの帰結を、 理解されますか。
26:19 で、誰が 傷ついていますか。 あなたは、「私は 傷ついている」と、言います。 「私」は、私が自分自身について 築いてきたイメージです。 ですね? 私たちは、一緒に ここにいますか。 あなたは、自分自身について、イメージを 持っています。 そうですね? すなわち、あなたは、キリスト教徒 である、あなたは、仏教徒である、 あなたは、ヒンドゥー教徒である、 あなたは、イスラム教徒である、 あなたは、偉大な人でなければならない、 あなたは、偉大な人である、と。 あなたは、あらゆる種類の イメージを、持っています。 あなたは、教授であるなら、自分自身に ついて、イメージを持っています。 あなたは、科学者であるなら、自分自身に ついて、イメージを持っています。 あなたは、主婦などであるなら、 イメージを持っています。 傷つくのは、 それらイメージです。 27:12 そのイメージが、 あなたです。ですね? 私たちは、この事態について、 はっきりしていますか。 あなたは、傷つきます。 なぜなら、あなたは、 あなたが自分自身について、 築いてきたイメージであるからです。 私は、演台に 座ります。 私は、不幸にも、生涯ずっと、 演台に座ってきました。 そして、誰かがやってきて、 「おまえはまぬけだ」と、言います。 そしてあなたは、自分は 偉大な人であると、考えます - 自分は、評判を持っている、 自分はむしろ、ばかげた老人だ、と。 私は、自分自身について、偉大な人 とのイメージを、持っています。 そのイメージは、 傷つこうとしています。 ですね? そして私は、「私は 傷ついている」と、言います。 で、イメージをそもそも - どうぞ、これを 聞いてください - イメージを、そもそも 創り出さないことは、可能ですか。 28:28 あなた自身について、そもそも イメージを持たないことが、です - 自分は、偉大な 法律家である、 自分は、むしろ胡散臭い 政治家であるとか、 自分は、 宗教的な人である、と。 唯一つのイメージをも 持たないのです。 あなたは、それを 試したことが、ありますか。 なぜなら、頭脳は、 これらのイメージを、創り出す。 思考は、 創り出すからです。 なぜなら、それらのイメージには、 安全が、あるからです。 少なくとも思考は、これらのイメージに 安全があると、考えます。 ですね? これらのイメージが、 傷つきます。 ゆえに、まったく 安全が、ありません。 で、唯一つのイメージをも、 持たないことは、可能ですか。
29:30 イメージは、頭脳の中の 記録過程です。 あなたは私に、何かを言います - 快いことを、です。 それは、記録されます。 あなたが、何か、とても 仲良しなことを、言うとき、 あなたは、私の友だちに なります - 記録されます。 が、あなたが、何か 快くないことを、言うなら、 あなたは、私の敵です。 ですね? それは、記録されます。 で、記録過程は、頭脳の中で、 いつの時も、進んでいます。 なぜなら、あなたが、 記録しないで、 安全のために、その記録に 依存しないなら、 あなたは、どこにいますか。 質問を理解されますか。 これらすべての問いに、 付いてきておられますか。 あなたは、イメージを持って いないなら、どこにいますか。 あなたは、何物でも ありません。 ですね? あなたは、絶対的に、 何でもありません。 何でもないとの、 その恐れのせいで、 あなたは、イメージを 創り出します。 なぜなら、私たちのみんなが、 何物かでありたいからです。 30:52 それで、私たちは、 イメージを、創り出します - それらのイメージに、 安全があると、望んで、です。 そして、それらのイメージに、 見つけます・ ・・ あなたは、傷つきます。 ゆえに、安全は、去りました。 さて、あなたは、これを 聞いてきました。 聞きました。 そして、聞く中で、あなたは、 その事実へ、敏感になってきました。 あなたは、それの真理が、 見えます - それの叙述が、ではない。 それの説明が、ではない。 あなたは、自分が傷ついているとの 事実が、見えます。 そして、あなたは、 自分自身について、 イメージを持っているから、 傷ついています。 そして、イメージを 持つかぎり、 それは、必然的に、 傷つくにちがいありません。 あなたが、気をつけて、 注意深く、これを聞くなら、 イメージを築くことが、 そもそも、ないでしょう。 なぜなら、あなたは、 それの真理を、見るからです。 それは、 あなたしだいです。
32:09 私たちは、ともに話し合うか、 むしろ、ともに聞くべきです - 生において、 現代の世界に生きていて、 とてつもない物事すべてが、 進んでいて、 すべての残忍、暴力、 私たちがみんな、していることの おぞましさが、伴いますが、 悲しみを終わらせることは、 可能であるのかどうか、です。 人類は、 苦しんできました - 何千年に、 何千年もの間、です。 私たちは、苦しむ中で、 進化してきました。 私たちは、歴史的に、ここ五千か、 六千年の間、戦争を行ってきました。 殺され、負傷し、不具になった 人々の数を、想像してください。 そして、涙を流してきた 人々すべてを、です。 33:22 そして、日常生活において、 私たちは、大変多く苦しみます。 苦しみは、単に 物理的だけではありません。 自らは、病気を 持っています。 それは、治るのか、 あるいは、治りません。 あなたは、それを堪えます - できるなら、です。 が、悲しみは、 それより、はるかに深い。 悲しみは、悔恨、 後悔、罪悪です。 罪悪の感じ、痛み、そして、 絶望的なさびしさの感じです。 悲しみは、何か、気軽に脇に 置けるものではありません。 それができるなら、 物理的な痛みのように、ですが、 悲しみは、何か、 とてつもないものです。 で、私たちは、ともに、それを 究明しようとしています。 34:39 それは、語り手がそれを 究明しようとしていて、 あなたはただそれを 聞く、のではない。 ともに、です。 それで、私たちがどちらも、 悲しみの深さ、 とてつもない活力、 悲しみの衝撃を、 理解するように、です。 あなたは、あの騒音を、 聞きますか - あのエンジンの轟きを。 または、あなたは、 それに抵抗しますか。 あなたが、あのエンジンの 轟きを、聞くなら、 あなたはまた、気をつけて、 語り手をも、聞くでしょう。 なぜなら、どちらも、 音であるからです。
35:51 で、悲しみは、きわめて 複雑な事柄です。 男と女の間に 存在する、悲しみ。 彼らは、結婚しているなど かもしれませんが、 一定の威嚇、一定の恐れが、 あるのです。 所有があるところ、恐れが、 あるにちがいありません。 妻が、夫を 所有していて、 夫が、妻を 所有しているなら - または、 男と女が、です - その所有の中に、 恐れと悲しみが、あります。 悲しみはただ、 生に対する、 過ぎゆく、断続的な 影だけではありません。 それは、私たちのみんなに、 いつも、あります。 37:05 その悲しみ、 痛み、さびしさは - どうぞ、あなたは、私に聞いて、 メモ帳や、自分の精神に、頭脳に、 メモ書きを作っているのでは ありません - 私たちは、ともに 検討しています。 で、あなたは、全面的に それに関与しています。 なぜなら、私たちは、あなたの 悲しみについて、話しているからです - 私の悲しみ、 ではありません。 そして、この重荷、 痛み、心配、 さびしさ、絶望、 憂鬱、罪悪、悔恨、 そのすべて。 それらすべての感情、 それらすべての反応が、 その一言の中に、 収容し、保ちます。 38:08 痛み - すなわち、 あなたは、けっして何かの長に なれないことの、です。 あなた自身の 無能力の痛み、 あなたがしたい、 一定のことを できないことの痛み、 無知の痛み。 書物の無知では ありません。 自分自身の 無知の痛み。 このすべてが、 悲しみです。 そしてまた、夫が 妻と子どもを去るときも、 悲しみが、あります。 離婚の悲しみ、 そして、 さびしさの悲しみ。
39:31 あなたは、さびしさについて、 知っていますか。 または、それは、 見知らぬ反応ですか。 私たちはみんな、さびしさが 何であるかを、知っています。 あなたは、何かの施設の 長であるかもしれません。 または、あなたは、大変多くの 友だちを、持っているかもしれません。 そして、あなたが 自分一人で、 浜や森を 歩いているとき、 あなたは突然に、何にも、 まったく無関係だと、感じます 一人だ、孤独、 さびしい、と。 このすべてが、その言葉 「悲しみ」に、収容されています - 痛み、嘆き、涙。 そしてまた、 笑いも、です。 人は、それとともに、 生きてきました。 それにより 条件づけられています。 40:49 そして、人が生じてから、 これら五千年の後、 人(マン)は - それは、 女(ウーマン)をも意味しています - 人は、この重荷を 負ってきました。 人は、寺院へ 行くかもしれません。 人は、それから逃避しようと するかもしれません。 祈り、崇拝しようとも、 その悲しみは、 いつも、あるのです。 私の息子が、死にます。 私は、余生の間、 涙を流します。 私から去っていった妻や夫 - 私は愛していました。 あなたが、愛が何であるかを、 知っているなら、です。 それは、 尋常でない痛みです。
41:54 で、私たちは、 訊ねています - 気軽に、ではなく、 単に言語的に、 だけではなく、 私たちは、心から その質問を、しています - その悲しみは、いったい 終わりうるのかどうか、です。 それは、完全に 終わりえます。 悲しみが終わることでもって、 熱情(パッション)が、あります。 悲しみという言葉こそが、 その言葉を、収容しています - 熱情(パッション)という 言葉を、です。 悲しみが、あるところ、 熱情は、ありえません。 悲しみが、あるところ、 愛は、ありえません。 悲しみがあるところ、 ずるい回避、逃避が、あります。 悲しみが終わることでもって、 熱情が、あります。 その熱情が、愛です。 苦しみがあるところ、あなたは 他の一人を、愛せません。 43:15 あなたは、他の一人を 憐れむかもしれません。 その悲しみは、 自己憐憫、自己関心です。 が、それが終わること。 そのとき、あなたは 自然に訊ねるでしょう - それは、どうすれば、 終わることになりますか。 それは、 間違った問いです。 なぜなら、そのときあなたは、 訊ねている・ ・・ その言葉、「どうすれば」こそは、私に 方法を示してくれ、という意味です - 私に実践を示してくれ、私に、 何をすべきかを、示してくれ、と。 ですが、私たちは、 悲しみの現象全体について、 ともに究明していて、 ともに学んでいるなら - 逃避しているのではなく、 慰めを見つけようと しているのではない - あのものが、起きるとき、 あなたがとても仲良かった 友だちが、癌で亡くなる。 彼の悲しみです。 そして、彼が逝ってしまった との感じが、あります。 44:49 さて、悲しみは、 挑戦です。 それは、衝撃です - 生物的にも、 心理的にも、です。 私の息子は、 逝ってしまいました。 それは、衝撃です。 事実は、彼が逝ってしまった、 ということです。 その悲しみを、 あなたの両手に保つこと、 あなたが、美しい花を 保つだろうように、です。 それで、 それの深さと意義の全体と、 強さと美しさ - それから逃避するのではなく、 それを保つことによって、です。 そのときあなたは、 見るでしょう - その中から、 その動き全体、反応を、 いわば、あなたの手に保つ。 そのときあなたは、 悲しみが、 何か全然違ったものに なるのが、見えるでしょう。 46:18 そのとき、愛があります。 そのとき、慈悲があります。 そして、愛と慈悲は、 自らの智恵を、持っています。 ずるい思考の 智恵ではありません。 月へ行く機械を 組み立てられる 人間たちの 智恵ではありません。 が、智恵は、何か 全然違ったものです。 それは、頭脳の外側に、 あります。 なぜなら、愛は、 頭脳の中に、ないからです。 愛は、思考など ではありません。 私たちは、それについて、 話すでしょう。
47:05 また、私たちは、ともに 話し合うべきです - 死について、です。 私たちの幾人かは、 老いつつあるでしょう。 語り手を含めて、です。 ここには、若い人々が、 たくさんいます。 死は、私たちのみんなに、 共通しています。 老いた者、若い者、 生まれようとしている者。 私たちの旅の終わりに、 死があります。 あなたは、それを 回避できません。 それが、 一つの確定的な事実です。 この地上に 生きてきた人々が、 もしも死んでいなかったなら、 と考えてください。 私が言っていることを、 理解されますか。 私たちがいる前に存在した人々 すべてが、もしも生きていたなら、 これは、どんな種類の大地に なるのでしょうか。 それは、 とても複雑な問いです。 あなたは、それに 興味がありますか。 または、あなたは、 「どうぞ、 陰気な主題について、話さないで ください」と、言います。 48:38 あなたは - 私の友と、私、 語り手は、死のうとしています。 いつの日か、 事故をとおして、 病気をとおして、 有機組織が 擦り切れるのをとおして、です。 そして、ゆっくりと 頭脳の衰え、 ぼけ具合、 もの忘れし、老衰する。 私たちは、 老衰という言葉を、 侮辱として、ではなく、 科学的に、使っています。 で、死が、 待っています。 すべての人間が、それに 怯えているのは、なぜですか。 どうぞ、これは、あなたと私、 語り手との間の、会話です。 あなたは、怯えて、 怖がっていませんか。 あなたが 正直であるなら、 そして、あなたが、 こう言うなら - 「ほら、私たちは みんな、年老いていく。 ひどい戦争が 起きるかもしれない」と。 核戦争 - もし、そういうことが、 起きるとして、です - そういうことが、ない だろうことを、望みます。 今知られているような地球は、 存在しなくなるかもしれません。 50:29 科学者たちは、それについて 書いてきました。 核戦争があるなら、 それは、地球の終わりです - デモ行進はない。 政治家たちが、 好き勝手にやるなら、 そして、あなたたちがみんな、民族主義者、 部族主義者であって、砕けているなら、 あなたたちは、その戦争が 生ずるのを、助けています。 あなたは、それに 責任があります。 その事実から、 逃避しないでください。 あなたが、 民族主義者であり、 異なった宗教に 所属しているかぎり、 あなたは、この戦争を 招いています。
51:20 で、死は、 大きな現象です - 誕生のように、です。 それで、訊ねます - なぜ私たちは、生きていて、 死を、自分たちから 遠ざけてきましたか。 ですね?  あなたが、 その質問をしています。 あなたは、生きています。 活動的です - もしあなたが、毎日、事務所へ 行くこと、格闘すること、 闘うことを、 活動的と、呼ぶなら、です - 怒る、苦々しい、 冷笑的のを、です。 そして、私たちが、生を一つのもの、 死を別の何かとして、 分離してきたのかは、 なぜですか。 なぜ、この隔たり、 長年が、ありますか。 何が、重要ですか。 終わることですか。 52:38 どうぞ。 または、何ですか。 終わること - それが、死です。 どちらが、重要ですか。 それが、 重要ではないですか - 生きることのほうが、 死ぬことより、重要なのでしょう。 いいえ? ですね? あなたたちは、何にも反応しない ように、思われます。 大変とてつもない 現象です。 私たちは、真剣に 訊ねています - 軽薄にではなく、冷笑的にではなく、 議論のためだけではない。 どちらが、重要ですか - 生きる ことですか、死ぬことですか。 もしも、あなたが、 返答できたなら、 あなたは、生きることだと 言うでしょう - 当然です。
53:37 で、生きることは、 何ですか。 あなたが生きることは、 何ですか。 あなたの生は、 何ですか。 逸れていって、「生きることは、 何だろうか」と言い、 それを理論にしたり、 思弁したり、 誰かしらを引用したり しないでください。 あなたの生は、何ですか。 それが、あなたが 生きることと呼ぶものです。 あなたの感覚的な応答、 あなたの性的な応答、 あなたの恐れ、 事務所へ行くこと - 9時から5時まで、 あなたの余生の六十年間です。 それについて、考えてください - その恐怖を、です。 そしてあなたは、 「はい」と言います - 「それが、私の責任です。 なぜなら、私は、子ども、妻、 おじ、おば、扶養すべき人を、 持っているからです」と。 あなたたちみんなが 言うことを、ご存じです。 格闘、痛み、 悲しみ、楽しみ、 時折、笑い、 時折、喜び、 あなた自身に、 関心を持つ。 ですね? 知識を蓄積し、 何も新しいものが、ない。 何も新鮮な、 生きているものが、ない。 55:01 これが、 あなたの生です。 あなたにとって、そのほうが、 死ぬことより、はるかに重要です。 それに向き合ってください。 それを見つめてください。 で、死は、あなたに来ます。 私たちに、 あらゆる生き物に、です。 これら、すばらしい 樹々さえも、 それは、いつの日か、 死ぬでしょう。 カリフォルニアには、樹が、 あります - セコイアです。 それは、五千年を 越えています。 すばらしい樹です。 年齢、歴史に満ちています。 それの美しさ。 それもまた、終わりに なるでしょう。 私たちはいつも、始まっていて、 終わっています。ですね?
56:08 で、死は、 何か最終的なもので、 終わることです。 が、私たちは、 そう徹底的に、最終的に、 終わりたいと、 思いません。 で、私たちは、輪廻転生を、 信じています。 私は来世に、 生きるだろう。 もっと良い機会だ。 私は、来世、 総理大臣になるだろう。 私は、来世、導師の中の 導師になるだろう。 私は、来世、覚りに 到達するだろう、と。 ですね? で、有機組織は、 生物学的に、それに、 終わることが、あります - 物理的な有機組織に、です。 また、生物学的に、 実のところ、 頭脳、物質は、 また、常なる格闘、 常なる葛藤により、 擦り切れつつあります。 退廃しつつあります。 57:27 知識は、この頭脳の 衰退の要因の一つです。 なぜなら、私たちは、こうも多く 知識に、依存するからです。 私たちは、 生きることの芸術は、 物事をその正しい所に、 収めることであると、言いました。 あなたは、 手紙を書くには、 ビジネスをするには、 知識が必要です。 あなたは、寺院へ行くには 知識が必要です。 知識は、寺院の内側の神々を、 創り出してきました - モスクと教会の 内側のを、です。 で、頭脳が老いていく 要因の一つは、 知識の蓄積です。 それを聞いて、 見出してください。
58:30 あなたが、「私は妻を 知っている」と、言うとき、 あなたは、すでに 何をしたのですか。 あなたは、彼女をけっして、 見つめたことが、ありません。 あなたはすでに、彼女について イメージを、創り出してきました。 で、死がありますし、 生きることが、あります。 生きることはまた、 ますます危険に、 ますます痛みに満ち、 ますます不確実で、 混乱に なりつつあります。 これが、 私たちの生です -けんかし、 格闘し、心配で、 悲しみ、痛み、悔恨、 罪悪など。 これが、私たちが 生きることと呼ぶものです。 そして私たちは、 「ごらん。 死ぬことは、 このすべてが終わることだ」 と言います。 そして、私たちは、「私」と 言います - 私の中に、 恒常的な何か、続いていくだろう ものが、ある、と。 来世に、です。 が、あなたはけっして、「私」が 何であるかを、検討しません - 実際に、自己が 何であるかを、です。 59:59 あなたは、それを検討し、 それを探検し、 それを問い、 それを疑うなら - 古い伝統を 受け入れるのではありません - あなたは、実際に 何ですか。 神経質にならず、それに 向き合ってください。 あなたは、あなたの名前、 あなたの身体、あなたの知識、 あなたの職、あなたの心配、 あなたの痛みです。 あなたは、 そのすべてです。 あなたは、言葉、 映像、イメージです。 そして、これらの言葉、 この束の蓄積を、 あなたは、来世へ、 運んでゆきたいのです。 来世は、ありますか - あなたが望むように、です。 または、死は、まったく ないのですか。 あなたは、これを 理解されないでしょう。 私たちは、それについて 話すでしょう。
1:01:13 死とともに生きる - 自殺するのではない。 私は、あのばかげたことに ついて、話していません - 死とともに生きる。 死は、終わることを、 意味しています。 あなたは、自分のお金を 持って行けません。 あなたは、自分の家族を 持って行けません。 あなたは、自分の富すべてを、 持って行けません - 自分の住宅、自分の資産、 自分の知識を、です。 死は、来ています。 そして、 そのすべてを、拭い去ります。 なぜなら、 あなたの頭脳は、 それは、十分な酸素が ないから、萎れてしまいます。 で、いつも、終わり - どうぞ、これを 聞いてください - いつも、終わりつつ、 生きることは、可能ですか。 すなわち、あなたは、 執着しています。 あなたは、自分の妻に 執着しています。 あなたは、自分のお金に 執着しています。 あなたは、自分の観念、結論、 自分の理想に、執着しています あなたは、ひどく 執着しています。 1:02:35 そして、死が やってきて、言います - 友よ、そのすべてを 拭い去りなさい。 あなたは、 死んでいます。 あなたは、そのすべてを 拭い去らなくてはいけません、と。 あなたが、来世を 信じているのでなければ、です。 あなたは、もし実際に、 来世を信じているなら、 今、正確に生きなくては いけません。 ですね? よろしいですか? なぜなら、あなたは、 来世に、そのつけを、 払おうとしているからです - あなたが今、適切に そうしないなら、です。 が、あなたが実際に、 輪廻を信じていないなら、 それはただ、麗しい概念、 観念だけです。 が、あなたが、もしも本当に それを信じていたなら、 あなたは、ものすごい統合の 生を、生きているでしょう - まさしく、 自分の思うことを、言って、 まさしく、 考えることを、しています。 が、あなたは、輪廻転生を、 信じていません。 1:03:41 それはただ、 理論だけです - あなたが持っている 多くの理論と同じく、です。 あなたは、語り手に 訊ねるかもしれません - 「あなたはそれを、 信じていますか」と。 あなたが必然的に、訊ねようと しているように、です。 私は、何の信念をも 持っていません。 語り手は、何についても、 何の信念をも、持っていません。 なぜなら、何も 恐れが、ないところ、 何も悲しみが、 ないところ、 全然違った何が、 あるからです。 それは、死を 持ちません。 慈悲は、私の 慈悲ではありません。 愛は、私の 愛ではありません。 愛は、愛です。 智恵は、私のや、 あなたのではありません。 それは、智恵です。 で、このすべてが 終わることが、あるところ、 他のものが、 あります。
1:04:59 で、あなたは、 執着しています - あなたの銀行口座に、ではない。 それを取らないでください。 あなたは、自分の妻に 執着しています。 あなたは、彼女や彼に、 「私はもはや、あなたに 執着していない」と言えますか。 もしも、あなたが、彼女や 彼に、これを言ったなら、 何が 起きるでしょうか。 そうしてください。 見出してください。 何が、起きるでしょうか。 あなたたちは どちらも、ひどく怒るか、 ひどく嫉妬するでしょう。 または、あなたは、 他の誰かに、執着しています。 が、死は、あなたを、執着より 自由にしようとしています。 で、日々、生きている間、 執着を終わらせる。 私が言っていることを、 理解されますか。 私は、この住宅に 執着しています。 そうであるなら、です。 私は、自分の評判に、執着 しています。そうであるなら、です。 1:06:16 そして、生きることは、 執着を終わらせることです。 で、私は、生きていますし、 同時に死んでいきます。 それを 理解されますか。 それで、二つが、けっして 分離していないのです。 で、それは、時のでない 動きを、含意しています。 愛は、 時のではありません。 愛は、思考により組み立てられた 何かではありません。 思考は、時のです。 愛は、頭脳の中に ありません。 愛は、頭脳の 外側の何かです。 そして、 生きることは、 また、終わることをも、 意味しています。 あなたが、これの真理を 見るなら - 「私は死ぬだろう」、 「私は、無執着になる だろう」と、言うのではない。 それは、何をも 意味していません。 が、あなたが、 それの真理を、見るなら - それの深さ、それの美しさ、 それの強さを、です - そのとき、頭脳は、 条件づけを、解かれます。 それはそのとき、執着をとおして、 条件づけられていません。 1:07:58 それは、今あるように、 条件づけられています。 あなたの頭脳が、ヒンドゥー教徒で あるよう、イスラム教徒であるよう、 キリスト教徒などであるよう、 条件づけられているように、です。 あなたの頭脳は、 条件づけられています。 条件づけられた頭脳は、 愛が何であるかを、 とうてい知りえません。 それは、同情を 持つかもしれません。 それは、憐れみを 持つかもしれません。 それは、様々な表現を 持つかもしれません - 伝達の、愛情のを、です。 愛は、感傷ではありません。 愛は、情動ではありません。 それは、 死のように、強い。
1:08:45 それで、 最高の水準で生きる - それが、自由です。 生の些細な物事すべてからの 自由です。 が、私は、生計を 立てなくてはいけません。 社会が、組み立てられ、 構築されているように、 私は、生計を 立てなくてはいけません。 私は、 そうするでしょう。 が、それは、目的ではありません - あなたがそうするように、です。 金を稼ぐ、権力、地位、 あなたは、権力が邪悪であるかどう かを、考慮したことが、ありますか。 政治家たちの権力、 あなたの、子どもたちに対する、 妻と夫に対する権力、 どの形でも権力、です。 寺院は、あなたに対して、 権力を持っています。 それで、寺院は、 邪悪です。 すべての教会 - なぜなら、それらは、 あなたの精神に対して、 あなたの頭脳に対して、 ものすごい権力を 持っているからです。 それは、独裁者に 似ています。 あれら全体主義国家に 似ています - そこで、あなたは、 考え、行為し、 自由な人であることを、 許されません。 1:10:51 で、あなたが、生きる道全体、 生きる芸術を、理解するとき - 実際に、日々、 生きる芸術を、です。 生きる理論を、ではない。 思弁ではなく、 理論、それらではなく、 あなたの日々の生を 実際に生きることを、です。 傷ついていないこと、 悲しみすべてを、 終わらせること、 そして、死を理解し、 それとともに生きること。 そのとき、生は、何か とてつもないものです - あなたがけっして、想像したり、 考え出したりできないこと、です。 そのとき、生は、 何か永遠の、 時を持っていない、 始まりもなく、 終わりもないものです。
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