Krishnamurti Subtitles home


MA8384T3 - 生きることはまた、終わることをも意味している。
公開講話、第3回
インド、マドラス(チェンナイ)
1984年1月7日



0:18 私たちは、今晩、大変多くのことについて、 ともに話し合うべきです。 私たちは、なぜ人間たちが傷つくのかについて、話し合うべきです - 生物学的に、ではなく、心理的に、です。 その傷を、彼らは、生涯を通じてずっと、持ち運んでいきます。 私たちはまた、悲しみの問いについても、 ともに話し合うべきです - その悲しみは、いったい終わりうるのかどうかと、 悲しみの終わりに、関与している含意について、です。 そしてまた、これは、終わりから二番目の講話なので、 私たちはまた、死とは何かの問いにも、入るべきです。 なぜなら、明日、もしあなたが、ここにおられるなら、 そして私も、たぶんここにいるでしょうが、 私たちは、冥想について、話すべきであるからです。 そして、生には、本当に神聖なものが、あるのかどうか、です。 私たちは明日、それについて、話すでしょうが、今日、今晩 - かなり麗しく、すばらしい雲です。 あなたがそれに注目したのかどうか、私は知りません -
2:10 私が言いましたように、私たちはともに、話し合うべきです。 なぜ人間たちは、子ども時代から、死ぬまで、 この重荷を、この傷の痛みを、 心理的に、内的に、持ち運んでいくのかを、です。 そして、けっして傷つかないこと、 けっして傷ついたのを知らない頭脳を持つことは、 可能なのかどうかを、です。 理解されますか。
2:50 私たちはまた、先の二回の講話で、言いましたように - それが反復されるのを、気になさらないなら、ですが - これは、講義ではありません。 これは、会合、集会- すなわち、 講演者が、他の人たちを教示したり、 他の人たちに情報を与えたりするところではありません。 私たちは、会話を行っています。 二人の友だちが、樹の下に、静かに、 幸せに座って、寛いで 自分たちの日常生活について、話しています。 生きることの芸術について、話しています - それは、最も偉大な芸術です。 彼らのどちらも、相手を説得していません。 確信について、どの種類の宣伝をもしたり、 相手を一定の論議に、屈させたりしていません。 しばらくの間、互いに知り合ってきた二人の友として、 自分たちの生について、話しています。 あなたと語り手が、今、しているように、です。 それは、一つの形の対話です。 それは、とても複雑な問いです - 「対話」という言葉、二人の人たちの間の会話は、です。 私は、あなたに、問いを示します。 あなたに、質問します。 あなたは、その問いに返答します。 その返答に、 語り手は、その問い、その返答に、挑戦します。 で、二人の人々がともに話し合う、この過程、 そして、ともに話し合う、過程の中で、 彼らはどちらも、消え去ります。 問いと答えだけが、残っています。 理解されますか。 たぶんあなたは、けっして、その種類の会話をしたことが、ありません。 けっして、そういう対話をしたことが、ありません。 私たちは、それを試そうとしています。 すなわち、 あなたは、問いを出します。 それに、語り手は返答します。 あなたは、その返答に応答します。 行ったり来たり、 ついに、あなたが、自分の先入観を、消耗しつくしたし、 語り手もまた、自分の確信を、消耗しつくすまで、です。 それで、私たちが、どちらも自由であるように、です。 ゆえに、あなたと語り手は、残っていなくて、 問いだけが、残っています。 これを、少し理解されましたか。 たぶんあなたは、一度もこの種類のことを、試したことがありません。 なぜなら、私たちはみんな、出来合いの答えに、満ちているからです。
6:26 で、私たちは、初めに、 生きることの芸術に、入ろうとしています。 「芸術」(アート)という言葉は、繋ぎ合わせることです - 語源的に、繋ぎ合わせる、という意味です。 物事を、繋ぎ合わせる。 が、私たちはそれに、全然違った意味を、与えるべきだと、私は思います。 芸術(アート)は、あらゆる物事を、その所属するところに、収めること、 物事を、それらの正しい所に、収めることです。 で、聞くことの芸術が、あります。 学ぶことの芸術が、あります。 知覚の芸術が、あります。 私たちは短く、それに入ろうとしています。 聞くことの芸術、 単に、言葉が聞こえるだけではない。 言葉が聞こえることは、聞く芸術より、 全く異なった過程です。 聞く芸術は、あなたが実際に聞いている、という含意です - 解釈しているのではなく、同意しているのではなく、 抵抗を設けているのではなくて、 他の一人が言うべきことを、聞いている。 それで、あなたは、言われつつあることの翻訳者ではないのです。 あなたは、自分の結論、先入観、意見、 判断を、投影しません。 あなたは、実際に聞いています。 それは、一定の注意を、必要とします。 その注意の中、聞き手としてのあなたは、消え去ります。 あなたは、ただ聞いています。 あなたは、あれらのカラスと、あれらの鳥を、聞いているなら、 あなたは、聞いています。 あなたは、「あれは、カラスが呼ぶ騒ぎ声だ」と、言いません。 あなたは、ただ聞きます。 あなたは、そう注意深く聞くとき、 同意も、不同意も、ありません。 あなたは、注意の状態にあるだけです。 語り手が言っていることに、だけではなく、 また、あなたの妻と夫にも、聞きます。 そのほうが、はるかに困難です。 なぜなら、あなたは、それに慣れてしまったからです - 互いに、です。 が、不幸にも、あなたは、語り手を知りません。 語り手は、あなたを知りません。 それで私たちは、どちらもが、何の先入観もなく、聞けます。 それは、大きな敏感さ、という含意です -あなたの感覚を活動的にしている、 それで、あなたは、こうも完全に聞いている、という意味合いです。 そう注意深く聞くなら、 一定の奇跡が、起きつつあるのです。 それは、別の意見に反する、一つの意見を、聞くことではない。 または、別の論議に反する、一つの論議を、ではない。 どれほど合理的でも、どれほど歪んで、幻影でも、です。 聞くこと - そこに静寂が、あるものです。
10:42 そして、学ぶことの芸術が、あります。 私がこのように話すのを、気になさいませんか。 指摘してもよろしいなら、そう容易く、そうすばやく、同意しないでください。 語り手が話しているとき、それをしてください。 あのカラスを、聞いてください。 で、あなたは、自分の感覚でもって、自然に聞きます。 耳で聞こえるだけではなく、 あなたの感覚すべてを目覚めさせて、あれを聞いてください。 そのとき、あなたは、存在しません。 音だけです。 音は、生において、とてつもない重要性を、持っています。 私が、このように進んでもいいですか。 気にされませんか。 海の音、 あなたの妻や夫の声の音、 木の葉の間の音、波の音、 樹の音 - きわめてしーんとしているものの、です。 音は、とてつもない重要性を、持っています。 そして、学ぶ芸術は、記憶の蓄積ではありません。 あなたは、学校へ行きます。 そこであなたは、記憶を養成しています - 数学、生物学、物理学、などです。 あなたは、情報を与えられつつあります。 あなたの頭脳は、情報を集めています。 知識を蓄えています - 数学や地理学、歴史について、 - 何でも、お好きなことについて、です。 その知識は、頭脳に留まり、蓄えられています。 生計を立てる中で、 上手にか、下手にか、使うために、です。 で、知識は、静止的です。 あなたは、それに付け加えられます。 あなたは、それから取り去られます。 が、それの中核は、静止しています。 ですね? それは、動的ではありません。 動的であるものを、付け加えたり、取り去ったりできません。 本来的にそれは、動的ですが、知識は、そうではありません。 知識は、単なる情報の蓄積です。 多くの蓄えられた経験の、結果のそれです。 保たれているものは、動的ではありません。 動いているもの- 川に似ています - それは、動的です。
14:20 で、学ぶことの芸術が、あります。 すなわち、あらゆる物事を、その正しい所に、収めることです。 数学は、学ばなくてはいけません - もしあなたが、技術者や物理学者になりたいなら、です。 あなたは、知識を蓄積しなければなりません。それは必要です。 が、彼は、すでに自分が知っていることへ、付け加えています。 で、知識は、次第に静的になります。 ところが、学びの行為は、 あなたは、動いています。 けっして、同じ所に、留まったり、保ったりしていません。 あなたは付いてきて・・・私は、何かを伝えていますか。 私たちは、互いに理解しあっていますか。 私とともに、働いてください。 そうしてくださるでしょうか。 私たちは、ともに働いています。 あなたは、語り手に、聞いているだけではありません。 あなたと語り手は、ともに働いています。 ともに学んでいます。 語り手が言ってきたことを、学んで、蓄積していて、 家に帰って、「これが、彼が言ったことだ」と言っているのではありません。 それは、学びではありません。 学びは、言われつつあることを、 今、適用することです。 そして、 それが真実なのか、虚偽なのかをあなた自身で、発見することです。 それが真実であるなら、行為するのです。 世の中では、理論と行為や生は、 互いに何の関わりをも、持っていません。 特に、この国では、そうです。 あなたたちは、理論で満ちています。 見込み、可能性に、満ちています。 そして、一つのことを言い、別のことをする。 そうね、あなたたちがやるゲームですよ。 で、学ぶことは、何か全体的なことなのです。 知識がそうであるように、断片化していないのです。 これらを理解されるのかどうかと、思われます。 それは、川のような動きです - ものすごい嵩をもち、動いています。学びは、です。 それが、学ぶことの芸術です。
17:14 そのとき、知覚の芸術が、あります。 知覚は、見るのより、異なっています。 知覚は、時のではありませんが、 見ることと、見えたものを行為へ翻訳することには、 一定の時の期間が、関与しています。ですね? 私は、自分が何をすべきかを、見ます。 そして私は、それをするでしょう。 見ることと、すること - 隔たり、間隔が、あります。 それが、時です。 ですね? それは、単純です。 ですね? 語り手は、何か神秘的なことを、言っていません。 これは、起きつつあることです。 あなたは、何かすべきことが、見えます。 そしてあなたは、それについて、考えます。 あなたは、それが都合がよいのかよくないのかを、論議します - 有益なのか、無益なのか、などを、です。 そのすべてが、行為の前の、時の間隔を、含意しています。ですね? ところが、知覚は、見ること、そして、することです。 それで、行為と知覚との間に、間隔が、ないのです。
18:48 私は、見ます。 私は、知覚します - 自分はヒンドゥー教徒であるべきでないことを、です。 なぜなら、ヒンドゥー教徒であることの理由の一つは、 安全保障の目的のためであるからです。 そしてまた、それは、戦争の原因の一つです - 民族主義、部族主義は、戦争の原因の一つです。 で、私は、それを見ます。私はそれを知覚します - すみません。 私は、それを、真理であると知覚します。 ゆえに、私はもはや、ヒンドゥー教徒ではありません。 ところが、私が、 「なぜ私は、ヒンドゥーではいけないのか」と言うなら - 「それは都合がよい。それは、私に一定の安心感を、与えてくれる。 私は、流れに乗っていかなければならない。 私はむしろ、自分一人で立つには、弱すぎる」などなどなどと、です。 それらの論議と逃避の中で、 あなたはやはり、その終わりに、ヒンドゥー教徒に留まっています。 ところが、あなたは、その危険が見えるなら - イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、キリスト教徒など、 何でもあることの、です - それの危険が見えて、あなたは、即座に行為します。 ですね? あなたは、コブラが見えるとき、即座に行為します。 もしも、今、コブラが、あなたたちの間に、いたなら、 何ともまあ、あなたはどう、行為するでしょうか。 で、知覚することに、何が含意されているかを、見てください - それは、注意、気づかいを必要とします。 見出すように、物事を見守ることを、です。 で、聞く芸術、 学ぶ芸術、そして、 知覚の芸術が、あります。 この芸術でもって生きるなら、 生は、とてつもないものになります。 なぜなら、それは、大いなる敏感さ、気づかい、注意を、 必要とするからです。
21:32 で、それらを言ったので、 探究しましょう- 探究です。 なぜなら、探究の中、あなたは、 自由に探究できなければならないからです。 が、あなたは、自分の特定の結論に、執着しているなら、 探究することは、可能ではありません。 そのとき、あなたの結論が、あなたの探究を、方向づけます。ですね? で、探究するには、自由が、なければなりません。 私たちは、ともに探究しようとしています - なぜ、世界中の人間たちは、傷つくのか。 心理的に、負傷するのか。 この痛みの重荷を、生涯ずっと、運んで行くのか、です。 そして、頭脳が傷ついているとき、 それは、神経症、精神病になります。 あらゆる種類の幻影、迷信の中に、生きます。 ほとんどの人間たちは、子ども時代から、 心理的に、負傷しています。 あなたたちは、みんな負傷していませんか。 あなた自身に、少し正直であってください。 あなたは、負傷していませんか。 学校で教師は、「君は、あの少年ほど良くない」と、言います。 それは、あなたを傷つけます。 そうでないですか。 母親や父親は、こう言います - 「おまえは、兄さんほど良くない」と。 あなたは、嫉妬を、目覚めさせます- 競争、傷を、です。 ですね?深く、心理的、内的に 傷ついている人たちは、 生涯ずっと、彼らは恐れを、持っています - もはや傷つかないように、です。 それで、彼らは、自分自身のまわりに、壁を築きます。 自分自身を孤立させます。 あなたたちは、みんな、これをしませんか。 あなたたちは、みんな、傷ついたことがない人々ですか。 あなたの夫や妻は、何か残酷なことを、言います - ふとした言葉、 ずきずきとして、それは、頭脳に記録されて、残ります。 その傷は、あらゆる種類の恐れ、心配、痛みを、生み育てます。 ほとんどの人々は、これらすべての傷に、気づいていません。 自分が傷ついていることに、気づいて、 その傷の帰結が、見えるなら、 そのとき、傷ついているのは、何ですか - 私たちは、訊ねています。 傷ついているのは、誰ですか。 あなたは聞いています- 私は、そう望みます - 学んでいます。 私が、「昨日あなたが言ったことで、私は傷ついている」と、言うとき、 傷ついている「私」は、誰ですか。 どうぞ、これを聞いてください。 なぜなら、それは、あなたの生であるからです。 語り手の生ではありません。 それは、あなた個人の生です。 私たちは、生きる芸術を、学んでいます - その中で、人間たちが、まったく傷つかないものを、です。 それで、彼らは、まったく傷を持たない頭脳を、持ちます - ゆえに、抵抗を持たないものを、です。 傷つかないことの帰結を、理解されますか。
26:18 で、誰が傷ついていますか。 あなたは、「私は傷ついている」と、言います。 「私」は、私が自分自身について築いてきたイメージです。ですね? 私たちは、一緒にここにいますか。 あなたは、自分自身について、イメージを持っています。そうですね? すなわち、あなたは、キリスト教徒である、あなたは、仏教徒である、 あなたは、ヒンドゥー教徒である、あなたは、イスラム教徒である、 あなたは、偉大な人でなければならない、あなたは、偉大な人である、と。 あなたは、あらゆる種類のイメージを、持っています。 あなたは、教授であるなら、自分自身について、イメージを持っています。 あなたは、科学者であるなら、自分自身について、イメージを持っています。 あなたは、主婦などであるなら、イメージを持っています。 傷つくのは、それらイメージです。 そのイメージが、あなたです。ですね? 私たちは、この事態について、はっきりしていますか。 あなたは、傷つきます。 なぜなら、あなたは、 あなたが自分自身について、築いてきたイメージであるからです。 私は、演台に座ります。 私は、不幸にも、生涯ずっと、演台に座ってきました。 そして、誰かがやってきて、「おまえはまぬけだ」と、言います。 そしてあなたは、自分は偉大な人であると、考えます - 自分は、評判を持っている、自分はむしろ、ばかげた老人だ、と。 私は、自分自身について、偉大な人とのイメージを、持っています。 そのイメージは、傷つこうとしています。ですね? そして私は、「私は傷ついている」と、言います。 で、イメージをそもそも - どうぞ、これを聞いてください - イメージを、そもそも創り出さないことは、可能ですか。 あなた自身について、そもそもイメージを持たないことが、です - 自分は、偉大な法律家である、 自分は、むしろ胡散臭い政治家であるとか、 自分は、宗教的な人である、と。 唯一つのイメージをも持たないのです。 あなたは、それを試したことが、ありますか。 なぜなら、頭脳は、これらのイメージを、創り出す。 思考は、創り出すからです。 なぜなら、それらのイメージには、安全が、あるからです。 少なくとも思考は、これらのイメージに安全があると、考えます。ですね? これらのイメージが、傷つきます。 ゆえに、まったく安全が、ありません。 で、唯一つのイメージをも、持たないことは、可能ですか。
29:30 イメージは、頭脳の中の記録過程です。 あなたは私に、何かを言います- 快いことを、です。 それは、記録されます。 あなたが、何か、とても仲良しなことを、言うとき、 あなたは、私の友だちになります - 記録されます。 が、あなたが、何か快くないことを、言うなら、 あなたは、私の敵です。 ですね?それは、記録されます。 で、記録過程は、頭脳の中で、いつの時も、進んでいます。 なぜなら、あなたが、記録しないで、 安全のために、その記録に依存しないなら、 あなたは、どこにいますか。 質問を理解されますか。 これらすべての問いに、付いてきておられますか。 あなたは、イメージを持っていないなら、どこにいますか。 あなたは、何物でもありません。ですね? あなたは、絶対的に、何でもありません。 何でもないとの、その恐れのせいで、 あなたは、イメージを創り出します。 なぜなら、私たちのみんなが、何物かでありたいからです。 それで、私たちは、イメージを、創り出します - それらのイメージに、安全があると、望んで、です。 そして、それらのイメージに、見つけます・・・ あなたは、傷つきます。 ゆえに、安全は、去りました。 さて、あなたは、これを聞いてきました。 聞きました。 そして、聞く中で、あなたは、その事実へ、敏感になってきました。 あなたは、それの真理が、見えます - それの叙述が、ではない。 それの説明が、ではない。 あなたは、自分が傷ついているとの事実が、見えます。 そして、あなたは、自分自身について、 イメージを持っているから、傷ついています。 そして、イメージを持つかぎり、 それは、必然的に、傷つくにちがいありません。 あなたが、気をつけて、注意深く、これを聞くなら、 イメージを築くことが、そもそも、ないでしょう。 なぜなら、あなたは、それの真理を、見るからです。 それは、あなたしだいです。
32:09 私たちは、ともに話し合うか、むしろ、ともに聞くべきです - 生において、 現代の世界に生きていて、 とてつもない物事すべてが、進んでいて、 すべての残忍、暴力、 私たちがみんな、していることのおぞましさが、伴いますが、 悲しみを終わらせることは、可能であるのかどうか、です。 人類は、苦しんできました - 何千年に、何千年もの間、です。 私たちは、苦しむ中で、進化してきました。 私たちは、歴史的に、ここ五千か、六千年の間、戦争を行ってきました。 殺され、負傷し、不具になった人々の数を、想像してください。 そして、涙を流してきた人々すべてを、です。 そして、日常生活において、私たちは、大変多く苦しみます。 苦しみは、単に物理的だけではありません。 自らは、病気を持っています。 それは、治るのか、あるいは、治りません。 あなたは、それを堪えます- できるなら、です。 が、悲しみは、それより、はるかに深い。 悲しみは、悔恨、後悔、罪悪です。 罪悪の感じ、痛み、そして、絶望的なさびしさの感じです。 悲しみは、何か、気軽に脇に置けるものではありません。 それができるなら、物理的な痛みのように、ですが、 悲しみは、何か、とてつもないものです。 で、私たちは、ともに、それを究明しようとしています。 それは、語り手がそれを究明しようとしていて、 あなたはただそれを聞く、のではない。ともに、です。 それで、私たちがどちらも、 悲しみの深さ、とてつもない活力、 悲しみの衝撃を、理解するように、です。 あなたは、あの騒音を、聞きますか - あのエンジンの轟きを。 または、あなたは、それに抵抗しますか。 あなたが、あのエンジンの轟きを、聞くなら、 あなたはまた、気をつけて、語り手をも、聞くでしょう。 なぜなら、どちらも、音であるからです。
35:51 で、悲しみは、きわめて複雑な事柄です。 男と女の間に存在する、悲しみ。 彼らは、結婚しているなどかもしれませんが、 一定の威嚇、一定の恐れが、あるのです。 所有があるところ、恐れが、あるにちがいありません。 妻が、夫を所有していて、 夫が、妻を所有しているなら - または、男と女が、です - その所有の中に、恐れと悲しみが、あります。 悲しみはただ、生に対する、 過ぎゆく、断続的な影だけではありません。 それは、私たちのみんなに、いつも、あります。 その悲しみ、痛み、さびしさは - どうぞ、あなたは、私に聞いて、メモ帳や、自分の精神に、頭脳に、 メモ書きを作っているのではありません - 私たちは、ともに検討しています。 で、あなたは、全面的にそれに関与しています。 なぜなら、私たちは、あなたの悲しみについて、話しているからです - 私の悲しみ、ではありません。 そして、この重荷、 痛み、心配、さびしさ、絶望、 憂鬱、罪悪、悔恨、そのすべて。 それらすべての感情、それらすべての反応が、 その一言の中に、収容し、保ちます。 痛み- すなわち、 あなたは、けっして何かの長になれないことの、です。 あなた自身の無能力の痛み、 あなたがしたい、一定のことを できないことの痛み、 無知の痛み。 書物の無知ではありません。 自分自身の無知の痛み。 このすべてが、悲しみです。 そしてまた、夫が妻と子どもを去るときも、 悲しみが、あります。 離婚の悲しみ、 そして、さびしさの悲しみ。 あなたは、さびしさについて、知っていますか。
39:34 または、それは、見知らぬ反応ですか。 私たちはみんな、さびしさが何であるかを、知っています。 あなたは、何かの施設の長であるかもしれません。 または、あなたは、大変多くの友だちを、持っているかもしれません。 そして、あなたが自分一人で、 浜や森を歩いているとき、 あなたは突然に、何にも、まったく無関係だと、感じます 一人だ、孤独、さびしい、と。 このすべてが、その言葉「悲しみ」に、収容されています - 痛み、嘆き、涙。 そしてまた、笑いも、です。 人は、それとともに、生きてきました。 それにより条件づけられています。 そして、人が生じてから、これら五千年の後、 人(マン)は - それは、女(ウーマン)をも意味しています - 人は、この重荷を負ってきました。 人は、寺院へ行くかもしれません。 人は、それから逃避しようとするかもしれません。 祈り、崇拝しようとも、 その悲しみは、いつも、あるのです。 私の息子が、死にます。 私は、余生の間、涙を流します。 私から去っていった妻や夫- 私は愛していました。 あなたが、愛が何であるかを、知っているなら、です。 それは、尋常でない痛みです。
41:53 で、私たちは、訊ねています - 気軽に、ではなく、 単に言語的に、だけではなく、 私たちは、心からその質問を、しています - その悲しみは、いったい終わりうるのかどうか、です。 それは、完全に終わりえます。 悲しみが終わることでもって、熱情(パッション)が、あります。 悲しみという言葉こそが、その言葉を、収容しています - 熱情(パッション)という言葉を、です。 悲しみが、あるところ、熱情は、ありえません。 悲しみが、あるところ、愛は、ありえません。 悲しみがあるところ、ずるい回避、逃避が、あります。 悲しみが終わることでもって、熱情が、あります。 その熱情が、愛です。 苦しみがあるところ、あなたは他の一人を、愛せません。 あなたは、他の一人を憐れむかもしれません。 その悲しみは、自己憐憫、自己関心です。 が、それが終わること。 そのとき、あなたは自然に訊ねるでしょう - それは、どうすれば、終わることになりますか。 それは、間違った問いです。 なぜなら、そのときあなたは、訊ねている・・・ その言葉、「どうすれば」こそは、私に方法を示してくれ、という意味です - 私に実践を示してくれ、私に、何をすべきかを、示してくれ、と。 ですが、私たちは、悲しみの現象全体について、 ともに究明していて、ともに学んでいるなら - 逃避しているのではなく、 慰めを見つけようとしているのではない - あのものが、起きるとき、 あなたがとても仲良かった友だちが、癌で亡くなる。 彼の悲しみです。 そして、彼が逝ってしまったとの感じが、あります。 さて、悲しみは、挑戦です。 それは、衝撃です - 生物的にも、心理的にも、です。 私の息子は、逝ってしまいました。 それは、衝撃です。 事実は、彼が逝ってしまった、ということです。 その悲しみを、あなたの両手に保つこと、 あなたが、美しい花を保つだろうように、です。 それで、それの深さと意義の全体と、 強さと美しさ - それから逃避するのではなく、それを保つことによって、です。 そのときあなたは、見るでしょう - その中から、 その動き全体、反応を、いわば、あなたの手に保つ。 そのときあなたは、悲しみが、 何か全然違ったものになるのが、見えるでしょう。 そのとき、愛があります。 そのとき、慈悲があります。 そして、愛と慈悲は、自らの智恵を、持っています。 ずるい思考の智恵ではありません。 月へ行く機械を組み立てられる 人間たちの智恵ではありません。 が、智恵は、何か全然違ったものです。 それは、頭脳の外側に、あります。 なぜなら、愛は、頭脳の中に、ないからです。 愛は、思考などではありません。 私たちは、それについて、話すでしょう。
47:05 また、私たちは、ともに話し合うべきです - 死について、です。 私たちの幾人かは、老いつつあるでしょう。 語り手を含めて、です。 ここには、若い人々が、たくさんいます。 死は、私たちのみんなに、共通しています。 老いた者、若い者、生まれようとしている者。 私たちの旅の終わりに、死があります。 あなたは、それを回避できません。 それが、一つの確定的な事実です。 この地上に生きてきた人々が、 もしも死んでいなかったなら、と考えてください。 私が言っていることを、理解されますか。 私たちがいる前に存在した人々すべてが、もしも生きていたなら、 これは、どんな種類の大地になるのでしょうか。 それは、とても複雑な問いです。 あなたは、それに興味がありますか。 または、あなたは、「どうぞ、 陰気な主題について、話さないでください」と、言います。 あなたは - 私の友と、私、語り手は、死のうとしています。 いつの日か、 事故をとおして、病気をとおして、 有機組織が擦り切れるのをとおして、です。 そして、ゆっくりと頭脳の衰え、 ぼけ具合、 もの忘れし、老衰する。 私たちは、老衰という言葉を、 侮辱として、ではなく、科学的に、使っています。 で、死が、待っています。 すべての人間が、それに怯えているのは、なぜですか。 どうぞ、これは、あなたと私、語り手との間の、会話です。 あなたは、怯えて、怖がっていませんか。 あなたが正直であるなら、 そして、あなたが、こう言うなら - 「ほら、私たちはみんな、年老いていく。 ひどい戦争が起きるかもしれない」と。 核戦争 - もし、そういうことが、起きるとして、です - そういうことが、ないだろうことを、望みます。 今知られているような地球は、存在しなくなるかもしれません。 科学者たちは、それについて書いてきました。 核戦争があるなら、それは、地球の終わりです - デモ行進はない。 政治家たちが、好き勝手にやるなら、 そして、あなたたちがみんな、民族主義者、部族主義者であって、砕けているなら、 あなたたちは、その戦争が生ずるのを、助けています。 あなたは、それに責任があります。 その事実から、逃避しないでください。 あなたが、民族主義者であり、 異なった宗教に所属しているかぎり、 あなたは、この戦争を招いています。 で、死は、大きな現象です
51:26 - 誕生のように、です。 それで、訊ねます - なぜ私たちは、生きていて、 死を、自分たちから遠ざけてきましたか。 ですね? あなたが、その質問をしています。 あなたは、生きています。 活動的です - もしあなたが、毎日、事務所へ行くこと、格闘すること、 闘うことを、活動的と、呼ぶなら、です - 怒る、苦々しい、冷笑的のを、です。 そして、私たちが、生を一つのもの、死を別の何かとして、 分離してきたのかは、なぜですか。 なぜ、この隔たり、長年が、ありますか。 何が、重要ですか。 終わることですか。 どうぞ。 または、何ですか。 終わること - それが、死です。 どちらが、重要ですか。 それが、重要ではないですか - 生きることのほうが、死ぬことより、重要なのでしょう。 いいえ?ですね? あなたたちは、何にも反応しないように、思われます。 大変とてつもない現象です。 私たちは、真剣に訊ねています - 軽薄にではなく、冷笑的にではなく、議論のためだけではない。 どちらが、重要ですか - 生きることですか、死ぬことですか。 もしも、あなたが、返答できたなら、 あなたは、生きることだと言うでしょう - 当然です。
53:36 で、生きることは、何ですか。 あなたが生きることは、何ですか。 あなたの生は、何ですか。 逸れていって、「生きることは、何だろうか」と言い、 それを理論にしたり、思弁したり、 誰かしらを引用したりしないでください。 あなたの生は、何ですか。 それが、あなたが生きることと呼ぶものです。 あなたの感覚的な応答、 あなたの性的な応答、 あなたの恐れ、 事務所へ行くこと - 9時から5時まで、あなたの余生の六十年間です。 それについて、考えてください- その恐怖を、です。 そしてあなたは、「はい」と言います - 「それが、私の責任です。 なぜなら、私は、子ども、妻、 おじ、おば、扶養すべき人を、持っているからです」と。 あなたたちみんなが言うことを、ご存じです。 格闘、痛み、悲しみ、楽しみ、 時折、笑い、時折、喜び、 あなた自身に、関心を持つ。ですね? 知識を蓄積し、何も新しいものが、ない。 何も新鮮な、生きているものが、ない。 これが、あなたの生です。 あなたにとって、そのほうが、死ぬことより、はるかに重要です。 それに向き合ってください。 それを見つめてください。 で、死は、あなたに来ます。 私たちに、 あらゆる生き物に、です。 これら、すばらしい樹々さえも、 それは、いつの日か、死ぬでしょう。 カリフォルニアには、樹が、あります - セコイアです。 それは、五千年を越えています。 すばらしい樹です。 年齢、歴史に満ちています。 それの美しさ。 それもまた、終わりになるでしょう。 私たちはいつも、始まっていて、終わっています。ですね?
56:08 で、死は、何か最終的なもので、 終わることです。 が、私たちは、そう徹底的に、最終的に、 終わりたいと、思いません。 で、私たちは、輪廻転生を、信じています。 私は来世に、生きるだろう。 もっと良い機会だ。 私は、来世、総理大臣になるだろう。 私は、来世、導師の中の導師になるだろう。 私は、来世、覚りに到達するだろう、と。ですね? で、有機組織は、 生物学的に、それに、終わることが、あります - 物理的な有機組織に、です。 また、生物学的に、 実のところ、頭脳、物質は、 また、常なる格闘、常なる葛藤により、 擦り切れつつあります。 退廃しつつあります。 知識は、この頭脳の衰退の要因の一つです。 なぜなら、私たちは、こうも多く知識に、依存するからです。 私たちは、生きることの芸術は、 物事をその正しい所に、収めることであると、言いました。 あなたは、手紙を書くには、 ビジネスをするには、知識が必要です。 あなたは、寺院へ行くには知識が必要です。 知識は、寺院の内側の神々を、創り出してきました - モスクと教会の内側のを、です。 で、頭脳が老いていく要因の一つは、 知識の蓄積です。 それを聞いて、見出してください。
58:29 あなたが、「私は妻を知っている」と、言うとき、 あなたは、すでに何をしたのですか。 あなたは、彼女をけっして、見つめたことが、ありません。 あなたはすでに、彼女についてイメージを、創り出してきました。 で、死がありますし、生きることが、あります。 生きることはまた、ますます危険に、 ますます痛みに満ち、ますます不確実で、 混乱になりつつあります。 これが、私たちの生です -けんかし、格闘し、心配で、 悲しみ、痛み、悔恨、罪悪など。 これが、私たちが生きることと呼ぶものです。 そして私たちは、「ごらん。死ぬことは、 このすべてが終わることだ」と言います。 そして、私たちは、「私」と言います - 私の中に、 恒常的な何か、続いていくだろうものが、ある、と。来世に、です。 が、あなたはけっして、「私」が何であるかを、検討しません - 実際に、自己が何であるかを、です。 あなたは、それを検討し、それを探検し、 それを問い、それを疑うなら - 古い伝統を受け入れるのではありません - あなたは、実際に何ですか。 神経質にならず、それに向き合ってください。 あなたは、あなたの名前、あなたの身体、あなたの知識、 あなたの職、あなたの心配、あなたの痛みです。 あなたは、そのすべてです。 あなたは、言葉、映像、イメージです。 そして、これらの言葉、この束の蓄積を、 あなたは、来世へ、運んでゆきたいのです。 来世は、ありますか - あなたが望むように、です。 または、死は、まったくないのですか。 あなたは、これを理解されないでしょう。 私たちは、それについて話すでしょう。
1:01:12 死とともに生きる- 自殺するのではない。 私は、あのばかげたことについて、話していません - 死とともに生きる。 死は、終わることを、意味しています。 あなたは、自分のお金を持って行けません。 あなたは、自分の家族を持って行けません。 あなたは、自分の富すべてを、持って行けません - 自分の住宅、自分の資産、自分の知識を、です。 死は、来ています。そして、そのすべてを、拭い去ります。 なぜなら、あなたの頭脳は、 それは、十分な酸素がないから、萎れてしまいます。 で、いつも、終わり - どうぞ、これを聞いてください - いつも、終わりつつ、生きることは、可能ですか。 すなわち、あなたは、執着しています。 あなたは、自分の妻に執着しています。 あなたは、自分のお金に執着しています。 あなたは、自分の観念、結論、自分の理想に、執着しています あなたは、ひどく執着しています。 そして、死がやってきて、言います - 友よ、そのすべてを拭い去りなさい。 あなたは、死んでいます。 あなたは、そのすべてを拭い去らなくてはいけません、と。 あなたが、来世を信じているのでなければ、です。 あなたは、もし実際に、来世を信じているなら、 今、正確に生きなくてはいけません。ですね? よろしいですか?なぜなら、あなたは、 来世に、そのつけを、払おうとしているからです - あなたが今、適切にそうしないなら、です。 が、あなたが実際に、輪廻を信じていないなら、 それはただ、麗しい概念、観念だけです。 が、あなたが、もしも本当にそれを信じていたなら、 あなたは、ものすごい統合の生を、生きているでしょう - まさしく、自分の思うことを、言って、 まさしく、考えることを、しています。 が、あなたは、輪廻転生を、信じていません。 それはただ、理論だけです - あなたが持っている多くの理論と同じく、です。 あなたは、語り手に訊ねるかもしれません - 「あなたはそれを、信じていますか」と。 あなたが必然的に、訊ねようとしているように、です。 私は、何の信念をも持っていません。 語り手は、何についても、何の信念をも、持っていません。 なぜなら、何も恐れが、ないところ、 何も悲しみが、ないところ、 全然違った何が、あるからです。 それは、死を持ちません。 慈悲は、私の慈悲ではありません。 愛は、私の愛ではありません。 愛は、愛です。 智恵は、私のや、あなたのではありません。 それは、智恵です。 で、このすべてが終わることが、あるところ、 他のものが、あります。
1:04:58 で、あなたは、執着しています - あなたの銀行口座に、ではない。 それを取らないでください。 あなたは、自分の妻に執着しています。 あなたは、彼女や彼に、 「私はもはや、あなたに執着していない」と言えますか。 もしも、あなたが、彼女や彼に、これを言ったなら、 何が起きるでしょうか。 そうしてください。 見出してください。 何が、起きるでしょうか。 あなたたちは どちらも、ひどく怒るか、ひどく嫉妬するでしょう。 または、あなたは、他の誰かに、執着しています。 が、死は、あなたを、執着より自由にしようとしています。 で、日々、生きている間、執着を終わらせる。 私が言っていることを、理解されますか。 私は、この住宅に執着しています。 そうであるなら、です。 私は、自分の評判に、執着しています。そうであるなら、です。 そして、生きることは、執着を終わらせることです。 で、私は、生きていますし、同時に死んでいきます。 それを理解されますか。 それで、二つが、けっして分離していないのです。 で、それは、時のでない動きを、含意しています。 愛は、時のではありません。 愛は、思考により組み立てられた何かではありません。 思考は、時のです。 愛は、頭脳の中にありません。 愛は、頭脳の外側の何かです。 そして、生きることは、 また、終わることをも、意味しています。 あなたが、これの真理を見るなら - 「私は死ぬだろう」、 「私は、無執着になるだろう」と、言うのではない。 それは、何をも意味していません。 が、あなたが、それの真理を、見るなら - それの深さ、それの美しさ、それの強さを、です - そのとき、頭脳は、条件づけを、解かれます。 それはそのとき、執着をとおして、条件づけられていません。 それは、今あるように、条件づけられています。 あなたの頭脳が、ヒンドゥー教徒であるよう、イスラム教徒であるよう、 キリスト教徒などであるよう、条件づけられているように、です。 あなたの頭脳は、条件づけられています。 条件づけられた頭脳は、 愛が何であるかを、とうてい知りえません。 それは、同情を持つかもしれません。 それは、憐れみを持つかもしれません。 それは、様々な表現を持つかもしれません - 伝達の、愛情のを、です。 愛は、感傷ではありません。 愛は、情動ではありません。 それは、死のように、強い。
1:08:44 それで、最高の水準で生きる - それが、自由です。 生の些細な物事すべてからの自由です。 が、私は、生計を立てなくてはいけません。 社会が、組み立てられ、構築されているように、 私は、生計を立てなくてはいけません。 私は、そうするでしょう。 が、それは、目的ではありません- あなたがそうするように、です。 金を稼ぐ、権力、地位、 あなたは、権力が邪悪であるかどうかを、考慮したことが、ありますか。 政治家たちの権力、 あなたの、子どもたちに対する、妻と夫に対する権力、 どの形でも権力、です。 寺院は、あなたに対して、権力を持っています。 それで、寺院は、邪悪です。 すべての教会- なぜなら、それらは、 あなたの精神に対して、あなたの頭脳に対して、 ものすごい権力を持っているからです。 それは、独裁者に似ています。 あれら全体主義国家に似ています - そこで、あなたは、考え、行為し、 自由な人であることを、許されません。 で、あなたが、生きる道全体、生きる芸術を、理解するとき - 実際に、日々、生きる芸術を、です。 生きる理論を、ではない。 思弁ではなく、理論、それらではなく、 あなたの日々の生を実際に生きることを、です。 傷ついていないこと、 悲しみすべてを、終わらせること、 そして、死を理解し、それとともに生きること。 そのとき、生は、何かとてつもないものです - あなたがけっして、想像したり、考え出したりできないこと、です。 そのとき、生は、何か永遠の、 時を持っていない、 始まりもなく、終わりもないものです。