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MA8384T4 - 宗教は、あなたの日常生活と、どんな関わりを持っているのか。
公開講話、第4回
インド、マドラス(チェンナイ)
1984年1月8日



0:19 話をしなければならないと、思います。
0:41 私たちは、これらの講話を、探究でもって、始めました。 宗教と、地上の平和は、 大変多くの智恵を、必要とします。 地上の平和は、人にとって、可能でなかったのです - 何千年に何千年もの間、です。 また、宗教もまた - 宗教として、受け入れられているもの、ですが - 人に平和を、もたらしてきませんでした。 宗教戦争が、ありました。 宗教は、人々を殺してきました。 大砲、軍艦を祝福してきました。 宗教は、人々を、人類を、拷問し、焼き殺してきました。 そして、すべての宗教が、地上の平和について、話します。 見たところ、私たちはけっして、地上に平和を持つように、思われません。 これは、事実です。 社会においても、 環境においても、です - 私たちはそれを、ゆっくりと、気をつけて、破壊しつつあります。 また、私たち自身にも、平和が、ありません。 私たちは、これらの講話を始めました - これら二つの主題への探究でもって、です。
2:46 あなたを退屈させずに、再び指摘してもよろしいなら、 これは、宗教や哲学についての講義ではないのです。 または、平和が何であるのか、などについてでも、ないのです。 それは、あなたがどう考えるべきかや、何を考えるべきかでは、ありません。 むしろ、ともに、あなたと語り手は、 このきわめて複雑な問いを、探究します - 宗教とは何であるのか、 そして、世界に平和を持つだけでなく、 最初、自分自身にも持つことは、可能なのかどうか、です。 私たちに、平和がないのなら - 内的に、心理的に、です - そのとき、私たちは、 いかなる平和をも持たない社会を、創り出します - それは、ますます悪魔的になり、 ますます破壊的に、なりつつあります。 私たち、人間は、ますます残酷に ますます冷淡に、無頓着に、なってきました。 宗教は、人を飼い慣らそうとしてきました。 様々な戒律、様々な制裁が、ありました。 世界中の、いわゆる宗教書が、 「これをしろ。あれをするな」と、言ってきました。 幸か不幸か、私たちは、それらに、けっして服従してきませんでした。 私たちは、それらを引用するだけです。 それらは、すてきな標語に、なります - 政治的か、宗教的な目的のために、です。 そして私たちは、今あるように、続けてゆきます - 無思考で、無頓着で、冷淡であり、 私たち自身の活動と思考において、かなり残忍です。 語り手は、宗教と平和を、講話の終わりに、置いてきました - 一般的に、です。 なぜなら、私たちは、生きることの複雑な問題全体を、通ってきたからです - 日々、生きること、関係を、です。 私たちは、それがいかに重要なのかについて、話しました。 すなわち、正しい関係なしには、 永続的な葛藤、抗争が、あるでしょう - 男と女、社会と、私たちの一人一人の間に、です。 なぜなら、社会は、私たちの欲望に応じて、築き上げられ、 組み立てられ、構築されてきたからです。 私たちが、それらを作ってきたのです。
5:57 私たちは、恐れを通ってきました - 人間たちにとって、恐れより全く自由であることは、 そもそも可能であるのかどうか、です。 私たちは、それは可能であると、言いました。 また私たちは、昨日の晩ですが、 苦しみについて、大変多く話しました。 人が、自分の生涯をとおし、 過去の幾世代をとおして、抱えてきた、甚大な苦しみ。 - そして、おそらく、未来の世代も、です。 私たちは、二人の友として、ともに話し合うべきです - お互いに、何をも説得しようとしていません。 どの種類の宣伝をもしようとしたり、 自分の視点へ転向させようとしたり、していません。 ともに、樹の下に座って、話し合っています - 自分たちの日々の苦労、日々の骨折りについて、 日々の不幸と出来事と、 不幸せと憂鬱について、だけではありません。 また、二人の友だちは、自分たちの宗教について、話しています - 宗教とは何であるか、です。 そして、この美しい地上に、 こうも長く生きてきた人間たちにとって、 そもそも平和を持つことは、可能なのかどうか、です - 自分自身において、自分の生に、自分の態度に、 自分の日々の生き方において、だけではなく、 平和、静けさを持つことは、可能であるのかどうか、です - 何の葛藤もなく、何の問題もなく、です。 私たちは、このすてきな晩に、ともに、 これらへ入ろうとしています。
8:26 どうぞ、留意してください。 語り手は、大変尊敬をこめて、それをあなたに、指摘いたします - すなわち、彼は究明していないことを、です。 ともに、あなたと彼は、 このきわめて複雑な問題を、探検しています - 宗教とは何であるのかと、 世界に平和がありうるのかどうか、です。 なぜなら、あなたは、世界であるからです。 世界は、あなたより、分離していません。 世界は、あなたなるものです。 世界は、日々の生で、あなたなるものです。 すなわち、 あなたが、アメリカ人、ロシア人、シナ人や、インド人、 イスラム教徒であっても、何であっても、です。 各々の人間が、苦しみます。 大変多くの心配を経てゆきます。 いつも安全を探し求めています - 心理的にも、外的にも、です。 その安全は、次第に、拒否されつつあります - 戦争をとおし、テロをとおし、 世界で進んでいる、あらゆる種類の 語りえないことをとおして、です。
10:13 根源的に、私たちは、人間として、 自らの生き方全体を、変化させないなら - 私たちの態度と表現と見通しを、です - 私たちは、破壊されようとしている世界を、創造しようとしています。 あなたたちが、数人のトップの科学者を読んだり、 彼らに話したりしたことがないのかどうか、私は知りません。 彼らの多くは、言っています。 語り手は、彼らの幾人かに、話をしてきました。 核戦争があるなら、地球全体が、破壊されるでしょう。 あなたのお気に入りの国を含めて、地球全体が、です。 インド、ロシア、アメリカ - 世界が、全面的に破壊されるでしょう。 これは、脅しではありません。 これは、起きつつあることです - 政治家たちの間で、このお手玉をどうやるのか、です。 そして、書物と記事が、ずっとありました - 特にアメリカですが、ロシアでもそうだと、思います。 もしも、特定の都市に、爆弾が落ちたなら、 人に、何が起きるのでしょうか。 一千万の人々が、すっかり消え去る、蒸発するでしょう。 爆心地のまわりの一億人が、絶望的な病気になるでしょう。 彼らの目は、溶けるなど、怖ろしいことすべて、です。 で、私たちは、この世界に生きている人間として、 科学者と政治家に制御され、 新聞、雑誌により、寺院の所有者により、 私たちの考えを、形作られます - それが、政府所有であっても、個人所有であっても、です。 私たちは、ともに、このすべてについて、話し合うべきです。 そして、あなたたちは、その目的のために、 ここにおられると、思います - ただ聞くためだけ、ではない。 ただ、わずかな言葉を聞いて、家に帰り、 あなたがしてきたのと、同じことを、追求するためだけ、ではない。 むしろ、物事をともに考えぬく - 知的にとか、ロマンチックにとか、 想像力豊かにとか、理論的にとか、ではなく、 実際に、見出すのです。
13:41 で、初めに、宗教とは何ですか。 その言葉(レリジョン)の語源は、あまり明らかではありません。 が、私たちは、宗教が何であるかについて、知っています。 私たちは幾らか、知覚を持っています。 今そうであるようなものを、です。 儀式 - 全く無意味です。 祈り、 自分を助けてくれるよう、神に頼む。 あなたは代わりに、何かを支払います - コインで、か、 あるいはまた、或る種の犠牲をとおして、です。 誓いを立てる、などです。 対価交換です。 あなたは私に、これをください。 私はあなたに、あれをあげよう、と。 宗教は、 今そうであるように、彼らのほとんどは、神を信じています。 たぶん、あなたたちはみんな、そうです。ですね? 語り手は、もしも、あなたが神を信じておられることを、 お訊きしたなら、正確でしょうか- あなたたちのほとんどが、です。 静寂ですか。 あなたたちのほとんどは、神を信じています。 あなたはけっして、なぜかを、訊ねたことがありません。 もし、あなたの心に恐れが、ないなら - 絶対的に、何の恐れも、です - あなたは、神々を持つでしょうか。 神々は、思考により創り出されています。 どの寺院、どのモスク、どの大聖堂へも、行ってください。 建築物を別にして、物事すべて - ヨーロッパの大聖堂は、すばらしい建築を、持っています。 構造は、こうも尋常でなく、こうもすばらしい。 大いなる威厳 - インドの寺院とモスクの幾つかのように、です。 それらすべての外面的な物事は、思考により、創り出されています。 良い建築家、無名のによって、です。 インドの古代の寺院を、誰が建てたのかは、ご存じないですね。 または、世界の最も美しいモスクや、大聖堂を、です。 が、これら世界の寺院、神殿の内側にあるものは、 思考により、組み立てられています。 彼らの儀式、彼らの衣装、彼らの偶像は、 すべて、手によってか、思考によって、組み立てられています。
17:09 そして、思考は、私たちが言いましたように、物質的な過程です。 あなたがそれに入ったことがあるのかどうか、私は知りません。 それがあるなら、あなたは、 自分自身で知覚したにちがいありません。 すなわち、思考が、脳細胞の中に、収容されていることを、です - 記憶、知識、経験として、です。 私たちは、よく気をつけて、それに入りました。 そして、何であれ、思考が創り出してきたものは - すなわち、あなたの神々、 あなたの儀式、あなたの祈りと、 すべての書物、世界の宗教書は、 思考により、組み立てられてきました。 あなたは、それらが神聖な啓示であると、言うかもしれません - 当のご本人からだ、と。 が、書物の中のそれらの言葉を表したのは、 やはり思考です。 思考は、物質的な過程です。 なぜなら、それは、経験、知識、記憶の結果であるからです - 頭脳に蓄えられたものの(結果)、です。 脳の細胞は、これらの記憶を持ち運んでいます。 で、神、祈り、 教会、寺院、神殿、モスクに収容されている物事すべては、 思考により、組み立てられています。 その思考が、古代のであろうと、現代のであろうと、 それは、やはり思考です。 で、思考は、何をしてきましたか。 イメージを創案した。 それから、イメージを崇拝する。 理解されますか。 想像をとおし、恐れをとおし、あこがれをとおし、 そこに平和があるかもしれない何かの永遠への この探求をとおして、です。 思考が、このすべてをしてきました。 で、思考は、イメージを創り出す - 手によってか、精神、頭脳によってか、です - そのとき、自らが創り出してきたそのものこそを、崇拝します。 明白です。 で、あなたは、ゲームをやっています - あなたの日常生活に、まったく影響しないことを、です。
20:13 で、宗教は、あなたの日常生活に、どんな関わりを、持っていますか。 宗教が、何か寺院の中のものや、それらであり、 あなたの生は、全然違っているなら、 何が起きますか。 理論、概念、結論 - それらは、自分の活動より、全然、離別しています。 ビジネス、科学などより、です。 当然に、自分は、偽善的になります。 私は、侮辱することなく、その言葉を使っていいですか。 これが、私たちがなってしまったものです。 一つのことを言う - それは、祈るか、礼拝することです。 そして、正しく、反対のことを、します。 そういう人々は、自分自身を宗教的と呼びます - 理想主義者、と。 彼らは、まっすぐに考え、行為することの 甚大な性質を、逃してしまいます。
21:36 で、宗教とは、何ですか。 どうぞ、あなたたち自身に、訊ねてください - 二人の友だちが、ともに、 この問いを話し合っているように、です。 宗教とは何ですか。 人は、記録なき時から、 このすべてを越えた何かを、探し求めてきました - 日々の苦労を越え、自分のさびしさと絶望、 自分の葛藤と心配、果てしなくつづく苦しみを、越えたものを、です。 人は、探し求めました - このすべてを脇に置こうとしてきました 思考により組み立てられていない何を、見つけるために、です。 古代のシュメール人、 古代のエジプト人と、 五千年、七千年のハラッパー。 そうね、パキスタンにあるものなどです。 みんなが、何か越えたものを、探し求めました。 なぜなら、痛み、苦しみには、あまりに長く耐えられないからです。 それは、精神、頭脳を鈍らせます。 それは、愛の性質を、鈍らせます。 しかし、人は、それを探し求めてきました。 そして、司祭者たちが、やってきます。 世界中で、彼らは、来たのです - それを、日々の生へ翻訳するように、です。 彼は、翻訳者になります。 彼は、案内役、導師になります。 なぜなら、私たちは、あれが何であるかを、知らないからです。 が、誰かは、「私は知っている」と、言いますし、 私たちは、こうも騙されやすい。 - あなたが今、騙されやすくないことを、望みます - 私たちは、こうも騙されやすい。 なぜなら、私たちは、苦しんでいる。 私たちは、慰めがほしい。 私たちは、安全がほしい。 私たちは、確実性がほしいからです。 そして、私たちは、それらに捕らわれています。 これが、世界中で起きつつあることです。 あなたは、一つの宗教の構造に、不満足であるなら、 他のものへ向かいます。 あなたが、キリスト教徒であるなら、 あなたが、それに飽き飽きしているなら、です。 それは、充分に知的とか、ロマンチックとかではありません。 いえ、すみません。それは、きわめてロマンチックで、感傷的です。 が、インドへ行きなさい。 そこで、光が見つかるだろう、と。 彼らはみんな、このあたりに参集します。 ここで何が起きつつあるかは、ご存じです。
24:53 で、これは、幾世紀をとおして、長い格闘であったのです。 何か、時のでないものを、見つけるために、です - 思考のでないもの、 思考により組み立てられていないもの、 何か全的に測量不可能なものを、です。 そして、人は、それを想像してきました。 天国と地獄があると、言ってきました - 天国には、平和がある。 地上にはない。 私たちの日常生活には、ないが、 天国には、平和がある、と。 で、あなたは、日常生活から、平和を先送りしたか、片付けてきたのです。 で、ともに、私たちは、これを究明すべきです - あなたが、真剣であり、興味を持っているなら、です なぜなら、それは、あなたの生であるからです。 そして、このすべてを越えた何かが、ありますか。 何か神聖なものが、ありますか。 私たちは、よく気をつけて、それを究明しようとしています。
26:31 また私たちは、ともに、考慮すべきです - 平和とは、何ですか。 明白な意味は、葛藤、抗争を持たないこと、 痛みを持たないこと、苦しまないこと、 果てしなくつづく格闘を、持たないことです - あなたが生まれた瞬間から、死ぬまで、です。 すなわち、まったく問題を持たないし、 葛藤を持たないことです。 それは、可能ですか。 この世界に生きることは、可能ですか - 世界から逃げ去るのではない。 生を、日常生活を、唯一つの葛藤の影もなく、 生きることは、可能ですか。 あなたは、それは可能でないと、言うなら、 扉を閉じてしまったのです。 または、あなたが、「はい、それは可能です」と言うなら、 また、扉を閉じてしまったのです。 ですが、あなたが探究しはじめるなら、 あなたが探検しはじめるなら - それは可能であるとも、可能でないとも、言わずに、 学ぶ。 この問いに、きわめて深く入る - 人、あなたは、この街に生きていて、 結婚していても、していなくても、 家族など、職、責任、 あなたが、自分自身と完全に、平和に生きられるのかどうか、です。 もちろん、それはできます - もし、あなたが、神経症や精神病であるなら、 あなたは、自分が天国にいると、想像できます。 または、何か突飛なことを、信じられます。 そして、あなたは、それとともに生きます。 それで、あなたは、自分自身を信念の中に、閉ざしてきたし、 その信念の中で、自分は平和に生きていると、想像します。 が、そのすべては、かなり子どもっぽくて、 未熟で、凡庸です。
29:43 凡庸(ミディオーカー)という言葉、 その言葉の根本の意味は、 けっして、丘の頂上へ行かないことです。 いつも、丘の途中、です。 それが、凡庸「ミーディオーカー」という言葉の意味です。 あなたは、自分の業務が良くできるのかもしれません - 偉大な科学者として、哲学者として、教授として、良い大工として、です。 が、あなたの生は、凡庸なのかもしれません。 私たちは、良い専門職の経歴について、話していません - あなたたちは、みんな、それが良くできます。 が、私たちは、凡庸さについて、話しています - 凡庸な精神、頭脳について、です。 そして、凡庸な頭脳を持たないこと - それは、あなたの最高の能力で、生きることです。 あなたの能力が、何かの業務に、とか、 何かの専門職に、表現されたのではなく、 内的に、大いなるきびしさ、統合の生を、 生きること。 きびしさ(オーステリティ)という言葉は、 ギリシャ語から、来ています - それは、渇いた口を持つ、という意味です。 すなわち、きびしい人々は、 一般的に、きわめて乾いていて、 きつく、険しい。 一、二枚の腰布です。 それは、きびしさではありません。 きびしさは、砕けていなくて、 全体的である頭脳の性質です - 大いなる深さと統合を持っているそれ、です。 そして、葛藤の影もないのです。
32:32 で、私たちは、ともに、検討しようとしています - 現代の世界において、どんな葛藤もなく、 生きることは、可能なのかどうかを、です。 葛藤とは、何ですか。 どうぞ、いつの時も、留意してください - すなわち、 あなたと語り手は、仲良く会話を行っている、ということを、です。 彼らは、生について話し合っている友だちなので - あなたが、質問をしています。 語り手が、ではありません。 で、あなたが、質問をしています- 葛藤とは何ですか。 なぜ私たちは、葛藤の中に、生きますか。 私たちは、自らが葛藤の中に生きることに、気づいていますか。 または、私たちは、こうも頑なに、 こうも冷淡で、無頓着になってしまったので、 あらゆる物事を受け入れるのです - 汚さ、貧困、悲惨、混乱、 そして、当然、葛藤を、です。 私たちは、それを堪えます。 が、あなたが、探究しはじめるなら - 葛藤なしに生きることが、可能なのかどうかを、です - そのとき、あなたは、訊ねなくてはいけません - あなたが訊ねておられるのを、望みます - 矛盾とは、何ですか。 また、あなたは、訊ねなくてはいけません - 測量は、比較ですが、 測量が、あるかぎり、葛藤が、あるにちがいありません。 ですね? 私たちは、互いに出会っていますか。 私たちの生のほとんどは、比較に基づいています。 学校、専門校、大学で、 あなたは、いつも比較しています。 あなたの学位は、比較の結果です。 比較があるところ、葛藤が、あるにちがいありません。 度量は - あなたは、背が高い。 私は低いとか、 私は黒い。 あなたは白いか、ピンクだ。 それは、いつも比較です。 あなたは、利発だが、私はそうでない。 私は、あなたのように、利発でありたい。 あなたは、こうもすてきに見えるが、私は、すてきに見えない。 で、この比較の葛藤が、あります。 で、あなたは、唯一つの比較の動きもなく、生きられますか。 そうしてください。 あなたは、分かるでしょう。 そのときあなたは、重要なのは、 あなたが何であるのかであるかが、分かるでしょう - あなたが何であるべきであるかや、何になりたいか、ではありません。
36:09 また、分離があるとき、葛藤は、生じます - 二元性、対極があるとき、です。 私は、これである。 私は、あれになるだろう。 私は、暴力的であるが、私は、非暴力を追求するだろう - それは、対極です。 で、そもそも対極が、ありますか。 これらに、付いてきておられますか。 これらに、興味はおありですか。 または、眠ってしまわれたのですか。 ここは、快適な所です。みなさんが快適であることを、望みます。 あなたは、挑戦され、問われ、訊ねられてきました。 あなたは、応答しなくてはいけません。 もちろん、こうも多くの人々が、いるので、 みなさんが、一斉に応答できません。 あまりに多くの騒音が、あるでしょう。 が、あなたが、自分自身に応答するなら、 見出してください。 そもそも対極が、ありますか。 対極は、あります - 男、女、暗い、明るい、 日の出、日の入り。 ですが、心理的に、内的に、対極が、ありますか。 私は知っています。 いえ、私は知りません - 人々が、私に語ってくれました。 幾つか理論が、あります - 覚りを開いた人たちだけが、対極を持っていない、と。 私は、それを信じていません。 いえ、私はむしろ、それを問います。 それを信ずるのではない。 私は、それは戯言であると、思います。 「有るもの」だけが、あります。 すなわち、暴力が、事実です。 非暴力は、非事実です。 で、頭脳は、非事実を、創り出してきました。 なぜなら、それは、事実を取り扱う能力が、ないからです。 あなたが、エンジンをどう直すのかを、知っているなら、 そのとき、何の問題も、ありません。 が、あなたが、「有るもの」をどう取り扱うかを、知らないなら - あなたの暴力や、それが何であっても、です - そのときあなたは、間違いなく、その対極を、考案するにちがいありません。 なぜなら、対極をとおして、あなたは、いつの日にか、達成したいとか、 「有るもの」を変化させたいと望むからです。 これらに付いてきておられるのを、望みます。
39:17 で、私たちは、対極がないと、言っています - あなたは背が高い、私は低い、それら以外は、です。 物理的に、私たちは、違っていますが、 心理的、内的に、ただ事実だけが、あります。 そして、事実をどう取り扱うのか、です。 あなたは、それをどう取り扱うのかを知るなら、対極はありません。 で、私たちは、ともに究明しようとしています - 私たちが事実を見つめられるのか、どうかを、です。 事実とは、暴力、恐れ、悲しみ、冷淡さ、 自分自身への関心です。 これらはすべて、事実です。 天国があるのかどうか、 いつの日か、あなたが覚りを、開くだろうかどうか - そのすべては、非事実です。 それは、何の意味もありません。 が、それが意味を持っていて、あなたがそれに取りすがり、 あなたが、「有るもの」を、回避しているなら、 葛藤が、あるにちがいありません。 なぜなら、二元性が、あるからです。 あなたが、一つのことを言い、別のことをするとき、 葛藤が、あります - 一つのことを考えて、 自分が考えることとは全然違った行為を、するとき、です。 それが、みなさんが、やっていることです。
40:48 で、暴力、恐れを理解することは、可能ですか - すなわち、私たちが持っているものを、です。 対極を創り出さないで、 「有るもの」を、了解する、学ぶ、究明するのです。 あなたが、何か主題、何か反応を、取るなら - たとえば、暴力です。 なぜなら、それは相当に、私たちのみんなに、共通しているからです。 私たちはみんな、なかなか暴力的な人々です。攻撃的です。 私たちは、一つの方向では、暴力的でないかもしれませんが、 他の方向で、私たちは、そうなのです。 さて、私たちは、暴力的な人々です。 それは、事実です。 あなたは、いかに暴力を見つめますか。 暴力は、あなたより分離していますか。 あなたが、非暴力と言うなら、私たちは、追求しています。 それは、あなたより全然、分離しています。 なぜなら、あなたは実際に、それに関係を、持っていないからです。 が、あなたなるものは、暴力的です。 で、あなたは、あの暴力を見つめられ、 あの暴力の本性と構造と深さを理解できますか。 それは、暴力の内容全体について、 知覚すること、把握すること、学ぶことです。 暴力は、物理的だけではなく、はるかに心理的、内的です。 さて、何が起きますか。 私はそれに、入ろうとしています- それに興味をお持ちなら、です。
42:56 私は暴力的です - 仮に、語り手が暴力的である、とします。 怒って、苛立ち、 摸倣し、順応している。 それらすべては、暴力の様式です - 順応、比較と怒り、嫉妬などです。 「暴力」というその言葉は、そのすべてを、収容しています。 さて、私は暴力的です。 それは、事実です。 私はそれを、どう見つめますか。 私はそれを、どう理解しますか。 私はそれを、どう探検しますか。 どうぞ、これをしてください- 私たちが話しているとき、です。 まず第一に、その暴力は私より、異なっていますか。 理解されますか。 怒り、嫉妬、恐れは、私より分離していますか。 または、私はそれですか。 私は、あなたが仰るだろうのを、知っています - 「誰が見ていますか」と。 私たちは、それに入ろうとしています。 まず第一に、私たちは、きわめて明らかでなければなりません - すなわち、暴力は、何か私より離れたものではない。 私が暴力的なのです。 ですね? その事実を、認知なさるのでしょうか。 または、あなたは、こう仰るのでしょうか - 暴力を目撃し、観察しているのは、誰ですか。 観察者は、過去です。 ですね? 「私は暴力的だ」と言い、暴力の本性を見る観察者。 観察者、見る者、究明者は、 過去です。 彼の暴力の記憶です。 「暴力」という言葉は、記憶の部分などです。 観察者は、過去です。 明らかですか。 過去をもって、あなたは現在の暴力を、見つめています。 ですね? 現在の暴力は、反応です。 その反応の中、あなたは、過去から見ています。 過去が、それを見つめています。 で、何が起きますか。 あなたは、「暴力」という言葉を、使ってきました - それは、過去です。 なぜなら、あなたは、前に暴力的であったし、 あなたは、それを認識するからです。 どうぞ、気をつけて、これらに付いてきてください。 あなたは、新しい反応を認識し、あれは暴力的だと、言います。 で、その言葉をともなった過去の記憶が、現在の反応を、認識します。 で、あなたは、過去から現在を、分離させてきました。 観察者は、現在を見つめている過去です。ですね? それで、二元性が、あります。 それで、葛藤が、あります。 それで彼らは、 「私はどうやって、暴力を抑圧することになりますか」と、言います - 「私は、非暴力を追求しよう」と、 それらすべての、あなたが玩ぶごまかしです。 が、実際に、あなたは暴力的です。それは、事実です。 あなたは、その事実を保てますか - その事実から動いて離れないで、です。 すなわち、観察者なしに観察する。 理解されますか。 ゆえに、過去の知識なしに、観察する。 ああ、それは・・・同意なさらないでください。 それは、大いなる注意を、必要とします - 大いなる休止、静寂な観察を、です。 唯一つの言葉もなく、暴力を見つめることを、です。 過去の作動全体が、 あなたの観察に介入することなしに、です。 観察者は、観察されるものです。ですね? これは、あなたが受け入れたり、見たりするのが、困難です。 なぜなら、私たちは生のすべて - すみません - 私たちは、生すべてで、分離してきたからです。 私たちは、ヒンドゥー教徒です。 あなたは、イスラム教徒です。 それらは、称号です。 宣伝の結果です。 が、私たちは、人間です。 で、二元性なしに生きることは、可能ですか。 すなわち、一つのことを言い、それを通す。 裏表がある話ではない。 暴力とともに留まる。 その本性を理解する。 それを見つめる。 すなわち、過去なく観察するのです。 これは、私が言いましたように、大変多くの注意を、必要とします - 学ぼうとする欲求を、です。 非難するのではない。 で、私たちは、訊ねています -
49:23 葛藤なく生きることは、可能ですか。 私たちは・・・語り手は、それは可能であると、言っています。 それは、こういう意味です - 私はそれを、もう少し複雑にするでしょう - それは、けっして記録しない、という意味です。 けっして記録しない。 侮辱や、へつらいや、どの出来事、 心理的な出来事でも、けっして記録しない。 言っていることを理解されますか。 私たちは、互いに理解しあっていますか - 知的に、言語的にさえも、です。 頭脳は、記録しています。 あなたは今、語り手が言っていることを、記録しつつあります。 あなたは、それに気づいていないかもしれませんが、 あなたは記録してきました。 この講話が録画されつつあるところの(ヴィデオ)テープのように、です。 で、頭脳は、記録しています。 その記録は、止まりえますか。 その記録が、知識です。 その知識の記録、 知識を記録することが、安全、安心です。 私たちは、手放すこと、物事を新鮮に見つめることに、怯えています。 で、記録しない。 あなたの妻や夫が、「あんたはばかだ」と言うとき、記録しない。 あなたの夫や妻が、「あんたはばかだ」と言わないことを、望みます。 その言葉や、その言葉の感じを、記録しない。
51:50 私たちの頭脳は、コンピューターのようになってしまいました。 科学者と、コンピューターを造っている専門家たちは、 言っています。 百万ドル、億万ドルを注いでいます。 日本でも、アメリカでも、 コンピューターを創り出すために、です。 すなわち、超機械的知能です。 それは、人間より急速に考えるでしょう。 どうぞ、これらに付いてきてください。 彼らは今、そうしています。 インドは、五十年か、十年、遅れているかもしれませんが、 彼らは、コンピューターを造っています - そこで、それらは、人の活動のほとんどを、引き受けるでしょう。 もちろん、それらができない・・・- たぶんそうなるでしょう - (定型詩の)ソネット、オードや、歌を書けません。 たぶん、できるようになるでしょう。 で、コンピューターは、私たちの頭脳に、似ていますが、 さほど鈍くありません。 それは、ものすごく活動的です - 小さなチップに、幾千もの記憶を、載せています。 機械が、人間たちがすることすべてを、できるとき、 人間の頭脳、あなたの頭脳に、何が、起きようとしていますか。 質問を理解されますか。 後生ですから、反応してください。 アメリカでは、テレビで、 私たちは、日本の車が組み立てられつつあるのを、見ました。 コンピューターとロボットが、ありました。 コンピューターは、ロボットに、車をどう組み立てるのかを、言っていました。 そして、ロボットが車を組み立てていました。 作業員たちは、白いエプロンと白い手袋を、着けていました。 突然に、機械全体が、止まりました。 そのとき、コンピューターがロボットに、言います - 言語的には、でない - あなたは、ねじをしっかり回さなかった、と。 で、ロボットは、即時にねじを、締めます。 そして、機械全体が、進みます。 これが、コンピューターの世界で起きつつあることです。 そのコンピューターは、人より、よく考えられます。 それは、神々を考案できます - あなたたちが、神々を考案してきたように、です。 それは、チェスをできます。それは、最もとてつもないことを、できます。 そして、人間の頭脳に、何が、起きようとしますか。 あなたは、それについて、考えたことが、ありません。 それは、入るかいが、ありません。 なぜなら、あなたは、それに興味を持っていないからです。
55:31 人間の頭脳は、活動、挑戦を必要とします。 その頭脳は、娯楽で楽しもうとしているのか - 娯楽産業は、その頭脳を、引き受けようとしています。 あなたが今、引き受けられつつあるように、です。 スポーツ、映画、雑誌、寺院、 それらはすべて、娯楽です。 フットボール、そうね、クリケットと、その他すべてです。 そのとき、何が起きようとしていますか。 あなたの頭脳は、娯楽産業により引き受けられています。 それは今、されつつあります。 あなたは、それを意識していないかもしれません。 そして次第に、あなたの頭脳は、すっかり鈍くなります - すでにそうでない、としても、です。 あなたは、娯楽で楽しもうとしているのか。 あるいは、あなたは、全然違った方向へ、向かいます - 内的に、です。 あなたが、内的に向かうなら、無量の、無際限の、 果てしなくつづく安全が、あります。
57:02 で、私たちは、平和について話しています。 自分自身の中に完全な平和を、持てます - 精神の平和ではありません。 それは、ばかげています。 生きている平和 - 性質、深さ、です。 ただの表面的な、平和の見積もりだけではありません。 それは、いかなる葛藤もないとき、起こりうるだけです。
57:36 私たちはまた、宗教とは何であるかについて、 ともに話し合うべきです。 それを見出す、それへきわめて深く入るには、 私たちは、ともに話し合わなければなりません - あなたと語り手が、話し合う、会話を行うのです -
57:57 冥想とは何であるかについて、です。 「冥想」(メディテーション)という言葉は、熟考する、 じっくり考える、という意味です。 また、その言葉、「冥想」(メディテーション)は、 度量を、意味しています。 じっくり考える、熟考する。 また、測量できる能力も、です。 宗教は、理解されなくてはなりません - 知的に、ロマンチックに、ではなく、 世の中で進みつつある、それらのごみ、ではない。 その言葉の充分な意味を、 見出す、発見する、見ることは、 何も恐れがないとき、葛藤がないとき、 起こりうるだけです。 そして、見出すには- 見出すのではありません - 何か神聖なものが、あるのなら、 その真理を見つける - 探求をとおして、ではない。 様々な経験、様々な導師をとおし、 一つの道楽から別のへ行くのをとおして、ではない。 それの真理を見るには、冥想が、なければなりません。 冥想とは、何ですか。 冥想が一般的に、理解されているのは - それが、禅であっても、あらゆる他の形の冥想、 ヒンドゥー、チベット、仏教のであっても、 それらはすべて、今、体系、実践に、なってきたのです。 どの体系も、 官僚制であっても、宗教のであっても、どの体系も、 また、思考、哲学の体系も、 どの体系も、本来的に、衰え、退廃を、孕んでいます。 それが起きつつあるのは、見られます。 で、冥想するには、すべての体系より自由でなければなりません。 ですね? あなたは、冥想するための体系すべてより、自由になるでしょうか。 または、あなたは、自分の特定の気に入りの方法を、持っていますか - 頭脳の平静さをもたらすために、です。 すなわち、あなたは、冥想をとおして鎮静を、見つけたのかもしれません。 理解されますか。 あなた自身を、眠らせた。 反復をとおして、あなた自身を、催眠に掛けた。 ですね? で、私たちはともに、見出そうとしています - 冥想とは何ですか。 語り手は、あなたに、どうやって冥想すべきかを、語っていません。 「どうやって」という言葉は、霊的な事柄に、存在していません。 「どうやって」という言葉は、方法を、含意しています。 あなたたちは、千の方法を持ってきました。 それで、あなたは、今いるところに取り残されてきました。
1:01:50 で、冥想とは何ですか。 訊ねて、見出してください。 私たちは、互いに助け合うでしょう。 すなわち、初めに、何も権威が、あってはなりません - 教示者、 あなたを導く人が、誰も、です。 ゆえに、あなたは、とうてい誰にも頼れません。 あなたの生と過去の世代すべてが、指導者に、頼ってきました - 政治家に、導師に、司祭者に、です。 それで、人は、その終わりに、どこに、取り残されてきましたか。 人はまだ、混乱の中、まだ、葛藤の中に、います。 で、冥想の真の意義を見出すことは、 権威すべての全的な放棄です - 知識の権威をも含めて、です。 これを理解されますか。 それで、あなたの頭脳は、完全に条件づけられていない、 伝統すべてより、なっていく感覚すべてより、 全的に自由であるように、です。 すなわち、私たちの頭脳は、 なっていくのをとおして、条件づけられています。 あなたは、事務員から経営者へ、なりつつあります - 見習いから、大工の名人に、 工学の大学生から、 あなたは、工学部長になりつつあります。 物理的に、あなたは、そこでなろうとしてきました。 同じ動きが、心理的に、拡張されます。 そこで私たちは、何かになろうとしています。 私は良くないが、私は良くなるだろう。 私は、覚りを開くだろう。 覚りは、時のではありません。 覚りは、あなたの生の終わりに、ありません - または、様々な実践をとおしても、です。 覚りは、明瞭な頭脳を持つことです - 散らかっていない。 知識により、思考により、散らかっていない。 それで、頭脳は、自由であるのです。 そして、それが冥想です。 それで、何も測量が、ないのです。
1:05:29 測量の問いへ、入られたことがあるのかどうか、私は知りません。 西洋の全体は、 西洋のテクノロジーの世界全体 - あなたたちは、ここでそれを真似していますが - それは、測量に基づいています。 もしも、測量がなかったなら、テクノロジーは、ないでしょう。 ギリシャ人、古代ギリシア人たちは、測量に、関心を持っていました。 そして、彼らは、爆発しました。 彼らの哲学と彼らの発見、 数学などが、西洋中に爆発しました。 インドは、言いました- 古代の人々が、です。 私が正確に聞かされてきたなら、です。 なぜなら、語り手は、これらすべての書物を、読まないからです。ありがたい。 で、彼は、知識、伝統の重荷を、負っていません。 彼は、物事を、ありのままに見つめられます。 インドは、測量は幻影であると、言いました。 あなたは、宇宙、万物を・・・ - 語り手が、こう言っています - あなたは、宇宙、万物を測量できません。 あなたは、言葉や思考でもって、測量不可能なものを、測量できません - または、すべての時を越えているものを、です。 それの甚大さを、理解する - 全く自由である頭脳の、壮大さ、美しさ、 強さと、無量の生命力を、です。 それは、ものすごいエネルギーを持っています。 テクノロジーの世界で、発明、考案し、探求し、 訊ね、探検している人たちのように、です。 彼らはそこで、無量のエネルギーを、持っています。 が、頭脳は、自己、「私」より自由であるとき - それは、本質的に、エネルギーのむだです。 自己中心的な活動は、です - それより自由があるとき、 頭脳は、無量の、計算不可能なエネルギーを、持っています。 そして、そのエネルギーが、なければなりません。 - 思考により組み立てられたのではない。 あなたの頭脳の中のいわゆるセンターと、 クンダリニーの様々な形の目覚めと それらの種類のものとおして、でもない。 語り手は、それらについて、幾らか知っています。 彼はそれを、全的に無視します。 ところが、葛藤より自由があり、 内的に、大いなる静寂が、あるなら、 冥想は、それです。 企てられ、操作されたのではなく、 静寂 - すなわち、思考により組み立てられていないもの、です。
1:09:17 静寂は、空間を含意しています。 頭脳は、空間を持たなければなりませんが、 思考が作動しているとき、それは、空間を持ちません。 なぜなら、思考は、制限されているからです - すべての知識が制限されているように、です。 で、絶対的な静寂と空間が、なければなりません - それは、測量がなく、なっていくことが、ないとき、 起こりうるだけです。 その静寂が、あるとき - 二つの物音の間の静寂ではありません。 二つの戦争、二つの葛藤の間の、静寂や平和ではありません。 静寂は、何か、物音に、全然関係していないものです。 その静寂があるとき、 神聖なものが、あります - 言葉により測量可能でないものが、です。 これが、冥想です。そして、これが、宗教です - それは、私たちの日々の生活と全的な関係を、持っているのです。