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MA8485Q2 - 第2回質疑応答会合
インド、マドラス(チェンナイ)
1985年1月3日



0:10 このような朝に、雨と湿気に満ちているのに、 来られるとは、あなたは、かなり真剣であるにちがいありません。
0:30 私は、よろしければ、お訊きしたいと思います - なぜあなたは、ここに来るのか、です。 私は本当に、お訊きしたいと思います。 私が尊敬をこめてお訊きしてもいいなら、 あなたが探し求めているのは、何ですか。 私たちが深くほしいのは、何ですか。 もしも、私たちの一人一人が、真剣に、その質問をして、 その質問を維持したなら、 あなたの答えは、何となるのでしょうか。 それを声に出して言うのではなく、 自分自身で見出してください - 私たちが大変深遠に願望するのは、何ですか - または、渇望したり、追求したりするのは、です。 または、あなたは、見出すのを、助けてほしいですか - 私たち自身の本性だけではなく、 自己の心理的な構造を、見出す。 または、私たちは単に、 理論、仮説の足場と、言語的構築物を、築くだけですか。 その裏に、築くことはまったくありません。 質問を理解されますか。
3:00 私たちのほとんどは、見たところ - それは誤っているかもしれませんが - 私たちは、すばらしい足場を、築きます。 足場が何であるかを、ご存じですか。 足場の裏には、ほとんど何もありません。 ただ、言語的な構造物、 想像力豊かな仮説と、それらだけです。 何も基盤が、ありません。 その足場の裏には、 何も強い長続きする建設が、ありません。 それは、私たちが日常生活において、 自分たちは何物かであると想像し、その想像を追求する、ということですか。 または、何か伝統を受け入れて、 その伝統とともに生きるのですか。 または、私たちは、話すのが、とても上手くて、 言葉を溢れ出させて、 それが、スクリーンとして作用しますか - 自己を理解することと、自己とともに生きることに対して、です。
4:40 で、世界中の人間たちが、 深くほしがり、深く探し求めているのは、 何であるかと、思われます。 それは、お金ですか。 それは、或る種の権力ですか。 それは、自分が立場を持ったし、 その立場が揺らぐのを、願わない、ということですか。 これらを理解されますか。 私たちは、深く自分自身を探究するなら、 私たちが見つけるのは、何であるか、とか、 私たちが願望するのは、何であるかを、いったい言えますか。 または、この世界で、まったく何をもほしくない。 または、心理的な世界で、です。 生きるためのお金は、持たなければなりません - 小さなお金、衣食住です。 が、それは別として - 専門職のわざや、天職 - それは別として、 私は本当に、何一つほしくないと私たちは言えますか。 私たちは実際に、自分自身に言えますか - それを言うには、自分自身において怖ろしく正直でなければなりません - 私は本当に、何一つほしくない、と。 天国も、地獄も、楽園も、 解放、涅槃も、何でもお好きなものをも、です。 自らは実際に、それを言えますか。 または、あなたは、あまりに臆病ですか。あまりに心配ですか。 で、私たちは、質問へ戻りましょう。
7:08 私たちが今朝、暗い空と雨を見つめていたとき、 自然すべてへの自分の応答は、何でしたか - すべてのむさ苦しさ、汚れに対して、です。 まったくの粗雑な無頓着と無関心ですか - 私たちみんなを取り巻くすべてへ、です。 それらへの私たちの反応は、何ですか。 私たちは、鈍感ですか。 または、私たちは敏感であるなら、何をできますか。 社会などへの私たちの関係は、何ですか。 私たちが、自分自身に一つの真剣な質問を、できるなら、 その問いを了解する中で、 あなたは、世界の問いすべてに、答えたのです。
8:21 で、私たちの問いに戻りましょうか。
8:36 第一の質問: 「あなたは、思考が制限されていることを、示しましたが、 他のどんな探究の器具が、人に利用可能ですか」。
8:53 「あなたは、思考が制限されていることを、示しましたが、 他のどんな探究の器具が、人に利用可能ですか」。
9:11 私はあなたに、何一つ、示したことは、ありません。 それは、間違った仮定です。 私たちは、ともに、思考の本性全体を、探究しました。 語り手があなたに何かを示してきて、 あなたが受け入れる、のではなく、 むしろ、ともに、あなたと語り手は、 思考の問い全体に、入りました - 他の誰かの思考ではなく、自分の考えることに、です。 私たちは、考えることにより、生きます。 私たちがすることすべてが、考えることによって、 思考をとおして、です。 私たちの情動すべては、思考により、認識されます - 悪い、良い、中立、ロマンチックなどと、です。 私たちは相当、存分にそれに入りました。 おそらく私たちは、再びそれに入るべきです。 なぜなら、これを、きわめて深く理解するなら、 思考とは何ですか。 いわゆる偉大な科学者たちの思考だけではなく、 天体物理学へ、考古学、 物理学、化学などへの 偉大な研究者たち 彼らは、尋常でなく思考を費やし、 次々と思考を追求し、 結論に至ります。 その結論が正確でないと、彼らは、それを放り出して、進んでいきます - 考える、考える、考える。 そして、角を曲がったところの村人、 すなわち、読み書きの仕方を知らない人 - なぜなら、彼は、一度も本を見たことが、ないからです - 彼もまた、考えます。 で、思考は、人類すべてに共通しています。 ですね? 良い思考と悪い思考は、ありません。 それは、やはり思考です。
11:59 私たちは今、ともに、あなたと語り手は、それを探究すべきです。 私があなたにそれを示し、それからあなたがそれを受け入れる、のではない - それは、全く不条理です。 あなたとKが、それを探究し それに入るなら、 そして、あなたがそれを、事実として自分自身で発見するなら、 そのとき、誰も、あなたの観察を、除去できません。ですね? 誰も、あなたが考えることの正確さを、拒否できません。 で、私たちは、ともに進み、探検できますか - 私は本気で、ともに、と言っています。 それは、あなたが自分の頭脳を、行使しなくてはならない、という意味です - 私は、大変尊敬を込めて、これを言っています - あなたの頭脳を行使します。 思考が何であるかを、ともに見出すように、です。 何かについての思考ではありません。 考えることと、何かについて考えることの間の違いを、理解されますか。 私たちは一般的に、何かについて、考えます - 自分の職について、自分のビジネスについて、 自分の妻について、自分のセックスについて、 とても多くのことについて、です。 考える対象は、異なるかもしれません。ですね? 人物ごとに、違っているかもしれませんが、 考えること、思考は、人類すべてに、共通しています。 それは事実です。 ですね? 人類すべてに共通しています。 で、私たちは、考える対象について話していません。対象ではありません。 私は、幸せでありたいと思います。 私は、もっとお金を持ちたいと、思います。 または、私は、もっと良い車を持ちたいと思います。 私は、自分の妻を他の誰かに交換できたらなあ、などと願います。 何かについて考える。 ですが、私たちは、何かについて、究明していません。 むしろ、思考の活動全体、です。 それがいかに生ずるか、起源は何であるか、などです。 私たちは、考えることへ、入ろうとしています - 思考の対象へ、ではありません。 明らかですか。
14:54 よろしいですか。 あなたは、何と考えますか。 語り手を引用しないでください。 そのとき、あなたは、迷っています。 あなたは、思考は何であると考えますか。 思考は、物質的な過程ですか。 質問を理解されますか。 思考は、何か外側のものですか。 一定の部族において、 思考はいつも、何か外側のものと考えられています。 そうね、エスキモーの人によれば、 思考は、何か別物、物理的な外側、などと考えられています。 私はそれに入らないでしょう。 私は、学者ではありません。 私はただ、観察してきました。 私は、本を読みません。私は、その種のものに、入りません。 で、考えることは、記憶の背景全体があるとき、 存在しうるだけです。 ですね? ですね? 私は、まったく記憶を持っていないなら、考えられません。 ですね? 私たちは、これを進めましょうか。
16:42 で、私は、探究しなくてはいけません - なぜ記憶は、思考は、自らの生において、 こうも重要な役割を、果たすかを、です。 記憶は、知識に基づいています。ですね? 私は、車の事故の経験をしたことが、あります。 その出来事は、記録されてきました - 今、録画されつつある(ビデオ・)テープのように、です。 それは、頭脳により記録されます。 その記録が、その出来事の記憶です。 ですね?私に同意しないでください。 あなた自身で見てください。 で、頭脳の機能は、記録することです。 そして、記録が知識です。 私は、車の事故をとおして、あの負傷をしたのでした。 それは、痛みとして記録されます。 それがそこに、記録されて残ります。 その記録が、知識です。 ですね?もちろんです。 次回、私は、車を運転するとき、ひどく気をつけようとしています - もし私が、車を運転するなら、です。 それで、思考、記憶 - それは、知識としての記録ですが、 その知識は、事故のその経験に基づいています。ですね? あの車の中での経験 - それは、事故を起こしたのですが、 それが、痛み、脚の骨折を引き起こしました。 私は、頭の挫傷とは言わないでしょう。 そのとき、あなたは亡くなっています。 で、経験、 そのとき、頭脳は、その経験を、知識として記録します。 ですね? その知識は、記憶です。 その記憶は、思考の動きです。 これは明らかですか - 私の叙述が明らか、ではなく、 あなた自身の発見です。 考える事柄全体へのあなた自身の究明、です。 その考えることは、歪曲されるかもしれません。 または、その考えることは、幻影の中に、生きるかもしれません。 または、その考えることは、 何か突飛な想像力豊かな映像とともに突っ走ってしまうかもしれませんが、 それはやはり、考えることです。 明白に、何についても完全な経験は、ありません。 で、経験は、制限されています。 ゆえに、知識もまた、制限されています。 なぜなら、科学者たちは、観察されるように、 自らの知識に、ますます多くを付け加えているからです。ですね? 彼らはけっして、知識は完全であると、言いません - 今も、未来においても、です。 で、知識は - あなた自身において観察なさるなら - 知識はいつも、制限されています - 過去においても、あるいは、現在や未来においても、です。 で、知識はいつも、制限されています。 ですね?それが、分かりますか。 それは、重要です。なぜなら、私たちは、知識の本性と、 それが私たちの生において、どんな役割を果たすのかを、 理解しないなら、 そのとき、知識は・・・ 知識の性質を、掴めません。 私たちは、少し互いに付いてきていますか。 または、それはすべて、速くなっていますか。
21:55 理解されますか。 知識は、経験に基づいています。 それは、何千年もの経験であるかもしれませんが、 それら、十年か、百年か、一日かの経験は、 やはり制限されています。 ゆえに、知識は制限されています。 記憶は、制限されています。 ゆえに、思考は、制限されています。ですね? 思考は、いつも制限されています。 私たちは、この事態が明らかですか。 または、それはすべて漠然としていますか。 私たちの活動すべてもまた、制限されています。 なぜなら、それは、思考に基づいているからです。
23:00 それで、質問者は、訊ねます - もし思考が、 自分の意識、自分の理解の、より深い水準への 究明の器具でないなら - 生の充実、 全体性への理解の、です - そのとき、何が器具ですか。 思考がそうでないなら、です。 質問を理解されますか。 いいですか。 私は進んでいいですか。 やれまあ、みなさんは、眠っているように見えます。 だいじょうぶですか。 思考は、必要です - どれほどそれが、制限されていても、です。 あなたが、ここから家へ戻るか、 バスや車に乗ったり、歩いたりするとき、 または、これら嫌な小さなパタパタに、ですが、 あなたは、思考を使わなくてはいけません。 あなたは、自分のビジネスで思考を使わなくてはいけません。 あなたは、空を飛ぶとき、思考を使わなくてはいけません。 外的に、物理的に、何をするときも、 あなたは、思考を使わなくてはいけません。 その思考が、使用されないなら、 または、思考が、自体を明らかに表現しないなら、 その明らかさの欠如の中から、混乱が、あります。 で、知識は、外的な活動のために、いつも必要です。 明らかですか。 散髪のために理髪師へ行くとき、 あなたは、思考を使わなければなりません。 髭を剃るとき、あなたは、思考を使わなければなりません。
25:19 で、別の器具が、ありますか - 思考が制限されているように、 制限されていないものが、です。 心理の構造全体、本性へ透徹できる、 別の器具が、ありますか。 心理(サイキ)は、自己です。 自己の現象全体です。 思考を別として、器具が、ありますか。ですね? あなたの答えは、何でしょうか。 あなたは、私たちがちょうど今、思考について言ってきたことを 追求してきたなら - 思考が制限されているのを、悟り、 ゆえに、あなたが、自分自身を究明する手段として、 思考を行使するとき、 それはいつも、不完全になるでしょう。ですね? それはいつも、制限されるでしょう。 それは、全包括的にならないでしょう。 あなたが、それを明らかに見るなら - あなた自身で、自分自身で、です - そのとき、器具は何ですか。 または、そもそも器具はないのですか。 気をつけて。どうぞ、気をつけてこれに入ってください。 私たちは、少なくとも、これらでは一緒にいますか。
27:24 あなたが、樹を見るとき - 外のあそこの、緑のあのものを、です - あなたはそれを、どのように見つめますか。 あの樹へのあなたの関係は、何ですか。 あなたは、その言葉なく、それを見つめますか。 または、その言葉が樹ですか。 これらを理解されるのかどうかと、思われます。 質問を理解されますか。 あなたが、樹と呼ばれる、 自然のあのとてつもないものを、見つめるとき - それは、人が創り出していません。ありがたい。 それへのあなたの応答は、何ですか。 それは、言語的な応答ですか - 「あの樹は、何と美しいのか」と。 そして、通り過ぎる。 または、あなたは、樹と呼ばれるあのものを、見つめられますか。 「樹」という言葉は、樹ではありません。ですね? その言葉を、私たちは表示するため、 他の一人に疎通するために、使います - あちらにある、あのものを、です。 その言葉は、樹ではありません。ですね? 「ドア」という言葉は、 この裏ですが、そのものではないですね? で、私たちは、その言葉はそのものでないと、言えるでしょうか。 その言葉は、単に、叙述するためですが、 叙述されるものは、現実のものではありません。 どうぞ、そんな悩んだ顔をしないでください。 で、これを理解することが、重要です。
30:00 なぜなら、私たちは、言葉に捕らわれるからです - 私たちは、言葉の囚人、言葉の奴隷になります。 「私はバラモンだ」とか、「あなたはそうでない」、 「私は、共産主義者だ」、「私は、連邦議員だ」などと、言葉です。 で、あなたが、庭に立つ、あの緑のものを、見つめるとき、 あなたは、言葉なしに、それを見つめますか。 あなたは、何も思考の介入なしに、それを見つめますか - それは、制限されていますが。 または、あなたは、自分が考えることに、こうも占有されていますか - 自分の問題などに、です。 あなたは本当に、けっしてあの樹を、見つめません。 さて、その同じことを、当てはめてください - あなたは、自分の妻や夫や彼女を、見つめますか - 何でもいいですが - その言葉なしに、 その人物に連携した記憶なしに、です。 理解されますか。これを理解することは、とても重要です。 私は、あなたを知っています。 あなたはずっと、ここにいました。 私はここで、幾人もの人々を、見ます - 二年前か、 十年前に会ったのですが、 私は、彼らを見つめますか。 私は自分自身に訊ねています。 どうぞ、あなた自身に訊ねてください。 私は、彼らを見つめますか - 五年前の記憶すべてなしに、です。 もちろん、彼はこれこれです。 さもないと、私は、毎回、彼に会うたびに、 紹介されなくてはいけないなら、それは、かなりばかげているでしょう。 が、私は、その人物に会ったその記憶を、持ち運んでいきますか。 汚れて、騒がしい等々の道路で、ですが、 私は、その記憶を運んでいき、 次回、私が彼を見るとき、その記憶が、作動します。 ゆえに、私は、彼を新鮮に、見つめていません。 これらを理解されるのかどうかと、思われます。
32:35 あなたは、私の顔を見つめていますか。 そして、顔に惚れていますか。 または、あなたは本当に、語り手とともに気をつけて、これに入ろうとしていますか。 あなたは、自分の妻や夫などを見つめるとき、 すべての記憶を持っています - 性的なもの、励ましの記憶、 憂鬱、ああ、彼女は、口やかましい人物だ、 などなどなど、です。 あなたは、人物を見つめるとき、このすべてを、持ち運んでいきますか。 すっかり単純で正直でありましょう。 もちろん、私たちはそうしますね? で、あなたはけっして、その人物を、まったく見ません。 なぜなら、あなたは、スクリーンとして、この記憶を持っているし、 そのスクリーンをとおして、人々を見つめるからです。 で、観察が、あります - 言葉により制御されない、 言葉により形作られない、 思考により曲げられないものが、です。 それが、ただ一つの・・・私は、「器具」を使いたくありません。 それが、ただ一つの・・・観察です。 どんな言葉もなく、見ること、観察することです。 頷かないでください。 これは、とてつもない見守りを、要求します。 見る、観察する - その言葉なしに、 あなたの意見、先入観、 思考の活動すべてなしに、見る、観察する。 そのとき、その観察は、思考により形作られていたり、 思考により駆り立てられたりしていないとき、 そのとき、そういう観察は、全包括的、全体的です - 思考が制限されているように、制限されていません。 これは、明らかですか。 いいえ、どうぞ、「はい」と言わないで、同意しないでください。 あなたは、それをするのでなければ、同意できません。 私たちのほとんどは、話をされるのが、好きなのです。 私たちは、会合に出席するのが、好きなのです。 それは、私たちの病気の一つです。 そして、あなたは、ただ聞きます。 同意、不同意をし、家に帰ってしまいます。 私たちは、その区域にまったくいません。 私たちが言っていることは、あなた自身で理解するのが、とてつもなく重要です。 思考の制限、 記憶されたような出来事の記憶、 それは、経験に基づいた知識に、なります。 その過程すべては、永久に制限されています。 すべての科学者は、ますます多くを付け加えています。 ここ二百年でもっても、彼らは、付け加えて、無量に前進してきました。 そして、付け加えがあるところ、 付け加えられるところのものは、いつも制限されています。 明白に、それは完全ではありません。 そして、観察、知覚が、あります - 視覚的、光学的な眼でもって見えるだけではなく、 また、思考の単一の動きもなく、 見えること、知覚すること、観察することが、です。 そういう観察は、完全です。
37:31 さて、そこから、別のきわめて重要な問いが、生じます - 行為とは何ですか。 その問いは、ここ(書面)にはありません。私がその質問をしています。 そういう完全な知覚が、あるとき、行為は、何ですか。 質問を理解されますか。 あなたにとって、行為とは、何ですか。 すること、行為すること、 (動詞に ingをつける)現在分詞- すみません。 する - それは、どういう意味ですか。 する、行為する - 記憶と知識の過去の貯水池に応じて、です。 そして、あなたは、その知識に応じて、行為します。ですね? どうぞ、私は、何も神秘的なことを、申していません。 そんなに冴えない顔をなさらないでください。 または、私たちは、象徴に応じて、行為します。 または、予め想定された概念、観念、 理想に応じて、です。 ですね? 過去の記憶に応じて、行為する。 その行為は、過去や未来により方向づけられる。 ですね? 私は、あれをしなければならない。 または、私は、自分の確信に応じて、行為する。 または、私は理想を持っている。 私は、その理想に応じて、行為する。 ですね?よろしいですね? 何ですか。 そうではないですか。 みなさんは、怖ろしく真剣に見えますね。 あなたは、本当に真剣であるのか、 あるいは、私が話していることを、あなたは理解しないのです。
40:14 で、行為は、過去に基づいています- 記憶、知識に、です。 または、未来に応じて、行為します。 私は明日、何をしなければならないのか、 ゆえに、私は今日、これをしよう、と。 理解されますか。 過去にも、未来にも基づいていない行為が、ありますか。 なぜなら、「行為」という言葉は - 私は、先日、聞いたばかりですが - 「業」(カルマ)という言葉の説明、 (その語根の)クル、すること。 することは、今です - 明日や昨日ではない。 私が言っていることを、理解されますか。 すること、行為すること。 私たちは、行為することなしには、生きられません。 あなたが起き上がるとき、それは行為です。 あなたが、家に帰るとき、それは行為です。 何か崇高な行為、ではない。 で、行為、実際の行為は、今です。 そして私は言っています。 私は今、自分自身に訊ねています - 知覚への行為の関係は、何ですか。 すなわち、包括的なものへ、です。 私は正しいですか。 あなたは、その質問をしていますか。 私は、あなたを拷問したり、いじめたり、 まったく何をも強いたりしたくありませんが、 これらは、ふつうの疑問です。 これが、あらゆる人間の普通の要求です。 で、全包括的であり、全体的であって、 制限されていない行為が、ありますか。 なぜなら、私たちの行為は、思考に基づいているからです、 そうであるように、思考が制限されているなら、行為は制限されるでしょう。 ゆえに、それは、制限されているので、あらゆる種類の紛糾を、創り出します。
43:18 ご覧ください。戦争が進みつつあるのです - 中東で、レバノンのベイルートで、です。 ユダヤ人とアラブ人です。 ですね? 彼らはどちらも、(民族的に)セム系の人々です。 理解されますか。 ですが、四千年か、五千年の宣伝が、 ユダヤ人に言わせてきました - 「私は、アラブ人より分離している」と。ですね? よろしい。私は、そこまで行かないでしょう。 もっと近づく。 はるかに、ぐさりと来る。 すなわち、あなたたちは、ヒンドゥー教徒です。 そして、イスラム教徒が、います。 イスラム教徒は、ここ千六百年の間、ずっと、 反復をとおし、恐れをとおし、順応、改宗などをとおして、 条件づけられてきました - 自分たちはイスラム教徒であると信じるように、です。 あなたたちは、条件づけられ、プログラムされてきました - 三千から五千年の間、ヒンドゥーとして、です。 思考が、これを分割してきましたね。 文化が、ではない。 文化は、人類すべてに所属しています。 インド文化だけではない。 私は、それらに入らないでしょう。 で、ヒンドゥー教徒としてのあなたと、イスラム教徒は、戦争をしています - 実際に互いに殺し合うのではない。 暴動があるとき、 あなたは、暴れ出します。 あなたは、暴力的です。 で、思考が、人々を分割してきました。 ですね?理解されますか。 私は、フランス人だ。 あなたは、イギリス人だ - 後生です。それは、すべて子どもっぽいのです - このすべては。 で、語り手は、言っています - それを受け入れないでください。 それを問い、疑い、バラバラに引き裂いてください。 あなた自身で、見出してください - 完全に、分割、分離なしであり、思考に基づいていない 行為が、あるのかどうか、です。
46:14 私が、語り手が、「愛」という言葉を使う、 その言葉を導入するとしても、許してくださるなら、 私は、物理的な楽しみについて、話していません - 私たちは、それを愛と呼びますが。 すなわち、それは、自然なのか、不自然なのかもしれません。 それが何であっても、です。 私は、あまり深くこの問いに、入りたくありません。 なぜなら、それは、きわめてきわめて複雑なものであるからです - 愛が何であるかは、です。 愛は、知識に基づいていません。 愛は、思考の産物ではありません。 愛は、楽しみなどではありません。 その愛の性質が、あるとき、 全包括的であり、全体的である行為が、あります。 終止符。
47:45 第二の質問: 「静寂は、あなたの教えすべての中で、 人の変容にとって、中枢の点です。」
48:02 K: 私は初めに読んだほうがいい。
48:06 「静寂は、あなたの教えすべての中で、 人の変容にとって、中枢の点です。 あなたの一番親しい仲間に対して、 あなたは、静かに座ることの必要を、提唱されてきました。」
48:26 K: この質問は、いったい何ですか。
48:34 「あなたの一番親しい仲間に対して、 あなたは、昼間に短い間、静かに座ることと、 静寂の中に居ることの必要を、 提唱されてきました - 頭脳の中のこの変異を、もたらすために、です。 この変容を達成するための、実践的な歩みを、どうぞ、 私たちに教えてください。」

K: 神様!
49:03 誰が、この質問をしましたか。 私は、この質問を笑わずに、読んだほうが、いい。
49:15 「静寂は、あなたの教えすべての中で、 人の変容にとって、中枢の点です。 あなたの一番親しい仲間に対して、 あなたは、昼間に短い間、「静かに座ること」 - 括弧付き - と、 「静寂の中に居ること」 - 括弧付き- の必要を、提唱されてきました - 頭脳の中のこの変異を、もたらすために、です。 この変容への実践的な歩みを、 どうぞ、私たちに教えてください。」
49:54 語り手は、Kは、親しい仲間を、持っていません。ですね? それが、きわめて明らかに、初めに確立すべきことです。 ですね? 彼はまわりに、親しい仲間を持っていません - 弟子を、です。 それは、語り手にとって、恐怖です - 弟子を持つことは、です。 なぜなら、一般的に、弟子は教師を、破壊するからです。 あなたは、それを笑うかもしれませんが、それは事実です。 で、親しい仲間は、ありません。 もしも、そんなものがあったなら、私は明日、歩いて出て行くでしょう。 私は本気で、そう言っています。 なぜなら、自立が必要であるからです。 協働がありうるのは、自立をとおしてのみです。 理解されますか。協働は生において、無量に重要です。 私たちは、自分たちの利得のため、 自分たちの利己のために、協働するのか、 あるいは、私たちは、或る人物のまわりで、協働します。 なぜなら、私たちはみんな、彼を崇拝するからです。 そのとき、それは、個人崇拝になります - それは、忌まわしいことです。 協働は、ともに働くこと、 一緒に物事をすることですが、 一人一人が完全に自立しているのでなければ、けっして起こりえません。 私は、これがあらゆる物事に、逆行するのを、知っています。 あなたは、政府と協働します。 あなたは、導師と協働します。 あなたは、警察官と協働します。 あなたは、自分の知事とまたは、主席大臣や 何とかかんとか、上司すべてなどと、協働します。 彼らはみな、あなたの自立を、破壊します。 私が、あなたとともに働けるし、あなたが、私とともに働けるのは、 あなたが本当に自立しているときだけです。 それは、私たちが協働するには、 どちらも、自由でなければならない、という意味です。 あなたは、私の上司ではありません。 私は、あなたの上司ではありません。 あなたは、これらを理解されますか。 ああ、神様。いいですよ。 それは、あなたしだいです。
53:08 残念ながら、質問者は、物事を全然間違って捉えていると、思われます。 「静寂は、あなたの教えすべての中で、 人の変容にとって、中枢の点です。」 戯言です。 「あなたの一番親しい仲間に対して、あなたは、昼間に短い間、 静かに座ることと、静寂の中に居ることの必要を、提唱されてきました - 頭脳の中のこの変異を・・・」その他すべて、です。 それが、何になるかを、ご存じですか。超越冥想です。 それについて、聞いたことがありますか。 朝、20分間、午後、20分間、 晩に、20分間、静寂を保ち、見守る。 それは、良い昼寝をもたらすのを、助けます。 あなたは、それら20分の間に、眠りにつけ、寛げます。 私は、冗談を言っていません。 これは、世界で進んでいることです。 語り手は、何をも提唱していません。 彼は、あなたに、どの種類の宣伝をも、していません - あなたに、何をも納得させるためにも、です。 語り手は本気で、そう言っています。 どうぞ、それを真剣に取ってください。 反対に、彼は、疑え、と言います - 語り手が言っていることを、疑え、と。 他の語り手たちだけではなく、この語り手をも、です。 問い、懐疑的であり、自立してください。
55:21 で、彼は、静寂を提唱していません。 私はこれらに、入らないでしょう。 それは、些細です - この問いは。 この哀れな人が六十年間、言ってきたことを、 その言い手は何一つ、理解していません。
55:48 人間心理、人間の利己性、 人間の暴力の変容は、 静寂をとおして、ではありません。 静寂は、「静寂」という言葉より、何か全然違ったものです。 静寂は、音を、含んでいるかもしれません。 私は今、それに入らないでしょう。 私たちは、音を理解しません - 樹の音、 落雷の音、 空を駆け抜けてゆくジェット機の音 - 時速か、分速1000マイルで- 時速です。 世界には、ものすごい音が、あります。 私たち自身の中の音。 私たちは、静寂より音を、分離します。 音は、静寂の一部なのかもしれないし、一部です。 私は今、これに入らないでしょう。 心理の変容を、もたらすには
57:30 - すなわち、私たち自身、私たちの利己 私たちの混乱、私たちの痛み、悲しみ、恐れ、楽しみと、 私たちが生において経てゆくすべての物事のそれ、です。 痛み、不確実さ、安全の欠如、 安全への要求 - 物理的にも、心理的にも、です。 このすべてが、私、あなたです。 あなたの職業、あなたの名前、 あなたの銀行預金 - あなたがそれを持っているとして、です。 そのすべてが、あなたです - 想像し、とても静かに座り、眼を閉じた。 そのすべてが、あなたです。 あなたの悩み事、あなたの問題、あなたのけんか、 あなたの欲望、あなたの性的要求、 あなたの名前、遺伝的に、などが、あなたです。 そして、全的な変容を、もたらす - すなわち、この自己が全的に終わること。 世界にこんなに混沌を、創り出しているものが、です。 その終わることは、静寂をとおして、ではありません。 その終わることは、今、起きなくてはいけません。 明日ではない。 その終わることは、あなた自身への、気をつけた 注意深い観察をとおして、来られるだけです - あなたの欲望、あなたの思考、あなたの冥想、集中への試み、 導師へ行くことへ、です。 そのすべてが、利己の一部です。 それを完全に終わらせるには、 - この利己を、です -あなたは、 きわめて良い、明晰な頭脳を、持たなければなりません。 ごたまぜの頭脳ではなくて、です。 それは、すべてのプログラムより自由な頭脳を、持つことを、意味しています - すべての条件づけより自由であることを、です。 ゆえに、条件づけを観察しなくてはいけません。 あなたはヒンドゥー教徒、イスラム教徒である、 あなたはこれとあれである、との条件づけ - 思考が創り出して来た、それらすべての些細なことを、です。 それは、大いなる内的な注意を、必要とします。 あなたは、お金を稼ぐために、大変多くの注意を、注ぎます - 自分の事務所へ行くため、これやあれをするために、です。 ものすごい注意、です。 あなたは他方へ、ほとんど注意を、注ぎません。
1:01:09 あなたは、何かとても単純なことに、注目したことが、ありますか。 仮に、あなたと私は、ずっと、北へ行ってきた、とします - 一定の道を取ってきました。 いつも、ここ一万年か、百万年の間、です。 私たちはずっと、北へ行ってきました。 それは、単純な喩えです。 私たちは北へ行っていない、と言わないでください。私たちは行っていません。 仮に、私たちは北へ行っている、とします。 そして、誰かが、やって来て、言います。 「あなたは、ここ十万年以上の間、 あの道を行ってきました。 私もまたずっと、あの道を行きましたが、それはどこにも、繋がりません」と、 その人は、言います。 彼は、「東へ行きなさい。 または、南か、西へ」と言います。 彼はそれを、全く真剣に言います。 あなたは、それを聞きます。 なぜなら、あなたは、この道、北へ行くことに、うんざりしているからです。 あなたは、よく気をつけて聞きます。 あなたは、言います - 「もっともです。 やってみよう。見てみよう」と。 あなたが、北へ行くのから、東や西や南に、向かうなら、 頭脳は、北の様式を、壊したのです。 私が言っていることを、理解されますか。私たちは、一緒にいますか。 それは、様式を破ってしまった。 ゆえに、条件づけを、です。 それは、向きを変え、東へ行った瞬間、 それは、脳細胞自体を、根本的に変化させたのです なぜなら、あなたは、様式を壊してしまったからです。 私は、生涯ずっとイスラム教徒でした。 私は、それがいかに不条理なのかを見ます - この分割が、です。 私は、それの真理の不条理さを、知覚した瞬間 - 私はしなければならないとの真理を、ではありません。 思考によりもたらされたこの分割などなどの真理を、です。 私はそれが見えた瞬間、頭脳に変異がある - 脳細胞自体に、です。 私たちは、この事柄について、いわゆる脳の専門家たちと、議論してきました。 彼らは、私が言っていることを、すっかり受け入れようとはしません。 なぜなら、彼らは、自分自身においてそれを試したことが、ないからです。 彼らは、犬、猿、鳩、その他すべてで、それを試してきました。 笑わないでください。 どうぞ。 これらすべての専門職は、けっしてそれを、自分自身で試しません。 彼らは、あなたと私に似ています- 野心的で、欲張りで、 地位、権力、その他すべてを探し求めています。
1:04:27 で、変異があります。 変異は、全的な変化を、意味しています - 明らかな知覚が、あるとき、完全に違った何か、です。
1:04:52 第三の質問: 「人類は、普遍的な道徳律なしに、生存できますか - すべての時とすべての気候において、真実であるものなしに、です。 熱心な人は、自分の探求と善意により、 この生の道を発見できますか。」
1:05:24 「人類は、普遍的な道徳律なしに、生存できますか - すべての時とすべての気候にとって、真実であるものなしに、です。 熱心な人は、自分の理性と善意により、 この生の道を発見できますか。」
1:05:53 K: あなたは、疲れていますか。 普遍的な道徳とは、何ですか。 これはまたもや、仮定です。 ですね? 彼は、言います - 人類はそれなしに、生存できますか。 あなたは、生存できますか。なぜなら、あなたは人類であるからです。 質問を理解されますか。 ああ、神様。私は、これらを経てゆかなければなりませんか。 あなたは、残りの人類に似ていませんか。 あなたは、背が低い、肌が黒い、紫、白、ピンクなのかもしれません - または、いかなる色素、色の顔料であっても、です。 あなたは、残りの世界に、似ていませんか。 あなたは、違った専門職を、持っているかもしれません。 あなたは、黒い髪、ブロンド、紫の髪をしているかもしれません - あなたはそれを、自分が好きなどの色にも、染められます。 あなたは、残りの人類に似ていませんか。 なぜなら、あなたは、苦しむし、苦悶、悩みを経てゆき、 きわめて、きわめて表面的な生を、生きるからです。 時折、悲しみや恐れにより揺すぶられて、その中から出ています。 そして、あなたの隣人は、きわめて近くて親しかろうと、 何千マイルも離れていようと、 違った形で、同じことを経てゆきます。 彼は、その妻と喧嘩します - あなたがそうするように、です。 何か真剣なことが、言われつつあるとき、あなたは、間違っています。 また彼らも同じことを、します。 で、あなたは、同様です。 または、あなたは、残りの人類です。 これらを信じておられないのを、私は知っていますが、 それは大事なことではない。 あなたにとって、これは真理ではありません。 なぜなら、あなたは、個人主義へ条件づけられているからです。 あなたの宗教すべて、 あなたの物理的な条件が、 あなたは、分離した魂であると、言います - 分離した人間、 分離した意識である。 すなわち、あなたの頭脳は、他のどの頭脳よりも、分離している、と。 あなたは、それらへ条件づけられてきました。 そして、あなたが人間として、地上のあらゆる他の人間に、 心理的に似ていることが、理解できません。 彼らはみんな、死を経てゆきます。 あらゆる人間が、経てゆきます。 または、死を知っています。または、彼の家族で、誰かが死んだのです。 そして、悲しみがあります。 この悲しみは、人類すべてに、共通です。 あなたは、病気で苦しみ、悲しみを持つかもしれません。 または、他の一人は、死をとおして、悲しみを持ちます - 他の一人の死について、です。 または、無知の悲しみ、です。 または、制限された知識の悲しみ、です。 私たちはみんな、これを経てゆきます。 地上に、これがなかった人間は、 唯の一人も、いないのです - 痛み、充足の欠如と、その悲しみ、 充足したいとの欲望、 どこかの所に根を持ちたいとの欲望と、それを見つけないことです。 一度もすてきな車に乗ってゆけない人、 村人。 あらゆる石の下、あらゆる人間に、悲しみが、あります。 で、あなたは、他の一人の人間より異なっていません。 で、あなたたちは、個々人ではありません。 そうです。これを呑み込んでください。 それは、呑み込むには、きつい薬です。 あなたはそれを、好きでないでしょう。 それで、あなたは、残りの人類です。 あなたは、人類です。 もし、あなたが、非道徳的であるなら、 あなたが、利己のせいで、腐敗しているなら、 あなたは、残りの人類の悲惨へ付け加えています。 これに同意しないでください。 それは、理論だけです。 が、あなたは、自分がいかに深く拭い去れるかを見るよう、取りかかるなら - 頭脳が、自らの利己を拭い去れるかどうかを、です。
1:11:38 利己は、最も欺瞞的なものの一つです。 なぜなら、それは、あらゆるものの下に、隠れられるからです - 政治に、宗教に、祈りに、供養に、儀式に、 それは、家族などに隠れられます。 それは、こうもずるく、欺瞞的です。 あなたは、その隠れた道すべてを、辿れません。 誰もできません。なぜなら、それは、はるかに微妙すぎるからです。 しかし、自己の本性とその利己を見る 重要性と切実さが、あるとき、 私が話していたところの知覚があるとき - すなわち、心理的に、内的に、物事をありのままに、見ることです。 逃げ去らないで、抑圧しないで、それを変質、合理化しないで、です。 あなたが、何の思考の動きもなく、そのものを観察するとき、 その真理の一瞥が、すべての利己を、拭い去るでしょう。

聴衆: 悲しみが、私たちみんなに、共通であるなら、
1:13:21 なぜ私たちは、また私たちみんなに共通である愛をも、持たないですか。
1:13:25 K: そのお方は、お訊きになります - 悲しみが、私たちみんなに共通であるなら、 なぜ私たちは、愛を持たないのですか - それもまた、私たちみんなに共通ですが、と。 私たちは、それを持っていません。 あなたは、自分の妻を愛していますか。 私は個人的に、あなたに訊ねていません。 あなたは、あの樹を愛していますか。 インドと、他のところで、彼らは、愛が何であるかを、知りません。 それは共通であると、仰らないでください。 あなたは、崇拝します。 あなたは、信心深い。 あなたは、寺院へ行きます。 あなたは、支払います - ティルパティには、寺院がありますが、 そこは、三日ごとに百万ドルを、得ます。 その残忍さを考えてみてください! あなたは、村の汚れを、直そう、取り除こうとしません。 で、私たちは、共通の愛を持っていません。 私たちは、心に愛を持っていません。 向き合ってください! それは、訊ねるには良い疑問ですが、それは、何の意味もありません。 あなたは、同情的で、親切であり、 おそらく、気前も良いかもしれません - 私はそれをも問いますが - 慈善をし、何か自分がもっと多く持っているものを、 他の一人へ、与えるかもしれません。 あなたが、もっとお金を持っているなら、それを誰かに与えます - その少しを、ですが、あなたはそれをも、しないでしょう! そして、あなたは、愛について話しますか。神様! その言葉を使わないでください。 あなたは、それを知りません。 あなたがそれを持っているなら、それは地上で、最も神聖なものです。 ああ、10時まで10分近くです。 9時まで10分?
1:15:47 何ですか。 ええ、9時まで10分です。 私たちは、進みますか。
1:15:52 聴衆: はい、進みましょう。

K: ええ、分かっています。 あなたは、私に進んでほしいと思います。 それは、或る種の催眠的な過程に、なります。 私たちが話していることは、きわめて深刻な事柄です。 きわめて、きわめて深刻です。 ただ反復し、反復し、反復するだけではない。 あなたは、レコードを持てます。あなたはテープ・レコーダーを持っています。 あなたは、眠りに就きたいのなら、それを、プレイにしてください。 しかし、あなたが本当に、これらの事柄について、真剣であるなら - あなたの心でもって、精神でもって、あなたの存在すべてでもって、です。 なぜなら、私たちは、世界の危機に、至りつつあるからです。 それについて、あなたは、気づいていません。 あらゆる宗教は、去り、終了してしまいました。もはや意味がありません。 あらゆる神格、神が、去り、終了してしまいました。 知的に、どの考える人物も、それらを拒絶します。 もはや道徳はありません。 世界中に腐敗が、あります。 この国では、それは、驚くほどで、衝撃的です。 私たちは、それに入りました。 利己があるところ、 それが政治家にあっても、司祭者に、でも、 あなたに、でも、知事や誰に、でも、です。 腐敗が、そこで始まります。 それが、腐敗の根なのです。 賄賂を渡すことと、その他すべてだけではない。 それは、症状です。 そして、戦争の脅威が、あります。 一つ、二つの国の間の戦争だけではない。地球的な戦争です。 世界全体が、これらの原爆により、破壊されるかもしれません。 あなたは、これらに気づいていません - これらに関与した無量の主題に、です。 誰か狂った政治家たちが、ボタンを押すかもしれなくて、 私たちはみんな、いなくなります。蒸発します。 その言葉がどういう意味かを、ご存じですか - 蒸発する。 あなたの何も、残っていない。 骨もなく、皮膚もなく、何もない。 私はそれに、入らないでしょう。
1:18:50 で、私たちは、世界のとてつもない状況に、向き合っています。 そして、私たちのような、わずかな人々が、いなければなりません - 私たちのわずかが、です。 私は、あなたたちのみんな、とは言いません。私たちのわずかが、です。 顔を北へ向けるのではなく、 どこか他の方向へ向ける人が、です。 よろしいです。