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MA8485T2 - 思考は人間たちに、安全を与えられるのか。
第2回公開講話
インド、マドラス(チェンナイ)
1985年1月4日



0:18 私たちがこのひどい所で、会合していることは、残念です。 あちらの木々の下のほうが、いい。 あなたが気になさらないことを、望みます。 私は気にします。
0:51 私たちは、前回会ったとき、止めたところから、継続しましょうか。 それは、前の日曜日でした。 前の土曜日でした。 すみません。 日曜日、あまりに多くの雨が降ったから、私たちは、去らなくてはなりませんでした。 私たちは少し戻って、土曜日に言ったことを、 見てみなくてはいけないと、思います。 私たちはともに、考えています。 語り手が考えていて、 あなたは考えていない、のではない。 ともに、私たちは考えています。 私たちの頭脳を、最高の水準まで、または、最高の能力まで、 行使しています。 また私たちは、前の土曜日にしたように、指摘したいと思います - 私たちは、どの種類の宣伝をもしていないことを、です。 私たちはあなたに、何をも説得しようとしていません。 反対に、 私たちは、ともに観察しようとしています - 思考の活動すべてと、 自分が送る生を、です。
2:46 観察すると、 私たちは、とても表面的な生、 かなり浅い生を、生きます - 様々な理由のために、です。 人口過剰、 乏しい職、 それは、常なる格闘です。 格闘は、私たちを、かなり表面的にします。 私たちを、浅くします。 私たちが指摘しましたように、 私たちは、様々な理論、様々な伝統の すばらしい足場を、築きます - 迷信と、それらを含めて、です。 この足場の裏に、私たちは、まったく建物を、持ちません。 私たちは、そもそも築きはじめません。 それは事実です。 私たちはともに、事実だけについて、議論しようとしています - 理論ではなく、理想ではなく、 何か私たちが想像するものではなく、 実際に、私たち自身の生を観察します。 あなたがそうしたいなら、です。 私たちは、すばらしい足場を、築いてきました - 大学、専門校、 学校、 幼稚園においてだけではなく、 私たちはまた、大変多くの知識を、築いてきました。 集めてきました - ほとんどあらゆる物事について、です。 大地、 空気の本質について、です。 私たちは、病気すべてを取り扱えます。 新しい心臓、人工心臓、 肝臓などを移植できます。 私たちは、ここ百万年か、五万年の間に、大変多くの情報を 取得してきました -外的に、世界についてだけではなく、 哲学者たち、 そして、心理へ少しの思考を、注いできた人たち、 心理学者などのように、ですが、 それらすべては、言語的な構造物に、留まります。 私たちにとって、それらは、自分の日常生活で、ほとんど意味がありません。
6:02 そして、私たちは、関心を持っています - もっと知識を取得することに、ではなく、むしろ、ともに、 ともに考えて、私たちの生を観察します。 私たちは、自分の生を、むだにしつつありますか。 どうぞ、これは、真剣な問いです - すなわち、私たちの一人一人が答えなければならないことです。 私たちは、浅い生、表面的な生を生きていますか - 私たちの生に、多くの意味なしに、です。 または、私たちは、宗教の些細なことすべてを、脇に置いたのですか - それらは、些細なことです - そして、民族主義的な制限された視点すべても、です。 私たちは、残りの世界、残りの人類について、 何か私たちより分離したものと、考えますか。 私たちは、そのように考えますか。 私たちは世界を、そのように見つめますか。 そのとき、私たちの生は、 私たちが、そのように狭く見つめるとき、 私たちの生は、きわめて個人主義的に、 狭くなり、制限され、かなり浅くなります。 なぜなら、私たちのみんなが、自分自身に、関心を持っているからです - 私たち自身の前進に、私たち自身の成功に、 私たち自身の宗教的な結論と達成に、です。 私たちみんなに、ものすごくたくさんの利己が、あります - 私たちが、高位の政治家であっても、 たくさんのお金を貯蓄しているだけの安っぽい導師であっても、です。 そして、私たちのみんなは、 真理や啓明を追求し、探求中ですが、 基本的に、これらすべての動きに、利己が、あります。 その利己は、覆い隠されているかもしれません。 または、その利己は、他の何かへ没入するかもしれません。 この利己は、神の名において、でも、 幻影・・・啓明の名において、でも - 幻影ではありません。私たちはそれらを、たくさん持っています。 いいですか? それが、私たち自身の特定の成功などであっても、 深い、長続きする利己が、私たちみんなに、あるのです。 私たちは、ふりをするかもしれません - 私たちは、真理を探し求めている、私たちは、啓明を得たいとか、 どう適切に生きるかを、見つけたいとか、ですが、 基本的に、内的に、 この利己の騒動が、あるのです。
10:03 どうぞ、私たちが言いましたように、 何にも、語り手と同意しないでください。 語り手が言うことは、何も価値がありません - あなた自身が、あなた自身を、そのとおりに、 理解するのでなければ、です。 この深い利己が、あるのかどうかを、です。 この利己は、全的な注意を、阻止します - 私たちは先日、それに入りました。 おそらく、私たちは、後でそれに入るかもしれません。
10:51 私たちは外的に、とてつもない世界を、築いてきました - 思考が、築いてきました。 大きな教会と、その中での儀式すべて、 寺院 - 古代の寺院、神殿と、 美しいモスクは、すべて思考の結果です。 その中での儀式すべては、思考により、組み立てられています。 ですね? どうぞ、語り手が言っていることを受け入れないでください。 あなた自身を問うてください。 これらの事実を、掘り下げてください - 思考が、創り出してきたことを、です。 民族主義的、宗教的な分割を、だけではなく、 また思考は、最も驚くべきテクノロジーの世界をも、創り出してきました。 彼らは、人工心臓を発明してきました - 人間たちに移植されるように、です。 大した、すばやい通信、 そうね、その他すべて、そして、コンピューター。 思考が、そのすべてをしてきました - 他の人たちとの協働において、です。 一人一人が、自立していて、ともに働きます。 あなたが、協働の疑問に入ったことがあるのかどうか、私は知りません。 自らが全的に自立していて、 自分自身で考えているのでなければ - 他の一人の権威を受け入れない。 特に、霊的な事柄においては、です - 私が、その「霊的」という言葉を、使っていいなら、です。 思考は、このすべてに責任があったのです。 それは事実です。
13:31 で、思考は、とてつもない仕事への能力が、あったのです - 大いなる絵画、大いなる彫像、大いなる発明へ、です。 また、思考はいつも、自分自身のために安全を、探し求めています。 ゆえに、それは、神を創り出してきました。 あなたがこれを、気に入らなそうなのは、知っていますが、 あなたは、これら事実を、見なくてはいけません。 それは、様々な種類の神を、創り出してきました - キリスト教、イスラム教の神と、ヒンドゥー教の神、 この国の、幾千ものそれら、です。 ともに、私たちは、考慮すべきです - なぜ思考は、こうもものすごく重要になったのか、 そして、思考はなぜ、テクノロジーの世界で、 計算できないほど、働いてきて、拡大してきたのか、です。 その思考自体は、「私は自分自身を理解しよう」と、言ってきました。 すなわち、思考は、「自分自身」を築き、組み立ててきました。 それに同意されますか。私たちは、ともに行っていますか。いいですか? 私たちは、ともに考えていますか。 または、私があなたに無理やり考えさせていますか。 または、私たちは、これについて、対話を行えますか。 対話は、二人の人々の間の会話を、意味しています - 仲良くて、友だちであり、 単に言語的な水準で、表現しているだけではなく、 彼らは、自分たち自身に、関心を持っています - 自分の妻に、夫に、 そして、人間の本性全体に、です。 彼らは、それについて、ともに話し合っています。 あなたと、語り手は、その地位にいます。 私たちは、ともに対話を行っています。ですね? これは、利巧な発言ではありません。 それは、そのようであるべきです。 それは、私たちがともにしなければならない、という意味です。 私は、ともに、というのです。 これらすべてのことについて、考えるのです。 あなたの意見や私の意見に沿って、とか、 あなたの視点に沿って、ではない。 または、あなたの先入観などに沿って、ではない。
16:45 ともに考えることが、とても重要です。 それは、私たちがどちらも、自由に探究できる、という意味です - 自由に、互いに質問できます。 仲良い形で、です。 弁証法的な事柄として、ではなく、 ともに、思考はどんな所を持っているのかと、 思考はどこで必要ないかを、見出すのです。ですね? 私たちは、それを探究しようとしています。 思考はどこで必要なのか、 そして、あなたが考えれば考えるほど、その方向に、もっと多くの エネルギー、活力があります- それが、テクノロジーの世界です。 そして、利己を築いてきた思考の本性を、観察する。ですね?
17:58 私たちのみんなに、安全が必要です - 生物的、物理的にも、また、内的な安全も、 私たちのみんなに、それが必要です。 それは、頭脳の切迫と要求です - それは、「頭脳が完全に安全であるとき、 私は、優秀に機能できるだけだ」と、言います。ですね? 私たちは、一緒にいますか。 どこに安全は、ありますか。 もちろんあなたは、住宅、フラットや小屋、家具として、 安全を持たなければなりません - あなたが家具やベッドを持つなら、です。 そして、わずかな衣服か、きわめて多くの衣服を、です。 そこで私たちは、安全を持たなければなりません。 さもないと、あなたと私は、ここに座っていないでしょう。 そして、頭脳はまた、こう言います - 「私は、外的に、物理的にだけではなく、 また内的にも、安全でなければならない」と。ですね? それが、あなたがほしいものなのでしょう。 安全への探求の中には、 安全を持たないことに関与した恐れもまた、あるのです。 ですね? それらはどちらも、相伴います。 これを理解されますか。 すなわち、私は安全がほしい。 私の頭脳は、自分が安全であることを、要求します。 それは、幻影を受け入れて、 その幻影が、それに安全の感覚を、与えるのか - ほとんどの人々は、そうします。 伝統での安全、古い信念での安全、 来る日も来る日も、同じ習慣を、続けていくことでの安全、 供養や儀式をすることでの安全 - 少し自分は聖なる感じが、します。
20:49 で、私たちはともに、究明し、対話、会話を、行わなくてはいけません - そもそも安全があるのかどうかを、見出すように、です、 質問を理解されますか。 安全への探求は、幻影なのかもしれません - 内的には、です。 理解されますか。 すなわち、私たちは、家族の中に、安全を見つけますね - 妻や夫と、住宅などを持っていたり、 海辺のあれら、汚い小屋の一つに住んでいたり、です。 私は、政治や政府について、話さないでしょう。 安全がありますか。 私たちは、安全がほしい。 私は、何かに関して、こうも長く働きました。 私は、老いようとしています。 私は、自分なりに確実でありたい、安定したいと思います - 死について、私の生について、私の家族について、です。 または、私は、僧侶、サンニャーシになって、 安全を見つけます。 または、去ってしまい、ヒマラヤに生活し、 自分が考えることに、自分の冥想に、安全を見つけます。 ですね? これらに付いてきておられますか。
22:56 で、思考は、人間たちに、安全を与える能力が、ありますか。 いいですか? 私が訊ねていることを、理解されますか。 思考は、一連の活動を組み立ててきました - それは、国家安全保障と呼ばれます。 思考は、この安全を分割してきました - アメリカ、ロシア、シナ、インドなどに所属することとして、です。 これに付いてきておられますか- 少なくとも、少しは、です。 安全への探求の中で、それは、分割を創り出してきました。 ゆえに、様々な国家、民族などの間に、葛藤、抗争を、です。 それは、分割の中、分離の中に、 葛藤、抗争があるにちがいないことを、悟ったことがありません。ですね? 私は、自分自身に話していますか。 理解されますか。 どうぞ、これを理解することが、重要です - 対話、会話として、です。 すなわち、分割、分離が、あるところ - フランス人、ドイツ人、それらとして、です - 必然的に葛藤が、あるにちがいないのです。それは、法則です。 あなたが、ヒンドゥー教徒であり、 インドと呼ばれる観念に、執着していて、 愛国的、それらの事柄になるかぎり、 他の者が、あるにちがいない -すなわち、イスラム教徒が、です。 彼もまた、自分の条件づけ、自分の宣伝、自分の信念を、持っています。 で、分割があるところ、あなたは、戦争を起こすでしょう - ロシアとアメリカやイギリス、その他すべての間に、です。 時の始まりから、それは、人類の歴史であったのです。 戦争は、私たちの遺産であったのです。ですね? 誰が、この分割を創り出しますか。 質問を理解されますか。 それは、思考ですか。 私は、あなたに訊ねています。 どうぞ、これは会話です。 世界を、国家、民族へ、分割してきたのは、思考ですか - 経済的な分割へ、様々な形の文化と、 宗教などへ、です。 それは思考ですか。
26:34 そのとき私たちは、訊ねなくてはいけません - あなたと私、語り手は、です。 思考の始まりは、何ですか。 考えることの実在性とは、何ですか。 その起源とは、何ですか。 どうぞ、ともに働いてください。 思考は、最もとてつもないことを、してきました。 それについて疑問は、ありません。 また思考は、最も悪魔的なことをも、してきました。 思考は、私たちのみんなにとって、こうも本質的ですが - なぜなら、語り手は、英語の語彙、蓄積された記憶を、持たないなら、 言葉を使えないだろうからです - で、思考は制限されています。 同意しないで、頷かないでください。 同意しないでください。 いつも同意して、頷かないでください。 あなたは、よく気をつけて、これを見つめなくてはいけません。 それを、あなた自身で理解しなくてはいけません。 語り手はただ、叙述でき、言葉に表せ、設計を描けるだけです。 あなたが、考え、見出し、疑い、 問い、訊ねなくてはいけません。 まったく同意するのではありません。 そうね、それは、人間として私たちの奇妙さの一つです - 私たちは、同意するのか、不同意するのか、です。 同意や不同意をする必要は、何ですか。 あなたは、何かを現実だと見るとき、 同意や不同意は、ありません。 そうなのです。 ですが、私たちは、何をも明らかに見ません。 私たちはみんな、かなり混乱しています。 この混乱の中から、同意と不同意が、生じますが、
29:05 もしもあなたと私は、あなたと語り手はきわめて明らかに、何かを見たなら、 同意のための必要は、ありません。そうなのです。 ビヤン? 理解されますか。 どうぞ、これを理解してください。 これは重要です。 それに入ってください。 ここは、暑いですね? いえ、団扇を拾わないでください。 そうね、この基礎に立って- 同意と不同意ですが - いつも、分割があり、ゆえに葛藤、抗争があります。 私はあなたに同意する、私は彼に同意しない、とか、 私はこれに従う、あなたはあれに従わない、 私は、これを選択する、あなたは、あれを選択しない。 理解されますか。この常なる分割、同意と不同意、です。 あなたと私は、これがマイクロフォンであることに、 けっして不同意しないでしょう。 私たちは、聞かされてきました - 電気の専門家により組み立てられて、 それはマイクロフォンと呼ばれるでしょう。 そして私たちは、それはマイクロフォンだと、言います。 不同意はありません。 あなたがそれを、キリンと呼びたいのなら、呼んでもいいが、 誰も、このものがキリンであることを、理解しないでしょう。 彼らは、キリンの写真を持っています。 彼らは、本の中で見たことがあります。 だから、意思疎通がありません。 ですが、あなたと語り手が、同じものを見て、 「あれはマイクロフォンだ」と言うとき、意思疎通が、あります。 それへの知覚、それを見ることは、 同意や不同意を、要求したり、求めたりしません。 あなたはその方向へ、進んでゆけるのかどうかと、思われます。 なぜなら、語り手は、あなたに何をも、説得しようとしていないし、 また、あなたに、語り手に同意するよう感じさせようともしていないからです。 語り手がしているすべては、 実際に進んでいることを、叙述することです - 外面的にだけではなく、内的にも、です。 彼は、あなたの鏡です。 鏡は、何の権威をも、持っていません。 鏡は、あなたの導師ではありません。ですね? これらが、お分かりになるのかどうかと、思われます。 それは、鏡です。 あなたは、物事を、きわめて明らかに見はじめるとき、 その鏡をすっかり投げ捨てられ、それを破壊できます。
32:26 で、これは、人格や個人の崇拝ではありません。 語り手にとって、それは、忌々しいものです - 或る人物を、何かとてつもないものに、することは、です。 が、むしろ、ともに考える、ともに対話、会話を行う - 可能なだけ深く、です。 お天気についての表面的な会話ではなく、 私たちの心と頭脳に触れる会話を、です。 で、私たちは、訊ねています - 誰が世界に、このすべての分割を創り出してきましたか - そして、良いものと悪いもの、 私たちの中のこの二元性を、です。 誰が、これをもたらしてきましたか。 それは、思考ではないですか。 そして、思考は制限されていませんか。 思考は、自らが無限であることを、想像できます。 それは、無限の、際限なき地平線、水平線を、投影できますが、 思考自体は、制限されているので、 それが何を投影しても、それが何をしても、 やはり制限されています。 ゆえに、葛藤を生み育てています。 私たちは、気をつけて、これに入らなければなりません。 私たちは、葛藤とともに生きるからです。 妻と夫の間の葛藤、隣人との葛藤、 イスラム教徒とヒンドゥー教徒の間の葛藤 - 私の生すべては・・・始まりから私たちが死ぬまで、 この永続的に格闘が、あります - 冥想するため、どう冥想するのか、冥想でどう適切に座るのか。 そうね、その事柄全体です。
35:09 葛藤は、必要ですか。 そして、唯一つの葛藤もなく、生きられますか - それは、まったく問題を持たない、という意味です。 なぜ私たちは、問題を持っていますか。 宗教的な問題、社会的な問題、 私たちの、他の人たちとの関係での問題 - 親密なそれの、などです。 私たちは、いつも問題を、持っています。 唯一つの問題もなく、生を、生きられますか。 あなたは、その質問をしたことが、ありますか。 あなたは、それを訊ねているなら- 訊ねなければなりません - それが可能であるのかどうかを、どのように、見出すのでしょうか。 それが可能であることを、当たり前だと取ったり、 それは不可能である、と言ったりするのではなく、 問題が何であるかと、唯一つのその影もなく、 あなたが生きられるのかどうかを、自分自身で見出すのです。 あなたは、それに入りたいと思うでしょうか。
36:45 私たちの頭脳は、大変とてつもない器具ですし、 無量の能力を持っていて、 最も驚異的に微妙なことの能力を、持っていますが、 その頭脳は、諸問題で、こうも混雑しています。 なぜですか。 どうぞ、見出してください。 なぜかを、自分自身に問うてください。 「問題」(プロブレム)というその言葉の意味は、 語源的に、何か自分へ投げつけられたもの、という意味です。 問題は、挑戦を意味しています。 そして、頭脳は、 生まれた瞬間から、死ぬまで、 問題を持っています。 それは、字を書けません。 教師と、気の毒な親と、他の人たちが、 その子に、書き方を教えます。 子どもにとって、それは問題になります。ですね? これらを理解されますか。 で、子ども時代から、大学をとおして - あなたが運悪くか、運良く、あの機構を、通って行くなら、です - あなたの頭脳は、問題を持つよう、教育されます。ですね? それへ同意されますか - 同意ではない。 すみません。 あなたは、それの事実が、見えますか - すなわち、あらゆる人間が、問題を持つよう、教育されるのです。 問題を持つことへ教育される頭脳を、持っているので、 それはけっして、どの問題をも解決できません。ですね? なぜなら、それは、そのように条件づけられているからです。 それは、政治的に、宗教的になど、観察できます。 その条件づけは、 問題を持つよう、訓練されてきたことなのですが、 その頭脳は、問題すべてより、自由でありえますか - 宗教的、経済的、社会的、などのと、関係の問題より、です。 質問を理解されますか。 私が問題を持っていて、私の頭脳がそれに条件づけられているなら、 私はどうして、問題を解決できますか。 ですね? 私は、部分的に、一つを解決できて、 それにより、他のものを、二つか三つ、創り出します - 政治的に、宗教的に、です。 よろしいですか? これが、世界で起きつつあることです。
40:14 で、私は、訊ねています。あなたは、あなた自身に訊ねています - 絶対的に自由であり、それで、あなたが自由に、 問題に出会えることは、可能であるのかどうか、です。 問題へ条件づけられている頭脳でもって、ではない。ですね? 私たちは、幾らか、互いに出会っていますか。 私たちは、これに入るでしょう。 私たちは、なぜかを訊ねています - そして、誰が、この分割を、創り出してきたのかを、です。 すなわち問題を創り出すものを、です。 私たちは、思考、と言いました。 なぜなら、思考は制限されているからです。 私たちはまた、こう言いました - 記憶は、頭脳に蓄えられている。 その記憶は、思考である、と。 ですね? 記憶は、知識であり、 その知識は、けっして完全ではありえません。 科学的な知識でも、 あなた自身を含めて、何についての知識でも、 それは、けっして完全ではありえません。 いつも、もっと発見すべきこと、理解すべきこと、 見出すべきことが何か、あるのです。 で、知識は過去です。 未来における知識もまた、それはいつも、制限されるでしょう。 これは明らかですか。 知識は、経験の結果です。 ですね? 経験 - それは、いつも制限されています。 その経験の中からの知識もまた、制限されています。 そのとき、記憶は、頭脳の中に蓄えられて、 その記憶が、応答します。 記憶が、思考です。 それは、同意や不同意の問いではありません。そうなのです。 私たちの頭脳は、記憶に満ちています。 すなわち、私たちの頭脳は、記録しています。 テープレコーダーのように、それは、記録しています。ですね? これらに付いてきておられますか。 それで、 頭脳は、次第にか、急速に、機械的になりつつあります。 テクノロジーの世界において、ではありません - それは、とてつもないものを、発明してきました。 コンピューターのように、です。 私は、コンピューターの事柄に、入らないでしょう。 私はそれについて、あなたに、少し語りましょう。 コンピューターは、プログラムされています。 熟達者により、プログラムされています。 数学者、トップの数学者である人が、プログラムできます。 それは、他の人たちに数学を、教えられます。 私たちの頭脳もまた、プログラムされています。 ですね? あなたは、ヒンドゥー教徒です。私は、仏教徒です。 私は、チベットの冥想法に従う、などです。
44:27 コンピューターがプログラムされるように私たちは、プログラムされます。 あなたは、アメリカ人、イギリス人、その他すべてですね。 今は、それらへ入る瞬間ではありません。 コンピューターは、こうも急速に発達しつつあるので、 ほとんど何でも、できます。 そして、人間の頭脳には、何が起きようとしていますか。 人間の頭脳がしてきていることを、 コンピューターが、たくさんできるとき、 人間として私たちには、何が起きますか。 頭脳を行使する中で、頭脳は活動的になります - もっともっともっと、です。 が、頭脳が活動的でなくて、 次第に、その機器が、引き継ごうとしているなら、 私たちは、萎れようとしているのか、あるいは、 娯楽の世界に入るのか、です。 ですね? これらを理解されますか。 これらに、興味がありますか。
45:54 頭脳は、大きな娯楽に関与するであろうか - それは、娯楽をほしがります。 なぜなら、テクノロジーの世界で、他の世界で、 それは、多くをできないからですが、 それで、頭脳は次第に、萎れ、 娯楽に関与し、楽しむでしょう。 スポーツにより、宗教的な儀式により - それは今、ますます起きつつあります - あるいは、他の可能性だけがあるのか、です。 心理的な世界へ、入る - 心理を越え、制限された利己を越えている世界へ、 その中へ、大変深遠に入るのです。 さて、思考は、これらをできますか。 理解されますか。 思考は、コンピューターを創り出してきました。 それは、ロボットを使って、車を製造するでしょう。 大量の失業などなどなどが、あるでしょう。 で、思考は、いつも制限されているので、 そして、それは、見たところ、私たちが持っている、ただ一つの器具です。 あなたは、こう言うかもしれません - 感情、情動、情緒については、どうか、と。 そのすべてもまた、思考の部分ではないですか。 いいえ? 私は、自分の導師を、熱愛しています。 または、寺院の或る偶像を、です。 寺院の中の偶像は、思考により創り出されています。 私の導師は - 私がそれを持っているなら、です。 幸運にも、私は何も持っていません - 私はそれを持っているなら、 思考が、彼に、大変多くの属性を、与えてきました - 彼は知っている。私は知らない。 私は、助かるだろう、と。 それが、導師たちの災いの一つです- 他の人たちを助けたがるのです。 あなたは、これらを聞きますか - 私に何かを投げつけずに、です。 なぜなら、私たちはみんな、助けてほしいからです。 私たちは、助けられてきました - 外科医と医師などによって、だけではなく、 私たちは、助けられてきました- 哲学者により、 いにしえの書物により、 バイブル、コーラン、ウパニシャッドにより、 または、あなたの特定の宗教書が何であっても、です。 または、あなたの導師や、地元のパンディット(学識者)でも、 あなたたちはみんな、助けてほしいのです。 私は、問題を持っています。 私は、助けてほしい。 私は、あなたへ行きます。 あなたのほうが、私より、はるかによく知っています。 私は、あなたに服従します。
49:42 で、私が助けられつつあるとき、 私には、何が起きつつありますか- 実際に、です。 私は、ますます弱くなりつつありますね - 精神的に、道徳的に、です。 私はただ従い、服従するだけです。 私は、機械になります。 まったく自立は、ありません。 私はけっして、問い、疑わない。 懐疑的ではない。 あなたが懐疑的であり、疑い、問うなら、宗教は存在しないでしょう。
50:29 で、私たちは今、探究しています。 ともに話し合っています - 思考は制限されていて、それが、テクノロジーの世界や 心理の世界において、何をしようとも - 「私は自分自身を理解しなければならない。 自分自身を知らなければならない」と、です - そのとき、思考は、究明しはじめます。 その究明こそが、制限されます。 なぜなら、思考は、制限されているからです。 ですね? これらに付いてきておられますか。 で、私たちは、訊ねています - それが、私たちが持っている、ただ一つの器具であるなら、 そして、私たちが、事実を見るなら、実際に観察するなら - 同意や不同意をするのではなく、実際に事実を見る。 すなわち、思考が何をしようと、いつも制限されるし、 ゆえに、葛藤であるにちがいないことを、です。 葛藤があります。なぜなら、私たちは二元性を、持っているからです - 善いものと悪いもの、です。 少しそれらに付いてきてくださるでしょうか - 興味がおありなら、です。 古代の日々より、これが、葛藤であったのです - 善いものと悪いものとの間で、です。 善いものが、悪いものに打ち勝とうとしています。 悪いものは、善いものに打ち勝とうとしています。 善いものは、千の違った形で表現されるし、 悪いものは、千の違った形で、です - 邪悪などなどなどと、呼ばれます。 さて- どうぞ、聞いてください - まったく二元性を持たないことは、可能ですか。 質問を理解されますか。 それを見出す - 理論的にではなく、切実に、です。 そもそも二元性が、ありますか。 いいですか?私たちは、問うています。
52:58 恐れは、事実です - すべての人間にとって、です。 暴力が事実であるように、です。 そして、恐れの対極は、勇気です。 または、逃避です。または、それを乗り切ろうとする。ですね? で、二元性が、ある。 事実と、非事実。 それがお分かりになるのかどうかと、思われます。 事実は、恐れです。 非事実は、「私は恐れるべきではない」です。 ゆえに、抑圧、葛藤と、それらが、生じます - 暴力と非暴力の間に、です。 非暴力は、事実ではありません。 それはただ、思考の創案物だけです - 「私は、非暴力に至らなければならない」と言って、です。 その間、それは暴力的でいつづけます。ですね? で、私は、私自身に訊ねています。 あなたは、あなた自身に訊ねています。 そもそも対極は、ありますか。 男、女、闇、光、 高い、低い、測量以外に、です。 それを別として、心理的に、そもそも二元性が、ありますか。 あらゆる種類の哲学者が、いて、こう言ってきたのです - 二元性がないとき、あなたが天国や何らかのものに至ったとき、 あなたは、あの水準に至られるだけだ、と。 それについて書かれてきた書物が、たくさんありますが、 私たちは、これらの事柄において、権威すべてを、脇に押しやって、 探究しています - そもそも二元性が、ありますか。 または、事実だけですか。 事実は、私が恐れているということです。 頭脳は、それをどう取り扱うのか、恐れよりどう自由であるのかを、 知るなら、何も対極は、ありません。ですね? これを理解されるのかどうかと思われます。よろしいですか。 もし私に、暴力がまるで、ないのなら - なぜなら、私は暴力の本性を、理解するからです。 私は、それを見つめてきました。 私は、それを保ってきました。 それを観察してきました。 私は、それに入ってきました。 それが何なのかを、見てきました。 物理的な暴力だけではなく、心理的な暴力も、です - 「私は、そうであってはならない。 私は、そうでなければならない」と。 そして、模倣、順応、怒り、嫉妬、憎しみ。それは、すべて暴力です。 私はそれを理解でき、それを取り扱えるなら、 対極はありません。 私に、対極は要りません。 私が言っていることを、理解されますか。よろしいですか?
56:10 さて、私は、それを取り扱えますか。 それを延期するのでなく、即座に、です。 私がそれを延期するとき、私はすでに、葛藤に入っています。 これを理解されるのかどうかと、思われます。 何を、私が延期しても、です。 もし私が、「私は自分の怒りを乗り切ろう。私に時間をくれ。 次第にそうしよう」と言うなら、 私はすでに、葛藤を創り出したのです。 これを理解されるのかどうかと、思われます。 いいですか? 私たちはここを、一緒に行きますか。 で、私は、私の頭脳は、私が何であるかの事実を、 取り扱えますか - 私が何であるべきか、ではなくて、です。 そして、恐れが、あります。 私はそれを、完全に取り扱えますか。 「私は次第に、恐れを取り除こう」、 「恐れをどう取り除くかを、教えてくれ」と言うのではありません。 けっして、訊ねないでください- 私たちが先日言ったように、です - 何でも心理的なことを、どうするのかを、です。 あなたは、医師に、あれとこれをどうするかを、訊ねられますが、 心理的にけっして、どうするかを訊ねないでください。 何をすべきかを、あなたに語るだろう人々が、千人、いるでしょう。 さて、私は恐れより、自由でありえますか - 完全に、です。 私はそれに入るでしょうが、 あなたは、私とともに、それに入ろうとしています - ただ聞いて、「それは、抜群な叙述だな。 私はそれをどうするかを、知らない。 それについて考えてみよう」と言うだけではありません。 今、私たちは、恐れを見つめています - 恐れの対象を、ではありません。 また、恐れの原因、結果を、ではありません。ですね? あなたは、闇を恐れているかもしれません。 自分の妻や夫を恐れているかもしれません。 職を失うのを恐れているか、 世論を恐れているか、 ありのままの自分自身に、向き合えないのを、恐れているかもしれません。 「私はこれをできる」と言って、取りすがりますが、 あなたはけっして、それをできません。よろしいですか - 様々な形の恐れ、です。 私たちは、様々な形を取り扱っていません ですね?私たちは、一緒にいますか。 恐れの対象ではない。 恐れの因果が何であるかを、 私たち自身で、見出すのです- 原因を、です。 原因があるところ、結果は、片付けられます。 私が、原因を理解するなら、結果は、何の意味もありません。 理解されますか。 私は、自分の病気の原因を見出せるなら、 私は健康になるでしょう。 で、私は、恐れの原因を、見出せるなら - 恐れの多様な形を、ではなく、 恐れの原因を、です。 で、ともに、それを究明しましょう。 それについて、話しましょう。 同意や不同意をするのではありません。
1:00:07 それは、時ですか - 原因は。 時が、恐れの要因ですか。 私は明日、死ぬかもしれない - 明日は、時です。 私は、職を失うかもしれない、 私は、妻を愛さないかもしれない、 妻は、私に怒るだろう、などと。 すなわち、時は、恐れの原因として、関与しています。 私たちは、それが見えますか。 よろしいですか? 私はお訊きしています - あなたは、実際に自分自身で、事実を知覚しますか。 観念ではなく、事実を、です。 観念は、事実より異なっています。ですね? 観念は、事実ではありません。 あなたは、そこに座っています。 語り手は、ここに座っています。 それは事実です。 が、私たちは、それを観念にできます。 で、観念は、事実ではありません。ですね? 「ドア」という言葉は ドアではないように、です。 で、私たちは、恐れをもたらす事実を、見つめているだけです。 ですね?私たちは言っています。 あなたと私は、ともに私たちの会話の中で - 互いに説得しているのではない - 時が恐れの要因であることを、見る。 ですね? 私は昨年、何か間違ったことを、してきました。 私は、誰もそれを発見しないだろうことを、望みます。 なぜなら、私は、一定の評判を持っているからです。ですね? 彼らは、それを見出すなら、私を放り出すだろう。 だから、私はそれを隠そう、と。 ゆえに、それが、恐れの原因です- すなわち、時ですね。 私は過去に、何かをしてきましたが、 それは、私に、面倒を引き起こすかもしれません。 ゆえに、私は、その出来事を恐れています - それは、時を意味しています。 時は、動きです。 一連の動きです。
1:02:54 これらに、興味がありますか。 または、あなたは、語り手がこれについて 果てしなく話すのを、聞いてきましたか。 ゆえに、それに退屈していますか。 私は、進みましょう。退屈なさっているなら、それは、あなたしだいです。
1:03:14 で、時は、要因です。 そして、時は何ですか。 私は、時計によって、時を知ります。 私は、日の出、日の入りにより、時を知ります - 宵の明星、 美しい細長い、新しい月と、 満月。 時は、過去です。 時は、今です。 時は、明日です。 過去のこの動き全体- すなわち、時をとおし、 経験、知識などをとおして、蓄積された記憶。 そのすべての蓄積が、時です。 記憶、知識としてのその蓄積は、 現在を経てゆき、それ自体を修正し、 未来へ進んでいきます。 知識、経験、記憶と思考の、 この動き全体が、時の中の動きです。 いいですか。 ですね? で、時は、始まりから終わりまでのこの動きだけではありません。 また、時は今です。 なぜなら、明日は、今日の私なるものであるからです。ですね? 明日は、今日の実際の私なるものです。 今日、私は怒っていて、暴力的であるなら、 根本的、根源的な変化がないのなら、 明日、私は、やはり同じになるでしょう。よろしいですね? みなさんは、悩んだように見えます。 で、それが時です。 私は、変化の問いへ入らないでしょう。 それは、大変多くの究明を、要求します。 私は、当面、そうしたくありません。
1:05:43 で、恐れは、時です。 恐れは、また思考です。 私は、職を失うかもしれない。 私は、妻を失うかもしれない - 彼女は、他の誰かを見つめている。 私は天国に行けないかもしれない、などと。 思考は、過去、現在、未来の動きです。 で、思考と時は、ともに・・・それらは、どちらも動きです。 ともに、恐れの原因です。 ですね?
1:06:35 そのとき、問いが生じます - 思考と時を止めることは、可能ですか。 ですね?それは、通常の問いです。 恐れが、原因の成果か効果であるなら - 時と思考の、です - そのとき、思考と時を止めることは、可能ですか。 さもないと、私は、恐れとともに行くでしょう。 ですね? 私たちは、これに出会いますか。 私たちは少し、一緒にいますか。 少し、すばやく旅を行いましょう。 私は、何をするのでしょうか。 私は、原因が分かります。 私は、結果もまた分かります。 結果は、恐れです。 原因は、時と思考です。 思考と時が、片付けられてしまうなら、私は恐れを持ちません。 そのとき、自分に、神は要りません。 導師は要りません。 思考からの自由が、あるとき、あなたは、全然違っています。 で、私たちは、自分自身に訊ねます。 時と思考を止めることは、可能ですか。 それが、冥想のすることです。ですね? あなたは、冥想をとおして、思考を制御したいと、望みます - それにより、それを後に押しやりたい、 それを制御したい、と。 誰が制御者であるかを、けっして探究しないで、です。 それもまた、思考です。 私は、当面、それらに入らないでしょう。 思考と時を終わらせることは、可能ですか。 それにお答えください。 働いてください。 私たちの頭脳は、こうも、だらしない。 私たちは、こうも怠けて、怠惰になったのです。 なぜなら、私たちは、こうも多くのことを、言われてきたからです。 私たちは、自分たちがどこにいるかを、知りません。 で、ここで、私たちが会話の中で、しようとしていることは、 事実を見て、事実とともに生きることです。 事実より逃避するのではない。 事実は、私は恐れている。 私たちは恐れているのです - 私たちの一人一人が、違った形で、です。 恐れがあるし、私たちは原因を知っています。 絶対的な事実が、あります。 すなわち、時と思考が、恐れの因果作用です。 また私たちは、原因の終わりがあるところ、 結果が全的に終わったことが、分かります。理解されますか
1:10:17 私は、自分の病気が何であるかを、知るなら、 私は、一定の治療薬を摂られるし、それで、それは終わりです。 同様に、私たちは、原因を知ります。 結果は恐れです。 さて、私は何をするのでしょうか。 私がそれに答えるのを、待たないでください。 これは、私たちの間の会話です。 あなたは、どのように原因を観察しますか。 あなたは、どのように原因を発見しますか。 言ってもらうことや、 それを叙述し、言葉に表してもらうことによって、ではない。 事実を見出す - 事実についての観念を、ではない。ですね? どうぞ、これを見てください。 事実についての観念、結論を、ではない。 事実は、時と思考です。 全的にそれらを終わらせることは、可能ですか。 頭脳の進化が、 百万年を掛けてきたのを、知って、です。 あなたの頭脳は、時をとおして、進化してきました。 その長い持続、 長い時の航行をとおして、 それは、一定の条件づけを、集めてきました - すなわち、思考が恐れを解決するだろう、 恐れから逃避するために、思考が、何かをするだろう、と。 供養をする。逃避する。よろしいですか。あらゆる形の逃避です。 すべての逃避は、止まってしまいました。 なぜなら、あなたは、原因を知るからです。 ゆえにあなたは、原因を、何とかしなくてはいけません。 その原因が、根絶されないなら、 あなたはいつも、恐れとともに生きるでしょう - 心理的に、です。 生物的、物理的により、心理的にのほうが、はるかに重要です。 なぜなら、心理的な状態が、いつも生物的な状態に、打ち勝つからです。 私は、それに入らないでしょう。 時間が残っていません。
1:13:22 さて、あなたは真剣に、自分自身に、その質問をしますか。 または、それはただ、過ぎさる疑問だけですか。 あなたは今日、その質問をしますが、翌日、それについて忘れます。 明後日、それを取り上げます。 または、あなたは、大変真剣に、その質問をしますか - あなたの強烈さすべてでもって、 あなたの熱情でもって、です。 それは、こういう意味です- あなたは進んで、原因へ、 自らの完全な熱情的な注意を、注ごうとしていますか。 質問を理解されますか。 または、あなたは、ただ聞いて、自分の恐れを、続けていくだけですか。 あなたがその質問をするなら - 深遠に、真剣に、です - 見出すように、あなたの心と精神と熱情すべてでもって、その質問をする。 それは、あなたのエネルギー、活力、注意すべてを、 それに注ぐ、という意味です。 あなたが、自分のエネルギーすべてを、注ぐとき - あなたは、それを、むだにしてきました- それから逃避しようとする中か、 代替物を見つけようとするか、恐れを合理化する中で、です。 が、あなたが、そのすべてを、完全に落としてしまうなら、 恐れからの逃避は、ありません。 神も、他の人間も、恐れから自由であるよう、あなたを助けられません。 あなたが本当に、それを問うなら - あなたのすべてのエネルギー、強さ、活力をもち、 特に、何かを了解したいとの熱情をもって、です。すなわち、 幾千年に幾千年もの間、人類がともに生きてきたもの、恐れを、です。 そのときあなたは、その熱情的な、燃え立つ注意を、原因へ注いでいます。 あなたが、そういう燃えさかる注意を、注ぐとき、 原因は、燃え尽きてしまいます。 ですが、ほとんどの人々は - 私たちは、失望させていません - ほとんどの人々は、こうしません。 彼らは、すべきことを、こうも多く、持っています - 家族、夫、子ども、お金を稼ぐことなど、です。 それは、大変多くのエネルギーが、掛かります - それらは、です。 で、あなたは、こう言います - 「すみません。私はエネルギーを持っていません。 私がそのエネルギーを持つよう、助けてください」と。 助けを求める代わりに、薬物を摂る。 私は、薬物を提唱していません。 それらは、恐怖です。
1:17:24 で、熱情は、欲情より全然違った何かです。 欲情は、感受、性欲です。 私たちは、それに反対していません。 私たちは、指摘しています。 ですが、熱情は、全然違った何かです。 その熱情は、ものすごいエネルギーと能力すべてをもって、来ます - 悲しみが終わるとき、です。 あなたの心や精神、頭脳に、悲しみが、ないとき - それは、利己の一部です - それが終わることが、あるとき、 大いなる、無量の、無尽の熱情が、あるのです。 それはけっして、燃え尽きえません。 その熱情は - すなわち、注意ですが - 恐れの原因を、燃やし尽くします。 すなわち、時と思考を、です。
1:18:57 私たちは、他の多くのことについて、話をすべきです。 今、7時まで15分です。 私たちはつづけるべきですか。 あなたたちは、何について話したいのでしょうか。 あなたの深い興味は、何ですか。 あなたは、自分自身に何を要求しますか - お金を稼ぐことは、別として、それらの事柄は、別として、 各々の人間がほしいのは、何ですか。 あなたは、何かがほしい。 さもないと、あなたはここにいて、Kに聞いていないでしょう。 誰かは、あくびをしています。 疲れています。 ベッドへ行きなさい。 誰があくびをしているのでも、お休みなさい。 しかし、私たちは、何かきわめて深刻なことを、訊ねています。 あなたが、「私は何かがほしい」と、言うとき、 ほしがることは、自己の中の空っぽを、充足させることです。 私は、幸せになりたい。 私は、涅槃や解脱や解放や啓明に、至りたい。 ほしがることは、何か欠けているものがあることを、意味しています。 あなたは、何が欠けていますか。 その空っぽ、そのさびしさは、けっして満たされない、ということですか。 ですが、私たちは、それを満たそうとしています - 供養でもって、 書物でもって、知識でもって、おしゃべりでもって、 政治について果てしなく話すことでもって、 そうね、全部です。 私たちは、自分がいかに、とてつもなく浅いのかを、悟りますか。 私たちが浅いのを、悟って、私は、深さを持ちたいと思います。 で、私たちはいつも、ほしがり、ほしがり、ほしがっています。 愛されたいと思い、励まされたいと思い、 長続きする仲間になるだろう誰かを、見つけたいと思います。 このほしがりは、果てしない。 あなたは、一つのほしがりを、満たしたなら、 何か他のほしいものを、ほしがります。 それがつづきます - 余生の間、です。 私は、知りたい、自分は、知りたいと思います - 死の後、何が起きるかを、です。 それは、いつの時も、問われた疑問の一つです。 私たちは、明日と明後日、それに入るでしょう - ここで、ではなく、他の所で、と望みます。
1:23:04 あなたは、ほしがるのを、いったい止められますか。 あなたは、自分自身のために、根を見つけたいと思いますね - 或る国に、或る人物に、或るイメージに、或る幻影に、 あなたは、自分の根を確立したいと思います。 そして、あなたは、充足したい、何者かになりたいと思います。 これは、私たちの生涯、進んでいきます。 あなたは、自分自身に訊ねたことが、ありますか - 私は何一つ、ほしくない、と。 私は、衣食住がほしい。 それは、理解されますが、 その他では、私は、何一つ、ほしくありません。 あなたは、それを訊ねたことが、ありますか。 あなたはそうすべきだと、私は思います。 私が大変尊敬をこめて、ご提案していいなら、 あなたは、その質問をすべきです。 なぜなら、あなたは、自分のほしがるのを、発見する中で、 なぜ自分がほしがるのかをもまた、発見しなければならないからです。 そして、渇望すべてに、ほしがることに 終わることがあるのかどうかを、です。 あなたは、それを見出すとき - あなたは、自分自身のために、何をも求めないことを、です - そのとき、あなたは、至った・・・そのとき、 叙述不可能な状態が、あるのです。 あなたが、叙述を待っているのを、私は知っています。 その叙述は、無益です。 それは単に、言葉です。 ですが、その点に来る。 それは、長い旅ではありません。 それは、最も短い旅です。 次の一歩です。 それは、心理的に何をもほしがらないことです。 よろしいです。