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MA8485T3 - 熱情なしの生の浅さ
第3回公開講話
インド、マドラス(チェンナイ)
1985年1月5日



0:21 これは、私が望んでいたのより、はるかに良い - 樹々の下に座り、 真剣なことについて、話すことは、です。 私たちが話していることへ、 同等に興味をもつ一団の人々と、です。
0:49 私たちは、昨日止めたところから、進んでいいですか。 ほぼ満月が、あります。 これらすべての物事に、注目なさるのかどうかと、思われます - 満月と、日の入り、 雲の豊かさと、 浜辺に寄せる波の美しさと、 世の中のすべての響き、雑音に、です。 たぶん私たちは、注目しません。 私たちは、自分の問題に、あまりに占有されすぎています - または、おしゃべりに、です。 または、世の中の物事に、あまりに関心を持ちすぎています。 または、世の中の、他の物事に、あまりに関心を持ちすぎています。 私は思うのですが、私たちは、よろしければ、 昨日の晩に話していたことを、継続すべきです。 私たちは、葛藤について話していました - 問題と、 恐れについて、です。 それがどんなに重要なのかを、悟るのかどうかと、思われます - どんなに本質的なのか、 どんなに葛藤が、頭脳を損傷するかを、です。 私たちの頭脳は、損傷しています - 葛藤により、 生きることの事実を理解しないことにより、 あらゆる種類の迷信、イデオロギーと、 二元性の葛藤によって、です。 で、私たちは、その主題に入ってもいいですか。
4:05 頭脳を持つことは・・・ なぜなら、私たちは、頭脳により生きるからです。 頭脳は、私たちの応答と反応すべての中心です。 語り手は、頭脳に関して、専門家ではありませんが、 自分の頭脳とその活動を、観察できます。 頭脳は、行為、反応(作用、反作用)の中心、 思考、感情の動きすべて、 神経の応答の中心です。 それは、私たちの意識の中心です - 私たちの恐れ、私たちの心配、私たちの悲しみ、 実際にあるものより違った何かへの、私たちのあこがれの、です。 この常なる占有 - 頭脳が静かであるときは、一瞬もありません。 どの形でも、この葛藤は、頭脳を、損傷するのです。 頭脳は、私たちの意識の中心です。 そのとおりです。それは、語り手が差し出している理論ではありません。 それは、私たち行為すべて、 私たちの感情、 私たちの想像、 私たちの情緒すべての中心です - それが、ロマンチックなどであっても、です。 この頭脳は意識を、保有しているか、中に持っています。 私たちの意識は、私たちがそれから作ってきたものです。
6:43 もう一度、ご注意を申し上げてもいいですか - 私たちはともに、いろいろと話し合っているのです。 二人の友人として、小道を歩いてゆきます - 多くの木陰と、木漏れ日があり、 ベンチに座り、これらについて、話しています。 彼らは友人です。ゆえに、彼らは、論争していたり、 お互いに何らかのことを説得しようとしたりしていません。 友だちはけっして、そうしません。 論争は、ありません。 受け入れや拒否も、 同意や不同意も、です。 で、私たちは、語り手とあなたは、 ともに考えています。 ただ聞いているだけではありません。 聞くことは、大いに重要です - どう聞くのかが、です。 耳で聞こえることで、だけではなく、 また、言葉の意味、意義、 深みを、聞く。 あなたは、そう深く聞くとき、 言われていることを、自分の用語法に応じて 翻訳していません。 または、言われつつあることを、あなたがすでに知っていることに、 翻訳したり、比較したりしていません。 あなたは実際に、聞いています。 それで、あなたは、 言われていることの意義、深さを、捉えます。 それは、あなたは、語り手だけではなく、 また、はるかに、あなた自身をも、聞いている、という意味です。 あなた自身の反応を見つめている - あなたはどう聞くのか、 あなたは本当に聞いているのか、 または、聞いていることを、 自分の夢想、想像に応じて翻訳しているのか、です。 または、自分の特定の経験と知識に応じて、です。 そのすべてが、実際に聞くことを、阻止します。
9:40 あなたは、偉大な音楽を聞いているなら、 そして、あなたがそれを、他の偉大な音楽家と比較しているなら、 あなたは実際に、その特定の音楽を、聞いていません。 で、同様に、 実際に、自分の心でもって、聞いているなら、 - それは、情緒性を、意味しません。 それは、或る種の情動的な混沌を、意味しません。 実際に聞く。 そして、二人の友だちが、互いに聞き合っているように、 その聞く性質の中で、 彼らは、互いに訊ねています - 頭脳は、私たちの生の中心ですが、 それが、負傷しないこと、 どんな傷跡をも持たないことは、可能ですか。 それは、私たちが葛藤の本性を探究することを、要求します - なぜ人間たちは、時の始まりから、 多かれ少なかれ、百万年、 葛藤とともに生きてきたのか、です。 私たちはみんな、葛藤の中に生き、 あなたたちはみんな、葛藤の中に生きるように、です。 それについて、疑いはありません。それは事実です。 私たちは訊ねています - なぜ人間たちは、葛藤を堪えるのですか。 外面的な葛藤、抗争だけではない- 戦争のように、 他の一人との競争のように、 模倣、順応、すべての圧力のように、です。 政治的な圧力、新聞の圧力、 家族の圧力など、 これらの圧力もまた、頭脳を損傷します。 それは、事実です。 圧力のもとにあるものは、何でも、 必然的に、 圧力より逃避するのか、 そして、その逃避が、葛藤の手段になる。 あるいはまた、私たちは、いつの時もプログラムされつつあります。 新聞、雑誌などの宣伝、です。 これらすべての活動は、明白に、葛藤をもたらします。
13:15 さて、頭脳は、すべての葛藤より、自由でありえますか。 これは、きわめて深刻な疑問です。 葛藤は、敵対を生み育てます。 葛藤は、自己中心性を生み育てます。 それが、利己性の本性です。 私たち、人間は、怖ろしく利己的です。 自己利益、 それは、葛藤を生み育てます。 私たちの一人一人が、自分自身に、自分の充足、 自分の野心などに、関心を持っているとき、 それは、様々な形の矛盾、葛藤を、 生み育て、ゆっくりと築き上げます - 究極的に、戦争です。 これらすべては、明白な事実です。 私たちは、訊ねています - 頭脳が、完全に健康で、 理性的で、健全で、論理的であることは、 可能であるのかどうか、です。 なぜなら、それがものすごく、そして、十分に機能できるのは、 そのときだけであるからです。 現代の世界において、葛藤なく、 生を生きることは、可能ですか。 あなたは、それは不可能だと言うかもしれません - あなたが、競争好きでないなら、あなたが、攻撃的でないなら、 あなたが、一番になろうとしていないなら、です。 ヨーロッパで言われるところの、ヌメロ・ウーノですが。 それは、一番という意味です。 あなたは、そうしているなら、必然的に葛藤の中に生きるにちがいありません。 あなたは、自分自身に、「私はそれをできない」と言います - 「私は、自分のビジネスで、競争しなくてはいけない。 「私は、自分の試験で、競争しなくてはいけない」などと。 私たちは、競争するよう、養われ、訓練されます - それが、攻撃性になります。 あなたは、ビジネスで、攻撃的でなければなりません。 さもないと、あなたは、ビジネスができない、などなどなどです。 私たちは、このすべてを、言語的に理解しますか。 なぜなら、私たちは、どちらも英語を話しているからです。 私たちはこれを、言語的に理解しますか - それはそのとき、観念、概念、理論になります。 またはあなたは、それの事実が、見えますか。 質問を理解されますか。 事実と、事実の観念との間には、巨大な違いが、あります - 事実についての観念と、事実自体の間に、です。 ですね? 観念は、レコード、観念です。 すみません - マイクロフォンです。 が、観念は、実際の道具ではありません。 語り手の前の、です。 ですね? で、事実と、事実の観念が、あります。 ヴザヴェ・コンプリ?これを理解されますか。
17:58 さて、私たちが捕らわれているのは、どちらですか。 観念、概念、結論や、 叙述か、事実自体ですか。 すなわち、私たちは葛藤の中に生きる、ということです。 この葛藤は、基本的に、根源的に、 利己により、もたらされています。 そのとき、あなたは、見做すでしょう。 そのとき、こう言うでしょう - 利己がないのなら、この現代世界に、どうやって生きられるのか、と。 それは、ごくありふれた疑問です。 それはかなり、ばかげた疑問です。 すみません - 私がその言葉を使っていいなら、です。 あなたは、利己なく生を生きることを、試したか、 そうしたことがありますか。 あなたはそうしたなら、生において、全く違った活動を、持つでしょう。 私たちは、そうしたことがないから、それは不可能だと、言います。 あなたは、山に登らなくてはいけなくて、 あの山に登らなくてはいけないなら、 あなたは、それは不可能だと言うことから、始めません。 あなたは、それへ上がって行きます - あなたの能力でもって、あなたのエネルギーとやる気でもって、です。 あなたは、この世界に葛藤なく生きることは、 可能なのかどうかを、見出したいのなら、あなたは、 そうしなくてはいけません。 見出さなくてはいけません。 すなわち、あなたは、利己なく、生きられますか。
20:14 世界の政治家すべては、自分自身に、関心を持っています - そして、自分の権力と自分の地位に、です。 それは、政治的な利己です。 世界は、それです。 私たちは、そのように生きられますか。 あなたは、利己なく生きられますか。 で、その利己は、持続的に葛藤を、生み育てます。 それで、私たちの頭脳は、損傷します。 負傷します。 私たちが、年を取るにつれて、頭脳は、ますます鈍くなり、 ますます迷信深く、反復的になり、 どの伝統とどの体系にも、進んで服従しようとします - 哲学と宗教などのそれに、です。 で、それは、とても深刻な疑問です。 なぜなら、けっして損傷されていない頭脳を 持つ可能性が、あるからです。 そのとき、その頭脳は、無量の能力を、持ちます - テクノロジーの世界に、ではありません。 そこでもまた、持つかもしれませんが、 はるかに、心理の世界において、 無自己の世界において、です。 そうね、 テクノロジーの旅は、いつも制限されています。 なぜなら、付け加えられるべきことが、もっともっと多く、あるからです。 ゆえにそれは、いつも制限されています。 ところが、自らが 心理的に、内的に行う旅は、 際限がありません。 それは、終わりがありません。 それは本当に、全然違った世界です。 これは、理論ではありません。 あなたの書物に戻って、「ええ、これは、彼らが言ってきたことです。 あなたはそれを現代の言葉に、表しているだけです」と、言わないでください。 ですが、私の友だちと私は、小道のあのベンチに座っているなら、 そして、その友だちが、 「私は本当に見出したい。 これは、なかなか興味深い観念です」と言うなら、 初めに、観念。 彼は、他に何も知りませんが、 彼は、それを聞きます。 それの意義、それの美しさ、 それの深さを、見ます。 そして彼は、「私は、あなたが言う意味を、捉えます」と言います - 「私は、自分がいったいそれをできるのかどうかを、知りません。 なぜなら、それは、大変多くの気づきを、要求するからです - 大変多くの注意、 大変多くの見守り、見守り、見守りを、です。 が、私は、それが可能なのかどうかを、見ようとしています」と。 あなたは、あのベンチに、語り手とともに座っている、あの友だちなので、 あなたは、自分自身に言っています - あなたがそもそも、真剣であり、浮ついていなくて、 ただ好奇心から、これらばかげた会合に出席したいだけではないなら、です - あなたもまた、言っています - 「私は、それの意義を見よう。 私はそれを追求しよう」と。 で、それの意義と実在性と、 その美しさが、見えるなら、 そのとき、自己を越えた無量性が、あるのです。
25:11 美しさについて、話すと- 少しそれに入っていいですか。 あなたは、美しさに興味があります。 ありますか。 あなたがいう、美しさとは、どういう意味ですか。 樹の美しさ、 絵画の美しさ、 麗しい彫像、 偉大な詩歌、 日の入りの美しさ、 或る人物の美しさ、麗しい顔 - その顔の裏に、深さをもって、です。映画スターだけではありません。 なぜ彼らがスター(星)と呼ばれるのかを、私は知りません。 本当の星は、無量です。 それらは、とてつもない広大さの感覚、 自らの光を、持っています - 減少せずに、永続的です。 で、美しさは、何ですか。 美しさは、映像に、絵画に、美術館に、ありますか。 または、あなたが、豊かであって、億万長者であるほど、 古い巨匠の絵画の一つや、 ヴァン・ゴッホの絵画の一つを買うほどなら - 私は、それらに入らないでしょう。 美しさは、絵画にありますか。 美しさは、あの樹に、あの月に、ありますか - 明るさをもち、まわりに唯一つの雲もなく、 ちょうど昇ってくる月に、ですか。 あなたにとって、美しさは、何ですか。 または、あなたは、それについて考えたことさえ、ないですか。 または、私たちは、こうも鈍感になったので、 けっして見ない、ということですか。 私たちは利潤のために、進んで、あらゆる樹を、切り倒そう、 土地を砂漠化させてしまおうとしています。それは、起きつつあります。 通りの、むさ苦しさすべて。 美しさとは、何ですか。 なぜなら、私たちは、美しさの性質を、理解しないか、持っていないなら - なぜなら、美しさは真理であるからです。 美しさなしに、真理は、ありません。 あなたの心に、美しさが、ないのなら、 あなたはけっして、真理を持たないでしょう。 あなたは、あのすばらしい言葉と、その言葉の深さに、 けっして出くわさないでしょう。 ドレスの美しさや、 すばらしいサリーやガウンの色ではありません。 美しさは、何ですか。 あなたが真剣に、それを訊ねるなら - 詩人が言うことではなく、 美しさについて書かれてきた書物ではありません。 または、偉大な詩歌の一つを読んで、昂揚を感じ、 情動的に感じて、それへ応答し、 「あれは、何と美しいものなのか」と言うのでもありません。 それが、美しさですか。 美しさという言葉は、単に言葉だけですか。 私たちは少し、それに入ってもいいですか。
30:01 どうですかね。 なぜこの国には、その「美しさ」という言葉が、 失われているのかと、思われます。 それは、美しい人物を見ることと 単に性的に興奮することの、感覚的な応答ですか。 または、彼が世の中で重要であり、たくさんのお金を稼ぐからですか - 映画の人物ですか? 私は彼らを、スターと呼びたくありません。 なぜなら、政治的に、彼らは重要になったからです。 他の或る国は、 俳優を大統領にしてしまいました。 で、あなたたちもまた、これを助長しています。 うつろな俳優 - 顔と身体だけであり、 その裏には、ほとんど何もありません。 で、美しさを探究するには - あなたが本当に、それに入りたいなら、です。 なぜ人間たちが、何かで没入するかを、理解するか、 掴むのでなければなりません- 知的に、ではなくて、です。 あなたの供養で没入し、 あなたのお祈りに没入するか、です。 どうぞ、注意を払ってください。 これは、美しさに関係しています。 どうぞ、投げ出さないで、聞いてください。 人間たちは、何らかの物事に、没入したいのです - 国家、民族に、 政治に、 または、自分のビジネスに、没入する。 没入するとは、どういう意味かを、ご存じですね - あなたのエネルギーすべてを、注ぐ。 何か外面的なものにより、没入する。 または、あなたは、何か内的なものを、持っています - 観念として、 理想として、です。あなたは、それにより、没入しています。 あなたは、訊ねたことがありますか - なぜ人間たちは、没入したいのか、です。 あなたは、子どもに注目したことが、ありますか。 一日中ずっと、いたずらだったが・・・ - 幸いにも、彼らはそうであるべきです - その子に、玩具を与えてください。 その子は、それに完全に没入します。 ですね? あなたたちは、子どもを持っていますね? いいえ?
33:33 あなたは、ずっといたずらだった子を、見守って、 その子に、複雑な玩具を与えたことが、ありますか。 彼のいたずらすべてが、止まります。 玩具が、その子を没入させます。ですね? で、その子が、それを壊してしまうまで、 その子は、完全にそれで没入しています。静かです。 集中し、それを愛しています。 ですね? よろしいですか。あなたは子どもを、持っておられるでしょう。 何?後生です。 これに注目したことが、ないですか。 また、大人たちも、同様に玩具で没入しています - 冥想の玩具、 神の玩具。 神は、大変とてつもなく錯綜します。 いろいろな神々です。 あなたは、供養を行います。あなたはそれで、没入しています。ですね? あなたがそのように没入しているとき、何が起きますか。 理解されますか。 子どもが、玩具で没入するとき、 その子に、何が起きますか。 彼は静かになりますね。 彼は、その玩具に、完全に関与します。 彼は、物語に没入します。 私たち、人間もまた、それに似ています。 あなたが没入するとき、何が起きますか。 あなたのいたずらすべてが、止まります。ですね? あなたが、自分の供養を行う、鐘を鳴らす、教会へ行く、 その他すべてをしているとき、何が起きますか。 その瞬間か、十分か、二十分の間、一時間か、 どれほど時間が掛かるとしても、 供養や儀式が、あなたを、没入させたのです。あなたは、静かです。 さて、あなたが山を見つめるとき、 - あなたが、山を見つめたことが、あるなら、ですが - その広大さ、無量の荘厳さをともない、 不動であり、こうも甚大であり、 青空に対して、雪を被っている。 一、二秒の間、 あの力強い光景が、自己を追い払ってしまいます。 あなたは、これに注目したことが、ないですか。 そのとき、何が起きますか。 大きな山の、壮大さ、無量性と、 とてつもない美しさが、 追い払うか、瞬間的な衝撃を、与えます。 その瞬間に、自己はありません。ですね? これは正しいですか。 これに注目されたことは、ないですか。 あなたは、あの月に、こうもうっとりしています。 それで、あなたは、一秒間、静寂になります。 すなわち、山の玩具があなたを、没入させたのです。 で、あなたは、自己より自由でありえますか - 何にも没入しないで、です。 質問を理解されますか。 なぜなら、自己がないとき、美しさが、あるからです。 これらを理解されますか。 これがいかに重要なのかを、ご存じですか。 私たちは、自らの生に何の美しさも持たないから、 私たちは、ますます卑俗に、騒がしくなりつつあります。 私たちは、この問いについて、考えたことさえ、ありません。 私たちはみんな、あまりに宗教的すぎて、美しさについて考えません。 それは、女や男に関係しています。 それは、あなたの感覚を没入させるかもしれない。 ゆえに、気をつけろ、と。 あなたは、美しさの本性を理解するなら、 この世界に、こうも完全に、 全包括的に、生きられます。 なぜなら、美しさは、醜いものではないからです。 美しさは、醜いものへ何の関係をも、持ちません。 あなたは、マドラス(の街)を歩き回ったことがありますか - 昨夜、私たちがそうしたように、です。 あなたは、あれらの建物を、見たことがありますか - いかにそれらが醜いか。 私たちは、これらとともに、生きます。 私たちは、醜さとともに、生きます。 そして、私たちは、醜さに慣れます。 私たちは、通りのむさ苦しさに、慣れてしまったのです。 私たちは、気にさえしません。 それは、いつの時も、起きつつあります。 で、私たちは、敏感さの性質を、失ってしまいます。 敏感さは、本質的です。 さもないと、あなたは、感じられません。 あなたは、見つめられません。 あなたが、あの月に敏感でないなら - それをしばらく見つめる。 思考なく、ただそれを見つめる。 河面のあの光の美しさや、 水面のそれを、見る。 それは、敏感さを要求します。
41:26 それにより、問いが持ち上がります - あなたは、これらに退屈しつつありますか - なぜそうでないの? あなたは、自分の生に美しさを、持っていますか。 あなたは、沈黙しています。 敏感さについて話すことで、別の問いが、持ち上がります。 あなたは、このように進みたいですか。 私は、このように進みましょうか。 または、あなたは、他の何かについて、話したいのでしょうか。 あなたは、楽しみについて話したいのでしょうか。 あなたが楽しみを探し求めているのは、確かだと思われます。 すべての人間は、楽しみを探し求めています。 性的な楽しみだけではありません - その反復的で想像力豊かな映像などなどとともに、です。 また、権力の楽しみも、です。 その権力が、あなたの妻や夫に対して、であっても、 角を曲がったところの、あなたが投票してきた 政治家の権力でも、です。 あの人を持つことは、楽しみです - 彼が、有能でも無能でも、それは大事なことではない - 彼をその所に就けることが、あなたの楽しみです。 そして、何かを所有することが、あなたの楽しみです - お金、良い住宅を所有する。 良い住宅 - 理解されますか - 美しい邸宅です。 あなたが豊かであるなら、均衡が取れていて、 良い庭が付いていて、うるわしい花々がある。 それは、大きな楽しみです。 そして、達成の楽しみと、 失敗の恐れ。 楽しみは、 褒賞と処罰の原理に、基づいています。 そのとおりですか。 私たちは、それについて話しましょうか。 なぜなら、それが、私たちみんながほしいものであるからです。 究極的な楽しみは、神です。 ゆえに、神は、処罰と褒賞のどちらでもある。 この神は、私たちの思考により、創案されています。 私たちが昨日、言いましたように、恐れがあるところ、神があります。 多くの神々か、一つの神が、あります。 心理的、内的に、まったく恐れが、ないのなら、 外側の機関は、ありません。 しかし、扉は、永遠へ開いています。 私たちは、それらについて話しましょうか。 何かの理論について、 または、私たちは、何かについて、話しましょうか - 悲しみについて、 または、はるかに近い何かについて、話しましょうか - 私たちは、私たちの一人一人が、悲しみを持っているか、 悲しみを持ってきたけれども、です。 私たちは今すぐ、それへ行くでしょう - 時間があるなら、です。
45:55 私たちは、二人の友人として、ともに話し合うべきです。 これは、講義ではありません。 これは、何かあなたに情報を与えたり、 あなたに教示したりするものではありません。 これは、あなたと語り手との間の対話です。 語り手は、質問を取り上げたいと思います - 私たちは、一つか二つの感覚でもって、機能しているだけなのか、 または、私たちは、自らの感覚すべてでもって、機能しているのか、です。 質問を理解されますか。
46:45 たぶん、宗教的な人々なので- 私はそれを疑いますが - 少なくとも、私たちは、自分が宗教的であると考えます - 寺院へ行くことと、それらの事柄と、 見かけ倒しの葛藤の残忍な生を送ることによって、です。 諸宗教は、「あなたの感覚を抑圧しなさい」と、言ってきました - 「それらは、散漫であるから。 女や男を見つめるな。 美しい日の入りを、見つめるな。 または、道路脇で歌っている小川 - それらを聞くな」と。 それで私たちは、自らの感覚を、次第に殺しています。 あなたは、来る日も来る日も、来る日も来る日も、雑音が聞こえるとき - 他の住宅からの、何かの雑音です - あなたは、それに慣れます。 あなたは、その雑音に、鈍くなります。 で、次第に私たちは、自分の感覚を破壊しつつあります。ですね? 私たちは訊ねています。あなたが自分の感覚を破壊するとき - 或る感覚の触れ合い、感じ、性質。 頭脳もまた、鈍くなります。 それは、可能ですか - 私は、この質問を、自分の友に、しているだけです。 木陰のベンチに座って、です - あなたの感覚すべては、目覚めて、全体として一緒に機能できますか。 あなたは、それを試したことが、ありますか。 そのときあなたは、見つけるでしょう。あなたの感覚すべてが、 活動的であるとき - 性的な感覚だけではなく、あなたの感覚すべてが、です。 見ること、聞くこと、触れること、 情動、 思考、あなたの感覚のすべて - なぜなら、思考は、物質的な過程であるからです。 あなたの感覚すべてが、最高に優秀であるとき、 自己はありません。 それは、一つか二つの感覚の 部分的な、鈍い作動があるときだけです - そのとき、自己が、築き上がるのです。 私たちは、友だちに言います - それを聞いてください。 それの真理を、見出してください。 あなたが聞かないのなら、気にしないでください、と。
50:26 私たちは、楽しみと、 楽しみの含意すべてについて、話しました - 本質的に、褒賞と処罰に基づいています。 処罰を回避するために- 理解されますか - 物理的な処罰ではなく、 失う感覚、 持たない感覚、です。 持つことは、褒賞ですし、失うことは、痛みです。 で、私たちは、この原理に乗って、日常生活を生きます - 褒賞と処罰、です。 あなたは、服従するよう、犬に褒美を与えます。 次第に、服従するよう、犬を訓練します。 彼は、とてもよく服従します。 後に付いてきます。 あなたが、犬を飼っているなら、ね。 あなたは、犬を飼っていますか。 いいえ。 で、私たちの生は、褒賞と処罰に、基づいています。 そこには、恐れ、痛みと楽しみが、関与しています。 私たちは、そのように生きます。 私は良くなるだろう- それは、褒賞です。 良くないことは、痛み、 処罰です。 で、その原理、褒賞と処罰を、理解するなら、 そして、自らは、その原理より自由でありうるのかどうか、です。 そのとき、生は全然、違っています。
52:45 他の何かについて、話しましょうか。 私たちは、美しさについて、話してきました。 それは、無量のことです - 書物に、詩歌において、ではありません。 あなたは、没入なしであり、 醜さの感覚なしである美しさを、持っています。 私たちはともに、苦しみのとても複雑な問題について、話し合うべきです。 それは、だいじょうぶですか。 私たちは、それに入られますか。 なぜ人間たちは、記録なき時より、苦しんできましたか。 彼らは一度も、その問題を解決したことが、ありません。 彼らは一度も、苦しみを、終わらせたことが、ありません。 何千年に何千年もの後、 現代世界の私たち、人間は、苦しみます。 子どもを持たなくて、苦しみます。 充足することができなくて、苦しみます。 自分が愛されていないとき、苦しみます。 私たちのさびしさの中で、苦しみます。 あなたは、いったいさびしいですか。 あなたは、いったいさびしいですか。 本当にそうですか。 私たちがさびしいとき、苦しみます。 私たちが豊かにならない、認知されない、人気が出ないとき、苦しみます。 それらはすべて、とても表面的な苦しみです - 偉大な人になりたいが、 偉大な人である器量がありません。 何かをうまくやりとげたいが、うまくできません。 様々な形の悲しみが、あります- 恐れのように、です。 誰かの死の悲しみ - あなたが親密に生きてきた人の、です。 死の悲しみを、 私たちはみんな、知っています。 この地上のあらゆる人間は、 不幸にも、死の悲しみを、知っています。 輪廻転生の慰めすべてにもかかわらず、 宗教的活動すべてとそれらの迷信にもかかわらず、 悲しみは、けっして終わりません。
56:43 悲しみは、あなたの悲しみ あなたの個人的な悲しみだけではありません。 世界の悲しみも、あります。 戦争で殺された人々の悲しみ - 不具、盲目になり、 腕がなく、脚がなく、身体、胴体だけ。 そして、彼らの親戚。どれほど多くの母親が、泣いてきたのか。 姉妹、妻、恋人などが、です。 あなたは、これらを知りませんか。 または、あなたは、自分の悲しみに関心を持っているだけですか。 私たちは、正直であるなら、こう言います - 「すみません。私は自分の悲しみに、関心があるだけです」と。 私は、他の人たちの悲しみを、認識します。 ベイルート、ニカラグア、サンサルバドル、ヴェトナムで、死んでいく人々。 彼らは、はるか遠くに離れています。 それは、私たちに触れません。 で、個人的な悲しみ、 そして、世界の悲しみが、あります。 それは、やはり悲しみです。 あなたの悲しみは、他の一人の悲しみに、似ています。 自分が息子、妻、夫を失うとき、それは、自分の悲しみです。 私たちは、それについて、何と大騒ぎをすることか。 泣き、わめき、慰めをほしがります。 そして、数千、数百万の人間たちの悲しみすべてが、あります - 彼らもまた、あなたのように、苦しんでいます。 この悲しみは、恐れのように、楽しみのように、人類に共通しています。 それは、人類の悲しみです。 その悲しみは、一度も終わったことが、ありません。 たぶんそれは、けっして終わらないでしょう。 なぜなら、私たちは、世界を、こうも怪奇にしてきたからです。 私たちが築いてきたこの社会 - 社会は、それ自体では存在していません。 私たちが、自分の恐れをとおし、自分の貪欲をとおし、 自分の利己性と怪奇な活動をとおして、それを築いてきたのです。 この社会は、言葉に表せないほど腐敗しています。 私たちがそれを作ってきました。なぜなら、私たちが、腐敗しているからです。 この腐敗は、まず第一に、利己です。 それで、社会は、私たちを助けようとしていません。 宗教は、人類を助けてきませんでした。 それらは、戦争を、防止してきませんでした。 あなたたちは果てしなく、非暴力、世界の平和について、話すけれども - 「私は、自分の精神に、平和を持たなければならない」と。そうね、それらの戯言です。
1:01:09 世界には、悲しみがあります。 そして、悲しみは、終わりえますか。 おそらくあなたは、その質問をしたことさえ、ないでしょう。 私たちは、苦しみます。 苦しみを堪えます。 何かの宗教か、何かの教義や、何かの信念に、慰めを得ます。 それは、ふしぎな事実ですね。 自分の妻を失うなら、 または、息子や親戚を失うなら、 私たちは、その痛みを、生涯ずっと、運んでいきます。 あなたは、そうしませんか。 私は、机の上に、息子の写真を、置いています。 私は自分一人で、静かに泣きます。 または、私は人前で泣きます - すなわち、友だちといて、です。 私たちは、けっして言いません- 「で、それは終わりだ。 私はけっして、痛みの記憶を運んでいかないだろう」と。 それは、残忍ではありません。 失った痛みを、片付ける - 二、三日で、です。何年もかけて、ではありません。 それは、冷淡さがある、という意味ではありません。 反対です。 亡くなった自分の息子や夫についての、 この果てしない話 - あなたは、それをつづけています。 すると、それは、一つの形の娯楽、噂話です。 私がそれを残忍に表したのなら、すみません。
1:03:28 で、私たちは、訊ねています - 悲しみは終わりうるのかどうか、です。 世界のこの悲しみではありません。 なぜなら、戦争があろうとしているから、 なぜなら、人間たちは、暴力的であるからです。 彼らは泣きます。彼ら自身の息子が、戦争で殺されました。 が、あなたの息子は、まったく安全です。 で、私たちが築いてきた社会。 私たちの一人一人が、この社会に、寄与してきたのです - 政治的な世界に、民族性、国籍の世界に、 それらの分割をともなって、です。 それらは、進んでいくでしょう。 なぜなら、大多数の人間たちは、それらを、ほしいからです - 何かのために、投票する。 私はそれに、触れないでしょう。 で、あなたは、言うでしょう - 私は自分の悲しみを終わらせるなら、 - それが可能であるとして、です - それは、残りの世界に対して、どんな効果を、持ちますか、と。 それは、こう訊ねるのに似ています - もし私が、生の些細なすべて、私の生の痛みと心配と、 さびしさと悲しみすべてより、自由になるなら - 私はあなたのために、泣きたいです - なぜなら、このすべては、あなたにとって、無意味であるからです。 あなたは、自分自身に訊ねるでしょう - 私が悲しみより自由になるなら、それはどう世界に、影響するのでしょうか。 私が変化したからといって、世界は、変化するのでしょうか。 それは、間違った問いです。 なぜなら、そういう質問をするとき、 あなたは、変化しないことへの言い訳を、見つけつつあるからです。 それは、あなた自身の変化からの、たやすい抜け道に、なります。 あなたは、こう言います - 「私が変化するか、しないかは、大事でない。 私たちはみんな、そのようであるし、私はこの世界に生きなければならないから。 で、私はお話を聞こう。 良さそうに聞こえるが、 私は、自分なりに続けてゆこう」と。 で、「私が変化するなら、世界は変化するのだろうか」と質問をすること - それは、全的に間違った問いです。 そのとき、あなたは褒賞と処罰を、探しています。 あなたが根本的に変化するなら、それが世界に対して、 効果を持つのか、持たないのかを、見出すでしょう。 ヒットラーは、自らの狂気でもって世界を変化させてきました。 ナポレオンと、戦争の偉大な英雄、 殺害の英雄すべては、世界を変化させてきました。 ブッダなどもまた、そうでした。 彼らは、個人でした。 彼らは、個別でした。 彼らは、「これが、私がしたいことだ」と言って、そうしました - 残忍にか・・・
1:07:54 で、あなたが本当に、悲しみを終わらせるなら - 言語的に、ではなく、実際に、悲しみより自由です - そのとき熱情が、あります - 余生の間、あなたを消耗しつくすものが、です。 で、悲しみを終わらせることが、可能なのかどうかを、 理解することが、重要です - あなたの悲しみ、自分の悲しみを、です。 悲しみは、自己憐憫ですか。 どうぞ、語り手が言っていることを、検討してください。 語り手は、ベンチに座って、友だちに語っています。 彼は、悲しみについて話しています。 語り手は、彼に訊ねます。 Kは、彼に訊ねます - あなたは、その質問をしたことが、ありますか。 あなたは、悲しみを終わらせられるのかどうか - あなたの悲しみを、です。 彼は言います - 「私は、そういう問いについて、考えたことさえ、ありません。 なぜなら、生涯ずっと、私は悲しみとともに、生きてきたからです。 あなたが、自分は悲しみを終わらされるのかどうか、と、 その質問をするとき、私は本当に、知りません。 私は、それをどうすべきかを、知りません。 私は、十もの様々な道を、試してきましたが、 私は、やはり苦しみつづけます」と。 そしてKは、彼に訊ねています。あなたはその質問をしたことが、ありますか - 悲しみはいったい終わりうるのかどうかと、です。 彼は、「いいえ」と言いました - 「私は一度もそれを訊ねたことがない」と。 彼は言います - 「今、それを訊ねてください」と。 あなたがいかにそれを訊ねるのかが、重要です - あなたはそれを、何気なく訊ねているのか、 または、それを逃避として訊ねているのか、 または、あなたは、悲しみの終わることでもって、慰めを探し求めていますか。 または、あなたは、褒賞と処罰より自由に、質問をしていますか。 悲しみを終わらせる。 「私は、これを終わらせるなら、あれを得るだろう」と、あなた自身に言うのではない - 「私は、悲しみを終わらせるなら、 平和を得るだろう。 私は幸せを得るだろう。 私は喜びを得るだろう」と。 それは、単なる交換です。それは、悲しみが終わることではありません。 で、Kは、友だちに訊ねます - それは、利己、自己憐憫ですか。 すなわち、あなたが苦しむとき、それは、自己憐憫ですか。 彼は、「部分的に、ええ」と言います。 それは、あなたに慰めを与えてくれた誰かの喪失ですか - あなたに性的に、楽しみを与えたり、 違った形の楽しみを、与えたりした誰かを、失うことですか。 彼は、「部分的に、ええ」と言います。 それは、あなた自身がさびしいと気づく、ということですか - なぜなら、あなたは、その人物に、寄りかかってきた、 何年もの間、その人物と一緒にいた、 彼女や彼に慣れてしまったからですか。 または、それは、家具なのかもしれません - あなたが、大切にして、磨き上げてきたもの、 古い一品、13世紀の家具、です。 そのときあなたは、それに執着します。 それが、取り去られてしまうとき、あなたは、うろたえます。 あなたが持っているのは、その種類の苦しみですか。 - あなたは、彼女や彼を、一つの家具のように、扱ってきて、 彼に慣れてしまいましたか。 理解されますか。これらすべての質問を、してください。 眠りに就かないでください。
1:13:36 友だちは、「ええ。これらすべては、これの部分です」と、言います - 「第一に、私はさびしいです」と。 あなたは、さびしくないですか。 そして、さびしさとは、何ですか。 私は、あなたたちに、執着しています- 聴衆としての、です。 語り手は、大小の聴衆に、執着しているなら、 聴衆が消え去るとき、彼は、さびしくなろうとしています。 彼は、名声や悪名を、失おうとしています。 あなたは、自分が彼について持っているイメージを、失おうとしています。 ですね? そのとおりです。 で、同様に、あなたが何かに執着しているとき - それは、別の形の利己です。 或る人物に、観念に、概念に、象徴に、 神話に、執着しています - そのとき、その執着が、あなたより引き裂かれるとき、 あなたは、さびしく、憂鬱になり、 心配し、神経質で、崩れてしまいます。 で、Kは、友だちに語っています- あなたは、これらを知るとき、 それは、苦しみの一部であり、 それは、苦しみの本質です。 苦しみは、あなたより異なっていません- まるで、あなたが苦しんでいて、 苦しみは、何か異なったものであるかのように、です。 あなたが、苦しんでいる実体です。 あなたが、苦しみです。 違いを理解されますか。 私が苦しんでいる、のではない。 「私」は、苦しみです。 理解されますか。 怒り、妬みが、 あなたより異なっていないように、です。 あなたが、妬みです。あなたが、怒りです。あなたが、暴力的なのです。 あなたは、「私は非暴力になろうとしている」と言うかもしれませんが、 それもまた、あなたです。 あなたは、その性質より、 表現より、異なっていません。 あなたは、それなのです。 で、苦しみは、あなたより分離していません。 で、Kは、友だちに言います -
1:17:12 あなたが苦しむとき、一番目のことは、それより逃避するな、 どの形でも、慰めを探し求めるな、です。 友だちは、こう言います - 「それは、あまりに困難です。 何か慰め、何か慰安を探し求めないこと、 何か、自分自身より、痛みと苦痛を軽減する道を、探し求めないことは」と。 そのとき、あなたは、事実より逃避しています。 私たちは、千の逃避を養成してきました。 それは、私たちの生の一部です。 で、Kは、友だちに言います。 すなわち、あなたに、です。 彼は、「逃避するな」と言います - 「それが、初めに悟るべきことです。 あなたが、何かへ逃避するなら、 その何かをもまた、あなたは、失うでしょう。 そのとき、あなたは再び、始めるでしょう」と。理解されますか。 で、けっして逃避しないでください。 事実を、それの真理を、逃避の含意を、見てください。 そのとき、あなたが逃避しないなら、 苦しみの原因を、見出そうとしないでください。 なぜなら、それは、またもや、分析の過程であるからです。ですね? それは、思考、時の作動です。 そのどれをも、しないでください。 Kは、友だちに言います。 すなわち、あなたに、です。 悲しみとともに留まりなさい。 あなたが、楽しみとともに留まりたいように、です。そうでないですか。 で、悲しみとともに留まりなさい。 けっして悲しみより動いてはいけません。 すなわち、悲しみと呼ばれるものへ、思考を、介入させてはいけません。 悲しみは、大きな衝撃です - 物理的な組織体にとって、だけではなく、 また、心理にとっても、大きな衝撃です。 その衝撃とともに留まる - けっしてそれを超越しようとしないで、です。 そのすべては、思考の活動でしょう。 理解されますか。 それは、手に、すばらしい宝石を持つのに、似ています。 あなたが、それを見つめれば見つめるほど、 その宝石の美しさが、もっと開示されます。 同様に、あなたが、悲しみを見つめ、保つなら - けっして動いて、それを離れない - そのとき、それがいかに無量であるかが、分かるでしょう。 ただ悲しみ、痛み、心配だけではない。 その悲しみの観察の中、 熱情が、来るのです。 欲情とそれらの情熱ではない。 熱情です。 熱情が何であるかを、ご存じですか。 いいえ、ご存じない。 なぜなら、熱情なしに、あなたは、何をも創造できないからです。 あなたは、熱情なしには、愛せません。 それを、性的な情熱、欲情に翻訳しないでください。 熱情は、重要です。 熱情なしには、生は、浅くなります。 ゆえに、浅いものは、何の美しさをも、 何の愛、何の熱情をも持ちません。
1:22:57 引き留めてきたのなら、すみません。