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MA8485T4 - 死は、生の遠い終わりに、ない。
第4回公開講話
インド、マドラス(チェンナイ)
1985年1月6日



0:19 ここに、幾人かの友だちがいるのを、望みます。
0:54 私たちは、昨日止めたところから、進んでもいいですか。 私たちは、昨晩、葛藤について、話していました。 そして、この世界に、現代世界に、 生きることは、可能なのかどうか、です。 「現代」という言葉が、本当に適用可能なのかどうか、私は知りませんが、 それは構いません。私たちは、その言葉を使いましょう。 この現代世界に、葛藤なく、生きることが、です。 私たちは、よく気をつけてそれに入りました。 私たちはまた、美しさについても、話しました。 美しさは、絵画や樹にはありません。 すばらしい詩歌の叙述にも、 偉大な彫像などのどれにも、です。 私たちは、言いました- 美しさがあるところ、 すなわち、真理が、ですが、 そこに、自己はない。 いかなる利己も、ないのです。 私たちは相当に、それについて、話しました。 また私たちは、恐れが何であるかの問いにも、入りました - そして、私たちの日常生活を、 まったく心理的な恐れなしに、生きることは、可能なのかどうかも、です。 あなたがそれについて、何と考えてきたのかどうかを、知りません。 あなたが、自分自身で見出すために、それに取り組んできたのかどうか - 恐れなく、生きることが、可能なのかどうかを、です。 それは、安全を含意しています。 人間たちにとって、外的にも、心理的にも、安全は、ありますか。 私たちは、それについてもまた、話しました。
3:24 安全は、何か大変限定的なものであるかもしれません。 それは、心理的には、まったく見つからないかもしれません - 利己のこの追求が、あるところに、です。 ゆえに、それは、腐敗をもたらします。 私たちは、それにもまた、入りました。 利己があるところ、腐敗があるにちがいありません。 腐敗は単に、利己の表現だけです - 賄賂、闇市場、それらをご存じです。 きっとあなたたちは、それらにすっかり親しんでいると、思います。
4:16 また私たちは、あなたが本当に何がほしいのか、 あなたの深いあごがれ、渇望が何であるかについても、話しました。 その渇望、あこがれ、ほしがりは、 いったい満足されえますか。 で、私たちは、それにもまた少し入りました。
4:49 で、今晩、私たちは、ともに話し合うべきです - 私は本気で、ともに、と言っています - これは、あなたに、何についても教示するためとか、 あなたに情報を与えるためとかではありません。 私たちは、二人の友人として、対話、会話を行っています。 私たちは今晩、ともに一定の問題へ、入られますか。 すなわち、死 - それは生において、何を意味するのか、 そして、愛、宗教と冥想について、です。 私たちはともに、これらの疑問について、話し合うでしょう。 あなたが、きわめて真剣な話、議論のために準備されているのを、望みます - 単に同意したり、不同意したりするだけではない。 私たちが昨日、その問いへ入ったように、です。 自分の前のこのマイクロフォンが、見えるとき、 不同意は、ありません - 私たちが、盲目か、半盲目であって、 それは他の何かであると、想像するのでなければ、です - それは、他の何かではありません。 そのとき、その想像や、その態度や、その確信は、 同意や不同意を、もたらします。 私たちがともに、事実を見つめているとき、 私たちが樹と呼ぶものは、まさにそれです。 それについて、不同意はありません。 あなたは、それを好きかもしれません。 それを好きでないかもしれませんが、それはやはり、樹です。 で、私たちの生において、事実に向き合うことが、重要です - 観念、信念、信条、そのすべての事柄を、玩ばないで、 実際に、私たちが持っているものを、取り扱う - すなわち、私たちの恐れ、私たちの心配、 私たちの嫉妬、私たちの敵対と、 大変多くの見せかけ、偽善、 平和を崇拝し、他の一人を殺すことを、です。 ラテン語には、あの言葉があります - カトリックの位階制度が、ここ二千年の間、反復してきたもの、 「パーチェム・イン・テリス」です。 それは、地上に平和がありますように、という意味です。 そして、地上には、何の平和も、なかったのです。 なぜなら、まさに教会、まさに寺院、モスクこそが、 戦争を創り出してきたからです。ですね? あなたが、それを好きでも、好きでなくても、それは事実です。
8:17 それで、私たちは、ともに話し合おうとしています - 死とは何なのか、 なぜ人間たちは、それに、こうも怯えてきたのか、 なぜ人間たちは、死の深い意義が何であるかを、 本当に、深く理解することがなかったのか、です。 私たちは、恐れが何もないとき、 それを理解できるだけです。 ですね? が、私たちのほとんどは- 私の声については、すみません。 進むにつれて、それは良くなるでしょう - 私たちのほとんどは、死について、恐れています。 私たちは、生きることを、死より分離します - 私たちの日常生活を、死より、です。 一つのことは、絶対的に確実です - すなわち、私たちはみんな、死のうとしていることが、です。ですね? あなたが、それを好きでも、好きでなくても、 それは、絶対的な、取消不可能な事実です。 あなたと語り手は、或る日、死のうとしています - 数日後でなくて、長年の後なのを、私は望みますが。
10:07 で、私たちは、二人の友人として、ともに話し合うべきです - 同意したり、不同意したりではなく、そのすべてを見つめます。 生きることと死ぬことを、です。 生きることとは、何ですか。 私たちが、生きることと呼ぶのは、何ですか。 どうぞ、これは議論です。 これは、あなたと語り手との間の対話です。 で、働いて、考えぬいてください。 あなたは何を、生きることと呼びますか。 生きることは、この常なる格闘、 常なる葛藤、 権力、地位、身分を探し求めることですか。 そして、おそらく、それを得ることができないことと、 自分自身との常なる闘いに、生きることですか。 生きることは、心配、執着と呼ばれるものですか。 ですね? 生きることは、事務所へ行くことです - それが、この国の最高の大臣であっても、最低の事務員であっても、です。 毎日、事務所へ行くこと、 あなたの人生の、六十年か、五十年の間、 9時から5時まで、 侮辱されて、こき使われる。 ですね? あなたが、最高経営者であるのでなければ、です。 それもまた、生と呼ばれるものです。 お金を稼いで、生計を立てる責任 - 自分の妻と子どもを扶養し、 彼らを教育するために、です。 そして、教育は、かなり腐っています。 この国で、そして他のところでも、そうであるように、です。 彼らは単に、暗記することを、強調しているし - ですね? - 彼らを機械にしているだけだからです。 あなたは、彼らを、プログラムしています - 数学者であるよう、技師であるよう、 科学者などであるように、です。 彼らは、生計の手段を、提供します。 それであなたは、一日、八時間を、使います - 余生の間、です。 それから、退職して、死ぬ。 これは、事実です。 神を探し求める、平和を探し求める、 或る種の避難所、或る種の生き方を、探し求める - こうも全く浅く、空っぽではない道を、です。 これが、私たちが生きることと、呼ぶものです。
14:02 それは、生のむだですか。 私たちは、互いにこの質問をしていますか。 その錯綜すべてとともに、この生きる道 - いつも、もっともっともっと多くを、ほしがること。 これが、私たちが生きることと呼ぶものです。 冥想しようとする、 冥想のために準備する、 正しい姿勢で座る、正しく呼吸する、 自分の精神、思考を制御したいと望む、 それらのことを玩ぶ。 ですね?
15:04 私たちの身体は、誤用されつつあります- 私たちの頭脳のように、です。 あなたは、自分の身体を、見守ってきましたか。 すなわち、私たちの身体は、とてつもない器具です。 解剖学的に、大変錯綜しています。 幾千年に幾千年の、多くの世紀をとおして、 いかに、私たちの身体が、進化をとおして、準備されてきたのか。 それは、最も驚異的な機器です。 私たちはいかに、それを放置するのか。 私たちの一人一人が、これを知っています。 私たちは、それを放置します。 私たちは、それを無視します。 私たちはけっして、適切な体操、ヨーガを、行いません。 ああ、私は、その言葉に、気をつけなければなりません。 あなたは、釣られてしまうかもしれません - ヨーガという言葉と、 そこに関与した実践すべてに、釣られてしまう。 そして、それに関連して、幾日も、幾年も、使う。 或る種の・・・達成を望んで、です。 が、体操は、身体にとって、必要です。 語り手は、毎朝、それを一時間、行います - ヨーガと他の形の体操を、です。 そして、私たちは、一種類の食べ物が、慣習になっています。 私たちは、それに拘ります。 これらを理解されますね。 私がそれに、入らなくてもいい。
17:21 で、私たちの身体は、本当に、 あなたが、それに入ったことが、あるなら、 最も驚くべき器具です。 頭脳のように、です。 そして、長い使用をとおして、 それは、擦り切れてしまいます。 そして、有機体は、死にます。 私たちが、九十、五十のとき、 事故をとおし、 誤用をとおし、 老齢をとおして、です。 身体、有機体は、百年か、百十年、保つかもしれませんが、 有機体は、終わりになります。 それが、私たちが死と呼ぶものです。
18:26 そのとき、私たちは、自分自身に訊ねます - 私が死ぬのなら、生きるものは、何ですか。 ですね? あなたたちは、みんな、その質問をしていませんか。
18:44 聴衆: はい。
18:45 K: すばらしい問いです。 あなたたちは、みんな、その質問をしています。 私たちは、身体が去るのを、知っています。 私たちの生は、むだになったのかもしれません。 あなたたちは、自分自身に訊ねたことが、ありますか - あなたは、自分の生を、むだにしつつあるのかどうかを、です。 どうぞ、今、それを訊ねてください。 そして、あなたがそれを、むだにしつつあるのかどうかを、 自分自身で見出してください。 もちろん、あなたは、生計を立て、天職を持たなくてはいけません。 それは、当たり前ですが、 その他で、あなたは、自分の生をむだにしつつありますか。 大事でないことに、エネルギーを、使っていますか。 私たちが先日、言いましたように、 私たちの頭脳は、記憶すべてを収容しています。 私たちの頭脳は、私たちの意識を、保っています。 私たちの意識は、私たちの意識の内容を、作り上げます。 意識を作ります - すなわち、内容が、です。 すなわち、私たちの心配、私たちの恐れ、私たちの信念、 私たちの迷信、私たちの信条、 私たちの喧嘩、嫉妬、憎しみ、 恐れ、悲しみと、真理への探求が、です。 そのすべてが、私たちの意識の一部です。ですね? 明らかですか。 あなたの意識が、あなたなるものです。 あなたの意識は、あなたより、分離していません。 あなたは、意識です - あなたの感じ、あなたの情動、 あなたの情緒などとともに、です。 その意識の全体が、騒動、混乱の中に、あります。 常に変化していますが、それは、制限されています。 その意識が、あなたなるものです。ですね? これは、事実です。 それを見つめてください。 あなたは、語り手が言っていることを、受け入れなくていい。 私の声については、すみません。
22:27 その意識が、私です。 ですね?その意識は、利己です。 その意識は、自我、 人格、性格、傾向です。 それが、私たちの意識の内容全体です。ですね? その反応と行為(反作用と作用)、その堪能、 憂鬱、さびしさと、それらです。 私たちは、言います - それが、死における終わりですか。 私の意識も死ぬ。または、それは、継続するのでしょうか。 それが、あなたが興味を持っていることです。ですね? いいえ? あなたは、あなた自身の継続に、興味を持っていませんか。 または、あなたはそれを、すばやく終わらせたいですか。 確かに、私たちはみんな、継続について、考えたいし、あこがれます。 さもないと、あなたは、輪廻転生について、けっして話さないでしょう。 輪廻転生は、こういう含意です- 今、あなたなるものは、 すべての機会、すべてのものを持っていないが、 おそらく来世、あなたは、それを持つだろう、と。 より良い住宅、もっと多くの冷蔵庫、 より良い車、もっと多くの権力を、です。 または、あなたが、宗教的な傾向があるなら、 もう少し聖者らしく、道徳的であり、さほど腐敗していない、と。 が、それは、継続への同じ欲望です。ですね?
24:53 私たちはみんな、継続したいのです。 私たちは、継続するとは、どういうことかを、けっして問いません。 質問に付いてきておられますか。 私たちは、けっして自分自身に訊ねたことが、ありません - 私がいう継続とは、どういう意味なのか、と。 あらゆる物事が、変化しています- 私たちの細胞、私たちの血液。 脳の細胞は、常に死んで更新されつつあります。 そして、私たちが継続という意味は、 私たちが収集してきた記憶すべて、 信念すべて、経験すべて、 痛み、悲しみ、さびしさ、 絶望、そのすべて - 私たちはそれに、継続してほしいのです。 なぜなら、私たちは、「私」を継続させたいからです。ですね? 語り手は、何か虚偽のことを、言っていますか - または、真実のことを、ですか。 突然に、静寂にならないでください。 あらゆる人が、この継続に、あこがれます。 すなわち、安全としての継続、です。
26:45 そして、死があるなら、それは、あらゆる物事の終わりですか。 さて、私たちがいう、終わるとは、どういうことですか。 それに入りましょう。それについて、少し話しましょう。 私たちは、何かを自発的に終わらせたことが、ありますか。 あなたの怒り、あなたの嫉妬、あなたの攻撃 - あなたは、「私はそれを終わらせよう」と言ったことが、ありますか。 明日ではない。 今、完全にそれを終わらせる。 ですが、私たちの頭脳は、 段階的移行、次第にという観念に、条件づけられています。 ゆえに、私たちはけっして、何をも終わらせません。 例えば、自分は執着しています。 或る観念に、或る経験に、 何かの形の理想に、執着しています。 あなたは、そうでないですか。 思考が創り出してきた何かの形の概念に、です。 私たちは、安全として、それに縋りつきます。 で、私たちは、住宅へ執着しています - 家族へ、名前へ、です。 執着があるところ、心配があります。 恐れがあります。 嫉妬が、 保険と抵当権が、あります。 執着の含意すべて、です。 そして、死は、「で、それは終わりだ」と、言います。ですね? 私は、自分の妻に、友だちに、家族に、執着しているかもしれません。 死がやって来て、言います- 「もう済んだ」と。ですね? さて、私たちは、いつの時もずっと 執着したままに留まりたいと思います - 来世へ、です。 私は、兄弟や息子を、失ってしまいました。 私は、来世で彼に会いたいと、望みます。 あなたは、これらすべてのことを、感じませんか。 または、私は、何でもないことについて、自分自身に話していますか。
30:17 そして、私たちの生には、執着をとおして、継続があります。ですね? そして、「私は執着を終わらせよう」と自発的に言うこと - あなたは、そうしたことが、ありますか。 で、私たちは訊ねています。 あなたもまた、訊ねています - 私たちは自発的に、何かをあきらめることが、ありますか。 褒賞のためではない。 それ自体のために、です。 あなたは、何かを完全に終わらせることの美しさが、見えません。 で、終わることは、大きな意義を、持っています。
31:20 さて、問いはこうです - なぜ私たちは、死を、自分の生の遠い終わりに、置いてきましたか。 なぜなら、私たちは、知られたものに、縋りつくからです。 死は、知られていません。 私たちは、むしろ、自らが持つ騒動すべてと すべての悲惨、混乱、あこがれとともに 生きたいと思うのです。 私たちはむしろ、生、生きることと呼ばれるものを、持ちたい、 そして、可能なかぎり遠く、死を回避したいと思うのです。ですね? あらゆる物事の終わりに、です。 私たちは、友だちとして、あなたに、訊ねています - あなたは、生きている間に、死とともに生きられますか。 質問を理解されますか。 すなわち、 私が死ぬとき、有機体が、火葬されるか、埋葬されるだけでなく - 彼が死ぬとき、彼の友だちが、彼に何をするのでも、です - それは、あらゆる物事の終わりです。 私たちは、来世に継続がほしいかもしれませんが、 それが、現実です。 終わりです。 さて、死は、それを意味しています- 終わること、です。ですね? あなたは、死とともに生きられますか。 一緒に、です。 生と死が一緒に、です。 あなたは、その質問をしたことが、ありますか。 あなたは今、友だちとして、それを訊ねるでしょうか - 今、執着を終わらせるように、です。 あなたが死ぬとき、ではありません。 あなたは今、自分の恐れを終わらされますか - あなたが亡くなったとき、ではありません。
33:57 で、生きることは、可能ですか - これは、とても深刻な疑問です。 どうぞ、それに注意を払ってください。 私は、自分の友だちに、語っています - それとともに生きるように、です。 自殺をするのではありません。私はそれについて、話していません。 死とともに生きるとは、あらゆる物事を毎分、終わらせる、という意味です。 - あなたが、記憶として蓄積してきたすべてを、です。 もちろん、あなたは、自分の家を、去っていけません。 なぜなら、あなたは、抵当権、保険に支払わなくてはならないからです。 あなたは、住まいを持たなくてはいけません。 あなたは、それを手放せません。 または、あなたの職を、です。 そのとき、あなたは、失業するでしょうし、その悲惨のすべて、です。 または、あなたは、共同体に加わるか、サンニャーシ、僧侶になります。 彼らもまた、自分の悲惨を持っています。
34:59 で、あなたは、私は、 毎日、死とともに生きられますか。 それは、私の経験を毎日、終わらせる、という意味です。 それらの経験と知識の記憶だけ - 物理的に、それらは、必要です。 心理的に私は、記憶を終わらされますか。 それが死です。死は、私たちの生の終わりに、 私たちに、語ろうとしています - 「君は、自分の記憶を、運んでいけないよ」と。 で、いつの時も、死とともに生きる - あなたが、そうするなら、それは、すばらしいことです。 これは、褒賞ではありません。 なぜなら、私たちの記憶は、 全面的に、頭脳の中に、 脳細胞こそに、あるからです。 そして、過去である記憶は、去ってしまい、死んでいます。 記憶は本当に、何の意味も、持ちません。 けれども、私たちは、記憶に満ちています。 すなわち、私たちの知識に、です。 理解されますか。 これは、とても重要です。 あなたは今日、知識を、終わらされますか - 大工仕事とテクノロジーのことを する知識を、ではありません。 あなたが、持ち運んできた記憶、知識を、です。 あなたはできますか - 私は、横に座っている友だちに、訊ねています。 私は彼に訊ねています。 あなたは、物理的な世界で、一定のことをするために、 記憶を持たなくてはいけません。 心理的に、唯一つの記憶をも、持ち運ばないでください。 理解されますか。 唯一つの傷をも、 憎しみの一言や、 憎しみの感じや、権力、地位を探し求めることをも、です。 権力は、邪悪です - それが、政治的な権力であっても、 あなたが、自分の妻や夫に対して持っている権力であっても、です。 どの形の権力も、または、権力に近いことも・・・ 権力に近いことは、邪悪で、醜い。 あなたは、心理的にそのすべてを、終わらされますか。 それは、いつの時も死とともに生きることを、意味しています。
38:43 それは、あなたにとって、何か意味がありますか。 または私たちは、いつも死を恐れているのでしょうか。
39:03 これは、別の疑問をもたらします。 死と愛は、伴います。 死は、記憶ではありません。 愛は、記憶ではありません。 楽しみでもありません。 それは、欲望が終わること、 思考が終わることです- それが、愛です。 ゆえに、死と愛は、伴います。 これらを理解されますか。 あなたは、愛が何であるかを、探究したことが、ありますか。 私たちのほとんどにとって、愛は何ですか。 あなたは、樹を愛していますか。 あなたは、自分の妻、夫を愛していますか。 愛は、欲望ですか。 どうぞ、これは重要です。 それに入ってください。 見出すよう、心を注いでください。 なぜなら、あなたたちは、この国で、その性質を、失ってしまったからです。 あなたが、愛について話すとき、あなたは、空虚になります。 あなたは、それがどういう意味かを、知りません。 あなたたちが、自分の子どもを愛しているなら、戦争はないでしょう。 で、私たちは、愛が何であるかを、探究しなければなりません。
41:21 探究してください - 知的にではなく、分析的にではない。 「探究」という言葉を、私たちは、見守る、聞く、観察する、として使います。 愛とは何ですか。 それは、思考により組み立てられていますか。 これを理解されますか。 あなたが、「私は妻を愛している」と言うとき - そもそも、そう言うとして、です。 または、「私はあなたを愛している」と言う - それは、どういう意味ですか。 どうぞ、あなた自身に、この質問をしてください。 それは、あなたが彼女や彼について集めてきた、思い出すべてですか。 性的な楽しみですか。 欲望、慰めですか。
42:44 で、私たちは、自分自身に訊ねなくてはいけません - 欲望は何ですか。 それは、とても複雑なものです。 私たちは今晩、それに入る時間が、あるのかどうか、私は知りません。 また、すべてのイメージ、 すべての映像 - 私たちが互いについて、築いてきたものですか。 そのすべては、愛ですか。 または、愛は、欲望、思考、記憶より、 何か全然違ったものですか。 そして、愛の美しさなしに- すなわち、真理が、ですが - どれほどの量のあなたの冥想、読書、 探求、その他すべても、何の意味もありません。 で、愛は、嫉妬ではないですね?
44:01 愛は、憎しみではありません。 で、あなたは、嫉妬をすっかり脇に置けますか。 誰について、何についても、妬みを、です。 あなたは、そうするのでしょうか。 今、です。 明日ではない。 けっして妬まないでください。 それは、あなた自身を、他の一人と比較することです。 あなたは、その比較とその妬みを、終わらされますか。 終わらされないなら、愛は、ありえません。 あなたは、野心的であり、 自分の充足、自分の成功、自分の権力、野心、 それらを、探し求めているなら、 それは、愛を完全に拒否します。 いいえ? あなたは、それらを終わらせるでしょうか - 愛が何であるかを、見出すように、です。 理解されますか。 愛は、美しさです。 顔と絵画と写真、映像と、 美術館の内容すべてではない- 古代のでも、現代のでも、です。 すなわち、愛は、美しさです。 自己利益、自我、利己性が、あるところ、 愛は、存在できません。 あなたは、神を愛しているかもしれません - 私はそれを問います。 なぜなら、神は、何か、あなたの精神、頭脳から生まれたものであるからです。
46:18 で、死は、愛です。 終わることが、愛です。
46:31 私たちはともに、話し合うべき、会話すべきです - 宗教とは何ですか。 ああ、私は、これを終了させなければなりません。 あなたの意識は- 私はこれを追求しましょう - あなたの意識は、他の一人の意識より、異なっていますか。 あなたは、その質問をしたことが、ありますか。 それがないなら、どうぞ、今、それを訊ねてください。 あなたの意識は - すなわち、あなたの信念、あなたの動揺、 あなたの楽しみ、あなたの信条、あなたの心配、あなたの不安定です。 それが、あなたの意識です。 それにもっと付け加えてください。 それは、他のより異なっていますか。 境目、へり飾り沿い以外に、ですね。 あなたは、他の一人より、能力、技などを、 持っているかもしれません。 それらは、へり飾り、傾向、性格です。 あなたが、よく気をつけて自分の意識を、観察するなら - それが、あなたなるものですが - あなたの意識は、他の人々の意識に、似ています。 彼らは、あなたが経ていっていることを、経てゆきます - 不安全で、不確実で、混乱しています。 一定の政治家と同意し、他の人たちと不同意します。 腐敗しています。 これが、人類の意識です。 ですね? あなたは、私が言っていることを、信じなくていい。そうなのです。 あなたが、それを好きでも、好きでなくても、です。
48:31 私たちの有機体が、死ぬときさえも、その意識は、進んでいきます。 これを理解されますか。 なぜなら、人類は、多かれ少なかれ、ここ百万年の間、 重荷を、持ち運んできたからです- 悲しみ、痛み、 無数の欲望のそれを、それらの恐れなどとともに、です。 で、私が死ぬとき、 人類の共通の意識は、進んでいきます - すなわち、あなたの意識が、です。 ですね? それを、気をつけて見つめてください。 客観的に、見つめてください。 個人的に、ではない。 あなたは、インドに生まれたかもしれません - 一定の伝統、迷信を伴い、 千か、もっと多くの神々を持っています。 そして、他のものは、ただ一つの神です。 他のものは、さらに大きな文化、 さらに大きな洗練、さらに大きなこれとあれを、持っています。 そして、あなたの意識は、彼のに類似しています。 で、私が死ぬとき、 人類の意識は、 痛みと悲しみすべてとともに、進んでいきます。 あなたは、これの深刻さを、悟りません。
50:27 この意識より踏み出す人が、何人かが、いるのでなければ - 理解されますか - 全的に無自己である人が、何人か、いるのでなければ - すべての条件づけより全的に自由である人が、です - その意識は、進んでいくでしょう。 そして、そこから踏み出せる、わずかな人、 または、多くの人、または、あなたたちのみんな - あなたたちは、この意識を越えて、何に寄与しています。
51:26 私たちは、もう一つの深刻な事柄について、話し合うべきです。 すなわち、宗教とは何ですか。 人類はなぜ、 百万年以上の間、自分自身を越えた何かを、探し求めてきましたか。 理解されますか。 すべての新しい文化は、宗教に基づいています。 これは、歴史的な事実です。 現代の、私たちの文化すべては、 お金、騒音、暴力、残忍さ、権力に他なりません - 位階制度をともなって、寺院、モスクや教会にあっても、です。 彼らの儀式 - それは、宗教ではないでしょう。 その質問をしてください。 それは、宗教ですか - 来る日も来る日も、マントラを反復すること、 来る日も来る日も、供養を反復すること、 寺院へ行くこと、 計算不可能な金額を、差し出すことですか。 教会すべてを、見つめてください -それらがいかに築かれてきたのか、大聖堂を、です。 たぶんあなたは、世界で最も美しい大聖堂の幾つかを、 見たことがないでしょう。 すべて、神の名において、誰かの名において、です。 西洋世界では、それは、救い主です。 そして、東洋世界は - あなたのほうが、私よりご存じです。 それが、宗教と呼ばれているものです。 その言葉(宗教、レリジョン)の起源、語源は、 まだ確立されていません。 私たちは、それを様々な辞書で探してみましたが、 それはまだ、確立されていません。
54:01 神や、神を越えた何かを、 見つけるために人が行った試みすべてを、 私たちが脇に置けるなら、 そして、神を解釈するため、私たちに光を示すために、 私たちの間に入って来る司祭者をも、です。 導師たちをも含めて、です。 私たちが、そのすべてを脇に置くなら、 宗教とは何ですか。 理解されますか。 宗教は、思考により組み立てられますか - 自分の慰めのため、自分の心理的な安全のために、です。 思考は制限されていることを、知って - 知識は制限されているからです。 思考は、記憶の中から生まれます。 記憶は、知識です。 知識は、経験の中から出てきます。 思考の過程全体は、いつも制限されていますね。 それは、測量不可能なものを、想像できますが、 それはやはり、制限されています。 思考は、それを想像できるから、といっても、です。 それは、永遠を投影できます。 しかし、投影者は、制限されています。
55:47 で、宗教とは何ですか。 それは、何ですか - 人が、あなたと語り手が、 言ってきたことですが、それは、何ですか。 単なる知識以上のものが、何かありますか。 ですね?質問を理解されますか。 誰かが・・・質問を理解されますか。 私たちは、こうも多くの物事について、知識を持っています - どうやって月へ行くのか、 どうやって一撃で、百万の人々を殺すのか、 どうやって、数マイル、数千マイル、離れて、 こうも高速に、互いに通信しあうのか、 偉大な外科手術すべて。 それはすべて、知識の中から、生まれます。 そして、知識は、宗教ですか - 心理的な知識は。 または、心理的な知識が、終わることですか。理解されますか。 それが終わること。 それの永続化ではない。 それは、こういう意味です - 頭脳は、知識より自由でありえますか。 世間的にではない。 どうぞ、私たちはここで、 よく気をつけて、これを理解しなければなりません。 あなたは、車を運転するには、知識が必要です - 手紙を書くには、電話をするには、自分のビジネスへ行くには、 あなたは、知識が必要です - 自分の妻を認識するには、です。 彼女を叩いたり、彼女と喧嘩をしたりするには、あなたは知識が必要です。 または、彼女があなたと喧嘩したり、あなたを叩きのめしたりするには、です。 それは一般的に、ごく稀に起きます- 女が男を叩きのめすことが、です。 それが起きたらなあと、私は思います。
58:17 で、私は訊ねています - 知識の蓄積は、心理的に- 理解されますか - それは、理解をもたらすのでしょうか。 または、大いなる神聖さの状態に、入るのでしょうか。 ですね? なぜなら、人は、 このすべてを越えた何かを、探し求めてきたからです。 そして、探求は、見たところ、冥想をとおして、です。ですね? 私たちは、冥想について、少し話せますか。 冥想(メディテイション)という言葉は、 熟慮する、じっくり考える、という意味です。 私は、自分の問題について、熟慮(メディテイト)します。 また、その言葉は、測量することをも、意味します。 サンスクリットでもまた、 「マー」は、測量することであると、私は思います。 私が間違っているなら、訂正してください。
59:43 で、冥想は、今、 あなたが実践するものになってしまいました。 あなたは、体系に、方法に従います。 ヨーガをします - 冥想の一部として、です。 それは、冥想ですか。 準備と冥想。 理解されますか。 体系をとおして、自分自身を準備する - ヨーガをとおし、マントラの反復をとおして、です。 日中、午前に20分間、休む。 午後に20分、晩に20分、 すてきな昼寝や休みを取る。 それが何であっても、です。 そして、それを、来る日も来る日も、実践する。 それは、冥想ですか。 私たちのほとんどは、意図的に、意識的に、冥想します。ですね? 冥想するために、意識的にそれを実践する。 または、或る様式を実践し、それに従い、服従する。 そのときあなたは、気づくとはどういうことかを、学ぶでしょう。 誰かに従う人々が、たくさんいます - どう気づくのかを教えてくれるだろう誰かに、です。 それはすべて、ばからしく聞こえます。
1:01:32 で、冥想とは何ですか。 それは、とても興味深い問いです。 なぜなら、意識的な冥想、 適切に座る、呼吸する、その他すべての事柄の、意図的な過程、 意識的、意図的に冥想することは、 まったく冥想ではないからです。 それは、経営者になるために、意識的に働くこと 意識的に億万長者になろうとすること、 大金を持つことに、似ています。 それは、同じです。 あなたは、結果がほしいのです。 あなたは、精神の平和、静寂がほしいのです。ですね?
1:02:31 さて、静寂とは何ですか。 それは、音より分離していますか。 あなたは、音を探究したことが、ありますか。 音は、何ですか。 あなたの身体の内側に、いつの時も、音がある - 血が静脈を流れてゆきます。 彼らは、身体の内側に、カメラを入れてきました。 あなたは、あれらテレビの画像を幾つか、見たにちがいありません - いかにポンプ作用があるのか。 それは、雑音です。 それは、音です。 心臓が脈打っているとき、それは音です。 あなたは、自分の心臓が脈打っているのが、聞こえます。 それは音です。 ですね? そして、樹の音 - 微風が、木の葉と舞い踊っているとき、ではない。 強い風が、それを吹き抜けているとき、ではない。 樹が、とても静かであるとき、 唯一つの葉も、動くことなく、 そこには、音があります。 私たちは、まわり中に、音を創り出します。ですね? 隣りに、先月の間か、 もう一月か、どんな期間があるにしても、 騒音が、進みつつあります。 それは、音です。 声の音、 音楽の音。 理解されますか。 音が、あります。 なぜ私たちは、静寂より音を、分離しますか。 なぜなら、それが、あなたがほしいものであるからです - 静寂な、平和な精神、頭脳が、です。 それを達成するために、あなたは、実践します - 思考を制御することにより、 次第にとか、最終的に、一年か、二年して、 自分の思考、自分の感情への完全な制御を持つだろうと、望んで、です。 あなたはけっして、訊ねませんでした - 制御者は誰なのか。 ですね? あなたはその質問を、するのでしょうか。 私は、自分の思考を制御したいと、思います。 なぜなら、思考は、いつの時もあらゆるものを、追いかけていて、 落ち着かず、一つのことからもう一つへ動いているからです。 そして、私は、集中したい。 私は、自分のエネルギーを、 あのページか、あの台帳に、固定したいと思います - 政府か、納税者のために、 それをいかに歪めるのか、です。 私は、集中したい。私は、自分の頭脳の焦点を、それに合わせようとします。 そのとき、思考がやって来て、「ほら」と言う。 それは逸れてゆく。 散漫です。
1:06:14 で、集中と散漫が、あります。ですね? なぜあなたは、それを散漫と呼びますか。 散漫といったものが、ありますか。 これらすべての物事を、見出してください! 私は、あのページに集中したい。 が、私の思考は、他の何かへ、逸れてゆきます。 私は、それを引き戻して、「後生だから、集中しよう」と言います。 なぜなら、それで、お金が儲かるだろう、 それで、地位をもらえるだろう、 それで、活力、エネルギーの感覚をもらえるだろうから、と。 その衝動は、お金を稼ぐのと、同様です。 大きな違いは、ありません - 集中、目的を達成したいことと、 あなたが、たくさんのお金を稼ぐのや、 権力、地位に使う、集中との間に、です。 あなたが良い話し手であるなら - この国でそうするように、ですが - あなたは、話す人を崇拝します。 そして、自分の思考を散乱させるものが、何でも、 あなたは、それを散漫と呼びます。 そもそも、散漫といったものが、ありますか。 どうぞ、それを探究してください。 散漫は、 自分がすべきことや自分がしたいことより、 動いて去ることを、含意しています。 あなたは、集中したい、それをしたいが、散漫があります。 あなたがしたいのは、別の形の散漫ではないですか。 ですね?それを探究してください。 あなたの生全体が、一つの形の散漫ではないですか。 いいえ? 私を見つめないでください - まるで、あなたが悩んでいるかのように、です。 あらゆる物事が、散漫になります - 愛がないとき、 確実性がないとき、です。 ですね? 少し、あなたがこれに付いてくるなら、 私はそれに入るでしょう。
1:09:39 語り手にとって、散漫は、ありません。 彼にとって、あらゆる物事が、散漫です。 なぜかを、見てください。 政治について、果てしなく話をする。 果てしなく新聞を読んで、引用する。よろしいですか。 それは、散漫ではないですか。 おしゃべり、噂話。 それは、エネルギーのむだではないですか。 それは、散漫ではないですか。 で、どの形のエネルギーのむだも、散漫です。 ゆえに、私たちは、探究しなくてはいけません - そもそも、エネルギーのむだは、ないのですか。 みなさんは、これらに入ってゆきません。 私たちは、自分のエネルギーをむだにしますか。 多くの、多くの形で、そうしませんか。 あなたが集中したいとき、 それは、一つの形の抵抗です。ですね? あなたは、自分自身のまわりに、壁を築いて、 「私は気をつけて、これを見なければならない」と、言います。 それは、エネルギーのむだではないですか。 この闘い - 集中したい、制御したい、 権力を持ちたい。 それは、エネルギーのむだではないですか。 最重要人物の隣りの自分の地位に、取りすがること、 私は先日、うるわしい物語を、聞きました。 誰かが、(イギリスの)女王と握手しました。 その人物の横の、ご婦人は、 女王と握手したご婦人、人物に、 「あなたと握手してもいいですか」と言いました。 よろしいですか。
1:12:31 これらを聞いて、あなた自身で見出してください - なぜあなたは、何かを、散漫と呼ぶかを、です。 すべての葛藤は、散漫なのでしょう。 あなたの嫉妬すべては、散漫です。 それは、エネルギーのむだです - 嫉妬することは、です。いいえ? 誰かを嫌う、誰かを妬むことは、です。 で、私たちの生、生きることは、エネルギーのむだです。 私たちが生きているさまが、です。 私たちが、その生きるさまを、終わらせるなら、 いかなる散漫もありません。 そのとき、あなたは生きています。
1:13:46 で、私たちは、問いへ戻らなければなりません - 冥想とは何ですか。 自分自身を催眠に掛けることは、とても簡単です。ですね? 「私は達成しつつある」と自分自身に言う - 「私は、覚りに近づきつつある」と。 問いが生じます - 音の一部である静寂が、ありえますか。 私たちが静寂と呼ぶものは、音が終わることです。ですね? 音は、思考です。 音は、知識です。 ですね? あなたは、何の動揺もなく、その静寂を、持っています。ですね? その静寂の中、何かとてつもないものに、出くわします。 覚りのものすごい経験、です。 または、宇宙、万物への大いなる洞察のそれ、です。ですね? その静寂は、音に関係していませんか。 または、音は、静寂より異なっていますか。 または、音が静寂ですか。
1:16:04 あなたは、音を聞かれたことが、ありますか。 それに抵抗しない。「それは醜い音だ」と言わない。 音を、です。 頭上を通り過ぎる航空機、 轟いている。それは、ものすごい騒音、音です。 雷光。ですね? 私たちは、騒がしい。 ゆえに私たちは、静寂を探し求めています - 理解されますか。 で、私たちは、静寂より、音、騒音を、分離してきました - 私たちが、生きることより、死を、分離してきたように、です。 私が言っていることを、理解されますか。 で、私たちの頭脳、むしろ私たちの思考は、いつの時も、分離させています。 理解されますか。 分離することが、思考の本性です - 民族的に、宗教的に、あなたと私、 最も学識のある者たち、無知な者たち。 それは、自体が制限されている、思考の活動です。 ゆえに、何でもそれがすることは、制限されるでしょう。分離的でしょう - ユダヤ人、アラブ人、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、 共産主義者、社会主義者。 よろしいですか。 そのすべてが、常なる分割を、含意しています。 で、私たちは、音より静寂を、分離してきました。 ですね? 分かりますか。 あなたが、分離しないなら、 すなわち、音より離れて、静寂を探し求めないなら、 そのとき、音は、静寂の一部です。 これをお分かりになるのかどうかと、思われます。 これが、お分かりですか。
1:18:32 そうね、あなたが、静寂を探し出すとき、 あなたは、無秩序を創り出しています。 その無秩序を、あなたは、静寂と呼びます。 秩序は、生まれてくる・・・ 無秩序が終わるとき、それは、生じてきます。ですね? 初めに、無秩序を見出す - 秩序を探し求めるのではありません。 なぜ私たちの生は、無秩序の中にあるのか、 そして、それに入る、それを見出し、拭い去る、など。 無秩序へのその完全な了解が、あるとき、 自然に、秩序があります。 さて、あなたは、静寂より音を分離しないとき、 秩序が、あります- 完全な秩序です。 宇宙が果てしなく、秩序の中にあるように、です。 日の出、日の入り、星々、 新しい月の美しさ、満月。 宇宙全体は、秩序の中に、あります。 無秩序の中にあるのは、人間たちだけです。 なぜなら、彼らは、自然との関係を、失ってしまったからです。 彼らは、美しさを持っていません。理解されますか。
1:20:22 で、事態の終わりは、こうです。 自己がないとき - 自己中心性が、です - 全的に秩序立った何かが、あります。 その秩序は、静寂と音です。 そのとき、人が探し求めてきたものが、あります。 時がないものが、です。 あなたが、これをするのでなければ、 このすべては、言語的な戯言です。 あなたが、自分の生を理解するために、 精神と心を注ぐのでなければ、です - なぜ自分はこのように生きるのか、 なぜ自分は、来る日も来る日も、事務所へ行かなくてはいけないのか、 なぜ自分は、妻と、夫と喧嘩しなくてはいけないのか、 嫉妬か、です。 そのすべてが、愛を破壊します。 そして、愛なしには、何の秩序も、ありません。 愛が、あるところ、慈悲が、あります。 慈悲が、あるところ、至高の智恵が、あります。 コンピューターの人工知能、ではありません。 思考の、人為的な智恵や、部分的な智恵でもありません。 しかし、条件づけの事柄全体を 理解してしまって、自由である、 頭脳の性質が、あるとき - そして、静寂は、宇宙、万物のあの甚大な音の一部です - そして、悲しみの終わりが、あるとき、 熱情(パッション)が、あります。 慈悲(コンパッション)は、その熱情ですし、その智恵です。 そのとき、それを越えて、全的に何でもないことが、あるのです。
1:23:47 立ち上がってもいいですか。