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MA84DSG1.1 - 生きることは、絶えざる動きである。
小グループ討論会、第1回
インド、マドラス(チェンナイ)、
1984年1月2日



0:18 クリシュナムルティ(K): 誰がこれを始めますか。
0:22 ジャガンナータ・ウパディヤーヤ(JU):ププルジです。
0:28 ププル・ジャヤカル(PJ): 私は、 あなたに、お訊きしようとしています - その上に、議論の殿堂を築ける基盤を敷く、 基盤を創り出す疑問です。 問いは、こうです - 三つの要因だけが、あります。 空間、時と物質です。 私たちは、パンディットジから、これについて 仏教の見解が何であるかを、聞くでしょう。 私たちはまた、科学者たちが、きわめて深くこれを究明しているのを、知っています。 私たちは、あなたから知りたいと思います - あなたがいかに、これら三つの要素を、関係させるのかを、です。 外側、環境において、そして、人の内の環境において、です。
1:44 K: で、誰が始めますか。 パンディットジ、あなたの番ですよ。 で、あなたは、彼女が言ったことを、理解されましたか。
2:03 アチュット・パトワールダーン(AP):ええ、私たちは理解しました。
2:04 K: あなたたちは、それについて話してきました。よろしい。
2:07 AP: 少しだけです。
2:14 JP: (ヒンディー語で)
2:24 AP: ブッダは、人間の問題から始めます。
2:34 JU: (ヒンディー語で)・・・時、空間、物質・・・
3:02 AP: 空間、時と物質は、 ゆえに、ブッダにとって、 それをとおして人が自己を表現する媒体です。 ゆえに、それらは、そこに始まりません。 それらは、それら自体では目的ではありません。 それは、人がこれらをとおして、作動するからです。 ゆえに、それらは、意義を持っています。 それらは、意義を取得します。
3:37 JU: (ヒンディー語で)・・・時、空間、物質・・・

AP: ゆえに、問題、問いは、こうです -
4:08 人が、主要な要因であるし、 人が空間の中、時の中で、そして、物質をとおして、 いかに作動するのか、 または、人が物質でもっていかに作動するのか - それらは、意味を取得します。 なぜなら、人が、それらを手段として使っているからです。 が、それらが、自体で目的になるなら、 人は、自己を失ってしまうでしょう。
4:39 K: 私は、これをよく理解できません。
4:42 PJ: 私がそれをはっきりさせてもいいなら、 パンディットジは、私の問いを、問うています。 私は、時、空間、物質の間の関係を訊ねることから、始めました。 パンディットジは、こう言います - ブッダにとって、それは、本当の問いではなかった、と。 実在は、人でした。 これらは、ただ人が用いた器具だけです。 それらを誤用することは、問題を創り出しました。 が、それらは、人の本質的な問題ではありませんでした。 それへ、私は応えるでしょう - 私は、議論を取ってきました。 私たちが以前に行ってきた、数百の議論から、です。 なぜなら、私たちは、 自分たちが行ってきた以前の議論すべてに、戻っていくなら、 私たちはけっして、この質問をできなかったからです。 私は、この質問をしています。 長年、クリシュナジと議論をしてきた後で、です。 私には思われますが、時は 条件づけを解消する中で、 本質的な要素であるようです - 解放への追求において、人を阻む条件づけを、です。
6:20 K: 私は本当に、あなたたちがみんな、何について話しているかを 理解できません。すみません。 私は、あなたたちの用語や、あなたの発言に、親しんでいません。 あなたたちが何について話しているのかを、私はよく理解できません。 それは、私の無知なのかも、私の愚かさなのかもしれませんが、 私は理解できません。
6:45 PJ: あなたはこの問題に、何の応答も持たないと、仰りたいんでしょうか - 空間、時、物質の間の関係について、です。
7:01 K: あらゆる物事が、空間の中に、存在します。 あなたは、空間を持たなければなりません。 樹が、十分に成長するために、空間を持たなければならないように、です。 ですね? それは、空間を持たなければなりません。 そして、大地に、水に、由来する養分などを、です。 で、次の問いは、何ですか。
7:28 PJ: 束縛を破ること。
7:31 K: 破る? 

PJ: 人の精神を抑えている束縛を、です。
7:35 K: ああ、あなたは、他の何かについて、話していますね。
7:38 PJ: いいえ。それは、きわめて関連しています、クリシュナジ。
7:43 K: どうぞ、私には、単純にしてもらえるでしょうか。 私は、単純な人物です。 どうぞ、あなたのことを、単純に述べてくださるでしょうか。 するとおそらく、私は、理解するでしょうし、 おそらく、他の人たちは、理解するかもしれません。
7:56 PJ: 私は、もう一つの質問を、しましょう。 あなたは、時について語られました - 今に、収容されている過去と未来として、です。 昨日が、です。
8:12 K: それは動きです。 ええ、それは動きです。
8:17 PJ: それから、あなたは、 すっかり別の時に、触れられました。 私は、その別の時 - あなたが話しておられるもの - に、 至ろうとしています。 私は、それを探査する問いとして、これを用いました。 そのすべてを、脇に放っておいてください。
8:42 K: パンディットジ、あなたは・・・
8:51 AP: 私が理解するところ、 彼女は、時、空間、物質について、質問しました。 実際に、 二種類の時があるし、また二種類の空間と物質も、です。 微細なものと、粗大なものが、あります。 さて、実際に私たちはまったく、それの粗大な方を、取り扱っていません。 私たちが空間について話すとき、 あなたと私との間の空間は、何フィートかの距離ではありません。 その空間は、心理的な空間です。 同様に、物質もまた、単に時系列的ではありません。 それは、心理的です。
9:41 K: 物質 - あなたがいう物質とは、どういう意味ですか。私は迷っています。
9:47 AP: 時もまた、心理的です。 そして、物質は、仏教の用語で、 私たちは、(微細な水準で)タンマートラ(唯それのみ)という言葉を、使います。
9:57 JU: ダールマ(法)。
10:00 AP: それは、物質性へ帰属している心理的性質、という意味です。
10:08 PJ: 言い換えると、思考です。
10:13 K: それが、あなたが言おうとしていることですか。
10:19 ラーダー・バーニアー(RB): パンディットジが同意されるのかどうか、 私は知りません - すなわち、ダールマ(法)が 物質に帰属している心理的性質を意味することに、です。
10:30 JU: しません。
10:38 PJ: ですが、思考は物質です - あなたは、同意されるでしょうか。
10:41 AP: いえ。昨日、私は彼と、ダールマについて、話をしました。 ダールマ(法)には、二つの定義が、あります。
10:49 K: ダールマ?

AP: ダールマです。
10:51 ダールマの仏教的定義は、こうです - 特定の実体に、典型的な特徴であるか、 帰属しているものです。 それを除去するなら、その実体は、その名により呼ばれません。 で、ダールマは、その特定の対象物の、物質の、 本来的な実相です。 で、時、空間、物質がどれも取り扱われていないことを、見なくてはいけません - そこでは、物質から、他の何かへ、 科学者がそれに接近する、という意味で、です。 が、私たちは、逆の方からそれに接近しています。 私たちは、こう言っています- 心理的に、 これらが、作動しつつある要因である、と。
11:37 K: あなたは、物質は、固形化されたエネルギーであることに、同意されるでしょうか。
11:49 AP: いいえ。これは、とても重要です。なぜなら、 このお方は、この点について、ためらっておられると、私は見たからです。
11:56 K: 何ですか。 

AP: 彼は、この点について、ためらっています。
11:59 PJ: 彼はこれを、さほど容易く受け入れません。
12:02 AP: 昨日、私は、この点で彼がためらっているのを、見ました。 で、それをはっきりさせたほうが、いい。
12:06 K: ほら、私たちは、何について、話していますか。 私は単純にしましょう。 私たちは、時と、思考と、空間について、 話しています。 それに同意されるでしょうか。 時、思考、空間と物質 - なぜあなたは、物質を持ち込みますか。
12:34 PJ: 物質は、顕現しているものです。
12:39 K: 私たちは、それに同意しますか。 (ヒンディー語での議論)
13:41 PJ: 彼は、思考は物質でないと言うでしょう。
13:48 K: 私は、こう考えるでしょうね- 思考とは・・・ 思考は物質です。 さて、それに取りかかりましょう。
13:55 AP: 私は、こう言います - あなたは身体を持つのでなければ、 私は身体を持つのでなければ、自分の感覚を持てません。 感覚、五感は、私が身体を持っているから、存在します。 そして、感覚を持っているから、私は、思考を持っています。
14:18 K: 何ですか。
14:19 AP: ゆえに、思考は、感受により存在します - 五感により頭脳へ運ばれる感受によって、です。
14:43 JU: (ヒンディー語での議論)
15:53 RB: 彼は、こう言います - 普通のその用語の意味で、思考は物質ではありません。 普通のその用語の意味では、 これは物質です。マイクロフォンもまた物質です、などと。 ですが、思考は、特別な意味では、物質と見做されるかもしれません。 なぜなら、思考は、特徴を与えるもの、 精神を特徴づけるものであるからです。 そして、何をも特徴づけるものは、 その判別する性質です。 それは、他のあらゆる物事より、それを判別します。 他のあらゆる物事より、精神を判別するものは、思考です。 その視点からは、思考は、物質だと言えます。
16:42 JU: (ヒンディー語で)
17:09 RB: あらゆる思考は、他のあらゆる思考より、異なっています。 私は通訳しているだけです。 それは、他のあらゆる思考より異なっているから、 それは、実存的な性質を持っていて、それにより、それは物質になるのです。
17:38 K: で、何ですか。
17:40 PJ: 問いは、こうです- あなたが質問されました - あなたは、受け入れるでしょうか・・・

K: ・・・思考は物質的な過程である、と。
17:52 思考は、物質的な過程である、と。 一つの思考は、別の思考より異なっているかどうか、などではない。
18:02 RB: 思考は、頭脳の記憶から、生じます。 ゆえに、それは、物質的なものです。
18:08 K: それが、私が言っていることです。
18:11 RB: 記憶は、頭脳に、居住しています。
18:13 K: さあ、それをヒンディー語に翻訳してください。
18:21 JU: (ヒンディー語で)
19:14 PJ: 私が理解するところ、 彼は、知識は本質的に、物質ではないと、言います。 それは、物質を創り出すのを、助けます。
19:29 K: 何ですか?

RB: 彼は、こう言います - 彼は頭脳に、記録過程があることを、受け入れる、と。 彼は科学者ではないですが、 彼は、本質的に知識は、物質ではないと、言います。なぜなら、 頭脳の物質的過程は、知識が生ずるのを、援助するかもしれないが、 それは、知識そのものではないからです。
19:59 K: さて、私は、あなたがいう知識とは、どういう意味かを、知りたいと思います。
20:07 AP: (ヒンディー語で) (ヒンディー語での議論)
21:06 AP: 翻訳しましょう。 私は、こう言いました - 感覚対象と接触する五感は、 感受を、頭脳へ運んでいく、と。 そのとき、知識は、それら感受の子どもとして、生まれます。 ゆえに、感受なしには、知識はありえません。 ゆえに、知識は、 諸感覚の物質性に従属する、過程です。 さて、それへ、彼は、他の何かを言っています。
21:35 RB: が、クリシュナジは、彼に訊ねています - 知識とは、何ですか。
21:39 K: それがすべてです。 あなたの「知識」という言葉は、どういう意味ですか - 知る、とは。
21:48 JU: (ヒンディー語で) (ヒンディー語での議論)
23:43 RB: 彼は、こう言います - 感覚器官は、物質的である。 感覚の対象は、物質的である。 が、感覚対象の、感覚器官との接触をとおして、 知識が生じます。 その知識は、物質的ではありません。 なぜなら、器具は、物質的であるかもしれないが、 効果は、器具と同じではないからです。 ゆえに、器具が物質的であるからといって、 効果もまた物質的であることを、 結論できません。 彼は、知識は、物質より異なっていないと言います。なぜなら、それは所属する・・・
24:24 K: ですが、知識は、どこに蓄えられていますか。 (ヒンディー語での議論)
24:36 PJ: 知識は、どこに蓄えられていますか。
25:00 JU: (ヒンディー語で)
25:03 RB: 記憶の中、と彼は言います。
25:05 K: すなわち、頭脳です。 ゆえに、知識は、物質的です。 過程です。 (ヒンディー語での議論)
25:51 RB: が、彼は、矛盾している二つのことを、言っていると、 私は思います。 なぜなら・・・ (ヒンディー語での議論)
26:13 RB: 彼は、記憶は精神の性質であると、言います。 アチュットジは、こう言っていました - 頭脳が死ぬなら、記憶はない。 だから、それは、精神の性質ではなくて、それは、物質に所属している、と。
26:33 AP: 私は、記憶は、脳細胞の産物であると、言いました。
26:41 K: いいえ。私自身を見守っていて、私が理解するかぎり - 私は全然、間違っているかもしれません。 ものすごく訂正を受け付けます - 経験は、単純です。 経験から、知識があります。 経験なしに、知識はありません。 同意しますか。 そのとき、その知識は、頭脳に蓄えられています - 脳細胞の中に、です。 脳細胞は、物質的な過程です。 で、思考は、物質的な過程です。 それが、私が言っているすべてです。 それは、頭脳の脳細胞の中に、保たれています。 そして、記憶は、それら細胞の一部です。 そして、思考は、記憶から生まれます。さもないと・・・ すなわち、過程全体が、時です。 過程全体が、一定の空間の中に、あります - 制限されているなど、です。 そして、物質は、この過程です - それが思考です。
27:53 RB: その言葉なしの観察や知覚 - それについて、 あなたは、話しておられますが- それは、一種の知識ですか。
28:02 K: いいえ。
28:04 RB: あなたの用語法において、そうではありません。
28:07 K: 「私の用語法」を使わないでください。 私は、普通の英単語を使っているだけです。 私は経験をします。 私は、車を運転していました。 私は、別の車へぶつけました。 それは、経験です。 私は、その事故から、学びます - 私は、運転するとき、はるかに気をつけるべきことを、です。 それが、私の知識です - 頭脳に蓄えられた知識です。 で、私は、次回、見張っています。 で、その見張る中、 思考と、その他すべてが、生じます。 問題は何ですか。私はこれらが、よく分かりません。
28:47 PJ: いえ。ですが、何を訊ねるのが、妥当するのでしょうか・・・
28:53 知覚の中から・・・ 

K: あなたは知覚へ逸れていっていますか。
28:57 PJ: いいえ。なぜなら、それがちょうど今、持ち上がったからです。
29:00 K: 私たちが知覚へ入る前に、私は、パンディットジが、 このことに同意されるのかどうかを、知りたいと思います。
29:06 AP: 私もまた、彼を、この特定の点に、固定したいです。
29:09 K: 彼を留めてください!
29:22 JU: (ヒンディー語で)
29:54 RB: 彼は、経験は結論より異なっていると、言います。 あなたが、マイクロフォンを見て、それはマイクロフォンだ、と言うなら、 それは、以前にマイクロフォンを見たことなどに、 基づいている結論です。 が、経験は、何かそれに先行するものです。 経験が、結論に先行します。
30:20 PJ: ですが、私が言っていいなら、 クリシュナジは、その点に来ていないのです。 彼は、訊ねています - 頭脳の中に、記憶として蓄えられているもの、 それは、物質的な過程です。
30:35 K: それが、私が言っているすべてです。
30:37 (ヒンディー語での議論)
31:11 PJ: (ヒンディー語で)
31:16 JU: (ヒンディー語で)
32:13 PJ: (ヒンディー語で)
32:18 JU: (ヒンディー語で)
33:12 AP: 私は、あなたに同意いたしません。
33:15 RB: あなたは、彼が言ってきたことを、彼に語っていません。
33:18 PJ: 彼は、知識と経験との間に、区別を付けたのです。
33:23 K: ちょっと待って、ププル。 私はよく理解できません。
33:26 PJ: 私は、彼に訊ねました - あなたはどうして、経験が知識に先行すると、仰るのですか。
33:32 K: 何ですか?

PJ: 私は、彼に訊ねました - あなたは、経験が知識に先行する、知識に先立つと、 どうして仰るのですか。 彼は、経験は、私がそれに名づける事実に、先行する、と言います。 そして、私は、あなたはどうしてそう仰るのかと、言いました。 それに対して、彼は、知識は、支持がなくてはいけない、と言いました - 支持とは物理的なものです。
34:07 JU: (ヒンディー語で)
34:15 PJ: 経験のためには、物質が必要です。
34:21 K: なぜあなたは、これらに入りますか。 私は、車で事故を起こします。 私は、車を運転しています。 それを、物質的とか、その他すべてで、呼ばないでください。 事故があります。 私のラジエーターは、潰れて、粉々になります。 それが、記録されます。 私は、次回、運転するとき、はるかに気をつけています。 すなわち、私は、経験をしてきました。 その経験から、私は、知識を取得してきました。 ですね?
34:59 AP: 私は、仰っていることを、理解しました。 が、彼は、進んで受け入れようとしていません。 彼は、ラジエーターが潰れるのが、経験である、と言います - が、その中から生ずる知識は、物質的ではない、と。 それが、彼が言おうとしていることです。
35:17 K: それは、どこに蓄えられていますか - その知識は。
35:21 AP: 彼は、これを受け入れていません。 (ヒンディー語での議論)
35:41 K: あなたは、彼に頼んでくれるでしょうか - 大変丁重に、です - 仏教についてすべて忘れて、人間として話をするように、です。 私は、あなたを侮辱しているのでしょうか。 どうぞ、私は大変、尊敬をこめています。パンディットジ。 が、あなたは、仏教を一分間、忘れられ、そして、 二人の人間として、私へ話してくださるでしょうか。 ご覧ください。 パンディットジ、 私のような人物 - 私は、仏教を読んだことが、ありません。ですね? 私は、キリスト教を読んだことが、ありません。 私は、これらについて、何一つ知りません。ですね? そして、人間として- 人間存在です - 私は、知識を、行為の手段と見ます。 その行為が、完璧に実施されるのでも、されないのでも、です。
36:52 JU: この行為とは、何ですか。
36:54 K: 待って。私は、行為について、話していません。 私は、こう言っているだけです - 私の経験は・・・ 始める・・・生は経験です。 その経験から、 取得される知識が、大変多く、あります。 科学者のように、です。 彼らは、実験し、実験しつづけます。 彼らがすでに知っていることへ、付け加え、付け加えるまで、です。 そして、続けてゆきます。 そのすべての知識は、頭脳に蓄えられています。 それは、単純です。 それが、私の論点すべてです。 ゆえに、知識は、物質的過程の部分です - 思考のように。 それが、すべてです。 私は間違っているかもしれません。 訂正してください。 それが、私が言っているすべてです。 仏教徒としてや、キリスト教徒やイスラム教徒として、ではない。 そのすべてを忘れて、それについて、話しましょう。

JU: (ヒンディー語で)
38:31 (ヒンディー語での議論)
39:09 RB: 問題の一部は、翻訳にあります。 

PJ: 意味論です。
39:12 RB: アヌバーヴァ(領納)を「経験」と翻訳することは、
39:15 誤解を与えると、私は思います。
39:18 K: サンスクリットの言葉を、まったく使わず、 単純なヒンディー語で話してください。
39:23 PJ: 私は、一つのことを、お訊きしたいだけです。
39:25 RB: サンスクリットとヒンディー語は同じ言葉を、持っています。 サンスクリットで話すことなく、ヒンディー語で話せません。 (ヒンディー語での議論)
40:17 RB: ブッダが言ったことについて、何か。
40:20 K: それが、私が異議を申し立てていることです。
40:22 質問者: 彼は、病は言葉であると、言っています。
40:25 AP: いいえ。私は、彼は老人を見ると、言っています - 彼は、病人を見る、彼は、死体を見る、と。
40:34 K: 誰が見ますか。

PJ: ブッダが、です。
40:36 K: が、私は言いました - ブッダについて、話さないようにしましょう、と。
40:39 AP: いえ。私は、一例を示しているだけです - 知識はどうして、経験より分離できないのか、です。
40:44 PJ: いえ。私は、パンディットジに一つ質問をしたいです - もし、経験と知識が、二つの分離したものであるなら、 それらを分離し、ただ経験することは、可能ですか。 ただ経験することは、可能ですか。
40:59 JU: 可能です。

K: 何? 何?
41:02 PJ: もし知識と経験が・・・

K: 分かりました。
41:04 PJ: ・・・二つの分離したものであるなら、 知識なしに、経験することが、可能であるにちがいありません。 それは、可能ですか。
41:14 K: 待って。ええ。
41:21 JU: 可能です。 大いに可能です。
41:29 K: 息を止めないでください。
41:36 JU: (ヒンディー語で)
41:43 RB: 彼は、経験なしに知識はありえないと、言います - が、知識なしに、経験はありえない、と。
41:48 PJ: が、クリシュナジが、彼がちょうど言ったことを、追求できたなら。

K: いいえ。 それが、私が・・・
41:58 RB: アヌバーヴァ(領納)は、経験という意味ではありません。 それは、実際の知覚です。
42:04 K: いいえ。私は、こう言いたいと思うのです - あなたは、私を傷つけてきました。 それは、経験です。 それは、知識になります - それが記録されるとき、知識として蓄えられます。 

RB: はい。
42:22 K: それが記録されないとき、それは、たくさんの言葉だけです。
42:28 それで、すべてです。 それは、知識なしの経験です。 私が言っていることを、理解されるのかどうか、私は知りません。 

RB: はい。
42:35 K: さて、あなたは、サンスクリットに翻訳してください。
42:38 PJ: そのために、記録過程が終わらなければなりません。
42:40 K: それが、私が言っているすべてです。
42:42 PJ: そのために、時の問題全体が、そこに内在しています。
42:48 K: 誰が、パンディットジへ説明するんでしょうか。
42:51 RB: 彼は、英語を、すっかり理解します。
42:58 K: 私は言っています -
43:02 記録過程が、進みつつあるとき、 知識が生まれます。 私は、あれを見ます。 それは、登録されます -マイクロフォンとして、です。 私は次回、それを認識します - それは、キリンではありません。 そんなふうに見えますが、これはキリンではありません。 それが、すべてです。 が、登録がないとか、 記録がないのなら- そのほうが良い言葉です - そのとき、経験は、何の意味もありません。
43:43 AP: (ヒンディー語で)
43:52 PJ: 私たちは入ろうとして・・・私たちはその中へ動けるなら・・・
43:59 JU: (ヒンディー語で) (ヒンディー語での議論)
46:00 質問者: 彼は、知識より事実を、分離していますか。
46:04 RB: いえ。彼が言っていることは、こうです - 「ここに人がいる」とあなたは言います。 実際に、人はいません。 「人」というその言葉は、記憶のせいで、入ってきます。 その人を実際に見ることは、 人の姿での知識より、異なっています。
46:26 PJ: 論点全体は、パンディットジが、知識を用いていることです。
46:33 JU: いえ。経験です。 

PJ: いえ、知識という言葉を、知覚として、です。
46:36 JU: 初めに、経験、それから、知識、です。
46:39 RB: いえ。彼は、経験という言葉を、知覚として、用いています。
46:41 JU: 経験、知覚です。
46:43 PJ: いえ。彼は、「経験」というその言葉を用いています。 それでもって、それは記録されるからです。
46:48 RB: 彼は、記録は純粋に機械的な過程であると、言います - それは、知識とは、何の関わりもない、と。
47:06 PJ: 私たちは動くべきだと、私は思います - 私たちは動いて、この時の区域全体へ、入るべきです。
47:15 K: パンディットジ、私たちは、当面、他の何かへ動けて、 少し後で、それに戻ってこられるでしょうか。
47:21 AP: そう思います。
47:26 K: 時は動きです- 理解されますか - 過去、現在、未来としての時。 それは、動きです。 それは、動きです - 樹々の間の風のように。 それは、動きです。 ですね? 樹は静かです。 強い微風が、あります- 海から吹いてきて、 樹を動かし、木の葉を動かします。 それを、直喩に保ってください。 理解できますか。 で、時は動きです。 思考は、動きです - 空間の中で、です。 それは、単純です。
48:16 JU: 思考は、動く過程ですか。 思考の中で、動く過程とは、何ですか。
48:26 RB: 彼は訊ねています - 思考の中に、どんな動く過程が、ありますか。
48:31 K: もちろん、あります。
48:36 PJ: それは、過去から生じます。 (ヒンディー語での議論)
49:45 RB: 彼は、思考が動きであることを、認めません。 彼は、動きは無いと、言います - それはただ生じて、死ぬだけだ、と。
49:53 K: そうではありません。 日常生活の中では、です。 (ヒンディー語での議論)
50:46 K: 知識へ戻らないでください。 (ヒンディー語での議論)
51:06 K: 何ですか。
51:07 PJ: 私は、時は動きであるのかどうかを、訊ねました。
51:10 JU: (ヒンディー語で)
51:24 RB: 彼は、時は動きでないと、言います。 させるのは、記憶の動きだけであり・・・
51:30 K: それは、時です。
51:32 PJ: それは、思考です。

RB: それはまた、思考です。
51:34 K: ププル、これを伝えてください。 動きがあるところ、動かぬことも、あります。 分かりますか。 この観念を得てください。 さて、ちょっと待って。 私に終了させてください。 動きがあります。 同時に、動かぬことも、です。 その両方が、調和的に一緒に働くとき - 動きと、動かぬことが、です - そのとき、生は、全的に違った何です。 それが、私が言いたいすべてです。
52:03 PJ: もう一度、これを仰ってください。
52:06 JU: これは可能です。
52:08 PJ: 私が申し上げていいなら、これを探検しましょう。 あなたが仰るのは、どういう意味ですか。私たちは、探検できますか - この動きと、動かぬことを、同時性として、です。
52:29 K: ああ、待って、待って。 まず第一に、生は動きであることを、認めましょう。 生きることは、動きです。
52:38 AP: ジャガット(趣、世間) - その言葉は、動きを意味しています。
52:45 K: パンディットジ、単純な英語を、話しましょう。 生は動きです。生きることは、動きです。ですね? その動きの中に、時が、ある。 あらゆる物事が、ある。
53:01 JU: 生は、動きではありません。

K: いえ、ダーリン。待って。

JU: 動きは、知識です - 私はある、と。 (ヒンディー語での議論)
53:27 RB: 彼は今、生は動きではないと、言います。 彼は、知識は動きであると、言います。
53:33 K: いいえ。私は動きます。 私は始めます。 私は座ります。私は怒ります。 それは、絶えずです。 動きは、生です。 さもないと、私は死んでいます。 (ヒンディー語での議論)
54:55 K: 私がしたいのは、ですね・・・ただ、樹を見つめてください。 それは、静かです。 風がやってきて、それに吹き付けますね。 動きが、あります。 また、その風が止むとき、それは静かです。 それが、私が言っているすべてです。 人生、生きることは、動きです。 動きです。 生は、動きです。
55:20 JU: このすべての知識です。
55:22 K: いいえ。動きです。 私は行って、彼女に会います。
55:25 AP: それは、知識とは何の関わりもありません。 知識に依存せずに、動きがあります。

K: なぜあなたは、混ぜますか・・・
55:31 PJ: 種子は樹になります。
55:33 AP: 星は、動いています。

JU: いえ、いえ。動いていません。 (ヒンディー語での議論)
57:06 RB: 彼は、動きは記憶と知識だけであると、言います - 実際には、何の動きもない、と。
57:13 K: 私はあなたに会いに来ます。

RB: ええ。
57:15 K: あなたは、(アディヤール)川の向こう(の神智学協会)で、生きています。
57:18 RB: 私は彼に、生きることは動きであると、語りました。 彼は、「いや、そうではない」と言います。 (ヒンディー語での議論)
58:10 K: 私は、あなたに何かを語りたいと思います。 私は、彼女を知ってきました。 彼女は、川の向こうに生活します。 私は行って、彼女に会います。 ですね? すなわち、ここ五十年の間、彼女を知ることと、 それら五十年の動き - それは、記憶です。ですね? そして、私は行き、歩いて橋を渡ります。 そして、行って、彼女に会います。 それの全体は、動きです。
58:43 JU: これは、知識です。

K: 知識に基づいています。
58:46 JU: あなたの知識です。 

K: ええ、ダーリン。私はそれを言っています!
58:49 AP: それは、知識に基づいていますが、それは、動きです。
58:51 JU: いいえ。

K: はい。 あなたの仏教を、忘れてください。 人間として、私はあなたに会ってきました。 十年前か、十五年前、です。 私は、ベナレスへ来て、(そこに住む)あなたに、会います。 私は、あなたを認識します。なぜなら、私は十五年前、あなたに会ったからです。 さて、そのすべてが動きです - あなたに会いに来ること、マドラスからベナレスへ、です。 ジャトカに乗り、 あなたの住宅へ、来る。 あなたに会うため、です。 それは、記憶、知識に基づいています。 そして、私のベナレスへの旅行に、です。 それが、すべてです。 それは、動きです。 単純です。単純にしつづけてください。 いいですか?それに同意されるでしょうか。 それがすべてです。 私は、あなたを掴まえていません。 それが、私が言っているすべてです。 で、生、生きることは、 動き、絶えざる動きです。
1:00:04 JU: 精神の中で。

K: 待って。
1:00:07 それを、私が言っていること以上に、翻訳しないでください。 それを、仏教に翻訳しないでください。 人間として、 これが、いつの時も、起きつつあることです - 行為(作用)、反応(反作用)。 その行為と反応は、 引いてゆき、満ちてくる潮に、似ています。 それは、動きです。 あなたは、これは動きではないと、言えません。 それは、動きです - 入って来て、出て行く。 理解されますか。 いいえ。しようもない人に、礼拝しなくていい。 私はそれを、あなたに示しているだけです。 あなたは、その動きを考慮するのでしょうか。 また私は、言っています - 動きがあるから、また、動かぬこともある、と。
1:01:05 JU: 私の指は・・・ 

K: 待って、待って。あなたが跳ぶ前に。
1:01:09 JU: 私の指は、動きます。

K: おい、待って。
1:01:13 JU: 動かない。 私の指は、動いていません。 この所と、この所、 そこで、私の指は、動いていません。 この指は・・・(ヒンディー語で)
1:01:42 質問者: これは、悪い仏教です。

JU: いえ、いえ。
1:01:45 PJ: これは、このクシャナ(刹那)の概念に、基づいていると、私は思います。 - すなわち、毎秒は、自体で完全で、全的である、と。 ゆえに、それらを結合することは、彼にとって・・・
1:01:58 K: これが、まさに頭脳を、破壊しつつあります - このことを反復しつづけることが、です。 パンディットジ、私が言っているすべては、ごく単純に、こうです - 生は、絶えざる動きと行為です。 それがすべてです。 ですね? これは、事実です。
1:02:26 PJ: もしも私たちが、少し探検できたなら、
1:02:29 AP: (ヒンディー語で)
1:02:32 PJ: でも、アチュットジ、もしも私たちが、一跳びできたなら、です。 その一跳びは、こうです - 彼は、動きと動かぬことは、共存しうると、言ってきました。 私は、あなたとともに、それを探検したいと思います。
1:02:51 スナンダ・パトワールダーン(SP): 彼はまた、別の発言をもしました。 動きがあるから、動かぬことも、ある。
1:02:56 K: ええ。動きがあるから、動かぬことも、ある。
1:03:00 AP: それは、クリシュナジが言うことです。彼は、そう言いません。
1:03:02 PJ: いえ、クリシュナジ。 一跳びして、彼が言うべきことを、聞きましょう。
1:03:09 K: 何? 誰を?
1:03:10 PJ: あなたです。私はそれについて、議論したいと思います。
1:03:13 K: 私はそれを言いました。 ありがたい。あの光が消えました。 ご覧ください。 闇と光が、あります。 樹には、どちらも必要です。 ですね? 花には、どちらも必要です- 光と闇が、です。 で、生は動きですし、また、 この動きの傍らに、動かぬことが、あります。 また、静けさも、あります。 止まったこと、闇も、です。 闇は、隠喩的な闇という意味で、ではなく、 静かであり、動かぬことである闇、です。 これは、いつの時も私たちに、起きています。 私は、大変多く考えます- 私が、ではない - 大変多く考えるし、また、それが休むとき、考えることがありません。
1:04:22 PJ: でも、それらは、同時ですか。
1:04:25 K: いいえ、そうではありません。

PJ: それらは、同時ではありません。
1:04:28 K: ゆえに、私は言います - それらがどちらも、一緒に動くことは、可能ですか。 動きと、動かぬことが、です。 動かぬことは、死です。
1:04:44 JU: 死ですか。

PJ: 死です。
1:04:47 K: ですね? 死です。
1:04:51 K: 動きは、生きることです。 そして、死は、動かぬことです- 一緒に、です。 パンディットジ、理解されますか。 何が困難ですか。 何が問題ですか。
1:05:17 ちょっと待って。私は説明するでしょう。

PJ: いえ。私はしたいと思うのは・・・
1:05:22 K: 私は、あなたに執着しています。 また、私は執着から自由であるなら、 私はまだ、あなたとともにいます。 私はどちらも、一緒にいます。 何が困難ですか。私が言っていることを、理解できますか。 私は執着しています。 執着がないなら、 それは、私が慈しみ、愛を欠いている、という意味ではありません。 で、執着からの自由は、死です。 動かぬことです。 あなたが理解されるのかどうかと思われます。それを捉えましたか。 いえ、待って。あなたは、それを捉えるなら、通訳してください。 私は同時に、生きていて、死んでいきます。
1:06:14 RB: あなたが、執着を持ち込まれるとき、それは、少し創り出す・・・
1:06:18 K: いいえ。それを切り捨ててください。 私は生きていて、動いていて、考えています。また・・・
1:06:24 RB: あらゆる物事が、終わりになります。 

K: 毎日、毎分、です。
1:06:29 RB: ええ。

K: さて、それを説明してください。 すなわち、生きること、動くことと、動いていないこと。 それが、生です。
1:06:38 PJ: ですが、その精神の状態は、何ですか。
1:06:40 K: 待って。彼女にこれを、気をつけて、通訳してもらいましょう。
1:06:45 RB:アチュットジのほうが、うまく通訳できるだろうと、思います。
1:06:49 AP: 私は、理解していません。
1:06:53 JU: でも、私は理解しました。
1:06:56 K: 何が困難ですか。
1:06:58 RB: 私のヒンディー語は、不適当です。 それが、困難です。
1:07:02 K: 進んでください。 それを伝えるように、どの古い言葉でも、使ってください。
1:07:08 質問者: 英語でも、ヒンディー語でも、ゆっくりと。
1:07:11 RB: いえ、英語で、クリシュナジは、語ってきました。 生には、生きることすべてへの慈しみの動きが、あります。 同時に、あらゆる物事が終わりになるとき、 それは、思考において、継続しません- 何であれ、それにおいて、です。 そのとき、何の動きも、ありません。 それが、あなたが仰っていることですか。
1:07:42 K: 通訳する中で、何が困難ですか。 私はそれを、きわめて単純にしましょう。 毎分、私は生きていますし、毎分、私は死んでいきます。 それが、すべてです。 死ぬこと、生きることが、ある - 一緒に、です。
1:08:07 RB: クリシュナジ、これは、 思考が生ずるが、記録されないのと、同じですか。
1:08:15 K: ええ。何かそのようなことです。 が、思考を・・・出さないでください。 そのとき私たちは、思考は何なのか、その他すべてに、逸れていってしまいます。 私は生きています。 生きることは、動きです。
1:08:30 RB: ええ。
1:08:31 K: 普通の動き - 超常的な動きや、潜在意識ではなく、 ただ生きることが、動きです- それは、時です そしてまた、死ぬことも、です。 私の生の終わりに、ではなく、死ぬことです。
1:08:46 RB: 継続的に、です。
1:08:49 K: それを違ったように、表すと、 集める、放棄する、集める、放棄する。 あなたがそれを、通訳できるなら、です。
1:08:59 PJ: 彼は、これを理解しました。
1:09:05 JU: (ヒンディー語で)
1:09:11 K: 何ですか。
1:09:13 RB: 彼は、言います - 彼は、言いたくありません。 (ヒンディー語での議論)
1:09:31 RB: 彼は十分にこれを受け入れます。
1:09:34 K: ゆえに、何が起きるかを、ご覧ください。 ゆえに、それの帰結を見てください。 記録することと、記録を破壊することが、あります。 記録することが、記憶です。 そして、それを放棄することです。 これは、十分に単純です。
1:10:00 PJ: どうして、それは単純だと、仰るのですか。 私は、これが起きる精神を、究明したいと思います。
1:10:11 K: 待って。 頭脳は、記録しています。 そしてまた、記録しないでください。
1:10:19 PJ: 「記録しない」とは、どういう意味ですか。 あなたがそれを与えないなら、それに透徹しないなら・・・
1:10:26 K: 私がいうのが、どういう意味を、説明しましょう。
1:10:31 RB: あなたは、こう仰っていますか - 頭脳は、機械的であり、記録するが、 心理的には、いわば、それに燃料が、与えられません。
1:10:45 PJ: いえ、私は訊ねています。 頭脳は、記録します。 同時に、知覚が生ずることが、ありますか - 破壊するものが、です。
1:10:57 K: ええ。それが、私が言っているすべてです。 それがすべてです。 単純にしておいてください。 ゆえに、動きと、動かぬことが、あります。ですね?
1:11:31 RB: 知覚が自然に生ずるなら、 それは、記録を破壊しますが、 そのとき、あらゆる物事は、記録されつづけますか。 例えば、あなたの頭脳において、 あらゆる物事が、記録されつづけますか。
1:11:48 K: いいえ。いいえ。 当面、記録を放っておいてください。 なぜなら、それは、主題を錯綜させるからです。 私は、同時に、生きていて、死んでいきます。
1:12:03 それがすべてです。

RB: ええ。
1:12:05 K: それがすべてです。それを単純にしておいてください。 そのとき、あなたはその深みを得るでしょう。 私たちは記録するとかなら、私たちは、迷ってしまうでしょう。 私は生きる。私は動く。 また、同時に、 動かぬこと。 あなたが理解されるのかどうか、私は知りません。 仮に、私がこの邸宅を所有していると、します。 そして、私は、それに執着しています。 ゆえに、それに、終わることは、ありません。 が、私は見るとき、知覚があるとき - 執着の含意、です - そのとき、その知覚こそが、執着を終わらせます。 ゆえに、それは、同時に死ぬことと生きることです。
1:13:03 あなたが理解されるのかどうかと思われます。

RB: はい。

K: それがすべてです。 それは、可能ですか。 理解されますか。 私たちは、「はい。私は理解します」と言いますが、それは可能ですか。 パンディットジ? 含意は、全く・・・ ここには、ものすごい含意が、あるんです - 集めることと、手放すこと。 それは、集める、保つ、それから、それを手放すことではない。
1:13:59 あなたは理解されるのかどうかと思われます。 

RB: はい。
1:14:03 AP: 集める、保つ・・・
1:14:05 K: 保たない。
1:14:09 RB: 集める、保つ、手放す、ではない。
1:14:12 集める、手放す。 

AP: それが、私が言っていることです。
1:14:15 K: これの美しさが、見えますか。

RB: はい。
1:14:18 K: あなたは、それが見えるのかどうかと、思われます。
1:14:22 AP: 集める。 保たず、手放す。
1:14:28 K: いいえ。私たちは、友だちです。 私に敬礼しないでください。 これは、生において、可能ですか。 私たちは、理論的に話していますか。 または、実際にですか。
1:14:46 JU: 理論的に、です。

RB: 彼は、理論的に、と言います。
1:14:50 K: ああ! それなら、それに意味はありません。
1:14:58 JU: これは真理です。 私の真理です。
1:15:01 K: 私がいいますのは、 保つことが、問題です - 集めることと手放すことが、ではありません。 保つことが、です。 そのとき、私は、放棄しなくてはいけません。 そのとき、私は、それについて、何かをしなくてはいけません。 が、集めることと手放すことが、あるとき、 それは、潮が満ちてきて、潮が引いていくのに、似ています。 時は、保つことです。
1:15:40 JU: ですが、時は・・・
1:15:43 AP: それを取り入れてください。
1:15:45 K: 時は、保つことです。 ですね? 

RB: はい。時は、保つことです。 

JU: いいえ。
1:16:02 K: 待ってください。私は、間違っているかもしれません。
1:16:05 パンディットジが、正しいかもしれません。見出しましょう。
1:16:13 集めることと、手放すことが、あるとき、 間隔がありません。 それは、絶えない動きです。 よろしいですか。 ですが、保つことは、二つを分離します。 私は、それを説明しましたか。 保つこと。 保つことは、「私」です。 保つこと、保たれてきたものが、 自我、「私」、人物です。 それは、時です。 自己は、時です。そして、保つことは、自己です。
1:17:01 JU: (ヒンディー語で)
1:17:09 K: 私が言う意味は、分かりますか。

RB: はい。
1:17:21 K: それは、太鼓に似ています- 太鼓、ムリダンガム。 それは、調律されています。 どの調べも、そこで叩けます。 頭脳が、空っぽであり、調律されているとき・・・
1:17:41 JU: 全体性です。
1:17:44 K: 私は、他の何かへ逸れていこうとしています。そうしてはなりません。 あなたは、何について話していますか。 (ヒンディー語での議論)
1:18:07 PJ: 私たちは、もう一回、議論を行うでしょう。
1:18:10 K: ええ。ですが、私は、これを明らかにしたいです。 私は、何かへ至ろうとしています。 (ヒンディー語での議論)
1:18:44 PJ: 彼は、何かへ至りたいと思います。
1:18:48 K: いえ、いえ。彼は、何を言っていましたか。
1:18:51 PJ: それは、ちょうど太鼓について、です。それはイメージです。
1:18:58 K: 私たちは、見ますか - どうぞ、私が言っていることを、何も受け入れないでください - 保つこと、それは、記憶、等々ですが、 保つことは、自己の本性です。 ですが、この絶えざる動きが、あるとき、 自己は、ありません。 結局のところ、自己は、 記憶、知識、経験を保つことです。 そのすべてが、自己の本性と構造です。 瞬間から瞬間・・・その他すべて、ですね。 しかし、入れるための器がないなら - 器、入れ物です。

AP: 容器。
1:20:35 (ヒンディー語での議論)
1:21:21 AP: 再び、彼は、戻ってきています。
1:21:23 RB: クリシュナジは、保つことが自己であると、言っています。
1:21:27 AP: いいえ。彼は再び・・・そうね、それは再び捻れています。 彼は、存在は保つことを、意味すると、言います。
1:21:37 RB: 自己は存在です。 それは、同じことです。 存在するのは、自己です。
1:21:44 AP: なぜあなたは、そう仰いますか。私は同意しません。
1:21:46 K: ご覧ください。潮は引いていきます。潮は満ちてきます。 川には、海には、材木が、あります。 岸辺に残っているのが、自己です。 ですが、水は、いつの時も、動いています。
1:22:00 理解されますか。

RB: ええ。 何も残っていないなら、自己は、ありません。
1:22:11 K: すなわち、ご覧ください。 先日、カリフォルニアで、 ものすごい、ひどい暴風雨が、ありました。 それで、岸には、材木すべて、あらゆる種類の破片が、残りました。 それが、自己です。
1:22:35 K: ですが、何もないとき - よろしいですか。 

RB: はい。

K: カリフォルニアについて、彼に説明してください。
1:22:43 RB: 私にはできません。

AP: どうぞ、どうぞ。
1:22:45 RB: 潮と、それらです。 (ヒンディー語での議論)
1:23:20 K: もちろんです。 あなたは、前に同意していました。 そうしないでください・・・
1:23:29 AP: 合間に彼は、こう言おうとしていました - 存在の本性は、保つことである。 そして、存在と保つことは、類義語である、と。 私は、自分はそれを受け入れないと、言いました。
1:23:42 質問者: 彼は、存在という言葉を用いることで、同じ感じを伝えています。 私は、間違っているかもしれません。
1:23:49 AP: そうね、彼は、存在を、保つことと、同等視しようとしています。 私は、いいえ、と言っています。 すると彼は、それは、ヴェーダーンタ的な立場であると、言います。 私は、事実に拘ろうと言っています。 事実は、あなたが仰ったことです。 すなわち、嵐がある。 その嵐は、たくさんの破片を、もってくる。 そして、嵐が鎮まるし、破片は残ります。 破片は、自己です。
1:24:16 K: それが、私が言っているすべてです。
1:24:20 PJ: 言い換えるなら、それは、残留物です。
1:24:22 AP: それは残留物です。そのとおりです。それが、その言葉です。
1:24:31 PJ: 彼が、創造と、同時に終わることについて言ったこと - 破片は何もありません。

K: それですべてです。
1:24:41 RB: が、間隔があるとき・・・

PJ: そのとき、破片が入ってきます。
1:24:51 RB: もし潮がないなら、もしそれは、すべて出ていくのと、入ってくるのなら、 それはまた・・・
1:25:02 (ヒンディー語での議論)
1:25:10 K: 潮は入ってゆき、潮は出ていく。 水は出てゆき、水は入ってくる。 そこに、時はありませんが、保つことは、時です。
1:25:19 PJ: それは、自然です。 潮が満ちてくるのと、潮が引いていくのは、自然です。
1:25:25 AP: それは、存在です。
1:25:28 K: よろしいですか。 彼は、それを認めません。
1:25:32 PJ: もうお止めになるべきだと、思います。
1:25:34 K: 私はただ、言おうとしています - 自然は、時について考えません。 それは、時を持ちません - それは成長する。それは死ぬ。 それは、ただ・・・生はそうです。 が、私たちは、時を考案してきました - 昇る。沈む。 赤ちゃん、青少年、頂点に至る、下降する。 そのすべてが、時です。 ですが、潮は引いていく。 潮は満ちてくる。 それは、樹が成長するのに、似ています。 それらは、時について考えていません。 それは、ただ成長し、死にます。 が、私たちは、時を考案してきました。 すなわち、 私は赤ちゃんです。私は、大人になり、これを達成し、死にます。 で、時は・・・時は、なっていくことだと、仰るのでしょうか。
1:26:56 PJ: それは、受け入れなければなりません。

AP: マハーカーラは・・・

K: 仏教へ戻らないでください。
1:27:02 AP: ええ。私は、サンスクリットの言葉を、用いています。
1:27:05 K: 私は、普通の人物です。 私は、学識を持ちません。
1:27:09 私は見ます - 私は赤ちゃんでした。 そして私は、成熟を見ます - 成熟における残りの問題すべて、などなどです。 そして、私は死のうとしています。 これは、自然です。 が、私が、「私はあれにならなければならないよ」と言うとき - 「私は、覚りを開かなければならない。 私は、導師にならなければならない」とか、「私は、首相にならなければならない」と。 それは、時の過程です。 お分かりになるのかどうか、私は知りません。私は間抜けですか。
1:27:38 質問者: いいえ。 これは、完璧です。
1:27:41 PJ: お止めになければなりません。
1:27:44 K: ちょっと待って。 ちょっと待って。
1:27:50 RB: そして、知識すべては、保つことです。
1:27:53 K: もちろん、そうです。 ゆえに、頭脳に、何が起きるかを、見てください。 それが、私が訊ねていることです。 それは、いつの時も、新鮮です。 ゆえにそれは、けっして老いません。 理解されますか。 けっして、退廃しません。 パンディットジが、理解されるのかどうか、私は知りません。 少し、それを説明してください。
1:28:24 PJ: (ヒンディー語で) それはいつも、生まれつつあり、破壊されつつあるから、 頭脳はけっして、老いません。 それはけっして、老いません。それはいつも、創造されつつあります。
1:28:52 K: 頭脳を老いさせるのは、保つことです。 保つことは、エネルギーのむだです。 私は、それについて、話しつづけられます。
1:29:11 PJ: いえ、あなたは、お止めにならなければなりません。 このものさえも、あなたは話すのを止めなければならないと、言ってきました。
1:29:20 K: 私たちは、この小さなばかげたことへ、来るために、 そのすべての時間を掛けてきた、と、仰るつもりですか。