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MA84DSG1.2 - 死を理解すること
小グループ討論会、第2回
インド、マドラス(チェンナイ)、
1984年1月4日



0:17 クリシュナムルティ(K): 何について議論しましょうか。
0:21 ププル・ジャヤカル(PJ): 私たちは、議論を始めるのを、 ジョージに任せるべきだと思います。
0:29 アチュット・パトワールダーン(AP): ジョージに始めてもらいましょう。
0:32 K: ジョージは、誰ですか。 

PJ: 彼は、(物理学の)スダルシャン博士です。
0:35 K: ああ。私は、あなたがイギリス人だと、思いました。
0:37 ジョージ・スダルシャン(GS): 彼らは、私を真剣に取ってくれません。
0:40 K: いえ、私は、ジョージは誰かと思いました - 彼は、イギリス人なのか、アメリカ人なのか、と。 進んでください。
0:52 GS: ププルジは、昨日、議論について、触れました。
0:57 AP: 一昨日です。
0:59 GS: その中で、問いが出されました - 異なった種類の時が、機能することについて、です。 すなわち、なっていくことが、無くなってしまったときにさえ、 作動しはじめるか、機能する時が、ありますか。 すなわち、因と果が止滅してしまったとき、 或る人物の通常の過程 - 因果作用と、記憶と、 期待と予想のそれと、 自分の生涯にわたって、または、その前にすら蓄積された背景すべてが、 あきらめられ、落とされてしまったとき、ですが、 やはり、その中で出来事が開かれていく一種の時が、ありますか。
1:46 K: それが、あなたが望むことですか。
1:52 PJ: クリシュナジはまた、生ずることと、 同時に、その生ずるのを否定する知覚についても、語りました - 生ずることと、否定することの同時性、です。 そして、それへの関係で時の要因は、何であるのか、です。 本質的に、クリシュナジ、今とは、何ですか。 今とは、何ですか。
2:22 K: 先日、私たちは、時について議論していました。 過去、現在、未来が、あります。 過去である現在は、未来です。 で、過去、現在、未来は、 時である動きです。 そして、今に、現在において、 過去、未来、現在。 過去と未来は、今です。
3:01 GS: ええ。
3:03 K: 私たちは、その点に至りました。 また、私たちは、 時は、なっていくことだけではないと、言いました - 予想、望み、その他すべてだけではない。 また、時は、保つことです。 所有の感覚、 蓄積された知識の感覚、 そして、その知識とともに生きることもまた、時です。 他の時が、ありますか - 時、動きが、です。 私たちはまた、思考の動きがあるとも、言いました - それは、物質的な過程です。 そして、思考もまた動きです。 で、時、思考は、類似しています。 ですね? さて、あなたは、質問をしています - 動かぬことが、ありますか - 自らが、この心理的な時の中から、踏み出したとき、です。 当然、物理的な時は、あります - ここからそこへ、その他すべてです。 時と思考の動きより、 全然違った動きが、ありますか。 それが、問いですか。
5:00 PJ: 私が表してもいいなら、 動きと、動かぬことは、同時に存在できますか。
5:14 K: これはすべて、理論的です - 当面は、ね。 ですが、私たちは、これらについて、理論的に議論し、 思案しているのか、あるいは、 実際に起きることを、見ているのか - 知識としての時が、 停止し、 頭脳が、古い残留物、すなわち知識に則って、 機能しないとき、です。 あなたが付いてこられるのかどうか、私は知りません。それは相当、単純です。
6:00 GS: あなたは、頭脳が機能するのを停止することについて、話をなさりたい。 または、精神が機能するのを停止することについて、です。
6:06 K: いいえ。あなたが気にされないなら、私は、頭脳と精神を、 分離したいと思います。 頭脳は、条件づけられています - 教育、階級。 これらすべては、単純です。 精神は、頭脳の外側にあります。 これが、科学者みんな、仮説すべてに背反しているかもしれないのを、
6:29 私は知っています。

GS: いえ、いえ。
6:32 K: が、精神は、私にとって、 何か、頭脳の条件づけに全然関係していないものです。 ゆえに、それは、何か言葉により測量可能でないものです。 または、思考などによっても、です。 それは、測量可能でありません。 ところが、頭脳の活動と、頭脳の活動のむだは、 測量可能です。 そして、度量は時です。 そういうわけで・・・ さて、私たちは、 蓄積された知識から、機能します。 蓄積された知識は、「私」です- 私の自己、私の自我、 私の自己中心的な活動です。 ですね? さて、自己中心的でないことは、可能ですか。 それが、第一の問いです。 自己より全面的に自由であること。 よろしいですか。論点を明らかにできているのかどうか、私は知りません。 パンディットジ、私たちは、互いに理解しあっていますか。
7:59 AP: (ヒンディー語で)
8:03 ジャガンナータ・ウパディヤーヤ(JU):(ヒンディー語で)
8:14 K: 自己があるかぎり、時が、あります。ですね? 自己は、時の産物です - 進化、「私」、そうね、 自己中心的な頭脳の活動すべてです。 私の地位、私の権力、私の・・・その他すべて - 「私」です。 その「私」、すなわち、蓄積された知識と記憶、経験などが、 あるかぎり、時の制限が、あります。 それが、私が言っているすべてです。 ですね? 私はそれについて、きわめて明らかです。その点までは、ね。
9:06 JU: (ヒンディー語で)
9:11 K: あなたは、ヒンディー語を話されますか。

GS: 少し理解するだけです。

JU: (ヒンディー語で)
10:47 ラーダー・バーニアー(RB): 彼は、こう言います - 時について、何とでも自分が好きなように、語るかもしれません - 思考としての時、動きとしての時、等。 存在してくる時と、無くなってしまう時があり、 それは、なっていく過程、できてくるものと、 無くなっていくもの - それは、なっていく過程であり、その中に私たちは、生きています。 が、その裏に、何か精神が、ありますか - そこに、この生ずることと終わりがないものが、 それより異なった、何らかの精神が、です。 そうであるなら、それは、私たちの外側にあります。
11:48 AP: 私たちは、それに関係しています。 私たちは、それを操作できません。
11:50 RB: 私たちは、それへ何かをできません。 

K: ええ。
11:53 RB: 私たちはさらにできない・・・

K: それを構想したり、それに行為したり、
11:58 RB: 行為できない。そのとおり。

K: それにあこがれたりも、です。
12:00 RB: それを究明したり・・・

K: ええ。それはできません。 受け入れないでください。 私たちは、議論しています。 問いに答えています。 私は、教義的に定めていたり、 思弁的に、何かを言ったりしていません。 自己、「私」が - 生ずる、死ぬ、生ずる、終わる、またも、生ずること。 内的に、なっていく、この絶えざる過程、です。 そのなっていくことが、時です。 私たちは、それについて議論してきました。
12:44 JU: なっていくことだけでなく、有ることも、です。
12:48 RB: 有る。それが自己です。
12:51 K: ええ、それが自己です。
12:53 RB: ええ、有ることが、自己です。
12:56 PJ: 有ることが、自己ですか- その意味は・・・
13:01 K: 私はそれに、拘りましょう。 有ることは、ないのです。
13:04 PJ: それが、私が探究したかったことです。
13:07 RB: いえ。彼が、「有る」と言うとき、それは、「私が有る」という意味です。 なっていくことは、ありますが、また「私が有る」との感覚も、あります。
13:19 K: いえ・・・もちろんです。

RB: それはすべて、同じことです。
13:21 K: 同じことです。有ること。彼は、それらは二つだと言います。もっともです。 (ヒンディー語での議論)
14:12 AP: 彼は、訊ねたいと思います。 すなわち、私たちが、生ずる、なっていくこの過程を、見る後 - 思考が生ずる、思考が進むのを、です。そして、これが、止まります。
14:26 これが止まるとき・・・ 

K: それが止まるのを、どうして知りますか。
14:29 AP: いえ、いえ。当分の間、交通信号のように、それは止まります。 それは、一定の間、止まります。 交通信号が交通すべてを止めるように、そのように、です。 それが止まるとき、彼は、言います - 「私が有る」といったものが、ありますか。
14:46 RB: 有るものとして。

K: いいえ。
14:52 RB: それを単純に表すと、 なっていくことが、終わりになるとき、有ることが、ありますか。
14:58 K: ええ。もちろんです。有る - あなたがいう、有るとはどういう意味ですか。 誰が。何が。
15:04 AP: 私の感覚。 

PJ: いえ、いえ。 私の感覚ではないかもしれません。
15:09 K: 待って。あなたがいう、有るとは、どういう意味ですか。
15:13 PJ: 存在する。
15:15 K: 何が存在しますか。 存在するとは、どういうことですか。
15:18 PJ: 生きること、存在することがあるとの感覚です。
15:23 K: あなたが、自分は生きていると認知した瞬間、 そのとき自我が、作動中です。
15:29 PJ: いえ。クリシュナジ、私はそれを、受け入れないでしょう。 なっていくことが、終わるとき - 私たちのほとんどにとって、思考が終わることは、可能です。 すなわち、なっていくことが、です。 思考が終わるとき、留まるのは、死んだ状態ではありません。
15:57 K: 何ですか。

PJ: 死んだ状態ではありません。
15:59 GS: それは、死んだ状態ではありません。

K: ああ、はい。もちろんです。
16:02 PJ: で、存在している、 生の状態が、あります。

K: いいえ。
16:13 GS: 私は、あなたたち二人の間で、仲介できるでしょうか。
16:16 私には、こう思われます - ただ、わずかな違いが、あるけれども、 あなたが、有ることについて、話すとき、 それは、機能の条件についての、発言ですか。 または、私たちは、対象物について、話していますか。 有ることは、定義からして、対象物であると、仰るなら、です。
16:32 PJ: いえ、私は、対象物について、話していません。
16:34 GS: そうです。で、あなたが、生きることや有ることについて、話すとき、 残りの世界より、知る人物の分離が ない程度において、 (必然性を示す)ヴャープティ(遍充)がある程度に、 それらとの完全な同一視が、起こります - 自分自身では、何も主張しなくて、です。 あなたと、他の何との間にも、分離は、ありません。 その有る状態は、すべての有ることより、異なっています。
17:05 PJ: 私がごく単純に表していいなら - もし私が外側を見守っているなら、 私が、あなたが話されるのを、聞いているとき、有ることが、ある。 なぜあなたは、有ることを、拒否されますか。
17:16 K: あなたがいう、有るとは、どういう意味かを、私は知りません。 これが、私が悩んでいるところです。
17:21 PJ: 有るとは、何かが有るのを、意味しています。 何も無いと、仰るのなら・・・
17:31 K: パンディットジ、おそらくあなたは、それを違ったように表すかもしれません。
17:37 K: いいえ、私は言っていません。

RB: 彼は訊ねています。
17:40 質問者: ああ、すみません。
17:42 JU: (ヒンディー語で)
18:10 AP: 彼はこう言っているのかどうか、彼に訊ねてください。
18:14 RB: 彼は、有るのと、なっていくのとの間に、違いはないと、言います。
18:18 RB: なっていくことが、終わるとき、有ることが、終わります。 

K: ええ。 (ヒンディー語での議論)
19:53 RB: 彼は再び言っています - 有るのとなっていくのは、同じである、と。 なっていくのと有るのが、あるとき、自己があります - その付随的活動等すべてとともに、です。 それが、終わるとき、自己もまた終わります。 が、このすべてや思考等の終わりが、あるとき、 何かがありますか。 または、何もないですか。 維持する何かが、ありますか - そこで、あらゆる物事が、維持されるものが、です。
20:34 PJ: お訊きしてもいいなら、 なっていくのと、有るのとの間に、あなたが引かれる区別は、何ですか。
20:40 RB: 彼はそうしません。 彼は、それは同じだと、言います。
20:42 PJ: すると、なぜそれらは、二つの言葉ですか。
20:46 K: 何? 

PJ: なぜそれらは、二つの言葉ですか。
20:48 K: なぜあなたが、有ることを、導入したのかを、私は知りません。
20:52 PJ: が、そういう有るものが、あります。

K: 私はそれを問います。
20:56 RB: サンスクリットでは、それらは、二つの言葉ではありません。 バーヴァは、有るのとなっていくのと両方を、意味しています。
21:03 K: あなたは、サンスクリットを引用したことにより、困っています。
21:08 AP: これは、私がパンディットジと行った 議論の横枝です。それは、きわめて妥当します。 パンディットジは、こう言っていました- プラジュニャー(般若)は すなわち、あなたが智恵と呼ばれるものですが、 それは、知能に関係していないと、私は言いました。 知能が、自らは際限があり、自らは制限されていることを、 認識するときだけ、それは止滅します。 その空っぽの中にのみ、智恵が生まれられます。 で、知能と智恵との間には、全的な断絶が、あります。 これが、私が言っていたことです。 その言葉「智恵」(インテリジェンス)はプラジュニャーと翻訳されます。 それは、きわめて特別な仏教語です。 なぜなら、それはまた、慈悲でもあるからです。 さて、彼は、同意しないように思えます。
22:07 K: 同意しないように。
22:09 AP: 彼は、こう言うように思えます - XとYとの間には、或る種の関係がある、と。
22:16 K: XとYとは、何ですか。
22:19 AP: Xは、知能です。 Yは、智恵です。
22:22 PJ: 私たちはまだ、そこに来ていません。

K: あなたは、新しい要因を導入しています。
22:26 AP: 私はそうしていません。私はこう言っています - この議論、 有るのと、なっていくのとについての、この特定の議論と、 何かが残されているのかどうか、ですが、私は、こう言いました - 否定があるのでなければ、肯定的なものは、ありえない、と。
22:42 PJ: が、私は、それにもっと入りたいと思います。 なっていくことは、差別化です。 差別化の状態です。
22:54 GS: 差別化。それは進みます・・・

K: 理解できます。
22:59 PJ: 有るのは、無差別化の状態だと、私は言っています。
23:04 K: あなたは、あれに拘るし、私は、それに拘る。
23:09 GS: そのとき、差別化があります。
23:11 K: いいえ。それが、私が言おうとしていたことです。 私たちは、それについて、対話を行えるでしょうか。 私は私のへ拘る、あなたはあなたのへ拘る、ではない。
23:20 PJ: 私はそれを探検したいと思います。
23:24 K: なぜあなたは、有るのと、なっていくのを、差別化しますか。
23:28 PJ: なぜなら、物事がそこから生じてくるところ、 物事がそこへ消えていくところの状態が、あるからです。
23:37 K: それは、自己です。
23:39 PJ: が、自己は、さほど顕現していないかもしれません。 それは、直接的に、「私が有る」との感覚でないかもしれません。 私が言いましたように、窓をとおして外を見るし、聞くように、 その状態は、何ですか。
23:58 K: 私はよく付いていけません。
24:00 PJ: 注意の状態です - 私は、違った用語を、使いましょう。 気づきや注意の状態- それは、何ですか。
24:11 K: 注意の中に、 自己はありません。
24:17 PJ: 自己はありません。 そのとき、それは何ですか。
24:20 K: 何?

PJ: それは、何ですか。
24:24 GS: 彼女は、知りたいと思います - それは何ですか。
24:26 K: あなたがいうそれは、どういう意味ですか。
24:30 GS: 何が注意を注ぎますか。
24:33 PJ: 注意の本性は、何ですか。
24:35 K: ああ、それは、異なった問いです。 いいえ。それは、異なった問いです。
24:39 RB: あなたは、注意の本性は何であるかと、訊ねていますか。または・・・
24:44 PJ: 注意の基盤。
24:46 RBええ、基盤。 そこから注意が来る基底・・・
24:49 PJ: 注意の基盤は、何ですか。
24:51 K: 注意は、裏の基盤(背景)を持ちません。
24:53 GS: そうです。同意します。
24:56 K: 偉人が同意します。
25:07 GS: 物理的な宇宙には、二種類の機能が、あります。 すなわち、物理学の議論において、です。 一つは、個別的出来事により、ラベルづけされる種類の機能です。 その中には、時系列があります。 物事の順序があります。 そのときあなたは、出来事を連携させる法則を、構築します。 それで、あなたは、こう言います - 風が、枝を揺らしている。 風は、温度の差異により、引き起こされる。 一つの出来事が原因になり、別の出来事を引き起こしているのが、見つかります。 それが、別の出来事を引き起こしているし、とてもうれしく感じます - 自分は、数多くの物事を理解できることに、です。 が、そのとき、別の種類の機能が、あります - その中で、差別化をしないものが、です。 例えば、自由に動いている物体 - それは、物理学の大発見でした。 人々が、自由運動は、説明を必要としないことを、判断したとき、です。 なぜそれは継続的に動いているのかとは、言いません それは単純に、それを、物事の本性へ、帰属させられます。 それは対象物の本性であると、言うのです - 動くことが、です。 そして、物事の視野を、広げたり、一般化したりできます。 それで、ほとんどの体系は、或る意味で、歴史なく機能します。 或る体系の、孤立した体系の、ほとんどの純粋な発達 - 他に何もないという意味での孤立ですが - 完全な体系は、歴史を持ちません。 その中に、出来事を持ちません。 いつ歴史は、いつ出来事は、来るのか。 或る体系が、それ自体で機能しているのに、それを、 他の何かのマトリクス(基体)の中に、入れつつあるとき、出来事が来ます。 そのとき、こう言います - ああ、何か、曲線状に動いているものは、本当は自然ではない、と。 なぜなら、私たちは、それはまっすぐ動くと、考えがちであるからです。 で、私たちは、質問します - なぜそれは、まっすぐ動いているのか、 なぜそれは、まっすぐ動いていないのか、と。 で、一番目の種類、 開いていく、時系列的な種類は、 不完全な体系を持っているとき、起こります。 体系にとって外的でない、体系の振るまいにとって、 理想がある、という意味で、不完全です。 これらの理想と比べて、 体系の実際の運用を測量するとき、 出来事が起きていることと、時系列について、話をします。 が、体系が、それ自体の中で完全であるとき、 それは、無特徴ではないが、その機能は、時系列を持ちません。 その体系の中に出来事は、ありません。 不幸にも、私たちは、時系列の観念に、こうも慣れています。 すなわち、自然な進化は、いつも、きわめて悩ましいものである、と。 その中で、何も起きていない進化、です。 で、いつでも、物事を内包する運動が、起きつつあるとき - が、その中に、明確な原因と結果を、設けられません - 私たちは、大いに関心を持ちます。 私たちは、大いに懸念を感じます。 私たちは、自らが十分な理解を持っていないと、感じます。 私たちは、それを砕いてしまいたい、そのものを離散化し、機能させたいと思います。 おそらく、開いていくこれら二つの可能な種類が、 議論のためのモデルに関してか、それとして、役立つかもしれません。 すなわち、物理的な時には、一種類の時が、ある、と。 その中で、出来事が起きるもの、 その中で、熱力学の第二法則、 エントロピー、記録、記憶、予想、原因、結果、 これらすべての物事が、起きるもの、です。 もう一つのものは、その中で、 何が原因であり、何が結果であるかを、言えません。 なぜなら、それに関しては、出来事が断裂することは、ないからです。
28:43 K: それは、いつ起きますか。
28:45 GS: 体系が、それ自体を比較するための理想を、持っていないとき、です。
28:48 K: それは、どういう意味ですか。
28:49 GS: 私たちは、それを閉ざされた体系と称します。 私たちがいう意味は、本当は、完全な体系です。
28:53 K: すべての体系において、- 官僚、科学、 宗教の体系でも - すべての体系において、 本来的に衰え、エントロピーが、あると、仰るのでしょうか。
29:08 GS: はい。
29:10 K: そうですか?

GS: はい。
29:12 K: で、頭脳が収集しているかぎり、 それは、体系を形成します。

GS: よく分かりません。

K: 頭脳は、収集中のかぎり、それは、体系になります。
29:27 GS: そうです。 全くそのとおり。
29:30 K: で、体系になる収集は、 本来的に、衰える過程です。 退廃する過程です。 あなたと私が同意しているのは、どのようにですか。
29:48 GS: 私は、年老いていき、賢くなっていくにちがいない。
29:51 K: あなたは、年老いていくにちがいない。 または、私たちはどちらも、衰えていきつつあります。
29:57 GS: いえ。たぶん私たちは、あまり違い、分離がないのを、見つけています。
30:02 K: 言語的に、ね。

GS: ですが、クリシュナジ、私は、頭脳へのあなたの注意に、関心があります。
30:09 わずかに不同意させてください。 なぜなら、頭脳もまた、物理的な体系の一部であるからです。 そして、私は、自分の頭脳へ、さほど注意を払わなくてもいい - 樹々や鳥たちに対してよりは、です。 時々、私はそれらを使いますが、それから時々、私は、樹をもまた使います。 で、私は、私の頭脳で起きること、 私の精神で起きることに、さほど執着していると感じないかぎり - 私は、「精神」が好きではありません。頭脳で起きること、 思考の波と、様々な相互関連の機動、などです。 私は本当に、頭脳がこのことをしているとの事実に、 関心を持ちすぎるべきではありません - 私が、バナナがなっていくことに、悩まないように、です。
30:49 K: 同意しますが、私の頭脳が、何であれ、 条件づけられているかぎり、 この頭脳は、きわめて制限されます。 それは、無際限の能力を、持っています。ですね? その能力は、拒否されつつあります - 自らの制限によって、です。 あなたは、科学者ですが、私は、そうではありません。 あなたは、ものすごい知識を、蓄積してきましたし、 時折、何かへ洞察を持ちます。 あなたは、動き、付け加え、動き、付け加えつづけるでしょう - この付け加えは、条件づけの要因です。 明白です。 ゆえに、頭脳は、制限されます。 その付け加えが、自己です。 私たちは動いて、違った用語法へ、入っていきます。 ゆえに、自己がそこにあるかぎり - 自己は、体系です。 ゆえに、自己は、衰退の要因です。
32:15 GS: これは、自己(セルフ)と呼ばれるものです - 大文字S を付けて、というより、小文字 s を付けての、です。
32:20 K: いえ、自己は、自己です。 大きな自己ではない。
32:24 GS: ええ。なぜなら、同じ言葉が、二つの別々の脈絡で、用いられるからです。
32:27 K: いえ。私は、ただ小文字 s の一つだけを、用いています。 私にとって、大文字の自己は、ありません。
32:36 RB: ププルジが言ったことに、戻りますと、 あなたは、注意は背景(裏の基盤)を持たないと、仰いました。 

K: もちろんです。

RB: が、私たちのような普通の人々は・・・
32:47 K: 私たちはみんな、普通です。
32:50 RB: 私たちは、注意の瞬間を、持ちます。 そして、注意は終わるし、自己は戻ってきます。 どこから、それは戻ってきますか。
33:07 K: そのとき、それが戻ってくるなら、それは注意ではありません。 背景(裏の基盤)があって、 あなたが、「私は注意深い」と言うかぎり、です。ですね?
33:25 RB: が、それは、注意が解放と同義語である、という意味です。
33:31 K: あなたがいう解放が、どういう意味かを、私は知りません。
33:34 RB: 自己からの解放です。
33:38 K: そうね、これは、複雑になりすぎます。
33:41 PJ: 自己が戻ってくるなら、との発言を、するなら、 そのとき、その注意は、注意ではありません。 そのとき、私たちは、最初の一歩さえ、踏んでいません。 あなたが、その発言をするなら - 自己が戻ってくるなら、それは注意ではない、と。 彼女は、言います - 私たちは、最初の一歩さえ踏んでいない、と。
34:16 K: たぶんね。 私は、知りません。
34:18 PJ: いいえ、私は、ただ言っています。 クリシュナジにおける問題は- それは基本的な問題だと、 私は思いますが - 彼が受け入れない、ということです。 彼は、それは段階的な過程であると、言うでしょう。 私は、時や、段階的な過程、ということに立って、 それについて、話していません。 その中で、なっていくことが停止してしまう注意が、あります。
34:50 K: ププルジ、私たちがいう注意がどういう意味かを、見出しましょう。
34:55 PJ: 注意は、或る状態を、意味していて・・・
34:58 K: いえ。それは、どういう意味ですか、ププル。 それについて、対話を行いましょう。 私は、そうであるとか、そうでないとか、述べないでしょう。 注意とは、何ですか- 注意するとは。 パンディットジ、あなたは何と仰るでしょうか - 注意とは何ですか。 (ヒンディー語での議論)
36:53 PJ: 注意や知覚です。 (ヒンディー語での議論)
37:06 AP: いえ、私は、誤解を晴らしているだけです。 

K: 注意とは何ですか。
37:11 ここに、科学者がいます - あなたにとって、注意とは何ですか。 私に対して、単純であってください。
37:18 GS: 私は、分離がないとき、注意があると、言うでしょうね - どの実体の知覚をも含めて、 他の何とも同一視が、ないとき、です。 注意は、そこに何の予想もなくて、 何の記憶もないものです。
37:33 K: それは、どういう意味ですか。 背景(裏の基盤)がない。
37:35 GS: 背景がない。 私たちは、今回だけは、同意しあっています。 さて、私は信じています- 私が信じているのではない - 私は、それが、最も単純な発言であると、感じます。 注意の中に、背景(裏の基盤)はありません。 なぜなら、背景は、マトリクス(基体)、理想を、想定するからです。 比較は何もありません。 注意は、二番目なき一つです。
37:59 PJ: それについて、不同意は、ありません。 クリシュナジ、問いは、こうです - もし自己が、10分後に、生ずるなら・・・
38:10 K: いいえ。私は、それを自己と呼ばないでしょう。 そうね、あなたは、「自己」という言葉を、いつの時も、使っています。 私は注意します。 そして、私は注意しません。 その注意の中に背景(裏の基盤)は、ありません。 (ヒンディー語での議論)
39:20 PJ: 彼は、注意と不注意は、一つである、 同じものであると、言います。 それらは、同じ基盤(グランド)の上で、起きつつあります。
39:33 GS: これは、その立場の対極です - クリシュナジが、解明してきたのは、です。
39:40 AP: それが、正しく、私が考えたことです。
39:46 K: 私は、議論したいと思います - ちょっと待って。私たちは、時について、議論していましたね。 愛は、何の時をも、持ちません。 愛は、思い出ではありません。 愛は、欲望や楽しみの活動ではありません。 で、欲望と楽しみの活動には、時が、関与しています。 愛は、時を持ちません。 ゆえに、死は、時を持ちません。 跳ばないでください。
40:51 PJ: あなたは、力強く跳び越えさせます。 

K: 何ですか。
40:57 RB: 力強く跳び越えさせる、と彼女は言います。
41:01 K: まあ、私は知りません。 それは、跳び越えていますか。
41:05 パンディットジ、あなたは、私が言ったことを、理解されましたか。
41:09 JU: (ヒンディー語で)
41:20 RB: ブラーフマーストラと言われるものは・・・ 

K: 誰?
41:24 RB: あらゆるものを殲滅する武器があると、されています。 で、彼は、あなたはそれを使っていると、言っています。
41:34 AP: ええ、彼は、あなたは尖端から語ると、言います。 

K: いいえ!

AP: 私たちには、全的に接近不可能なところから、です。 到着不可能ですらなく、接近不可能です。 ゆえに、私たちは、沈黙させられます。
41:46 K: 私は、あなたの発言を問います。

AP: 私は通訳しています。
41:50 K: いいえ!それは、接近可能です。 私は、尖端に何かを置いてから、 それは接近不可能だとは言いません。
41:58 AP: 私は通訳しているだけです。 私は理解したいです。
42:02 K: あなたは、尖端に何かを、置きます。 そして、それは接近不可能だと、言います。 私は拒否し・・・個人的に私は・・・

JU: (ヒンディー語で)
42:18 RB: 彼は、愛は、生ずることと終わることを持つのかどうかを、訊ねています。
42:24 K: いいえ。それが、生ずることと終わることであるなら、それは時です。
42:31 JU: (ヒンディー語で)
42:38 PJ: 私たちはそれについて、議論できません。それは、議論を越えています。
42:43 K: いいえ!
42:45 PJ: もしそれが、生じもしないし・・・
42:48 K: いいえ!対話とは、何ですか。
42:53 対話は、こうです - 彼が問うし、私が答える。 私が答える。その答えに、彼は問い、答える。 そして、私は、その答えを受け取る。私は、それに答える。 で、彼と私は、忘れ去られます。 私たちは、存在していません。 ただ問いが残っています。 あなたが、その問いを放っておくなら、 それは、花開きます。 それは、活力を持っています。
43:28 JU: (ヒンディー語で)
43:35 K: 何ですか。 (ヒンディー語での議論)
44:05 K: 何?
44:07 PJ: 私は言っています - これは、聞くことの問いです。答えることの、ではない。
44:15 K: あなた自身の科学的な分野で、 二人の科学者が、議論しています。 彼らは本当に、ジョージさんとXさんを、忘れてしまいました。 ですね? そして、問いが、残っています。 問いが、両者により触れられずに残っているとき、 それは、動き、活力を持っています。 それは、答えを産出します。
44:41 同意しますか。

GS: はい。
44:43 K: 神様。みなさんは、どうしてしまったんですか。
44:46 GS: ですが、クリシュナジ、私が思うに、有る・・・
44:48 K: 彼は今、それを理解しましたか。

AP: いいえ。彼は、こう言います - すなわち、あなたが、私が触れない要因を持ち込んだ瞬間・・・
45:00 K: 私は、どの要因をも、持ち込んでいません。
45:02 RB: 彼は、そう言っていません。 アチュットジ。 彼は、言います - 彼は、あなたが言ったことを受け入れる、と。 問いと答えの流れが、あります。 が、彼は、言います - これは、愛とどんな関わりが、ありますか、と。
45:17 PJ: それが問いです。 

RB: それが、彼が言っていることです。
45:19 K: 生とどんな関わりが、ありますか。

RB: 愛と、です。
45:24 A: ええ。よろしいです。 それは、愛と関わりがあります。 私は、発言をします - 発言をするのが誰かなのは、大事なことではありません。 すなわち、愛は時を持たない、と。 愛があるところ、時は、ありません。 さて、ちょっと待ってください。 あなたは、聞きます。あなたは、それを問います。そして、私は応えます。 で、意思疎通が、あります - 言語的にも、非言語的にも、です。 で、問いは、留まっています。 事実は、留まっています。 あなたが、それを放っておくなら、それは、動きはじめます。
46:11 PJ: 私が何かを言ってもいいですか。 

K: ええ。
46:16 PJ: あなたは、愛は時を持たないと、仰いました。
46:19 K: それの美しさを、ご覧ください。 それを潰さないでください!
46:23 PJ: 聞く。 それは、最終的な問いです。
46:31 K: そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
46:34 PJ: いいえ。私は、聞いた後、そう言っています - それへ何の応答も生じないことを、です。 

K: 何ですか。
46:40 PJ: 応答がない - 問う平野において、 その中から、もう一つの問いが、生ずるとき、です。
46:46 K: いえ、ププル。 応答があります。
46:51 PJ: その中から、何も問いが、生じません。
46:55 そうね、問いがあります。 

K: そのときあなたは、それとともに留まります。
46:59 PJ: それが、私が言っていることです。 彼は、その中から生ずる問いとして、それについて、考えています。
47:07 K: いいえ。ププル、あなたは、蓮の花を取り、それを見つめなさい! パンディットジに語ってください。 私は、かなり強調しています。 すみません。 それが伝達されたのかどうかを、私に言ってください。 (ヒンディー語での議論)
47:54 K: また彼は、死は時を持っていないとも、言いました。

GS: クリシュナジ、私たちへの親切から、
48:07 私たちは、これらの跳ぶのを、少し短くできるでしょうか。 なぜなら、すでにパンディットジは、こう言っているからです - 彼は、あなたの発言にどう応答するかは、困難だと見ている、と。 それに、彼は完全に同意し、確認するのですが。 その特定の発言を、彼が前に持っていた疑問に、 どう関係づけるのか、です。
48:25 K: それは、何ですか。
48:26 GS: それは、有る、なっていくの問いでした。
48:29 K: それは、これに関与しています。

GS: そうです。 で、私には、こう思われます - あなたが、死へ行く前に、 愛について、話しましょう。 そして、その問いへの関係、です。 あなたは以前に、こう仰っていました - 二人か、多くの人々の間に、対話があり、 そして、目的が実際に対話であるとき、 人物は無くなり、問いが残り、それが動き回る、と。 それは、様々な人々をとおして、語ります。 それ自体の活力が、機能します。 私は、パンディットジが訊ねているのは、こうであると、思います - それが、その中で、彼はそのものへどう応答するかを、知らない状況であるとき、 彼が、不同意するからではなく、 それが、ブラーフーストラであるのではない。
49:24 K: それは、何ですか。

GS: ブラーフーストラです。
49:26 K: いいえ。それを導入しないでください。

GS: オーケー。 

K: 普通の言葉だけです。
49:30 GS: 最終兵器、すなわち、 発射台を含めて、あらゆるものを破壊するものです。 あなたが、そういう状況を持っているなら、 彼は、あなたの前の提言に、どう応答することになりますか - すなわち、対話は、自体の活力を持つことに、です。
49:44 K: 確かに、 あなたは、私が言ってきたことを、理解されたのですか。
49:48 GS: ええ。でも、私が思う・・・

K: あなたが説明してください。
49:52 GS: 私は、クリシュナジが仰っているのは、こうだと、思います - まず第一に、対話の目的は、 或る人物が、問いを訊ねるため、相手の人物が答えるため、ではない。 回ってくる問いと答えのためです - 人々の間、自体で動く、という意味で、です。 で、それは、一人の人物が自分の情報を、 もう一人の人物へ与えることではない。 それは、問い自体が、自体に答えている事例です - 人々の声を器具として用いて、です。 が、私たちはいつも、どうにかこれは、教理問答、 ということに立っていなければならないとの感じを、持っています - 述べてしまえる質疑応答だ、と。 が、クリシュナジが言っているのは、こうです - 質問者が無くなる時が、あるなら、それもまた、きわめて価値ある時です。 それもまた、実は、きわめて自然です - 或る意味で、それが示すのは、イメージです。 それは、彼が前に話していたことのこだまです。 いわば、この点で、有ることが、ありますか。 または、なっていくことが、ありますか。 または、このものより他の何かが、ありますか。 一つの点から見つめると、有ることが、ある。 もう一つの点から見つめると、すべての問いが、止まってしまったとき、 質問をする誰が、いますか。 理解する誰が、いますか。 その、問いを保つことや、問いがないのなら、 答えを保つことは、それ自体、対話です。 それは、そこで言葉が語られない冥想です。 なぜなら、あなたは、ヤトー・ヴァチョー・二ヴァルダンテ(言葉は届かないから) 本当は、もはや質問をする必要が、ないからです。 その特定の点では、です。
51:23 私はもう・・・

K: はい。
51:29 K: 死について、話しましょう。 あなたにとって、仏教によれば、死とは何ですか。
51:48 (ヒンディー語での議論)
52:12 RB: 彼は、言います - 生が終わりになるとき、それが死である、と。
52:16 JU: (ヒンディー語で)
52:22 AP: 生を創り出す因果の同じ過程により、
52:29 その同じ過程が・・・

RB: ・・・終わりをもたらす。
52:33 Kこれは、何ですか。
52:36 RB: どんな過程により、生が生じたにせよ、 その同じ過程により、それは、終わりになります。それが死です。
52:45 PJ: それは因果です。
52:48 RB: カーラナ(能作)と、彼は言いました。

AP: カーラナは、因です。
52:51 RB: どんな因によっても、です。
52:53 K: いいえ。 私は存在します。 なぜなら、私の父と私の母が、出会って、 私が生まれたからです。 私は、八十九歳か、百歳です。 百年の終わりに、 私は、ぽっくり逝きます。 死にます。 因があります。 そして、因の終わりが、です。
53:23 K: ですね?

RB: ええ。
53:25 K: それが、あなたが死と呼ぶものですか。
53:30 JU: (ヒンディー語で)
54:22 RB: 彼は、この因果は、 物事の水準に、ないと、言います。 すなわち、生物的な水準に、物質的な水準に、です - 私は、物質的という言葉を、用いないでしょう - それは、記憶の水準に、 思考の水準に、ある。 彼は言います - 過去と未来と現在である、その瞬間において・・・
54:54 K: もしあなたが、過去、現在、未来が今に収容されている、と言うなら、 その今は、死です。
55:02 RB: それが、彼が言っていることです。
55:05 K: 待って。

RB: 彼はそう言いました。
55:08 K: ああ、残念です。
55:14 GS: あなたもまた、何か不同意すべきことがあるはずだと、感じます。

K: それが、あなたが死と呼ぶものですか。
55:26 RB: それが、仏教によるところの・・・
55:29 K: 何ですか。
55:32 なっていくことと、死ぬこと、なっていくことと、死ぬこと。 それが、死ですか。

JU: ええ。
55:41 K: それは、論理的、知的な概念です。
55:46 それに、私は興味がありません。 私は死んでいきます!
55:49 JU: すると、何ですか。あなたは死ぬ。私は死ぬ。このすべてが死ぬ。
55:55 RB: 彼は、身体が死ぬのは、死ではないと、言います。
55:57 JU: いえ、いえ。完全です。 私は死にます。 (ヒンディー語で)
56:42 RB: 彼は、あらゆる瞬間に、終わることがあると、言います - 各瞬間が、分離しています。 もし彼が、この瞬間に、 この対話が始まったときにいたところに、いるなら、 彼は、過去にいるでしょうが、彼は、過去にいません。 なぜなら、あらゆる瞬間が、終わりになるからです。 で、いつの時も、死があります。
57:10 K: それは、麗しく聞こえます - 理論的には、ね。 ですが、私は、死につつある息子を、持っています。ですね? そして、私は涙を流します。 私は、悲しみの中にいます。私は、絶望の中にいます。私はさびしい、憂鬱です。 あなたがやってきて、因果と終わることを、言います。 それは、麗しく聞こえますが、私は、痛みの中にいます。 あなたは、それについて、何をしようとしていますか。 あなたが来て、私に哲学をやっても、むだです。
57:49 RB: ええ。 ですが、仰った・・・
57:51 K: いえ。私は、死が何かについて議論したいと思います。 

RB: ええ。
57:55 が、確かに、あなたは、物理的な死が何かについて、議論したがっていませんね。
58:00 K: 部分的には、ね。 なぜそうしませんか。
58:09 RB: 物理的な死が何かではなく、それへの私たちの応答です。
58:13 K: 物理的な死、心理的な死 - 死です。 二つを分離して、言わないでください。 (ヒンディー語での議論)
59:43 RB: 彼は、何であれ、生ずるものは、瞬間瞬間に、 終わると、言います。 

K: ダーリン。 私はこれらを聞いてきました。
59:50 RB: ええ。ですが、それらを結合させるのは、記憶です。
59:53 K: いいですよ。 私は、あなたへ来ます。 あなたはそれを、私に説明します。 私は、「くたばってしまえ」と言います。 

RB: はい。
1:00:05 (ヒンディー語での議論)
1:01:42 PJ: 仏教の教えのどれ一つとして、死を取り扱ってきませんでした - この生ずることと終わることとして以外に、です。
1:01:53 K: ああ、ププルジ・・・ 私は、数年前に、或る人とともに、いました。 彼は、死のうとしていました。 彼は私を、呼びに寄越しました。 彼の妻が涙ながらに、私に会いに来ました - その他すべて、です。 彼女は、「どうぞ、来て、彼に会ってください。 彼はあなたを求めているからです」と言いました。 私は、彼のところへ行き、彼の隣りに座り、彼の手を取りました。 彼は、「私は死のうとしています」と言いました。 「どうぞ、私に、あなたの哲学すべてを、説かないでください。 私は死のうとしています。 私は、死にたくありません。 私は、相当良い生、相当道徳的な生を、生きてきました。 私は、自分の家族、自分の記憶、 私が蓄積してきた物事すべてを、持っています。 私は死にたくありません。 そして、私は死のうとしています。 それへのあなたの答えは、何ですか。 私に、始まること、生ずることとそれらを、語らないでください。 それを切り捨ててください! (ヒンディー語での議論)
1:03:35 AP: これは自己の主張であると、彼は言います。 

K: どれが?
1:03:40 AP: 彼が、私は死にたくないと言うことが、です。
1:03:42 K: が、人間たちはそのようです。 みなさんは、何をやって遊んでいますか!
1:03:47 質問者: クリシュナジ、答えは、こうです- 彼は死ななくてはいけません。
1:03:54 K: 何ですか。
1:03:56 RB: 彼は、答えは、彼は死ななくてはいけない、ってことだと、言います。
1:03:59 K: ああ、神様! それが、あなたが、自分の息子に、することですか - 自分の妻に、自分の夫に、ですか。 彼は死ななくてはいけない、と? もちろん、彼は死ななくてはいけません。 彼は、癌に罹っています。 彼は、結核に罹っています- それが何であっても、です。 ものすごい重病です。 彼は、死のうとしています。 全く若くて、彼は言います- 「神様! 私が、このひどいことを、理解できるよう、助けてください!」と。 よろしいですね?
1:04:44 JU: (ヒンディー語で)
1:05:37 RB: 彼は、死は生の一部であると、言います。
1:05:40 K: ああ、止めなさい! もういい! - イングランドで言うように、です。
1:05:52 PJ: パンディットジ、すると、あなたは、 悲しみに終わることはないだろう、と仰るでしょう。
1:05:59 JU: いえ。

PJ: そう仰るのでしょうか。
1:06:03 AP: この悲しみに終わりは、ありません。
1:06:06 PJ: 悲しみに終わることは、ない、と。
1:06:09 JU: (ヒンディー語で)

RB: 彼は、言います - 悲しみの原因が、除去されるのでなければ、
1:06:16 それは終わりえない、と。
1:06:18 K: 彼はそれを、除去していません。 あなたは、死のうとしているこの人を、取り扱わなくてはいけません。 ですね? 誰も、彼の手を取りませんでした! 彼の妻は、彼の手を取りませんでした。 私のような誰かがやってきて、言います - 私はあなたの手を取りましょう、と。 彼は、生、愛があると、何か感じました。 私は、彼に、生が始まること、生が終わることについて、話しませんでした - 生はあれとこれと他のひどいものである、と。 彼は、「私は死のうとしています。 助けてください」と、言います。 (ヒンディー語での議論)
1:09:45 GS: 問いを定義する問題が、少しあるように、思われます。 問いは、あなたはその人物をどう取り扱うのか、ですか。
1:09:55 K: いいえ。あなたは、死を、どう取り扱いますか。
1:09:57 GS: 私が言っていることは、ですね、 その過程において、私が考えられる二つのことが、あります。 一つは、私の友が死のうとしているとの私の感情です - そして、彼は恐れているし、彼は不幸せであるし、 彼は、嫌々死のうとしています。 他の問いは、こうです - 私は彼へ、何をできますか。 この特定の時点で、彼に助けを与えるように、です。 で、二つの様相のうち、どれについて、私たちは議論していますか。
1:10:21 K: どちらも、です。

K: 私は、死のうとしています。
1:10:34 私は、八十九歳です - 私は、五月にそうなるでしょう。 私はたぶん、もう十年、生きるでしょう。 私は、かなり元気ですし、それからたぶん、ぽっくり逝きます。 私は、怯えていません。 私は、他の誰の助けをも、ほしくありません。いいですね? 私は、それが生の一部であると、分かります。 私は、これらの哲学を玩べますが、 私にとって、私はいつの時も、死と生と一緒に、 生きてきました。 生涯ずっと、です。 なぜなら、私は、何も持っていない、私は、何も所有していないからです - 内的に、です。 私は気にしません。 私は、結構な人生を送ってきた、ということではない。 私は、すばらしい成功をしてきた、ということではない。 私は、それらに興味がありません。 私は同時に、死んでいき、生きています。 何も分離がありません- 私にとっては、です。 私は、間抜けかもしれません。 私は、白痴的かもしれません。 私は、幻影の中に生きているかもしれません- ありのままに、取ってください。 が、私の友、私の妻、私の息子は、死のうとしています。 彼は、結婚しています。 彼の妻は、泣いています。 誰も、彼を愛したことが、ありませんでした。 彼は、誰も愛したことが、ありませんでした。 妻も夫も、自己中心的であり、 自分のひどく小さな自己に、関心を持っています。 そして、妻が、私に会いに来て、「どうぞ、来てください」と言います。 私は行きます。彼は何を、ほしいのですか。 あなたの哲学ではありません。 始まることと終わることと、ブッダはこう言った、ではありません。 私は、「どうぞ!」と言います。 私はこれらを、容易く持ち出せたでしょう。 彼がほしいのは、自分を愛してくれる誰かでした。 「ほら、君、私たちはここで一緒だよ」と言う、誰かです - 「あなたは、死ぬ。 私も死のうとしている。 あなたは、さびしい。私は、それがどういう意味かを、知っている」と。 死が来るとき、あなたは、全くさびしい。 あらゆる物事から分離される。ですね? それは、ひどい恐れです。 そして、あなたが、やってきて、「始まり、終わり」と言います。 私は、「後生ですから」と言います。
1:13:24 JU: (ヒンディー語で)
1:13:31 RB: 彼は言います - 「私は、愛するなら、それを彼に与えられますか。 「それは、何か与えられるものですか」と。
1:13:38 K: いいえ。彼は私とともにいます。 与えられる、ではありません。 それは、何か私が与えるものではありません。 (ヒンディー語での議論)

K: 私は興味がありません。 (ヒンディー語での議論)
1:15:36 K: 私は、あなたの哲学に興味がありません。 私は、ブッダが言ったことに、興味はありません。 私は、人々が言っていることに、興味はありません。 私は、死のうとしています。 私に、始まる、生ずる、終わる、その他すべてを、語らないでください。 私はそれに、興味がありません。 (ヒンディー語での議論)

K: あなたは、たくさんの言葉をもって来ます。
1:16:22 それらの言葉は、私には、灰のようです - ブッダの言葉を含めて、です。 私は、人生において、誰も愛してきませんでした。誰も、私を愛してきませんでした。 私は、彼らとともに寝てきました。 私は彼らに、お金を与えてきました。 私は、彼らを利用してきましたが、誰も、私を愛してきませんでした。 私は、誰をも愛してきませんでした。 私は、死のうとしています。 私は、「神様、私の生は、何ですか!」と、言います。 私は偉大な科学者です。 または、偉大な政治家で、汚い。 私に、これらについて、話さないでください。 あなたは、何ももたずに、私へ来ます。 それで私は、「友よ」と言います。 私は、彼の手を取ります。 あなたが死ぬとき、私の一部もまた死につつあります。 あなたがこれらを理解されるのかどうかと、思われます。
1:17:24 AP: ええ、彼は理解します。
1:17:31 K: 私は一度も、あなたに会ったことが、ありません。 私は人生で、前にあなたに会ったことが、ありません。 ですが、あなたの妻が、私に会いに来ました。 彼女は私に、来て、あなたに会うよう、頼みました。 で、私たちはどちらも、一緒に死のうとしています - 私は、死ぬとはどういう意味かを、知っています。 私は本気で、そう言っています。 私は、生涯、死ぬのと生きるのと一緒に生きてきたんです - けっして、分離していなくて、です。 毎日、私は死にます。 そして私は、友に言います - 「死にましょう。私は理解します」と。 そのとき、死は、恐れではありません。 (ヒンディー語での議論)
1:19:03 K: この人は、何かひどく小さな神の像を、持っていました。 それに対して彼は、毎日、供養をしてきていました。 彼が死のうとしているとき、彼はそれを、ちっとも気にしませんでした。 理解されますか。
1:19:27 JU: (ヒンディー語で)
1:20:31 AP: 立場全体が、ここに来ます - すなわち、彼はこう言います。 あなたが仰っていることすべては、 因果の枠に入れられる、と。
1:20:46 K: 私は、因果に興味が、ありません。 私は、あらゆることを、説明するのが、上手です。
1:20:54 GS: クリシュナジ、あなたは、死のうとしている人の手を、 進んで取ろうとしています - かつて会ったことがない人の、です。 なぜあなたは、今、私たちの手を取ってくださらないのですか。 私たちは、問題を持っています。
1:21:03 K: あなたは、私の手を取るのを、拒絶します!
1:21:05 GS: 私は、あなたの手を取るでしょう。
1:21:07 K: ああ、ですが、あなたは、そうではありません。 あなたは、死のうとしているとき、私に、こう言わないでしょう。
1:21:13 GS: まあ、私は知りません。
1:21:16 K: あなたは、(テキサスの)オースティンに、いるでしょう・・・
1:21:18 GS: 私は来るでしょう。
1:21:19 K: 私は、リシ・ヴァレーにいるでしょう- 汚れた小さなマダナパリに、です。
1:21:23 GS: ですが、クリシュナジ、私たちは、問題を持っています。 私たちは、現時点で、物理的に死のうとしていませんが、 私たちは、問題を持っているのです。 私たちの多くは、因果に則って育てられています。
1:21:34 APからJUへ: (ヒンディー語で)
1:21:40 GS: 私たちは、因果に則って育てられています。 で、無構造の機能の事例においてさえ - 全的な注意です - 無構造の機能においてさえ、 全的な注意の瞬間においてさえ、 私たちは、いつもその質問を、しています。 が、私たちが今、全的な注意の中にいるなら、 別の時に、私たちが、全的な注意の外にいるのは、どうしてですか。
1:22:08 K: その外に出ていてください。 誰が気にしますか。
1:22:11 GS: あなたは、気にされませんが、私たちは、気にします。なぜなら、 或る意味で、私たちは、注意に接近しつつあると考えるときさえ、 私たちはやはり、「神様!これさえも、終わりになるだろう」と 思っているからです - これさえも、です。 で、私たちは、すべての瞬間に、死を恐れています。
1:22:24 K: それが、私が訊ねていることです - 毎瞬間に、死につつある。 言葉を玩ばないでください。 あなたは、科学者です。あなたは、知識を蓄積してきました。 あなたは、地位を持っています - いいですよ、それに死になさい。 ですが、あなたは、そうしないでしょう!
1:22:43 GS: 私ができるかもしれないことに、あなたは、驚くでしょう。
1:22:45 K: ああ、私は興味がありません。 死んでください。謙虚であってください。 謙虚さ、ですよ。
1:22:53 GS: それらすべてのことを、取り扱うことは、可能ですが・・・
1:22:56 K: 可能だ、ではない。 そうしてください!
1:23:00 GS: が、やはり、どの立場もなく、どの機能もなく、 何もなく、やはり誘惑が、あります。 私はまた、パンディットジのためにも語っていると、思います。 やはり、ヴァーサナー(習気)が、あります - 自らがそこで育てられている様態です。 自らは、自分の人生を捧げてきました - どう、なぜ、いつかを訊ねるように、です。
1:23:21 K: それは、何の意味もありません - あなたが、終わりに出会っているとき、 - あなたが、ものすごく危機である何かに、出会っているとき、ですが、 あなたは、どう、いつ、なぜかを、訊ねていません。
1:23:30 GS: が、クリシュナジ、あなたは私たちに十分、慈悲を示しておられません。
1:23:33 K: ああ、いえ。それは、ひどいことです- あなたが、やっておられることは。
1:23:40 GS: いいえ、どうぞ、理解してください。 私たちは、物理的な死について、悩んでいません。 私たちは、死の深みについて、悩んでいます。 あなたは、全的な注意の中にいなさい、と仰います。それは死です。 全的な愛の中にいなさい。 それは死です。 

K: いいえ。

GS: 私たちは、その特定のものの終わりを、恐れています。
1:23:55 K: いいえ。私はこう言います -私は、自分の妻に執着しています。 私は、自分がそうでないのを、よくよく知っていますが、 私は、執着しているふりをします。 私は、妻に執着しています。 その執着に、死になさい。 私の名前、何者かであることに、死になさい。 私は、褒賞に、たくさんのお金を、差し出されました。 ものすごく、ノーベル賞と等しく、です。 私は、「後生だから。あなたたちは、私を誰だと思うのですか」と、言いました。 よろしいですか。 私はそこにいたくない。 私は、ありたくない・・・私が、ではない。 私にとってそれらは、ひどいことです。人間たちがしていることは、私にとって、です。 で、私は、レースに加わりません。 で、私は言います - 私は執着しています。 私は、自由になろうとしています。 執着から自由であれ - それは、死です。 私は、たくさんの知識を、蓄積してきました - それを終わらせなさい。 何が起きるかを、見てください。
1:25:12 GS: ですが、私たちは、因果に、大変執着しています。
1:25:17 K: 因果は何ですか。 

GS: どうか、なぜかを訊ねることへ、です。
1:25:20 K: いいえ。私たちはそうしません。 あなたは、痛みの中にいるとき、本当に、その質問をなさいますか - あなたが、絶望的なさびしさの中にいるとき、です。
1:25:33 GS: いいえ。ですが、私たちは、この中間の状態に、います さて、パンディットジが、訊ねているとき、 彼は、どうやって、因果の観念 - どう、なぜか - を 和解させられるかを、理解しようと格闘しています - あなたがなさっている発言に、合わせて、です。
1:25:53 K: 私はなぜかを、あなたに言えるかもしれません - それは、とても単純です。 原因を見出すには、ものすごい頭脳は、要りません - そして、原因を終わらせるには、です。 私は食べます。食べすぎます。 そして私は、お腹が痛い。 私は医師へ行きます。彼は、「そんなに食べてはいけませんよ」と言います。 私は、言います - 「いいですよ。 私はそんなに食べないでしょう」と。 原因が、終わったのです。 または、私は妻に嫉妬しています。 彼女は、私の妻ではありません。 指さして、すみません。 私は妻に嫉妬しています。なぜなら、彼女は私のであり、誰も彼女に触れないからです。 私の - 私のお金、私の名声、その他すべてです。 で、私は、嫉妬しています。 原因は、所有です。 私は言います - 「いいよ、私は所有すまい」と。 動いてください!
1:26:47 K: 何ですか。

AP: 完璧です。
1:26:50 K: パンディットジに言ってください。
1:26:53 AP: 私が理解したなら、です。 私は、原因を理解できるなら、 私がそれを拭い去るのは、とても単純でしょう。
1:27:01 K: ですが、理解するのは、単純です。
1:27:04 AP: あなたが、それを受け入れるなら、原因は、拭い去られます - 何か神聖なものや、何によって、でもない - あなたが、原因を拭い去れるのは、です。 あなたが、原因を拭い去るとき、有るものは、愛です。 有るものは、慈悲です。
1:27:22 K: 私は、そう言いません。 原因を拭い去ってください。
1:27:24 AP: 原因を拭い去る。 それが、すべてです。
1:27:26 K: その裏で何が進んでいるかを、見出してください。
1:27:28 AP: 彼は、それは神秘主義であると、言っていました。 ゆえに、私はそう言いました。それは、あれへの関係において、でした。 私は、それについて、何も知りません。 私はただ言います - あなたは、原因を終わらされます。私は終わります。終止符。 私の知識は、そこで終わります。
1:27:44 K: 私たちは、何かの因果を見つけることに、 なぜこうも空騒ぎするのかと、思われます。 人間の心理 - 私は、あまりに科学的すぎるとか、それらではありません。 私は、自分は知っていると言います。 私は貪欲です。私は、たくさんのお金がほしい。私はそのために、戦います。 それが、原因です- 私の貪欲です。 それは私に、権力、地位を与えてくれます。私は、知識を持っているなら、 それは私に、大きな地位などを、与えてくれます。 (Kは、サンスクリットで詠唱する)
1:28:18 GS: サンスクリットを、引用なさっていますね。
1:28:29 JU: (ヒンディー語で)
1:29:56 K: あなたは、死が終わりであることに、同意なさるでしょうか。 生物的にも、心理的にも、それは、終わることです。 ですね? で、なぜそれを、今、終わらせないのですか。 あなたの知識すべてを、忘れてください。 ひどい全部を終わらせてください! すみません。私はあなたに、何をすべきかを語っていません、パンディットジ。 で、私たちは、死を理解していないのです。 私たちは、死を説明してきましたが、 私たちは、死ぬことの深さと美しさを、理解したことがありません - それで、あらゆる物事が、新たで新鮮であるように、です。
1:31:02 JU: 死ぬことの美しさは、何ですか。
1:31:05 GS: 死ぬことの美しさは、何ですか。 彼は、言います - 死ぬことの美しさは、何ですか。
1:31:09 AP: 死ぬ後か、前の美しさですか。 死ぬことの美しさ。
1:31:14 K: 何ですか。 

GS: あなたは、死ぬことの美しさを、仰いました。
1:31:17 K: はい。 

GS: 彼は、何かと、訊ねています。
1:31:19 K: 私が言ったことを、理解されますか- 死ぬことの美しさ。 それで、頭脳は自由で、生きているのです。 それは、新たに転生したのです。 が、私たちは、死を理解してきませんでした。 あなたは、死を説明してきました。 あなたは、死を叙述してきました。 あなたは、因果を見つけてきました。 が、あなたは、死ぬことの性質を、理解してきませんでした。
1:31:52 JU: (ヒンディー語での議論)
1:33:43 PJ: 存在は、否定の上に生じつつあります。
1:33:46 K: 何ですか。

PJ: 新しいものが、否定の上に、生じつつあります。
1:33:53 すなわち、終わる上に・・・

K: 何ですか。
1:33:56 PJ: 新しいものは、終わることに、否定に、掛かっています。
1:34:01 K: みなさんは、何について話していますか。
1:34:03 スナンダ・パトワールダーン(SP): 創造です。
1:34:06 あなたが仰ったことを、彼はこのように翻訳しました - すなわち、死ぬことにともなって、新しいものが、生じつつある、と。 それが、あなたが話しておられる美しさです。
1:34:18 K: いいえ。私は、死ぬことについて、話しています。
1:34:21 SP: それが、彼が言ったことです。 あなたは、死ぬことに、大きな美しさがあると、仰いました。 それへ、彼は、このように応答します - 死ぬ中に、新しいものが、生まれるし、それが、美しさである、と。
1:34:31 K: ご覧ください。私は、来世、転生したくありません。 私はしたい・・・ したい、ではない。 私は便宜のために、「私」を用いています。 今、転生したいのです。 それで、何か新しいことが、起きつつあるように、です・・・ 私はあきらめます。
1:34:59 JU: (ヒンディー語で) (ヒンディー語での議論)
1:36:40 GS: 誰かが、それに批評せずに、それをただ通訳すべきです。 いえ、彼女が通訳しようとしています。
1:36:49 K: 誰か、通訳してください!
1:36:52 AP: このすべては、否定の基礎の上に、あります。
1:37:00 K: 何ですか。
1:37:03 SP: 私が何かを言っていいですか。
1:37:06 K: 済んでしまいました。
1:37:08 PJ: 美しさは、死ぬ中に、新しい誕生が、あることです。 新しい誕生は、否定に掛かっています。
1:37:22 SP: クリシュナジ、このせいで、彼は言います - 私たちであるすべてなるものは、その否定の上に、存在します。
1:37:28 K: みなさんは、何について話していますか。
1:37:30 SP: 彼はそれを、このように翻訳しています -
1:37:32 K: 翻訳しないでください。
1:37:34 SP: 彼は通訳しています。
1:37:36 K: そうね、知識は、死の敵です。 知識は、愛の敵です。 愛は、知識ではありません。
1:37:48 AP: 知識は、愛の敵です。
1:37:52 SP: (ヒンディー語で)
1:37:58 GS: ですが、私は自分が、彼が言ったことを、言い換えられると、思います - はるかに受け入れられるだろう言葉で、です。 否定と言う代わりに、単純に、こう言います - 知られたものが、因果が、終わる中で、 全然違った種類の動きが、あります。 そして、彼は、それが死の美しさであると、言います。
1:38:18 AP: 彼がそう言うだろうことを、私は願います。 そのとき、さらなる疑問は、ありません。
1:38:23 K: それはただ、あなたがけっして死んだことがない、という意味だけです。
1:38:27 JU: (ヒンディー語で)
1:39:06 SP: 彼はこう言います。私が、彼の言葉をこのように通訳するのは、正しいですか。 何でもないことの中から、存在が出てくる、と。私たちの存在が、です。 ゆえに、この存在は、実在性を、持ちません。
1:39:16 RB: 彼は、他の何かへ逸れていこうとしています。
1:39:19 SP: 概念的です。
1:39:21 AP: 私たちが出会っているとは、私は思いません。 

K: ええ。
1:39:23 AP: それが、私が考えることです。

PJ: どの場合にしても、止めなければなりません。 

SP: 11時15分です。
1:39:30 K: 私は、自分自身できわめてはっきり言いました。
1:39:37 私は、来世、転生したくありません。 私はしたい - 「私はしたい」。 それは、引用です。 重要なのは、今、転生することです - それは、 私が知ってきた物事すべてに、死ぬ、という意味です。 私の知識すべて、ブッダの教えすべて、 私が知ってきた物事すべてに、です。 私が知ってきたのは、記憶です。 それは、あぶくだけです。 言葉だけです。 私は、それは愛ではない。 それは死ではないと、言います。 それは、時でない。または、時がないことではない、と。 それで私は、言います - 私は、死ぬとはどういう意味かを、見出したいのです。 因果、その他すべてではありません。 感じ - 私はこれを所有している。 私は、それから自由でなければならない、と。今です。 そのとき、その死ぬ中に、 何か驚くほど新しいことが、起きつつあるのです。 それは、ものすごいエネルギーを、持っています。知識を、ではない。すみません。
1:41:16 PJ: あなたは、お止めにならなければならないと、思います。
1:41:19 K: いえ。私にとって、死は、何かとてつもないものです - 説明、因果、終わることだけではない。 死は、誕生に似た何かです! あらゆるものが、死につつあります。 今、百歳のあの樹は、死ぬでしょう。 いいですよ。塵から塵へ、その他すべてですが、 私は言います - それはすべて理論的です。 それはすべて、問題を含んでいます。 が、人間たちは、死ぬとはどういう意味かを経験しなければなりません - 生きていて、です。 それがすべてです。 あなたがものすごい知識を持っているとき、謙虚さは、ないのです。 すみません。私は、あなたたち、お二方に、言及していません。 私はただ、普通の人です。 そして私は、知識があらゆる物事の死、愛の死であるのを、見ます。 私は結婚しているなら、私は妻を持っていて、 彼女との、私の関係全体が、知識に基づいているなら、です。 私は、「神様、これらのどこに、愛がありますか」と、言います。 私は、出て行き、どこかひどい大学で、教授になろうとしています。 そして、彼女は、料理をします。 すみません。私はこれを、とても強く感じます - あなたが気にされないなら、です。 私は、みなさまに逆らうことを、何も申していません。 どうぞ、そうであるなら、私は謝ります。私は申していません。 私は、一つの説明もほしくない。 私にとって、説明はもはや、意味を持ちません。 仏教の説明、あなたの解釈、 ナーガールジュナや彼のでも、です。 私は、説明をほしくありません。 私は、説明に満ちています。 私は、「どうぞ、私は死のうとしています。助けてください」と、言います。 私は、ひどくさびしい。 怯えています。 私が知ってきた物事すべてを、手放しつつあります。 そして、あなたが来て、私がすでに知っていることを何か、私に語ります。 私に、新鮮な真水をください。 あらゆる人が踏んで、歩いてきたところの水ではなくて、です。 私は、新鮮な真水がほしいのです。
1:44:47 RB: あなたは、お休みになるべきです。 本当に遅くなっています。
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