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ND81DTV - 神について
ププル・ジャヤカルとアチュット・パトワールダーンとの会話
インド、ニュー・デリー
1981年12月



0:21 ププル・ジャヤカル(PJ): クリシュナジ、 神について、私たちへ話してください。 幾千年にわたって、人は探求してきました。 嘆きの中、悲しみの中、 人は、 自分自身の最も深い深みへ、向かい、 その永遠を探求します - 自分に慰安を与えるために、です。 あなたは、思考を否定するように、見えます。 あなたは、神々は人が作ったと、仰います - そして、あなたが作ってきた神々は、あなたを作らなかった、と。 それは、あなたの教えにおいて、 神は存在しない、という意味ですか。 けれども、あなたは唯物論者ではありません。 あなたは、この逆説をどう説明されますか。
1:31 クリシュナムルティ(K): 私たちはこの対話のまさに最初から、 すっかり明らかであるべきだ、と思います - すなわち、人が実際に神を創り出してきたことを、です。 もしも神が、人を創り出したのなら、 神は、人が腐った生、悲惨な生を生きることを、 願ったにちがいありません。 それはきっと、不条理であると、私は思います。 人は、自分の姿に似せて、 神を作ってきたと、私は思います - そして、それを拡大し、 自分が創り出してきたものに、様々な属性を、与えてきた、などです。 あなたは、こう訊ねていますか - もしあなたが、神を拒否するなら - それは、人が作ったのですが - そのとき、悲しみの中の人は、 永遠を探し求めていない、 何か自分自身を越えたものや、 何か、時のないものを、探し求めていない。 人は本当は、何か自分に大きな慰め、深い内的安全の感覚を、 与えてくれるだろうものを、ほしいのだ、と。 それが、彼がほしいものです。 彼は、その瞬間やその悲しみの期間に、 何か時を越えたものを、ほしがりません。 人が実際に願望するものは、 何らかの形の安全、 悲しみの何らかの形の軽減、 何らかの万能薬です。 それが、人がほしいものです。 私たちは、それに同意するなら、 本当にその問いに入るべきです - もしあなたが、 私たちがそうするように、 神話全体を、 神の構造全体を、否定するなら、 あなたが全的に、それを否定するなら、 - そしてあなたが、どのようにそれを否定するかが、ものすごく大事です - そのとき、何がありますか。 それが、あなたが問うていることですか。
4:16 PJ: 一つのことを、申し上げていいですか。 あなたはちょうど、神は人を作ったはずがないと、仰いました。 あなたが仰るそれは、 人の存在は、生物学的、物質的な過程である、という含意ですか。
4:38 K: そう見えます。
4:40 PJ: すると、あなたはまた、 人が神々を作ってきた、と仰るとき、 それは、こういう意味ですか - あなたは、それを神と呼ばないかもしれません。 あなたは、それを実在と呼ぶか、 それを、時がないものと呼ぶかもしれませんが、 実在がある。 人が作っていない真理が、ある、と。
5:14 K: そのようなものを、肯定するには、 私たちは本当に、見出さなくてはなりません - 思考がいったい止まりうるのかどうかを、です。 そのときにのみ、あなたは、何かを発見できます。
5:30 アチュット・パトワールダーン(AP): ですが、あなたに、 あなたの論説を、お聞きする間、 神聖さの香りが、あります。 あなたが語っておられる間、 或る人物が、自分のまわりに、 聖性の雰囲気を創り出すことは、とても奇妙に見えます。 そのとき、あなたは、私たちの神は私たちにより作られていると、仰います。 それは、或る点まで、真実なのかもしれません - 私たちが作ってきた神々は、 私たちの精神により作られていることは、です。 が、あなたが仰ったように、 あなたはそのために、思考を越えていかなければなりません、 私は、訊ねたいと思います - そういうものが、ありますか - その本性が、聖性であり、 人にとって、利用可能なものが、です。
6:35 K: もしあなたが、それがある、と仮定するなら・・・
6:39 AP: 私は探究しているだけです。
6:41 K: ええ。あなたが本当に探究していて、それを述べていないのなら、 そのとき、私たちは、探究、探検できますか - 神があるのか、神がないのかを、ではありません。 それは、全く明白に、かなり不条理です。 私たちは、聖性の本性、 神聖さの本性を、探究できますか。 私たちが探し求めている神聖さ、ではなく、 人がほしがる神聖さや祝福ではない - 幸せに感じるため、 自分は保護されていると感じるため、 何か頼れるものがあると感じるための、 それではない。
7:39 AP: 私たちが探し求めている何かが、あります。 そして、探し求めずに、来るものが、何かあります。 それは、人の制御を、本当に越えているものです。 人は、それについて何もできません。
7:55 K: いえ、あなたは、そのような言語を用いるとき、 気をつけなければなりません - 人はそれについて、何もできない、と。 それは、条件づけられてきた人の意識の、 無意識的か、深い層であるかもしれません。 それらは時折、深みから自体を投影します。 で、はっきりとさせましょう。 私たちが話しているのは、何について、ですか。
8:20 PJ: あなたは、こう受け入れられるでしょう - すなわち、生において・・・生自体が、神秘であることを、です。 それは、ものすごい神秘です - 生まれること、生きること、死ぬこと、 そして、この大いなる、知りえない真理、です。 それの全体が、神秘です。
8:43 K: あなたがなぜそれを、神秘と呼ぶのか、私には分かりません。
8:46 PJ: なぜなら、精神は、それを理解できないからです。
8:49 K: 精神は、知られていないものを理解できませんが、 精神は、この生きることの過程全体を、理解できます。
8:59 PJ: 人は、誕生を理解できません。 人は、死を理解できません。
9:03 K: それがすべてです。 人は、死の本性を理解できません - 死の後に、何が起きるのか、 時を越えて、何かがあるのかどうか、などを、です。 私たちは、何か知られていないものを、探究しています。
9:17 PJ: はい。 で、あなたは、 神秘があることを、受け入れられるのでしょう。 で、私は言います - 私たちは神秘を探検できない、と。 そのとき、それはもはや・・・

K: ・・・神秘ではないでしょう。

PJ: で、人は、神秘を探できないので、避けて回ります - これへの扉を見つけようとして、です。 

K: はい。
9:40 ですが、人は、それを、知的思考をとおして、見つけられません。
9:46 AP: 人が知的思考をとおして、何かを見つけられないことは、認めますが、 人は、言葉にするには神聖すぎる何かの経験を、します。 それは、想像上ではありません。
10:00 K: 私たちは、ひどくはっきりしなければなりませんよ、アチュットジ。 すなわち、それは、人自身の意識の深い、未探検の層でないことが、です。 それは、何か安全なものを、持ちたいとあこがれているし、 その切実な要求を、何か神秘的なものに、翻訳します。
10:19 AP: 探し求めずに、それに出くわします。 あなたは、林の中にいます。 あなたは、ヒマラヤ山脈に向き合っています。 または、あなたは、川の畔にいます。 突然に、あの静寂の中、あの静けさの中、 生じてくるものが、何かあります。 そして、神聖なものの感じが、します。
10:39 K: 私はそれを問いません。 私たちはみんな、そうなります。
10:43 AP: それは、見せかけであるとは、言えませんね。
10:45 K: ええ。 私たちが指摘しているすべては、こうです - 私たちは、自分自身を欺瞞していないように、 よく気をつけなければならない、ということです。
10:55 AP: それは本当です。
10:57 K: 私たちは、或る種の幻影に、捕らわれて、 それから、「それが真理である」とは言いません。
11:03 AP: ええ。私たちは知らないと、私は言います。
11:10 PJ: あなたは、否定について、語っていました。
11:21 K: 私は、こう言っていました - 人は、 自らが心理的な知識として蓄積してきたすべてを、 拭い去れますか - 全的に、完全にそれらを否定する。 それは、まず初めに可能ですか - 可能であるなら - 探究することが、です。理論的や、抽象的や、知的に、ではなく、 生において実際に、 自らの条件づけ全体を否定することが、です。 その否定的な状態 - すなわち、最も肯定的なものです - そこにおいて、 何か人が作っていないものを、見るか、それに出くわす。 神聖であるかもしれないものを、です。 それは、可能ですか。
12:37 PJ: 動いて、この否定の平野へ入るには、 その言葉を探究することが、必要です - 「否定する」。
12:48 K: 否定する。 拭い去る、離れる。
12:54 PJ: 否定の本性は、何ですか。 否定するとは、どういうことですか。
13:06 AP: あなたが、幾世紀もの心理的な知識すべてが 拭い去られなくてはいけない、と仰ったとき、 私は、これはただ、事実の明言であると、言うでしょうね すなわち、私たちが、この聖性の性質は何かと、 自分自身に訊ねることになるとき、私たちは、 それについて何も知らないとの事実に向き合わなくてはいけません。 あなたは、「私は知らない」と言わなくてはいけません。 その単一の認識は、きわめて単純であり、 私はこれらの本性を知らないということですが、 その中で、自動的に、あなたはあらゆる物事を否定したのです。 あなたが、「私は知らない」と言うか、または、 自分の知らない何かを感じるとき、です。
13:51 K: いいえ。ププルジは、訊ねていました - 拒否するとは、どういうことですか。
13:59 AP: 私は、それは理性的なことではないと、言っています。 それは、理性が単に事実を受け入れるところの何か、です - 自らがその制限に至ったとの事実を、です。
14:08 K: ええ。それは、自らをつなぐ縄の端に、至ったのです。
14:11 AP: いいえ、あなたはただ、私は知らないと、仰います。
14:14 PJ: 河や山に向き合うことについて、話さないでおきましょう。 きわめてふつうの状況の組み合わせの中での 否定について、話しましょう。 なぜなら、ふつうの状況の組み合わせの中で、 否定を理解しないなら、 とてつもなく強力な何かを見つめるときに来る否定、 それはただ、その力により、自分自身を引き継ぐことなのかもしれないからです。
14:45 K: ププルジ、あなたは訊ねていますか。 あなたは、否定の本性は何であるかを、訊ねていますか。
14:55 PJ: はい。
14:57 K: それは相当に単純であると、私は思います。 自らが執着しているなら - 或る人物や、或る信念や、 或る結論に対して、です。 歴史的でも、弁証法的でも、です。 それを否定する。すなわち、「私はそれを持つまい」と言うのです。 私は、自分の精神の中から、それを完全に押し出します。
15:23 PJ: が、あなたは、意志を拒否されます。
15:25 K: ええ、私は意志を、拒否します。
15:27 PJ: で、それを押し出す手段は・・・
15:31 K: ・・・知覚です。

PJ: 通常、人間の精神において、それは意志です。 

K: ええ。
15:40 PJ: そのようにして、通常、否定は起きるのです。
15:45 あなたが、自分はそうしたいと仰るとき・・・
15:47 K: 私は持たないでしょう。

PJ: そこには、したがることが、ある。
15:50 K: ええ、因果作用が、あります。
15:52 PJ: 因果作用が、あります。 そして、そのものを脇に置く意志の作用、です。
15:56 AP: ですが、ププルジ、別の形の否定も、ありますよ。 或る人々が、腹の底から、共産主義を信じているように、です。 そして、彼らは、その特定の観念やイデオロギーをとおしては、 自由で平等な人たちの新しい社会秩序を 持てないとの真理に、出くわします。 さて、そのイデオロギーは、意志なしにはその妥当性を、失ってしまいます。 あなたは正直です。 知的にあなたは、正直です。 そしてあなたは、これは落ちてしまったと、言います。
16:32 PJ: たぶんね。でも、あなたは、信念より自由ではありません。
16:35 AP: ええ。あなたの信念が、事実の直面でもって、終わるとき - それら(事実)は、あなた自身が創り出したのではない - 否定が、あります。 正直な人は、自らの信念が妥当しなくなったことを、見なければなりません。
16:49 PJ: ですが、アチュットジ、私がこう言っていいなら、 有ること(存在)は、否定を、創り出します。 それは、「私」としての自己の否定です。 行い、動き、推進する過程は、 けっして起きないからです。
17:07 AP: 私は、その言葉、「けっして」を、使わないでしょう。 それは、あまりに絶対的であるからです。 私は、自らは、或る信念の非妥当性に、出くわすようには、 それに出くわさないと、言うでしょう。
17:21 PJ: なぜなら、それの本性は、全然違っているからと、私は思います。
17:25 K: 私たちは、何について話していますか。
17:27 PJ: 私は、その否定の本性は - それは、自分の存在の多くの様相において、 なっていくことを見ること、ですが - 自らの自己の深みで、深く否定すること - その過程は、なっていくことの動きです。
17:52 K: 否定という言葉を、使わないようにしましょう。 私たちは、この、なっていくこと全体を、理解できますか - けっして終わらない葛藤すべてとともに、 人間の心配、さびしさ、それらの苦労すべてとともに、です。 それは、私たちが捕らわれているところの、永続的な動きです。 ちょっと待って、話を終了させてください。 そして、それを見る。 それの実際を見る。 そして、意志を行使することなく、それの真理を見る。 その真理へのその知覚こそが、その過程を、終わらせます。 それが、私が否定と呼ぶものです。
18:36 PJ: そのとき、否定は、 なっていくことが終わることですか。
18:43 K: いいえ。否定は、なっていくことの真理への知覚です。 何が関与しているか、そのなっていくことの帰結を、見ることです。 その動き全体への知覚こそが - その中に、時、あのものの全体が、関与しています - なっていくことを、終わらせます。 それが、私が言っているすべてです。 終わらせるのは、知覚です- 意志などではない。
19:14 PJ: 私は、何か少し微妙なことを、訊ねています。 真理は、見る中に、ありますか。 または、なっていくのを見ることに、ですか。 その事実や現実は、どこで起きますか。 それは、見ることの本性の中に、ありますか。
19:42 K: いいえ。現実は、精神の中で起きます。 知覚が、あります - 例えば、執着について、です。 私は、意図的に、それを取り上げています。 地位へ、人物へ、何らかのものへの執着。 さて、究明なく、分析なく、考えるこのすべての過程なしに - それが、私がいつの時も言っていることです。 なぜ自分は執着しているのかの原因を探し出しているとか、 理由を分析している、などなどではない。 なぜあなたは、真理を持ち込みますか。 私は、真理という言葉を、 執着の真理、という意味で、使いました - その執着の含意、帰結、ということです。
20:38 PJ: いいえ。私が取りかかろうとしていることは、 それを理解することですか。

K: いいえ。
20:51 PJ: それらは、分離していません。

K: ええ。
20:53 が、私たちは、理解しなければなりません - 理解というのは、どういう意味か、理解の意義は、何なのかを、です。 私は、知覚するとはどういう意味かを、説明しましょう。 それは、相当に単純です。 すなわち、過去なしに知覚する - 過去の記憶などなどなどにより条件づけられている 精神の本性なしに、です。 単純に、直接的に知覚する。
21:22 AP: 仰ることは、理解しますが、私たちの困難は、私たちにおいて、 それはいつも、部分的過程、断片的過程であることです。 私は、民族、民族性、国籍へのこの執着が、 いかに愚かで、有害であるかを、見るかもしれません。 民族性、国籍は、私たちのテクノロジーの時代において、 時代錯誤になってしまいました。 さて、私はこれが、民族性、国籍に関して、見えます。 なぜなら、私はそれへ精神を注入したとき、 民族性、国籍が、全的な時代錯誤になったことが、分かるからです。 が、私は指摘しています - 私たちの精神は、いつも、 制限された平野の中で機能している、ということを、です。 あなたは、こう言っています - お話を聞くと、あなたにおいて、それは全的な知覚である、と。
22:10 K: ええ。もちろんです。 それは明白です。
22:13 AP: が、特定から一般へ、いかに動くのですか。
22:19 K: あなたは、問いを拡大していますね。アチュットジ、 私がそう言って、ご注意を申し上げていいなら、です。 私たちは、訊ねて、始めました - あなたが、人が作ったものとしての神を、拒否するなら - そして、儀式すべてと、 宗教の名において進んでいくサーカスすべてを、です。 あなたは、内的に、それの不条理を見るなら、それを片付けます。 そのときあなたは、偽善者にならないでしょう。
22:48 AP: 私が、共産主義に触れたとき、私が、民族主義に触れたとき、 私は、現代の神を、取り上げていました。
22:54 K: ええ、もちろんです。
22:56 PJ: クリシュナジは、こう言います - それへ来るには、 精神であるすべてへの否定が、なくてはいけない、と。
23:06 K: ええ。そうなんです。 その一つのことで通しましょう。 そして、進行しましょう。私たちは逸れてゆきつつあります。
23:12 PJ: ゆえに、否定の本性へ入る中で、 私たちは、知覚へ来ました。 私は今、知覚を、探査しようとしています。 彼に訊ねています- 知覚の行為は、 すなわち、見ることであり、 精神作用なしですが、 理解は、いかに生じますか。
23:41 K: ああ、そこに理解はありません。 思考の過程全体なしに、 見ることです。 その見ることこそが - それは、洞察ですが - その洞察が、幻影すべてを、消し去ります。 そうね、私たちは、一歩一歩進んでいませんよ。 私たちは、こう言っています - 理解する。 理解するとは、どういう意味ですか。 私は、自分たちが使っている言語を、理解します。 私は、理由を理解します。 が、理解は、 単に言葉が聞こえるのと、言葉に翻訳するのと、 言葉へ反応するのより、はるかに深い何かです。 理解は、完全な受容を、含意しています。 または、何かあなたが言っていることを、完全に受け取ることです。 私は、それを理解します。 私は、それを捉えたのです。
24:49 PJ: ええ。それは、闇があるなら、 突然、光がそこへ当たり、それが開示されるようなものです。
24:55 K: ええ、それですべてです。
24:57 PJ: 存在しているものの開示が、あります。
24:59 K: ええ。それをさらに錯綜させないでください。
25:03 PJ: で、知覚は、その意味で、開示するものです。
25:09 K: ええ。

PJ: そう表してもいいなら、です。
25:11 K: それは、どの因果作用のも、過程全体を、開示します。
25:21 PJ: で、それは、精神作用なしの知覚ですか。
25:26 K: そうなんです。 手がかりです。
25:32 PJ: 手がかりですね。

K: ええ。
25:41 そうね、それが、私が言っていることです。 例えば、 私は、否定してきました。 組織、 制度は、どのようにも、 永遠に真実であることを、了解する、到る、知覚するよう、 けっして人を助けないだろう、と。 私は、それを言ってきましたね。 さて、それは、私の中にあります。 私は、幾千の制度、伝統の結果です。 私は、制度の宣伝すべてです - それは、宗教、政治家などなどです。 私は、そのすべてです。 すなわち、私は、過去、現在と未来です。 私の中に、そのすべてが、あります - それが、私です。 さて、私は、 精神は、その円輪より、動いて、離れられますか - なっていくこと、すなわち、私としての過去、現在と未来、 その方向へ動いていくことより、です。 私たちは、幾千年に幾千年もの間、そうしてきたのですが。 私たちは、 精神は、見られますか・・・ その隷属を拒否し、 他の何かを発見することが、できますか。 結局のところ、それが、新しい精神です- 新しい何かを発見することが、です。
27:38 PJ: そうね、私たちは、この点に来ます。 この地点の後、私があなたにする、どの質問も、 あなたは、否定するでしょう。
27:50 K: 確かに、もちろんです。 ですが、ププルジ、 人の経験の真の関係は- 心理的に、ですが - それは、拭い去れますか。 それが、拒否することです。 それが、否定することです。 あなたが、どう否定するのかが、大事です。 なぜなら、その否定こそにおいて、肯定的なものが、起きつつあるからです。 どうかな・・・いいですか? そうね、それは・・・ あなたが、神を否定するとき- 神という言葉や、 神の感じや、人が作った神々を、です。 全くの空っぽ、 全くの無の恐れが、ありますか。 それが、私たちを阻止しているものです - それへの恐れが、です。 それが、私たちが虚偽を拒否するのを、阻止しています。 私たちは、虚偽を拒否しません。 私たちは、虚偽を維持するための理由を、見出しています。 ですが、あなたが、虚偽を拒否して、見るとき・・・
29:22 PJ: こう見えるでしょうね - 私たちが、神聖なものと感じるもの、 私たちが、聖性の基盤と感じるものは、 拒否されなくてはいけない、と。
29:40 K: ああ、はい。 絶対的に、です。 なぜなら、それは、私たちの奥深い衝動、欲望であるかもしれないからです。
29:49 AP: それは、去らなくてはいけません- 信じようとの意志は、です。
29:51 K: ええ。 何もありません。 それは、魂の闇と、それらの種類のものではありません。 が、絶対的に何も無いことを見ることと、 思考はそこに、まったく何の所も持たないとの、 その点に来ること、です。 その無とともに、留まりなさい。 これが、明らかになっているのかどうか、私は知りません。
30:26 AP: 際限なきものが、 何か、ないのですか - すなわち、永遠であり、 私の意志と何の関わりをも、 私であるものと、私でないものと何の関わりをも、持たないものが、です。
30:43 K: ええ。が、なぜあなたは、仮定しますか。

AP: いいえ。私は、仮定していません。
30:46 私は単に言っているだけです・・・

K: ・・・問うている。
30:49 AP: ・・・私たちは今、一つの道を行っていることを、です。 私は、別の道を行き、言いたいのです- 何かが、ないのか・・・
30:58 K: あなたは、どうして、それを知りえますか。
31:00 AP: 私たちは、それについて知りません。私が言うことすべては・・・
31:03 K: すると、探究してください。

AP: あなたは、どのように探究しますか。
31:06 K: 私はどのように探究するかは、私が知っているすべてを 拭い去ることです。 心理的に、です。 私たちは、同じ点に戻ってきます。
31:15 AP: 戻ってきます。
31:16 PJ: そうね、興味深いことは、 または、きわめて困難なことですが、 思考と呼ばれるもの、なっていくことの、 否定を、了解します。 が、神聖なもののこの感じは・・・
31:43 K: そうね、或る地点があります。 結局のところ、あなたが寺院へ行くとき - きわめて古い寺院です。 あなたは行ったにちがいありません。 きわめて古い寺院です - あたりに、とてつもない雰囲気が、あります。 なぜなら、何百万の人々が、そこにいて、崇拝してきたからです。 それはすべて、幻影であるかもしれませんが、 何か人を作ってきたものを、崇拝する、 この感覚が、あります。 その崇拝の中から、その崇敬の中から、 あの信心の感覚の中から、 あなたは、とてつもない雰囲気を、創り出します - とてつもない聖性の感覚を、です。 が、その聖性、その雰囲気、その崇拝は、 すべて、人間たちの甚大な仕事の結果です。 それは、神聖ではありません。
32:39 PJ: あなたは、太古の所へ行くことと その感じを得ることについて、話してこられました。 あなたの講話の一つに、自分が座り、 あなたが話をされるとき、 大いなる神聖さの感じが、あります - 精神へ降下してくるものが、です。 まるで、それは、あの所の全体を保っているかのように、見えます。 それもまた、この幻影の過程の一部であるなら・・・
33:18 K: いえ。そうでもない。
33:20 PJ: では? 

K: 私はそれを、説明しようとしています。
33:23 まず第一に、語り手は一定の評判を、持っています。 それが正しいのか、間違っているのか、それは、論点ではありません。 彼は、一定の評判を、持っています。 で、聴衆は、その人物についてイメージを、創り出してきました。 また、そのイメージは、条件づけられています - 彼らの宗教的精神により、 彼らの伝統主義、冷笑癖、それらによって、です。 で、創り出された雰囲気が、あります。 さて、 語っている人物は、 彼らが彼について創り出してきたイメージより、活力を持っていますか。 それで、イメージは、何の価値もないのです。 よろしいですか。 語り手が本当に、尋常でなく慈悲深くて、 その他すべてが、彼の言語に、彼の感じに、関与しているなら、 それは、自らのとてつもない雰囲気を、創り出します。 で、その人物は本当に、深く、ただただ正直であり、 自らが言っていることに、そういう誠実さを、持っているなら、 それ自体が、他へ向かう勢いです。
34:44 AP: それが、正確に、私が目指そうとしていたことです - 何か際限ないもの、了解不可能なもの、 私の意志なく生じてくるものが、 ある、ということです。
35:00 K: いいえ、いいえ。
35:02 AP: 私は、それの暗示、と言いました。
35:04 K: 私は、 様々な人々が言うのを、聞いてきました - すなわち、導師がいて、 私は彼とともに静かに座るなら、 彼の面前において、私は完全に居合わせていると感じる、と。 私はそれを問います。 あなたは、違った言葉で同じことを、付与しています。
35:28 AP: いいえ。私は今、それが何かへの関係にあることを、言っていません。 私は、こう言っています- 何かが、ありますか・・・
35:35 K: あるかもしれませんが、 私や、あなたや、ププルジがそれに出くわすのです。 それがある、それを設定する、 それから、それが何であるかを、想像する、 それから、「はい、私はそれを受け取りました」と言うのではない。 それは、すべて幻影です。
35:56 AP: ええ、それは全く明らかです。 私たちは、幻影を追求していません。
36:01 K: ええ。事実から事実へ、事実へ追求しています。
36:06 AP: ええ。
36:09 K: 事実は、こうです - 私は拒否できますか。 私は、一つずつ否定するのか。 あるいはまた、全体を了解する知覚が、ありますか。 全体へのその知覚は、そのすべてへのまさしく拒否です。 全包括的な知覚です。
36:42 AP: 私はこう言いたいです - あなたが語ってこられた、この全包括的な知覚は、 それはただ、一歩ずつの理性的な過程ではない、と。
36:55 K: ああ、はい。 そうではありません。
36:57 AP: それはまた、その中に、深い感じをも、持っています。
36:59 K: もちろんです。 深い慈しみ、愛、慈悲。 それが、知覚です。 それが、智恵です。 そうね、アチュットジ、私が指摘してもよろしければ、 もう少し私が、これに入っていいなら、 そうね、私たちは、否定しませんよ。 私たちはいつも、話しています。 ゆえに、事実と非事実との間に、いつも、この遊びが、あります。 私は言います - 私はそのゲームで遊ぶまい。 それは、子どもっぽいから。 私が、包括的に 否定するなら - それで、絶対的に、何も無いように、です。 心理的に、です。 私は、あのランプを拒否できません。 私は、あのランプや あのランプに潜むテクノロジーを、否定できません。 が、なっていく過程全体を、 完全に否定する - それで、あなたの精神が、過去に捕らわれていないように、です。 私が持つ、学ぶ、などしなくてはいけない過去に、です。 私たちは、そうできますか。 私はそうしないなら、永遠の神、時のないものについて、 話をすること - それは、無意味になります。
38:46 PJ: 精神は、 今日、今、 動きなく、休みますが、 それは、 言われた言葉を聞くことが、 必要ではないですか - 知りえないものの本性について、です。
39:26 K: 何ですか。 あなたは、できますか。
39:30 PJ: 私は、言いました - 精神は止まっている、と。
39:34 K: それが、すべてです。
39:37 PJ: さて、 その止まった精神は、 時がないものの本性について聞くことが、 必要ではないですか。
39:57 K: 精神は、止まって、静かです。 けっして静けさを達成しない。 止まっている。 誘引していない。 実践していない。 言葉でもって、それを追いかけない。 その精神の気づきの中で - それは、自らが本性の中にあり、それが法則であり、 それがおしゃべりしていることが、見えます。 そして、見ます - その全くの・・・ 

PJ: ええ。
40:38 が、人が作っていない神について、 語りうる人が、いるとの 状況があるとき・・・
40:54 K: 気をつけてください。私は、神という言葉を、使いませんでした。
40:58 PJ: 私は、「神」という言葉を、使っています。
41:02 そうしないようにしましょう・・・

K: 言葉を玩ばないようにしましょう。
41:06 PJ: 或る人が、います。 精神が止まっているとき、 その声が語るのを、聞くことが、必要でないですか。
41:17 K: もちろんです。 あなたは、聞けませんが。 あなたは、私に、物語を語っています・・・
41:23 PJ: が、私は、あなたに言っています。 私はそれを、大いに・・・言っていて・・・ あなたは、私たちに、語られますか。
41:36 K: 何について? 

PJ: 時がないものについて、です。
41:51 K: それを言葉に表すことは、可能なのかどうか、私は知りません。 私たちは、言葉でもって、測量不可能なものを、測量しています。 それが、全論点です。
42:06 PJ: 私は、測量したくありません。 そういうわけで、私は言ったのです・・・
42:10 K: さて、ちょっと待ってください。 あなたの精神は、実際に静かであり、 絶対的に静寂であるなら - 誘引したのでなく、 この会話において、あの静寂を捉えようとしていない。 が、聞いた後、実際に、 深く、内的に静寂です。 あの静寂があるとき、あなたは、その質問をできません。
42:43 PJ: 私は、その質問をできます。
42:46 K: あの静寂がないときだけです。 進んでください。 理解できます。
42:55 PJ: 私は、あなたを見ます。 そして私は、そうしたくありません。 それは、あなたが仰っていることを、私は捉えたい、ということではない。
43:07 K: ええ。そういうわけで、私たちはきわめて明らかでなければならないのです。
43:10 PJ: それは、あなたが仰っていることを私は捉えたい、ということではない。 私は、感じます - 精神の静けさが、あるとき、 精神を越えてあるものが、 聞こえる・・・
43:34 K: ごらん、ププルジ。私は、あなたの問いが何なのかを、よくよく理解します。 アチュットジとあなたも、聞いています。 または、私は、あなたたちに聞いています - 大きな、深い・・・ 完全な慈しみをもって、あなたが言っていることを、です。 その注意こそが、静寂です。 そのときあなたは、私に語っています。 または、私に伝えています - 静寂より、はるかに際限なき何かを、です。 あなたはそれを、言葉で伝えられますか。 または、あなたの存在こそが、 その存在こそが、私に印象づけています。 そして、私は静寂になります。 待ってください。 このとてつもない静けさが、あるなら- 何も原因を持たないものが、です。 ゆえに、空間であるのは、まさにその静寂です。 時がなく、際限がないのは、です。 この無際限さが、宇宙、万物です。 ゆえに、宇宙は、何の原因をも、持っていません。 ですが、私の生すべては、原因に基づいています。 私は、一つを理解できますか。 一つの原因を理解する中で・・・ ・・・私は、際限ありません。 私の頭脳は、際限ありません。