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OJ72T2 - 秩序は、自らの法を持っている
第2回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1972年4月9日



1:51 クリシュナムルティ: 私たちは、昨日、話していたことから、 継続しましょうか。
2:01 私たちは、単なる物理的な革命は、 ほとんど意義がないと、言っていました。 そして、意味、深みを持っているのは、 心理的な革命です。 自らの態度、価値、振るまいにおける、 全的な変化です。
2:39 私たちは、表面的に変化し、 表面的な要求へ、適応するのか、 あるいは、私たちは、意識の全体的な構造と本性へ、 はるかに深く入るのか - そこに、革命が起きなければなりません。
3:09 それが、私たちが昨日、多かれ少なかれ、話していたことです。
3:18 私たちは今朝それに、はるかに深く入るべきだと、思います - 深み - 「深み」という言葉は、測量を持たない、ということに、 留意しておいて、です。
3:31 それは、本当に測量不可能です。 それに入れば入るほど - より深く、より広く、です - それは、もっと底知れないのです。
3:45 ですが、私たちは、秩序でもって始めなければなりません。
4:00 秩序は、私には思われますが、 精神的な命令ではありません。 また、規律を課された順応とか、 自分自身の内とか、外的な常なる闘いの効果でもありません。
4:30 秩序は、自らの法を持っています。
4:38 私たちは、そもそも真剣であるなら - そして、狂った世界では、そうあるべきです - 私たちのまわりで、砕けていく世界、 ほとんど狂気になってしまった世界では、 正気が、本質的です。 正気が、秩序です。
5:06 この秩序は、自然に、 何の努力もなく、訪れます - 私たちが、無秩序とは何かを、理解するなら、です。
5:23 私たちが昨日、言いましたように、 私たちはともに、事態を考慮しています。
5:37 あなたは単に、語り手に聞いていて、 彼の言葉を受け入れたり、拒絶したりしていません。 むしろ、私たちはともに、 究明の中、旅を行っています - 無秩序の過程全体の究明の中へ、です。
6:08 すなわち、私たちは、無秩序とは何かを、互いに意思疎通しようとしています。 何が私たちの生に無秩序をもたらすのかを、ともに理解しようとしています。
6:23 それを理解する中で、自然に、秩序は来るでしょう。
6:30 そのとき、秩序は青写真ではありません。 むりやり精神を、順応させる設計ではありません。 むしろ、無秩序の本性と構造が 何であるかを、理解することです。
6:55 よろしいですか。
7:01 麗しい朝ですね。
7:13 私たちの生、 私たちが日々、送る生活は - イデオロギー的な生ではなく、 自らが何であるべきかの生ではなく、 毎日、実際に、「有るもの」の生です。 その毎日の生活の中、私たちは、無秩序な生を、送ります - 矛盾していて、 自己中心的であり、 無数の価値を持っている生、です。 想像力豊かで、作為されていて、憶えられています。
8:05 どうぞ、私たちは昨日、言いましたように、 そして、私がもう一度、反復してもいいなら、 ご提案してもよろしいなら、語り手の言葉を、使ってください - あなた自身を観察するよう、 あなた自身の日常生活を、見、 実際にそれが何であるかを、見つめるように、です。 理論的に、ではなく、抽象において、ではなく、 実際に、自らの生において起きつつあるように、です。
8:45 あなたはそもそも、自分の生を観察し、気づいているなら、 大変多くの葛藤、闘争、矛盾、 比較での競争性が、あることが、分かります - 心理的にも、外的にも、です。 これらが、無秩序に寄与する要因です。
9:18 すなわち、人間たちは、条件づけられています - 自らがそこに生きている文化に沿って、 国、環境、 経済状況などに沿って、です。
9:39 この条件づけは、中国、インド、ヨーロッパ、 アメリカより、異なっているかもしれません。
9:50 この条件づけの中、私たちは生きます。 その生に、この常なる闘争、 一定の価値への常なる適応が、ある - 社会によってか、自分自身によって投影されたのや、 私たちが継承してきたなどの価値へ、です。
10:33 無秩序の要因は、本質的に、自分自身の中の矛盾です - 一つのことを言い、別のことをする。 何か全然違ったことを、考える。
11:00 この矛盾は、必然的に無秩序を、創り出すにちがいない。
11:08 それは、単純な事実、心理的な事実です - 二つの民族があり、 イデオロギーと、宗教的な見通しで、対立しているときのように、 彼らは必然的に、互いに反目し合っていて、 戦争の準備をするにちがいない。 それが、幾世紀をとおして、進んできたように、です。
11:33 それは、またもや事実です。
11:41 さて、私たちは、表面的に変化し、 外的に、一定種類の秩序を、もたらすのか - 立法をとおし、 法律をとおし、政治をとおし、 経済的な調整などをとおして、です。 あるいは、私たちは、自分自身の中の無秩序の本性を、理解し、見るのか、です - 昨日、私たちがいう、見るとは、どういう意味かを説明したように、です。
12:20 まさにその知覚の中、私たちの生の秩序化が、あるのです - 何の努力もなしに、です。
12:31 これは、少し説明が必要だと、私は思います。
12:38 そうね、私たちが、昨日言っていましたように、 知覚は、最高に重要です。
12:46 あなたは、イメージをとおして、知覚し、 ゆえに、まったく知覚しないのか、 あるいは、直接的に知覚するのか、です。
12:55 直接的である知覚は、即時の行為を、持ちます。 なぜなら、善は、時の平野に花開かないからです。
13:11 それを理解されますか。
13:19 私は、ちょうど今、言いました - 善は、時の平野に、花開かない。
13:30 時とは、延期することだけではなく、 観念へ、 イデオロギーへ 「あるべきもの」への順応、 より良くなるとの段階的な観念です。 そのすべてが、時の平野に、あります。
13:56 その平野には、もっと多くの葛藤が、あります。 善が、何もありません。
14:04 時がまったく存在しない平野にのみ、 善は、花開けるのです。
14:15 私たちは、互いに意思疎通してきましたか。

質問者: はい。
14:20 K: いいえ。 疎通してきましたか。 ちょっと、お待ちください。 あなたたちは、講話の終わりに、質問をできます。
14:33 なぜなら、家が燃えているとき、 それを消すための時間は、ないからです。 あなたは、火を付けたのは、 長い顎髭の紳士である、どんな色だ、 などとは、言いません。
14:48 あなたは、即座に行為します。 関与した時間は、ありません。 私たちの家は、火が付いています。 あなたたちは、この美しい谷に、生きる、 または、たくさん物がある国に、生きるかもしれません。 けれども、あなたの家は、燃えています。 私たちは、即時に行為しなければなりません。
15:19 あなたが、自分の生において、無秩序の本性を、実際に見るとき、 行為は、起きるだけです。 その無秩序は、世界に、こんなに荒廃を、引き起こしています。
15:37 なぜなら、あなたなるもの、それを、あなたは、世界に投影するからです。
15:48 それの真理を見ることが、即時に行為することです。 行為の即時性が、善です。 ですね?
16:03 どうぞ、同意や不同意をしないでください。
16:10 善についてのこの言い回しを憶えないで、 それの真理を、実際に見てください。 それの実在性、それの美しさを、見てください。 明日にではなく、そこに座って、聞いていながら、です。 - あなたがそもそも、聞いているなら、です - 自分の生が、こんな乱れの中にあるのを、 実際に見てください - 混乱、矛盾、大変多くの悲しみ、 痛みの中にあるのを、です。 物理的にだけではなく、 心理的な痛みと、挫折。 生きることと呼ばれる、私たちの生全体を、です。
17:13 私たちが言いましたように、私たちは、表面的な秩序をもたらし、 ゆえに、一定のイデオロギー、象徴などに 適応するのか、 あるいは、あなたは、自分自身の、ありのままの意識の 全体的な構造と本性に、入るのか、です。
17:44 それが、今朝、私たちが、少ししようとしていることです。 これは、集団療法ではありません。
17:55 これは、(カトリックの)告解ではありません。 これは、分析的な過程ではありません。 私にとって、分析は、延期です。 それは、何も実在性を持ちません。
18:11 私は、次の三十年間、自分が死ぬまで、自分の生を分析しつづけられますし、 その終わりに、やはり私は、分析しています。
18:21 分析は、時を、含意しています。 分析は、分析する者と、分析されるものを、含意しています。 ゆえに、そこには、分割がある。 ゆえに、葛藤がある。
18:37 で、私たちは分析していません。 また、それは、集団療法でもありません。 また私たちは、宣伝をも、していません。
18:52 宣伝は、いつも嘘を進めることです。ですね?
19:01 あなたたちはみんな、これらを受け入れますね - 全く容易に、です。 なぜそうですか。 あなたは、私たちが話していることを、理解しないのか、 あるいは、あなたは、それを理解するし、ゆえに、それは自然であるのか、です。
19:19 私たちが、この麗しい朝、ともにしようとしていることは、 私たち自身を、ありのままに、明らかに観察することです - 語り手の言葉を、鏡として使って、です。
19:42 鏡は歪曲するのか、 あるいは、鏡はまさしく、「有るもの」を示すのか。
19:55 歪曲があるのは、あなたが、「私は好きだ」とか「好きでない」とか、 「これが私の意見や判断だ」、 「これが正しい。これは間違っている」、 「これがあるべきだ」とか「あるべきでない」とか、 言うときだけです。
20:09 そのとき、歪曲が起こります。
20:16 あなたが、どの特定の社会や 特定の集団にも所属していたり、 カトリックやプロテスタントの教えに応じて、条件づけられているなら - そうね、世界の様々な宗派の、 その他すべての分派です - こんなに条件づけられていて、鏡を見るとき、 あなたは、歪曲しています - 「有るもの」の事実を、歪曲しています。
20:47 ところが、あなたが、意見なく、 判断なく、評価なく、見るなら、 または、自分の条件づけに気づき、 それを脇に置き、観察しているなら、そのとき、歪曲はありません。 そのとき、あなたと私は、まさしく「有るもの」を、観察しています。
21:16 そうね、観察するには、大変多くのエネルギーが、必要です。
21:27 あなたは、あの樹を、よくよく観察したいなら、 それへ、注意しなくてはいけません。
21:35 あなたは、自分の精神と心を、 木の葉への光へ、幹の形へ、 枝々のあらゆる動きに、注がなくてはいけません。 あなたはそれに、注意全体を注がなくてはいけません。
21:53 ですが、あなたが、漠然とそれを見つめていて、 あなたの思考が、さまよっていくなら、 それは、エネルギーのむだです- さまよっていくことは。 ゆえに、あなたは、観察するための充分なエネルギーを、持ちません。
22:12 それは、だいじょうぶですか。
22:20 私たちが言いましたように、私たちは・・・ あの鳥を観察し・・・
22:50 私たちは、イメージをもたずにか、イメージをもって、観察します。
23:00 イメージをとおした観察は、エネルギーのむだです。 「有るもの」を変化させるには、あなたは、エネルギーが必要です。
23:15 私たちはともに、「有るもの」を、究明しようとしています。
23:26 さて、私たちは、意識を、意識的なものと隠れたものとに、分割してきました - 意識的な精神と、無意識的な精神、 潜在意識など、 様々な分割すべて、です。
23:45 私たちは、精神の意識的な活動に、親しんでいます - それが考えること、 それがしなくてはいけない様々な仕事、 自動的な、習慣的な活動、 毎日の出来事、行為 - 行わなくてはいけないこと、です。
24:15 それから、隠れている動きすべてが、あります - それが、無意識です。 精神のより深い層です。
24:32 さて、根本的な革命を 意識全体に、もたらすには - それは、全く違った種類の文明を 生み出すために、必要です。 その中で、人が、もう一人の人とともに、葛藤なく、 平和に生きられる文明を、生み出すには、 この内容全体を、見つめなくてはいけません。
25:04 意識的な水準に、 表面的な秩序をもたらすのか、あるいは、 単なる観察をとおして、 秩序をもたらすのか。
25:28 秩序は、意識の内にあるのか、その外側にあるのか、です。
25:36 これは、あまりに錯綜しているのかどうかと、思われます。 ベーネ(いいですか)?進んでいいですか。 さあ、私たちは、意識の内に秩序を、もたらそうとしますね。
25:55 すなわち、私たちは分析しようとします。 私たちは、順応しようとします。 私たちは、規律を課そうとします。 私たちは、様式を変化させようとします - 私たちの思考、私たちの存在などの様式を、意識の内で、です。
26:14 そして、意識は、内容です。 内容です。 意識は、その内容なしには、存在できません。いいですね?
26:29 私たちは、色々な所で、内容を動かそうとしています。 それにより、秩序をもたらそうと、望んでいます。 ところが、秩序は意識の外側に、存在します。 第一の提議、第一の知覚を、
26:57 理解されますか - 内容が意識であることを見ることを、です。
27:08 そのすべての内容なしに、意識はありません - あなたの思考、あなたの観念、 あなたの願い、あなたの絶望、 あなたの挫折感なしに、です。 そのすべてが、あなたの意識です。
27:22 その意識の中に、あなたは、秩序をもたらそうとしています。
27:29 その意識に、秩序は、存在できません。
27:35 秩序は、外側に、違った次元に、存在できるだけです。
27:47 さて、その次元に到ることや、出くわすことは、どのように可能ですか。
27:58 いいですか?付いてきていますか。 私は悟ります - 私はその状態にあるなら、 私は、自分の生が葛藤であることを、悟ります - 外的にも、内的にも、です。
28:18 私は、自分の意識、「私」が、その内容であることを、悟ります。 家具、執着、 所有の感覚、 権力、立場、威信、地位への欲望、 楽しみ、恐れ。 そのすべてが、私の意識です。
28:46 私は、その意識に、秩序をもたらそうとしています。 私は、それが可能でないことが、分かります。
28:59 その意識の外側にのみ、秩序がある。 精神は、その違った次元が何であるのかを、 見出そうとしなければなりません。
29:23 まず第一に、 私は、自分の生が恐れであると、分かります - 甚大な量の恐れです。
29:38 私の生は、恐れと楽しみをとおして、導かれています。 それらが、自らの生の二つの中心的な事実です - 楽しみと恐れ、です。
29:53 それらは、同じコインの裏表です。 私は進んでもいいですか。 話をすべきことは、もっとたくさん、あります。 そういうわけで、私は進めてゆきたいと思うのです。 あなたたちが、これらに付いてこられることを、願っています。 そうでないなら、すみません。 私は、お役に立てません。 で、自らの生は、これら二つの要因に、基づいています - 楽しみと恐れに、 そして、愛と呼ばれるものに、です。
30:28 愛は、楽しみですか。 愛は、欲望ですか。 または、それは、何か全然違ったものですか。 また私は、死とは何かをも、見出さなければなりません。 なぜなら、それは、私の生きることの一部であるからです。
30:51 で、自らの生は、楽しみ、恐れ、愛と死です。
31:11 その平野の中で、 精神は、秩序をもたらそうとしているだけではなく、 またそれは、安全をほしがります- あの平野の中で、です。
31:26 なぜなら、脳細胞は、完全に安全であるときだけ、 効率的に、全的に、効果的に、 機能できるからです - それは、神経症的に安全でありうるのでも、 または、自由の中で、安全でありうるのでも、です。
31:54 あなたが注目なさったことがないのかどうか、私は知りません - 神経症的な人々は、観念において、信念において、 概念において、安全であるのです。
32:04 彼らにとって、それが、まさしく安全の本質になるのです。
32:13 で、精神は、観念に安全を探し求めるとき、神経症的です。
32:27 それを受け入れますか。 それが、分かりますか。 または、精神が、信念に、教義に、概念に、 安全を見つけるとき、です。
32:42 精神はそこに、安全を見つけますが、それは、神経症的な安全です。 なぜなら、それは、本質的に人々を分割するからです。
32:59 自らの生に、これらを見て、 葛藤、悲惨、 悲しみ、恐れ、 心配 - すなわち、自分が何かに、イデオロギー的な信条を 持っているとき、訪れるもの。 絶望、 全くの挫折感。 それが、私たちの生です。
33:40 そして、私たちは、死に怯えています - 老齢、病気と死です。
33:51 それが、私たちの生の生きること全体です。
34:02 私たちは、恐れているので、信じています。
34:08 私たちは、恐れているので、何かに、信を置いています。
34:15 私たちは、死を恐れているので、様々な理論を持っています。 輪廻転生、復活を信じています - そうね、あらゆる形の希望です。
34:31 それが、私たちの無秩序の日常生活です。
34:40 さて、この無秩序な世界に、自らはいかに秩序を、もたらすことになりますか - すなわち、私自身に、です。 すなわち、あなた自身に、です。
34:53 自らはいかに、完全に秩序だち、何も矛盾ない生を、 生きることになりますか。
35:06 それが、私たちのほとんどが、ほしいものだと、私は思います。 私たちが、正気で理性的であればあるほど、 私たちの生が理性的、健康的、道徳的、 道義的であることを、要求します。
35:26 それをそこに見つけないので、 私たちは、投資します - 自分のお金だけではなく、自分の希望をもまた、 教会に、 神話に、 様々な教義と、 輸入された異国風な宗教すべてに、です。 (ハレー・)クリシュナ意識 - よろしいですか -
36:03 様々な形のヨーガ、 様々な形の冥想、です。
36:16 その種の何かが、この国に輸入されるとき、 あなたは即時に、それを輸出すべきです。 なぜなら、あなたは、それについて何一つ、知らないからです。
36:32 あなたたちは、たくさんの騙されやすい人々です。 あなたたちがほしいすべては、楽しみを与えてくれるであろう経験です。
36:44 あなたたちは、薬物を試してきました。 あなたたちは、マリファナをめぐって、けんかをしています。 あなたたちは、他の何かをめぐって、けんかをするでしょう。 なぜなら、あなたが関心を持っているすべては、 経験での楽しみを、さらに進めることであるからです。 ゆえに、それは、あなたの生に、もっと無秩序を、もたらします。
37:14 で、私たちが今、しようとしていることは、 人間精神が - あなたの精神、人間精神が、 根本的に変化できるのかどうかを、 見ることです。
37:35 そのとき、あなたは言うでしょう - 「一個人が、一人の人間が、変化するなら、 それは、どのように重要ですか。
37:45 彼はどのように、世界全体に、影響できますか」と。 そうね、あなたは、もしも変化しつつあったなら、 もしも実際に、変化しつつあったなら、けっして、その質問をしないでしょう。
38:00 変化しないための言い訳を、見つけたくて、 「まあ、私が変化するなら、それがどう良いのだろうか」と言うのは、 変化しつつない人物だけです。 私たちが今朝、ここで、しようとしていることは、 全的な変化の意義を、
38:24 理解し、話すことか、または、見ることです。
38:31 私たちが言いましたように、 秩序は、意識の平野の中に存在していません。
38:42 あなたは、明らかに自分自身で、それが見えるなら、訊ねるでしょう - 精神は、こんなに無秩序で、腐敗し、 こんなに些細で、ごまかしですが、 その精神は、どのようにして、全的に違った何かに、出くわすことになりますか - すっかり違った次元で、です。
39:11 問いは、明らかですか。 質問を理解できますか。 さて、あなたが、自分自身にその質問をするとき - すなわち、自分は無秩序の中に生きるし、 その平野での、どの形の思考の動きも、 無秩序を、さらに進めるだろうことが、分かります。ですね?
39:53 ゆえに、こう言います - 「精神は、こんなにおしゃべりしていて、 こんなに活動的で、果てしなく想像し、 思い出し、工夫していますが、 その精神はどのように、 秩序をもたらすことになりますか」と。
40:16 あなたは、質問をはっきりと捉えましたか。
40:29 さて、秩序をもたらすには、 精神は、完全に静寂でなければなりません。
40:46 そこが、冥想の重要性があるところです。
40:57 そうね、その言葉は、インドから、持ち込まれました。 この国には、様々な形の冥想が、あります。
41:14 私たちは、それらすべてを、引きちぎろうとしています - それらすべてにおいて、何が偽りであるかを、見て、です。
41:28 あなたは、何が偽りであるかが、見えるとき、それの真理が、見えます。 ゆえにあなたは、けっしてそれに触れないでしょう。
41:39 なぜなら、その観念全体は、精神が、絶対的に静かでなければならない、 というものであるからです - それ自体の中に、秩序をもたらすために、です。 なぜなら、あの樹を見つめるには、
41:57 精神がおしゃべりしているなら、あなたは、見られません。 あなたは、精神が静かであってこそ、完全に見られるだけです。 それは、単純でしょう。 それは、あなたが、それに注意全体を注がなければならない、という意味です。
42:17 注意とは、見ること、理解すること、智恵の 意義が分かることだけではない。 そのすべてが、完全に注意深いことに、含意されています。 さもないと、あなたはとうてい、何も見えないか、何も聞こえないのです。
42:45 そうね、あなたが音楽を愛しているとき、 聞くでしょう。
42:55 あなたは、自分の心でもって、 精神でもって、身体でもって、 目でもって、 自分の持てるすべてでもって、それを聞きます。 さもないと、あなたは音楽家ではありません。 あなたはただ、音を楽しんでいるだけです。
43:13 で、あなたは、精神が完全に止まっているときだけ、観察できます。
43:25 あなたは、精神が静かであるときだけ、他の一人を、見られます。 あなたの精神が、イメージで満たされていないとき、 他の一人を、見られて、 他の一人と、全的に意思疎通できます。
43:47 聞くには、静寂が必要です。
43:56 理解できますか。それが、観察の中心的な要因です。
44:04 明らかに見るには、精神は、完全に静かでなければなりません。 あなたの身体もまた、そうです - 構造全体が、です。
44:15 あなたの精神、あなたの脳細胞と神経は、全的に静かでなければなりません。 さもないと、あなたは、明らかに見られません。
44:29 さて、それは事実です - あなたと私は、それを、相当単純に理解するのです。
44:37 そのとき疑問が、生じます - 「精神はどうやって、静かにさせられることになるのか」。
44:46 理解されますか。それは、自然で通常の疑問です。 それは、間違った疑問です。 そこに、あなたは捕らわれます。
44:59 あなたは、自分自身で分かります - あなたは何かを聞くとき、 あなたは、美しい山や、樹、 飛んでいる鳥を見るとき、 精神は、全的に静かでなければならない、ということが、です。
45:15 あなたは、それが分かります。 あなたは、それを理解します。そうします。 そして、こう言います -「もしも私は、精神を静かにできたなら、 あらゆることが、単純になるだろう」と。 そのときあなたは、「それは、どうやって静かにされることになるのか」と、訊ねます。
45:37 あなたが、その質問をするとき、 すべての導師、教師、研究者、専門家たちが、います - 「私が、どう静かにするかを、教えてあげよう」と言う人たちが、です。 いいですか? これらに、付いてきておられますか。
45:55 それで、彼らは、体系を持っています。
46:03 私が言いましたように、私たちは、見出すように、 このすべてを、引きちぎろうとしています。 あなたは、それらのすべてに、所属しているかもしれません。 たぶんあなたは、そうです。 あなたは、自分の冥想の体系や、 これやあれの体系を、持っています。
46:18 私たちは、それらを覗き込もうとしています。 体系は、目標、目的と、その目的への手段を、含意しているでしょう。
46:34 どうぞ、気をつけて、これを聞いてください。 キリスト教の方法が、ある。 ヒンドゥー教の方法、 禅の方法、 様々な方法が、ある - 超越冥想の方法を、含めて、です。
46:56 方法は、目的への手段です - あなたが投影してきた目的へ、です。
47:13 あなたは、目的を投影してきました。 それを、覚り、神とか、何であれ、呼びます。 あなたが、それを投影してきたのか、または、あなたの導師、 あなたの教師、あなたの司祭者 - 彼らが、あなたのために、 それを投影してきて、あなたは、それを受け入れます。
47:31 そのとき、彼らはあなたに、その目的を達成するための方法を、提供します。
47:37 目的は、あなたの投影物です。 あなたが、方法を実践するとき - すなわち、その目的の達成を約束するものを、です - それは、自己催眠の過程です。
47:54 分かりましたか。 そうね、あなたは、或る人を知っていました。 彼は、二十五年間、冥想を実践しました。 その他に、何もしないで、です。
48:16 彼は、家族を離れて、森に入っていきました。 修道生活をし、冥想しました。
48:26 不幸にも、誰かが、彼を講話の一つに、連れてきました。 その中で、語り手は、とりわけ、冥想について、 話していて、 指摘しました -あらゆる形の・・・ 体系と目的をもった、この形の冥想は、自己催眠である、と。
48:51 彼は翌日、私に会いに来て、こう言いました - 「あなたは完璧に正しい。 二十五年間、私は、冥想を実践してきましたが、 今、私は、自分が人生をむだにしてきたことを、悟ります、と。 そうね、それには、大変多くの知覚と活力とエネルギーを、必要とします - 何か自分がしてきたが、 真実でないことを、認知するには、です。
49:17 それから、この輸入された、超越冥想が、あります - マントラ・ヨーガ、です。 これを、ご存じですか。
49:29 あなたたちの幾人かは、それをしますか。 または、あなたは、それを認知するのを、恥じていますか。
49:41 私が言いましたように、あなたは、 これらすべてのものを、即時に輸出すべきです。
49:49 それらは、エネルギーのむだです。 それらは、幻影をもたらします。
49:58 そうね、マントラ・ヨーガの観念全体ですが、 それは、この国の超越冥想です。 その観念全体は、一定の言葉の反復をとおして、 初めに、言語的に、声を出し、それから、静寂に、 そして、一定の点に到った後で、飛び立ちます - それが、どういう意味であろうとも、です。
50:37 あなたは、どの言葉を、反復してもいいですが、 それがサンスクリットの言葉であるなら、もっとロマンチックです。
50:49 それは、言葉や、一連の言葉であり、 あなたの教師、導師が、秘密裏に、あなたに授けるものです。
50:58 あなたは、それに支払います。あなたは、自分が天国に到るだろうと、思います。 あなたは天国に到るのですが、それは、あなたが創案した天国です。
51:13 彼らはまた、今、新しい種類のヨーガを、付け加えています - それは、クンダリニー・ヨーガです。
51:20 あなたたちは、それについても、聞いたことがありますね。きっとそうだと思います。 これらのもののどれにも、触れないでください。それらは、大変危険です。
51:33 すなわち、私が、あなたに言ってよろしいのなら、 あなたが、幻影を楽しむのなら、 あなたが、神や覚りや真理の名において、 自己催眠をする状態にいるのを、楽しむなら、それへ行ってください。
51:54 様々な形の規律、修練、実践が、あります - すべてが、あなたがほしいものを、約束しています。 すなわち、覚り、幸せ、真理などを、です。
52:11 すなわち、あなたは、もっともっと広い経験が、ほしい。 なぜなら、あなたは、自分の日常生活に、退屈しているからです。
52:25 ですが、あなたは、静寂な精神のみが、観察できることが、分かります。
52:35 静寂な精神のみが、完全な秩序を、もたらせます。
52:44 で、あなたは、自分自身でその真理が、見えるとき、 どの体系も - 誰がそれを言うのかは、大事なことではない - どの思考の動きも、 必然的に分割をもたらす、ゆえに、葛藤をもたらすにちがいない ということが、です。 あなたは、このすべての真理が、見えるとき、 あなたの精神は、静かになります。
53:23 このすべての真理が見えることが、静かな精神を持つことです。 これを理解されますか。
53:35 で、お分かりですか、私たちの困難は、こうです - 私たちは、無秩序な生を生きることを、知って、 私たちは、それへ秩序をもたらす能力が、ない、ということです。 なぜなら、私たちは、自分の考案、工夫に沿った秩序が、ほしい。 私たちは、自分の想像に沿って、自分の楽しみと都合に沿って、 秩序がほしいからです。 その平野には、まったく秩序が、ありません。
54:21 あなたは、それが見えるなら -そして、それが見えるには、 静かな精神を、持たなくてはいけません。理解されますか。
54:34 さて、さらなることは、こうです - 何が、もっとありますか・・・もっと、ではない。 実在とは何ですか。
54:58 精神により、思考により、想像により、 組み立てられていないものが、何かありますか。
55:09 測量可能でないもの、 人が何千年に何千年もの間、探し求めてきたものが、何かありますか。
55:20 質問を理解されましたか。 人はいつも、時の始まりから、訊ねてきました - 自らの生が終わりになることを、知り、 自らがいつも、果てしなく 自分自身との葛藤、世界との抗争にあることを、知り、 自らがそこに、秩序をもたらせないことを、知り、 そのとき人は、それらを越えた何かがあるのかどうかを、訊ねます。
56:00 まさにその訊ねる中で、人は、自分の生より、逃避しています。 理解されますか。 私たちは、逃避していません。 私たちは、秩序が必要であり、 それが確立されなければならないことが、分かります。
56:15 そのときあなたは、質問をできます - 行い、道義、秩序の基礎を、確立し、敷いた後で、です - そのとき、質問をできます。「これらを越えた何かが、ありますか」。
56:31 付いてきておられますか。 話は、明らかになっていますか。
56:39 さて、どのように見出そうとしていますか。
56:47 あなたは、何かを信じられます。 あなたは、時と思考を越えているものが、 何かあることを、信じられます。
56:57 信念は、現実ではありません。 あなたは、太陽が輝いていることを、信じません - それは輝いています。 それは、ただ、あなたが知らないとき、 あなたが理解しなかったとき、それが、あなたの精神にないときだけです。 そのときあなたは、信じます。そのときあなたは、何かに信を置きます。
57:23 で、それを見出すには、精神は、全的に信念より、自由でなければなりません。 そうではないですか。
57:41 信念は、恐れを含意しています。 あなたの信念、他の人の信念が、あります。 信念は、人々を分割します。 で、精神は、自由でなければなりません - 恐れから、自由でなければなりません - 恐れが、私たちの条件づけすべてを、創り出してきました。 物理的な条件づけも、心理的な条件づけも、です。
58:17 で、精神は、恐れより自由でありえますか。 恐れは、思考の動きにのみ、存在します。ですね?
58:33 それを悟ることより、「思考は、静かでありうるのか」と言います。 思考は、一方向には、論理的、健全に、 効果的に機能し、 別の方向には、完全に静かです。
58:57 なぜなら、思考が、恐れを創り出すからです。 すなわち、あなたは今、生きています。 そして、死があります。
59:08 死は、未来のいつかです。または、おそらく明日か、はるか遠くです。
59:15 思考は、「私は、自分が知らない状態を、恐れている。 ゆえに、私は怯えている」と言います。 恐れは、楽しみのように、思考の産物です。
59:30 あなたは、それの真理が見えるなら- 知的に、言語的に、ではない - そのとき、恐れは、終わりになります。
59:44 それで、何か越えたものがあるのかどうかを、見出すには、 自由が、絶対的に必要です - このすべての混乱、乱れ、醜さ、美しさを越えた何かが、です。 そうね、生きると呼ばれるこのことを、越えて、です。 その中に、私たちは秩序をもたらそうとします。 その中に、真剣な人々すべてが、秩序をもたらすのです。 それで、彼らは道義的に、振るまいます。
1:00:17 自由が、なければなりません。 自由は、自分がしたいことをすることではありません。 自由は、責任を持っています。
1:00:37 自由は、秩序、という意味合いです。 その自由の中には、 なぜなら、精神は、自由を要求しているからですが、 その自由こそが、自らの規律、修練を、もたらします。
1:00:55 すなわち、「規律、修練(ディシプリン)」という言葉は、学ぶという意味です。 順応するのではなく、抑圧するのではなく、学ぶ。
1:01:10 「有るもの」を学ぶ。 「有るべきもの」について、ではない。
1:01:21 で、恐れからの自由、 あらゆる形の信念からの自由です。
1:01:31 そして、集団に所属しない自由が、なければなりません。
1:01:40 理解されますか。 従うことから、 教師、導師を受け入れることからの自由。
1:01:58 従わない自由。 ゆえに、権威からの自由、です。
1:02:08 理解できますか。 法律の権威は、一つのことです。 心理的な権威と、 心理的な権威の受け入れは、別のことです。
1:02:28 私たちは、心理的な権威について、話しています。 あなたは、恐れているから、ゆえに、誰かに従います。 あなたは、覚りがほしい。 それは、あなたの投影です。 ゆえにあなたは、自分の導師に従います- その紳士淑女が、何であっても、です。
1:02:48 で、権威から、恐れから、信念からの 自由が、なければなりません。 それは、あなたが完全に一人である、という意味です - 孤立したのではない。
1:03:10 なぜなら、あなたは一人であるとき、 あなたは直接的に、他の一人と関係しているからです。
1:03:21 美しい花のように、それは全く一つです。
1:03:27 それは、類似した他の花々を、持っているかもしれませんが、 それは、とても美しい。 それは、全く一つです。 美しいものは、いつも全く一つです。
1:03:42 測量可能でない、このものに、出くわせるのは、 こういう精神だけなのです - 名を持たない、 言葉に表せないこのものに、です。
1:04:00 なぜなら、叙述されたものは・・・ 叙述は、叙述されたものではない。 言葉は、そのものではない。 それは、生きることのこの現象全体を理解したし、 それ自体を理解できる精神だけです。 このとてつもないものに、出くわせるのは、 完全に自由であり、静かで止まっている、そういう精神だけです - 人が幾千年をかけて、探し求めてきたこのものに、出くわせるのは、です。
1:04:51 あなたたちは、これについて、質問をしたいのでしょうか。 はい?
1:04:55 質問者: もし私が、恐れから自由であり、私の精神が、静かであるなら、 私は、何かを探しているのでしょうか。
1:05:04 K: もし私の精神が、恐れから自由であり、完全に静かであるなら、 私は、何かを探しているのでしょうか。
1:05:21 もし私の精神が、静かであり、恐れから自由であるなら、 私は、何かを探しているのでしょうか。 そうね、あなたは、質問をなさったが、それは、そもそも質問ではありません。
1:05:35 私は、あなたに失礼にしておりません。 あなたが、「もし私が、恐れのない状態にいるなら、 私は、何かを探しているのでしょうか」と仰るとき、です。
1:05:51 ですが、あなたは、恐れていない状態に、いないのです。 それは、仮説です。 それは、実在性を持ちませんね?
1:06:02 それは、私が、「まあ、もしも私がイギリスの女王だったなら、 私はこれをするだろう」と言うようなものですが、 私は、イギリスの女王ではありません。 で、あなたは、ありえない質問を、されました -
1:06:16 「もし私がそうであるなら、私は何をするのだろうか」と言って、です。 ですが、初めに、恐れより自由であってください。そのときあなたは、 何か探すべきものがあるのか、ないのかを、知るでしょう。 そのとき、探すといったことは、ない。
1:06:33 あなたは、その「探す」という言葉が、どういう意味かを、ご存じですか。
1:06:40 探し出すこと、見出すこと。
1:06:48 そうね、それが、「探す」という、その言葉の意味です。 今、あなたは、探しています。 あなたは、何を探していますか。 あなたは、自分が見つけるものが、本当のことであると、どのように知りますか。
1:07:07 あなたは、自分が見つけることが、偽りのことかもしれないと、 どのように知るのでしょうか。
1:07:13 で、あなたの探求において、何が真実かを、見出すには、 認識が、なければならないでしょう。
1:07:22 いいですか?これに付いてきておられますか。 私は、自分の探求の中で、「それが真理である」とか、 「それは虚偽である」とか、認識しなければなりません。
1:07:31 さて、認識は、何か私がすでに知っていたことを、含意しています。
1:07:39 で、私は、「探す」という言葉を、使うとき、何をしていますか。 私は、自分がすでに知っていたことを、探しているだけです。
1:07:49 よろしいですか。 ゆえに、探さないで、 「有るもの」とともに、いてください。
1:08:01 そうですね、ごらんください- 恐れがあります。 それについて、私たちはみんな、知っています。 死の恐れ、老齢の恐れ、 昨日の痛みが反復されることの恐れ、 世論の恐れ、支配されることの恐れ、 愛されないことの恐れ、
1:08:25 恐れ - 私たちは、みんなそれを知っています。 さびしさの恐れ。 さて、それは事実です。 さて、恐れがあるとき、何が起きますか。 あなたは、それを乗り越えたい、あなたは、それを征服したい、 あなたは、それを抑圧したい、あなたはそれより逃避したいと思います。
1:08:48 あなたは、それより逃避するとき、それを抑圧したいとき、 勇気、その他すべてをとおして、それを征服しようとするとき、 あなたは、エネルギーをむだにしています。 なぜなら、事実は、恐れであるからです。 それが、「有るもの」です。
1:09:04 さて、あなたは、逃避しないで、実際に恐れを見るなら、 何が起きますか。
1:09:13 これらに、付いてきておられますか。 さて、ごらんください。 恐れがあります。 私は、どの形をとおしても、事実より、逃避しません - 恐れ、または妬みがある、との現実より、です。
1:09:31 さて、私は、それが恐れであることを、どのように認識しますか。 私は、それが恐れであることを、どのように知りますか。 なぜなら、私は前に、同様な反応を持ってきたからです。ですね? さもないと、私はそれを、恐れとして認識できなかったでしょう。 これらに付いてきておられますか。 または、あなたは、一時間の終わりに、疲れつつありますか。
1:09:58 で、恐れは - 私が、それは恐れであると、言うとき、 それは、すでに生じたことがあり、 それは、前に起きたことがある。
1:10:10 「私は恐れている」と言うとき、 私は、前に起きてきたことを、強めているだけです。
1:10:16 これらに付いてきておられますか。 で、私は、恐れと呼んできたものを、非言語的に、見つめられますか。
1:10:36 あなたは、恐れを持っているでしょう。 持っておられないですか。 明白に、持っています。 さもないと、ここに座っていないでしょう。
1:10:48 あなたは、その恐れより逃避せずに、それを見つめられますか。
1:10:56 ただ、それを見つめてください。 分析しないでください - それは、別の形の逃避です。 「何がその恐れを、引き起こしたのか」と言わないでください - それは、別のエネルギーのむだです。 どの形の逃避もなく、それを見つめる。
1:11:21 それは、あなたが、見つめるエネルギーを持っている、という意味ですね。 あなたは、逃避していないから、 逃避をとおして、エネルギーをむだにしていません。ですね?
1:11:31 で、恐れがあります。さて、あなたはどのようにそれを、見つめますか。 言語的に、ですか。すなわち、言葉が、恐れを創り出したのですか。
1:11:45 私が言っていることを、理解されますか。ああ、神様!
1:11:53 「恐れ」という言葉が、恐れを創り出したのですか。 または、その言葉なしに、恐れが、ありますか。
1:12:02 その言葉は、あなたが前に持っていた恐れの記憶です。 ああ、さあ、どうぞ、すばやく、進んで行ってください。
1:12:16 ちょっと待って、どうか、見てください。 私は、様々な理由のために、恐れています - 死のため、私は恐れています。
1:12:28 私は逃避していません。 「私は、征服しなければならない。私はそれを乗り越えなければならない。 私は、これをしなければ、あれをしなければならない」と 言うことにより、逃避していません。
1:12:42 で、私は逃避しません。私は、ありのままの事実に、向き合っています。
1:12:48 さて、事実は、言葉の結果ですか - 言葉は、以前の恐れの記憶なのですが。
1:13:01 または、この恐れは、何か全的に新しく、 ゆえに、非言語的なものですか。
1:13:10 これを理解されますか。 私は、どのようにそれを見つめますか。 私は、その言葉をとおして、見つめていますか。または、言葉なしに、ですか。
1:13:24 私がその言葉なしに、見るなら、それは、恐れですか。
1:13:35 すなわち、今、私は、見るための完全なエネルギーを、持っています。
1:13:41 私が、全的なエネルギーをもって見るとき、恐れはない。 これをしてください。 あなたは、分かるでしょう。
1:13:53 妬みを取り上げてください。あなたたちはみんな、それに親しんでいます。
1:14:00 妬みは、比較、測量です。 どうぞ、これを聞いてください。 妬んでいる。 「あなたは、とてもすてきに見える。 あなたは、とても美しい。 あなたは、智恵がある。 私は鈍い。私は愚かだ。 あなたは、私よりはるかに良い。 あなたは、成功者だ。 私は、失敗者だ。 あなたは、これだ。 あなたは、あれだ」 - 比較、測量。 それが妬みです。 さて、私は、妬みなしに生きられますか。 すなわち、測量なく、私自身を他の一人と比較せずに、です。
1:14:41 他の人は、英雄、神、聖人、最高経営責任者なのかもしれません - 彼が何であっても、です。
1:14:51 私は、どの形の測量もなく、見られますか。生きられますか。
1:14:57 見出すには、私は、人々が妬んでいるのが、見えます。 そして、自分が妬んでいるのを、悟ります。
1:15:09 そのとき、それを合理化しはじめます。 「私は、この世界で妬んでいないなら、破壊されるだろう」と。 それは、エネルギーのむだです。 なぜなら、私は、自分が妬んでいるとの事実に、直面しているからです。
1:15:27 社会的、宗教的な構造全体が、この妬みに、基づいています。
1:15:36 妬みをとおして、私は、測量不可能なものを、見出そうとしています。 私たちがいかに愚かであるかを、理解されますか。 で、私は、測量なしに、生きられますか。 私は、合理化しません。 なぜなら、合理化するとき、 私は、妬んでいることの言い訳を、見つけられるからです。
1:16:03 私は、自分が妬みと呼んできたその感情を、言葉なしに、見つめられますか - その感情を喚起したり、強めたりするその言葉なしに、です。
1:16:21 すなわち、その言葉は記憶です。
1:16:28 その言葉は、過去の象徴です。
1:16:39 私が、その妬みを見つめるとき、 私は、過去の目でもって、見ています。
1:16:52 で、私は、それを新鮮に見つめられますか。 私は、逃避がないとき、言い訳がないとき、 それを、新鮮に見つめられるだけです - 私のエネルギーすべてでもって、それを見つめるとき、です。
1:17:10 そのとき、あなたは分かるでしょう - 私が妬みと呼んできたもの、そういうものは、ない、と。
1:17:20 これを理解されましたか。 言語的に理解したのではなく、実際にそうしていますか。
1:17:30 はい?
1:17:31 質問者: で、初めに私たちは、イメージを見つめなければなりません - 自分と恐れとの間に、入って来るものを、ですね? 私たちは、イメージを見つめなければなりません - 自分と、自分が見守っているもの、 すなわち、恐れとの間に入って来るものを、です。 そのとき、イメージは、あなたが恐れを見つめるのを 阻止することを、理解したとき、 精神は、静かであり、恐れを見つめるでしょう。
1:17:56 K: 質問は、こうです - 何かを、樹、あなたと他の一人を、 見つめるには、 イメージがあってはならない。ですね?
1:18:22 イメージは、どのように形成されますか。 イメージは、形成されますが、それを防止できますか。理解できますか。
1:18:34 すみません。
1:18:46 イメージは、どのように形成されますか。 イメージを形成する機構は、何ですか。
1:19:01 あなたは、注目したことが、ありますか。 あなたは、誰かに - 妻や夫、友だちに - 完全に聞くとき、 何もイメージを形成しないのです。
1:19:24 あなたは、完全な注意を、注いでいるとき・・・
1:19:33 すみません。
1:19:35 質問者: クリシュナムルティ、あなたは、唾液を呑み込まれました。 それは、あなたの肺に入りました。 それは、出さなくてはいけません。

K: 私は、そうしております。
1:19:56 私たちは訊ねています - 「イメージは、どのように形成されますか」と、 「なぜそれは形成されますか。イメージを形成する機構は、何ですか」と。
1:20:11 あなたは、注目したことがありますか -
1:20:14 あなたが、注意を払わないとき、イメージが形成されるのです。
1:20:26 私が、長年の間、一緒に生きてきた友だちを、持っているなら、 私は、彼についてイメージを、形成してきました - 彼の侮辱、 彼の優越、 彼の苛立ち、 彼の快い言い回し、 彼のいじめ、など、です。
1:20:56 私は、彼について、イメージを形成してきました。 なぜなら、私は、彼から自分自身を保護するために、 そのイメージを形成してきたからです。
1:21:08 私の彼との関係は、そのイメージをとおして、です。 彼は、私自身についてイメージを、持っています。
1:21:23 彼は、私について、イメージを持っています。 私は、彼について、イメージを持っています。 私たちの関係は、これら二つのイメージの間に、あります。
1:21:38 私は、自分自身を保護するために、このイメージを、創り出してきた。 いいですか?それは、事実でないですか -
1:21:50 あなたが、夫、友だち、妻、隣人、神について、 イメージを持っていること、 それは、傷つかないため、生存しつづけるため、 葛藤でない生活をするため、です。 よろしいですか。
1:22:08 あなたは、自分のイメージをとおして、自分自身を孤立させます。
1:22:14 あなたは、なぜ自分がそれを形成してきたのかを、知っています。 さて、そのイメージ形成は、止められますか。 イメージを形成する機構 - その機構は、終わりになりえますか。 私はそれを、あなたに示しましょう。 私たちが話しているとき、どうぞ、それをしてください。 それは、やりがいが、あります- それを家に持ち帰り、 後で放り出してしまうのではなくて、です。
1:22:45 私たちは、なぜ機構が作動するかを、理解しました。 イメージ作りが、重要になる - 外的にも、内的にも、 意識的な水準でも、無意識的な水準でも、です。 自分自身を保護したい、傷つきたくないとの願望です。 なぜなら、私たちは、傷つく生活を、してきたからです。 子どもの頃から、私たちは傷ついています。
1:23:16 傷つくとは、どういう意味かを、ご存じないですか。
1:23:23 あなたは、もはや傷つきたくないのです。 それで、あなたは、保護し、抵抗します。
1:23:33 イメージは、抵抗です。 ですね? さて、それは、どのように生ずるのですか。 その機構は、止められますか。
1:23:50 それは、止められますが、 言われつつあることに、あなたが、完全に注意を払うときだけ、です - 言われつつあることの瞬間に、です。
1:24:03 理解されましたか。 あなたは、私を侮辱します。 あなたは、私を、ばか、まぬけと呼びます - または、あなたが、私を何と呼びたいのであっても、 偉大な人や、すばらしいあれやこれでも、です。
1:24:22 あなたが、私をばかと呼ぶとき、私はそれに、注意を払います - 完全な注意、です。
1:24:32 反応しないで、「ああ、おまえもだ」とか言わずに、 あなたが呼ばれていることに、ただ全的に気づくのです。
1:24:47 注意のその状態において、イメージ作りは、ない。
1:24:57 イメージが形成されるのは、 あなたが不注意であるときだけです。
1:25:04 これを理解しましたか。 そうしてください。 そのとき、あなたは、自分がけっして傷つかないだろうことが、分かるでしょう。
1:25:17 それは、あなたが自分自身について、何者かだ、あれやこれやだと、 イメージを持つときだけです。そのとき、あなたは、傷つきつつあります。
1:25:27 あなたは、「無垢(イノセンシー)」という言葉は、 傷つけないとか、傷つかない、という意味なのを、ご存じですね。
1:25:37 ラテン語の言葉「ノチェーレ」は、そこから来ています。 それは、傷つけないとか、傷つかない、という意味です。
1:25:51 あなたは、抵抗するとき、 自分自身についてイメージを持つとき、傷つきます。
1:26:03 イメージ作りは、あなた自身を保護することです - 害に対して、傷に対して、 あらゆる形の侵入に対して、です。
1:26:22 あなたは、それが見えるとき、 言われつつあることに、注意を注ぎます - 全的な注意、あなたの精神、心、頭脳、 あらゆる物事が、注入します。
1:26:39 その注意の状態に、傷はありません。 ゆえに、イメージ作りは、ありません。
1:26:48 そういう生は、本当に、美しさの生、大いなる喜びです。
1:27:00 質問者: あなたが仰る、正当化や非難や同一視をしない、と いうのは、どういう意味ですか。
1:27:06 K: あなたがいう、正当化や非難や同一視というのは、どういう意味ですか。
1:27:28 自分が嫉妬しているとき - あなたは、それがどういう意味かを、ご存じでしょう。
1:27:35 または、それは、何か新しいことですか。 みなさんが、それをご存じでしょう。 自分が嫉妬しているとき、正当化しますね。 「嫉妬するのは、正しい。彼女や彼は私に所属している。それは私のだ」と。 あなたは、その嫉妬を正当化します。あなたは、 「彼女は、こうすべきでなかった」とか、「彼はああすべきでなかった」と言います。 あなたは、その人物を妬んでいます。 あなたは、それを合理化します。 すなわち、それを説明します - 自分の嫉妬を強めるために、です。
1:28:25 あなたは、嫉妬が好きです。 あなたは、それを正当化します。
1:28:31 あなたはそれを、推奨します。あなたは「それは、愛の一部だ」と言います。 そうではないですか。
1:28:42 「嫉妬深いのは、愛の一部だ」と。 麗しいですね。
1:28:57 それが、私たちが無秩序な生活をする、ということが、意味するところです。 そこであなたは、正当化できないことを、正当化します。 そこであなたは、容赦できないことを、容赦します。
1:29:21 愛と嫉妬が、どうして共存できますか。
1:29:29 ですが、それが、私たちが受け入れてきた生の道です。 私たちは、それを正当化します。
1:29:41 それが、それの意味するところです。 それで、十分でないですか。 今、12時半です。
1:29:52 バスタ(十分です)。 よろしいです。