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OJ77T6 - 冥想の意義は、何であるのか home
公開講話 第6回
カリフォルニア、オーハイ
1977年4月17日


1:11 これが、 最後の講話です。 あなたたちは、きっとそれに 喜んでいるだろうと、私は思います。 きっとそうだと思いますが、 私もまたそれに喜んでいます。
1:31 私は今朝、できるなら、冥想に ついて、話したいと思います。 それは本当に、生において、 最も重要なことの一つです。 どう冥想するのか、ではない。 冥想の体系ではない。 また、冥想の実践でもない。 むしろ、冥想とは何ですか。 そして、きわめて深く見出せるのなら - それの意義は何なのか、 必要性は何なのか、重要性は 何なのかを、自分自身で、です - そのとき、すべての体系、 方法、導師を、脇に置きます。 そして、東洋の種類の 冥想に関与している 特有の物事すべてをも、です。 しかし、私たちがそれに、 十分に入る前に、 私たちは、先の五回の講話の 間に、言われてきたことを、 かなり短く、さらっておく べきだと、私は思います。
3:04 自らが何であるかを、 自分自身で暴くことが、 とても重要であると、私は思います - 実際に自らが何であるかを、です。 心理学者、哲学者と導師と その他すべての理論ではなく、 主張と経験ではなく、 むしろ、自己の構造全体を 究明する - 実際に自らが 何であるのか、 自己の本性と動きが 何であるのかを、です。 そして、自己の変容の中で - 根本的に、心理的に、です - 自らは、人の意識の全体に、 影響します。 私たちは、これらすべての講話の間、よく よく気をつけて、これに入ってきました。 そして私は、よければ、再び、 短くそれに入りたいと思います。 なぜなら、これを理解することが、 とても重要であると、私は思うからです。
4:39 世界中のすべての 人間が、苦しみます。 大きな苦悶、絶望、 恐れを、経ていきます。 そして、死の絶対的な 恐れが、あります。 これは、あらゆる人間の 共通の定めです。 彼らが、アジアに生きていても、 西洋世界に、でも、 暴政のもとでも、いわゆる 民主主義世界にでも、 これは、 共通の定めです。 そして私たちは、理解することが できるように、思われません。 自らが実際に何であるかを、見ることが、 いかにとてつもなく重要であるのかを - まるであなたが、心理的にあなた自身を 鏡に見つめているかのように、です - そして、自己の構造こそに、 変容をもたらすことが、です。 なぜなら、その変容は、 人に影響するからです。 結局のところ、私たちの 一人一人は、人類の歴史です。 6:09 それは、事実です。 歴史(ヒストリー)とは、 苦しみ、苦悶、 暴力、残忍さ、 残酷さ、野心の物語と、 人が自らの思考でもって組み立てて きた物事すべて、という意味で、です。 それで、自らが根源的に、深く 変容、変異を、もたらすとき、 その変異は、人の意識全体に 影響します。 たとえば、あれらの、かなり 残忍な、暴力的な人々、 すなわち、暴君であるとか、 暴君でありつづけたとか、 何かイデオロギーのために - 共産主義や他のイデオロギーですが - 数千、数百万の人々を 殺してきた人たちは、 人の意識に 影響してきたのです。 これもまた、 絶対的な事実と、実在です。
7:23 で、それが、とても重要になります - 自らがそもそも真剣であるなら、 自らが、ありのままの世界に、 関心を持っているなら、です。 そのおぞましい悲惨、混乱、 不確実さすべてに、 宗教、民族性の分割すべてに、 彼らの戦争に、彼らの軍備の 蓄積について、です - 戦争の準備をするため、人々を 殺すために、巨額を使っています。 国籍、民族性の名など などにおいて、です。 で、それが、致命的になり、 絶対的に重要になります - 自由がなければ ならないことが、です。 私たちのこの意識の 内容全体からの自由が、です。 私たちの意識の内容は、 思考により、そこに、 組み立てられた 物事すべてです。 8:43 私たちは、それに入りました - きわめて間近に、明確に、です。 思考は、私たちが言いました ように、記憶の応答です - 脳細胞に 蓄えられています。 その記憶は、 知識、経験です。 そして、記憶の応答と 動きが、思考です。 で、思考は制限されているし、 何でもそれがすることは、 テクノロジーの世界においても、 また、心理的な分野においても、 制限されているに ちがいありません。 なぜなら、思考は、それ自体が 断片であるからです。 断片化の動きです。 これは、きわめて明らかで あったと、私は思います。 そして、すべての講話で、私たちは、 この特定の点を、強調してきました。 9:49 そして、科学者たちも - 私たちが、 「科学者」という言葉を、使うとき - これらの事柄に 入ってきた人々、ですが - 彼らさえも同意します。 それでおそらく あなたもまた、そうするでしょう。 科学者たちがそう言うから、あなたも また、容易く受け入れるでしょう。 しかし、私たちは、受け入れに ついて、話していません。 私たちは自分自身で、事実を見つつ あります。 誰に沿って、でもありません。 語り手のそれをも、 含めて、です。 なぜなら、私たちが言いましたように、 心理(サイキ)の事柄に、 霊的な事柄に、 何も権威は、ないからです。 そして、権威があるとき、それは、真理を 見つける尽力すべてを、破壊します。 すなわち、究極的な覚りを (見つける尽力を)、です。 10:53 そして、これからの自由 - 私たちの怒り、残忍さ、 私たちの虚栄、傲慢、 私たちが捕らわれてしまっている 物事すべてから、ですが、 それからの自由が、 冥想です。 ここでの、これら すべての講話は、 この冥想のために、基盤を 敷くことであったのです。 基盤は、思考により敷かれたなら、 やはり制限されています。 ですね? 私たちがともに、この点を 見るのを、望みます。
11:52 どうぞ、あなたたちの幾人かは、初めて ここに来られたかもしれません。 それで、説明することが必要です - すなわち、私たちが 自らの意識の構造全体を、探検して いる、究明していることを、です。 あなたが実際にそうであるものの(それを) です。 あなたがありたいものや、 あなたがあるべきものや、 あなたのイデオロギーではない。 それらはすべて、思考の投影物で あり、ゆえに、制限されていますが、 実際に、あなたの日常生活において、 あなたが何であるかを、見る。 そして、それの知覚こそが、 変容の始まりです。 また、私たちは先日、 この講話の中で、 変化と変容は、別々のこと であることを、説明しました。 13:00 変化は、修正された継続です。 ですね? 理解されますか。 私はこれであるが、 私はあれでありたい。 あれは、思考により投影されます。 なぜなら、 それは、「あるもの」を理解しないからです。 で、それは、理想を 持つことにより - 「あるもの」より離れた 「あるべきもの」を、です。 それは、「あるもの」を変化させる手段と して、理想を使いたいと、望みます。 世界中の人類は、 暴力的です。 それは、事実です。 それが、実際の現実です。 そして思考は、「私は、この暴力をどう 取り扱うかを、知らない」と言ってきました - 「が、私は、非暴力と呼ばれる 理想を、持っているなら、 そのときおそらく、私は、 これから、あれへ動くだろう」と。 14:25 それは、暴力の 修正された継続です。 ゆえに、それは、 非暴力ではありません。 ところが、私たちは、暴力の 変容について、話しています。 他の何かへではなく、暴力が完全に 終わること(について)、です。 それが、変容です。 それが、変異です。 で、それを理解するなら - きわめて、きわめて明らかに、です。 私たちがこれからあれへ変化する、 のではなく、暴力が終わること、 怒りが終わること、 悲しみが終わること、 この継続的な格闘が、 終わること。 心理的に、何かであろうとか、 何かになろうとすることが、です。 - それを終わらせることです。
15:28 私たちはまた、観察者と観察される ものとの問いにも、入りました - 観察者は、観察されるもの より、自己を分離します。 これらに注目された ことが、ないですか。 よろしいですか。 私は、これでなければならない。 私はこれである。 私は、あれに ならなければならない。 で、観察者は、あれになるために 努力をしています。 ですね? 観察者は、あれより 異なっていますか - 彼が観察しているものより、 心理的に、です。 または、観察者は、 観察されるものです。 どうぞ、これは、明らかに 理解されなければなりません - 私たちが、冥想が何であるかの問いに 入ろうとしているときに、です。 なぜなら、冥想は、闘争すべて、 葛藤すべてが終わることを、 含意しているからです - 内的に、ゆえに外的に、です 17:03 実際に、何も内的や 外的は、ありません。 それは、海に似ています。 潮の満ち引きが、あります。 で、同じように、それは、 きわめて重要です - 私たちがこの問いを 理解することが、です。 観察者は - 私たちは 心理的に話しています - 観察されるものより、 異なっていますか。 私は、樹を、山を 観察します。 私は、樹ではありません。 そうでないのを、望みます。 が、私が、自分の怒り、 私の貪欲を、観察するとき、 私は、自分の貪欲より、異なって いますか。 問いを理解されますか。 私は、怒りの事実より、 異なっていますか。 怒りがあるとき、 私や怒りは、ありません。 あの怒りの状態だけが、 あります。 ですね? 私たちはそこから前進できますか。これらに 付いてきておられるのを、望みます。 18:23 そうでないなら、あなたは、ご自分の朝を むだになさっていると、私は思います。 ゴルフをするか、散歩へ行く ことの代わりに、です。 あなたがこれを理解しないなら、おそらく あなたは去って、散歩へ行くでしょう。 しかし、人間として、 この世界に生きていて、 進んでいく、ひどいこと すべてがともない、 世界のあらゆる人間が、 この問題に関心を持つこと、 違った生き方をもたらすことが、 しかるべきなのです。 私たちが送る、ひどい、無意味な 存在ではなくて、です。
19:25 で、私たちは訊ねています - 観察者は、 彼が観察するものより、 心理的に、異なっていますか。 すなわち、内的に、 いわば肌の下で、です。 すなわち、私は怒っています。 私は貪欲です。私は暴力的です。 その「私」は、観察されるもの より、異なっていますか。 すなわち、怒り、嫉妬、貪欲より、 です。 これに付いてきておられますか。 私は、異なっていますか。 明白に、 そうではありません。ですね? 私が怒っているとき、「私は怒っている」は ありません。 怒りだけが、あります。 で、怒りは、私です。 で、 観察者が、観察されるものです。 で、あなたは、分割を すっかり消去します。 20:37 この点に、 付いてきておられますか。 どこでも、分割があるところ、 葛藤が、あるにちがいありません - 民族、国家の間、 共同体の間、 (キリスト教の)聖公会と、何か 他の知らないものとの間に、です。 で、どこでも、分割があるところ、 格闘が、あるにちがいありません。 葛藤が、あるにちがいありません - 男と女の間に、です。 彼らが自分の違った道、 自分の個人的な、等々を、 追求しているとき、です。 分割です。 分割があるところ、男と女は、葛藤の 中に、あるにちがいありません。
21:19 で、私たちは、こう言っています。 この葛藤を消去するには - 心理的に、です - 観察者が、観察されるものより、 異なっているのかどうかを、 理解することが、とても重要です。 もし異なっていないなら、 観察者は、観察されるものです。 ゆえに、葛藤は、 終わります。 私はもう少し、これを 説明し、これに入るでしょう。 あなたが語り手とともに 働いているのを、望みます。 すなわち、あなたは単に、一連の言葉、 観念、結論を聞いていなくて、 むしろ、語り手を、言葉を、 鏡として、使っている。 その中で、あなたが実際に、 あなた自身を、見ているのです。 それで、あなたは、自分自身に 気づいているのです。 なぜなら、私たちは人間存在、すなわち あなたについて、話しているからです。 22:26 すなわち、人間は、人類の 総体の物語であるのです。 あなたが、それを究明するとき、 あなたが、それを見つめるとき、 あなたは、葛藤がいつも、存在して きたことが、見えます - 男と女の間、 人自身の中に、です。 で、この冥想の一部は、葛藤 すべてを、全的に消去することです - 内的に、ゆえに 外的に、です。 この葛藤を 消去するには、 自らが、この基本的な原理を、理解 しなくてはいけません。 すなわち、 観察者は心理的に、観察されるもの より、異なっていないことを、です。 私たちは、互いに出会って いますか。 はい? あなたは、事実が見えますか - 私が言って いることの受け入れではなくて、です。
23:38 ご覧ください。怒りがあるとき、 「私」は、ありません。 しかし、一秒後に、思考が 「私」を、創り出します。 そして、「私は 怒っていた」と、言います。 そして、私は怒るべきではない との観念が、あります。 で、怒ってきた「私」が、あるし、 私は怒るべきではありません。 で、分割は、葛藤を もたらします。 あなたがこれを理解するのを、 望みます。 どうぞ。 あなたがこれを理解されるのを 望みます。 なぜなら、私たちは、 何かあなたがこれに完全な注意を 払うことを要求するものへ、 行こうとしているからです。 それが、冥想の本質です。 そして、あらゆる形の葛藤を、 全的に、完全に消去するように、です。 さもないと、世界に 平和は、ありません。 25:01 あなたは天国に、平和を 持つかもしれませんが、 実際に、完全な内的な平和をもって、 この世界に生きるように、です。 ゆえに、あらゆる行為が、 あの平和の中から、生まれます。 で、観察者が観察されるものであることを 理解することが、きわめて重要です。 それが起きるとき - どうぞ、聞いてください - すなわち、自分は嫉妬している。 それについて、みなさんがご存じです。 自分は嫉妬している。 嫉妬は、観察者より 異なっていますか。 質問を 理解されますか。 または、観察者は、観察されるもの である。 ゆえに、彼が嫉妬している。 「私は嫉妬している」は、ない。 ただ嫉妬だけが、ある。ですね?
26:15 そのとき、何が起きますか。 理解されますか。 前には、私と嫉妬の間に、 分割が、ありました。 そのとき、私はそれを、征服しようと しました。 私はそれを、抑圧しよう、 それを合理化しよう、 片付けてしまおうとしますが、 今、私は、「私」が嫉妬して いるのを、見るとき - いいですね? - そのとき、何が 起きますか。 前に私は、それを征服しよう、それを 抑圧しよう、それを理解しよう、 それを合理化しようとか、「ええ、なぜ私は 嫉妬すべきでないのか」と言おうとしました。 ゆえに、そのすべての過程の 中に、葛藤が、あります。 ところが、私たちは、 こう言っています。 観察者と観察されるものとの間に、 何も分割が、ないとき、 ゆえに、たった一つのものが、 ある。 すなわち、嫉妬が、です。 そのとき、何が起きますか。 嫉妬が、進んでいきますか。 または、嫉妬が全的に 終わることが、ありますか。 私の問題、問いを 理解されますか。 どうかと思われます。
27:39 嫉妬が生ずるとき、 観察者が何もないとき、 あなたはそれを、花開かせ、そのとき 終わらせます。 問いを理解されますか。 花が開き、萎れ、死んで しまうように、です。 しかし、あなたがそれと 闘っているかぎり、 あなたが、それに抵抗していたり、 それを合理化したりしているかぎり、 あなたはそれに、 命を与えています。 で、私たちは、観察者は観察される ものであると、言っています。 そして、この嫉妬があるとき、 それを・ ・・ 観察者が観察されるものである とき、嫉妬は、花開きます。 成長します。 そして、 自然に死にます。 ゆえに、そこに 葛藤は、ありません。 これをご覧になるのか どうかと、思われます。 よろしいですか。 どうぞ、マダム。
28:53 で、そのとき、行為は 何ですか。理解されますか。 私たちは、行為により生きます。 私たちの生すべては、行為です。 動機に沿った行為、理想に 沿った行為、様式に沿ったのや、 習慣的、伝統的な行為 - 何も究明なしに、です。 で、私たちは自分自身に、訊ねようと しています - 行為とは何ですか。 なぜなら、冥想の中に ある精神は、 これを見出さなければならない からです。 行為とは何ですか。 これらに 付いてきておられますか。 これらに興味がおありなのか どうかと、思われます。 なぜなら、どうぞ、これらは、 きわめて深刻な事柄であるからです。 30:05 私たちは、ここにいますが、樹々の下で 気持ちよい朝を過ごすためではなく、 むしろ、私たちの生の物事を、 究明するために、です。 私たちの生の中の主な問題の一つは、 私たち自身の中での、葛藤です。 その葛藤から、あらゆる種類の 神経症的な活動が、進みます。 そして、葛藤を終わらせる、ゆえに、 神経症的な行為を終わらせることが、 とても重要に なります。 正気の精神、健康な精神を持つ - 神経症的でなく、 信念と恐れなどに捕らわれていない 精神を、持つことが、です。 で、私たちは、言っています、 私たちは、究明しています - 葛藤と、 葛藤が終わることを、です。 31:19 また私たちは今、訊ねています - 行為とは何ですか。 なぜなら、私たちは 行為により、生きるからです。 あなたが、工場へ行くとき、 あなたが、自分のオフィスへ行くとき、 あなたが、話をするとき、あなたが 歩くとき、あらゆる物事が、行為です。 生は、行為です。 で、あなたが、訊ねられるとき - 行為は何であるのか、 あなたは、どう行為するのか、 どんな原理に沿ってか、 精神のどんな性質や状態に沿って、 そこからあなたは、行為するのか、と。 どうぞ、それを、ともに 究明してください。
32:11 あなたは一般的に、 記憶から、行為します。 記憶、すなわち、様式を定めてきた もの、習慣、課業になったもの - それは、憶えていることに、基づいている し、その憶えているのは、気持ちよくて、 気持ちよいものに沿って 行為する。 ですね? または、褒賞や処罰に のって、行為する。 ですね? これらに付いてきて おられますか - 褒賞と処罰。 または、あなたは、観念、 理想に沿って、行為します。 あなたは理想を持っていて、「日常生活で 私はその理想を果たそう」と言います。 または、あなたは、一定の野心を持って いて、その野心を充足しようとします。 で、これら様々な種類の 行為が、あります。 33:24 で、これらの行為の各々が、 不完全で、断片化しています。 各々の行為が、全体的、全包括的 (ホリスティック)ではありません。 これを 理解されますか。 私が毎朝、オフィスへ行くなら - 次の五十年間、です。 私はビジネスマンです - ありがたい。 私は、そうではありません。 私は、ビジネスマンや、 法律家、医師であるか、 或る種の専門職の 出世第一主義者です。 ゆえに、私の行為は、 分割されています。 ですね? これは見えますか。 分割され、 断片化しています。 私はビジネスマンです。 私は家に帰ります。 私は、自分の子どもを愛していますが、 私は、ビジネスマンであるとき、 そこで私は、誰をも愛していません。 私は、利益がほしい、 等々です。 34:29 で、私の行為は、 分割され、断片的です。 で、断片的な行為が、 あるとき、 それは必然的に、葛藤をもたらすに ちがいありません - 心理的に、です。 で、私たちは訊ねています - 葛藤を持たない ・ ・・どうぞ、これを聞いてください。 葛藤を持たない 行為が、ありますか。 質問を 理解されますか。 で、私たちは、ともに 見出そうとしています。 私たちは、この問いを 究明しようとしています - そこに何の後悔もなく、 失敗もなく、 欲求不満の感覚もない 行為が、あるのかどうか。 ゆえに、全体的で、調和的で、完全で、 全包括的である行為が、です。
35:37 が、初めに、私たちは、きわめて 明らかに見なければなりません - すなわち、私たちの行為は、私たちの 生において、断片的であることを、です。 私は、学者、画家であるかも しれませんが、私の生は・ ・・ 私は、優秀な彫刻家であるけれども、 私の生は、見かけ倒しです。 私は、野心的です。 貪欲です。 お金、地位、認知、名声がほしい。 で、矛盾が、あります。 ゆえに、矛盾が あるところ、 葛藤が、あるにちがいありません。 それが、あなたが生きる道です。 私は、司祭者なのかもしれませんが、内側で 私は、司教になりたいと燃えさかっています。 世界中で進むのは、 この様式です。 そして、行為に、 分割が、あるところ、 必然的に、葛藤があるにちがい ありません。 それは、法則です。 どうぞ、注意を払って ください。 彼女には・・・ 私は、私たちは、このご婦人を 存じています。 どうぞ。 集中することが、いかに 困難であるかを、見てください。
37:10 で、私たちは、行為があるのか どうかを、見出そうとしています - すなわち、全体的であり、 けっして矛盾していないもの、 ゆえに緊張、分割とその他すべてを もたらさない行為、です。 で、私たちは、行為が何かであるかを 見出さなければなりません。 ですね? 特定の分野での行為 - その分野の 他の一部に、反対したものではない。 ゆえに、自らが、実際に何をして いるのかを、見なくてはいけません - 実際に自らが どう生きているのか、 矛盾した生を生きていて、 矛盾した行為、ゆえに、葛藤です。 あなたは、それを見なければなりません。 あなたは、それに気づかなければなりません。 ですね?  あなたは、この事実に、 気づいていますか - すなわち、あなたは 人間として能動的に生きるし、各々の 行為が、他の行為に矛盾することに、です。 あなたは、この事実に、 気づいていますか。 あなたが、完全に気づいているなら、 そのとき何が、起きますか。 質問を 理解されますか。
39:02 仮に、私が・・・ 私は、矛盾した・ ・・行為を、生きます。 矛盾した行為の中に、生きます。 そしてあなたは、私に、「それに 気づきなさい」と語ります。 ですね? 「それに気づくとは、どういう 意味ですか」と、私は訊ねます。 あなたが選択するとき、 気づきは、可能ではありません - あなたが、「私はあの特定の行為が 好きだね」と、言うとき、です。 「私はあれを 保ちたいと思うし、 他の行為すべてを回避するよう、 どうぞ、助けてください」と。 よろしいですか。 私が好きなものに 矛盾したものを(回避するように)、です。 私が言っていることに、 付いてきておられますか。 ゆえに、特定の行為を選択して いるのは、気づきではありません。 それは、大変満足できて、大変 慰めになり、大変愉快であり、 褒賞される、 その他すべて、です。 そして私は、こう言います - 「どうぞ、私にあれへ取りすがらせて、 私があれに関して、矛盾した行為を しないよう、助けてください」と。 40:08 それは、気づきではありません。 理解されますか。 気づきの中に、 選択があるところ、 完全な、全的な、全包括的な 気づきは、ありません。 で、私は、あなたに訊ねています - あなたは、この事実に気づいていますか。 すなわち、あなたの生全体が、 矛盾の中に生きられる - 矛盾した行為でもって、 ということに、です。 どの選択もなく、実際に あるものに、ただ気づく。 そのとき、あなたが実際に それに気づいているなら、 何も問題がない。 そうでしょう。 これをご覧になるのか どうかと、思われます。
40:58 私たちは少し後で、それに入るでしょう。 で、私はそれに、戻りつつあります。 私たちは、継続的であり、途絶えること なき行為があると、言っています。 これが見えますか。 私たちの行為は、砕けています。 ゆえに矛盾し、変化していきますが、 私たちは、継続的であり、 ゆえに全包括的で、 全体的である行為が、 あると、言っています。 「全体的」(ホール、健全) という言葉は、 身体的に健康に恵まれている ことを、意味しています。 それはまた、正気である精神を 持つことをも、意味しています。 正気とは、どの特定の形の信念、 教義、教会、何にも、 参与していないことを、 含意しています。 正気だ。 それは、理性、 論理の能力がある、 ゆえに、明らかに、直接的に、客観的に 考えることができることです。 42:15 それが、正気です。 しかし、神経症な精神は、 論理的に、正気に考えられません。 ゆえに、全包括的(ホリスティック) な精神 - 全体的、です - 「全体的」(ホール) という言葉は、 健康に恵まれたこと、 正気な精神を、意味しています。 また「全体的」(ホール)という言葉は、 聖なる(ホーリー)、神聖だ、という意味です。 私たちが、聖なる(ホーリー)、全体的 (ホール)という言葉を使うとき、 それらが、 含意されています。 で、私たちは、途絶えることが ない行為があると、言っています - ゆえに、全包括的で、 全体的である動きが、です。 その動きを、私たちは 見つけようとしています。 私がその観念を投影していて、それから それを見つけているのではない。 これに付いてきて おられますか。 冥想の過程において、私たちは その行為を、見つけようとしています。 私が言っていることを、 分かりましたか。
43:35 で、私たちはその点に、来つつ あります - 冥想とは何ですか。 どう冥想するのか、ではない。 特定の姿勢で、どう座るのか、 一定の形で呼吸するのかと それら、ではない。 私にとって、 そのすべては、戯言です。 なぜなら、権力への探求や 欲望が何もないときだけだけ、 あなたは、 冥想できるからです。 冥想の深さ、それを十分に 理解するのです - 傷を蓄えておくことがない とき、恐れがないとき、 あなたが、楽しみの意味を 理解したときだけです。 そこには、喜びと 楽しさが、ありますが、 私たちはそれに、入りました。 私は今、それに入らないでしょう。 そして、悲しみの終わることが、ある とき、これがあるにちがいありません。 そして、愛と慈悲と、 それらが、です。 ゆえに、これは、 基本の地盤です。 さもないと、あなたは 幻影に、捕らわれています。 で、私たちは訊ねています - 冥想とは何ですか。 そして私たちは、なぜ 冥想すべきですか。
45:05 まず第一に、アジア人が - インドを含めて、ですが - この国に、冥想が何であるかの 自分の観念を、もたらしてきました。 ですね?  自分の冥想の体系、 自分の冥想の概念、 自分の冥想の結論を、です。 それは、伝統的です。 これらに、付いてきて おられますか。 あなたたちは、この国に持っているし、 またインドから、持ってきました - 超越冥想と 呼ばれるものを、です。 「超越」という言葉は、 誤用されています。 彼らはあなたに、マントラを 与えます。 ですね? それについては、ご存じでしょう。 少なくとも、あなたたちの幾人かは、です。 質問者: はい。 
46:09 K: はい。あなたは、 ご存じですか - その言葉が何を・・・
46:11 サンスクリットの「マントラ」という 言葉は、あなたが語られてきたことより 何か全然違ったものを、意味しているの です。 その言葉の根本の意味が、です。 それは、マナは、考慮する ことを、意味しています。 どうぞ、聞いてください。 後生ですから、聞いてください。 考慮する - ならないことや、 ないことについて、です。 それについて考慮し、それを見つめ、観察し、 そこに何が含意されているかを、見る。 ゆえに、ならないことや、ない ことについて、考慮する。 「トラ」は、すべての自己中心的な 活動を、片付けるとか、 破壊する、という意味です。 理解されますか。 で、マントラは、ならないことに ついて考慮する、そして、 「私」としての中心から生まれた動き すべてを、追い払う、という意味です。 それが、その 言葉の意味です。 あなたたちは、それを、何か とてつもないものに、してきました - 無意味なものに、です。 47:38 すなわち、あなたは、言葉や 一連の言葉を、反復します - 150ドルか、20ドルか、何か 不条理な金で、他人から与えられて、 それからあなたは、それを一日三回 反復します。 20分か、5分の間、です。 そして、良いシエスタ (昼寝)を、します。 シエスタが何であるかを、 ご存じでしょう。 そして、あなたは、自分が 冥想していると、考えます。 で、私たちは、訊ねています - 冥想とは何ですか。 それは、確かに 冥想ではありません。 なぜなら、私は、20分の シエスタ(昼寝)をできるから、 私は目覚めて、自分のオフィスへ 行くし・ ・・よろしいですか。 最も有害な生を、続けます。 または、自分の家庭で、です。 ちょっとお待ちください。 私は、論争していません。 質問者: でも、それは、事実を誤って 述べています。 
48:31 K: いいえ。
48:34 私は、それについて少し存じています。 私は事実を、誤って述べていません。
48:38 質問者: 私は冥想の教師です。あなたが事実を 誤って述べているのを、私は知っています。
48:42 K: 彼は、冥想の教師であり ・・・お分かりですか。 あなたはすでに、何か全然 間違ったことを、述べられました。 あなたは、冥想の教師では ありえません。 どうぞ、お許しください。 いいえ。私は、話をしています。
48:59 質問者: 私は、一つの発言を しなければなりません。 マントラが終わるとき、 冥想は、始まります。 私は、クリシュナムルティに同意します。 マントラは、冥想ではありません。
49:06 それが、終わるときにのみ、 それは、始まります。
49:09 K: はい。彼は、言葉や 一連の言葉が終わるとき、 冥想が始まると、言っています。
49:17 質問者: それらが終わるときです。
49:19 K: マントラが終わるとき、です。 これは存じておりますよ。 どうぞ、お許しください。 私は これを、きわめてよく存じています。 音、 音が終わること、 それから、言葉なく、 その音を聞くことなど。 それは、一般的に理解されている より、はるかに複雑です。 私は、それに 入らないでしょう。
49:43 で、私たちは、冥想が何であるかを 見出そうとしています。 どの導師に沿って、でもなく、 どの体系に沿って、でもない。 なぜなら、すべての権威からの自由が 冥想の要因の一つであるからです。 ゆえに、冥想の教師は、 ないのです。 そして、冥想が 何であるかを、見出すには、 見出すために、必要な 一番目のことは、何ですか。 冥想が何であるかの、 以前の知識すべては、 冥想が何であるかの 探検を、塞ぎます。 50:44 理解されましたか。 冥想が何であるかを、誰かが語って くるのを、私は聞いてきたなら、 私はそれを受け入れるか、それを拒否します が、それは私に、跡を残してきました。 その記憶でもって、私は究明します。 そのとき、それは塞がれます。 で、私たちは、冥想が何で あるかを、究明しています - 何も以前の 知識なしに、です。 ですね?  これらに、 付いてきておられますか。 で、過去からの自由が、なければ なりません - すなわち、時から、です。 これを理解されましたか。
51:33 で、私たちは、時が何であるかを、 究明しなくてはいけないでしょう。 時計による時と、 心理的な時。 すなわち、私は、何かであるだろう、 とか、私は何かになるだろう。 それは、時を必要と するのでしょう。 物理的に、ここからそこへ行くには、 時が必要とされます。 それは、明白です。 しかし、私たちは、訊ねています - 心理的な時は、そもそもありますか。 これに、付いてきて おられますか。 すなわち、なることやあることの 動きが、ありますか。 または、これからあれへ 動くことが、です。 それは、 心理的な時です。 私たちは、その心理的な 時を、問うています。 私たちは、この観念が、慣習になって いるか、その教育をされています - すなわち、あなたは、 今のあなたなるものより、 何か、あるべきものへ、 変化しなければならない、と。 52:49 それは、これの 伝統的な受け入れです。 私たちは、その動きが 時であると、言っています。 その動きは、何も 意味が、ありません。 なぜなら、あなたは、「あるもの」を 変化させつつないからです。 あなたは、「あるもの」を変化させつつ あります。 修正しました。ですね? 変化(チェインジ)は修正を含意しています。 変容(トランスフォーメーション)は、 「あるもの」が終わることを、 含意しています。 理解されましたか。 怒りが終わること。 どうやって怒らないのかではありません。 これを理解されたことを 望みます。
53:32 で、冥想が何であるかの 究明の中で、 自由が、絶対に必要です。 権威からの 自由が、です。心理的に、です。 もちろん、私は、警察官の権威を、 受け入れなくてはいけません。 または、医師等のを、です。 それは 妥当しません。すべての権威から、です。 あなたに、冥想が何であるかを、 教えようとしている教師は、ありません。 その自由が、あるとき、 あなたは、進行できます。 冥想が何であるかの 究明の中で、 初めに、何が 必要ですか。 それは、集中ですか。 または、それは、注意ですか。 または、それは、気づきですか。 54:35 付いてきておられますか。 三つのことが、あります - 集中、気づきと 注意です。 ですね? 日常生活の中で、です。 それを見つめて ください - 日常生活の中で、です。 あなたが集中するとき、 実際に、何が起きますか。 あなたのエネルギー全体が、特定の 点に、焦点を合わせています。 または、特定のページにです。 ですね? あなたが、集中するとき、です。 それは、介入する思考すべてを、 脇に置くことです。 ですね? ゆえに、他の思考 すべてに、抵抗する。 これに付いてきて おられますか。 いいですか? あなたも、同意なさるにちがい ありません。 ですね? で、そのとき、 何が起きますか。 55:43 すなわち、あなたは、集中の中で 抵抗しつつあります。ですね? しかし、私たちは、何か全然 違ったことを、言っています。 すなわち、あなたの思考に 気づいてください。 気づく。 その気づきの中で、自分が どの思考を好きだろうかを、 選択しないでください。 ただそれに気づく。 その気づきから、 注意が、来ます。 注意は、あなたがそこから注意している 中心が、ないことを、含意しています。 これは本当に、 理解することが、重要です。 なぜなら、これが、冥想の 本質であるからです。
56:39 集中には、中心が あります。ですね? そこから、あなたが 集中しているものが、です。 映像や観念や何かイメージ 等に、です。 理解されますか。 中心からあなたは、エネルギーを 集中の中で、行使しています。 それは、抵抗する、 壁を築く、という意味です - それで、他の思考が 入ってこないように、です。 ゆえに、葛藤が、あります。 ですね? 葛藤が、あります。 あなたが、何にでも抵抗するとき、 葛藤が、あるにちがいありません。 あなたが、「私は、あれについて、 考えなければならないし、 他のことについて考えてはならない」 と言うとき、あなたの精神、 あなたの頭脳、あなたの思考は、 いたる所を彷徨っています。ですね? 57:32 で、あなたは、それを 引き戻そうとします。 ゆえに、葛藤が、あります - 常なる葛藤、です。 それを全的に消去するには、 あなたの思考に、気づいてください。 例えば、私は考えたいと思います ・ ・・何について、ですか。 自分の苦しみについて、考える。 私は、それについて考えたい。 それについて 考える中で、 私は、あそこで進んでいる 雑音で、散漫になります。 または、入ってくる 思考によって、です - すなわち、私は明日、誰かに 会わなければならない、と。 で、いつも、散漫が、進みつつ あるのです。 ですね? さて、この散漫の動きに、 全的に気づいてください。 58:31 私は、苦しみについて 考えていますが、 それから私は、自分の靴をきれいに することについて、考えます。 そのとき、苦しみを離れて、 あなたの思考を、見つめてください。 それは、自分の靴をきれいにしたいと 思います。 で、葛藤が、ありません。 私が言っていることを、 理解されますか。 理解されますか。 で、思考各々を追求してください。 ゆえに、矛盾がありません。 どの思考についても、抵抗が、 ありません。これを理解されましたか。
59:13 で、そのとき、そこから 気づきが生じます。気づく。 あなたはそのとき、自分の思考の 動きすべてに、気づいています。 分かりましたか。 そのとき、その気づきの中から、 注意が、出てきます。 さて、あなたが、何かへ 本当に深く注意しているとき、 中心が、ないのでしょう。 あなたは、見守ってきましたか。 さて、ちょっと 待ってください。 あなたが、言われつつあることを、 きわめて注意深く聞いているなら - 今、実際に今、あなたが、自分のすべて の神経、耳でもって注意している、 自分のすべてのエネルギーを、 注意することへ、注いでいるとき、 「私」が、ありますか。 ありますか。 明白にありません。 理解されますか。 で、注意の中には、そこからあなたが 注意している中心が、ありません。 ところが、集中には、 中心が、あります。 分かりますか。まあ、 それは、あなたしだいです。
1:00:31 そのとき、その注意の中、 あなたがそこまで来たのなら、 すなわち、あなたは、 基盤を敷いてきたのです。 それであなたは、思考の業務すべて、 思考の苦労すべてより、自由です - 恐れ、苦悩、絶望より、です。 それが基盤です。 すなわち、あなたの意識の 内容は、思考によりそこに 組み立てられていますが、それが 今、空っぽにされつつあります。 理解されますか。 自由になりつつあります。 で、冥想は、意識の内容を 空っぽにすることです。 すなわち、意識を、です。 これを分かりつつありますか。 1:01:22 それが、冥想の 意味と深さです。 内容すべてを空っぽにすること、 それは - どうぞ、聞いてください - 思考が終わりになることを、 意味しています。 思考は、必要です - 私がオフィスなどで、 テクノロジー的に 機能するとき、ですが、 他のあらゆる形の登録は、 終わりになります。 私が言っていることを、 理解されますか。 いいえ。どうぞ、聞いてください。 私は何かを、お話ししましょう。
1:02:11 そうね、私たちの頭脳は、ほとんど あらゆる物事を、登録しています。 騒音、私たちが 使っている言葉を、です。 (録画)テープのように、 それは、登録しつつあります。 さて、登録しないことは、 可能ですか - そして、絶対的に必要なことを 登録することだけは、です。 質問を 理解されますか。 理解なさるのかどうかと、 思われます。 なぜ私は、あなたの侮辱を 登録すべきですか。 なぜですか。 なぜ私は、あなたのお世辞を、登録 すべきですか。 それは、不必要です。 なぜ私は、傷を登録すべきですか。 不必要です。理解されますか。 1:03:09 ゆえに、必要なこと だけを、登録する - 技術者、著作者などとして、 日常生活で作動するように、です。 が、心理的には、他の何をも、 登録しないでください。 あなたは、これを 捉えつつありますか。 で、登録は、 思考の動きです - それは、怒り、嫉妬、 憎しみ、それらです。 それで、そのとき、意識は その内容を、失ってしまったのです。 ゆえにそれは、全然、 違った精神の状態です。 すなわち、 あなたがどれほど、これに 入られるのかを、私は知りません。 1:04:18 私は行くでしょう。できるなら、 それに付いてきてください。 付いてこられないなら、 それは構いません。 なぜなら、これが、 生きる道であるからです。 私たちが日々、続けていく 道ではありません - あらゆる種類の混乱、 不確実さとともに、です。 私たちは、全然違った、 生きる道を、指摘しています。 それは、意識より、その内容を 空っぽにすることです。 すなわち、恐れなど、私たちが 先の五回の講話の間、 果てしなく話してきたこと すべてを、です。
1:04:59 今、私たちは、こう言う 時点に、来たのです - 冥想は、その中で登録する ことがない注意である、と。 事実以外に、心理的に 登録することが、ない。 言語、オフィスへ行くこと、工場で 働くことなどのであり、他は何もない。 そのとき、その中から、 完全な静寂が、出てきます。 なぜなら、思考は、 終わりになったからです。 それが絶対的に必要であるところで のみ、それは機能します。 で、時は、終わりになったのです。 理解されますか。 時は、動きを 意味しています。 ゆえに、 時が止まるとき、 そのとき、全然違った種類の動きが、 あります - 静寂の中で、です。 すみません。 あなたは、これらを 理解されないでしょう。 そのとき宗教は、全然 違ったことに、なります。 そのとき宗教は、全然 違った意味を、持っています。
1:06:24 さて、それを 見つめましょう。 今あるような 宗教は - どうぞ、私が、強い言葉を使うなら、 です。 それを見つめてください - あなたは、先入観を持っているとか、 あなたは、条件づけられているとか、 何も言わないで、 ただそれを見つめてください。 今、宗教は、思考の事柄です。 ですね? 思考が、様々なヒンドゥーの宗教、 キリスト教の宗教を、作ってきました - すべてのそれらの内容、 それらの迷信とともに、 それらの象徴とともに、それらの ・ ・・人物像とともに、ですね。 あらゆる物事が、思考により 組み立てられています。 ゆえに、各宗教が、 断片化しています。 1:07:14 あなたは、キリスト教徒です。 他の誰かは、イスラム教徒です。 他の誰かは、 ヒンドゥー教徒です、などと。 それらの分割の中に、 細分が、あります - 多数の分割が、です。 すべて、思考の結果です。 これが、あなたが 宗教と呼ぶものです。 ミサ、儀式へ行く。 お香、象徴。 そのすべてが、宗教と呼ばれます - 信念、望み、恐れと、 別の世界で 安全でありたいとか、 信念に安全を見つけたいとの 欲望、などです。 そのすべてが、宗教と 呼ばれます。 ですね? 私たちは、それは 宗教ではないと、言っています。 1:08:03 それは単に、思考の動きです - 恐れの中、 望みの中、安全を見つけよう とする中でのです。 思考は、物質的な過程であり ・ ・・物質的な過程 - 私たちが、「物質的な」という言葉を、 使うとき、それは、記憶、経験、知識が 頭脳に、細胞こそに、 蓄えられている、という意味です。 ゆえに、それは、 物質です。 で、思考は、 物質的な過程です。 そして、何でも、思考が創り出して きた、組み立ててきたものは、 断片的であり、ゆえに、 宗教的ではありません。
1:08:51 で、そのとき、私たちは、宗教が 何であるかを、見出しつつあります - このすべてが、 宗教的でないなら、です。 それは、どの司教も、どの熱心な キリスト教徒も、どの熱心な迷信的な ヒンドゥー教徒も、迷信的な・ ・・も、 これを受け入れないでしょう。 が、それは構いません。 これらは、事実です。 そのとき、 宗教とは何ですか。 それが、これらのもののどれ一つでも ないなら、それは、何ですか。 それは、あなたの注意すべてで もっての究明です - それは、あなたのエネルギー すべてを、意味しています。 あなたのエネルギーの総和です - 神聖であるものを、見出すよう、 聖なるもの、思考が組み立てていない ものに、出くわすように、です。 1:09:48 それは、雑音からの自由がある とき、起こりうるだけです。 すなわち、 思考の雑音から、です。 それは、思考と時が 終わることを、意味しています - 心理的に、内的に、です。 しかし、世の中での知識が 終わること、ではありません。 そこで、あなたは、知識でもって、 機能しなくてはいけません。 それで、聖なるもの、 神聖なもの、真理であるものは、 完全な静寂があるときだけ、 ありえます。 頭脳自体が、その必要性を 理解したか、 思考を、その正しい所に 収めたときだけです。 そのとき、あの無量の 静寂の中から、 そのとき、神聖であるものが、 あります。
1:10:55 静寂は、空間を 要求します。 意識の構造全体における 空間です。 今あるような私たちの意識の 構造には、空間が、ありません。 なぜなら、それは、恐れで混雑して いるからです。 よろしいですか。 混雑し、おしゃべりし、 おしゃべりしています。 ゆえに、何も 空間が、ありません。 静寂があるとき、無量の、 時なき空間が、あります。 そのときだけ、永遠のもの、 神聖なものであるものに、 出くわす可能性が、 あるのです。
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