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OJ80Q1 - 第1回質疑応答会合
カリフォルニア、オーハイ
1980年5月6日



0:32 これは、質疑応答の会合です。 およそ五十以上の質問が、(書面で)出されていますが、 私たちは、とうてい、それらのすべてに、答えられません。 ですが、私たちは、おそらくこれらすべての質問の 代表なのかもしれないものを、選択しました。
1:07 私たちは、ともに話し合ってきました - なぜ、見たところ、 何百万年に何百万年もの間、 生きてきた人間たちは、 外的にも内的にも、自らの葛藤を 解決できてこなかったのか、 なぜ、彼らは大地を破壊し、大気を汚染しているのか、 なぜ人間たちは、ますます残酷に、暴力的になりつつあるのか、です。 見たところ、これらの問いのどれ一つも解消されたことが、ありません。 私たちは、高度に文明開化した人間たちだと、思われています。 そして、私たちがそうであるかどうかを、疑いはじめます。 私たちに出されたこれらの問いは、 おそらく、それらに答えることにより、 私たちは、全然違っているかもしれない生き方を、 理解しはじめるかもしれません。
2:41 第一の質問: 「若者の教育において、 歴史の意義は、何ですか。」
2:48 「若者の教育において、 歴史の意義は、何ですか。」
3:02 歴史の書物を読んできたなら、人が自然と格闘し、 それを征服し、それを破壊し、自らが触れるものすべてを 汚染してきたことは、相当に明らかであると、思います - 戦争、王様、ルネサンス、 工業化、そして、 自由になろうとする人の格闘が、ありました。 けれども、人は、制度、組織の奴隷になります。 人は、それらより離れようとしますが、 またもや、別の一連の制度、 別の一連の組織を、形成します。 それで、自由であろうとするこの永続的な格闘、です。 それがたぶん、書物によるところの、 人類の歴史です。 また、部族の戦争、 領主の戦争、貴族の戦争、 王、民族の戦争 - それは、やはり、進んでいます。 この部族的な精神は、 民族的、国家的な 洗練された精神に、なりましたが、 それはやはり、部族的な精神です。
4:53 それが、多かれ少なかれ- おそらく私たちは、 かなり歴史を単純化しているのでしょうが、 文化、音楽、絵画とともに、そうね、全部ですが、 それらは、どのように、若者に教えられるべきですか。 確かに、歴史(ヒストリー)は、人類の物語(ストーリー)です - すべての種類の苦しみを経て、 様々な病気を経て、戦争を経て、 宗教的な信念と教義、迫害、異端審問、拷問を、 神の名、平和の名、理想の名において、 経てきた人類、人間の(物語)、です。 それらはどのように、若者に教えられるべきですか。 それが、問いです。
6:10 それが、人類の物語、人間たちの物語であるなら、 そのとき、教育者と若者たちはどちらも、人間です。 それは、彼らの物語です! 王と戦争の物語ではない。 それは、彼らの物語です。 すなわち、彼ら自身の物語です!ですね? さて、教育者は、学生が自分自身の物語を 理解するように、助けられますか。 これらに付いてきておられるかどうか、私は知りません。 物語 - 彼が、その結果であるところの過去です。 いいですか?で、教育者は、 学生が自分自身を理解するように、助けられますか。 なぜなら、彼はその物語であるからです。 それが問題です。 それに同意なさるでしょうか。
7:33 すなわち、もし、あなたが教育者であり、私が学生であるなら、 あなたはどのように、若い学生の私が、 自分自身の本性と構造全体を理解するよう、助けるのでしょうか。 自分自身は、人類の全体ですし、 私の頭脳は、幾百万年の結果です。 あなたはどのように、私が自分自身を理解するのを、助けるのでしょうか - 自分の物語、過去を、です。 それはすべて、私の中にあります。 暴力、競争、攻撃性、残虐性、暴力、 残酷さ、恐れ、楽しみ、時折の喜びと、あの愛の微かな香りが、です。 あなたはどのように、私がこれらを理解するよう、助けるのでしょうか。 それは、教育者もまた、これを理解しなければならない、という意味です。 彼もまた、自分自身を理解しつつあります。ですね? それで、私、学生が自分自身を理解するのを、助けています。 で、それは、教師と私自身の間の意思疎通です。 その疎通の過程において、彼は、 自分自身を理解しつつあり、 私が自分自身を理解するよう助けつつあります。 これがお分かりになるのかどうかと、思われます。 それは、教師や教育者が、初めに自分自身を理解して、 それから教えなければならない、という意味ではありません。 それには、おそらく彼の余生が、掛かるでしょうが、 教育者と教育される人物との間の関係には、 相互の究明の関係が、あります。 これは、幼い子どもと、若い学生とともに、できますか。 どんな様態であなたは、それに取りかかるのでしょうか。 それが、問いです。 ですね?
10:29 これに興味がありますか。

聴衆: はい。
10:33 K: あなたは親として、どのようにこれに入るのでしょうか。 あなたはどのように、自分の子どもを、助けるのでしょうか。 男の子や女の子が、自分の精神、自分の欲望、恐れの本性と構造全体を - よろしいですか - 生の動勢全体を、 理解するように、です。 私を見ないでください!(笑) あなたは、どのように、それを取り扱うのでしょうか。 即時に、「私たちは愛を持たなければならない」とか、 それらの種類のことを、言わないでください。 それは、大きな問題ですし、 私たちは、親と教師として、 新しい世代の人々をもたらす準備が、できていますか。 それが、含意されていることです。 全的に違った世代の人々、 全的に違った精神と心を、です。 私たちは、そのための準備ができていますか。 あなたは、親であるなら、自分の娘と息子のために、 酒、タバコ、マリファナをあきらめるでしょうか - そうね、ドラッグ文化全体を、です。 そして、親と子どもがどちらも 良い人間であるように、見計らうでしょうか。
12:33 「良い(グッド)」という言葉は、(語源的に)うまく合った、という意味です。 心理的に何の軋轢もなく、良いドアのように、ぴったり合う。 理解されますか。 良いモーターのように、です。 ですが、また「良い(グッド)」とは全体的だ、という意味です - 壊れていなくて、断片化していなくて、です。 で、私たちは、年配の人々は、教育をとおして、 良い人間、恐れていない人間をもたらす準備が、できていますか。 自分の隣人を恐れ、未来を恐れ、 きわめて多くの物事、病気、貧困を恐れていない人間を、です。 また私たちは、善いことの探求や、善いことの確立に 準備ができていて、子どもと私たち自身が統合されるよう、 準備ができていますか。 または、助けますか - (統合された)誠実さ、です。 「誠実さ(インテグリティ)」という言葉は、全体的である、という意味です。 誠実さ(インテグリティ)はまた、思っていることを言い、 それを守ることを、意味しています - 一つのことを言い、他の何かをするのではない。 誠実さ(インテグリティ)は、正直さを、含意しています。 私たちは、その準備ができていますか。 私たちは、何か幻影、ロマンチックな思弁的な観念や 理想を持っているなら、正直でいられますか。 私たちは、強い信念を持っているなら、正直でいられますか。 あなたは、信念に正直なのかもしれませんが、 それは、(統合された)誠実さを、含意していません。 私たちは、これらの準備ができていますか。 または私たちは、子どもたちを、世の中へ送り出しますか - 彼らが二、三歳になるまで、甘やかし、 それから彼らを、オオカミたちへ放り出しますか。いいですか? 彼らに、戦争の準備をさせる。 あなたは、世の中で何が起きつつあるかを、ご存じです。
16:11 そういうわけで、歴史は、人間たちに、教えてこなかったのです。 どれほど多くの母親が、泣いてきたにちがいないのか - 彼らの息子が戦争で殺されて、です。 理解されますか。 けれども、私たちは、この互いに殺し合う怪奇な動きを、 止める能力が、ありません。
16:41 で、あなたが、若者に教えるのであるならば、 自分自身に、この良いことの要求の 感覚を、持たなければなりません。 良いとは、理想ではありません。 理解されますか。 私たちが、良いことを翻訳するなら- それは、全体的であること、 (統合された)誠実さを持つこと、恐れを持たないこと、混乱しないことです。 これらは、理想ではありません。 それらは、事実です。 理解されますか。で、私たちは、事実本位であり、 それで教育をとおして、良い人間をもたらすことができますか。 私たちが「はい」と言うなら、親とあなたは、それについて 何をするのでしょうか。 理解できますか。 あなたの責任は、何ですか。 なぜなら、たぶんあなたは、子どもを持っているからです。 持っているなら、何ですか。 問題を理解されますか。
18:14 それで、訊ねます。 私たちは本当に、 違った文化、違った人間を、ほしいのですか - 混乱していなくて、恐れを持っていなくて、 この(統合された)誠実の性質を持つ精神をもった人を、です。 私はこの質問に答えたことを、願っています。
18:52 第二の質問: 「知識は、なぜいつも、不完全なのですか。 自らが観察しているとき、自分が観察していることに、気づいていますか。 または、観察されるものに、気づいているだけですか。 気づきは、分析につながりますか。 心理的な知識とは、何ですか」。
19:26 私はもう一度、読みましょう。 「あなたが仰ったように、知識はなぜ、いつも不完全なのですか。 自らが観察しているとき、自分が観察していることに、気づいていますか。 または、観察されるものに気づいているだけですか。 気づきは、分析につながりますか。 心理的な知識とは、何ですか」。
20:06 あなたは、誰に、これらの問いに答えるよう、期待しますか。(笑) デルフォイの神託(笑)、高位に昇った司祭者、 占星術師、占い師、茶葉占い!(笑) あなたは誰に、この問いに答えるよう、期待しますか。 ですが、あなたは誰にも、この問いに答えるよう、期待していないなら - あなたが、この質問をした上は - 私たちはともに、それについて話し合えますか。 理解できますか。 それについて、話し合いましょう。 語り手がそれに答えるだろう、 それからあなたが、それを受け入れるとか、拒否する、 そして、不満なまま家に帰って、 「私は午前をむだにした」と言う、ということではない。 もしも、私たちが真剣に、これらの問いについて、話をできて、 それで、私たちがどちらも問題に透徹するのなら、 そのときそれは、あなた自身の答えでしょう - これらの質問に答えてきて、 あなたが聞いてきた、誰かの答えではない。 そうならば、それはあなたのではありません。 理解されますか。癌を持っている人のように、です。 あなたは癌について、話をできます- それを持っていない人が、ですが、 あなたは、それを持っているなら、それに関与しています。 痛みがあり、心配があり、恐れがあります。
22:25 で、私たちは、これらの問いについて、話し合えますか - それらのすべてを、です。 ただこの一つだけではなく、また、以前の問いをも、です。 「あなたが仰ったように、知識はなぜ、いつも不完全なのですか」。 知識とは何ですか。 私たちが「私は知っている」と言うとき、それは、どういう意味ですか。 どうぞ、私とともに、それにゆっくり入ってください。 「私は数学を知っている」とか、 「私は医療を、外科手術を知っている」とか、私が言うとき - そしてまた、私は経験をとおして知ります。幾つかの事実を集めました。 で、私たちが「私は知っている」とか「私たちは知っている」とか言うとき、 それはどういう意味ですか。 質問に、付いてきておられますか。 知ること。あなたは、「私は自分の妻や夫を知っている。 自分の彼女、女の子や男の子を知っている」と言うかもしれません。 あなたは本当に、彼らを知っていますか。 あなたは、いったい彼らを知りえますか。 どうぞ、一歩一歩これに付いてきてください。 または、私たちが先日、言いましたように、あなたは 彼らについて、イメージを持っています。 イメージは、事実ですか。 私が言っていることを、理解できますか。 私たちは、互いに出会っていますか。 で、「知る」という言葉は、きわめて制限されています。ですね? 科学をとおして取得されてきた知識は - そのテクノロジー的な側面だけではなく、科学者たちもまた、 物質をとおして、彼方に何があるのか、 このすべての本源は何であるかを見出そうとしています。 彼らは、大変多くの知識を蓄積してきました。 彼方に何があるのかを、彼らはけっして見出すことが、 できていません - これまでは、です。 で、知識は、科学によっては、制限されています。狭い。 ゆえに、知識と無知は、いつも、相伴っているのです。 無知、すなわち、知らないことと、 知ること - それらは、どちらもいつも、相伴っています。 いいですか? それは相当に明らかであると、私は思います。
25:50 ですが、もう少しさらに答えると - すなわち、 科学者たちは、物質をとおして自分たちは、 彼方にあるかもしれないものを見つけるだろうと、言います。 私たち人間は、物質です。 理解できますか。 なぜ私たちは、あれを経て行くよりこれを経て行かないのですか。 私が言っていることを、理解されますか。 私が言っていることに、付いてこられますか。 私たちは、ともに話し合っていますか。 なぜなら、精神は、それ自体を通ってゆけるなら、 物事すべての本源であるものに、出くわす可能性が、 他より、はるかにありそうです。 どうなのでしょうか・・・ で、自分自身を知ることは、いつも制限されています。 これに付いてこられるのかどうか、私は知りません。 私が、「私は自分自身を知らなければならない」と言うなら、 私は、心理学を研究できます。 私は、心理学者、心理分析者、 心理療法士、心理生物学者などなどなどと、議論できますが、 それは、いつも制限されています。 ところが、私は自分自身を理解し、 自分自身と呼ばれる、この実体に、透徹するなら、 無際限に越えて行く可能性が、あるのです - 私たちは、それについて、議論しようとしています。 おそらく私たちは、次の講話の間に、越えて行くことができるかもしれません。 なぜなら、それは、とても重要なことであるからです。 なぜなら、さもないと、生は、ほとんど意味が、ないからです。 理解できますか。当然です。 私たちの生は、楽しみ、痛みです。 その循環全体を、ご存じです - 褒賞と処罰です。それが、私たちが生きているところの様式です。 その様式は、私たちが心理的に取得してきた知識を、 創り出してきました。 私たちが取得してきた知識は、 私たちが捕らわれる様式を、創り出してきました。ですね? で、知識は、生物学的でも、医療でも、科学でも、いつも 制限されているにちがいありません。 それは、単純です。いいですね?
28:47 「自らが観察しているとき、自分が観察していることに、気づいていますか。 または、観察されているものに気づいているだけですか。 気づきは、分析につながりますか。」 まず第一に、私たちがいう観察とは どういう意味かについて、ともに話し合いましょう。 視覚的な観察が、あります- 樹、聞こえること - 耳で聞こえるだけではなく、また、内的に聞こえること。 よろしいですか。 あなたは、これをご存じです。 で、私たちは、観察するとき、本当にそもそも観察しますか。 または、私たちは、言葉でもって、観察しますか。 理解されますか。これに付いてきておられますか。 すなわち、私は、あのものを観察します。 私は「樹」と言います。それで私は、言葉をもって観察します。 これに付いてきておられるのかどうか、知りません。よろしいですか。 言葉をもった観察が、あります。 それで、私たちは、言葉なしで観察するよう、見出せますか。 私が言っていることを、理解されますか。 いいですか? 私たちはともに、進行していますか。 で、見ることより、むしろ、言葉のみが、重要になったのです。 いいですか? 私たちは、観察します - 私たちが妻や夫を持っているなら、です - お互いへの、すべての記憶、映像、感受、苛立ちなどをもって、です。 だから、私たちはけっして観察しません!
31:17 で、次の歩みは、こうです- 私たちは、 自らが親密に生きてきたなどなどの人物を、観察できますか。 イメージなく、映像なく、観念なく、です。 あなたは、そうできますか。 おそらく私たちは、樹と呼ばれるものを、言葉なしに、 知覚できます。 それは、相当に簡単です。 あなたが、それに入ったことがあるなら、それは、相当に簡単です。 が、自分がともに生きてきた人物を、観察する。 そして、その人物について記憶の蓄積なしに、観察する。 あなたが、それに入ったことがあるなら、あなたが、それに興味を持っているなら ・・・いえ、まず第一に、この観察- イメージをとおし、映像をとおし、 感受、その他すべてをとおし、この蓄積された記憶をとおしたのは、 まったく関係ではないのです。 それは、一つの映像の、別の映像との関係です。 それが、私たちが関係と呼ぶものですが、 あなたがそれを間近で検討するとき、それは関係ではありません。 それは、私の観念とあなたの観念です。
33:15 で、私たちは、観察の中で、自らが観察するものを、 観念として抽象化しないことは、できますか。 これらに付いてきておられますか。 悩まないでください。あなたたちは、これらに慣れておられませんね。 で、これが、私たちがいう心理的な知識が、意味するところです。 すなわち、私は心理的に、自分の妻について、 大変多くの情報を、築き上げてきました - 私が妻や彼女を持っているなら、です。 私は、彼女についてのこの知識を、正確にか不正確にか、 築き上げてきました- 私の敏感さに依存し、 私の野心、貪欲、妬みとそれらに依存し、 私の自己中心的な活動に、依存して、です。 これらに付いてきておられますか。 で、その知識は、その人物への実際の観察を、阻止しています - それは、生き物です。 ですね? それで、私はけっして、その生き物に、出会いたくありません。 なぜなら、私は、恐れているからです。 生き物を見るより、むしろ その人物について、イメージを持つほうが、はるかに安心です。 いいですか? これに付いてきておられますか。
35:12 で、私の心理的な知識は、純粋な観察を、阻止しようとしています。 で、それより自由でありえますか。 よろしいですか。 これらイメージを築く機構は、終わりになりえますか。 質問を理解されますか。 するとあなたは、こう言うでしょう- 「私はどうやって、 それを終わらせることになりますか」と。ですね? 「私は、自分の友だちについてイメージを持っています - または、何についても、です。 それは、ある - ものすごい事実のように、自分の首まわりの石のように、です。 私はどのように、それを放り捨てることになりますか」と。ですね? 自分の首まわりの石、イメージは(笑)、観察者より異なっていますか。 私は、ゆっくりとこれに入ろうとしています。 そのイメージ、あなたの首まわりのその重み - それは、 「私はイメージを持っている」と言う観察者より、異なっていますか。 取らえておられるのかどうかと、思われます。 質問を理解されますか。 私に出会ってください。 ともに話し合い、動きましょう。
37:13 「私はイメージを持っている」と言い、 「私はどうやって、それを取り除くことになるのか」と言う観察者 - その観察者は、彼が観察してきたものより、異なっていますか。 よろしいですか。 明白にそうではない。 いいですか。 で、観察者は、イメージを作る者です。 これがお分かりになるのかどうかと、思われます。 いいですか。あなたは、これに出会いますか。
38:00 で、観察者は何ですか。 この観察者は、誰ですか - イメージを作っていて、 それから、自分自身をイメージより分離していて、 それから、「私はそれについて何をすべきか」と言っているものは? 理解されますか。それが、私たちの生き方です。 それが、私たちの行為の様式です。 それが、私たちの条件づけです - 私たちが、こうも慣習としていて、自然に受け入れるものです。 で、私たちは、何か全然違ったことを、言っています。 すなわち、観察者は、観察されるものである、と。 もう少し私は、それに入りましょう。 私は樹を観察しますが、私は樹ではない - ありがたい! 「私は樹だ」と言うとか、私は自分自身を樹と同一視してきた、 などなどは、あまりに愚かでしょう。 このすべての同一視の過程は、やはり、 観察者が何かであろうとか、何かになろうとすることです。 で、私たちは、観察者は何なのか、 観察者は誰なのかを、探究しなくてはいけません。 観察者は、過去の知識すべての結果です。 いいですか。 彼の経験、彼の知識、 彼の記憶、彼の恐れ、彼の心配 - 過去です。 で、観察者はいつも、過去に生きています。 あなたは、注目したことがあるなら、それを、自分自身に見守れます。 彼は、現在に出会い、いつの時も自分自身を修正していますが、 やはり、過去に根づいています。 ですね? で、この時の動きが、あります- すなわち、過去が、 現在において、それ自体を修正し、未来へ進んでいく。 これが、時の動勢や動きです。 私は今、当分の間、それに入らないでしょう。
40:34 で、私たちは、観察するとき、イメージをとおして、 観察しています - その物か、その人物について、 自らが創り出してきたものをとおして、です。 私たちは、その言葉なく、そのものを観察できますか。 私たちは、イメージなく、人物を観察できますか。 それは、こういう意味です- 観察者は、観察の中に、 不在でいられますか。 いいですか? 論点が、分かりますか。あなたは、一緒に働いていますか。 あなたは、或る人物を見つめるとき - もちろん、 それが見知らぬ人であるなら、あなたは、何の映像も持っていません。 または、あなたは、「ああ、彼は外国人だ。 彼を放り出せ」と、言います。(笑) あなたが、相当親密に知っている誰かを、見つめるとき、 親密に彼らを知れば知るほど、 イメージが多いのですが、 あなたは、その人物をイメージなしに、見つめられますか。 それは、こういう意味です- あなたは、観察者なく、 その人物を見つめられますか。 分かりますか。 理解なさるのかどうか・・・それは、純粋な観察です。
42:00 で、「この気づきは、分析につながりますか。」明白につながりません。 質問を理解されますか。 すなわち、私たちがいう分析とは、 すなわち、分析するとは、どういう意味ですか。 誰が分析していますか。 理解されますか。 私は、自分自身を分析しています。 ですね? 私はそれに入るでしょう。 私は、自分自身を分析しています。 または分析者が、私を分析しています。 私が自分自身を分析するとき、分析者は誰ですか。 これに付いてきておられますか。 分析者は、彼が分析しているもの、私より、異なっていますか - 理解されますか。分析者は、私より異なっていますか。 ああ、さあ、みなさん。 明白にそうではない。 そうね、私たちの講話と、これらの質疑応答において、 私たちは、人間たちの間の、まさしく葛藤、抗争の構造を 消去しています。 理解されますか。 分割があるかぎり、葛藤の構造は、存在します。 外側に分割を創り出す、私自身の中の分割、です。 私自身の中に分割が、あります - 私は、「私はヒンドゥー教徒だ」と言うからです。 ヒンドゥーであるとのそのイメージとの同一視は、 私に安全を与えてくれます。 で、私は、それに取りすがります。 それは戯言です。イメージに、安全はありません。 そして、他の人は、同じことをします。彼はイスラム教徒です。 または、アラブ人です。または、ユダヤ人です。彼は、同じことをします。 で、私たちは、互いにせめぎ合っています。 それで、分析者は、分析されるものです。理解されますか。 で、そのとき、何が起きますか。 もし、観察者は、心理的に、観察されるものであり、 ゆえに、葛藤がないとき- 理解されますか - なぜなら、分割がないからです。 これが明らかに見えるなら - すなわち、私たちの精神は、 この分割を持つよう、訓練され、教育されてきたのです。 私とそのものは、異なっています。 私は、自分の怒りをもち、 自分の嫉妬をもち、嫉妬は、私より異なっています。 ゆえに、私は、それについて、何かをしなければならない。 それを制御し、それを抑圧し、それを乗り越えなければならない、と。 私は、それに対して、行為していますが、 嫉妬、心配が、私であるとき、何が起きましたか。 質問を理解されますか。 葛藤の消去が、あります。 そのとき、何が起きますか。 進んでください。 私はそうしたくないが・・・進んでください。何が起きますか。 私たちが話していながら、あなたが実際にこうしているなら、 あなたが、二つの間の分割を終わらせるとき、何が起きますか。 心配が私であるとき - 私は心配です。明白です。 そのとき、何が起きますか。 私がそれに答えるのを、待たないでください。
46:22 まず第一に・・・私は進んでいいですか。なぜなら・・・ まず第一に、その様式が壊れてしまいました。いいですか? 私の精神の条件づけである様式、 その様式が、壊れてしまいました。 いいですか?それは、どういう意味ですか。 何かが終わることが- いいですか? - 他の何かが始まることです。 あなたがこれを捉えるのかどうかと、思われます。 私が様式を壊すなら - 様式が壊されるなら、 格闘が終わるのですが、そのとき、何が起きますか。 新しい動勢が起きます。 よろしいですか。 新しい動きが、起きます。 よろしいですか。 懐疑的でいないでください。 あなたは、こうするなら、見出すでしょう - あなたは精神を、エネルギーを注入し、これに入るなら、です。 あなたは、樹を観察できますが、「樹」という言葉が、介入します。 あなたは、それを見る瞬間、「樹」と言います - 蝶々、鹿、 山、川、と。よろしいですか。 即時の反応です。 その反応は、観察できるし、おそらく脇に置かれます。 そして、樹をただ観察する。 その美しさ、その線 - よろしいですか - その優美さ、その性質を、です。
48:15 さて、あなたが一緒に生きてきて、 親密であった人物について、同じことをする - その人物について、単一のイメージをも、持たない。 そのとき、関係は、何かとてつもないものでしょう。 お分かりになるのかどうかと、思われます。いいえ?
48:41 あなたはこうしません。そういうわけで、あなたは見出さないのです。 私たちは、自分の過去に、自分の条件づけに、 自分の様式に、こうも繋留されています。 あなたがそれを、どのように壊そうとするのか、誰にも分かりません。 いいですか。それは壊されなくてはいけません。 それは、幻影の中に生きていて、 それを実在と呼んでいる人に、似ています。
49:17 聴衆: もし、観察者が観察されるものであるなら、 いったいどうやって、それを越えられますか。 その中から踏み出せません。
49:35 聴衆: もし、観察者が、観察されるものであるなら、 観察しているものもまた、観察されるものです。 いったいどうやって、それを抜け出せますか。 なぜなら・・・(聞き取れない)
49:57 K: ちょっとお待ちください。 あなたは実際に・・・私は、個人的に、あなたへ話していません。 私は個人的にしていません。自らは、これの事実に、気づいていますか。 それの観念ではなく、事実に、です。 観察者が、自らが観察している人物、自分の妻などについて、 イメージを持っている、との事実、です。 彼は、この分割のその事実に、気づいていますか。 彼は、この分割が、自らが彼や彼女について作ってきた イメージにより、創り出されることに、気づいていますか。 いいですか? あなたは、この事実に、気づいていますか。 または、私があなたに、事実について語っていて、 ゆえに、あなたは、それを受け入れますか。 ゆえに、それは、実際ではなく、それは、観念だけですか。 ですが、あなたが、「はい、この事実はそうです」 - すなわち、「彼女や彼についてイメージが、あります。 私は、そのイメージに、その映像、その観念に、気づいています」と言うなら、 そのとき次は、こうです - 映像、イメージは、 あなたとともに生きている実際の人物ですか。 明白にそうではない。 で、誰がこのイメージを、創り出していますか。よろしいですか。 あなたが順次、行くなら、答えは、とても単純です。理解されますか。
51:54 で、初めに、樹を観察してください。 あなたがそれを、言葉なしに見られるのかどうかを、見てください。 あなたは、バラと呼ばれるそのものを、見るとき、 それに名づけずに、その花を見つめられますか。 理解されますか。ちゃんとそれを試してみてください! それから、自分が或る人物について、 イメージを持っているかどうかを、見出してください。 さて、ちょっと待ってください。 あなたは、私についてイメージを、持っていますね。 なぜなら、新聞とか、何かばかげた本が、それについて書くからです。 よろしいですか。あなたは私について、イメージを持っています。 で、あなたは、イメージをとおし、映像をとおし、 自分が読んだ記事や本をとおして、聞いていますか。 または、あなたは、イメージなく、直接的に聞いていますか。 理解されますか。 さあ、どうぞ!
53:11 聴衆: 他の人物が、あなたのイメージを 確証するように振るまうとき、何が起きますか。
53:28 K: 仮に、自分の妻は夫について、イメージを持っていない、とします。 そのとき、夫と、イメージを持たない妻との 間の関係は、何ですか。 質問を理解できますか。それが、あなたが訊ねていることです。 理解されますか。 あなたは、暴力的ですが、他方の人物は、暴力的でない。 そのとき、関係は何ですか。 あなたたちは、何か関係がありますか- おそらく感覚的、性的以外に、 あなたたちは、何か関係がありますか。明白にありません。 ですが、あなたたちは、同じ家に生きています。(笑) で、あなたは、何をするのでしょうか。 みなさんは、事実に向き合っておられません。 事実とともに動いておられません。 そうね、そういうわけで、あなたは 観念とともに、生きているのです。 それが、この事態での困難です。
54:43 いいですよ。それに入りましょう。 妻は、私について、イメージを持っていません。 まず第一にそれは、最もとてつもない生き方です。 理解されますか。 そこにはおそらく、本当の深遠な愛が、あるかもしれません。 彼女は、私について、イメージを持っていませんが、 私は、イメージ、映像、観念を持っています - それらが、私の中で、積み上がっています。 そして、私たちは、同じ家で生活しています。何が起きますか。 彼女は、自由ですが、私は、自由ではない。 私は葛藤を創り出します - 彼女が、ではない。 ですね? 私は彼女に、私についてイメージを、持ってほしい。 なぜなら、私はそれに慣れているからです。それで、私は始めます。 たいへん破壊的な関係が、進んでいきます。いいですね? 彼女が、「もういい」と言うまで、です。 彼女は、私と離婚しますか。 進んでください。 これは、あなたの仕事です。 それらに向き合ってください。 私から去って行きますか。 または、彼女が私のイメージを持たないことが、 全然違った雰囲気を、家にもたらしてきましたか。 理解されますか。 あなたはけっして、 こうしたことがありません。 ちゃんと試してみてください! 全然違ったことが、ある・・・私は気づきはじめています。 なぜなら、彼女は、動かしえないからです。理解されますか。 私は、いたるところを、動き回っています。 それで私は、何か動かしえないものに、出会うとき、 分かりはじめます - 何かが私に起きるのです。 それは今、あなたに起きつつないですか。さあ、どうぞ!
57:32 或る人は、一つの宗教から別のへ行きます。一人の導師から別のへ、 一つの哲学から - そうね、ぐるぐる遊んでまわります。 別の一人は、「私はそれらを通ってきた。済んだ。終了だ」と言います。 彼は動かしえない。 理解されますか。 それで、何が起きますか。 ちゃんと試してみてください。
58:03 聴衆: どうやってイメージを消去しますか。
58:11 K: どうやってイメージを、消去しますか。 そうね、あなたは理解なさっていません。 あなたは、イメージを消去できません。なぜなら、あなたが、 イメージを作る者であるからです。 いいですか。それは分かりますか。 あなたは、自分自身を消去しなくてはいけません。(笑) すなわち、あなた自身についてイメージを 築き上げてきたあなたの思考を、です。 私は、思考の動き全体に、入らないでしょう。なぜなら、それは、 多くを必要とし・・・そうね、あまりに多くの質問があるからです。 私たちは、講話をするとき、それに入るでしょう。
59:02 第三の質問: 「思考は、痛みに対する防衛として、発生しませんか。 幼児は、物理的な痛みより 自分自身を分離するために、考えはじめます。 どちらが、初めに来ますか。思考、すなわち心理的な知識ですが、 それは、痛みの結果ですか。または痛みは、思考の結果ですか。 子どもの頃に発達した防衛を、どのように乗り越えますか」。
59:48 「思考は、痛みに対する防衛として、発生しませんか。 幼児は、物理的な痛みより 自分自身を分離するために、考えはじめます。 どちらが、初めに来ますか。思考、すなわち心理的な知識ですが、 それは、痛みの結果ですか。または痛みは、思考の結果ですか。 子どもの頃に育成されたか、発達した防衛を、どのように乗り越えますか。
1:00:31 いいですか。 質問を理解されましたか。 何時ですか。 

聴衆: 35分です。

K: ああ、神様!
1:00:46 一つの質問か、二つの質問が、どれほど長く掛かるのか、お分かりですね。 そうね、本当は、唯一つの疑問が、あるのです。 あなたが入り、これらすべての質問を、考慮するなら、 唯一つの本当の疑問が、あるのです。 それは何ですか。 訊ねてください。もしもそうしてきたなら、一つ、です。 どうぞ、気をつけて。 或る天使がやってきて、 「あなたは唯一つ、質問をできます」と言います - 「それは、本当の疑問でなければなりません。 私はどうすれば豊かになるのか、私は誰と結婚すべきかではない」と。 よろしいですか。 本当の深い根源的な疑問です。
1:01:48 聴衆: どうやって私は、思考を消去しますか。
1:01:56 K: 「私はどうやって」と言う実体は、誰ですか。あなたはまた・・・
1:02:04 聴衆: 私は誰ですか。
1:02:06 K: 私は、その問いに答えないでしょう。なぜなら、あなたはまだ それへ来ていないからです。 あなたは見出すでしょう。
1:02:12 聴衆: なぜあなたは、その質問をしないのですか。
1:02:16 K: 私は、それを訊ねてきました。
1:02:18 聴衆: 私は、それを理解できません。
1:02:25 K: ああ、あなたは、すばやくない。 問いは、こうです - 思考が、痛みを創り出しますか。 または痛みが思考を創り出しますか。 理解できますか。 あなたはこの脚に、ピンを突き刺す。 それは、頭脳へ送信される。 そのとき痛み、そのとき、その痛みを終わらせたいとの切望です。 それの全体が、考えることの動勢でしょう。 神経の反応、 その反応との同一視、 そして同一視が、「私はそれが終わることを望む」と言います。 そして、「私は未来に、それがあってはならない」と。 そのすべては、動勢全体の、動き全体の一部でしょう。 なぜあなたは、二つを分離しますか - 考えることが、初めに来るのか、または痛みが初めに来るのか、と。 理解されますか。 「誰が卵を産んだのか」の事柄ですね。 ニワトリが先に来るのか、または、卵が初めに来るのか。 あなたは、論点全体を、見逃しておられます。
1:04:16 今は、これに入る時ではありません。 恐れは、痛みの一部ですが、恐れは、思考の結果ですか。 理解できますか。 思考なしに、恐れがありますか。
1:04:47 聴衆: たとえ思考ありでも、恐れからの自由が、ありますか。
1:04:54 K: 「私」は、思考により組み立てられています - 明白です。みなさんは・・・ 継続的な出来事、継続的な観念と、 遺伝的な資産などなど。 「私」は、思考の結果です - 私はヒンドゥー教徒だ、私はカトリックだ、私はこれだ、 私はあれだ。よろしいですか。 私はアメリカ人だ、 私は成功を収めている、私は博士だ、私は・・・ - そのすべてが、思考により組み立てられた束です。
1:05:39 私は訊ねています - 私たちのほとんどは、痛みを持ってきました。 あなたは、思考を痛みより乖離する実験を、したことがありますか。 ないですか。 もちろん、そうしたことがあります。 痛みを見守ること、それと同一視して、 「ああ、私は痛みがある」と言わずに、です。理解されますか。 幾らかの時間、歯科医の椅子に座ってそのことが進んでいるのを、 見守ってください。それで、あなたの精神は、同一視せずに観察します。 あなたは、それをできますよ。 私は四時間、歯科医の椅子に座りました。 私は、それについて、お話できます。 唯一つの思考も、私の精神に入ってきませんでした。 私は、四時間、座った後、それを発見しました。
1:07:03 子どもの頃に育成された防衛を、どのように乗り越えますか。 あなたは、心理分析者へ行くのでしょうか。 そうするのでしょうか。 いいえ、待って。「いいえ」と言わないでください。 そのようにして、彼らは存在するのです。(笑) 彼らは、現代の司祭者です。 さて、あなたは、心理学者、心理療法者、心理・・・ などなどへ、行くのでしょうか。 これらの呪術医は、多種多様にいます。 すみません。私は、彼らに失礼にしていません。 私はただ、訊ねています - あなたは彼らに行くのでしょうか。 それが、一番簡単な道でしょう。 私たちは、彼らが子どもの頃の問題すべてに、答えてくれるだろうと、 考えます。 彼らは、答えられません。 彼らはわずかに、それを修正するかもしれません。彼ら自身がそう言います。 で、あなたは、何をするのでしょうか。 あなたが行ける人は、誰もいないのです。いいですか? あなたは、これに向き合いますか。 誰もいないのです - あなたの導師、神、司祭者、心理分析者も、です。 クリシュナムルティを含めて、あなたが行ける人は、誰もいないのです。 あなたは、どうするのでしょうか。 あなたは、それに向き合ったことがありますか - 誰にも行けないとのその事実に、です。 あなたは、癌があるなら、医師へ行けます。 それは、異なった事柄です。 あなたが子どもの頃から 発達させてきた心理的な知識は、神経症的になる。 ほとんどの人々は、どうにか神経症的ですが・・・ あなたが行ける人は、地上に誰もいません。または、天にも、です。 あなたは、何をするのでしょうか。 あなたは、自分が神経症であることを、いかに見出すのでしょうか - 誰かがあなたに、あなたは神経症であると、語るのではない。 なぜなら、ほとんどの人々は、神経症であるからです。 誰かが私に、私は神経症だと、語ります。 それは、五十歩百歩です。 いいですか? で、私はどのように自分は神経症であることを、見出すのでしょうか。 私は見出したいですか。 見出したいなら、私はどのように、知るのでしょうか。 私はどのように、それを分かるのでしょうか。 私は、自分の思考より、自分の精神より本当にその観念を、消去しましたか - 誰かが私を助けてくれようとしている、というものを、です。 理解されますか。私が何をしたのかを、見てください。 理解されますか。 私を助けてくれる誰かへ行くことが神経症の本質なのかもしれません。 これがお分かりになるのかどうかと、思われます!
1:11:07 それは構いません。 で、私は、何をすることになりますか。 私は、ほぼ神経症的な世界の中で、どのように、知ることになりますか - 私の友だち、私の親族すべて、彼らはすべて わずかに、均衡を失っていることを、です。 たぶん、私もまた、均衡を失っています。それで、私は、 自分が行ける人が誰もいないことを知り、何をするのでしょうか。 (教会での)告解、それらの事柄はない。誰もいない。 で、私は何をするのでしょうか。 私に何が起きたのかを、ご覧ください。 あなたは、それに出会っていません! 私は誰にも行けないので、 そのとき、私の精神に、何が起きつつありますか - 私が他の人たちに依存してきたときに、です。 書物に、心理学者に- よろしいですか - 権威に(依存してきたとき)、です。 私の精神に、何が起きましたか。
1:12:29 聴衆: (聞き取れない) 

K: いえ、あなたは・・・進んでください。
1:12:33 あなたが、自分はとうてい誰にも行けないことを、 実際に悟るのなら、あなたの精神に何が起きましたか。
1:12:40 聴衆: 自分自身でそうしなくてはいけません。 

K: いいえ。見守ってください。 答えないでください。 あなたの精神に、何が起きますか。 神経症は、依存の結果ですか。 私は、妻に依存します。 私は、医師に依存します。 私は、神に依存します。私は、心理学者に依存します。よろしいですか。 私は身の回りに、一連の依存を、確立してきました - その依存の中で、私は安全になるだろうと、望んで、です。 いいですか? そして、私は発見します - 私は誰にも依存できないので、何が起きますか。 さあ、どうぞ! あなたが依存しないとき、何が起きますか。
1:13:55 聴衆: あなたは、問題を解決しなくてはいけません。
1:13:58 K: そうしてください。 してください。 理解されますか。 私たちは、ものすごい革命を、もたらしつつあります - 心理的な革命、です。 いいですか? いいですか? あなたは進んで、それに向き合おうとしていません。 私は、妻に依存します。 彼女は、自分に依存するよう、私を奨励します。 または、私が、等、どちら側でも、です。 で、あなたは私に、それはあなたの神経症の一部であると、語ります。 私は、それを放り出しません。 私は、それを検討します。 私は、こう言います - 「あなたは全く正しい。私はこれが分かります。 で、私は自由でありえますか」 - 自分の妻に依存しないで、です。 もちろん心理的に、です。 あなたは、そうするのでしょうか。 いいえ。あなたはしないでしょう。なぜなら、あなたは怯えているからです。 あなたは、彼女より何かをほしい- セックスを、これやあれを、です。 または彼女は、あなたの観念でもってあなたを奨励します。 あなたが支配的であるのを、助けます。 あなたが野心的であるのを助けます。よろしいですか。 「あなたは、すばらしい哲学者ね」と言います。(笑) で、他の一人への依存の状態こそが、 深い心理的な神経症であるかもしれないことを、見る。 あなたがその様式を破るとき、何が起きますか。 あなたは、健全です。 あなたは、教会、司祭者、教皇より自由であるとき - よろしいですか。 すべての仕組み全体から、です。 そのときあなたは・・・あなたに何が起きるかを、理解されますか。 あなたの精神の状態は、何ですか。 あなたは、真理が何であるかを、見出すには、 そういう精神を、持たなければなりません。
1:16:47 依存は、子どもの頃より、要因であったのです - 痛みに抗して、傷に抗して、快適さのため、 情動的な扶養のため、奨励のために、です。 そのすべてが、あなたの中に組み込まれてきました。 あなたは、その一部です。 もしあなたが、「もはや権威はなし。宗教的な権威はなし」と 言うなら、何が起きるかを、ご存じですか。
1:17:43 聴衆: キリストはなぜ言いましたか・・・ 

K: ああ。そうですね、 あなたと議論することは、不可能です。 キリストの前に、ブッダがいました - 紀元前500年です。彼の前に、他の誰かが、いました。 で、突然に発見したのは、この一人物だけではないのです。 それは、あなたの二千年の条件づけです - インドで、彼らが三千年により条件づけられているように、です。 この条件づけられた精神は、けっして真理が何であるかを、見出せません。 あなたは、自分のイメージ、像を崇拝し、それらを楽しむかもしれませんが、 それは、真理ではありません。 爆弾を投げないでください!(笑)
1:18:58 で、それは - 何にも依存しないとは、 あなたが一人である、という意味です。 その言葉「ひとり」(アローン)がどういう意味かを、 ご存じですか。 すべて一つ(オールワン)です。 それが、健全さ、正気です。 その健全さは、合理性、明晰さ、(統合された)誠実さを、生み育てます。
1:19:39 他の質問すべてに答えなくて、すみません。