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OJ80Q2 - 第2回質疑応答会合
カリフォルニア、オーハイ
1980年5月8日



0:14 私たちは、語り手は、あなたに何をも語ろうとしていません。 彼はあなたに、何をも納得させようとか、 自分が持つ何か観念や、概念や信念を 伝達しようとかしていません -あなたが受け入れて、それから、 それらの信念、観念、概念を検討しようとするものを、です。 私たちはその事柄について、全く明らかでなければならないと、思います。
0:48 これらの質問に答える中で、私たちは、 私たちのどちらもが、問いを究明しています。 語り手が究明していて、それからあなたへ、それについて語る、 それから、あなたがそれを受け入れる、ということではない。 むしろ、私たちはともに、それに入ろうとしています - で、それは、一人の人物が理解し、それについて、あなたに語る、 ということではないように、です。それが明らかであってほしいと望みます。
1:20 第一の質問: 「この頃は、あらゆる物事が相対的であり、 個人の意見の事柄であるとの、支配的な想定が、あります。 すなわち、個人的な知覚に依存しない 真理や事実といったものは、ない、と。 この信念に対する、智恵ある応答とは、何ですか」。
1:49 「この頃は、あらゆる物事が相対的であり、個人の意見の事柄であるとの、 支配的な想定が、あります。 すなわち、 個人的な知覚に依存しない真理や 事実といったものは、ない、と。 この信念に対する、智恵ある応答とは、何ですか」。 いいですか?
2:21 それは、私たちがみんな、ひどく個人的である、ということですか。 私が見るもの、あなたが見るものが唯一つの真理ですか。 私の意見とあなたの意見が、私たちが持っている唯一つの事実ですか。 それが、質問が含意していることです。 すなわち、あらゆる物事が相対的である - 善は相対的である、 悪は相対的である、愛は相対的である、と。 で、あらゆる物事が相対的なので、 すなわち、全体的、完全でなく、真理でないので、 そのとき、私たちの行為、私たちの個人的な関係の慈しみは、 相対的であるし、いつでも自分たちが好きなとき、いつでもそれが、 自分たちの気に入らないなどのとき、終わらせられます。 それが、この質問の含意です。 ですね?
3:38 さて、どうぞ、私たちはともに、究明しています。 私があなたに語っていません - 真理といったものが、ありますか。 信念を離れて、個人的な意見、信念、知覚を離れて、 真理といったものが、ありますか。 この問いは、古代ギリシャ人が、 古代の日々のヒンドゥー教徒と仏教徒が、訊ねてきました。 それは、東洋の諸宗教のふしぎな事実の一つです - すなわち、疑いが奨励されたのです。 理解されますか。 疑うこと、問うことが、です。 西洋において、それはかなり抑えられています。 疑うなら、それは異端と呼ばれます。 で、個人的な意見、知覚、経験を離れて、自分自身で 見出さなければなりません - それらは、いつも相対的ですが、 知覚、見ることが、あるのかどうかを、です。 すなわち、相対的ではなく、絶対的な真理が、あるのか、です。 理解されますか。 質問を理解されますか。 さて、あなたはどのように、見出そうとしていますか。 私たちが、個人的な意見、知覚は相対的であり、ゆえに、 真理、絶対的といったものはない、と言うなら、 そのときそれは、相対的です。 それに応じて、私たちの振るまい、私たちの行い、 私たちの生き方は、相対的です。 ぞんざいであり、完全でなく、全体的でなく、 ゆえに、断片的なのです。 私たちが互いに付いてきていることを、望んでいます。 私たちは、真理といったものがあるのかどうかを、見出そうとしています - 相対的、個人的な意見、知覚でないものが、です。いいですか? で、あなたは、どのように、それに取りかかりますか。
6:40 この問いが、あなたに出されるなら、あなたはどのように、 真理といったものが、あるのかどうかをどのように見出すのでしょうか - 絶対的であり、相対的でなく、完全であり、 気候、個人的な意見などのもとで、けっして変化していないものが、です。 あなたは、どのように、見出すのでしょうか。 あなたの精神、知能は、どのように見出しますか。 または、思考は見出しますか。 私たちは、これを進めていいですか。 それに、興味はありますか- これらに。 なぜなのかと思われます。(笑) なぜなら、あなたが、 大変多くの究明を要求する何かを、探究しているとき - 日常生活での行為を、 偽りであるものを脇に置く感覚を、要求する何かを、です。 それが、唯一つの進行の仕方です。 いいですか? すなわち、私たちは、真理や愛やその他すべてについて、 幻影、夢想、イメージ、ロマンチックな概念を、持っているなら、 それらは、さらに動くことを阻止する、まさに障壁です。
8:16 幻影とは何であるかを、正直に究明できますか。 精神は、幻影の中に生きますか。 または、私たちは、人々について、諸民族について、 神について、宗教について、あらゆる物事について、 幻影を持っていますか。 よろしいですか。 幻影は、どのように生じますか。 付いてこられるのかどうかと、思われます。 どのように幻影を持ちますか。 その根は、何ですか。 私たちがいう「幻影(イリュージョン)」という言葉は、どういう意味ですか。 それは、ラテン語などから来ています。 「ルーデレ」からです。 それは、遊ぶという意味です。 その言葉の根本の意味は、遊ぶことです - 「ルーデレ」は。 それは、何か現実的でないものと遊び戯れる、という意味です。 理解されますか。 現実的なものは、起きつつあることです - それは、良い、悪い、可も不可も無い、などと呼ばれる かもしれないものであっても、実際に起きつつあることです。 自らが、実際に自分自身の中に起きつつあることに、 向き合う能力がないとき、 それより逃避することが、幻影を創り出すことです。 どうですか・・・いいですか。
10:15 どうぞ、同意しないでください。 私はただ、これを探検しています。 私たちは、ともに探検しています。 「幻影(イリュージョン)」という言葉は、現実的でない何かと、 遊び戯れることを、含意しています- 「ルーデレ」は、です。 私は、ギリシャ語とラテン語のその意味すべてに、入らないでしょう。 で、また、サンスクリットにも、まさに同じ言葉が、使われます。
10:45 それで、乗り気でないとか、恐れているとか、 実際に進んでいることを回避したいのなら、 まさにその回避こそが、幻影を、創り出します - 「有るもの」を離れた、夢想、ロマンチックな動きを、です。 私たちは、それを - 「有るもの」を離れて動くことを、その言葉 「幻影(イリュージョン)」の意味として、受け入れるなら、です。 いいですか? 私たちは、そこから進めますか。 いいえ、どうぞ、私に同意しないで、これを事実として見てください。 そのとき私たちは、現実からのこの動き、この逃避を、回避できますか。 で、そのとき私たちは、訊ねます- 現実とは何ですか。 いいですか。 付いてきておられますか。 現実は、起きつつあることです- それは、応答、観念です。 実際に、あなたが持っている現実の信念、 あなたが持っている現実の意見、です。 それらに向き合うことは、幻影を創り出さないことです。ですね? 究明の中で、進んでもいいですか。 私たちは、そこまで来ましたか。 いいですか? なぜなら、さもないと、あなたは、さらに行けないからです。
12:42 で、「有るもの」の回避に基づいた幻影、意見、知覚が、あるかぎり、 そのときそれは、相対的であるにちがいありません。ですね? いいですか? アヴァンティ?私たちは進みましょうか。 相対性、それは・・・私は、その言葉「相対的」に、入らないでしょう。 それは、その言葉は・・・いえ、私は入らないでしょう。すみません。 事実より、起きつつあること、「有るもの」より、 離れた動きが、あるとき、これは、起きるだけです。 「有るもの」を理解する中で、 「有るもの」を判断するのは、あなたの個人的な意見ではありません。 それは、あなたの個人的な知覚ではなく、 「有るもの」の実際の観察です。 理解できますか。 もしあなたが、「私の信念が、観察を指令する。 私の条件づけが、観察を指令する」と言うなら、 実際に進んでいることを、観察できません。 そのとき、それは、「有るもの」を理解することの回避です。 それをお分かりになったのかどうかと、思われます。 いいですか? 私たちは、こうしていますか。実際にそうする。 現実であることを、見る、知覚する - あなたの現実の信念、 あなたの現実的な依存の感覚、あなたの現実的な競争性を、です。 それから動いて離れずに、それを観察する。 その観察は、個人的ではありません。いいですか? ですが、あなたがそれを個人的にするなら- すなわち、私はしなければならない、 私はしてはならない、私はあれより良くなければならない、と - そのときそれは、個人的になり、ゆえに、それは相対的になります。 ところが、もしも私たちが、現実に起きつつあることを、見つめられたなら、 どの形の幻影のも、完全な回避が、あるのです。 いいですか。私たちはこうできますか。 あなたはこれに、言語的に同意するかもしれませんが、私たちは 現実に、自分の依存を、知覚できますか。いいですか? 人物、信念、理想に対する依存か、 あるいは、何か経験に対して、です- あなたに大変多くの興奮と その他すべてを与えてきたものへ、です。 ゆえに、それらに依存します。 その依存は、必然的に幻影を、創り出すでしょう。 で、私たちは、自分たちが依存しているという事実を、 観察できますか - そして、それを観察する。 いいですか?
16:35 で、同じように私たちは、絶対的な真理といったものが あるのかどうかを、見出そうとしています。 あなたが、これに興味があるなら、です。 なぜなら、これは、何かぞんざいな質問者によりだけではなく、 これに人生を捧げてきた僧侶、 修道士たちによっても、問われてきたからです。 理解されますか。哲学者により、あらゆる宗教的な人物 - 制度化されたのではなく、生に、実在と真理に、 深い関心をもつ人 - によって、です。理解されますか。 で、あなたが、真理は何であるかに本当に関心をもっているなら、 それに、きわめて深く入らなくてはなりません。
17:33 まず第一に、実在とは何かを、理解しなくてはいけません。 いいですか? 実在とは何ですか。 あなたが知覚するもの、触れるもの、 味わうもの。いいですか? あなたが痛みを持つときなど、です。 で、実在は、感受と、その感受への反応、 感受への、観念としての応答です。 いいですか? どうですか・・・その観念は、思考により創り出されています。 で、思考が、実在を創り出してきたのです - すばらしい建築、 世界の大聖堂、寺院、神殿、モスク。 それらに置かれた偶像、イメージ。 すべてが、思考により創り出されています。 私たちは、それは実在だ、と言います。 なぜなら、それに触れられるし、 それを味わえるし、それを嗅げるからです。
19:17 聴衆: 幻覚についてはどうですか。 これは、生理学的な頭脳に、動揺が あるからなのかもしれません。

K: そうです。 頭脳は、病気になっていたり、影響されたり、負傷したり、損傷したり しているかもしれません。その中からあなたは、幻影、幻覚を持ちます。
19:39 聴衆: 生理学的に、という意味ですが、たとえば高熱を出すなら・・・

K: よろしければ・・・私は願うのですが・・・もちろん、です。 お願いしてもいいのなら、 問いは答えられなくてはなりません。 聴衆より質問をされるなら、探究の流れが、中断されます。 で、大変礼儀正しく、お願いしてもいいのなら、 それを書き留めるのでなければ、なさらないでください。 私がこうお願いするのを、気にされないことを、望みます。
20:19 頭脳が損傷しているとき、「有るもの」からの回避や逃避が あるとき、幻覚、幻影、妄想が、起こります。 これらすべての言葉 - 「幻影」、「幻覚」、「妄想」 - は、 すべて、その範疇の、です。
20:50 で、私たちは、こう言っています。 思考が創り出してきた物事すべては - 理解されますか -知識、 科学をとおし、数学などなどをとおした知識の取得は、実在です。 ですが、自然は、思考により創り出されていません。 いいですか。これに付いてきておられますか。 あの樹、山々、川、水面、鹿、蛇は、思考により 創り出されていません。 それは、そこにあります。 ですが、樹の中から、私たちは、椅子を作ります。 それは、思考により創り出されています。 いいですか? で、思考があり・・・ 私たちがそこに生きている現実世界を、創り出してきました。 そして、自然。そうね、環境を含めます - 全体を、です。 それは、思考により創り出されていません。明白です。
22:14 そのとき、私たちは訊ねます- 真理は実在ですか。 理解されますか。これに付いてきておられますか。 私たちが生きるところの世界を、 思考が、創り出してきたことは、知覚されますが、 思考は、宇宙を創り出してきていません。 ですが、思考は、宇宙を探究できます。 宇宙論、天体物理学者、 すなわち、彼らは思考でもって、探究を進行させています。 彼らは、一定の結論、一定の仮説に、到るし、 それら仮説を証明しようとするでしょう- いつも、思考の道筋で、です。 これらに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 それで、思考は相対的です。 ゆえに、何であれ、それが創り出すものは、 いかなる方向に動こうとも、それは相対的であるにちがいありません。 それは、制限されているにちがいありません。 これらに付いてきておられますか。 どうぞ、これは講義ではありません。(笑) 私は、教授ではありません。 ありがたい! 私たちはただ、現実の真理が何であるかを、見出したい 二人の人間として、探究しています -そういうものがある、として、です。 それで、精神はもはや、幻影の中にない。それが第一のことです - 仮説を持たない。 幻覚、妄想を持たない。 それは、何かを掴みたいとか、 自らが真理と呼ぶ経験を創り出したいとか思わない - ほとんどの人々が、そうしたいのですが。
24:34 で、精神は今、自らに、秩序をもたらしたのです。ですね? いいですか。 それは、秩序を持っています。 混乱が、ありません - 幻影について、妄想、幻覚について、経験について、です。 で、精神、頭脳は、幻影を創り出す自らの能力を、失ったのです。 いいですか。 そのとき、真理は何ですか。 すなわち、実在との関係は、何ですか - 実在を理解されますか。私たちが説明したこと、実在が何であるのかと、 そして、思考により創り出されていないものとの間、です。 思考の産物でないようなものが、ありますか。 理解されますか。 これを進めていいですか。
26:08 すなわち、あなたの精神は、私たちの精神は - 今、ここに、 かなり陰鬱な天候の中、木々のもとに座っていて、かなり涼しいですが - 私たちの精神は、あらゆる形の幻影より、自由ですか。 いいですか。さもないと、他方をとうてい見つけられません。 それは、あなたの精神が、どの混乱からも完全に自由なのか、 という意味です。ゆえに、それは、絶対的な秩序です。 よろしいですか。そうですか。 質問を理解されますか。 混乱した精神、無秩序な精神、動乱の中にある精神は、 いったいどうして、真理が何であるかを、見つけられますか。 それは創案できます。真理があるとか、真理はないとか、それは言えますが、 絶対的な秩序の感覚を持っている精神、 あらゆる形の幻影より、完全に自由である精神は、 そのとき、前進して見出しうるのです。理解されますか。 さもないと、それはできません。明白です。
28:05 すなわち、ご覧になってください。 何かかなり興味深いことが、あります - あなたがそれに興味があるなら、です。 天体物理学者、科学者たちは、見出すために、思考を使っています - 外へ出て行きます。 理解されますか。 彼らは、こうしています。 彼らは、まわりの世界、物質を、究明しています。 そして、天体物理学を越えて、彼方へ行きますが、 いつも、外的に動いています。 ですね? ですが、あなたが内的に始めるなら、「私」もまた物質です。 いいですか? 思考は物質です。 それで、あなたは、内的に入られるなら、 事実から事実へ動いています。 いいですか? これらがお分かりになるのかどうかと、思われます。 ゆえに、物質を越えているものを、あなたは、発見しはじめます。 それは、あなたしだいです。
29:24 これは、とても深刻な事柄です。 それは、或る朝、木曜日の午前、 一時間、これについて議論するだけではありません。 自らの生を捧げる- 理解されますか - 自らの生を、これに捧げなくてはいけません。 生から離れて、ではなくて、です。理解されますか。 生は、私の格闘、私の心配、私の恐れ、私の退屈、 私のさびしさ、私の悲しみです。 よろしいですか。 - 私の不幸、すべての後悔。 そのすべてが、私の生です。 それを私は、理解し、それを通ってゆかなければなりません。 よろしいですか。それより離れて、ではなくて、です。 そのとき、絶対的な真理といったものが、ある - あなたがそれを通って行ったなら、です。
30:30 第二の質問: 「私たちはどうすれば、 自分の日常生活で機能しつづけながら、 世界で起きていることに、責任を取れますか。 暴力に関して、そして、暴力に向き合ったとき、 正しい行為は何ですか。」
30:48 「私たちはどうすれば、自分の日常生活で機能しつづけながら、 世界で起きていることに、責任を取れますか。 暴力に関して、そして、暴力に向き合ったとき、 正しい行為は何ですか。」 私たちは、どうすれば、自分の日常生活で機能しつづけながら、 世界に起きつつあることに、責任を取れますか。 まず第一に、世界は、外側で起きつつあることは、 内側で起きつつあることより異なっていますか。 質問を理解されますか。 世界は、世界で起きつつあることは、暴力です。 世界で起きつつあることは、このとてつもない動乱です - 進みつつあること。 危機に次ぐ危機です。ですね? 戦争、民族・国籍の分割、宗教的な違い、 人種的な、共同社会の違い、 別のに対して、一組の体系化された概念。よろしいですか。 進んでいるこの闘い - それは、私たちの中で進んでいることより、異なっていますか。 いいですか? どうぞ、究明してください。 それは異なっていますか。 なぜなら、私たちもまた暴力的であり、 私たちもまた、虚栄に満ちていて、 ひどく不正直であり、 様々な場合に様々な仮面を着けているからです。 いいですか? で、それは、一つの動きですか。 理解されますか。 外へ引いていく潮と、内へ満ちてくる潮のように、です。 よろしいですか・・・それは、一つの動きです。 私はどのように、それに責任を持つべきなのか、ではありません。
33:39 で、世界は私であるなら- いいですか? - なぜなら、私たち人間が、それを創り出してきたからです。 私たち人間が、変化しないのなら、それはとうてい変化させられません。 それが、その根です。 理解されますか。 私たちは、そこで、世界で何かをしたいのです。 より良い制度、より良い政府、 より良い経済、等々々ですが、 私たちはけっして、私たちがそれを創り出してきたと、言いません。 そして、私たち、私、あなたが、変化しないのなら、 それは変化させられません。 私たちは、それに責任を取ろうとしませんが、 私たちは、それに責任を取るでしょう。 違いを理解されますか。 私たちはここで、出会いますか。
34:48 で、私は世界です。ですね?よろしいですか。私は世界です。 それは、観念ではない。 それは、信念ではない。 それは、概念ではない。 それは、現実です。 私たちが生きてきた一千万年とか、 いかなる年数の後にしても、 私たちは、まさしく同じです。 よろしいですか。 私たちは、根源的に変化していません。 それで、私たちは世界に、こうも荒廃などを、創り出してきました。 で、事実は、私は世界である、ということです。観念ではなく、現実です。 違いが、分かりますか- 観念と現実として、です。 観念はこうです - あなたは、これを聞いてきました。 すなわち、あなたは世界である、と。 あなたは、それを抽象化して 観念にし、その観念について議論します。 それが真実でも、虚偽でも、反対でも、賛成でも、です。 あなたは、それを失ってしまいました。理解されますか。 ですが、事実は、あなたはそうなのです。そのとおりです!
36:18 で、あなたは、これを変化させることに、責任があります。 それは、あなたが、いかに自らの日常生活をするかに、 完全に責任がある、という意味です。 どうぞ、これは、説教ではなくて、何をも提唱していません。 私たちは、ともに究明しています。
36:56 で、私たちの責任は、進んでいる混沌に対して、ではない - それを修正しよう、変化させよう、装飾しようとか、 この集団やあの集団やあの施設に加わろうとする、などではない。 世界である人間として、 その人間は、根本的な変容を、遂げなくてはならないのです。 さもないと、あなたたちは、良い社会を、持たないでしょう。 私たちのほとんどは、変化することを怖ろしく困難だと、見ます。ですね? 喫煙を止めることすら、です。 理解されますか。 あなたは、禁煙するのを助けてくれる施設、制度を、持っています。 私たちがいかに、施設、制度に、依存するのかが、 お分かりですね。 よろしいですか。 で、私たちは、なぜ自分たちが変化しないのかを、見出せますか。 なぜ私たちは、何かを間違っていると見て - 括弧付きの「間違っている」です -それを即時に終わらせるのか。 それは、私たちは、他の誰かが世界に秩序をもたらすだろうと感じる、 そのとき私たちは、ただそれに滑り込むだろう、 ということですか。 理解されますか。 それは、私たちが怠惰である、心理的に怠けて、 無能である、ということですか。 理解されますか。 一定の技術を習得するために、どれほどの年を使いますか - 学校、高校、専門校、大学を出るため、 医師になるために、十年以上です。 私たちは他方、一日も使おうとしません。理解されますか。 で、私たちの責任は、自分自身に根本的な変化を、もたらすことです。 なぜなら、私たちは、残りの人類であるからです。
39:48 次の問いは、こうです - 「暴力に関して、そして、暴力に向き合ったとき、 正しい行為は、何ですか」。 暴力に関して、正しい行為は、何ですか。 暴力とは、何ですか。 進んでください。 暴力とは、何ですか。 怒りですか。憎しみですか。 どうぞ、私はそれに入ろうとしています。怒り、憎しみ、順応、 模倣、服従ですか。 または、それらの拒否、それらの対極ですか。 質問を理解されますか。 暴力は、私たちの生の一部です - たぶん動物より継承された、などです。 そして、それより自由であることは、可能ですか。 それより、相対的にではなく、完全に自由である。 それが何を意味するかを、理解されますか。 怒りより自由である - それは、怒りより自由であるだけではなく、 精神に怒りを持たないことを、意味しています。理解されますか。 あなたがこれらに出会うのかどうかと、思われます。
41:58 例えば、順応。 外的な順応ではない。 理解されますか。 比較をとおした順応の感覚、です。 私がいう意味に、付いてきておられますか。 私たちは、いつも、比較しているでしょう。 心理的に、私はそうだった。私はそうなるだろう。私はそうである - それは比較的です。これらに付いてきておられますか。 で、私は訊ねています- この精神は、 いつも比較し、判断し、攻撃的であり、 その攻撃性は、比較することです。 いいですか? お分かりになるとは、私は思いません。 で、精神は絶対的に、暴力すべてより、自由でありえますか。 そうであるなら、仮に、それが暴力に出会う、とします。 その応答は何ですか。 まず第一に、精神が、模倣、順応、比較などより、自由であるなら、 そこから、正しい行為が、あります。ですね? それに付いてこられるのかどうか、私は知りません。 そして、暴力に面と向き合うなら、 起きる行為は、何ですか。 あなたは、それに出会うとき、自らが何をしようとするかを、判断できますか。 質問に付いてきておられますか。 どうなのかと、思われます。
44:18 ごらんください。私は、これに、あまりに深く入りたくありません。 頭脳は、私が言っているように - どうぞ、私は、頭脳の専門家ではありません。 私は、神経学とその他すべてを、研究したことがありませんが、 あなたは、敏感で、鋭敏であるなら、それを自分自身に、見守れます - すなわち、頭脳は、暴力に向き合うとき、 化学的な変化を、被るのです。 なぜなら、それは、打撃よりはるかに速く反応するからです。 これらに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 いいですか。 それは、自体を癒やす能力を、持っています。 私はそれに、さらに入らないでしょう。
45:18 で、頭脳は、暴力が何であるかを、知り、 その暴力へ、反応できますが、 頭脳自体が意識する・・・ 暴力からの自由を意識する。 理解されますか。 私は、何かを説明していますか。 または、ちんぷんかんぷんですか。 たぶん、ちんぷんかんぷんでしょう!
45:56 ごく単純にしましょう。 誰かが怒っているのを知るとき、あなたの全身が、反応します。 化学的な応答、そのすべてが、起こります。 即時の応答が、あります。あなたは、叩き返さないかもしれませんが、 そこでの怒りや憎しみの存在こそにより、 行為が、あります。 いいですか? さて、暴力の面前で、この応答を持たないこと。 理解なさるのかどうかと、思われます。いいですか。 私はそれを、説明していますか。 いつかそれを試してください。 あなたがけっして暴力に向き合わないことを、望みますが、 きっとあなたは怒りに向き合うだろうと、思います。 怒っている人物の面前で、何が起きるかを、見てください。 それに気づいて、反応しない。 よろしいですか。 すなわち、あなたは、他の人物の怒りに気づいて、 あなた自身が応答しない瞬間、 全く違った応答が、ある。 これを理解なさるのかどうかと、思われます。 それを、愛と、その種のことと呼ばないでください。 この応答は、私たちの本能です。 憎しみへ憎しみにより、 怒りへ怒りにより、応答するのですが、 怒りの面前で、これが、あります - よろしいですか。 わき上がってきて、それが、神経系に反応などを、 化学的に創り出しますが、 怒りの面前で、これらを鎮めるように、です。 そのとき、あなたが暴力に直面しているとき、 違った行為が、起きているのです。 これは、明らかになりましたか。 または、それはやはり、ちんぷんかんぷんですか。 よろしいですか。 いいえ? 明らかですか - 少なくとも、言語的には、です。
48:41 第三の質問: 「明日が私たちの問題を解決してくれるだろうとの望みが、 私たちが変化の絶対的な切実さを見るのを、阻止します。 これをどのように、取り扱いますか。」
48:56 「明日が私たちの問題を解決してくれるだろうとの望みが、 私たちが変化の絶対的な切実さを見るのを、阻止します。 これをどのように、取り扱いますか。」
49:14 それが、私たちが変化しない理由ですか - すなわち、明日、その望み、未来、 明日、来年など、未来、です。 私たちの精神は、未来へ条件づけられているからですが、 質問者は、訊ねます - それが、私たちが変化しない理由ですか。 さて、あなたがそれに入るなら - 私たちは、この問いに入るでしょう。
49:56 あなたがいう未来とは、どういう意味ですか。未来とは、何ですか。 質問を理解されますか。 あなたが重篤な病気であるなら、明日は意味を持っています。 理解されますか。 理解されますか。 なぜなら、私は明日までに、治るかもしれないからです。 で、私たちは、訊ねなければなりません- この未来の感覚は、何ですか。 未来とは何ですか。 質問を理解できますか。 未来とは何ですか。 私たちは、過去を知っているから - 理解されますか - そして、私たちは過去に生きるから - それは、事実です。 反対の動き、すなわち、過去が現在を通ってゆき - いいですか? - 自体を修正し、 未来と呼ばれるものへ、動きます。 いいですか? これに付いてきておられますか。 まず第一に、私たちは、自らが過去に生きることを、 知っていますか、気づいていますか。 いいですか?私たちは、過去に生きますね。 その過去はいつも、自体を修正し、 自体を調整し、自体を拡大し、収縮していますが、 それは、やはり過去です - 過去の経験、過去の知識、過去の理解、過去の喜び、 過去になった楽しみ、などなどです。 で、修正された未来は、過去です。ですね? いいですか? 私は、未来は過去の修正であると、言いました。 いいですか? で、未来は、修正された過去です。 これがお分かりになるかどうかと、思われます。
52:51 で、私の未来の望みは、やはり、 過去が、私が未来だと考えるものへ、動いているのです。 いいですか。 よろしいですか。 私は、誰かに話さなければなりません。 で、精神はけっして、過去より動いて出たことがない。 それが、私が取りかかりたいすべてです。いいですか? 未来は、やはり過去です。 で、精神はいつも、過去に行為し、生きて、考えています。 で、過去は、終わりえますか - 変化の絶対的な必要性を、見ること、ではない。 質問を理解されますか。
54:08 過去とは何ですか。 しばしの間、それを見つめましょう。 過去とは、何ですか。 私の人種的な継承物、私の条件づけ- これやあれとして、 ヒンドゥー教徒、仏教徒、キリスト教徒、カトリック、アメリカ人などとして、です。 過去は、私が受けてきた教育です。 過去は、私がしてきた経験、 傷、喜び、思い出などなど。 それが過去です。 よろしいですか。 それが、私の意識です。 それが、私たちの意識です - それは、私の意識ではない。 それは、私たちの意識です。 で、その意識は、その内容すべてとともに - それは、私の信念、私の教義、私の望み、私の恐れ、私のあこがれ、 私の幻影など、私の依存ですが、そのすべては、終わりえますか。 あなたは、これらをご存じありません。
55:37 さて、見てください! あなたは今朝、他の一人への依存を完全に終わらせられますか。 なぜなら、それは、あなたの意識の一部であるからです。ですね? なぜなら、あなたが終わらせる瞬間、 何か新たなことが、始まるからです。明白です。 ですが、私たちは、けっして何をも、完全に終わらせません。 終わらないのが、望みです。ですね? これに付いてきておられますか。 で、あなたは、終わらせて、 依存の帰結を見られますか - 心理的に、です。外的に、ということではありません。 私は、郵便配達人に、電話に、これ、あれ、その他に、依存しますが、 心理的に、内的に、依存するとはどういう意味かを、見てください。 すると、即時の行為が、起きています- それが終わることが、です。
57:14 さて、論点は、こうです - 私たちの意識の内容は、 ちょっとずつ、なされるべきですか。 理解されますか。 すなわち、怒りを取り除く、嫉妬を取り除く。よろしいですか? ちょっとずつ、ちょっとずつ。 それは、あまりに長く掛かるでしょう。そうでないでしょうか。 または、全部のことが、即時に、無媒介に、なされますか。 質問を理解されますか。 すなわち、私たちの意識の内容を、一つずつ取り、 それらを終わらせるには、自分の生涯が、掛かるでしょう。 または、多くの日々、多くの年が、掛かるでしょうが、 内容全体を見て、それを終わらせることは、可能ですか。 質問を理解されますか。 内容全体、その全体を見ることは、 相当に簡単です - あなたがそうするなら、ですが、 私たちの精神は、こうも条件づけられているので、 私たちは、変化するための要因として、時を許すのです。
59:02 私たちがこれらの問いに答えていることを、望みます。
59:13 第四の質問: 「私たち人間が、 他の人たちとの日常関係において満たすべき責任を 持つ心理的な必要が、ありますか。 真の心理的な必要といったものが、ありますか。」
59:31 それが、本当の問いです - 真の心理的な必要といったものが、ありますか。 あなた自身が、問いに答えましたね。 私がそれに、答えなくてはいけませんか。 私が問いに、答えなくてはいけませんか。 ああ、私はそれに、答えなくてはいけませんか。いいえ。ありがたい!
1:00:05 第五の質問: 「何かの総体を見るとは、どういう意味ですか。 何か動いているものの総体を、知覚することは、 いったい可能ですか」。
1:00:17 問いを理解されますか。 「何かの総体を見るとは、どういう意味ですか。 何か動いているものの総体を、知覚することは、 いったい可能ですか」。 私たちはともに、そうしましょうか。
1:00:42 私たちが以前の質問で、それに入る中で、言いましたように、 私たちの意識の総体を知覚すること。 いいですか? その意識は、「私」、自己として集中しています - 自我本位の活動、自己中心的な動きとして、です。 それが、私たちの意識の総体です。 いいですか? さて、私たちは、それを完全に見られますか。 もちろん見られます。 いいですか? それは困難ですか。 または、それは・・・ すなわち、自らの意識は、その内容すべてから、作り上げられます。 いいですか? それは明らかです。 すなわち、私の嫉妬、私の民族性・国籍、私の信念、 私の経験などなどなどです。 それが、意識と呼ばれるこのものの内容です。 それの核心は、私、自己です。 ですね? このものを今、全面的に見る。 いいですか? よろしいですか? それを見られますか。 もちろん、見られます。 それは、完全な注意をそれに注ぐ、という意味です。 いいですか? またもや私たちは、何へもめったに、完全な注意を注ぎません。 さて、私たちは、互いに訊ねています - 自己のまさに核心にあるこの内容へ、 完全な注意を注いでください。 自己、「私」は、それの本質です。 それへ注意を注いてください。すると、あなたは、全体が見えるでしょう。
1:03:15 さて、質問者はまた、言います- それは興味深いです - すなわち、何か動いているものの総体を 知覚することは、いったい可能ですか。 自己は動いていますか。 あなたの意識の内容は、動いていますか。 それは、自体の制限の中で、動いています。よろしいですか。 あなたはどうですか・・・これらに付いてきておられますか。 私は、自分自身に話していますか。
1:04:00 ご覧ください。意識の中で、何が動いていますか。 執着、執着しないことの恐れ、 私が執着していないなら、起きるかもしれないことの恐れですか。 それは何ですか。 自らの半径の中で、動いている - ですね? - 自らの制限された区域の中で、です。 それを、あなたは観察できます。 で、あなたは、制限されていて、生きているものを、観察できます。 で・・・私はこれに、少し入りたいと思います。衝撃を受けないでください。 内容をともなった私たちの意識は、生きていますか。 質問を理解されますか。 私の観念は、生きていますか。 あなたの信念は、生きていますか。 で、何が生きていますか。 これに付いてきておられますか。 自らは、経験を持ちます - 快い、快くない、尊い、卑しい、 いわゆる覚り、です。真理の、覚りの経験は、できません。 それは不適切です。 で、あなたがしてきた経験は、生きていますか。 または、その経験の思い出が、生きていますか。 いいですか? 事実ではなく、思い出が、です。 事実は、去ってしまいました。 ですが、思い出の動きは、生きていると呼ばれるものです。 よろしいですか。 さあ、動いてください! で、経験は、去ってしまいました。 もちろんです。 それは、憶えられています。 その思い出は、生きていると呼ばれます。 ですね? それを、あなたは見守れますが、 去ったものを、見守れません。 これがお分かりになるのかどうかと、思われます。
1:06:45 で、生きていると呼ばれるものは、起きて、去ってしまったことです。 ご覧ください - ご自分が何をなさっているのか、です。 去ってしまい、死んでいるもの。 私たちの精神は、こうも死んでいます。 それらの思い出は、 生きていると呼ばれます。 それが、私たちの生の悲劇です。 私は、私たちが持っていた友だちを、憶えています。 彼らは、去ってしまいました- 亡くなってしまった兄弟、 姉妹、妻、母親 - 私は、憶えています。 思い出は、写真と同一視されます。 それを常に見つめること、 それを思い出すことが、生きていることです。理解されますか。 それが、私たちが生きることと呼ぶものです。
1:08:11 今、何時ですか。

聴衆: 1時まで25分です。
1:08:18 K: 私たちは止めたほうがいいと、思います。 止めてもいいですか。 私は、(録画)テープのために、ちょうど1時間で 止めなければならないと、言われました。(笑)
1:08:41 これは、かなり興味深い疑問です。
1:08:44 第六の質問: 「対極を持たない状態が、ありますか。 私たちは、それとどう親交するかを、知りえますか」。
1:08:56 「対極を持たない状態が、ありますか。 私たちは、それとどう疎通するかを、知りえますか」。
1:09:10 これについて、ごく単純にしましょう。 対極が、ありますか - 男、女、闇、光、高い、低い、 金髪、黒髪、樹以外に、です。 違いです - 夜と昼。 良さに対極が、ありますか。 もし対極を持っているなら、それは、良くありません。 いいですか。 それをお分かりになるかどうかと、思われます。 良さ - それは、もし対極を持っているなら、 その良さは、対極の中から生まれるにちがいありません。 これに付いてきておられますか。 私は、あまりに速すぎますか。 いいですよ。 ゆっくり行きましょう。
1:10:12 そうね、私は、これらについて、考えません。 それは、私の中から、追い出されています。 で、良さ。 対極は何ですか。 私たちは、対極を育成してきましたね - 良い、悪い。 私たちは、「良さ」は「悪い」の対極である、と言います - 括弧付きの「悪い」、どちらも括弧付きです。 さて、それらが互いに関係を持っているなら、 または、互いの結果であるなら、そのときこれは、良くありません。 良いは、やはり、悪いものに根ざしています。 これらに付いてきておられますか。 で、そもそも対極が、ありますか。 理解されますか。 私は暴力的です - 暴力があります。 思考は、非暴力を、創り出してきました - すなわち、非事実を、です。 なぜなら、暴力は・・・暴力が終わることは、 非暴力より、全く違った状態であるからです。 いいですか? で、精神は、行為より逃避するために、 対極を創り出してきたか - いいですか? - あるいは、暴力を乗り切るか、 暴力を抑圧するために、です。 このすべての活動は、暴力の一部です。 これらに出会っておられますか。
1:12:16 で、あなたは、事実に関心を持つだけなら、 事実は、対極を持ちません。 ですね? それがお分かりになるのかどうかと、思われます。 私は関心を持っています・・・例えば、私が憎むなら・・・ 私は自分がそうでないと、望みます。 仮に、私は憎む、とします。 私の精神、私の思考、社会は、「憎むな」と言うでしょう。 ですね?それは、対極です。 対極は、自らの対極の中から、生まれています。 いいですか? いいですか?これに付いてきていますか。 で、ただ、憎しみだけが、ある- その対極が、ではない。 私は、その事実と、その事実への応答すべてを、観察するなら、 なぜ私は、対極を持つべきですか。 私が何を言っているかを、理解されますか。 対極は、思考により、創り出されてきました。 ゆえに、憎しみと非憎しみとの間に、常なる格闘が、あります - 私は、どうやって、自分の憎しみを、乗り切るべきなのか。 ですが、ただ、その事実だけが、残るなら - その対極でなくて、です - あなたは、それを見つめるエネルギーを、持っています。 いいですか? あなたは、そうするエネルギーを、持っています - いや、それについて、何をするのでもない。 あなたがそれを観察するとき、その事実こそが、解消されます。 お分かりになりましたか。
1:14:16 それで、十分です。