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OJ80Q3 - 第3回質疑応答会合
カリフォルニア、オーハイ
1980年5月13日



0:16 きわめて多くの質問が、あり、書き留められていましたが、 私たちは、それらのすべてには、答えられません。 これらの問いに答える中で、またはむしろ、 これらの問いを探究する中で、私たちはどちらも、それに関与しています。 ただ語り手が、問いに答えているだけではなく、 あなたと語り手が、どちらも問いを、共にしています。 で、どうぞ、語り手が言っていることを、単に聞かないで、 むしろ、問いに答える中で、語り手に、加わってください。
1:17 第一の質問: 「真の創造性とは、何ですか。 それは、大衆文化で著名なものより、 どのように違っていますか」。
1:29 「真の創造性とは、何ですか。 それは、大衆文化で著名なものより、 どのように違っていますか」。
2:00 一般的に、創造性と呼ばれているものは、ほとんど人が作っています。 絵画、音楽、文学 - ロマンチックでも、事実本位でも、です。 すべての建築、すばらしいテクノロジーと、 これらに関与している人たちすべて、画家、作家、詩人、 哲学的な作家は、たぶん自分自身を、創造的だと考えます。 私たちはみんな、彼らに同意するように、思われます。 それが、創造的な人物が何であるかの、大衆的な観念です。 私たちは、それに同意しますか。 私たちはみんな、それが分かると、私は思います。 すなわち、人が作った大変美しいものすべて - 偉大な聖堂、寺院、神殿、イスラムのモスクは、 とてつもなく、それらの幾つかは、とてつもなく美しい。 それらを、ご覧になったことがあるのかどうかを、私は知りません。 それがあるなら、それらは本当にすばらしい。 これらを築いた人々は、無名でした。 私たちは、誰がそれを築いたかを、知りません。 彼らは、建てること、書くことに、関心があるだけでした。 バイブルなど、誰がそれらを書いたのかを、誰も知りません。 が、今、私たちにおいて、無名性はほとんど、なくなりました。 おそらく、無名性にともなって、 違った種類の創造性があるのでしょう。 それは、成功、金銭に基づいていません - 十年で二千八百万冊、売れた、などなどに、です。 語り手自身は、或るとき、無名性を試してみました。 なぜなら、語り手は、これらの騒ぎと戯言を、好きでないからです。 彼は、カーテンの裏で話をしようとしました。(笑) それは、かなり不条理になりました。(笑)
5:28 で、無名性は、大きな重要性を持っています。 そこには、違った性質があります。違った・・・ この個人的な動機は、存在しません - 個人的な態度と個人的な意見は、ありません。 それは、あなたがそこから行為している自由の感じです。 が、私たちが呼ぶところの、ほとんどの創造性は、人が作っています。 すなわち、この創造は、知られたものから、起きます。 いいですか?知られたものから、です。 偉大な音楽家、ベートーヴェン、バッハなど、 彼らが行為するのは、知られたものからです。 作家、哲学者などもまた、読書し、蓄積し、 自分の流儀などを発達させてきました。 いつも、蓄積され、知られてきたものより、 動いたり、行為したり、書いたりしてきました。 これを私たちは、一般的に創造性と呼びます。
7:01 さて、それは本当に、創造的ですか。 どうぞ、それについて話しましょう。 または、知られたことからの自由の中から生まれた、 違った種類の創造性が、ありますか。 質問を理解されますか。 なぜなら、私たちが絵を描き、著作し、 石からすばらしい構造物を創り出すとき、 それは、蓄積された知識です。 科学的な分野においても、芸術、 人間の芸術の世界においても、過去から現在へ 運んで行くこの感覚が、いつもあります。 または、想像 - ロマンチック、事実本位、涙もろいなど、です。 創造性が、ありますか - 一般的に創造性と呼ばれる この活動より、全的に違った何かが、です。 付いてきておられますか。 私たちは訊ねています。
8:39 それは、入るべき、かなり重要な問いであると、私は思います - あなたが、そうしようとしているなら、ですが、 知られたことからでない、行為があるのか、 生活があるのか、動きがあるのかどうか、です。 すなわち、重荷を負っていない精神から、創造が、ありますか - 生の騒動すべてから、すべての社会的な圧力、 経済的、などからの重荷なしに、です。 知られたことより自由になった精神の中からの、 創造が、ありますか。 そのときそれは、記憶を使えます - 私が言っていることを、理解されますか。知識を使えますが、 私たちは、知識でもって始めて、それを創造的と呼ぶのです。 が、私たちは、知られたことの中から生まれていない創造性が、 あることを、提起しています。 その創造的な衝動や動きが、起きるとき、 そのとき、それは、知られたことを使えますが、逆ではありません。 私が言っていることに、付いてきておられるのかどうか、私は知りません。
10:24 構わないなら、幾らかの時間、試してみるか、 見出してください - 精神が、いったい、 知られたことより、自由でありうるのかどうか、です。 知られたこととは、すべての蓄積された経験、 思い出、自らが取得してきた知識、印象などですが、 精神は、そのすべてより自由でありうるのかどうか、です。 まさにその精神の状態において、 私たちが知っているような創造は、必要でないかもしれません。 理解されますか。 著作の才能を持っている人は、自己を表現しなければならないと、感じます。 彼は、自分の流儀、文体を、発達させます - 自分の書き方を、です。キーツ、エリオットなどと、他の人たちです。 彼らは、書こう、充足しよう、創造しようとの、 この衝動を、持っています。 おそらく、彼ら自身の人生は、むしろ、そんなに美しくない - ミケランジェロ、ラファエルとそれらすべての人々は。 これらの名前を引用して、すみません。 私は学識はありませんが、 私は、若かったとき、多くの美術館を、訪問しました。 私は、それへ押し込まれました。 それらです。(笑) それらの残滓が、残っています。 そして私は、大変多くの芸術家、作家、 友人などに、話をしてきました。
12:46 科学的な世界における私たちの創造すべて、 すべての人間的な芸術において、それはいつも、或る点から、 或る恵まれた才能からであると、私には思われます。 その才能は、最大限まで利用されます。 才能に恵まれている音楽家、 神童のように、彼はものすごく重要になります。 私たち、普通の人々は、それらを讃え、 自分たちも幾らか、それを持っていたならと、願います。 私たちは、それを持っていないので、彼らを追いかけます。 私たちはほとんど、彼らを崇拝します - 指揮者たち。 進んでいくゲームすべてを、ご存じでしょう。
13:53 あなたが、創造性は何であるかを、問いはじめるとき - 質問者が訊ねておられるように、です - それは、何か全然違ったものですか。 それを、私たちみんなが持てると、 私は思います。 専門家ではなく、職業人ではなく、 才能に恵まれた人ではない。 私たちはみんな、このとてつもない精神を、持てると、私は思います - 人が自分自身に賦課してきて、自分自身で創り出してきた重荷 すべてより、本当に自由である精神を、です。 そのとき、そのまっとうな理性的な、健康的な生の中から、 何か全然違ったことが、出てきます。 それは必ずしも、絵画、建築に、表現されないかもしれません。 なぜそうすべきでしょうか。 よろしいですか。 あなたはこれに、相当深く入ってきたなら - あなたがそうだろうと、私は望みます - あなたは、実際にいかなる経験をも持たない精神の状態が、 あることを、見出すでしょう。 なぜなら、経験は、やはり手探りし、訊ねて、求めている精神を、 含意しているからです - ゆえに、闇の中で格闘して、 それを乗り越えたいと思っている精神を、です。 が、混乱していなくて、とても明らかである精神は、 何の葛藤をも持たず、何の問題をも持ちません。 理解されますか。 何の問題をも持ちません。 試してください。 そういう精神は、表現したり、話したりする必要を、持ちません。 私は話をしています - すみません!(笑) 語り手は、話していますが、 あなたに感銘を与えたいからとか、その種のことではありません。 それは、あまりにバカげています。 または、あなたを、 一定の態度と意見と判断へ説得したいからではありません。 それは、二人の人々との、一種の仲の良い意思疎通です - これらの甚大で複雑な生に関心を持ち、 これらへの完全な全的な答えをまだ見つけていない二人の、です。 そして、私たちが、自らの精神と心を、これへ注入するなら、 完全で全的な答えが、あります。
17:28 で、人が作っていない創造性が、あります。 どうぞ、「それは神が作った」と言わないでください。 それもまた、意味がありません。 なぜなら、私たち自身の精神が、とてつもなく明らかであり、 葛藤の影もないなら、 その精神は本当に、創造の状態に、あるからです - それは、何の表現も、何の充足も、要りません。 世間の注目と戯言すべても、です。
18:19 第二の質問: 「あなたは、見ることこそに、 行為があると、仰ってきました。 この行為は、行為の表現と同じですか。 そうでないなら、二つの間に、関連がありますか。 それらはどうして、とうてい抑圧に関係しますか」。
18:44 「あなたは、見ることこそに、行為があると、仰ってきました。 この行為は、行為の表現と同じですか。 そうでないなら、二つの間に、関連がありますか。 それらはどうして、とうてい抑圧に関係しますか」。 「あなたは、見ることこそに、行為があると、仰っていました。 この行為は、行為の表現と同じですか。 そうでないなら、二つの間に、関連がありますか。 それらはどうして、とうてい抑圧に関係しますか」。
19:36 語り手が言ったのは、こうでした- 彼が正しく憶えているなら、 観察の中、観察こそが行為です。 貪欲の観察が、あります。 観察 - それは、何の歪曲もなく、動機なく、 「私はそれを乗り越えなければならない」とか、 それらを言わずに、観察することです。 ただ、この貪欲の動きを、観察することです。 その観察こそが、それの動き全体を、見ます。 ただの一つの特定の形の貪欲だけではなく、 貪欲の動き全体を、です。 その知覚、その見ること、 その観察が、その動きを、終わらせます。 それが、彼が行為と呼ぶものです。間隔はありません。
20:45 これを私は・・・私がもう少しそれに入るなら、許してください。 見ることと行為することとの間に、間隔はありません。 ここで、気をつけなければなりません。 それは、衝動的に行為することではありません。 それは、「私はそうしたい気がする。 私は行為しよう」と言うことではありません。 それは、私たちがみんなしていることですが、 私たちが言っているのは、貪欲を観察する中で - 私はそれを例として取っています。 貪欲、憎しみ、暴力を観察する中で- それが何であっても、です - その観察が完全に、非指令的であるとき - いいですか? - そのとき、見ることと行為することとの間に、間隔はありません。 ところが、私たちは間隔を持っています - 見る、結論する、 観念を抽象する。それから、その観念を実行する。 それが、観念の創造とその観念の行為との間の間隔です。 これに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 ご自身を観察するなら、これが、進んでいることです。 この時の間隔に、あらゆる種類の他の問題が、生じます。 ところが、見ることが、まさに、貪欲を終わらせる動きです。
22:39 さて、質問者は仰います - この行為は、行為の表現と同じですか。 理解されましたか。 これは、行為の表現と同じですか。 すなわち、あなたは、コブラ、蛇を見ます。 自己保存、自己保護の即座の表現が、あります。 それは、自然で、健康的である、などです。 あなたが、或る種の奇妙な人物でないなら、です。 そうなら、あなたは、これらの物事を玩びますが、 自己保有の本能は、即時です - 逃げ去ることや、それについて何かをすることです。 そこでは、見ることが、行為に、表現されたのです - 物理的な行為に、です。 いいですか? 私たちは、物理的な観察だけではなく、また、 あなたの精神の全体でもっての観察についても、話しています。 部分的な観察ではない - 私たちは、そうしますが、 注意深くて、そのため、それが、精神の全体であるように、です。 あなたがこうできるなら、です。 これらすべてのことを試されたのかどうか、私は知りません。 すなわち、完全な注意を注ぐのです。 いいですか? それは、こういう意味です - 注意は、 あなたがそこから注意している中心がない、という意味合いです。 これに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 私はこれらに入らなければなりませんか。いいですよ。
25:00 あなたが集中するとき、それは、中心から、点から点へ、です。 それを理解なさるのかどうか、私は知りません。 ゆえに、それは制限され、制約されていて、狭いのです。 ところが、注意は、中心を持ちません。あなたは注意します! これに付いてこられるのかどうか、私は知りません。 もしあなたが今 - 指摘するのをお許しくださるなら - あなたが今、本当に注意しているなら、 自分が或る点より注意していないことが、分かるでしょう。 いいですか? で、あなた自身で見出してください。 あなたがそうしたいなら、です。 私は、あなたを説得していないし、その種の何でもありません。 それは、集団療法と、それらの事柄ではありません。 あなたがそうしたいのなら、ただ、あなたが 完全に注意できるのかどうかを、見てください。 すなわち、あなたは聞きます。 あなたは見ます。あなたは感じます。 あなたの精神のあらゆる物事が、生きていて、注意しています。 そのときあなたは、自らが注意を始める点がないことを、 見出すでしょう - 点から点へ、です。 その注意の中に、境界がありません。 ところが、集中は境界を持っています。
26:44 「そうでないなら、二つの間に関連がありますか。 それらは、どうして、とうてい抑圧に関係しますか」。 私は、自分がその問いを理解するのかどうか、 あまり確かではありません。 二つの間に、関連がありますか。 すなわち、物理的な行為は、 危険を見るとき、あなたは、即時に動いて去らなければならないのです。 そして、知覚、観察 - それは、特定の反応を終わらせます。 たとえば、貪欲と呼ばれるものを、 部分的に、ではなく、全的に終わらせるのです。 質問者は、訊ねます - 「これら二つの間に、関連がありますか。 そして、それらは、どうしてとうてい抑圧に関係しますか」。 何も抑圧は、ありません。
27:51 ごらんください。いいですよ。 貪欲を取り上げましょう - 私たちが一昨日、そうしたように、です、 貪欲 - 私たちはみんな、知っています。それがどう生ずるか、 その応答が何であるかなどを、です。 貪欲を観察する中で、 観察者と観察されるものとの間に、分割があるなら - すなわち、貪欲があって、私が「私は貪欲だ」と言うなら、 それは、私が、貪欲と呼ばれる、あのものより、分離している、 という意味です。いいですか?付いてきておられますか。 で、この分離の中に、葛藤、抑圧、その乗り越えなどが、ある - この分割の中、訪れる苦労すべて、ですが、 あなたがそれへ、貪欲へ入るなら、この分割は実際に存在していません。 貪欲は私です。観察者です。 いいですか? これを理解なさるのかどうかと、思われます。つづけていいですか。 貪欲は、観察している人物より、分離していません。 彼はまるで、異なっているかのようです - 観察者は。 私たちは、観察者は観察されるものであると、言っています - それは、私が樹を観察する。私は樹である、という意味ではありません。 私は、精神病院に入ってしまうでしょう。 ですが、私たちは、こう言っています - この反応があるとき、 それは、貪欲と名づけられるが、その貪欲は、 それを観察している私より、異なっていない、と。 それで、あなたは、分割をすっかり消去します。 そこには、分離がありません。 よろしいですか。あなたはそれです! あなたがその点に来るなら- 理解されますか。 あなたが、「ええ、私はそれです」と言うとき - 観念としてではなく、 現実として、です - そのとき、全然違った動きが、起きます。 これら二週間の話の後で、それを試されたのかどうか、私は知りません。 あなたたちは、これらのことの一つを、試したにちがいありません。 試したのなら、あなたは、見出したにちがいありません。 それを試してください。
30:41 すなわち、葛藤の全的な不在です。 それは、とてつもないことです。 なぜなら、あなたは、 葛藤を創り出す、この分割の様式を、破ったからです。
31:12 第三の質問: 「イメージ作りが終わるためには、 思考もまた、終わらなければならないですか。 一方は必ずや、他方に含意されていますか。 イメージ作りの終わりは、単に、その上で、 愛と真理が何であるかを、発見しはじめられる基盤だけですか。 または、その終わることは、真理と愛のまさに本質ですか」。
31:46 「イメージ作りが終わるためには、思考もまた終わらなければならないですか。 一方は必ずや、他方に含意されていますか。 イメージ作りの終わりは、単に、その上で、 愛と真理が何であるかを、発見しはじめられる基盤だけですか。 または、その終わることは、真理と愛のまさに本質ですか。」
32:23 私たちはそれについて、先日、話していました - いかにイメージが作られるのかです。 私たちは再び、それに入るでしょう。 なぜなら、私たちはイメージにより生きるからです - 手により創り出された実際の像だけではなく、 精神により、思考により創り出されたイメージによっても、です。 これらイメージは継続的に、付け加えられ、取り去られ、減少します。 これが、私たちが経てゆく動きです。 あなたが、自らが持っている自分のイメージを、 見守っているのかどうかを、私は知りません。 あなたは、自分自身について、自分のイメージを持っています。 あなたは、作家であるなら、自分自身のイメージを、持っています。 あなたは、詩人であるなら、イメージを持っています。 あなたは、妻、夫とその他すべてであるなら、一人一人が、 自分自身についてのイメージを、自分自身で創り出してきました。 これは子ども時代から、始まります- 比較をとおし、示唆をとおし、 「おまえは、他の子のように良くなければならない」とか、 「おまえは、してはならない。 しなければならない」と言うことによって、です。 で、次第に、この蓄積的な過程が、始まります。 私たちの個人的とその他の関係において、いつも、 このイメージが、あります - 男、女とその他すべて、です。 このイメージが存在するかぎり、 あなたは負傷し、痛手、傷を受けるか、あるいは、 このイメージは、他の一人と実際の関係を持つことを、阻止します。 私たちは、これを説明しました。 これに入ってきました。
34:42 さて、質問者は仰います - これは、いったい終わりえますか。 または、それは、何か私たちが果てしなく、 ともに生きなくてはいけないものですか。 そして、イメージが終わることこその中で、思考は終わりますか。 彼はまた訊ねます。それらは、相互に関係し合っていますか - イメージと思考は。 そして、イメージ作りの機構が 終わりになるとき、それは、愛と真理のまさに本質ですか。 それが、多かれ少なかれ、彼が意味するところです。 あなたは実際に、イメージを終わらせたことがありますか。 自発的に、楽に、何の強制もなく、何の動機もなく、 「私は自分のイメージを終わらせなければならない。 私は傷つくまい」と言うことと、その他すべてなしに、です。 ただ自発的に、気持ちよく、楽に幸せに、自分が持つイメージを 終わらせた - 神のイメージなど、それらをご存じです。 様々な種類です - 一つのイメージを取り上げ、それに入ってください。 それに入る中で、あなたは、 イメージ作りの動き全体を、発見します。 私が言っていることを、理解されますか。 すなわち、イメージを持っているなら - たとえば、信念です。 それは、イメージです。 それに入ってください。 そのイメージ - あなたは、それを終わらせることこその中で、 発見しはじめます - 恐れがある、心配がある、 孤立感があることを、です。 それであなたは、 イメージ作りに、これらが関与していることが、分かります。 あなたは、怯えているなら、続けてゆきます。 あなたは、言います - 「私が知らない何かより、 知っている何かを、取っておくほうが、はるかに良い」と。 いいですか? ところが、あなたが相当に真剣に、深くそれに入るなら、 このイメージを作る者は、誰ですか。 一つの特定のイメージではなく、 イメージ作りの機構、その全体、です。 それは、思考ですか。 それは、自分自身を保護するための、 自然な応答、自然な反応ですか。 ちょっと待って、まだ同意しないでください。同意しないでください。 保護するための自然な反応ですか - 物理的に保護し、 心理的に保護するためですか。 物理的に保護する自然な応答は、理解できます - どう食べ物をとるのか、住居を持つのか、衣服を着るのか、 バスにひかれないのか、など、 断崖絶壁から飛び降りないのか。 それは、自然で健康的で智恵ある応答です。 そこには、イメージがありません。 これに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 断崖絶壁が見えるとき、あなたは、離れてしまいます。 離れてしまうのは、イメージではありません。 それは、見える物理的な危険です。 物理的な危険と、 自己保護的な反応により、あなたは離れます。 そこに、イメージはありません。 それがお分かりになるのかどうか、私は知りません。
39:29 が、心理的、内的に、私たちは、このイメージを、創り出してきました。 このイメージは、一連の出来事、事故、 傷、苛立ちから、出てきたものです - そうね、 それは、結局のところ、注意深くない精神の状態です。 これに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 進んでもいいですか。これに付いてきておられますか。 それに興味がありますか - これらに? 同意しないで、 あなた自身でそうしてください。 どうぞ、あなたが私に追従するのか、 あなたがそれに同意するのかどうか、私は気にしません。 それは私にとって、何でもありません。よろしいですか。 あなたがそうしたいのでないなら、しないでください。 あなたがそうしたいのなら、してください。 この心理的なイメージ作り - それは、思考の動きですか。 理解されますか。 私たちは、知っています - 思考は・・・おそらく、きわめて無際限に、 思考は、自己保護的な反応に入ります - 物理的に、です。 が、心理的なイメージ作りは、 常なる不注意から、出てきたものであるにちがいありません - それは、思考のまさしく本質です。 それをお分かりになるのかどうかと、思われます。 私がちょうど今、言ったことを、理解されますか。 思考はそれ自体、不注意です。 どうぞ、私は以前に、気をつけて説明してきました - すなわち、注意は中心を持っていない。 それは、別の点へ行くため - すなわち、集中のための点を、 持っていないことを、です。 完全な注意があるとき、思考の動きは、ありません。 それはただ、不注意な精神の状態です。 そのとき、いつも部分的であり、 ゆえに、完全に注意深くない思考は、イメージを創り出します。 これに付いてこられたのかどうかと、思われます。
42:06 少し付いてこられましたか。 ごらんください。私は不注意です。 私は、何か他のことをしています- そうね、不注意です。 私の妻や友だちや誰かが、私に、「あなたはばかげている」と言います。 即時に私は、イメージを形成したのです。 または、誰かが、「あなたは、何てすばらしい人物だ」と言います。 私はイメージを形成したのです。 すなわち、不注意の状態、注意の欠如が、 思考により、イメージを創り出す - 思考は、それ自体が不注意です。 分かりましたか。 私は、何か新しいことを、発見したのです。 いいですか?なぜなら、どうぞ、 気をつけて、あなた自身で見つめてください - 物質である思考、記憶から出てきたものである思考。 記憶は、経験、知識から出てきたものですが、 それは、いつも制限され、部分的であるにちがいない。 記憶、知識は、けっして完全ではありえません。 いいですか? けっして、完全ではありえない。 ゆえに、それは部分的です。 ゆえに、それは不注意です。 思考は、それ自体が不注意です。 それがお分かりになるのかどうかと、思われます。
43:42 で、注意があるとき、イメージ作りは、ないのです。分かりますか。 それは、葛藤ではありません。 あなたは、事実を見ます。 あなたが、私を侮辱したり、追従したりするとき、 私は、完全に注意深い。 それは、何一つ意味しません。 ですが、私が注意を払っていない瞬間、私の思考が、引き継ぎます - それは、自体が不注意であり、イメージを創り出します。分かりましたか。
44:19 さて、質問者は仰います - イメージ作りが終わることは、愛と真理の始まり、 本質ですか。 すっかりそうでもない。 そう表してすみません - すっかりそうでもない。(笑) で、これら二つの問い、愛とは何か、真理とは何かを、理解するには、 それにきわめて深く入らなければなりません。 今は、その時や機会ではないかもしれません。 私は、それについて、話そうとしていました。語り手は、それについて (次の)土曜日と日曜日に話そうとしていましたが、それは構いません。 私たちは今、短くそれに入るでしょうし、私たちはそれについて、話すでしょう。
45:19 欲望は愛ですか。 それに入ってください。 楽しみは愛ですか。 あなたは、何と仰いますか。 私たちの生すべて、私たちの生のほとんどが楽しみを指向していることを、 私は知っています - 様々な形の楽しみに向かっています。 その楽しみの動きに、セックス等々が、起きるし、 私たちは、それを愛と呼びます。いいですか? 私は、何か真実でないことを、言っていますか。 で、私たちは、訊ねています-愛は、欲望、楽しみですか。 そして、葛藤があるとき、愛が、ありえますか。 精神が、問題でもって不具になっているとき - 天国の問題、冥想の問題、男と女の間の問題・・・問題、 よろしいですか。精神が、問題の中に生きているとき - ほとんどの精神は、そうです - 愛が、ありえますか。 大変多くの苦しみがあるとき - 物理的にも、心理的にも、です - 愛はありえますか。
47:35 で、私はこの問いに、答えていません。 それは、あなたが見出すべきです。
47:42 そして、真理は、結論の事柄、意見の事柄ですか。 哲学者の、神学者の、 教義や儀式について深く信じ込んでいる人たちのそれら、ですか - そうね、それらはすべて、人が作っています。 そういう精神は、真理が何であるかを、知りえますか。 または、真理は、精神がこれらごたごたより 全的に自由であるとき、ありうるだけですか。 で、哲学者と他の人たちは、けっして、自分の生を見つめないで、 何か形而上学的な、心理学的な世界へ、逸れて行ってしまいます - 彼らは、それを公表しはじめ、有名になります。
49:14 で、真理は、精神のとてつもない明瞭さを 要求する何か、 物理的、心理的に、いかなる問題をも、持たない何かです。 葛藤さえも知らなかった精神です。 私が言っていることを、理解されますか。 葛藤の記憶は、終わらなければなりません。 これらに、付いてきておられますか。 なぜなら、私たちは、大変多くの快いのと快くないのとの 記憶を、持っているからです - 喜ばしい思い出と、大変苦痛な思い出を、です。 その精神でもって、その重荷をもって、 私たちは、真理を見つけようとしています。 理解されますか。 それは、不可能です。 で、人が作った心理的なそれらすべてより、 驚くほど自由である精神- よろしいですか - そのとき、真理は生じて・・・真理は、 愛と慈悲があるときにある何かです。 あなたは、暴力の中にいるとき、 あなたが何か執着へ縋りついているとき、 執着のみが重要になるときなど、愛と慈悲を持てません。
51:19 みなさま、もしよろしければ- 私は個人的に言っていません。 これらは、私にとって言葉ではありません。理解されますか。 もしもそれが、何か現実的なことでなかったなら、私は話さないでしょう。 私が言っていることを、理解されますか。 私は、自分自身に不正直にならないでしょう。 それが事実でないのなら、私はひどい偽善者になるでしょう。 私はけっして、演台のどこにも座ったり、 誰にも話をしたりしないでしょう。 私が言っていることを、理解されますか。 これは、ものすごい誠実さを、必要とします。
52:24 第四の質問: 「どうぞ、輪廻転生の非存在について、 断定的な発言をしてくださるでしょうか。 ますます多くの「科学的な証拠」が - 括弧付きです - 輪廻転生を事実だと証明するために今、蓄積されつつあるからです。 私は心配しています。 なぜなら、多くの数の人々が、 すでに自分が持っている信念体系を、さらに強めるために、 この証拠を使いはじめているのが、見られるからです - それは、彼らが 生きることと死ぬことの問題に向き合うのより、逃避できるようにします。
53:10 この事柄について、主題をどっちつかずにしておく代わりに、 はっきりとし、直裁的であり、曖昧でないことが、 あなたの責任ではないですか」。 (笑)
53:31 「どうぞ、輪廻転生の非存在について、 断定的な発言をしてくださるでしょうか。 ますます多くの「科学的な証拠」が - 括弧付きです - 輪廻転生を事実だと証明するために、今、蓄積されつつあるからです。 私は心配しています。なぜなら、多くの数の人々が、 すでに自分が持っている信念体系を、さらに強めるために、 この証拠を使いはじめているのが、見られるからです - それは、彼らが 生きることと死ぬことの問題に向き合うのより、逃避できるようにします。 この事柄について、主題をどっちつかずにしておく代わりに、はっきりとし、 直裁的であり、曖昧でないことが、あなたの責任ではないですか」。
54:21 私たちは、きわめて断定的に言うでしょう。(笑) この輪廻転生の観念は、キリスト教のはるか前に、 存在してきました。 いいですね? ヒンドゥー教徒、古代のヒンドゥーはそれについて話しました。 私は、麗しい物語を、お話ししなければなりませんが、 これは逸れようとしています。 それは、インドでは流布していて、ほとんど現実的です - そして、たぶんアジア世界では、です。 彼らは、輪廻転生を信じています。 さて、輪廻転生するのは、何ですか。理解されますか。 ただ今、今、転生するだけではなく、輪廻転生する。よろしいですか。 それが、一つの点です。
55:34 第二、この輪廻転生の観念は、科学的に証明されつつある - 人々がそれをとおして逃避できるような、証拠として、です。 質問者は、こう含意しています。 質問者はまた、こう言います - 人々が逃避しているから、私は心配している、と。ですね? 人々が逃避しているなら、あなたは本当に、心配していますか。 彼らは、フットボールをとおして逃避します。 彼らは - 何と呼びますか? - バスケットボールへ行くのをとおして、逃避します。ええ。 私はまた、教会へ行くことによる逃避をも、付け加えてもいいですか。 別の形の娯楽です! そのすべてを、脇に置きましょう - 他の人々が何をするのか、心配することを、です。 なぜなら、私たちは、輪廻転生の事実に、 その真理に、関心を持っているからです。ですね? あなたは、語り手から、断定的な答えが、ほしいのです。
57:00 生誕するのは、何ですか。 生誕することは、生まれることです。ですね? 今、その瞬間に、今、生きていて、そこに座っていて、 生きているのは、何ですか。 理解されますか。 転生は、未来の生において、という意味です。ですね? 私は訊ねています - 今、起きつつあるのは、何ですか。 それが生誕します。 質問を理解されますか。 いいですか? それは何ですか。 進んでください。検討してください。 私たちがここに座っているとき、何も起きつつありません - 相当に単純です。あなたは、何かの話を、聞いています。 または、何かの愚痴か、何かのごみを、です。 あなたは、聞こえていることが、好きなのか。 または、聞こえていることが、好きでないのか。 ですが、私たちの日常生活で、あなたが、ここから去っていくとき、 実際に起きつつあるのは、何ですか。 それは、生誕のまさに動きですが、それは何ですか。 あなたは、それをご存じです。 私は・・・ あなたの格闘、あなたの食欲、あなたの貪欲、 あなたの妬み、あなたの執着 - よろしいですか。 それらです。 それが、来世に転生しようとしているものですか。 私が言っていることを、理解されますか。 進んでください。 考えぬいてください。
58:51 さて、輪廻転生を信じている人たちは - すなわち、私が今持っている物事 すべてをもって、生まれること、 私たちが持っている物事すべてが来世に生まれることを、です。 おそらく修正されて、生から生へ、持ち運んでいきます。 それが、その観念です。 あなたが本当に、輪廻転生を信じているなら - 本当に、です - それは、何か生きているもの、信念です。 信念はけっして、生きていませんが、 仮に、それがものすごく生きている、とします。 そのとき、あなたが今、どのようであるかのほうが、 あなたが次に何になるのかより、はるかに大事です。 私が言っていることを、理解されますか。 付いてきておられますか。 それが、アジア世界では、業(カルマ)です。そう呼ばれます。 私は、それらに入らないでしょう。 それは、行為を意味しています。 関与したすべてのものでなく、行為です。 私は今、この期間に、自分のすべての悲惨、混乱、怒り、 嫉妬、憎しみ、暴力をもって、生を生きるなら、 それは、修正されるかもしれませんが、 それは来世に、つづいていくでしょう。いいですか? あなたがそれらに入るなら、これは、明白です。 で、それの証拠が、あります。 暴力の証拠、過去の物事の思い出の証拠 - これらに付いてきておられますか。 それは、過去世の過ぎ去った物事の思い出なのかもしれません。 いいですか? その思い出、その蓄積された「私」、 この蓄積が、「私」、自我、人格です。 その束は、修正されて、懲らしめられて、 少し洗練されて、来世へ、つづいていきます。 いいですか?これは、証拠がある。 いいですか? これらに付いてきておられますか。
1:01:26 で、問いは、輪廻転生があるのかどうか、ではない。 よろしいですか。 私は、この事柄について、 きわめて明らかです。どうぞ、私は、きわめて断定的です。 輪廻転生がある、ということではなく、 輪廻転生よりはるかに重要なのは、 この乱れ、この葛藤が、今、終わることです。よろしいですか。 そのとき、何か全然違ったことが、進んでいます。 これらを、お分かりになるのかどうかと、思われます。 それは、私が不幸せで、惨めで、悲しみに打ちひしがれていて、 私が、「来世、私はもっと良くなるのを、望む」と 言うようなものです。 いいですか? 来世のその望みは、今、事実に向き合うことの先送りです。 語り手は、それらすべての信者などへ、大変多く話してきました - 講義し、著作し、果てしなく輪廻転生について、話してきた人たちに、です。 それは、彼らのゲームの一部です。 私は言います - 「よろしいです。あなたは、それらを信じておられますね。 あなたは信じているなら、今、あなたがすることが、大事です」と。 いいですか?よろしいですか? ですが、彼らは、それに興味がありません。 彼らは、未来に、興味を持っています。よろしいですか。 彼らは、「ほら、私は信じているが、私は、自分の生を変更しよう - 何の未来もないよう、完全に」と、言いません。その点がお分かりですか。
1:03:25 この特定の問いに答えた終わりに、「あなたはそれを回避している」 と言わないでください。 私は、そうしていません。 私は、現在の生のみが重要である、と言います。 あなたが、現在の生を理解し、それに入るなら - その騒動、その複雑性すべてとともにです。そして、それを終わらせる。 よろしいですか。それを終わらせる。 それを続けていくのではない。 そのときあなたは、全然違った世界に、入ります。 それを終わらせるには、あなたは注入し - よろしいですか - 注意を注がなければなりません。 それを追いかけなければなりません。 「まあ、私はそれを、輪廻転生を信じている。私は、未来に 何かが起きるだろうと望む」と、言うだけではない。 私は、これは明らかであると、思います。そうですね? 私は、どっちつかずにしていません。
1:04:36 あなたは私に、訊ねるかもしれません - 私は輪廻転生を信じていますか、と。 ですね? それもまた、含意された問いです。 私は、何をも信じていません。(笑) これは、回避ではありません。 私は、何の信念をも持っていません。 それは、私は無神論者である、 私は神様を信じない、それらの戯言、という意味ではありません。 何も信念を持たないこと。 それに入って、それが何を意味するかを、ご覧ください。 それは、精神が、信念の縺れすべてより自由である、という意味です。
1:05:33 聴衆: あの、麗しい物語を、語っていただけるでしょうか。
1:05:40 K: ああ、あなたは、インドのウパニシャッドについて 聞いたことがありますね - ウパニシャッド、古代インドの文献、です。 そこには、死について、物語があります - それは、輪廻転生と、その他すべてです。 バラモンの息子が - バラモンが何かを、ご存じですね - 父親は、放棄しよう、捨て去ろうとしています。 彼は、あまりに多くを蓄積してきたのです。 古代の慣習と規則の一つは、 収集した後、五年の終わりに、あなたは、あらゆる物事を、 捨て去って、再び始めなければならない、というものでした。 あなたは、それらをされるでしょうか。(笑) で、彼は、息子を持っていました。 息子は、彼に言いました - 「あなたは、このすべてを、様々な人々へ与えてしまおうとしています」などと。 「あなたは、ぼくを誰に与えてしまおうとしていますか」。 「あなたは、ぼくを誰に送ろうとしていますか」。 父親は、「行ってしまいなさい。 私は興味がない」と、言いました。 それで、少年は、幾度も戻ってきます。 父親は、怒って、言います - 「私は、おまえを、死へ送ってやろう」と。 彼は、バラモンであるので、約束を守らなければなりません。 で、彼は息子を、死へ送ります。 そして、死への途中で、 少年は、様々な教師へ行って、こう言います - 「生誕があると言う人もいるし、ないと言う人もいます」と。 で、彼は探求しつづけて、彼は、死の家に来ます。 彼が到着するとき、死は不在です。 それは、すばらしい物語です- あなたがそれに入るなら、ね。 死は不在です。彼は、三日間、待ちます。 三日目か、四日目に、死が現れて、謝ります。 少年がバラモンであったから、彼は謝ります。 そして彼は、こう言います - 「お待たせして、すみません。 おわびに、私は、何でもあなたが願うものを三つ、差し上げよう。 あなたは、最大の王になれる。 最大の富を持てる。 あなたは、不滅性を持てる」と。 彼は、あらゆるものを約束します。 少年は、「ぼくは、これらすべての教師へ、行ってきましたが、 彼らはみんな、違ったことを、言います。 あなたは、死について、そして、 後で何が起きるかについて、何と言いますか」と。 で、死は、「私に、あなたのような生徒が、いたらいいのになあ」 と、言います。 理解されますか。 「それ以外、何にも関心を持たない人が、ね」と。 それで彼は、真理について、話しはじめます。そこに時がない、 生の状態などなどについて、語りはじめます。それが物語です。
1:09:01 第五の質問: 「もしあなたが世界であり、自らがそれを感じ、見るなら、 流れの中から、歩み出るとは、何を意味していますか。 誰が、その中から歩んで出ますか」。
1:09:15 質問者はたぶん、語り手の本を幾つか、読んできたのです。 「もしあなたが世界であり - 括弧付きです - 自らがそれを感じ、見るなら、 流れの中から、歩み出るとは- 括弧付きです - 何を意味していますか。 誰が、その中から歩んで出ますか」。何時でしょうか。
1:09:44 聴衆: 1時まで20分です。

K: 神様!
1:09:51 これは、とても重要な問いです。 なぜなら、これは、 最後の問いになるだろうからです。 お気になさらないなら、ですが。 (録画)テープにもかかわらず、こうも長くお待たせして、すみません!
1:10:09 自らは悟るのかどうかと、思われます- 観念として、ではなく、 何かロマンチックに訴えかけるものとして、ではなく、 実際の事実として、私たちが世界であることを、です - 心理的に、です。 物理的に、色と髪とそれらのものではなくて、 心理的に、内的に、私たちは世界です。 インドへ行ってください。彼らはここと同じ問題を、持っています - 苦しみ、さびしさ、死、心配、悲しみ。いいですか? 西洋で私たちが持っているように、です。 あなたがどこに行こうとも、これが、人類の共通の要因です。 人間すべての要因です。 で、心理的に、内的に、私たちは世界です。 いいですか? それは、観念ですか。または、事実ですか。 理解されますか。 あなたは、この発言が聞こえるとき、それを観念にしてしまうのか、 または、実際にそれを悟るのか - あなたの太ももや腕にピンが刺さるとき、 その実際の痛みを悟るように、です。 悟ることの痛みではない。 注射がされるときの痛み- それは、現実です。 あなたは、それについて観念を持ちません。 そうなのです。痛みがあります。 さて、私たちは、この無量の事実を、実際に悟りますか。 または、それはただ、たくさんの言葉だけです。 あなたは、「私はそれが分かる。 私はそれを知る。それを感じる」と 言いますが、何か、身を切るようです! こうも、ものすごく現実的な何か、です。 そのとき、それの心理的な事実は、精神に影響します。 理解されますか。精神は、あなたの精神ではありません。 あなたの頭脳は、あなたのアメリカの、小さな家族の 頭脳ではありません。 それは、人間の頭脳です。 それを悟るとき、それは、大きな感覚を - お分かりですか - もたらすのです。 責任のそれだけではない。 責任は一般的に、そこに罪悪を含意しています。 あなたは、本当に責任を持つなら、それについて、わずかに罪悪を感じます。 私は、「責任」という言葉を、何の罪悪感もなく、使っています。 人間たちに関連した物事すべてへの ものすごい人間的な責任の感覚です - あなたがいかに、自分の子どもを教育するのか、 あなたがいかに振るまうのか。 いいですか? あなたが実際に、この無量性を悟るとき - それは無量です - そのとき、「私」としての特定の実体は、こうも無意義に思われます。 理解されますか。 私の小さな悩み事すべてをもって、 そうね、それは、こうも安っぽくなります。 あなたが、自分の心に、精神に、この事実を見るとき、 あなたは、これを感じます。あなたは大地を覆います。理解されますか。 大地を覆う - 自然、エコロジーとそれらです。よろしいですか。 あなたは、できるものすべてを、保護したいと思います。 なぜなら、あなたは、これらに責任があるからです。
1:14:55 これがあるとき- 質問者は訊ねます - この流れの中から歩んで出るとは、どういう意味ですか。 そして、誰が歩んで出ますか。 流れは、この常なる人間的な格闘、悲惨です。ですね? すべての人間の、です。 共産主義者、社会主義者、 シナの帝国主義者でも、です- よろしいですか - 技術者。 それは、私たちみんなが立っているところの、共通の基盤です。 それから自由であることは- よろしいですか - そのすべてから自由であることは、誰がその中から歩んで出るか、ではない。 精神は、何か全然、違ったものになったのです。 理解できますか。私は、この点を明らかにしていますか。 それは、「私はその中から歩んで出る」ではない。 精神は、もはや、そこにいません。 ご覧ください。あなたが執着していて、あなたが執着を終わらせるなら、 何か全然違ったことが、起きます。 あなたは執着から自由である、ではない。 理解されますか。 で、違った性質、違った音調が、あなたの生全体に、ある - 私たちは人類であるとの、この尋常でない事実を、悟るとき、です。 よろしいですか。
1:16:45 それで十分だと、思います。 そうでないですか。