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OJ80T1 - 私たちは、自分たちが向き合っている危機について、ともに考えられますか
第1回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1980年5月3日



0:34 あなたたちが告げられたように、六回の講話と、 四回の、 討論または対話と私たちが考えるものが、あるでしょうが、 私たちは、それら四回の非講話に、 質問を受けるほうが、良いだろうと、考えました。 こんなに多くの人々とでは、対話を行うより、 そのほうが良いだろうと、私は思います。 対話は本当は、実際は、二人の友の間、二人の人々の間の会話を、 意味しています。 それは、可能でないので、 質問を受けるほうが、良いだろうと私たちは、考えました。 あなたたちは、好きなどんな質問をも、できます - バカげたほうでも、最も深遠な疑問でも、です。
1:53 私が提案してもいいなら、どうぞ、これらの集会を、 週末の娯楽として取り扱わないでください。 それらは、かなり深刻、真剣であり、 私たちの一人一人に、 相当な思考の行使、 究明、観察できる能力を、要求します。 そして、この過程の間、おそらく、人間精神に 根源的な変化を、もたらすのです。 それが、これらの会合が意図していることです - すなわち、私たちは、 世の中で何が起きつつあるのかを、観察するため、 そしてまた、私たちの一人一人に内的に、心理的に、 いわば肌の内に何が起きつつあるかを 観察するためにも、ここにいるのです。
3:18 それで、私たちは初めに、 世界中で何が起きつつあるかを、観察しようとしています。 観察するためには、必ず、 どの参与からも、自由でなければなりません。 それは、かなり困難になるでしょう。 私たちのほとんどは、何らかのことに、参与しているからです。 どんな先入観もなく、観察する。 どんな固定した結論もなく、観察する。 どんな合理化、弁解、 どんな形の信念もなく、観察する。 ただ観察する。 おそらくそれは、ほとんどの人々にとって、かなり困難かもしれません。 なぜなら、私たちは、自分の信念により、自分の先入観により、 自分の結論により、自分の個人的な傾向と体質により、 縛られているからです。 自由に、選択なく観察することは、 ほぼ不可能になります。 私たちは、これらの講話と質疑応答の間に、 ともにそれをできるなら、 おそらく私たちは、はるかに深く、さらに遠く行けます。
5:17 世界で何が起きつつあるかは、観察できます - 葛藤、抗争です。 どこへ行っても、このひどい葛藤、抗争があります - 人と人との間、民族と民族、国家と国家の間、 宗教と宗教の間、です。 理論家と神学者たちの間の抗争 - キリスト教の神学者と非キリスト教の神学者、 共産主義者、全体主義者、 信ずる人、体系、体制を信ずる人たち、 信念により縛られている人たち、 イメージ、宗教的なイメージ- キリスト教やヒンドゥー教や 仏教や、あなた自身の特定のイメージ、像 - により、 完全に没入している人たち、です。 それで、世界には、この闘いがつづいています - 政治家たちの間、導師たちの間、 あらゆる人間たちの間の、ものすごい抗争です。 人間たちは外的に、格闘し、競争し、闘争しています - 自己を表現するため、 自己を同一視するため、何かになるために、です。 たぶんこの国では、よりそうです - ここでは、成功が崇拝されていて、 ここでは、金銭、立場、地位のみが、重要になるのです。
7:19 で、このものすごい葛藤、抗争が、つづいています - 科学者たちの間、 司祭者たちの間、 この不幸な地球の上の、あらゆる人間の間に、です。 誰も、この葛藤、抗争を解消できるように、思われません - 経済的なこと、社会的なこと、政治的なことを、です。 誰も、気づかうように、思われません - 格闘の中で、 人、人間のまさしく破壊の中で、です。 この問題を、この果てしなく続く葛藤、抗争を、解消するよう、 誰も、自らの精神と心を、注入してきませんでした。 冥想は、葛藤になります。 私たち自身を変化させることは、葛藤になります。 親密でも、それ以外でも、私たちの関係のどれにも、 やはり、葛藤、抗争が、あります。 人は見たところ、幾百万年もの間、生きてきましたが、 このすべての時の後で、この問題を解消したことが、ありません。 何か根本的に間違ったことが、あるのです。 すなわち、人間たちは高度に、いわゆる高度に、文明開化していて、 心理的にも、科学的にも、 大変多くの知識をもち、 大変多くの格闘、 戦争、涙、悲惨をもっています。 人は、人間たちは、この問題を 解消することが、できてこなかったのです。 それが、外的な世界です。 そこで起きつつあることです。 誰も、自分たちの特定の信念、教義、政治的意見、理論、 結論、信念を忘れるか、落としてしまい、 「一緒になって、この問題を解消しよう」と言う甲斐があると、 感じるように、思われません。 どの政治家も、そうしないでしょう。 どの司祭者も、そうしないでしょう。 どの心理学者も、そうしないでしょう。 科学者もまた、そうしないでしょう。いいですか?
10:42 問いを理解されますか。 問いの重大さが、分かりますか。 なぜなら、私たちは、互いに破壊しあっているからです - 自らのとても強い信念、 思想、概念、イメージによって、です。 見たところ、私たちは、 一緒になって、 この問題を解消する能力が、ありません。 すなわち、ともに考える能力が、ありません。 この国の共和党員も、民主党員も、 自らの特定の考えの道筋や、 自らの個人的な野心、自らの権力、地位への渇望を、 落としてしまおうとしないでしょう。 なぜなら、それは、私たちがみんながともに働き、ともに考え、 その必要性、絶対的な必要性を、ともに感じるときだけであるからです。 そのときおそらく、私たちは、問題を解消できるでしょう。 が、彼らの誰一人として、そうしないでしょう。 なぜなら、それは、彼らの個人的な誇り、虚栄、地位、権力を あきらめることを、意味しているからです。
12:34 世界は、戦争の準備をしています。 おぞましい暴力です - あなたが誰かに不同意するなら、彼らは来て、あなたを撃ちます。 人間の気持ち、人間の威厳、人間の自由への配慮すべてが、 次第に破壊されてきました。 で、それが、私たちが生きるところの外的な世界です。 誰も正気な人は、これらを否定できるとは、私は思いません。
13:24 そして、内的に、 私たちの心理において、 私たちの肌の内側、私たちの思考において、 私たちの感情において、私たちもまた、葛藤の中に、います。 いつも、奮闘しています- より良くなろう、 何かになろう、 内的に成功、地位を達成しようとして、です。 この闘いが、内側で進んでいています。 またもや私たちは、それを解消することが、できるように思われません - 心理学者にもかかわらず、 心理療法士にもかかわらず、 カトリックの告解にもかかわらず、 この国にある施設、 組織すべてにもかかわらず、です。 あなたは、気持ちが良くないと、錠剤を摂ります。 あなたが、喫煙を止められないなら、人々が、喫煙で助けてくれるでしょう。 あなたが神に話をしたいなら、彼らが助けてくれるでしょう。 それで次第に私たちは、自分の責任能力を、失いつつあるのです - 自分の行為へ、自分の精神へ、 自分の身体への責任を持つことを、です。 私たちは次第に、不幸にも、 大事な物事すべてを、失いつつあるのです。 これは、またもや、真実です。 私たちは、誇張していません。
15:48 で、外側で世界に何が起きつつあるかを、見て、 また、人間としての私たちの一人一人に、何が起きつつあるかをも、見て - これを観察する。 そして、ともに考えることの 絶対的な必要性を、見る。 質問を理解されますか。 ともに考える。 すなわち、私たちは、外的と内的に葛藤、抗争を持っています。 私たちは、この葛藤、抗争を解消しないのならば、 人類は自滅していくでしょう。
16:51 あなたは、これらを聞きに、 ここへ来てくださった上は、 あなたと語り手が、この葛藤について、 ともに考えることが、きわめて必要になるのです。 ともに考えるとは、私たちのどちらもが、 脇に置くことを、含意しています - もし、私たちは真剣であるなら、 世界で何が起きつつあるかを、知るなら、 人間たちがしてきたことすべてへ私たちが、責任を持ち、 人間心理に根本的変化を もたらす必要性を感じるなら、です。 なぜなら、各々の人間が変化するのでなければ、 社会は、変化させられないからです。 これらを見て、私たちは、 ともに考えなければなりません。 二人の人々がともに考えられることが、いかに困難であるかを、 観察なさったことがあるのかどうか、私は知りません - 彼らがどんなに親密であっても、 男と女が、友だちが、何かについて、ともに考えることが、です。 ここに、私たちが向き合っている危機が、あります。 単に政治的、経済的な危機だけではなく、 はるかに深い危機、 私たちの意識における危機、 私たちの精神における危機、です。 私たちは、あなたと語り手は、 それについて、ともに考えられますか。 すなわち、あなたは、あなたの結論、 あなたの立場、あなたの信念、 あなたの個人的な心理的参与を、あきらめます。 語り手は、そうします。それで、私たちのどちらも、出会うのです - この葛藤、抗争を解消することが可能であるのかどうかを、 ともに考えるように、です。 質問を理解されますか。 あなたは観察すればするほど
20:05 - 語り手がここ六十年してきて、 その期間に世界中で話してきたように、です - 人間たちは、制御不可能なほどに、ますますあくどくなりつつあります。 もっと暴力的で、 一人一人が、自分の独立を主張し、 自分のしたいことをしています。 自分の楽しみにより駆り立てられて、 この国で呼ばれるように、「自分のことをやっている」のです。 で、一人一人が、 自己を孤立させ、 残りの人類を忘れつつあります。 これが起きつつあります。 またもや、あなたが気をつけて、 あなた自身でも、世界でも、観察するなら、です - すなわち、私たちの一人一人が、自分の欲望、自分のほしいもの、 自分の特定の体質を、追求しているのです。 自分が楽しめることを、する。 ですね?
21:44 で、私たちは、少なくとも、一時間、 そして、おそらく余生の間、 ともに考えられますか。 何かについて、ともに考えることは、あります。ですね? 危機があるとき、私たちは、ともに考えるのです - ひどい戦争のように、です。 そのとき私たちは、自分の特定の戯言を、忘れます。 そして、何かはるかに大きなことの脅威は、 戦争のように、私たちを、一緒にまとめます。 それは明白です。 それに不同意する者は、誰もが、 撃たれたり、監獄へ送られたり、あるいは、臆病者と呼ばれます - 良心的拒否者などなどと、です。 で、見たところ、大きな危機が、 人を、人間を、一緒にまとめます - 愛国主義の名、 神の名、平和の名などにおいて、です。 ですが、私たちは今、幸運にも、戦争のような、 目に見える実際の危機を、持っていません。 それで、一人一人が、自分の望むことを、します。 その追求が、奨励されます。 で、私たちは次第に、自らの自由を、失いつつあります。 これらを観察なさるのかどうかと、思われます。
23:58 これらを考慮すると、あなたと語り手は、 私たちが向かい合っている、この危機について、ともに考えられますか - 経済的ではなく、政治でもなく、 社会的でもない危機です。 それらは、すべて外的です。 危機は、私たちの一人一人にあるのです。 危機は、私たちの意識に、 私たちの精神に、私たちの心に、あります。 で、私たちは、その危機を観察でき、 その危機を解消するよう、一緒にまとまれますか。 私の発言を理解されますか - それで、私たちは危機について、ともに考えられるように、です。
24:59 また、対象なしに、ともに考えることが、あります。 そのほうが、はるかに複雑です。 理解されますか。 すなわち、私たちは、戦争について、ともに考えられます。 戦争といった危機が、あるなら、私たちは、自分自身を忘れて、 全体へ責任を持ちます。 ですね? で、危機について考えることは、比較的、たやすいのです。 が、対象なく、ともに考える。 「何かについて」なしに、一緒に考える - これを理解なさるのかどうかと、思われます。 それは構いません。私たちは、はるか後に、それへ来るでしょう。
26:06 で、私たちは、今朝と、 続く朝に、ともに考えられますか。 すなわち、私たちはどちらも、私たちの精神の、 私たちの意識の、私たちの心の危機を、見られますか。 それについて、ともに話し合いましょう。 こんなに多くの人々と、ともに話し合うことは、不可能なので、 語り手は、まるで 二人の人々に話しているかのように、 それについて、話すでしょう。 理解されますか。 すなわち、あなたが一人で、語り手と、です。 私たちはみんな、この麗しい木立に一緒に座っています。 そして、私たちはこの問題を解消できるのかどうかを、見ます。 究極的に、ではなく、数日後に、ではない。 理解できますか。ともに話し合う過程こそにおいて、 問題を解消するのです。 すなわち、 私たちの頭脳は、時をとおして進化してきました。 ですね? その頭脳は、あなたの頭脳や、私の頭脳ではありません。 それは、人類の頭脳です。 ですね? これらに付いてきておられますか。 ですが、私たちがしてきたことは、 あの甚大な頭脳の能力を、狭めてしまう - 時をとおして進化したものを、 「私」の狭く小さな頭脳へ、です。 理解されますか。 自分の小さな問題をもった「私」、 自分のけんか、嫉妬、心配、競争、自分の成功をもった「私」 - 私はこれをしなければならない。 私はしてはならない、と。よろしいですか。 この甚大な頭脳の能力は - それは、幾千年に幾千年をかけて進化してきましたが - 何か、けばけばしいものへ還元されてしまったのです。 何か、そうね、かなり汚いものへ、です。 頭脳は、どの根源的な変化にも対して、
29:18 自体を保護することが、慣習となったのです。 ご自分の頭脳を観察したことがあるのかどうか、私は知りません。 私は、頭脳の専門家ではなく、精神生物学者ではないのです。 何が起きつつあるかを、ご覧ください。 すなわち、彼ら、科学者たちは、何か越えたものを、見つけるために、 物質を検討しています。 理解されますか。 もしあなたが、どの科学者にでも、話したことがあるなら、 または、あなた自身が科学者であるなら、 あなたは、試みています。 あなたは、真剣であるなら、 本当に深く関心があるなら、あなたは、物質を究明しています。 これらの起源である何かを、見つけるか、発見するために、です - 神を、ではない。なぜなら、それは、単なる人の考案物であるからです。 私たちは、当分の間、それに入らないでしょう - 何か越えたものを、見つけるために、物質を通っていく代わりに、です。 が、人間として、私たちは、その物質の一部です。理解されますか。 ですが、もしも、私たち自身を通って行ったなら、 私たちは、はるかに深く、もっとはるかに行くでしょうし、 私たちは本当に、それの真理へ来るでしょう。 私が言っていることに、付いてきておられますか。 私の話が明らかでないのなら、どうぞ、止めてください。 なぜなら、結局のところ、私たちは、互いに疎通しあおうとしているからです。 言葉は、必要です。 語り手が、非専門的な言葉、どの種の術語でないものを、使い、 ただ、普通の日常言語を話しているだけなら、 おそらくそのほうが、たやすいでしょう。
31:43 で、私たちの頭脳は、時をとおして、進化してきました。 私たちの頭脳は、自体を癒やすか、自体に抵抗する 自らの化学的能力を、持っています。 あなたは、それに入るなら、見出すでしょう。 自らに安全を与えてくれない、どの変化にも、抵抗するのです。 この頭脳は、時の本質ですが - 私が言っていることを、理解されますか。 私はこれらを説明しなくてはいけませんか。 そうしなくてはいけないでしょう。 分かります。いいですよ。 それは、時の本質です。なぜなら、それは、時の結果であるからです。 きわめて、きわめて多くの幾百万年の後、 それは、一定の轍を確立してきました - 一定の考え方、 馴染みの一定の活動、 一定の信念と結論を、です。 それは、頭脳に、安心感を与えます。 これらは、時をとおして発展してきました。 私たちは、こう言っています- どうぞ、聞いてください。 私たちは、こう言っています - 一定の概念、信念、観念、理論に沿って、 条件づけられてきたその頭脳の能力は - 神学者などなどによって、ですが - 頭脳は根本的に、自体を変化させられません。 それは明白です。ビヤン(いいですか)? 理解されましたか。 私はそれをつづけていいですか。
34:10 考えることは、この伝統的な、 昔ながらの頭脳の過程の一部です。ですね? で、語り手が、二人の人々として ともに話し合いましょう、と言ったとき、 ここには、多くの人々がいるけれども、二人の人々として、 葛藤を終わらせるその問いに、関心を持っています。 葛藤を終わらせる。 次第に、すなわち、 時に条件づけられた頭脳の過程、ではない。 これらに付いてきておられますか。 私たちは、その連鎖が破られないのなら、 人間の本性に根源的な変化は、とうていありえないと、言っています。 あなたが、作動中の自分の頭脳を、観察してきたなら - 書物からではありません。 それらは役立つかもしれませんが、本質的に、 頭脳についての書物、作家と研究者など、 彼らは、自分の頭脳を究明しません。 彼らは、頭脳を究明します。 これらに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 あなたが真剣ならば、私たちは、自分の頭脳を究明しています。 誰か心理学者、神経学者、 心理生物学者などなどなどに沿っての頭脳、ではない。 そのとき、あなたが、権威に沿って、それを検討するなら、 あなたが検討しているのは、あなたの頭脳ではなく、権威であるからです。 ヴザヴェ・コンプリ?つまり、理解しましたか。 これは明らかですか。 どうぞ、これはとても重要です。 なぜなら、私たちはみんな、こうも学識があり、 私たちは、こうも多く読書してきたか、多く言われてきたので、 私たちは、何をすべきかを言ってもらうために、他人に依存するからです - どう赤ちゃんに食べさせるのか、どう歩くのか、どう走るのかを、です。 よろしいですか。彼らは、あなたにあらゆることを、言います。 私たち、不幸な人間は、受諾して、 わずかに抵抗しますが、順応します。 語り手は、これらの書物をどれも、読みませんが、 他の教授たち、心理学者と科学者たちへ 大変多く話してきたし、 自分の頭脳の活動を観察してきました。 すなわち、頭脳、頭脳の活動は、反応、応答です。 感覚的な応答、衝撃 - よろしいですか - それらです。 観察するのです。 受け売りではなく、実際に、です。 そのときあなたは、とてつもない活力を、持ちます。 悪さをするためではなく、頭脳のとてつもない活力です。
38:14 で、私たちが言っていることは、こうです - 頭脳は、時の中で進化してきたし、それは、危機は解消されるだろうと、 時ということに立って、考えられるだけなので、 「解消されるだろう」という言葉を使った瞬間、 あなたはすでに、時ということに立って考えています。 これに付いてこられるのかどうか、私は知りません。いいですか。 で、あなたと私は、ともに話し合いましょう。
38:56 私たちは、こう言っています - 時をとおして養成されてきた頭脳のこの活動は、 あなたが危機に向き合うとき、壊されうるし、 観念、概念、欲望より自由でありえます - 「私たちは最終的に、それを変化させるだろう」とのそれより、です。 この点に、付いてこられますか。
39:30 で、この葛藤の問いについて、ともに話し合う中で、 私たちは訊ねています - 葛藤は、即時に終わらせられますか。 そうならない瞬間、 それを即時に終わらせる切迫性を、持たないとき、 あなたは、時に入るのです。 ヴザヴェ・コンプリ?これを理解されましたか。 で、私たちは今、ともに葛藤について、考えています - 「それは、最終的に、次第に終わるだろう」 ということに立って、考えていません。 それをお分かりになるのか、私は知りません。 どうぞ、これを理解してください。 で、危機の切迫性こそが、時を終わらせます。 これがお分かりになるのかどうかと、思われます。 あなたは、頭脳の様式を壊したのです。 私たちが話していながら、あなたは、こうしていますか。 または、あなたはただ、或る種の話を観念として、聞いているだけですか。 理解できますか。
41:04 さて、ちょっと待ってください。 私は、このように表すでしょう - 危機は、あなたの精神に、あなたの心に、あなたの振るまいに、ありますか。 それは、観念ですか、現実ですか。 質問を理解されますか。 それは、言語的にあなたへ提示されてきた概念ですか。 そして、あなたは、その概念を受け入れるので、それは、観念になる。 ところが、それの叙述こその中に、 あなた自身の観察の事実が、ありますか。 これをご覧になるのかどうかと、思われます。 すなわち、それは、私たちの間で進んでいますか。 それは観念、概念ですか - 時の概念、 それを壊せるとの概念ですか。 で、そのときあなたは、訊ねるでしょう - それは、いかに達成されることになるのか、と。 またもやそれは、時をまたもや認める過程です。 これらがお分かりになるのかどうかと、思われます。
42:21 そうね、例を取ってください。 語り手は個人的に、例を取るのが好きではありません。 それらは、かなり安易な抜け道です - 私たち人間は、暴力的です。 それは、世界中で立証されてきました。 それは明白です。 暴力は、遺伝的に由来しました - 古代より、動物からなどなどです。 で、私たちは、本性により、私たちの振るまいにより、 きわめて自己中心的で、暴力的なのです。 私たちは、暴力は即時に終わらされないと、言います - ゆえに、私たちは非暴力を追求しなければならない、と。 これに付いてきておられますか。 非暴力は、観念です。 それは、事実ではありません。 これがお分かりになるのかどうかと、思われます。 事実は何なのか。 私がいう事実とは、 実際に起きつつあること、という意味です。それは、暴力です。 あなたは今、暴力的でないかもしれません。 すてきな天気の中、樹々のもとに座って、などです。 ですが、事実は、人間たちは、あなたは暴力的である、ということです。 時をとおして進化してきた私たちの頭脳は、 化学的に自体を保護しているなどなどですが、 それに条件づけられていて、「私は最終的にそれを取り除こう」と言います。 で、理論家、神学者、司祭者、 これらすべての人々は - 私たちは最終的にそれを取り除くだろうと、 私たちもまた、言ってきたからです。よろしいですか。 ところが、観念ではなく、事実を取り扱っているだけなら、 そのときあなたは、何かを即時にできます。お分かりですか。 そうね、ギリシャ語の「観念(イデア)」という言葉は、観察することを、意味しています。 よろしいですか。単に観察する - 観察をとおして、観察されたものより 抽象化するのではなくて、です。 理解されますか。これらに付いてきておられるのかどうかと、思われます。 そうね、私たちが一般的にすることは、こうです - 私たちは、何かを観察するとき、即時にそれを抽象化して観念にします。 それから、その観念を実行しようとします。 で、観念を実行することは、極端に困難になります。 それで、葛藤があります。 ところが、実際に起きつつあることを観察しているだけなら、 あなたは、それを取り扱えます - 時の脈絡において、ではなく、 そこから動く必要性において、です。 これらに付いてきておられるのかどうかと、思われます。 付いてこられないなら、私たちは進みましょう! 少なくとも、私たちの幾人かは、そうするでしょう。
46:29 で、ともに私たちは、この葛藤が終わることについて、考えています。 明後日や来週ではなく、即時に、です。 すみません。 すみません。私は、昨夜、シュトラウスさんの話を、聞いていました。 すみません。 それは、彼の上司です。 彼は、出版関係者です。 私は昨夜、彼の話を聞いていました。 で、私たちは、これを理解するなら、ともに考えましょう。 問題とは何ですか。 なぜなら、問題を理解する中で、 答えは、問題にあるからです - 問題の外側には、ありません。 これを理解されますか。 ところが、私たちは、「それは問題の外側にある」と言います。 「答えは、どうやら、他のどこかにあるだろう 問題自体に、ではない」と。 いいですか? 私たちは、ともに進めますか。どうぞ。
48:17 で、問題とは何ですか。 問題は、見たところ - 社会は、それを創り出してきた人間たちが 自身を変化させるとき、変化させられるだけです。 それが、本当の問題です。 問題の本当の核心です。 ですね? 社会は、腐敗しています。それは不道徳です。醜いです。 不正義、残忍さがあります。 豊かな者と貧しい者- よろしいですか - それらです。 社会は、人間たちが創り出してきたのです。 神ではなく、何か外側の機関ではない。 人間たちが、それを創り出してきたのです。 分割を創り出してきた - 民族的な分割、 宗教的な分割、経済的な分割などなどを、です。 私たち人間、人類が、それを創り出してきたのです。 人類が- 私たちはその部分です - 根源的に変化しないのなら、 健康的で、健全で、理性的な社会を、もたらせません。いいですか? 唯物論者は、これを受け入れないでしょう。 彼らは言います - 「環境を変化させなさい。 そのとき人は変化する」と。 それは、全体主義的な態度です。 それは、彼らの全体的な、歴史的な実験的な接近法です - 「社会を変化させなさい。 法律、規則を作りなさい。 制御しなさい、思考を統制しなさい。 彼らを自由にさせるな。 それを変化させなさい。 人もまた、純粋に物質的であり、 そのとき人は変化するだろう」と。 いいですか? 私たちが言っていることは、全然違っています。 すなわち、人類が、社会を創り出してきました。 人類が、一人一人が、人間たちが、変化しないのなら、 社会は変化できません。 それは、全体主義世界で、証明されつつあります。 それらの国家の中で、あなたは、 智恵があればあるほど、それらに反逆します。 それであなたは、強制収容所へ送られるのか、 あるいは、国から追放されるのか、です。
51:35 それで、危機は、それです。 さて、私たちの一人一人は、どのように - どうか、これを、二、三分の間、聞いてください。 私たちの一人一人は、どのように、この危機に接近しますか。 理解されますか。人間たちが社会を創り出してきた - 社会はそれ自体では変化できない、というこの事実に、接近する。 社会は、人間たちの一部です。 人間たちが根源的に変化しないのなら、社会は変化できません。 それが、私たちの問題の本当の核心です。 あなたは、どのようにそこへ来ますか。 理解されますか。それは、精神上の合理的な結論ですか。 あなたが観察した後で到った、抽象概念ですか。 または、これは事実です。 違いがお分かりですか。 それは、概念、観念ですか。 事実ですか - あなたにとって、です。 それは概念であるなら、 何が起きるかを、見てください。 概念は単に、結論です - 利巧にとか、智恵なくとか、 理性的にとか、非理性的に由来したのです。 社会は変化させられない、人間たちは変化させられない、 だから友好的に続けていこう、との結論だけです。 こう言っている人々が、います - 人間たちは、こうも条件づけられている。 その条件づけは、変化させられなくて、それを少しましにできる、と。 あなたは、その集団を知っています。 その傾向、それらを知っています。
53:43 で、私たちは、お互いに訊ねています - それは観念ですか。なぜなら、私たちは、言われてきたからです。 または、それは、あなた自身にとって、事実ですか。 違いが分かりますか。 それが、他の人から与えられたのではなく、あなた自身にとって、事実であるとき、 あなたは、それを取り扱わなくてはいけません。 すなわち、あなたは、痛みを持つとき、それを取り扱うのです。 あなたは、歯が痛いとき、即時に何かをします。 しかし、歯が痛いのが観念であるなら、 あなたは、「まあ、おそらく先送りしよう」と、言います。 いいえ、笑わないで、それの合理性を見てください。
54:44 それにより、もう一つの点が、出てきます。 科学者たちは、人間たちは理性的であると、考えます。 ですが、彼らはそうではありません。 理解されますか。 事実は、人間たちが非理性的であることです。 ですが、人間たちは理性的であるとの概念が、あります。 私たちは、私たちがそうであるとのその概念に沿って、生きます。 で、私たちは、けっして理性的ではない。 これに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。
55:34 何時でしょうか。 私たちは、毎日、次の二週間、 この問いについて、継続するでしょう。 それが事実であるなら、あなたはどのように構想しますか。 いや、あなたはどのように、その事実を見つめますか。理解されますか。 あなたは、どのように、事実へ来ますか。 で、事実への接近が、大事です。 あなたの接近は、理性的ですか、非理性的ですか。 あなたの接近は、悲観的ですか、楽観的ですか。 あなたの接近は、望み、欲望などに、基づいていますか。 そうであるなら、あなたの接近は すでに、指令されていました。 ゆえに、あなたは自由に、事実を観察できません。 これらに付いてきておられますか。 お分かりですか - これは、尋常でなく困難です。 これは、あなたが遊び戯れることではありません。 これは、あなたの生に関連しています。 他の誰かの理論ではありません - どれほど利巧でも、どれほど古(いにしえ)でも、 どれほどいわゆる宗教的でも、です。 それは、あなたの生です。 あなたは自らの生に、どのように接近しますか。質問を理解されますか。 あなたの接近は、あなたの教育に沿って、条件づけられていますか。 私たちが進むにつれて、それを検討なさってください。 あなたの社会的な地位に沿って、ですか。 あなたの即時の要求に沿って、ですか。 または、あなたの接近は、 イエスやブッダや誰かへのあなたの信念に、基づいていますか。 すなわち、あなたの問題への接近は、想像上ですか。理解されますか。 なぜなら、私たちは、イメージをもって、生きるからです。 私は、このことを、錯綜させたくありません。 私たちの生全体が、イメージをとおして、形成されます。 私たちの宗教すべてが、イメージです - 手で作ったのか、あるいは、精神で作ったのか、ですが、 それらはイメージです。そのとき私たちは、それらを崇拝します。 それを私たちは、すばらしく宗教的だと考えますが、それは白痴的です。
59:07 で、私たちの接近は、 私たちの結論から、私たちの経験から、 私たちの知識から、自由ですか。 それは、私たちの経験から、私たちの知識からであるなら、 あなたは、すでに問題に、答えたのです - それは、時に沿ってに、なるでしょう。よろしいですか。 それは、あなたの条件づけに沿ってに、なるでしょう。 ですが、あなたが、自由にそれへ来て、観察するなら、 即時の行為が、あります。 今日はそれで十分だと、思います。 そうでないですか。
1:00:02 なぜなら、思うのですが・・・ この注意をもって一時間を過ごすことは - たぶんあなたは、それに慣れていないからです。 あなたたちは、疲れます。 あなたたちの精神は、彷徨っています。 あなたは、十分に集中していません。 で、一時間の後で止めて、 火曜日と木曜日と土曜日に、継続しましょう。 ああ、もちろん、明日ですね。 明日、私たちは、これを継続するでしょう。いいですね?