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OJ80T2 - 観察は、分析の全的な拒否である
第2回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1980年5月4日



0:37 みなさんは、なぜここにおられるのかと、思われます。 私たちは、これは娯楽ではないことを 考慮すべきだと、私は思うのです - これは、何か日曜日の朝や土曜日の午後に 娯楽として楽しむため、刺激されるため、話をされるために、 行くものではない、ということを、です。 私たちが昨日、指摘しましたように、 私たちは、自らが直面する問題を、大変多く持っています - 政治的、宗教的、経済的、社会的、 そしてまた、個人的な問題をも、です。 そして、私たちのほとんどは、どの種類の権威からも、自由ではありません - 宗教的、心理的、社会的なものから、です。 見たところ、私たちは、 自分自身に責任を持つ能力を、なくしています。 心理学者、科学者、説教師、司祭者、 宗教的組織が、私たちに、何をすべきかを、語ります。 幸いに、インドの導師たちはもはや、 この国で好評ではありません。 あの波は、過ぎ去ってしまいました。 あまりに熱心に、語ってくる人々が、います - 覚りとは何なのか、いかにそれに到るべきか、 どう冥想すべきか、何をすべきか、などなどなどを、です。
3:17 ここで私たちは、その種のことを、何もしていません。 語り手は、本気でそう言っています。 ここで、あなたは真剣であるなら、私たちは、ともに考えています - それは、あなたが、語り手の言うことを受け入れる、という意味ではありません。 それは、あなたが自分の特定の視点を、自分の特定の経験を、持っていて、 それに取りすがる、という意味ではありません。 そのとき、ともに考えることは、まったく不可能になります。 世界が何であるかを、見ると、それは絶対的に必要です - 全くの混乱、テロ行為、誘拐。 社会はどう営まれるべきかのイメージをもった 全体主義諸国と、 自らのイメージをもった他方もまた、 この事柄について、きわめて明らかです。
4:47 それで、世界は大きな危機にあることを、 どの先入観もなく、観察すると、 その危機には、答えなければなりません。 人間たちが、この危機を、創り出してきました - 自らの生により、自らの信念により、自らの偏狭な態度により、 自らのいわゆる個人主義的な自由によって、です。 それは、もはや自由ではなく、制御されています。 私たちが世界に、この葛藤、抗争を、創り出してきました。 あなたたちのほとんどが、観察してきたのなら、 きっとその事実を、認識するだろうと、私は思います。 すなわち、社会は、人間の貪欲、 人間の振るまい、人間の幻想によって、 生じてきたのです - きわめて多くのイメージをもち、 民族主義的な分割、宗教的な固執をもち、 何か教理、信念、教義、 儀式を、受け入れて、です。 それで、世界中で、一連の戦争、 葛藤、抗争、残虐、残忍なことなどが、あったのです。
6:37 私たちが昨日、言いましたように、 「この問題を本当に解決しよう」と言う人々は、 ほとんどいません - 人と人との間、 人間たちの間の葛藤、抗争の問題を、です。 この葛藤、抗争には、多くの説明が、あります。 幾つかは歴史的で、幾つかは事実により、幾つかは想像上で、 幾つかは、彼らの概念、イメージなどに、基づいています。 ですが、語り手が、観察する、と言うとき、彼は分析していません。 どうぞ、その点は、きわめて明らかにしましょう。
7:37 分析、特に心理分析は、共産主義のように、 私たちの生における不幸な出来事です。 いいですか。 どうぞ、私が指摘してもいいなら、語り手が言うことですが、 彼に苛立たないでください。 彼に怒らないでください。 爆弾を投げないで、銃撃しないで、 それをともに話し合いましょう。 なぜなら、生はとても複雑であり、 私たちがそれを究明すること、 私たちがそれを見つめることを必要とするからです。 あなたは、見えるものが好きでないかもしれません。 あなたはそれに、不同意するかもしれません。 あなたは、「あなたが言っていることは戯言だ」と、言うかもしれません。 または、怒って、それに反論するかもしれませんが、 私たちは初めに、単に、何が起きつつあるかを、観察しています。 その観察の中、分析はいかなる所をも、持ちません。
9:18 私たちは、それに入るでしょう。 どうぞ辛抱してください。 あなたは本当に真剣であるなら、 一つの講話に出席するだけで、「私はそれを理解した」とか 「彼は戯言を話している」とか言って、立ち去らないでください。 あなたは、全体を聞かなくてはいけません。 書物全体を読まなくてはいけません。 コマーシャルの人々が言うように、 あなたは、箱買いをしなくてはいけません! その一部分だけではない - それは、あなたに合っているかもしれないし、 心地よいかもしれませんが、 あなたは、買わなくてはいけません - 不幸な言葉ですが、それを使っていいなら - あなたは、全部を買わなくてはいけません。 で、どうぞ、あなたは真剣であるなら、 講話すべてに出席し、まさにその終わりまで、行ってください。 これは、もっと多くの人々に来てもらうための、招待ではありません。 ただ、真剣な人物は、物語全体を聞き、 書物全体を読まなくてはいけません。 そのとき、それが正しいか、真実か、偽りか、幻影なのかを、見るのです。 が、ただ、第1ページ、または第1章を読み、「それはすべて戯言だ」と言うだけ - それは、あなたは楽しくなくて、書物を放ってしまうかもしれません。 その書物は、あなたの生なのです。 きわめて複雑な生です。 あなたは、これを読む辛抱、誠実さ、観察と 責任を、持たなくてはいけません - 自分の書物、すなわち、あなた自身を、です。 完全に、徹底的に、全体として、です。 それで、私たちは、その書物を乗り越えられるように、です - あなた自身である書物を、です。
11:45 で、私たちが言っていましたように、世界は、葛藤の中にあります。 世界は、経済的、社会的、宗教的、政治的、社会的なものですが、 それは、すべての人間たちにより、創り出されます - この国でも、ヨーロッパでも、インドなどでも、です。 私たちは、それに責任があります。 わずかな人々、知識人、心理学者、 心理生物学者、科学者たちは、 「人間の葛藤のこの問題を解決しよう」と、言ってきました。 私たちは、職業的専門家ではなく、 私たちはただ、普通の人間です - 自分たちのすべての心配、恐れ、楽しみ、悲しみ、死の恐れなどを、 もっています。私たちは、それらを解消しなくてはなりません。 私たちがそれらを解消することが、ますます必要になります。 さもないと、人間たちは、互いに破壊しあうでしょう。 これは、またもや、実際に進んでいる事実です。
13:30 で、私たちがともに、問題について考えることが、必要です。 ともに考えるとは、あなたと語り手が、 自分の特定の狭い地域的な、偏狭な態度、信念、教義、経験から、 自由でなければならない、という含意です。 - それで、私たちが互いに出会えるように、です。 で、問題は何でしょうか。 私たちは、昨日訊ねたように、今日、再び、それを訊ねています - 問題とは何ですか。 問題は本質的に、私たちの意識における危機です。 私たちの精神における、私たちの頭脳における、 私たちの心における危機です。 それが、事態の核心です。 私たちがまた、昨日、言いましたように、 そして、あなたが、そのことが反復されるのを、気になさらないことを、望みますが、 私たちの頭脳は、私たちの存在すべての中心ですが、 私たちの頭脳は、時をとおして進化してきました - 幾百万に幾百万の年をかけて、です。 それらの年をとおして、それは、自体で、 あらゆる形の自己保護的な装置を、創り出してきました。 心理学者と脳の専門家たちが話すことを、 単に反復するのではなく、 あなた自身がそれに入るなら、それはいつも、 安全を探し求めてきました。 さもないと、それは機能できません。 ですね? それは、安全を持たなければなりません。 で、それは、イメージを創り出しはじめます。 それは、幻影を創り出しはじめます - その中に、それは安心を得るのです。 で、それは、一定の存在の様式を、自体で、創り出してきました - それが、私たちの生です。 それは、時をとおして発達してきました。 ゆえに、知識を取得し、その知識を使うという、この問いが、 いつも、あるのです - 生において安全であるために、です。 これらに付いてきておられることを、望みます。
16:43 なぜなら、結局のところ、知識は、 私たちの生の中で、最も重要な要因であるからです - 幾つかのテクノロジー的な活動に関する知識、 心理について、私たち自身についての知識が、です。 その知識は、幾千年をかけて取得されてきて、 頭脳に蓄えられています - すべての細胞などをもった頭脳に、です。 私たちが昨日、言いましたように、語り手は、これらの書物を どれも、読んだことがありません - ありがたい! 彼は、人間たちの活動、自分の頭脳の活動を、観察してきました。 すなわち、反応を観察することをとおして、です - 楽しめるもの、痛いもの、敏感なもの、などなどを、です。 で、それは、直接的な知覚です。 受け売りで取得されていません。 これは、私たちの互いとの意思疎通において、重要です。
18:16 で、この頭脳は、ものすごい知識を取得してきました。 で、それは、完全に安全でなくてはなりません。 その知識が、幻影でも、現実でも、 空想的でも、想像上でも、楽しめる、などであっても、 それは、自体のために、存在の様式を、創り出してきたのです - 自らが、物理的にも、心理的にも、 けっして害されず、傷つかないように、です。 これを理解することは、重要です。 なぜなら、私たちは、イメージをもって、生きるからです。 私たちの宗教は、精神により、思考により 創り出されたイメージに、他なりません。 そして、聖なるイメージとして、創り出されてきたものですが、 そのとき、あなたは、それを崇拝しはじめます。 ですが、それは、本質的に欲望、必要性です - 自らが安全であるため、安心であるため、保護されるために、です。 ですが、知識にはいつも、無知が同行します。 いいですか? なぜなら、知識は、けっして完全ではありえないからです。 どうぞ、これの重要性を見てください。 知識は、けっして、完全ではありえません。 あなたは、世界について、物質について、天空について、 大変な情報を、取得するかもしれません - 霊的な天国ではない。 私は、そういう意味で言っていません。 天空、空、宇宙について、です。 ですが、科学がいかなる知識を取得してきて、 幾世代をとおして伝承してきても、 それは、やはり無知の区域の中、 陰の区域の中に、ある - 無知識である陰の、です。
21:00 で、私たちがしてきたことを、見てください - いかに頭脳が自体をごまかして、 知識の中の安全へ誘い込んできて、 その知識に取りすがるのか、です。 けれども、それは、知識がけっして完全でありえないことを、 けっして自体で発見したことがありません - ゆえに、その知識より起きる、いかなる行為も、 不完全であるにちがいないことを、です。 これらに付いてきておられることを、望みます。 どうぞ、私たちは、知識人ではありません。 知能には、自らの所が、あります。 知性の能力は、観察する、区別する、判別することです。 が、その知能が生の全体になるなら - 今、そうなりつつあり、 生の平野全体を覆いつつあるように、です。 すなわち、一部分 - すなわち、知能は、人間存在の全体の一部分です - ですが、一部分が最高の重要性を、帯びるとき、 必然的にすべての行為は、断片化して、不完全であり、 ゆえに、葛藤であるにちがいないのです。 これらに付いてきておられることを、望みます。 いいですか。 進んでもいいですか。 いえ、私は進めますが、私たちが言いましたように、私たちは、ともに考えています。 なぜなら、語り手は、あなたに、何をも売っていないからです - ありがたい! 彼はあなたに、自分へ従うよう頼んでいません - それら戯けたことを、です。 語り手は、「世界は、こんなに悲惨、混乱、騒動の中に、ある。 後生ですから、ともに考えましょう」と、言います。 ともに考えるとは、私たちが自由に観察できなければならない、という含意です。 私が観察し、あなたに語るのではない。 または、あなたが観察し、「ああ、あなたはそれを適切に見ない」と言うのではない。 ともに観察するのです。 いいですか?
23:46 私たちが言いましたように、分析は、観察において、何の所も持ちません。 分析は、原因と結果の発見です。 ですね? だいじょうぶです - 鳥です。 おそらく、それは、私たちを好きなんでしょう! どうぞ、これを理解し、気をつけて、それに入ってください。 なぜなら、観察は、分析より全然違っているからです。 観察は即時です。 あなたは、樹を見ます。 ですが、あなたは、分析しはじめるなら、けっして樹を見ません。 いいですか?これを理解してください。 すなわち、観察するとは、見る、敏感であり、気づく、 という意味です - 何の思考の動きもなしに、です。 ただ観察する。 どうですか・・・いいですか。 私はゆっくり進んでいます。 私が「思考なく」と言ったとき、 私はそれに入ろうとしています。 辛抱してください。
25:36 それで観察は、分析ではありません。 分析は、自分自身の外側の何かを、 分析している分析者を、含意しています。 分析者は、自分は理解する、 優れた知識を持っていると、考えます - 自分は、自分自身の外側の何かを、分析している、と。 ですが、あなたがよく気をつけて観察するなら、 分析者は、分析されるものです。 いいですか? これに付いてこられますか。 あなたは、それが見えるなら - 観念としてではなく、事実として、です。 理解できますか。 怒りが、あなたより異なっていないように、です。あなたが怒りです。 すみません。私は、気をつけようと、言いました。 あなたが怒っているとき、怒りの瞬間に、 私と怒りとの間に、分割は、ありません。 ですが、後に、数秒後に、あなたは、「私は怒っていた」と言います。 で、あなたは、怒りと呼んできたその反応より、 自分自身を分離したのです。 それで、同じように、あなたが自分自身を分析するとき、 または、他の人により分析されるとき、 分析者は、分析の一部です。 彼が分析しているものの一部です。 それは、分析されるものより、分離していません。いいですね? どうぞ、これを理解してください。 ご自身において、それに入ってください - 私たちが話をしているときに、です。 これが、ともに考えることです。 私は - 語り手は、あなたに、何を考えるべきかを、語っていません。 それが、一般的に、人々がすることです - 大学教授、分析者、説教師、 その他すべてが、です。 私たちは、そうしていません。 私たちが言っていることは、分析者と分析されるものとの間に、 分割があるかぎり、葛藤があるにちがいない、ということです。 いいですか? ですが、それは、幻影です。 それは、事実ではない。 事実は、観察者は観察されるものである、ということです - 心理的に、です。いいですか? 私はあの樹を観察します。 しかし、その樹は私ではないし、 私はその樹ではありませんが、心理的に、内的に、 怒り、貪欲、嫉妬の反応は、私です。 私は、それより分離していませんが、 私たちは、それを分離してきました- それについて、何かをするため、です。 ヴザヴェ・コンプリ?つまり、理解されますか。 私は、暴力を感じます。私は、非暴力の観念を、創造します。 私は、暴力について、何かをするでしょう。 ですが、事実は、私が暴力である、ということです。 私は、その事実より異なっていません。 そのとき、全然違った動きが、起こります。 理解されますか。 あなたが理解なさるのかどうかと、思われます。
29:59 私たちは今、葛藤を消去するように、ともに考えています。 理解されますか。 心理的に、観察者、分析者と 分析されるものとの間に、分割があるかぎり、 葛藤があるにちがいないのです。 人々の間に分割があるかぎり、葛藤があるにちがいない - 宗教的、経済的、社会的、政治的に、です。 ユダヤ人があるかぎり、葛藤が、あるにちがいない。 アラブ人があるかぎり、葛藤が、あるにちがいない。 で、どこでも心理的に分割があるところ、 葛藤があるにちがいない。 それは法則です。
30:49 で、ともに考えるなかで、私たちは、どこでも分析が、 心理分析、心理療法、それらがあるところ、その過程には、 分割があることが、見えます - それは、葛藤を生み育てるにちがいありません。 忘れてしまいました!(笑) 観察することは、分析の全的な拒否です。 これを理解なさるのかどうかと、思われます。 私たちの条件づけ全体が、分析することです。 いいですか? 私たちの教育、あらゆる物事が、するか、しないか、 これは正しい、これは間違い、これはあるべきだ、 これはあるべきでない、などなどなどです。 そして、近頃、ここ百年に、心理分析の過程が、生じてきました - 共産主義のように、です。それらはどちらも、不幸な出来事です。 なぜなら、本当は、観察するなら、どちらも同じであるからです。 私は今、それに入らないでしょう。 それは、あまりに長すぎます。 彼らは、歴史を分析してきて、或る結論に、到ったのです。 よろしいですか - 歴史的な結論です。 それに沿って、彼らは、様式、理論を、築いてきました - それらのイメージとともに、それらの分析された状態とともに、です。 そして、全体主義を創り出したのです。 心理学者は、自らの分析などなどをもって、 違った分野に、同じ様式を創り出してきました。 あなたはそれをお分かりにならないが、それは構いません。
33:03 で、私たちが言っていることは、ともに観察しよう、ということです。 さて、葛藤を観察します。 いいですか? で、葛藤とは何ですか。 さて、あなたはどのように、葛藤を観察しますか。 質問を理解されますか。 あなたは人間として、 私に、語り手にそう言うのを許してくださるなら、 あなたは、人間として葛藤の中にいます。 あなたが、それに気づいていても、あなたが、それを放置してきていても、 あなたが、それを見たくなくても、あなたが、神か誰かが自分を 救ってくれるだろうと考えても、あなたは本質的に、葛藤の中にいます。 昨日、私たちが言いましたように、 あなたはどのように、この問題に接近しますか。理解されますか。 あなたはどのように、問題を見つめますか。 すなわち、あなたはどのように、それへ来ますか。 どのように、それを見つめますか。 どのように、それに接近しますか。 どのように、それを観察しますか。 そうですね、私たちは、ともに話し合っています。 私はあなたに、それをどう観察するかを、語っていません。 私は、あなたに訊ねているだけです。 あなたはどのように、それに来るのか、 あなたはどのように、それを受け取るのか、 あなたはどのように、それを見つめるのか、です。 あなたは、観察するか、気づいているなら - あなたは、この葛藤に何の選択もなく、気づいていますか。 選択なき気づき。 理解されますか。 または、この葛藤に気づいて、あなたは、 「私はそれを解消しなければならない」と言いますか。理解されますか。 「私はそれを解消しなければならない」と言うとき、 あなたはすでに、事実より自分自身を分離したのです。 それがお分かりになるのかどうかと、思われます。 付いてきておられますか - あなたたちの何人かは? さあ、みなさん、動きましょう! どうぞ、私たちはともに考えています。 ともにのみ、私たちは、この問題を解消できます。 世界の他の誰も、できません。
35:58 で、問題へのあなたの接近が、尋常でなく大事です。 あなたが動機を持っているなら、その動機が、 問題が取らなければならない方向を、指令します。理解されますか。 で、あなたの接近は、動機より、自由でなければなりません。 あなたの接近は、それを解消したいとの欲望より、自由でなければなりません。 困難を見てください。 あなたの接近が、あなたの教育により、欲望により、楽しみにより、 条件づけられているなら、あなたはけっして、それを解決できません。 で、精神は、自らの動機、欲望すべてと、それを解消しようとすることより 自由であって、この問題を観察しなければなりません。 なぜなら、あなたが、問題であるからです。いいですか? 理解されましたか。 あなたが問題です。 葛藤が問題であるのではない。
37:26 いいですか? 私たちはそこから行けますか。 どうぞ、葛藤はあなたです。 私はあなたに、これを語っていません。 あなたは、自分の観察の中で、それを発見したのです。 あなたがともに考える中で、私たちは、 葛藤は外側にないとの事実を、発見したのです。 それは内側にある。そして、その葛藤は、あなたです。 あなたは、「私は神だ」とか、「誰かが私を救おうとしている」とか 言うかもしれません。 そうね、私たちは、 この種のごまかしを、幾千年もの間、やってきたのです。 理解されますか。 後生ですから、成長しましょう。
38:16 で、今、問題は、私たちの意識です。 今、理解されますか。 私たちの意識 - それは、あなたの考え方、あなたの生き方、 あなたの信じ方、あなたの反応の仕方、あなたの振るまい、 あなたの考えを、意味しています。 そのすべてが、あなたの意識です - それは、あなたの生です。 その意識は、あなたです! どうぞ、これを理解することは、本当に重要です。 二、三分間、注意を注いでください。 その意識の全体が、本質的にあなたです。 その意識の内容が、意識を作ります。理解されますか。 プロテスタントの人の意識の内容は、彼が信じていること、 彼の儀式、彼の宗教のイメージ、イエスとそれらですね。 そして、彼の民族主義的な、彼の特定の態度、意見、 彼の、他の一人との関係、彼の傷、 彼の心配、彼の悲しみです。 ですね? カトリックの人は、自らの意識の内容をもち、 ヒンドゥー教徒は、自らのをもち、仏教徒など、 アラブ人とユダヤ人、よろしいですか。 その意識は、その内容により組み立てられています。 その内容が留まるかぎり、葛藤は進んでいくにちがいありません。 この点は、分かりましたか。
40:19 この内容は、時をとおして組み立てられてきました。 それは、一日の取得ではありません。 私たちの頭脳は、時、進化の結果です。 私たちの頭脳は、あなたの頭脳と私の頭脳ではない。 人類の頭脳です。 これは、あなたが見ることが、困難です- そして認識することすらも、です。 なぜなら、私たちは、それが自分の頭脳であると、 こうも条件づけられてきているからです。理解されますか。 そして、それはあなたの頭脳である、と。 ですが、あなたが観察するなら、 あなたが観察するなら、世界中の人間たちは、 甚大な騒動、貧困、心労、不安全、 混乱を、経て行きます- 心理的に負傷し、 恐れ、物理的に傷つくことの恐れ、心理的な傷の恐れ、 死の恐れ、そして、探究- 越えて何があるのか、です。 人が、神の名において創り出してきた無数のイメージ、像。 そして、世界中で、それらイメージ、像を、崇拝すること。 それが、私たちの意識の内容です。 ですね? その内容は、いつも分割的であり、いつも断片化していますが、 それがあるかぎり、私たちの行為は、 断片化するにちがいないのです。 ですね?
42:17 私たちは、ともに考えています。 私は、あなたに語っていません。 で、そのとき問題は、こうです- その意識の内容が、 解消されることは、可能でしょうか。 理解されますか。 少しそれに入ってください。 すなわち、その意識の内容の一つは、 私たちが子どもの頃より受けてきた、心理的な傷害です。 それらをご存じでしょう。 みなさんは、それらに親しんでいます。 それはたぶん、主な葛藤の一つです。 私たちの意識の中の、主な要因です。 私たちはともに、それへ完全に入るでしょう - 私たちがともに、それを即時に解消するように、です。 理解されますか。それは、分析ではなく、純粋な観察です。 分析は、概念を、含意しています - そこからあなたが働いているものを、です。理解されますか。 よろしいですか。 観察の中に、概念はありません。
43:48 で、私たちは、ともに考えています。 人間たちは、時のまさしく始まりから、 内的に傷ついてきました - 何気ない一言により、眼差しにより、言葉により、皮肉っぽいことにより、 自分が大切にするものを、拒否されることによって、です。 あなたが自分の人生で一番重要だと考えるものですが、 誰かが来て、それを踏みにじります。 あなたは、ひどく傷ついた感じです。 ですね? 私たちは、訊ねています - その負傷の帰結は、抵抗すること、 自分自身のまわりに壁を築くことです。 それは、自分自身を孤立させることです。 これらを観察してください。 どうぞ、観察してください。 私たちは、分析していません。 私たちはただ、物語を観察しています。 傷の物語を読んでいます。読んでいる- それは、分析ではありません。 理解されますか。 さあ、いいですか?
45:15 あなたは、抵抗します。 恐れが、それに入ります - もはや傷つかないように、です。 で、次第にその傷は、あなたが 自分自身を孤立させるのを、助けてきました。いいですか。 事実を見てください。その孤立の帰結は、もっと多くの恐れ、 もっと多くの心配、などなどなどです - 帰結は、です。 で、事実は、あなたが傷ついている、ということです。 そして、傷とは何ですか。 質問を理解できますか。 傷ついているものは、何ですか。 みなさんは、これらに興味がありますか。 

聴衆: はい。
46:09 K: ともかく、それは、あなたの人生です。
46:13 あなたが興味がないのなら、残念だと思います。 傷ついているものは、何ですか。 それは、あなたの心理ですか。 それは、あなたの - 私たちは、観察しています。分析していません。観察しています - 心理ですか。または、基本的にあなたが、自分自身について、 築いてきたイメージですか。 質問を理解されますか。 自分自身について築いてきたイメージ。 私は、自分自身についてイメージを築くかもしれません - 私は偉大な人である。私は聴衆を持っているとか、何とか何とか、言って、ですね。 私は世界中を旅行する。それはいかに重要なのか、などです。 私は、或る状態に到ったのだ、と。 よろしいですか。 私は、自分自身について、イメージを築いてきました。 あなたが、自分自身についてイメージを築いてきたように、です。 私はそれを持っていませんが、それは大事なことではない。 なぜなら、子どもの頃より私は、けっしてイメージを、 ほしがらなかったからです。 それは、あまりに愚かです。
47:40 それで、自分自身についてイメージを創り出しておいて - 高貴だ、下劣だとか、劣ったとか、優ったとか、それが何でも、です。 醜い、美しい。 空想じみた装飾をもち、 ロマンチック、感傷的、と、一人一人が持っているイメージを、 ご存じですね。それが、傷つきます。ですね? それで、あなたは - どうぞ、私たちはともに話し合っています - 自らは、イメージより自由でありえますか。 そして、誰が、イメージを創り出す者ですか。 これらに付いてきておられますか。 ああ、神様。あなたは、ともに考えていませんね。 私が、あなたに語っています。 質問をしています。 それは構いません。私たちは、ともに考えています - そう望みます。
48:46 このイメージの創造者は、誰ですか。 なぜなら、そのイメージには、安心があるからです。理解されますか。 安全がある。あなたが、同一視と呼ぶだろうものが、ある - 民族的な同一視、宗教的な同一視、 経済的な同一視、民主党員、共和党員、よろしいですか。 このイメージは、子どもの頃より創り出されてきました。 いいですか? 教育などをとおして、です。 誰が、これらの創造者ですか。
49:43 私たちが言いましたように、知識は、このイメージの要因です。 ですね? あなたがこれに出会うのかどうかと、思われます。 私たちの経験は、生のすべての水準において、 大工として、科学者として、主婦 - 今、呼ばれるような家庭の築き手として、などなどなど、です。 私たちはみんな、自分自身で、イメージを創り出してきました。 そのイメージが問われ、疑われるとき - 誰かがそれにピンを突き刺すとき、あなたは傷つきます。 自分自身について、イメージを持っているかぎり、 あなたは傷つこうとしています。 「私は覚りを成就した」と言う人のように、です。よろしいですか。 彼は、覚りについて話しています。 覚りについて、説教しています。 そういう人は、覚りについて、何も知りません。 それは、彼の概念だけです。 よろしいですか。
51:05 そのとき、このイメージなしに、生を、生きることは、可能ですか - 日常生活を、です。そして、誰がこのイメージを、創り出しますか。 それは、知識の結果です。 明白です。 あなたが持っている知識 - 精神、頭脳が、幾世紀をとおして、取得してきたものです。 その知識は、イメージとして、翻訳されてきました。 そのイメージが、支配します。 ですが、そのイメージはいつも、無知の平野の中に、生きています。 それがお分かりになるのかどうかと、思われます。 なぜなら、知識はけっして、完全ではありえないからです。いいですか? で、心理的に自らが取得してきたいかなる知識も、 それは、無知の陰により包囲されています。 いいですか?で、問題は、こうです - あなたは、これらに興味がありますか。 で、問題は、こうです - 心理的な知識より自由でありながら、しかも、 テクノロジーの知識を心理的に同一視しないことは、可能ですか。 理解されますか。これをご覧になるのかどうかと、思われます。 私はそれに入るでしょう。 私たちは、二人の友として、 一緒に話し合っていています。 葛藤の問題を、探究しています そして、葛藤を終わらせることの必要性、 絶対的な切迫性を、見ています。 なぜなら、私たちはそれを終わらせないのなら、 あなたと私、語り手は、世界を破壊しようとしているからです - 今、私たちは、そうしています。
53:22 で、問いはこうです - 経験、知識、記憶。 その順序を見てください。 初めに経験。 そのとき、その経験の中から、知識を取得する - 他の人たちからか、自分自身から与えられて、です。 それは、頭脳に記憶として、蓄えられます。 ですね?その記憶、その知識、 その経験が、イメージを創り出す。 ですが、その知識は、自らが不完全であるという事実を、 けっして認知しません。 理解されますか。 それは、無知の陰に生きなければなりません - それがどれほど前進や向上をしようとも、です。ですね? それは、無知の平野にあるにちがいない。 ゆえに、葛藤の中にあるにちがいない。ですね? で、可能ですか - 自らが取得してきたその甚大な知識は - テクノロジー的な知識、 私たちが取得してきた、ものすごい知識です。 テクノロジー的に、大工として、配管工として、官僚として、 政治家などなどとして、です。 その知識が、心理により同一視されないことは、可能ですか - それで、テクノロジー的な知識は、維持されます。 付いてきておられますか。いいえ、付いてきておられませんね。
55:18 私はそれを説明しましょう。 テクノロジー的な知識は、必要です - 絶対的に、です。 なぜなら、さもないと、私たちは何もできないからです。 なぜ私たちは、心理的な知識を持つべきですか。 質問を理解されますか。 私たちは持っています。 その知識が、イメージになったのです。 そのイメージが、傷つこうとしています。 その傷から、その傷の帰結は、孤立です - もっと多くの葛藤、もっと多くの恐れ、 もっと多くの悲惨、もっと多くの破壊的な活動です。 で、私たちは、訊ねています - なぜ心理的な知識が、そもそも、あるべきですか。 理解されますか。 なぜですか。 それに入ってください。 それについて話しましょう。 それを見つめましょう。 それは恐れですか- どうぞ、聞いてください。 それは、何物でもないとの恐れですか。 付いてきていますか。 私たちの教育すべては、「何物かであれ」と言います。 いいですか? または、「何物かになれ」と - 成功を収める、尊い、勇敢だ、臆病を退ける、 神聖になる、冥想する。 よろしいですか。 で、知識すべては、純粋に、テクノロジー的です。ですね? なぜ私たちは、他方を持つべきですか。 あなたがともに考えていて、観察しているのかどうか、私は知りません。 それは、どういう意味ですか。 心理的な知識を、何も持たない。 それは、どういう意味かを、理解されますか。 自らは、その観察の中、生の全くの空っぽなことを、 発見しつつありますか。 理解されますか。 生の全くの無意味さを、です。 で、それを深く感じることが、イメージを創り出す。 そして、そのイメージに取りすがる。 これらに付いてきておられますか。 そういうことですか - なぜなら、イメージを持っていないならあなたは、何物でもないからです。 それは、何の物でもない、という意味です。理解されますか。 何物でもないとは、何の物でもない、という意味です。 すなわち、何一つ、物が、思考により、精神により創り出されない。 これらに付いてこられるのかどうかと、思われます。 いいえ、これはあまりに過ぎます。
58:39 で、そういうわけで、私たちは、傷つくことを、認知し、 それに取りすがるのですか。 - なぜなら、それは、何か私たちが持っているもの、 何か私たちが取りすがる貴重なものであるからです。 あなたの信念 - 何か宗教的な教義、 イメージなどへの信念のように、です。 あなたは、それに取りすがります。 なぜなら、それなしに、あなたは何ですか。
59:13 で、私たちは、ともに考える中で、この単純な事実を、見られますか - ありのままの私たちの生は、全く無意味であることを、です。 いいですか? あなたは進んで、それに向き合おうとしていません - 全く無意味です。 深く無意味なので、あなたは、 すべてのイメージ、信念、教義、儀式、教皇、導師を、創り出します。 そして、あなたは、傷つこうとしています。 これを見る、観察する人は、即時にそれより自由です。ですね? それをご覧になるのかどうかと、思われます。 あなたは、イメージより自由です。
1:00:13 で、次の問いは、こうです - このすべての過ちの創造者は、誰ですか。
1:00:29 何時ですか。
1:00:32 聴衆: 12時30分です。
1:00:36 K: 一時間は、とても速く過ぎ去ります。 私たちは続けましょうか。

聴衆: はい。
1:00:45 で、私たちは訊ねています - このすべての過ちの創造者は、誰ですか。 で、私たちは、よく気をつけて、それに入らなければなりません。 人は、与えてきました。 人間たちは、与えてきました - 私が人(マン)と言うとき、どうぞ、私は女(ウーマン)を含めています。 どうぞ、それについて動揺しないでください! やれまあ。言葉は、こうも荷を積んでしまったので、 私たちは、何についても、けっして自由に話せないほどです。 人間たちは、幾時代をとおして、思考に ものすごい重要性を、与えてきました。 いいですか? 思考は、戦争を創り出してきました。 思考は、教会の内容と、建築を、創り出してきました。 思考は、社会を創り出してきました。ですね? 思考は、複雑なテクノロジー世界全体を、創り出してきました。 思考は、分割を作り出してきました- アラブ人とユダヤ人の間、 アメリカ人とイギリス人、ドイツ人、イタリア人、 ヒンドゥー教徒、仏教徒の間の分割です。よろしいですか。 思考が、これを創り出してきました。 私たちは、それとともに、生きてきました - この分割と、です。 私たちはそれを、正常だ、自然だ、健康的だと、受け入れてきました。 思考が、このすべての分割を、作る者です。 ゆえに、分割があるところ、葛藤があるにちがいない。
1:03:14 私たちの意図、私たちがこれらわずかな午前に 会合するのは、葛藤を消去するためです。 どうぞ、あなたが葛藤より自由であるときだけ、 愛がありうることを、見てください。 愛について話されるこのすべての戯言ではない。 それは、すべての葛藤より、本当に 自由である精神と心だけなのです - そのときだけ、慈悲とは何か、愛とは何かを、知ることが、可能です。
1:03:56 私たちは止めたほうがいいと、思います。どうですか。 私たちが進んでいきたいのは、存じていますが、私たちはそれを、 次の土曜日にするでしょう。 または、明後日の質問の中で、です。 これは、とても複雑な問題です - それは、思考の動き全体です。 私はそれに、短く入るでしょう。 私たちは、別の時につづけるでしょう。
1:04:24 ひとたび、思考が、この分割に、宗教的なイメージに 責任があることを、観察するなら - そのイメージに、あらゆる種類の美徳などを、付与しています。 世界中で、です。 語り手は毎年、インドへ行きますが、そこへ行くとき、彼は、 「あなたたちは、地上で最も迷信深い人々です」と、言います。 彼は、ここに来るときも、またまさしく同じことを、見ます。 イメージの崇拝、説教者、導師たち - よろしいですか。 で、思考が、世界を築いてきたのです - テクノロジー的にも、 心理的にも、です - 過ち、騒乱、心配、恐れ、破壊の世界を、です。 よろしいですか。 思考が、責任があったのです。 で、私たちは、探究しなくてはなりません - 考えるとは、何ですか。 考えることの本性は、何ですか。 なぜなら、私たちは、考えることによって、生きるからです。 あなたがすることすべてが、考えることの結果です。 あなたの他の一人との関係は、親密であっても、なくても、 考える動きの中にあります。 私たちは、考えることの本性と構造を、理解しないなら、 葛藤の様式を、反復しつづけるでしょう - 一つの様式を別のへ変化させて、 その様式が葛藤を解決するだろうと望んで、ですが、 これら様式は、共産主義のでも、資本主義のでも、 民主主義のでも、等々々でも、思考により、創り出されています。 で、考えることは、とてつもなく重要になるのです。 そして、考えることが、何であるかを、見出すことが、です - 世界にこの甚大な悲惨を作っている、このものが、です。 理解されますか。
1:07:28 あなたは、何をするのでも、考えなければなりません。 あなたが家に帰ろうとしているなら、または、バスに乗ろう、 車を運転しようとしているなら、考えることが、なければなりません。 それが、自動的でも、目的を持っていても、明らかでも、です。 さもないと、あなたは、何もできません。 考えることは、私たちの存在の中心的な要因です。 それは、事実です。 そのまわりに、私たちは、 あらゆる種類の楽しみ、痛み、恐れ、愛、嫉妬を、築きます。 それが中核です。 それが、私たちの存在の核心です。 そして、考えることは、何ですか。 そして、記憶とは何ですか。 あなたは、記憶を持たないなら、考えることが、ありません。 理解できますか。 記憶喪失の状態の人は・・・ で、記憶は、その中核です。 ですね? あなたの妻や夫や彼女の記憶や、 それが何であれ、あなたは、記憶を持っています。 その記憶は、経験をとおして組み立てられます。ですね? それは、知識になります。 それで、あなたの頭脳は、頭脳は - それは、あなたのや私のではありません。 それは、人間たちの頭脳です - あなたがその事実が見えるなら、それは、すばらしいことです。 それは、あなたの些細な小さな頭脳ではない。 養成され、成長し、進化し、生きて、苦しんで、楽しみ、 痛んできた頭脳 - その頭脳は、私たちの共通の要因です。 その頭脳には、記憶を保つ細胞が、 多くあります - コンピューターのように、です。 その記憶は、経験、知識の結果です。
1:10:03 で、テクノロジーの世界では、その記憶が、絶対的に必要です。 さもないと、あなたは手紙を書けません。 さもないと、私たちは互いに英語を話せません。 あなたは、フランス語やラテン語などを知っているなら、そうするかもしれません。 それは、違った事柄です。 で、一定の水準での記憶は、絶対的に必要です。 そして、考えることは、この世界を今あるものにしてきました - 不道徳で、醜く、残虐で、破壊的に、ですが、 思考は、どんな所を持っていますか。理解されますか。 それは、テクノロジーの世界で重要なだけであるなら、 思考は、どんな所を持っていますか。 私が言っていることを、理解されますか。 理解されるのかどうか・・・ それは、そもそも所を持っていますか。 いいえ。私たちは、ともに考えています。 同意や不同意をしないでください。
1:11:22 さあ - 私は止めなければなりません。 私たちは、つづけるでしょう。 私は、一分間で止めるでしょう。
1:11:32 あなたもまた、私とともに働いていますか。 あなたは、疲れていませんか。 いいえ。あなたは、話をしていないから、疲れていません。 あなたはそれに、ものすごい活力を注いでいません。ですね? あなたはそれに、自らのすべてのエネルギー、心、精神を、注いでいません。 そういうわけで、あなたは疲れていないのです。 あなたにとって、葛藤は自然であるから、 あなたはそれを、受け入れてきました。 あなたは、それを壊したくない、解消したくないのです。 で、あなたが構わないのなら、私たちは明日、継続するでしょう 明日ではない。それがいつであっても、です。