Krishnamurti Subtitles home


OJ80T3 - 心理的に何かを終わらせるには、時が必要なのか
第3回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1980年5月10日



0:34 先の日曜日に止めたところから、継続してもいいですか。 おそらく、あなたたちの幾らかは、ここにいませんでした。 で、私たちは、自分たちが言っていたことを、 再び、少し短く調べなくてはいけません。
1:07 私たちは長年の間、言ってきました - 社会は、とうてい変化させられない・・・ 大きな動乱の中にあり、腐敗している社会 - そこには、戦争があり、 人間たちの間に、大変多くの闘争が、あります。 人間たちが、それを創り出してきたのであり、 彼らが自分自身に、根本的な変化をもたらすのでなければ、 その社会は、とうてい変化させられないのです。 これが、私たちが言ってきたことです。 私たちは、それについて、もう少し説明しなければなりません。
2:15 が、どうぞ、これは、娯楽のための集会ではありません。 これは、精神的に、知的にとか、ロマンチックに刺激されるための、 人々の集まる会合ではありません。 私たちは、この問題に向き合うためにここにいます - そう願います。 すなわち、この甚大な混乱、過ち、大きな危険に、です。 それらに、人間たちは向き合っています。 とても深くそれに入るには、私たちは、問題について、 ともに考えなければなりません。
3:20 私たちは、矛盾した意見を、持っているなら、 とうてい、ともに考えられません - もし、私たちが、自分の特定の結論や信念に、繋留されているか、 何か空想的とか、ロマンチックな経験に、取りすがるなら、です。 なぜなら、この問題は、人類すべてが、向き合うからです。 あなたがどこに行こうとも - あなたが旅行をしてきたなら、ですが - 観光客としてではありません。 あなたは、どこに行こうとも、同じ問題を見つけるでしょう - 人と対立する人、混乱、恐れ、(統合された)誠実さの欠如、です。 科学者、心理学者はどうやら、この問題を 解消できるように、思われません。 また政治家も、制度、施設もです。 それらが、宗教的でも、政治的でも、社会的でも、です。
5:02 で、私たちが、そもそも真剣であり、関心を持っているなら、 その社会を創り出してきた私たち人間が - そして、私たちは、世界で起きつつあることすべてに、 責任があるのです - 動物へ、人間へのおぞましい残酷さ、 過去の宗教的な拷問などに、です。 私たちが、それらを創り出してきました。 それを理解するには - 単に知的にではなく、 本当に、それに向き合うのです。
6:03 私たちが問題について、ともに考えられることを、望んでいます。 すなわち、自分が特定の視点を持っていて、 別の人は、自分の意見を保っているなら、 ともに考えることは、不可能です。 あなたが、先入観を持っていて、 語り手が、特定の視点を持っているなら、 私たちはとうてい、ともに考えられません。 ともに考えるとは、同意する、というのではなく、 むしろともに、人間たち、二人の人間として、という意味です - アメリカ人とヒンドゥー教徒とそれらの事柄ではなく、 この問題に、直面している 二人の人間、です。 人間たちが、この怖ろしい社会を 創り出してきたという問題に、です。 人間として私たちは、 根本的に、自分自身を、変化させなくてはいけません。 それは、可能ですか。 人間精神にとって、それは、可能ですか - その精神は、幾千年に幾千年も、 時を経て進化してきて、 大変多くの経験、苦しみ、多くの衝突の出来事、 戦争を、経てきました。 人間のこの精神、この頭脳は、 あなたのや私のではありません。 五百万年か一千万年、進化してきた頭脳。 それは、人間の頭脳です。 特定の頭脳ではありません。 ですが、私たちはそれを、特定の頭脳に、還元してきました。 私のと、あなたのに、ですが、よく気をつけて、 それを検討するなら、この頭脳は、時をかけて進化してきましたが、 これは、人類の頭脳であることを、見つけるでしょう。 どうぞ、それを拒絶したり、受け入れたりしないで、 それを検討し、見つめてください。 なぜなら、私たちのこの頭脳は、苦しむし、心配し、さびしく、 怯えていて、常なる楽しみを追求しているからです。 この頭脳は、特定の様式に、生きてきました。 この様式は、何度も何度も何度も、 世界中で、反復されます - それらが、仏教のでも、ヒンドゥー教のでも、共産主義のでも、 カトリックでも、何であっても、あなたが何をしようとも、です。
9:59 で、それは、あなたの頭脳や、 特定の個人の頭脳ではない。 それは、人類の頭脳です。 その頭脳は、様々な様式で、機能してきたのです - 恐れの様式、楽しみの様式と、褒賞や処罰です。 それが様式です。これら幾千年をとおして、ずっと それは、発達してきたのです。 また一連の楽しめる様式や、 恐れ、信念などの様式を、もたらさないで、 これらすべての様式を乗り越えることは、可能ですか。 さもないと、根本的な変化は、ありません。 心理的な革命は、ありません。 これを理解することは、重要であると、思います。
11:33 またもや、どうぞ、 あなたは、誰か見知らぬ人物による講話を、聞いていません。 私たちはともに、考えていて、問題を探究しています。 で、あなたは、それに付いてきてくださるなら、 あなたは、どの権威をも受け入れていません。 私たちは、どんな宣伝もしていないし、 あなたに何をも納得させようとしていません。 ですが、問題を見る- それは、とても複雑です - その問題を見つめる、その問題に向き合い、 ともにその問題を探究する。 問題への探究は、分析ではありません - 因、果、と。 探究は・・・ 探究は、論争ではない - 一つの意見を別の意見に、 一つの先入観を別のに、対立させることではない。 探究は、観察という意味合いです。 観察があるところ、分析はありません。 あなたが観察するとき、すなわち、恐れなく、 自分の特定の先入観や体質なく、観察するとき、 その観察の中、分析は終わります。 私たちがともに、こうしているのを、望みます。
14:13 すなわち、あなたが樹を、あのものを、観察するとき、 まさにその観察こそが、言葉をとおして、です。 あなたは、それを見た瞬間、それを樹と呼びます。 どうぞ、私たちが話しているとき、こうしてください。 あのものを言葉なしに見つめる - それは、実際に、それが何であるかを、観察することです。 それは、相当に明らかですが、 心理的にそうすることは、はるかに複雑です。 何の動機もなく、観察する。 実際に進んでいることを、観察する - あなたの恐れ、あなたの心配、あなたのさびしさ、 自分の欠如、抑鬱の感覚、 何であれ、実際に進んでいることを、です。 それを観察する - 分析なく、判断せず、 評価せず、ただ観察する。 これが明らかになりつつあることを、望みます。 私たちはともに、これをできますか。 私たちの精神は、分析するよう、訓練されてきました - 原因を見て、結果を発見するように、です。 結果を発見する過程こそにおいて、 結果が原因になる。 それは、連鎖です。 これらに付いてきておられますか。
16:24 それは、これらたぶん百年の間に私たちが 持っている災禍の一つであると、思います - 私たちは、共産主義と心理分析を、持っています。 なぜなら、それらは今、あなたが実際に 自分自身に責任を持つのを、阻止するからです。 自分自身に何か紛糾、騒動があるなら、あなたは、 分析者や、何か施設や、何か集団などへ、行きます。 あなたは人間として、今、なりつつあります - 自由に、ではなく、他の人たちに依存しつつあります。 教会に依存し、政治に依存し、 自分の導師とか、それが何であっても、依存しています。 あなたはいつも、変化するため、 自分自身に秩序をもたらすために、誰かに依存しています。 で、私たちは、自分自身へ責任を持つ 自らの自由を、失いそうになっています。 そういうわけで、共産主義は、自らを無責任にするのです。 心理分析のように、それはあなたを、縮減するか、または、 自分の問題を解決するために誰かに依存させます。
18:21 で、私たちが言っていることは、 人間として私たちが、 世界に存在する無秩序に、責任がある、ということです。 この無秩序は、思考により創り出されます。 それが、私たちが先週、前の日曜日に、終わりにしたところです。 私たちは、思考が創り出してきたと、言いました - すばらしい建築物、すばらしい大聖堂と寺院、 神殿とモスクだけではなく、 それは、テクノロジーの世界を創り出してきました - 有益なのと、破壊的なのを、 戦争と、戦争の道具を、です。
19:46 思考は、人間たちの間の分割を、 創り出してきました。 もたらしてきました - 民族主義的な、階級の、政治的、経済的、 霊的、宗教的な分割を、です。 あなたは、それを間近で検討するなら、 それが事実であることが、分かるでしょう。 思考は、これらに責任があったのです - 寺院、神殿、教会の内側にあるものだけではなく、 また外側に、世界にあるものをも、です。 で、私たちが、思考の本性を、きわめて深く理解するのでなければ、 根本的な変化をもたらす可能性は、ないのです。 いいですか? 私たちはともに、ここにいますか - ここまでは。 思考は、テクノロジーの世界を創り出してきました。 ですね?思考はまた、 イメージを創り出してきました- 自分自身について、 様々な民族的な分割について、 思考は、アラブ人、ユダヤ人、ヒンドゥー教徒、 イスラム教徒などなどを、創り出してきました。 思考はまた、すばらしい建築物と、教会、 大聖堂をも、創り出してきました。そして、 それら大聖堂、寺院、神殿とモスクすべての中のイメージ、像をも、です - イスラム世界には、像はありませんが、 彼らは、聖典、書物を持っています。 それらもまた、一つの形のイメージです。
22:06 ですが、思考は、自然を創り出してきていません - 樹、川、空、星、 あれら麗しい山々、鳥を、ですが、 思考は、それらを使っていて、それらを破壊しています。 大地を破壊していて、空気を汚染している、などです。 で、私たちは、人間精神の中、ゆえに、人間社会の中の 葛藤、格闘、騒動、混乱のこの問題を、解消したいのなら、 私たちは、考えるとは何かという、この問いに 入らなければなりません。 いいですか? 私たちは、ともに出会っていますか。 どうぞ、そうしましょうか。 いいえ、あなただけではなく、私たちのみんなが、一緒に、です。
23:08 私たちは訊ねています - 思考とは何ですか。 考えるとは、どういうことですか。 なぜ思考は、これらを作ってきましたか。 なぜ思考は、すばらしい医療をもたらしてきましたか。 また、なぜ思考は、戦争を創り出し、人間たちを破壊しますか。 なぜ思考は、神を作ってきましたか。 なぜ思考は、神のイメージ、像を、作ってきましたか。 私たちは、神のイメージを作ってきました - 思考が作ってきました。 また思考は、人間たちの間にこうも甚大な葛藤、抗争を、 もたらしてきました -あなたと、あなたの親友、 親密な人物、妻、夫、彼氏などなどの間に、です。 あなたはこれらに、興味がありますか。 または、あなたは、樹々のもとに座って、 かなり涼しい朝を楽しむために、ここに来たのですか。 あなたが本当に、興味があるなら - 言われつつあることに、ではなく、 むしろ、見出すことに興味があり、 あなた自身で見出すことに興味があるなら、です。 なぜ思考は、こうしてきたのか、 思考の本性は、何であるのかを、です。 それは、私たちがともに、それを覗きみている、という意味です。 それは、あなたは自らの観察を行使しなければならない、 あなたは鋭敏に、鋭く、熱情的にそれに、入らなければならない、 という意味です - 語り手がしているように、です。 ただそこに座って、何気なく聞き、去ってしまうだけではなくて、です。 これは、娯楽ではありません。 これは、とても深刻な事柄です。
26:12 で、私たちは、ともに、探究しています。話し合っています - 二人の友として、です。 こんなに多くの人々と、一緒に話し合うことは、できませんが、 それは、二人の人々、あなたと私が見出そうとしているのです - なぜ思考が、この混乱、この騒動を、作ってきたのか、です。 で、思考は物質です。 思考は、記憶の応答です。 いいですか? もしも、記憶を持っていなかったなら、 あなたは考えることができないでしょう。 もしも、過去の物事を憶えていなかったなら、 思考は作動しないでしょう。 で、思考は、記憶の応答です。 記憶は、様々な経験、複合的な出来事、事件から、 出てきたものです - それらは、知識として蓄積されてきました。 これらに付いてきてください。 頭脳に蓄えられています。 その経験、その知識- それは、記憶です。 その記憶の反応が、考えることです。ですね? それは、私が言っていることではありません。 あなたは、それを自分自身で、発見できます。 いいですか? それは明らかですか。 私たちはそこから、進めますか。 すなわち、幾千年をとおして、 私たちは、色々な種類の知識を取得してきました - 文学的、科学的、個人的な経験を、です。 それら経験が、知識になってきました- 科学的にも、個人的にも、です。 その知識は、頭脳に蓄えられています。 で、その頭脳は、あなたの知識ではない。それは、人間の知識です。 私たちが、それは私の頭脳とあなたの頭脳だと考えたいのは、存じています。
29:17 で、この知識、経験は、記憶として頭脳に蓄えられていますが、 いつも、制限されているにちがいない。 なぜなら、知識はけっして、完全ではないからです。ですね? けっして、どの分野でも、完全ではありえない。 で、知識には、無知が相伴います。 ゆえに、思考はいつも、制限され、部分的です。 それは、けっして、完全ではありえません。ですね? 私に同意なさらないで、検討してください。 で、思考は、この混乱の世界を、創り出してきたのです。 なぜなら、それは自体が、制限されているからです。ですね? 思考は、私たちが言いましたように、物質です。 思考は、物質を、物を創り出せるだけ、ということです。 いいですか? それは、幻影を創り出せます。 それは、すばらしい観念、ユートピア、 すばらしい体系、理論を、創り出せます。 が、まさにその理論、まさにその理想、まさにその概念 - 神学者や歴史家によるものが、いつも制限されています。ですね? で、私たちの行為は、いつも制限されています。 ゆえに、私たちの行為は、断片化しています。ですね? 私たちの行為は、思考に基づいているなら、 けっして、完全ではありえません。 よろしいですか。 それを悟るなら - 観念としてではなく、 現実として、です。 違いを理解されますか。 観念と現実です。 あなたは、この発言が聞こえます - すなわち、思考はけっして完全ではありえない。 それが何を創り出しても、不完全であるにちがいないのです。 あなたは、その発言が聞こえますが、 本能的にあなたは、それを抽象化して、観念にします。 これらに付いてきておられますか。 私たちはともに、ここにいますか- 事実を離れた、抽象化。 で、そのとき、観念のみが、重要になる。 そのときあなたは、「私はどうやってその観念を実行すべきか」と考えます。 で、またもや、行為と観念との間に、分割がある。 私たちは、あまりに速く進んでいますか。 それは、あなたしだいです。
33:36 で、抽象化なしの観察、分析なしの観察、 どの形の結論もない観察 - 考えることの本性を、ただ観察する。 すなわち、考えることの本性を観察している観察者は、誰ですか。 これがお分かりになるのかどうかと、思われます。 理解されますか。 誰かに、私は話をしなければなりません。 いいですか? 私が誰かを選んでもいいですか。 よろしいです。 このように表しましょう。 自分は、きわめて貪欲で、自己中心的です。それは事実です。 貪欲は、あなたより異なっていますか。 質問を理解されますか。 あなたは貪欲です! ですが、私たちは不幸にも、幻影を、創り出してきました - すなわち、貪欲ですが、私は、行為するだろう、 その貪欲について、何かをするだろう、と。ですね? で、貪欲と行為者との間に、分割が、ある - すなわち、貪欲に対して行為するだろう者と、です。 ですね? で、それは事実ですか。 または、それは、事実から逃避するために、 私たちが発達させてきた様式ですか。いいですか? これらに出会っておられるのかどうかと、思われます。 すなわち、私は貪欲です。 私は、この貪欲の問題全体を、どう解消するかを、よく知りません。 それで、私は、その対極、無貪欲を、創り出したし、 無貪欲に取り組みます- それは、非事実です。 これらに付いてきておられますか。 で、私たちは、観察者は観察されるものである、と言っています。 いいですか?よろしいですか? で、分割は、ないのです。 ごらんください。 ユダヤ人とアラブ人との間に、分割がありますね? 思考により創り出されています- 人種的な先入観により、 宗教的な条件づけによって、です。 彼らは、同じ大地に生きていますが、 彼らはみんな、互いに闘っています。
37:19 さて、あなたは、よく気をつけて観察するなら、 人間精神は、ヒンドゥー教徒として、条件づけられています - イスラム教徒、アラブ人、ユダヤ人、キリスト教徒、非キリスト教として。 よろしいですか。それは、条件づけられてきました。 その条件づけが、「私はあなたより違っている」と、言います。 いいですか? 思考によるこれら条件づけの違いは、 様々な人々により、政治的、宗教的な理由のために、助長されますが、 私たちは、その分割に取りすがります。 で、分割があるところ、格闘があるにちがいない、 葛藤があるにちがいないのです。 で、貪欲は私より分離していない、 私が貪欲であることを悟るとき、 全的に、違った動きが、起きつつあるのです。 これに、付いてきておられますか。 私たちはこの点で、互いに出会っていますか。 やれまあ。それは、とても困難に思われます。 それは、とても複雑ですか - 私たちが話していることは。 はい? 見つめてください。
38:52 あなたはどのように、暴力に出会うのでしょうか。 人間たちは、暴力的です。 ですね? 私たちは、対極を養成してきました。 ですね? 非暴力。 「暴力的であるな。 優しくしろ。正しくあれ」その他すべて、です。 が、基本的に、私たちは暴力的です。 それは、いまだに、進んでいます- 百万年の後に、です。 その暴力は、あなたより異なっていますか。 明白に、異なっていません。 あなたが暴力です! さて、あなたは、その事実を観察できますか - 事実について、どの種の観念をも作らずに、です。 そのとき、何が起きますか。 これらに、付いてきておられますか。 私は暴力的です。人間として、私は暴力的です。 私は、その暴力とともに、百万年の間、生きてきました。 私の頭脳は、様式を、形成してきました - 暴力的でないけれども、暴力であるものを、です。 暴力的でないことの追求は、事実からの逃避です。 そして、私は事実を観察するなら、 暴力的であるとの事実は、私より、異なっていますか - 私の本性、私の見方より、です。 私はそれです。ですね? 私たちは、同意しますか。
41:00 そのとき、前に存在した葛藤は、 終わります。 そうでないですか。 これがお分かりになるのかどうかと、思われます。 暴力と、暴力的でないこととの間の分割の葛藤。 それは葛藤ですが、「私が葛藤である」との悟りが、あるとき - 「私は葛藤より異なっている」ではない - そのとき、その葛藤は、終わります。 そして、全的に違った行為が、起こります。 で、私たちの問いは、こうです - 思考は、時の中の動きです。
42:08 いいですか? 思考は、記憶に、基づいています- すなわち、過去に、です。 その結論、観念、信念、イメージすべてをともなった過去、です。 その過去から、現在 - 過去が、現在と出会う。 そして、未来です。ですね? 常なる修正が、進んでいるのです。 それが、時です。 いいですか? 時計により、昼、夜、夜と昼による、 時系列の時が、あるだけではない。 また、心理的な時も、ある。 いいですか? 「私はなるだろう」と。 あなたが、「私はなるだろう」と言うとき、それは時です。 「私は、何かにならなければならない」 - それは、時です。 「私は良くないが、私は良くなるだろう」 - それは、時です。 時はまた、思考です。 ですね? 昼と夜としての時。 あなたが行って、バスに乗らなくてはいけない時。 知識を取得する時、言語を学ぶ時。 どの種でもテクノロジー的な知識を取得する時 - 巧みに行動するため、生計を立てるために、です。 そのすべてが、時です。 時を必要とします。 心理的に、内的に、私たちはまたこの時の観念を、持っています。 いいですか? 「私は、そうではないが、私は、そうなるだろう」、 「私は混乱している。 私は分析者へ行くだろう。 彼が私を助けてくれるだろう」。時です。 で、心理的に私たちは、この時の観念を、養成してきました。 いいですか?
44:57 で、時は、動きです - ここからそこへ。 心理的にもまた、それは、ここからそこへの動きです。 で、思考は時です。 ですね? これを理解することは、重要です。なぜなら、 私たちの頭脳は、時の本質であるからです。 私たちは、心理的に、その様式の中で、機能してきました。 「私は楽しみを持つだろう」。 私は、幸せだったこと、すばらしい経験をしたこと、 あれやこれを、憶えています。 そして私は、もっと持たなければなりません。 この常の、なることが、時です。 今、私たちは訊ねています- それは、現実ですか、 虚構ですか、幻影ですか- 心理的に、です。 ですね? あなたは疲れつつありますか。 これはたぶん、あまりに多すぎるのでしょう - このすべては。
46:35 私たちは、こう言っています。 時は、知識の取得において、必要です - 様々な種類の、多くの種類の、です。 さて、何かを心理的に終わらせるには、時は必要ですか。 付いてきておられますか。 すなわち、心理的に、私は恐れを持っています。 ほとんどの人間は、恐れを持っています。 彼らは心理的に、この恐れを、持ってきました - たぶん、時のまさしく始まりから、 心理的な時のまさしく始まりからです。ですね? 私たちは、それを解消してきませんでした - 私たちは、物理的な痛みなどに、物理的に怯えているだけではなく、 心理的にもまた、私たちは、大きな恐れを、持っています 心理的に、傷つく、打撃を受け、負傷するとの、です。 なぜなら、子どもの頃より、私たちは傷つくなどしてきたからです。 で、私たちの頭脳は、時の中で機能します。 で、それはけっして、問題のどれをも解消してこなかったのです。 あなたがこれに出会うのかどうかと、思われます。 「私は自分の恐れを乗り切ろう」と、私自身に言うのなら、 実際に起きることは、こうです - 私はやはり、その終わりに、怯えているのです。 私は意志を行使し、それを制御し、それより逃避する、などなどです。 で、私は、けっして - 人間たちは、けっして この恐れの問題を、解消したことがないのです。 私たちは、こう言っています - 私たちが心理的に、 時の様式で考えるかぎり、恐れは、継続するでしょう。 これは明らかですか。
49:16 で、私たちはこう言っています - 恐れと呼ばれるこのものは、即時に終わらされますか。 さて、もう一つの例を取りましょう。 恐れはかなり、複雑な問題です。 私たちはおそらく明日、 別の講話で、それに入るでしょう。 依存を、例に取りましょう- 心理的な依存です。 人間たちは、これを養成してきました。 なぜなら、彼らは、一人であるのを、恐れているからです。 彼らは、さびしいのを、恐れています。彼らは、慰めがほしい。 彼らは、誰かに依存するなら、扶養されたと感じます。 なぜなら、彼らは自分自身では心理的に、不充分であるからです。 ゆえに、誰かに縋りつきます。 宗教的なイメージや、個人的なイメージなどに、です。 誰かに縋りつきます。
50:28 さて、それが、人間精神の様式であったのです - 時をとおして養成されて、です。 依存の帰結は、恐れ、心配、嫉妬、 憎しみ、敵対、つづくすべてです。 その様式の中に、私たちは、生きてきました。ですね? さて、その様式を即時に終わらせることが、問いです。 なぜなら、あなたが時を認めた瞬間 - 「私はそれを終わらせるだろう」と、です - あなたは、事実より動いて離れることを、認めたからです。ですね? 事実は、こうです - 自分は依存しています。 さて、時を認めずに- 理解されますか。 「私はそれを乗り切るだろう」と、です- それを終わらせる。即時に、です。 あなたは、時の様式を壊したのです。 これに付いてきておられますか。 私があなたのために働いているようにあなたは、しっかり働いていますか。 すなわち、あなたがいかに他の一人に、 心理的に依存しているかを、観察してください。 すべての思い出、すべての映像、イメージなど、依存です。 私たちの頭脳は、時の様式に慣れてきました。 なぜなら、それは、時とともに成長してきたからです。 で、それは、意志の行為を、行使してきました - 「私はしよう」と。それは、事実を回避している、という意味です。 さて、自らが理解するとき - 知的にや言語的にではなく、 実際に、事実を見る。 いかに頭脳が、時の中で働くか、 ゆえに、けっして解消させないのか、 そして、あなたは依存しないことの切実さが、 見えるとき、それは終わりました。 あなたが何かを終わらせるとき、新しいことが、始まります。 いいですか?
53:19 私たちは、ともに考えていますか。 または、あなたは単に、語り手の話を聞いていて、 それから、「ええ。私は、彼が話していることを、よく理解できない。 彼は、あれこれについて話をする」と 言っているだけですか。 それは、あなたが問題について本当に考えていない、という意味です - それは、あなたの問題、人類の問題です。 問題、すなわち、 全的に違った種類の社会をもたらすこと、です。
54:10 で、あなたの敵対、あなたの憎しみ、あなたの嫉妬を 終わらせることは、可能ですか。 理解されますか- 即時に、です。 それで、頭脳が様式を破ってしまい、全的に違ったように 考えられ、行為し見つめ、観察できるように、です。 これがお分かりになるのかどうかと、思われます。 これが冥想です。 理解されますか。 話をされてきた、まがい物すべてではない。 冥想する - それは、あなたの精神が いかに作動するかを観察する、という意味です。 心理学者たちがあなたに、いかに精神が働くのかを、語ってきたこと、 フロイトとその他すべての連中ではない。 あなた自身で観察するのです。 なぜなら、あなたは、自分自身に、責任があるからです - あなたの身体に、あなたの精神に、あなたの思考に、です。 で、あなたは、自らの意識の内容全体を、観察できますか。 理解されますか。 私はこれを、あまりに困難にしていますか。 私は分かりません。少し私に言ってくださるでしょうか。 私はこれを、あまりに困難にしていますか。 あなたの意識は、思考が創り出してきた物事に、満ちています。 いいですか。 あなたの心配、あなたの信念、あなたの神、 あなたの救い主、あなたのクリシュナたち - よろしいですか。 そのすべてが、思考により創り出されてきました。 で、あなたの意識は、時の本質です。 やれまあ、分かりますか。 私たちは、その中で、生きて、機能して、行為しています。 ゆえに、根本的な、心理的な変化が、けっしてないのです。 ゆえに、社会はけっして、善くありえないのです。 善さは、悪いの対極ではありません。いいですか? そうであるなら、それは善くありません。 愛は、憎しみの対極ではありません。いいですか? そうであるなら、それはやはり憎しみです。 いいですか?
57:44 で、今、何時ですか。 11時30分、12時30分。で、私たちはここで、止めた方がいい。 みなさんが、お出でになりたいのなら、私たちは明日、継続するでしょう。