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OJ80T4 - 欲望、執着と恐れ
第4回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1980年5月11日



0:36 私たちは、昨日話していたことを継続してもいいですか。 私たちは、こう言っていましたね - 私たちの頭脳、私たちの精神の全体もまた、 きわめて多くの経験を、生きぬいてきた - 多くの事故、あらゆる形の経験をとおして、です - そして、大変多くの知識を蓄積してきた、と。 その知識は、私たちが沿って生きるところの様式を、 形成してきました。 その様式は、時をとおして、創り出されてきました - 言語を学ぶため、どの種の技術、技能を学ぶために、 必要な時だけではなく、 また、その知識こそが、私たちの存在の構造全体を、 創り出してきたのです- 心理的に、 内的に、いわば肌の内側で、です。 見たところ、何千何百万年の後、私たちはほぼ、 心理的にまったく変化してきませんでした。 私たちは、もっと修正され、もっとずるくなり、 智恵をもち、または半ば智恵をもって議論する能力を、持ってきました。 この様式は、時をとおして創り出されてきましたが、 その様式が完全に壊されないのなら - 私たちが昨日、それに入ったように、です - 私たちは、新しい社会を創り出すことが、できないでしょう。 私たちが生きている社会は、その戦争、不道徳とともに、 その暴力、恐怖とともに、その常なる不安定とともに、 人間たちにより、創り出されてきました - 私たちが、ここに生きていても、極東でも、近東でも、 それは、人間たちにより、構築され、組み立てられてきたのです。 人間たちが、心理的に、根本的に、深遠に 変化するのでなければ、社会は変化できません。 彼らは、実験してきました。 共産主義者がやってきたように、 環境を変化させる - それにより人を変化させると望んで、です。 もちろん、これはけっしてできません。 人は、環境に打ち勝つ、などなどなどです。
4:29 で、自らがそもそも真剣であり、世界の出来事に、 私たちみんながそこに生きている混乱と悲惨すべてに、関心があるなら、 私たち自身に心理的な革命をもたらすことが、 絶対的に、必要になります。 私たちは、思考がこの狂った狂気の世界を、 創り出してきたと、言いました。 思考は、自らが理性的であり、有能であると、考えます。 一定の分野で、テクノロジーのことで、商業の世界などで、 そこで、それは、相当に理性的ですが、 心理的にそれは、全的に非理性的です。 私たちが昨日、言いましたように、思考は、 記憶、経験、知識から出てきたものです。 私たちはまた昨日、思考は物質であることを、言いました - 何であれ、思考が創り出すものは、 それに所属しているにちがいありません。 その思考は、制限されています - 知識がいつも制限されているように、です。 その思考は、それ自体に根本的な変化を、もたらせますか。 それが、私たちが昨日、話していたことです。 私たちは、はるかにもっと問題に入るべきです。
6:37 また、どうぞ、私たちがともに話し合っていることに、留意してください。 語り手が話していて、あなたが聞いているのではない。 むしろ、私たちのどちらもが、自らの頭脳、自らの能力、 自らの知能を、行使しています- 私たちが理性的であり、 ともにこの問題について考えるなら、です。 それは、あなたが、語り手が言っていることを、 受け入れる、という意味ではありません。 むしろともに、あなたと彼は、事態に入ります。 そうね、それは、東洋の宗教のとてつもないことです - 疑いが、奨励されるのです。 疑うことが、です。 西洋の宗教世界では、 疑いは、代替されます。 信仰が、疑いに代替されます。 私が言っていることを、理解されますか。 で、私たちの精神は、検討するより、むしろ、 受け入れる傾向が、あります。 私たちの頭脳は、何か新しいことを見るのを、拒絶します。 なぜなら、それは、同じ古い様式に捕らわれているからです。 私たちは、その様式を検討しようとしています。 なぜなら、私たちは、どんな信条をも提唱していないからです。反対です。 私たちは、あなたが、信じなければならないとか、信じてはならないとか 言っていません。私たちは、どの種の宣伝をも、していません - それはすべて、これらの事柄において、あまりにばかげています。
8:50 で、私たちはともに、私たち人間存在に 関与する主題全体を、検討しようとしています。 私が提案してもよろしいなら、どうぞ、メモを取らないでください。 メモを取っている間、注意を払えません。すみません! で、どうぞ、写真やテープレコーダーと、それらの種類のものを、 撮らないでください。なぜなら、それは、他の人たちを攪乱するからです。 で、どうぞ、それらの種類のことをするのを、慎んでください。 あなたが気になさらないことを、願っています。 それは、著作権の事柄やその種の何でもありません。 それは単に、便宜のためと、 あなたが写真などを撮っているとき起きる散漫のためです。 私たちがともにしようとしていることは、 今、何が進んでいるかを、検討することです - 世界においてだけではなく、また私たち自身においても、です。 私たちがここ二、三回の講話で、そうしたように、です。
10:16 で、私たちは、訊ねています。 精神、頭脳が、安全を求めて、 自体を確立してきたところの、この存在の様式ですが、 なぜなら、それは - 完全に安全であることは、 頭脳にとって、第一の必要であるからです。 その安全が、幻影にあっても、 何か空想的な観念や、何かロマンチックな概念や、 霊的、宗教的なイメージと、その種のことや、 あなたが自分の妻や夫や彼氏や彼女について持っている イメージにあっても、です。 それらの事柄は、ご存じです。 で、頭脳はいつも、安全を見つけようとしています。 なぜなら、それが幾らか巧みに機能できるのは、 そのときだけであるからです。 この様式は、欲望により、組み立てられてきました - 初めに、思考によって、欲望によって、 執着をとおして、貪欲をとおして、です。 頭脳は、恐れの中に捕らわれているけれども、 それより逃避したり、それに打ち勝ったり、 それより自由であったりできる能力がないと、思われます。 どうぞ、これらの三つのことをともに検討してくださるなら - すなわち、欲望。 私たちは昨日と以前の講話でともに検討しました。 思考の動き全体を、です。 欲望、貪欲、執着、恐れ、です。 それが、私たちが捕らわれているところの様式です。 この様式を破ることは、可能ですか。 どうぞ、語り手とともに、探究してください。 すなわち、その事態についてともに考えましょう。 私が説明していて、あなたが受け入れているとか、 あなたが拒絶している、などというのではなく、 それが、私たちが直面する問題です。
13:27 欲望は、こうも多くの問題を創り出してきました - 性的にも、 欲望が駆り立てて向かう様々な形の対象、 そして、成功を達成したいとの欲望、 誰かより良くありたいとの欲望などなど、です。 人間たちの、この競争的な存在全体、です。 おそらく、競争は、世界を破壊しつつあります。 超大国など、 成功へ、充足へ、達成などへ 与えられた重要性が、です。 それで、私たちはともに、欲望の本性を、検討しなくてはいけません。 私たちは、あなたは欲望を抑圧するとか、充足するとか、忌避するとか、 打ち勝つとか、しなければならないと、言っていません。 私たちは、欲望の動勢全体、動きを、検討しています。 私たちは、互いに付いてきていますか。
15:19 諸宗教、すなわち、或る教義、儀式、イメージなどの 制度的な受け入れ -それらの宗教は、 「欲望は抑圧されなければならない」と、言ってきました - 「神に仕えるために、あなたは何の欲望もなく、来なければならない」と。 あなたがそれに入ったことがあるのかどうか、私は知りません。 私たちは今、その事態に入らなくてもいい。 で、私たちは、そうしなければならないと、言っていません。 私たちは、検討しています。 私たちは、欲望の本性と構造を、理解できるなら - 言語的にとか、知的にではなく、実際に、事実として、です - そのときおそらく、欲望は、自らの適切な所を、持つでしょう。 が、今、欲望は、すべてを消費しつくしています - 欲望の即座の充足です。 それが、冥想においても、それが、コーヒーを飲むことにおいても、 どこかしらへ行くことでも、それは充足されなければなりません。 それに則って行為しなければなりません - 即座に、です。 抑制は、見下されていて、拒否すらされています。 ですが、私たちは、こう言っています - 私たちが欲望について何をする前に、それが、正しいのでも、 間違っているのでも、それが、尊いのでも、醜いのでも、 それが、社会の中で適切な所を持っていても、などなどでも、 私たちは、それの本性を理解しなければならないのです。 よろしいですか? 私たちは互いに付いてきていますか。よし!
17:37 欲望とは何ですか。 その根は何ですか。単に、欲望の対象だけではない - それは、私たちの年齢に応じて、私たちの境遇、 環境、圧力などに応じて、変わるのです。 欲望の根は、何ですか。欲望は、どのように生じてきますか。 欲望は、なぜ自らの生において、 とてつもない役割を、果たしますか。いいですか? どうぞ、私たちが言いましたように、 私たちは、ともに話し合っています。 欲望の本性を、見ています - 語り手に沿って、ではありません。 彼が先に指摘しましたように、 私たちは、疑いを持たなければなりません。 疑いは、きわめて浄化するものです。 ですが、また疑いは、革紐に繋いでおかなければなりません。 犬が革紐に繋がれているように、です。 あなたは犬を、時々放してやり、走らせなければなりませんが、 また私たちは時折、それを革紐に繋いでおかなければなりません。 で、同じように、疑いは、精神を浄化する、とてつもない性質ですが、 またそれは、革紐に繋いでおかなければなりません。
19:20 で、私たちは、言っています - ともに、欲望の本性について、 話し合いましょう。そして、その適切な所を、見出しましょう。 欲望とは何ですか。 それは、私たちのみんなにおいてどのように生じてきますか。 最も高度に洗練され、教育された知識人たちにおいて、 普通の人物において、また、それらすべての修道士、僧侶と、 聖人たちにおいて、です - 彼らは、欲望により消耗します。 あなたは、禁欲の誓いを立てるかもしれません - 世界中の修道士、 僧侶がそうするように、ですが、欲望は、彼らの中で燃えています。 で、私たちは気をつけて、このものを検討しなければなりません。 よろしいですか。
20:49 あなたは、この問題に、どのように接近しますか。 理解されますか。 あなたは、欲望の本性を検討したいとき、 どのように、それを見つめますか。 質問を理解されますか。 あなたはどのように、欲望の動きを考慮か、観察しますか。 あなたが、条件づけられているなら、 あなたの接近は自然に、部分的になるでしょう。 あなたが尋常でなく、欲望により消耗しているなら、 それもまた、きわめて制限されるでしょう。 ですが、それの本性を検討するには、 幾らか自由な精神を持たなければなりません。 よろしいですか? で、ともにそうしましょう。
22:05 視覚的に見ることが、あるだけではない - すなわち、あなたは、何かとても美しいものを、見ます。 それの知覚、それを見ることが、 感受を創り出します。 ですね? 感受、接触がある - ですね? 見ること、 感受、接触、 そのとき、その後、何が起きますか。 質問を、私が言っていることを理解されますか。 あなたは、何かを見ます - 女、男、車、絵画を、です。 見ることが、感受を創り出します。 そのとき、それに触れる。 そのとき、何が起きますか。 これに、付いてきておられますか。 どうぞ、付いてきてください。 さもないと、私は話をするでしょうし、 あなたは単に、聞いているだけでしょう - それでは、私たちはどこにも導かれないでしょう。
23:41 で、どこで欲望は、始まりますか。 見る、接触、感受。 そのとき、思考が、イメージを創り出す。 思考がイメージを創り出してきたとき - その見ること、感受、接触をとおして、です。 そのとき思考は、イメージを創り出します。あなたは、思考は その欲望に、所有させたり、所有させなかったりします。 いいですか? これに付いてきておられるのかどうかと思われます。 あなたは、シャツやスーツやドレス、車や、 美しい女や男を、見ます - それが何であっても、です。 感受、接触がある。 そのとき、思考がイメージを創り出す - 自分があのシャツ、 あのドレスを着たり、車に乗ったりしているのを、です。 その瞬間に、欲望が生まれます。 これらに付いてきておられますか。 それは、私があなたに語っていることではない。 あなたたちは、自分自身でこれを、発見しつつあります。 いいですか? 私たちは、ともに進んでいますか。
25:19 で、思考が、イメージを創り出すとき、欲望が生まれます - 見ること、接触、感受が、あるとき、 思考は、車に座ったり、車を運転したりのイメージをともなって、 欲しがって・・・よろしいですか?- 動勢全体が、起きます。 そのとき、問いが生じます。 それに興味がおありなら、ですが、 何かを見ることは、可能ですか - 感受は自然です。 接触は自然ですが、 思考が、イメージをともなって生ずるとき、 欲望が、あらゆる種類の錯綜を、創り出すことを、見るのです。 いいですか? これらに付いてきておられるのかと思われます。 で、問いは、こうです - 思考がまったく イメージを創り出さないことは、可能ですか。 理解されますか。 すなわち、車を見る。 感受。 思考が、自分がその車を、運転しているイメージを、創り出す。 権力、地位、その面白さすべてを、ご存じでしょう。 ですが、思考が、イメージを創り出す前に、 そのイメージが形成されるのを許さないのです。 これに付いてきておられるのかどうかと、思われます。 ヴザヴェ・コンプリ? そもそも何かを理解されましたか。 私たちは、ともに、動いていますか。
27:23 で、私たちは言っています - 規律・修練は、順応ではありません。 ですね? 欲望の動き全体への観察こそが、自らの秩序を創り出します。 これらに付いてきておられますか。 あなたは今、そこに座っていながら、そうします。 自分の欲望を見守ります。 あなたは、何かへの欲望を、持っているにちがいありません - たとえ天国へ、啓明へ、美しさへ、善へ、それが何であっても、です。 この欲望がいかに生ずるかを、観察してください。 思考がイメージを創り出す瞬間、そのとき、 あの方向づけられたエネルギーの全体が、あるのです。 よろしいですか? 何かを捉えておられるのでしょうか。 で、そのとき欲望は、無秩序を作らない - 今、作っているようには、です。 すなわち、そのとき、欲望の本性を理解する中で、 まさにその理解こそが、秩序です。 その中には、抑圧がなく、順応がなく、葛藤がない。 このどれかを理解されましたか。 まあ、あなたたちの幾人かは、理解されましたか。 理解したのではなく、欲望がいかに働くかが、あなた自身で見えますか。 そのとき、あなたは、あらゆる形の欲望の制御、 欲望の抑圧、欲望の乗り越えが、終わることを、見るでしょう。 なぜなら、あなたは、いかに欲望が生ずるかを見るから、そして、 それが生ずる前に、欲望の動きの本性全体に、気づくからです。 それを理解なさるのかどうかと、思われます。 私は誰かに、話をしなければなりませんが・・・
30:24 で、貪欲は、一つの形の欲望です。 貪欲は、実業家すべてにより、コマーシャルにより、助長されます - そうね、それらの事柄です。 それは、助長されます。 それは、この世界で、無量の問題に、なりつつあります。 物質主義は、この貪欲の一部です。
31:05 そのとき、そこから私たちは、執着の問いへ、動けます。 私たちのほとんどは、何らかの物事へ、執着しています。 それは、一つの資産、古い家具や、絵画、写真、 観念や信念や経験なのかもしれません。 どうぞ、あなた自身を見守ってください。 そうね、あなたは、何かへ執着しています - 人物へ、 何か自分がしてきた経験へ、です。 執着があるところ- どうぞ、聞いてください。 ただ執着の帰結を観察してください。 私たちは、あなたは執着してはならないと、言っていません。 ただ、執着の本性を観察してください。 そのとき、その観察の中から、 執着に関して、正しい行為が、出てきます。 あなたが、信念に執着しているなら、 その信念の本性は、何ですか。誰が信念を、創り出してきましたか。 理解されますか。 あなたは、宗教的な概念、宗教的なイメージ、像に、 または、或る人物に、執着しています。 その執着には、何が含意されていますか。 初めに、どうぞ、ただ聞いてください。理解されますか。 ただ聞いてください。そのとき私たちは、ともに動けます。 あなたは、自分が何かに執着していることを、知っています。なぜですか。 それは、あなたがさびしい、ということですか。 それは、何かに執着することにより、あなたは、 自分自身に充足を感じる、ということですか。 それは、あなたが何にも執着していないなら、 あなたは完全に孤立した、空っぽだと感じる、ということですか。 それは、或る人物へ執着することで、あなたに慰め、安全、同一視の感覚が 与えられる、ということですか。 そのすべての帰結は、それの損失、 それを失うことの恐れ、嫉妬、心配、憎しみ、 深く傷つく感覚です。 で、執着は必然的に、これらへつながるでしょう。ですね?
34:41 さて、語り手がこれらを説明するとき、 それは、観念ですか。 現実ですか。 私が言っていることを、理解されますか。 あなたは、執着の観念を形成しましたか。または、 実際にあなた自身で、自分が執着していることを、見ますか。 そして、あなた自身で、それの帰結を見ますか。 で、それは、あなたが受け入れる観念ではない。 あなたは、執着の動きを観察しています。ですね? さて、あなたは、それについて何をするのでしょうか。 質問を理解されますか - あなたが、執着の本性を、観察し、 いかに思考が人物についてイメージを創り出し、 そのイメージに執着するかを、観察してきたとき、です。 いいですか?その人物に対して、 イメージは、人物よりはるかに重要です。 これらに付いてきておられるのかどうかと、思われます。 で、執着は、その帰結すべてとともに - それは、大きな葛藤、悲惨、混乱、敵対をもたらしますね - そのすべては、終わりえますか。
36:36 そのとき、何が起きますか - あなたが執着を終わらせるとき、です。 付いてきておられますか。 どうぞ。 質問を理解されますか。 あなたは執着しています。 そうね、あなたは、知的にか、 実際にか、執着の帰結を、観察してきました - その葛藤、恐れなどとともに、です。 それは、意志の行為ですか - 「私は執着を終わらせよう」と言うことは。 または、あなたは、執着へ洞察を持ちますか。 あなたは、執着へ洞察を持つなら - あなたは、その動きの全体が見えるからです - そのとき、それが終わることが、ある。 あなたは他の何かへ執着する、ということではない。 理解されますか。 自らは、その人物へとか、その観念へ 執着しているかもしれません。 その執着を手放し、 別の人物へ、別の観念へ執着する。 私たちは、執着すべてが終わることについて、話しています - 執着は、甚大な心理的葛藤を、もたらします。 あなたは、それへの洞察を持ち、ゆえに、それを終わらせますか。 そのとき、何が起きますか。 あなたが、何かを終わらせるとき - 理解されますか。 あなたが、飲酒するとして、あなたが、それを止めるとき、 または、喫煙やそれらのことのどれかを、 物理的にも心理的にも、止めるとき、 何が起きますか。 みなさん! あなたは、私に語ってほしいのですか。 そうね、それが危険です。 そのようにして、あなたは、権威を、創り出すのです - 他の人への依存を、です。 ところが、あなたが自分自身で、発見するなら - 自分が執着を完全に終わらせるとき、 精神の状態は、何ですか- 様式に、 その執着の動きに捕らわれてきた状態は、です。 精神に、何が起きますか。 全的に新しい何かが、起きますね。 あなたは、執着の様式を、壊してしまったのです。 ゆえに、この様式より他の何かが、 自然に生じてきます。 ベネ?(いいですか) あなたは、こうしていますか。 そうね、あなたたちはみんな、こうも怯えています。 それが、その根なのです。
40:27 で、私たちは、恐れとは何かを検討しなくてはいけません。 これらに、興味がありますか。 はい? 何気なく、ではない - 麗しい朝に、樹の下に座って、 木の葉を、木の葉に照る光などを、見つめ、 それを楽しむ。そして、向こうのあれらの山々を、です。 私たちは、何かきわめて深刻なことを、言っています。 あなたは、この種のことを、玩べません。 なぜなら、それは根本的に、 あなたの生き方を、変容させるであろうからです。 あなたは、根本的に変容したくないのなら、 これらを聞かないでください。 たぶん、あなたはどのみち、聞いていません。 が、あなたは、真剣であるなら、聞いているかもしれません。 で、私たちはあなたを、知的に、情動的にとか、 ロマンチックに、娯楽で楽しませていません。 これは、生のきわめて深刻な事態です。
42:02 で、私たちは、言ってきました - 欲望、貪欲、執着は、私たちの生の一部である、と。 日々の格闘、葛藤、時折、幸せな生の一部です。 そして今、ともに検討しましょう。 ともに、というのです - 恐れとは何なのか、なぜ私たちは、こうも怯えているのか。 この恐れの問題は、まったく解決されたことがないのです。 私たちは、千年、百万年を生きてきたけれども、 いまだに、同じ古い恐れの様式で、続けています。 で、恐れとは何ですか。 自らは、執着を手放すことを、恐れていませんか。 或る人物、信念、概念への執着でも - 共産主義者は、概念を創り出してきました。 共産主義者に話をするなら- 正式の党員に、です - 彼は、その様式を手放すのを、恐れています。 彼は何をも、新たに考えようとしないでしょう。ですね? または、きわめて実践的なカトリックやプロテスタントの信者や ヒンドゥー教徒、仏教徒に話をすると、それは、同じことなのです。 彼らは恐れています。 なぜなら、その様式に、結論に、信念に、 安全がある - 安定感、強さの感覚が、あるからです。 その観念、そのイメージ、その概念が、幻影であれ、 まさにその幻影こそが、あなたに安全を与えます。 執着には、一定の幸福感、安心が、あります。 よろしいですね?私たちは、分析していません。
45:13 私たちは単に、恐れの動きを観察しています - それは、分析より全然違っています。 ここには、大変多くの分析者が、おられることを、私は存じています。 彼らは、私は理解しない、私はこの事柄で、ちょっと奇妙だ、 かなり条件づけられ、奇妙で、かなり狂っていると、考えます。 私は彼らの多くに、会ってきました。 私は、彼らを知っています。 で、私たちは、分析していません。 私はこれを、完璧に明らかにしたいと思います。 なぜなら、分析は、思考の行使を含意しているからです。 思考は、部分的で制限されています。 なぜなら、すべての知識は、制限されていて、 いつも無知の影の中で、生きているからです。 分析は、取得されてきた知識を、行使し、 その知識より作動する過程です。 私たちは、正反対のことを言っています - 観察は、分析より全然違っています。 ただ、恐れの本性を観察するのです。 で、観察とは何なのかを、理解することが、とても重要になるのです。 千回、反復しましょう - 分析でない観察、です。
47:16 で、観察とは何ですか- 観察する。 あのものに名づけずに、あのものを観察する。 なぜなら、あなたはあのものを、樹と名づけた瞬間、それを、 言葉でもって、概念でもって、イメージでもって観察しているからです。 ですね? それに入ってください- しばしの間、私とともに、です。 あのものを、言葉なしに観察する - それができるなら、です。 それは、比較的簡単です。 が、心理的に、自分の反応を、内的に進んでいることすべてを、 観察する。それは良いとか悪いとか、言わずに、ただそれを観察する - これは憎しみだ、これは間違っている、これは正しいと言わず、 何の思考の動きもなく、ただ観察する。 ですね? で、私たちは、恐れと呼ばれる反応を、観察しています。 あなたが、執着しないことが必要であると感じるとき、 生じてくる恐れを、です - それが何であっても、です。 そのとき、即時の反応は、恐れです。 なぜなら、執着の中に、あなたは安全、安心、保護の感覚を、 見つけてきたからです。 それの終わりでもって、 起きようとしていることへ、この震えが、あります。 私は、自分の妻や夫や彼氏や何に対してであれ、 「私は執着していない」と語れますか。 彼女や彼は、何をするのでしょうか。 私が言っていることを、理解されますか。
49:25 で、私たちは今、ともにその本性を、検討しています - すみません。 観察しています。私たちは、恐れの本性と動きを、観察しています。 それは、あなたの精神が、すべての分析的な条件づけより 自由である、という意味です。ですね? それは自由ですか。 または、あなたはそれを、分析的な過程を、控えます。 あなたは、「まあ、私は分析なしに観察しよう」と言いますが、 それはできません。それはただ、ゲームをやっているだけです。 観察するには、分析的な条件づけの感覚全体が、 終わらなければなりません。 さもないと、あなたは適切に、正確に観察できません。 なぜなら、私たちの教育すべて、私たちの条件づけすべてが、 分析すること、原因を見、結果を見、 結果を変化させようとすること、などなどであるからです。 ただ分析は、それよりはるかに複雑ですが、 私はそれを、きわめて短く、かなり不充分に表しています。 が、観察することは、分析より、はるかに難儀です。 あなたの妻や夫や彼氏や、何であれ、その人物について、 あなたが創り出してきたイメージなしに、観察する。 質問を理解されますか。 私たちの一人一人が、自分が一緒に生きる人物について イメージを持っています。 そのイメージの中に、安全があります。 ですが、そのイメージは、実際の人物ではありません。 そのイメージは、どう創り出されているのか、 そのイメージが終わりうるのかどうかは、異なった問題です。 すなわち、そのイメージは、思考により、常なる相互作用により、 創り出されています。そのイメージをもって、私たちは生きます。 で、イメージと現実は、二つの別々のことなのです。 ですね? それで、葛藤があるのです。明白です。 それは、二人の人々、男、女、妻などなどの間の格闘、 二人の人々の間の、常なる格闘、葛藤です。 なぜなら、彼らは、イメージによって、生きるからです。 イメージが何もないとき、おそらく愛、慈悲、 慈しみ、気づかいが、あるでしょう。
53:28 で、私たちはともに、恐れの本性を、観察しましょう。 なぜ何百万年に、何百万年もの後、 私たちは、その問題を解消していないのか。 質問を理解されますか。 なぜですか。 私たちは、外的に世の中で、環境などで、 多くの問題を解消してきましたが、 恐れは、外のあちらになくて、私たちの中に、あります。 それは、心理的な反応です。 なぜ私たちは、 自らのずるさすべてをもって、自らの知識すべてをもって、 自らの経験すべてをもってしても、この恐れの問題を、 完全に解消してこなかったのですか。 それは、私たちがけっして自分自身を、見つめたことがなく、 いつも、他の人が、私たちが何であるかを、語ってくれるのに、 頼ってきた、ということですか。 理解されますか。 私たちはけっして、自分自身を見つめたことが、ありません - 私たちが何であるかを、実際に、です。 哲学者、心理学者と専門家によって、ではない。 なぜなら、彼ら自身はけっして、自分自身を見つめたことが ないからです。彼らは、自分自身について、観念を持っています。 それは、私たちがけっして自分自身を 観察したことがない、ということですか - 私たちが鏡に、自分自身を観察するように、です。 鏡は、きれいな鏡であるなら、歪曲しません。 それはまさしく、あなたが何であるか、 あなたの顔がどのようなのかを、示します。 ですが、私たち自身を、何も歪曲なく、そう観察することは、 あなたが何の動機もなく、何の欲望もなく、 何も圧迫もなく、見ることを、要求します - ただ見守ること、ただ観察することを、です。 で、同様に私たちは、恐れの動きを、 観察しようとしています。
56:41 私たちのほとんどは、恐れています。 私たちは、物理的な恐れについて、話していません - それもまた関与しています。 職を失うこと、そうね、それら、 雇用されないこと、十分なお金を持たないこと、痛みを受けたこと、 物理的な痛み、再びその痛みを受けることの恐れ、です。 で、物理的な恐れすべてが、あります。 初めに、心理的な恐れを理解するほうが、はるかに重要です。 なぜなら、そのとき、おそらく私たちは、物理的な恐れについて、 もっと健全に、理性的に、何かをできるからです。 ですね?進行してもいいですか。 私たちはともに、そうしています。 あなたは、私に聞いていません。 私たちはともに、恐れと呼ばれる、 このとてつもないものを、観察しています - すなわち、人が百万年の間、持ち運んできたものを、です。 語り手は、それは完全に終わらされると、言います - 心理的に、すべての恐れが、です。 あなたが、この恐れを観察する能力を、持っているなら、です。 それに指令するのではない。「私はそれを持ってはいけない」とか、 「私はそれを持たなければならない」とか、 「私は・・・」と言うのではない。 そうね、それらです。
58:23 恐れとは何ですか。 恐れは時ですか。 理解されますか。 時は、昨日起きたことと、 明日、起きるかもしれないことです。 理解されますか。 それが時ですが、それが、恐れの原因ですか。 ゆっくり、それに入ってください。 ゆっくり、それに入りましょう。 なぜなら、私たちが今朝、恐れを観察するのを終了したとき、 それは完全に終わるにちがいないからです - あなたがまったく、心理的な恐れを持たないように、です。 そのときあなたは、理性的で健全な人間です。
59:34 恐れは、思考の動きですか。 理解されますか。 すなわち、過去に恐れが、ありました。 それの記憶、それの思い出が、あります。 思い出は、思考の動きです。 いいですか? それはまたもや、知識の動きです。 いいですか? この知識は、頭脳に蓄えられています。 この知識は、私です。 ですね? 私が、私はあなたたちに執着していると、言うとき、 あなたたちは聴衆であり、私は、 それから大きな楽しみを招来するから、あなたたちに執着しています。 なぜなら、私はあなたたちに話をできて、 自分自身を充足させられるからです。それらの戯言です。 それが私に、大きな充足の感覚を、与えてくれます。 で、思考は、この権力の感覚を、経験してきました。 そのとき、その思考は、言います- 「私は、これを手放すなら、 怯えている。私は、何でもない」と。いいですか? で、恐れは、「私」の原因ですか。 それに入ってください。 これは、とても深刻なことです- 私たちが言っていることは。 この中心的な実体が、その自己中心的な活動 - すなわち、欲望、執着、貪欲 -をともなって、あるかぎり、 あなたは、いつも、恐れを持つでしょう。ですね?
1:02:27 で、あなたがこれらを理解するとき - 言葉ではなく、観念ではなく、 知能をとおしてではなく、です。 知能は、自らの所を持っています。 この理解は、この織物全体を、総体的に見ることです。 それは、恐れの本性へ即時の洞察を持つ、という意味です。 そのときにのみ、おそらく、愛があるのでしょう。 恐れと愛は、伴えません。 私たちが何をしてきたのか、お分かりですか。 私たちはそれを、意識的に、よくよく知っています。 または無意識的にも、私たちはそれを知っています。 ですが、私たちは、人間たちの間の、この問題を 解消したことがないので、私たちは「神を愛そう」と言います。 理解されますか。あなたたちは、人間たちの間に存在すべきで、 存在しなければならないものを、いかに移行させてきたのか、です。 そして、恐れがないとき、それは存在できるだけです。 私たちはその愛を、何か思考により創り出された対象へ、 移行させてきたのです。 そして、私たちは、それに満足しています。 なぜなら、それは、とても便利であるからです。 私たちは、自分自身、個々人を自己中心的で、心配で、 怯えて、貪欲で、執着したままに保っておけ、 神の愛について、話せます。 それは、まったく非理性的な戯言です。
1:04:38 で、私たちが今朝、ともに話し合った終わりに、 二人の友人 - この問題に関与していて、社会的な秩序、 すなわち無秩序に、関心を持っているものとして、 社会が変化できる前に、 自分自身に変容がなければならないことを、見て、 彼らは、この問題について、ともに話し合っています - 欲望、貪欲、執着と恐れのそれを、です。 それが、私たちが生きてきた様式です。 その様式に私たちは、大きな安全を、見つけてきたのです。 その様式には、恐れがあります。 それを全的に見ることは、 それへ、深い・・・洞察を持つことです。 あなたが洞察を持つとき、問題全体が、 完全に変化させられ、壊されます。 私たちはそれを、自分自身に、正直に言えますか - すなわち、私たちは、この恐れの様式を、壊してしまった、と。 あなたは、歩いて、この場所を出て行くとき、 このものより自由であるように、です。 そのときあなたは、理性的で健全な人間に、なります。 不幸にも、私たちは今、そうではありません。
1:07:01 何時ですか。
1:07:04 聴衆: 1時まで20分です。
1:07:07 K: 1時まで20分ですか。こんなに長居をさせて、すみません。