Krishnamurti Subtitles
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OJ80T5 - 心理的に私たちは、一つの単一の動きである
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| 0:37 私たちは、先の土曜日と日曜日に 話していたことを、 つづけてもいいですか。 指摘してもよろしければ、 これは、娯楽ではありません - 面白がったり、知的にとか、情動的に 刺激されたりのためではありません。 どうぞ、メモを取らないでください。 あなたは両方へ注意を払えないからです。 気になさらないことを、 望みます。 |
| 1:35 世界中の人間たちは、 暴虐を受けてきました - 制度、施設、組織によって、 司祭者から、導師によって、 あらゆる形の権威主義的な、 攻撃的な主張によって、です。 哲学者によってか、 あるいは、神学者によってか、 あるいは、自分の体質、 貪欲と心配によって、です。 私たちは、これらの講話と - 明日が、最後の講話に なるでしょう - 質疑応答の間、 言ってきています。 人間たちは、はるかに遠い アジアに、生きていても、 または、西洋世界や、 ここに生きていても、 自分自身に、根本的な変容、 変異を、もたらすことが、 ますます必須に なりつつあるのです。 3:24 それは必要です。 なぜなら、社会は、 今、組織されて、 支えられているように とてつもなく複雑で、腐敗し、 不道徳になったからです。 そういう社会は、きわめて 破壊的であり、戦争へ繋がります - 抑圧へ、あらゆる形の 不正直な行為へ、繋がります。 そこに、社会に 変化を、もたらすには、 人間たちが自分自身を 変化させることが、必要です。 私たちのほとんどは、進んで そうしようとしていません。 私たちのほとんどは、 社会を変化させるために、 制度、施設、組織に、頼るのか、 あるいは、誰か指導者に、ですが、 これらの指導者は、 一般的に、横暴になります。 4:50 私たちは、社会に必要な変化をもたらす ために、他の人たちを、頼みにします。 私たち、人間は、それに 責任が、あります。 私たちがそれを、創り出してきました。 私たちがそれを、組み立ててきました。 私たち、アメリカ、ヨーロッパ、インドの 人たちや、どこに生きていても、 私たちが、この社会を、 作ってきたのです。 |
| 5:29 私たちは、中心的な事実を、 悟らないように、思われます - すなわち、自分たちが、 私たちの一人一人が、 世の中で進んでいることに、 責任があることを、です。 恐怖、暴力、戦争と、 その他すべてに、です。 私たち自身に、その変化を もたらすには、 私たちは、自分自身を 見つめなくてはいけません。 私たちはまさしく、私たちが何で あるかを、見なくてはいけません - 語り手を含めて、誰にも 依存しないで、です。 私たちはみんな、他の人たちに より、導かれてきました。 それが、大きな災難の一つです。 で、私たちは、全く 無責任になります。 私たち自身の行為に、 私たち自身の振るまいに、 私たち自身の卑俗さなどに、 無責任です。 |
| 7:15 私たちの多くは、そして、ほとんどの 人々は - 少なくとも、思慮深い人々は - 自らが条件づけられている ことに、気づいています。 社会により、教育により、 すべての様々な圧力と出来事、 事故と観念によって、です。 私たちは、条件づけられています - 宗教的な信念により、 理論をもった 哲学者によって、です。 それが、共産主義であっても、 哲学者により紡ぎ出された 他の種類の観念であっても、です。 「哲学」(フィロソフィー)という 言葉は、実際は、生の愛を、 真理の愛を、意味しています。 観念の愛、ではない。 神学的概念の愛、ではない。 生を実際に理解することと、 自らが、生きることの深い意味を 理解するとき、 起きる、愛することです。 それが、哲学者(フィロソファー) の本当の意味です。 |
| 8:48 私たちは、自分の信念と、 自分に課されてきた信念により、 条件づけられてきました そして、確実でありたいとの欲望、恐れを 持ちたくないとの欲望によって、です。 そのすべてが、私たちの条件づけを、 もたらしてきました。 アメリカ人、ロシア人、 ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、 アラブ人、ユダヤ人、など、です。 私たちは、 条件づけられています。 私たちのほとんどは、自分が条件づけ られていることに、気づいているので、 私たちは、「とうていそれを変化 させられない」と、言います - 「精神、頭脳には、 自体の条件づけを解くことは、 不可能である。 だから、それを堪え、それを修正し、 続けていこう」と。 あなたが、自分自身を観察するなら、 それが、私たちがしていることです。 どうぞ、私は・ ・・もし語り手が 指摘してもいいのなら、 私たちは、どの種類の宣伝をも していないのです。 10:23 私たちは、一つの信念を、 別のに対して、 一つの依存を、別の依存に 対して、設立していません。 何も証明するものは、 ありません。 なぜなら、私たちは、私たちのどちらも ともに考えているからです。 私たちのみんなが - あなたが ここで、真剣であるなら - この事実へ、注意を 注いでいます - すなわち、私たちは条件づけられて いるし、この条件づけの中から、 私たちは、世の中に、 ますます多くの荒廃を、 ますます多くの悲惨、混乱を、 創り出していることへ、です。 私たちは、ともに訊ねて、話し合って います。 ともに考えています - この条件づけが、全的に 解き放たれ、根絶できることが、 可能なのかどうか、です。 崩されてしまい、変化させられ、 変異させられることなどが、です。 11:41 で、私たちはともに、 考えています。 あなたは - 私が 指摘してもよろしいなら - 語り手に聞いて、 同意や不同意をしていません。 不同意や同意することは、 何もありません。 私たちは、ともに考えています - 社会に根本的な変化を もたらすことの必要性を、 見ています。 その変化は、私たち人間が、 自分自身を変容させるときだけ、 完全に、全体的に もたらしうるのです。 それは、事実です。 概念ではありません。 |
| 12:36 概念は単に、結論です - 一つの意見に対して、 別の意見を、 一つの信念に対して、 別の信念を、対立させること、 そして、それらの概念と 観念と理想について、 口論することや、 けんかすることです。 ここで、私たちは単に、 究明し、見つめている - 私たちの条件づけを 観察しているだけです。 |
| 13:16 私たちの意識は、その内容から 作り上げられています。 それは、またもや事実です。 私たちの心配、私たちの信念、私たちの 理想 - 私たちの経験によって、です。 内容、苦しみ、痛み、 過去の物事の思い出、 そのすべて、疑い、信条、 不確実さ、混乱、そのすべてが、 私たちの意識を、作ります。 どうぞ、私たちが話しているとき、 私たち自身の意識を、 見て、観察してください - もしよろしければ - です。 樹々、山々の美しさ 麗しい空 - スモッグがないなら、です。 そのすべてが、 私たちの意識の一部です。 14:51 憎しみ、失望、成功、 自らが生をとおして 経てゆく苦労。 そのすべてが、私たちの意識を 作り上げます。 あなたの、神への信や、 神への不信、 あなたの、導師の受け入れや、 導師を受け入れないこと、 などなど。 そのすべてが、私たちの意識を 作る内容です。 あなたは、その意識を 拡大でき、制限できますが、 それは、やはりその意識の一部、 その内容です。 |
| 15:48 私たちは、過去の講話の間に言って きましたように、訊ねています - 或る人間にとって、 全的に、心理的に、恐れより 自由であることは、 可能なのかどうか、です。 先の土曜日か、日曜日、私たちは よく気をつけて、それに入りました。 短く、それを 反復してもいいのなら、 恐れは、私たちみんなが、それについて 知っていて、様々な種類のですが、 恐れは、「物事」について、というか、 あれやあれに関して、ですか。 または、恐れは、精神の まさに構造ですか。 または、思考が、そこに 恐れを、置いてきたのですか。 どうぞ、私は、主張していません。 私たちは、ともに話し合っています。 精神は、頭脳の動きすべて、 私たちの神経の反応、応答と それらですが、 その精神は、それ自体に、 恐れを持っていますか。 または、思考は精神の一部ですが、 それが、恐れをもたらしてきましたか。 17:52 いいですか? 私たちは、 この問いを訊ねています。 私たちは、こう言いました - それを見出すには、あなたは、 思考の本性を、 検討しなければなりません。 私たちの考える過程全体は、 反応として生まれます - 頭脳に蓄えられた 知識、経験の中からです。 知識はいつも、不完全であるので - 科学的な知識でも、 自らが経験をとおして 取得してきた知識でも、 書物、学習、調査を とおした知識でも、 いつも、不完全であるにちがい ありません。 それは、事実です。 ゆえに、思考は、 不完全です。 断片化し、砕けていて、 分割的です。 私たちは訊ねています - 思考が、 恐れの事実を、導入してきましたか。 |
| 19:15 私たちは、思考は 時であると、言いました。 なぜなら、思考は動きであり、 時は動きであるからです。 すなわち、物理的に、ここからそこへ 行くこと、道のりを行くこと、です。 その同じ動きが、 心理的な世界の中へ、 導入されてきました - 「私はこれだ。 私はあれになるだろう」 とか、「私はあれになりたい」と。 で、物理的な時だけではなく、 また、心理的な時も、あるのです。 それが、私たちが生きる ところの様式です。 それが、私たちの 条件づけの一部です。 私たちは、訊ねています。 ともに 話し合い、ともに考えています - 思考が恐れの要因で あるのかどうか、です。 そうならば、その思考は、自体が恐れを もたらしているのを、観察できますか。 それで、見出す・ ・・ 精神は、 精神自体が何の恐れをも持たない ことを、発見するように、です。 私たちはそれに入りました。必要なら、 私たちはもう一度、それに入られます。 |
| 21:10 で、すなわち、時、達成ですが、 この百万年以上、 私たちの頭脳は、 条件づけられ、進化しました。 その頭脳、その精神は - 精神は、その一部です - 条件づけられています。 私たちは、言っています。 互いに訊ねています。 ともに考えています - そういう変異は、 起こりうるのかどうか、です。 その変異は、よく気を つけて、何の歪曲もなく、 自分自身を見つめられるとき、 心理的に起こりうるだけです。 なぜなら、それが、 中心的な事実であるからです。 何の歪曲もなく - それは可能ですか。 それは、何の動機もない ときだけ、可能です - 何かになろう、何かを変化 させようなどの動機が、です。 実際に、私たちが何であるのかを、 歪曲なく、観察すること - 私たちがあるべきものや、 私たちがそうであったもの、ではなく、 今、起きつつあることを、です。 |
| 22:57 そして、私たちの観察に、 どんな恐れでもあるとき、 歪曲が、起こります。 私たちは、先日 それに、入りました。 そして、どんな形の楽しみでも、 あるなら、です。 これが、自らが理解し、見つめなくては いけない、中心的要因の一つです。 楽しみは、私たちを 駆り立てる力の一つです - 所有の楽しみ、知識の楽しみ、 達成の楽しみ、権力の楽しみ、 地位の楽しみと、 性的なことの楽しみ、 誰かに従うことの楽しみ、 そして、覚りを 達成することの楽しみ、 それが何であろうとも、です。 それが、私たちの中心的な活動の 一つです。恐れのように、です。 24:42 それらは、不幸にも、 相伴います。 私たちが自分自身を、あるがままに 観察していることを、望みます - 生における、これら二つの要因を、 観察していることを、です。 それは、語り手があなたに、語って いる、ということではありません。 あなたは、これについて、 すっかりご存じです。 私たちは、こう言います - 恐れが、そのすべての心配、憎しみ、 敵対などなどとともに、 あるかぎり - 比較、順応、模倣、 そして、もっともっと多くの楽しみを 得たいとの、ものすごい駆り立てと、 その追求が、歪曲する要因です - 実際に進んでいることを 観察する中で、です。 |
| 26:06 私たちが、或る心理学者、 或る哲学者、或る導師、 或る司祭者、或る権威に 沿って、観察するなら、 私たちは、観察していません。 私たちは、彼らの知識に沿って、 彼らの究明に沿って、観察しています。 私たちの精神は、他の人たちの 調査、究明と結論を 受け入れることが、こうも 慣習になってしまいました。 その知識を 自分の精神にもって、 私たちは、自分自身を 見つめようとします。 ゆえに、私たちは、私たち 自身を、見つめていません。 私たちは、他の人の眼を とおして、見ています。 これが、百万年以上の間、人間たちが 堪えてきた暴虐だったのです。 |
| 27:33 私たちは、あなたが楽しみを抑圧 したり、楽しみを変容させたり、 楽しみから逃げ去ったりしなければ ならない、と言っていません。 それが、司祭者たちが してきたことです。 抑圧のその様式、その観念 - 何か偶像、人物、概念と同一視 することをとおした、逃避。 それは、問題を 解決してきませんでした。 で、私たちは、ともに行き、究明し、 ともに考えなくてはいけません - 楽しみの本性は、何ですか。 |
| 28:27 私たちが言いましたように、 これは、娯楽ではありません。 これは、とても深刻です。 あなたが真剣でないのなら、 あなたが、日光浴をしたいとか、 美しい樹の下に座りたいとか 思うなら、そうしてください。 ですが、あなたは、言われつつある ことに、注意を払っていません。 これは、私たちの生全体に 影響する、深刻な事態です。 |
| 29:08 で、私たちが、先日、恐れの 本性と構造を、調べたように、 ともにもう一度、楽しみの 本性を、観察しましょう。 なぜ、世界中の人間たちは、 このものへ宣告されているのか。 なぜ人間たちは、様々な形で 果てしなく、それに従うのか。 いいですか? で、 楽しみとは何ですか。 なぜセックスは、重要に なったのですか。 この国では、それについて、 幾冊も幾冊も、書かれています。 それは、ヴィクトリア時代への 反動ですか。 30:25 それは、まるで、自らが初めて、 それを発見したかのようです。 ここでは、何の抑制もなく、 何の謙遜もなく - 私たちは、非難していません。 私たちは、観察しています - それは、進んでいきます - 違った形でのセックスです。 それは、楽しみの一部です。 憶えていること、映像、欲望、など。 私たちは、先日、 その問いに、入りました - 欲望の本性です。 私たちは 今、それに入らないでしょう。 私たちは、時間が 制限されているからです。 |
| 31:23 それは、いつも、 憶えていることです。 楽しみを、過ぎ去った出来事を、 憶えている。 その出来事は、頭脳に、跡を 残したのです。 その跡は、 去ってしまった出来事の 思い出ですが、 その出来事は、 その瞬間に、その秒に、 大きな喜びを、与えたのです。 そのとき、それを憶えていることと、 それを追求すること、です。 で、私たちの頭脳、私たちの精神は、 過去の憶えていることの束です。 様々な種類の、 これら憶えていることが、 この欲望を、この楽しみの追求を、 もたらしてきたのです。 32:48 で、あなたが、それに きわめて深く入りたいのなら - 私たちはちょうど今、そうする でしょう - 精神は、頭脳を含めて - 私たちは、「精神」という言葉を 用いています。 どうぞ留意してください。 私が説明してもいいいなら、精神は、 その脳回(畳み込み)すべてと その経験すべてを、 知識として蓄えた頭脳です。 頭脳、精神は、反応、 物理的な感受、それらです。 それらの総体が、精神です。 精神は、その内容すべてを ともなった、この意識の一部です。 |
| 33:48 で、思考は、憶えておくことの 要因であり、 憶えておくことは、出来事を 記録することです - 一秒間、一分間、あなたに感受を 与えてきた出来事を、です。 それは、楽しみとして、 変容されてきました。 精神は、記録しないで いられますか。 私たちが言っていることを、 理解されますか。 あなたはたぶん、それに 入ったことがありませんが、 私たちは今、それに 入ろうとしています。 私たちの頭脳は、 記録する機械です。 過去の経験すべてを、 記録しています - 楽しみ、痛み、 心配、傷害、 挫傷。 自分が心理的に 受けてきたもの。 そのすべてが、思考により、 組み立てられています。 35:16 すなわち、憶えておくことと、 その憶えたことに沿って、 行為し、追求することです。 私たちは、こう言っています - 頭脳は、 精神の総体、全体は、登録を 継続しないことが、できますか。 すなわち、あなたは、 出来事があるなら、です。 過ぎて、終了し、 それを記録しない。 私は、少しそれに 入るでしょう。 |
| 35:58 私たちは、子ども時代から 記録します - 傷害、私たちが 受けてきた心理的な傷。 私たちの親により、 教育により、 比較をとおして、 課されてきた痛み。 すなわち、「おまえは、兄さんの ようでなければならない」とか、 「おまえは、一定の地位を達成 しなければならない」などと。 で、私たちは、人間たちは、 心理的に負傷しています。 あなたが今、 自分の生き方について 問われるなら - あなたの信念、 あなたの混乱、あなたの権力への 欲望について、問われるなら、 あなたは、傷つくでしょう。 なぜあなたは、誰かに従いますか。 あなたは傷つきます。 さて、言われ、訊かれつつある ことを、聞いてください。 そして、登録しないのです。 これらに付いてきておられるのか どうかと、思われます。 いえ、いえ、マダム。 これは、全く困難です。 いえ、いえ。そんなに容易く 言わないでください。 |
| 37:34 あなたが受けるお世辞を、 登録しない。 または、 傷害、侮辱を、です。 その登録は、ほぼ即時的です。 誰かがあなたに、「あなたは何と すばらしい人物だ」と、言うなら、 即時の登録が、あります。 「ああ、あなたは、先日、何と すばらしい話をしたのか! 」と。 それは、登録されます。 その登録から、楽しみが、あります。 または、「あれは、 かなり愚劣な話だった」と。 即時に、それが登録されます。 それが傷害になります。 あなたは、余生の間、 それを運んで行きます。 心理的に、です。 私たちは、言っています。 訊ねています - 提示されつつある鏡を 見つめています。 その鏡の中に、私たちは、何の 歪曲もなく、自分自身が見えます。 38:57 すなわち、お世辞の瞬間に、 とても注意深い。 侮辱の瞬間に、 誰かが、残酷な一言を言ったり、 あなたの神経質な活動を 指摘したりする一秒に、です。 それを事実として見て、 それを登録しない。 それは、その瞬間に 注意を必要とします。 注意は - その注意の中に、 あなたがそこから注意を始めている 中心がないという、意味合いです。 私は、それらに入らないでしょう。 私たちは先日、そうしたからです。 |
| 40:03 で、私たちは、 楽しみの本性が、見えます。 私はもはや、それに入れません。 短くは、それで十分です。 なぜなら、私たちは、ともに話し合う ことを、たくさん持っているからです。 |
| 40:23 で、恐れと楽しみ。私たちは、さらに 訊ねています。愛は、楽しみですか。 みなさま、それに 入ってください。 愛は、欲望ですか。 愛は、何かあなたが 憶えていることですか。 あなたが、相手の人物について 創り出してきたイメージですか。 あなたは、そのイメージを愛して いますか。 それが愛ですか。 葛藤、野心、 成功への駆り立てが、あるとき、 愛が、ありえますか。 どうぞ、これらを探究し、 あなたたち自身の生において、 それを見つめてください。 私たちは、自然への愛、 書物への愛、詩歌への愛、 あれこれへの愛を、 知っていますが、 私たちは、心理的に 話しています - そちらのほうが、はるかに重要です。 なぜなら、それは、私たちの生を、 歪曲するし、それで私たちの活動と 行為を歪曲するからです。 そして、愛なしには、 何もありません。 |
| 42:19 で、私たちは、この事実について、 真剣であり、関心を持っているなら - すなわち、人間たちが この社会を、創り出してきた、 そして、人間たちは、 根本的な変容を、自分自身に 心理的に、 もたらすのでなければ、 彼らは、幾世紀に幾世紀も、 苦しみつづけるだろうこと、です - 他の人たちのために、 悲惨を創り出し、 神と呼ばれる、この果てしない 幻影を、追求する、 その他すべてです。 |
| 43:07 で、愛と呼ばれる、 あのふしぎな花を、 見出すには、または、 それに出くわすには - それは、 制度、施設をとおし、 組織をとおし、信念をとおして、 訪れられません。 そして、愛は、楽しみ、 欲望、嫉妬ですか。 そうでないなら、そのすべてを 拭い去ることは、可能ですか - 努力なく、自然に、 楽に、です。 すなわち、憎しみ、暴力は、 確かに愛ではないですが、 それは終わりえますか - いつか未来の時に、ではない。 明日ではない。 終わるのです。 あなたが聞いているとき、 それを終わらせてください。 私たちは、執着は愛ではない との問いに、入りました。 なぜなら、執着は、 あらゆる形の敵対、 依存、恐れなどを、 生み育てるからです。 みなさんは、それを見ます。 みなさんは、それをご存じです。 みなさんは、十分にこれらに、 気づいています。 45:21 そして、見ることが、 それが終わることです! 単に論理的に、分析的に、 それを見るだけではなく、 事実を、見る - 執着の全的な帰結を、です。 それは、きわめて 明らかです。 しかし、私たちのほとんどにとって、 見ることは、知的に分析すること、 言語的に説明することと、 説明に満足することです - 哲学的でも、 心理的などでも、です。 執着が実際に何を 含意しているかを、見る! その痛み、嫉妬、敵対、 そうね、 その動きの帰結全体です。 まさに見ることこそが - 視覚的に見る、視覚的な観察 だけではなく、 また、この動きを聞く芸術、 という意味で、です。 あなたがそれを完全に聞くとき、 それは、それが終わることです。 |
| 47:08 で、私たちの意識の内容が 終わること - すなわち、「私」、自己の まさに本質が、です。 なぜなら、それが、それ、 「私」であるからです。 インドの古代ヒンドゥーは、 「私」、中心、本源、 まさに本質が、そこにある、 と言いました - 実在、神、真理が、 そこにある。 そのまわりに、 多くの無知の層が、ある。 精神を、これら様々な層より、 解き放つには、 あなたは、多くの生を 持たなければならない、と。 そうね、輪廻転生と、 それらのことです。 私たちは、それを 言っていません。 私たちは、あなたが危険を見、 危険を聞き、 危険を観察するとき、即座の 応答がある、と言っています。 48:50 あなたは、危険が見えるとき - バスが 自分に向かってくる危険が、です - あなたは即時に、動いて離れます。 あなたが神経症でないなら、です。 おそらく、私たちのほとんどは、 そうなのです! が、私たちは、危険が見えません - 執着のものすごい危険が、です。 民族主義の、 私たちの別々の信念の、 私たちの別々の観念、 理想などのそれが、です。 私たちは、それの 大きな危険が、見えません。 なぜなら、それは、人を 人に対して、分割するからです - 一人の導師を、 別の導師に対して、 宗教組織の一部を、 別の宗教組織に 対して、です。 これは、この国中で 起きつつあります。 そして、世界中で、です。 49:57 あなたは、危険が見えるとき、 行為します。 ですが、不幸にも、私たちは、 心理的な危険が、見えません - 比較の危険、 執着の危険、 孤立した個人的要求の 危険が、です。 なぜなら、私たちは、 個々人ではないからです。 あなたが観察するなら、 私たちは、そうではありません。 個人(インディヴィデゥアル) という言葉は、 分割不可能だ、壊れていない、断片化 していない、という意味です。 なぜなら、私たちの精神、 私たちの頭脳は - あなたが気をつけて、 それを観察するなら - それは、幾千年に幾千年をかけて 進化してきたからです。 何百万年に何百万年が、 経っており、 私たちの頭脳は、 「あなた」の頭脳ではない。 それは、人類の頭脳です。 人間の頭脳です。 51:27 心理的に、あなたは苦しみます。 あなたは、心配します。 あなたは、不確実で、混乱し、 安全を探し求めています。 それがまさに、インドで、アジアで、 世界中で、やられていることです。 で、心理的に私たちは、一つです。 一つの単一の動きです。 私たちの教育をとおし、私たちの 個人的な欲望すべてなどをとおして、 私たちは、これら 広大な無量な精神を 自分の些細な小さな喧嘩と嫉妬と 心配に、狭めてきたのです。 |
| 52:25 また、時間が許すなら、 私たちは、 死、苦しみ、痛みの問いに、 入らなくてはいけません。 あなたが、これらに入りたいのか どうか、私は知りません。 なぜなら、それは、私たちの 生の一部であるからです。 あなたは、「私は、 死に、興味がないな。 私は苦しみに、興味が ないな」とは、言えません。 それは、偏って、 非現実的であるでしょう。 拒絶する、そういう精神は、 幼稚な精神です。 私たちは、生の複雑な問題全体を 究明しなくてはいけません。 自らはそれを、即時に理解するのか - 構造全体を、です。 あるいはまた、あなたは、 部分ごとに捉えて、 それにより、全体を 理解したいと望むのか、です。 |
| 53:56 どうぞ、これは、質疑応答の 会合ではありません。 |
| 54:15 だから、私たちはまた、ともに 考慮し、話し合わなくてはいけません - 苦しみとは何なのか、 なぜ世界中の人間たちが、 この拷問を経てゆくのか、 あなたは、敏感であるなら、 あなたは、鋭敏で、見守っているなら、 自分は、大変多く苦しみます。 あなた自身の小さな裏庭で、 だけではなく、 あなたは、機会を持たない 人間たちのために、苦しみます - 食べ物を持たなくて、 教育を受けなくて、 けっして車に 乗らないだろうし、 着たきりの布しか持たない 人たちのために、です。 苦しむ人間たちは、 動物たちに、賦課してきました。 そのすべて、この無量の地球的な 苦しみです - 戦争をとおして、 独裁者により賦課された暴虐、 様々な教義などにより賦課された 暴虐、悲しみ。 で、これは何ですか。 なぜ人類、 人間たち、あなたと、あらゆる人は、 なぜ私たちは、このものより、 完全に自由でないのですか。 |
| 56:31 苦しみが、あるところ、 愛は、ありません。 どうしてあなたは、 愛せますか。 で、欲望、楽しみ、恐れ、 葛藤、苦しみが、あるところ、 愛は、ありえないのです。 で、なぜ人間たちが、毎年、 毎世紀、これを経て行くのかを 理解することが、きわめて 重要になります。 それを、或る種のロマンチックな 戯言に、還元しないようにしましょう。 それは、現実の事実です。 あなたは、自分が愛していると 思う誰かを、失うとき、 何という苦悩を 経てゆきますか。 あなたは、何かに 失敗してしまったとき、です。 そのすべては、人間たちが持ち 運んできた、ものすごい重みです - 彼らが、消して しまえなかったものです。 |
| 58:10 苦しみは、意志の行為により、 終わることになりますか。 理解されますか。 あなたは、「私は苦しむまい」と 言えません。 意志の行為こそもまた、 苦しみの一部です。 あなたは、それより逃げ去れません。 あなたは、教会へ逃げ去ります。 あらゆる形の逃避を、私たちは持って います - このものすごい重荷からです。 キリスト教の世界で、あなたたちは、 自分の像をとおして、逃避してきました。 ヒンドゥー教徒は、この種の ゲームに、もう少し敏いので、 彼らは、「苦しみは、 あなたの過去世のせいで、 あなたの誤った行いのために 来る」などなどと、言います。 まず第一に、なぜ私たちは、それを 解消してこなかったのですか。 なぜ人間たちは、 テクノロジーのことでは、 互いに殺し合うことでは、 きわめて利巧なのに、 なぜ私たちは、この問いを、 解決してこなかったのですか。 1:00:13 第一のことは、けっして、 これから逃避しないことです。 理解されますか。 けっして、苦しみから 逃避しない - 心理的に、です。 私たちは物理的に、痛みを受けます。 私たちは、それについて何かをします。 錠剤を飲む、医師、 などなどですが、 心理的に、 あなたは誰かを失うとき、 何らかのもの、人物へ、 深い執着が、あるとき、 そして、その執着が 壊れるとき、 涙、心配、恐れ、 悲しみが、あります。 悲しみがあるとき、 自然な、または、 不自然な応答は、慰めを 探し求めることです - 飲酒に、薬物に、何か儀式的な 宗教的な活動に、慰めを、です。 1:01:55 大きな悲しみ、涙、 衝撃の感覚。 その瞬間にそれは、可能でありません。 あなたは、衝撃の状態に、います。 これらに注目したことが、 ないですか。 ですが、あなたは、 そこから出てくるとき - それは、一日、続くかもしれません。 それは、数時間、続くかもしれません - 私は、それが、二日以上、 続かないことを、望みます - あなたは、そこから出てくる とき、即時の応答は、 この苦しみの原因を、見つけること、 それを分析することです - それもまた、 別の形の逃避です。 なぜなら、あなたは、この中心的な 事実より、逃げ去っているからです - それを見つめ、それと ともにあることより、です。 あなたが、その衝撃の中から 出てくるとき、思考が始まります。 私たちが一緒に したことの思い出、 私たちがしなかったこと - 後悔、 過去の痛み、さびしさ - それが今、自己主張しています。 それが、出てきています - そのすべてが、です。 1:03:44 何の思考の動きもなく、 それを見つめる。 なぜなら、思考は、恐れの 中心的な要因であるからです。 思考はまた、その楽しみの要因です。 そして、この悲しみ - 人類が百万年の間、 持ち運んできたもの - の要因です。 それは、「私」の、 この構造全体の一部です。 |
| 1:04:24 私たちは、気をつけて、 慎重に、こう言っています - 悲しみに、終わることが、 ある、と。 完全に、です。 慈悲(コンパッション)、 愛の熱情(パッション)が、 あるのは、そのときだけです。 |
| 1:04:57 私たちは今朝、死の問いへ入る 時間が、ありますか。 |
| 1:05:10 今、何時でしょうか。 聴衆: 1時まで25分です。 |
| 1:05:12 K: 1時まで25分。 |
| 1:05:14 そうね、私たちは、明日、 最後の講話が、あります。 私たちは、死について、 話さなくてはいけません - それは、きわめて 複雑な事柄です。 そして、冥想の本性について、です - それは、生の一部です。 朝と午後と晩ごとの 5分の冥想ではない。 生の動き全体としての、 冥想です - 行為より、私たちの日常の 行為より、分離して、ではない。 で、私たちは、 死、行為、冥想の本性を、 究明しなくてはなりません。 |
| 1:06:20 そうね、みなさま。 あなたは、これらを、 聞かれるかもしれません。 語り手により刺激されたり、 彼に敵対的であったり するかもしれません。 なぜなら、 彼は、あなたを動揺させつつあり、 自分の虚栄を崩してしまい、 自分のかなり見かけ倒しで小さな 楽しみを、示しつつあるからです。 語り手が、あなたの前に 置きつつある鏡に、 あなた自身を見ています。 ですが、そのすべては、あなたが行為 しないなら、ほとんど意味がありません。 ですが、行為は、きわめて、 きわめて複雑です。 それはただ、 「私は、自分がしたいと感じることを、 しよう」だけではありません。 それが、あなたが今、 到ったことなのです - 自分の欲望へ、即座の応答、 即座の冥想と、即座の啓明。 1:07:53 それらは、何という 戯言でしょう! それは、心理学者の幾人か、 他の人たちが、 言っていることです - 自分が したいことをしなさい、と。 あなたがしたいこと、 あなたがしてきたことは、 私たちが生きるところの、この ひどい社会を、もたらしてきたのです。 それが、退廃の始まりです。 この麗しい気候、 美しい国でもって、 迅速な退廃が、 進みつつあります。 私たちのほとんどは、 それに気づいていません。 私たちは、退廃する前に、 成熟さえしていません。 私たちは、そこに到ってさえ いません。 |
| 1:08:56 で、これらすべての講話と 議論と、質疑応答は、 自らが聞く芸術を学ぶのでなければ、 ほとんど意味がありません - 自分自身に聞く。 どんな 震えもなく、どんな歪曲もなく、 どんな偽りの応答もなく、 ただ、あなた自身に聞くのです。 また、見る芸術も、です - あなた自身を観察するのです。 あなたは、自分の過去の経験をもって 自分自身を観察できません。 あなたは、ありのままに 自分自身を 観察しなくてはいけません - 動いているのを、です。 そのとき、学ぶ芸術が、 あります。 それは、知識と情報の 蓄積ではありません。 この生きる事柄全体は、 こうも複雑です。 自らは、生の動き全体を、 観察しなくてはいけません。 おそらく私たちは、明日、 死と行為と冥想に 入るでしょう。 |