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OJ80T5 - 心理的に私たちは、一つの単一の動きである
第5回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1980年5月17日



0:37 私たちは、先の土曜日と日曜日に話していたことを、 つづけてもいいですか。 指摘してもよろしければ、これは、娯楽ではありません - 面白がったり、知的にとか、情動的に刺激されたりのためではありません。 どうぞ、メモを取らないでください。 あなたは両方へ注意を払えないからです。 気になさらないことを、望みます。
1:34 世界中の人間たちは、 暴虐を受けてきました - 制度、施設、組織によって、 司祭者から、導師によって、 あらゆる形の権威主義的な、攻撃的な主張によって、です。 哲学者によってか、あるいは、神学者によってか、 あるいは、自分の体質、貪欲と心配によって、です。 私たちは、これらの講話と - 明日が、最後の講話になるでしょう - 質疑応答の間、言ってきています。 人間たちは、はるかに遠いアジアに、生きていても、 または、西洋世界や、ここに生きていても、 自分自身に、根本的な変容、変異を、もたらすことが、 ますます必須になりつつあるのです。 それは必要です。 なぜなら、社会は、 今、組織されて、支えられているように とてつもなく複雑で、腐敗し、不道徳になったからです。 そういう社会は、きわめて破壊的であり、戦争へ繋がります - 抑圧へ、あらゆる形の不正直な行為へ、繋がります。 そこに、社会に変化を、もたらすには、 人間たちが自分自身を変化させることが、必要です。 私たちのほとんどは、進んでそうしようとしていません。 私たちのほとんどは、社会を変化させるために、 制度、施設、組織に、頼るのか、あるいは、誰か指導者に、ですが、 これらの指導者は、一般的に、横暴になります。 私たちは、社会に必要な変化をもたらすために、他の人たちを、頼みにします。 私たち、人間は、それに責任が、あります。 私たちがそれを、創り出してきました。 私たちがそれを、組み立ててきました。 私たち、アメリカ、ヨーロッパ、インドの人たちや、どこに生きていても、 私たちが、この社会を、作ってきたのです。
5:28 私たちは、中心的な事実を、悟らないように、思われます - すなわち、自分たちが、私たちの一人一人が、 世の中で進んでいることに、責任があることを、です。 恐怖、暴力、戦争と、その他すべてに、です。 私たち自身に、その変化をもたらすには、 私たちは、自分自身を見つめなくてはいけません。 私たちはまさしく、私たちが何であるかを、見なくてはいけません - 語り手を含めて、誰にも依存しないで、です。 私たちはみんな、他の人たちにより、導かれてきました。 それが、大きな災難の一つです。 で、私たちは、全く無責任になります。 私たち自身の行為に、私たち自身の振るまいに、 私たち自身の卑俗さなどに、無責任です。
7:14 私たちの多くは、そして、ほとんどの人々は - 少なくとも、思慮深い人々は - 自らが条件づけられていることに、気づいています。 社会により、教育により、すべての様々な圧力と出来事、 事故と観念によって、です。 私たちは、条件づけられています - 宗教的な信念により、 理論をもった哲学者によって、です。 それが、共産主義であっても、 哲学者により紡ぎ出された他の種類の観念であっても、です。 「哲学」(フィロソフィー)という言葉は、実際は、生の愛を、 真理の愛を、意味しています。 観念の愛、ではない。 神学的概念の愛、ではない。 生を実際に理解することと、 自らが、生きることの深い意味を理解するとき、 起きる、愛することです。 それが、哲学者(フィロソファー)の本当の意味です。
8:48 私たちは、自分の信念と、自分に課されてきた信念により、 条件づけられてきました そして、確実でありたいとの欲望、恐れを持ちたくないとの欲望によって、です。 そのすべてが、私たちの条件づけを、もたらしてきました。 アメリカ人、ロシア人、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、 アラブ人、ユダヤ人、など、です。 私たちは、条件づけられています。 私たちのほとんどは、自分が条件づけられていることに、気づいているので、 私たちは、「とうていそれを変化させられない」と、言います - 「精神、頭脳には、 自体の条件づけを解くことは、不可能である。 だから、それを堪え、それを修正し、続けていこう」と。 あなたが、自分自身を観察するなら、それが、私たちがしていることです。 どうぞ、私は・・・もし語り手が指摘してもいいのなら、 私たちは、どの種類の宣伝をもしていないのです。 私たちは、一つの信念を、別のに対して、 一つの依存を、別の依存に対して、設立していません。 何も証明するものは、ありません。 なぜなら、私たちは、私たちのどちらもともに考えているからです。 私たちのみんなが - あなたがここで、真剣であるなら - この事実へ、注意を注いでいます - すなわち、私たちは条件づけられているし、この条件づけの中から、 私たちは、世の中に、ますます多くの荒廃を、 ますます多くの悲惨、混乱を、創り出していることへ、です。 私たちは、ともに訊ねて、話し合っています。ともに考えています - この条件づけが、全的に解き放たれ、根絶できることが、 可能なのかどうか、です。 崩されてしまい、変化させられ、変異させられることなどが、です。 で、私たちはともに、考えています。 あなたは - 私が指摘してもよろしいなら - 語り手に聞いて、同意や不同意をしていません。 不同意や同意することは、何もありません。 私たちは、ともに考えています- 社会に根本的な変化を もたらすことの必要性を、見ています。 その変化は、私たち人間が、自分自身を変容させるときだけ、 完全に、全体的にもたらしうるのです。 それは、事実です。 概念ではありません。
12:36 概念は単に、結論です - 一つの意見に対して、別の意見を、 一つの信念に対して、別の信念を、対立させること、 そして、それらの概念と観念と理想について、 口論することや、けんかすることです。 ここで、私たちは単に、究明し、見つめている - 私たちの条件づけを観察しているだけです。
13:16 私たちの意識は、その内容から作り上げられています。 それは、またもや事実です。 私たちの心配、私たちの信念、私たちの理想 - 私たちの経験によって、です。 内容、苦しみ、痛み、 過去の物事の思い出、 そのすべて、疑い、信条、 不確実さ、混乱、そのすべてが、私たちの意識を、作ります。 どうぞ、私たちが話しているとき、私たち自身の意識を、 見て、観察してください- もしよろしければ - です。 樹々、山々の美しさ麗しい空 - スモッグがないなら、です。 そのすべてが、私たちの意識の一部です。 憎しみ、失望、成功、 自らが生をとおして経てゆく苦労。 そのすべてが、私たちの意識を作り上げます。 あなたの、神への信や、神への不信、 あなたの、導師の受け入れや、 導師を受け入れないこと、などなど。 そのすべてが、私たちの意識を作る内容です。 あなたは、その意識を拡大でき、制限できますが、 それは、やはりその意識の一部、その内容です。
15:48 私たちは、過去の講話の間に言ってきましたように、訊ねています - 或る人間にとって、全的に、心理的に、恐れより 自由であることは、可能なのかどうか、です。 先の土曜日か、日曜日、私たちはよく気をつけて、それに入りました。 短く、それを反復してもいいのなら、 恐れは、私たちみんなが、それについて知っていて、様々な種類のですが、 恐れは、「物事」について、というか、あれやあれに関して、ですか。 または、恐れは、精神のまさに構造ですか。 または、思考が、そこに恐れを、置いてきたのですか。 どうぞ、私は、主張していません。 私たちは、ともに話し合っています。 精神は、頭脳の動きすべて、 私たちの神経の反応、応答とそれらですが、 その精神は、それ自体に、恐れを持っていますか。 または、思考は精神の一部ですが、それが、恐れをもたらしてきましたか。 いいですか? 私たちは、この問いを訊ねています。 私たちは、こう言いました - それを見出すには、あなたは、 思考の本性を、検討しなければなりません。 私たちの考える過程全体は、反応として生まれます - 頭脳に蓄えられた知識、経験の中からです。 知識はいつも、不完全であるので- 科学的な知識でも、 自らが経験をとおして取得してきた知識でも、 書物、学習、調査をとおした知識でも、 いつも、不完全であるにちがいありません。それは、事実です。 ゆえに、思考は、不完全です。 断片化し、砕けていて、分割的です。 私たちは訊ねています - 思考が、恐れの事実を、導入してきましたか。
19:15 私たちは、思考は時であると、言いました。 なぜなら、思考は動きであり、時は動きであるからです。 すなわち、物理的に、ここからそこへ行くこと、道のりを行くこと、です。 その同じ動きが、心理的な世界の中へ、 導入されてきました - 「私はこれだ。私はあれになるだろう」とか、「私はあれになりたい」と。 で、物理的な時だけではなく、また、心理的な時も、あるのです。 それが、私たちが生きるところの様式です。 それが、私たちの条件づけの一部です。 私たちは、訊ねています。ともに話し合い、ともに考えています - 思考が恐れの要因であるのかどうか、です。 そうならば、その思考は、自体が恐れをもたらしているのを、観察できますか。 それで、見出す・・・精神は、 精神自体が何の恐れをも持たないことを、発見するように、です。 私たちはそれに入りました。必要なら、私たちはもう一度、それに入られます。
21:09 で、すなわち、時、達成ですが、この百万年以上、 私たちの頭脳は、条件づけられ、進化しました。 その頭脳、その精神は - 精神は、その一部です - 条件づけられています。 私たちは、言っています。 互いに訊ねています。 ともに考えています - そういう変異は、起こりうるのかどうか、です。 その変異は、よく気をつけて、何の歪曲もなく、 自分自身を見つめられるとき、心理的に起こりうるだけです。 なぜなら、それが、中心的な事実であるからです。 何の歪曲もなく - それは可能ですか。 それは、何の動機もないときだけ、可能です - 何かになろう、何かを変化させようなどの動機が、です。 実際に、私たちが何であるのかを、歪曲なく、観察すること - 私たちがあるべきものや、私たちがそうであったもの、ではなく、 今、起きつつあることを、です。
22:57 そして、私たちの観察に、どんな恐れでもあるとき、 歪曲が、起こります。 私たちは、先日それに、入りました。 そして、どんな形の楽しみでも、あるなら、です。 これが、自らが理解し、見つめなくてはいけない、中心的要因の一つです。 楽しみは、私たちを駆り立てる力の一つです - 所有の楽しみ、知識の楽しみ、 達成の楽しみ、権力の楽しみ、地位の楽しみと、 性的なことの楽しみ、誰かに従うことの楽しみ、 そして、覚りを達成することの楽しみ、 それが何であろうとも、です。 それが、私たちの中心的な活動の一つです。恐れのように、です。 それらは、不幸にも、相伴います。 私たちが自分自身を、あるがままに観察していることを、望みます - 生における、これら二つの要因を、観察していることを、です。 それは、語り手があなたに、語っている、ということではありません。 あなたは、これについて、すっかりご存じです。 私たちは、こう言います - 恐れが、そのすべての心配、憎しみ、 敵対などなどとともに、あるかぎり - 比較、順応、模倣、 そして、もっともっと多くの楽しみを得たいとの、ものすごい駆り立てと、 その追求が、歪曲する要因です - 実際に進んでいることを観察する中で、です。
26:06 私たちが、或る心理学者、或る哲学者、或る導師、 或る司祭者、或る権威に沿って、観察するなら、 私たちは、観察していません。 私たちは、彼らの知識に沿って、彼らの究明に沿って、観察しています。 私たちの精神は、他の人たちの調査、究明と結論を 受け入れることが、こうも慣習になってしまいました。 その知識を自分の精神にもって、 私たちは、自分自身を見つめようとします。 ゆえに、私たちは、私たち自身を、見つめていません。 私たちは、他の人の眼をとおして、見ています。 これが、百万年以上の間、人間たちが堪えてきた暴虐だったのです。
27:33 私たちは、あなたが楽しみを抑圧したり、楽しみを変容させたり、 楽しみから逃げ去ったりしなければならない、と言っていません。 それが、司祭者たちがしてきたことです。 抑圧のその様式、その観念 - 何か偶像、人物、概念と同一視することをとおした、逃避。 それは、問題を解決してきませんでした。 で、私たちは、ともに行き、究明し、ともに考えなくてはいけません - 楽しみの本性は、何ですか。
28:27 私たちが言いましたように、これは、娯楽ではありません。 これは、とても深刻です。 あなたが真剣でないのなら、あなたが、日光浴をしたいとか、 美しい樹の下に座りたいとか思うなら、そうしてください。 ですが、あなたは、言われつつあることに、注意を払っていません。 これは、私たちの生全体に影響する、深刻な事態です。
29:08 で、私たちが、先日、恐れの本性と構造を、調べたように、 ともにもう一度、楽しみの本性を、観察しましょう。 なぜ、世界中の人間たちは、このものへ宣告されているのか。 なぜ人間たちは、様々な形で果てしなく、それに従うのか。 いいですか? で、楽しみとは何ですか。 なぜセックスは、重要になったのですか。 この国では、それについて、幾冊も幾冊も、書かれています。 それは、ヴィクトリア時代への反動ですか。 それは、まるで、自らが初めて、それを発見したかのようです。 ここでは、何の抑制もなく、何の謙遜もなく - 私たちは、非難していません。 私たちは、観察しています - それは、進んでいきます- 違った形でのセックスです。 それは、楽しみの一部です。 憶えていること、映像、欲望、など。 私たちは、先日、その問いに、入りました - 欲望の本性です。私たちは今、それに入らないでしょう。 私たちは、時間が制限されているからです。
31:23 それは、いつも、憶えていることです。 楽しみを、過ぎ去った出来事を、憶えている。 その出来事は、頭脳に、跡を残したのです。その跡は、 去ってしまった出来事の思い出ですが、 その出来事は、その瞬間に、その秒に、 大きな喜びを、与えたのです。 そのとき、それを憶えていることと、それを追求すること、です。 で、私たちの頭脳、私たちの精神は、過去の憶えていることの束です。 様々な種類の、これら憶えていることが、 この欲望を、この楽しみの追求を、もたらしてきたのです。 で、あなたが、それにきわめて深く入りたいのなら - 私たちはちょうど今、そうするでしょう - 精神は、頭脳を含めて - 私たちは、「精神」という言葉を用いています。どうぞ留意してください。 私が説明してもいいいなら、精神は、その脳回(畳み込み)すべてと その経験すべてを、知識として蓄えた頭脳です。 頭脳、精神は、反応、物理的な感受、それらです。 それらの総体が、精神です。 精神は、その内容すべてをともなった、この意識の一部です。
33:47 で、思考は、憶えておくことの要因であり、 憶えておくことは、出来事を記録することです - 一秒間、一分間、あなたに感受を与えてきた出来事を、です。 それは、楽しみとして、変容されてきました。 精神は、記録しないでいられますか。 私たちが言っていることを、理解されますか。 あなたはたぶん、それに入ったことがありませんが、 私たちは今、それに入ろうとしています。 私たちの頭脳は、記録する機械です。 過去の経験すべてを、記録しています - 楽しみ、痛み、心配、傷害、 挫傷。自分が心理的に受けてきたもの。 そのすべてが、思考により、組み立てられています。 すなわち、憶えておくことと、 その憶えたことに沿って、行為し、追求することです。 私たちは、こう言っています- 頭脳は、 精神の総体、全体は、登録を継続しないことが、できますか。 すなわち、あなたは、出来事があるなら、です。 過ぎて、終了し、それを記録しない。 私は、少しそれに入るでしょう。
35:58 私たちは、子ども時代から記録します - 傷害、私たちが受けてきた心理的な傷。 私たちの親により、教育により、 比較をとおして、課されてきた痛み。 すなわち、「おまえは、兄さんのようでなければならない」とか、 「おまえは、一定の地位を達成しなければならない」などと。 で、私たちは、人間たちは、心理的に負傷しています。 あなたが今、自分の生き方について 問われるなら - あなたの信念、 あなたの混乱、あなたの権力への欲望について、問われるなら、 あなたは、傷つくでしょう。 なぜあなたは、誰かに従いますか。 あなたは傷つきます。 さて、言われ、訊かれつつあることを、聞いてください。 そして、登録しないのです。 これらに付いてきておられるのかどうかと、思われます。 いえ、いえ、マダム。 これは、全く困難です。 いえ、いえ。そんなに容易く言わないでください。
37:34 あなたが受けるお世辞を、登録しない。 または、傷害、侮辱を、です。 その登録は、ほぼ即時的です。 誰かがあなたに、「あなたは何とすばらしい人物だ」と、言うなら、 即時の登録が、あります。 「ああ、あなたは、先日、何とすばらしい話をしたのか!」と。 それは、登録されます。 その登録から、楽しみが、あります。 または、「あれは、かなり愚劣な話だった」と。 即時に、それが登録されます。 それが傷害になります。 あなたは、余生の間、それを運んで行きます。 心理的に、です。 私たちは、言っています。 訊ねています - 提示されつつある鏡を見つめています。 その鏡の中に、私たちは、何の歪曲もなく、自分自身が見えます。 すなわち、お世辞の瞬間に、とても注意深い。 侮辱の瞬間に、 誰かが、残酷な一言を言ったり、 あなたの神経質な活動を指摘したりする一秒に、です。 それを事実として見て、それを登録しない。 それは、その瞬間に注意を必要とします。 注意は - その注意の中に、 あなたがそこから注意を始めている中心がないという、意味合いです。 私は、それらに入らないでしょう。 私たちは先日、そうしたからです。
40:02 で、私たちは、楽しみの本性が、見えます。 私はもはや、それに入れません。 短くは、それで十分です。 なぜなら、私たちは、ともに話し合うことを、たくさん持っているからです。
40:23 で、恐れと楽しみ。私たちは、さらに訊ねています。愛は、楽しみですか。 みなさま、それに入ってください。 愛は、欲望ですか。 愛は、何かあなたが憶えていることですか。 あなたが、相手の人物について創り出してきたイメージですか。 あなたは、そのイメージを愛していますか。それが愛ですか。 葛藤、野心、成功への駆り立てが、あるとき、 愛が、ありえますか。 どうぞ、これらを探究し、 あなたたち自身の生において、それを見つめてください。 私たちは、自然への愛、書物への愛、詩歌への愛、 あれこれへの愛を、知っていますが、 私たちは、心理的に話しています - そちらのほうが、はるかに重要です。 なぜなら、それは、私たちの生を、 歪曲するし、それで私たちの活動と行為を歪曲するからです。 そして、愛なしには、何もありません。
42:19 で、私たちは、この事実について、真剣であり、関心を持っているなら - すなわち、人間たちがこの社会を、創り出してきた、 そして、人間たちは、根本的な変容を、自分自身に 心理的に、もたらすのでなければ、 彼らは、幾世紀に幾世紀も、苦しみつづけるだろうこと、です - 他の人たちのために、悲惨を創り出し、 神と呼ばれる、この果てしない幻影を、追求する、 その他すべてです。
43:07 で、愛と呼ばれる、あのふしぎな花を、 見出すには、または、それに出くわすには - それは、制度、施設をとおし、 組織をとおし、信念をとおして、訪れられません。 そして、愛は、楽しみ、欲望、嫉妬ですか。 そうでないなら、そのすべてを拭い去ることは、可能ですか - 努力なく、自然に、楽に、です。 すなわち、憎しみ、暴力は、確かに愛ではないですが、 それは終わりえますか - いつか未来の時に、ではない。 明日ではない。 終わるのです。 あなたが聞いているとき、それを終わらせてください。 私たちは、執着は愛ではないとの問いに、入りました。 なぜなら、執着は、あらゆる形の敵対、 依存、恐れなどを、生み育てるからです。 みなさんは、それを見ます。 みなさんは、それをご存じです。 みなさんは、十分にこれらに、気づいています。 そして、見ることが、それが終わることです! 単に論理的に、分析的に、それを見るだけではなく、 事実を、見る - 執着の全的な帰結を、です。 それは、きわめて明らかです。 しかし、私たちのほとんどにとって、見ることは、知的に分析すること、 言語的に説明することと、説明に満足することです - 哲学的でも、心理的などでも、です。 執着が実際に何を含意しているかを、見る! その痛み、嫉妬、敵対、そうね、 その動きの帰結全体です。 まさに見ることこそが - 視覚的に見る、視覚的な観察だけではなく、 また、この動きを聞く芸術、という意味で、です。 あなたがそれを完全に聞くとき、それは、それが終わることです。
47:08 で、私たちの意識の内容が終わること - すなわち、「私」、自己のまさに本質が、です。 なぜなら、それが、それ、「私」であるからです。 インドの古代ヒンドゥーは、「私」、中心、本源、 まさに本質が、そこにある、と言いました - 実在、神、真理が、そこにある。 そのまわりに、多くの無知の層が、ある。 精神を、これら様々な層より、解き放つには、 あなたは、多くの生を持たなければならない、と。 そうね、輪廻転生と、それらのことです。 私たちは、それを言っていません。 私たちは、あなたが危険を見、危険を聞き、 危険を観察するとき、即座の応答がある、と言っています。 あなたは、危険が見えるとき - バスが自分に向かってくる危険が、です - あなたは即時に、動いて離れます。 あなたが神経症でないなら、です。 おそらく、私たちのほとんどは、そうなのです! が、私たちは、危険が見えません- 執着のものすごい危険が、です。 民族主義の、私たちの別々の信念の、 私たちの別々の観念、理想などのそれが、です。 私たちは、それの大きな危険が、見えません。 なぜなら、それは、人を人に対して、分割するからです - 一人の導師を、別の導師に対して、 宗教組織の一部を、 別の宗教組織に対して、です。 これは、この国中で起きつつあります。 そして、世界中で、です。 あなたは、危険が見えるとき、行為します。 ですが、不幸にも、私たちは、心理的な危険が、見えません - 比較の危険、 執着の危険、 孤立した個人的要求の危険が、です。 なぜなら、私たちは、個々人ではないからです。 あなたが観察するなら、私たちは、そうではありません。 個人(インディヴィデゥアル)という言葉は、 分割不可能だ、壊れていない、断片化していない、という意味です。 なぜなら、私たちの精神、私たちの頭脳は - あなたが気をつけて、それを観察するなら - それは、幾千年に幾千年をかけて進化してきたからです。 何百万年に何百万年が、経っており、 私たちの頭脳は、「あなた」の頭脳ではない。 それは、人類の頭脳です。 人間の頭脳です。 心理的に、あなたは苦しみます。 あなたは、心配します。 あなたは、不確実で、混乱し、安全を探し求めています。 それがまさに、インドで、アジアで、世界中で、やられていることです。 で、心理的に私たちは、一つです。 一つの単一の動きです。 私たちの教育をとおし、私たちの個人的な欲望すべてなどをとおして、 私たちは、これら広大な無量な精神を 自分の些細な小さな喧嘩と嫉妬と心配に、狭めてきたのです。
52:25 また、時間が許すなら、私たちは、 死、苦しみ、痛みの問いに、入らなくてはいけません。 あなたが、これらに入りたいのかどうか、私は知りません。 なぜなら、それは、私たちの生の一部であるからです。 あなたは、「私は、死に、興味がないな。 私は苦しみに、興味がないな」とは、言えません。 それは、偏って、非現実的であるでしょう。 拒絶する、そういう精神は、幼稚な精神です。 私たちは、生の複雑な問題全体を究明しなくてはいけません。 自らはそれを、即時に理解するのか- 構造全体を、です。 あるいはまた、あなたは、部分ごとに捉えて、 それにより、全体を理解したいと望むのか、です。
53:56 どうぞ、これは、質疑応答の会合ではありません。
54:14 だから、私たちはまた、ともに考慮し、話し合わなくてはいけません - 苦しみとは何なのか、 なぜ世界中の人間たちが、この拷問を経てゆくのか、 あなたは、敏感であるなら、 あなたは、鋭敏で、見守っているなら、自分は、大変多く苦しみます。 あなた自身の小さな裏庭で、だけではなく、 あなたは、機会を持たない人間たちのために、苦しみます - 食べ物を持たなくて、教育を受けなくて、 けっして車に乗らないだろうし、 着たきりの布しか持たない人たちのために、です。 苦しむ人間たちは、動物たちに、賦課してきました。 そのすべて、この無量の地球的な苦しみです - 戦争をとおして、 独裁者により賦課された暴虐、 様々な教義などにより賦課された暴虐、悲しみ。 で、これは何ですか。なぜ人類、人間たち、あなたと、あらゆる人は、 なぜ私たちは、このものより、完全に自由でないのですか。
56:31 苦しみが、あるところ、愛は、ありません。 どうしてあなたは、愛せますか。 で、欲望、楽しみ、恐れ、葛藤、苦しみが、あるところ、 愛は、ありえないのです。 で、なぜ人間たちが、毎年、毎世紀、これを経て行くのかを 理解することが、きわめて重要になります。 それを、或る種のロマンチックな戯言に、還元しないようにしましょう。 それは、現実の事実です。 あなたは、自分が愛していると思う誰かを、失うとき、 何という苦悩を経てゆきますか。 あなたは、何かに失敗してしまったとき、です。 そのすべては、人間たちが持ち運んできた、ものすごい重みです - 彼らが、消してしまえなかったものです。
58:09 苦しみは、意志の行為により、終わることになりますか。 理解されますか。 あなたは、「私は苦しむまい」と言えません。 意志の行為こそもまた、苦しみの一部です。 あなたは、それより逃げ去れません。 あなたは、教会へ逃げ去ります。 あらゆる形の逃避を、私たちは持っています - このものすごい重荷からです。 キリスト教の世界で、あなたたちは、自分の像をとおして、逃避してきました。 ヒンドゥー教徒は、この種のゲームに、もう少し敏いので、 彼らは、「苦しみは、あなたの過去世のせいで、 あなたの誤った行いのために来る」などなどと、言います。 まず第一に、なぜ私たちは、それを解消してこなかったのですか。 なぜ人間たちは、テクノロジーのことでは、 互いに殺し合うことでは、きわめて利巧なのに、 なぜ私たちは、この問いを、解決してこなかったのですか。 第一のことは、けっして、これから逃避しないことです。 理解されますか。 けっして、苦しみから逃避しない - 心理的に、です。 私たちは物理的に、痛みを受けます。 私たちは、それについて何かをします。 錠剤を飲む、医師、などなどですが、 心理的に、あなたは誰かを失うとき、 何らかのもの、人物へ、深い執着が、あるとき、 そして、その執着が壊れるとき、 涙、心配、恐れ、悲しみが、あります。 悲しみがあるとき、自然な、または、 不自然な応答は、慰めを探し求めることです - 飲酒に、薬物に、何か儀式的な宗教的な活動に、慰めを、です。 大きな悲しみ、涙、衝撃の感覚。 その瞬間にそれは、可能でありません。 あなたは、衝撃の状態に、います。 これらに注目したことが、ないですか。 ですが、あなたは、そこから出てくるとき - それは、一日、続くかもしれません。 それは、数時間、続くかもしれません - 私は、それが、二日以上、続かないことを、望みます - あなたは、そこから出てくるとき、即時の応答は、 この苦しみの原因を、見つけること、それを分析することです - それもまた、別の形の逃避です。 なぜなら、あなたは、この中心的な事実より、逃げ去っているからです - それを見つめ、それとともにあることより、です。 あなたが、その衝撃の中から出てくるとき、思考が始まります。 私たちが一緒にしたことの思い出、 私たちがしなかったこと- 後悔、 過去の痛み、さびしさ - それが今、自己主張しています。 それが、出てきています- そのすべてが、です。 何の思考の動きもなく、それを見つめる。 なぜなら、思考は、恐れの中心的な要因であるからです。 思考はまた、その楽しみの要因です。 そして、この悲しみ - 人類が百万年の間、持ち運んできたもの - の要因です。 それは、「私」の、この構造全体の一部です。
1:04:23 私たちは、気をつけて、慎重に、こう言っています - 悲しみに、終わることが、ある、と。完全に、です。 慈悲(コンパッション)、愛の熱情(パッション)が、 あるのは、そのときだけです。
1:04:57 私たちは今朝、死の問いへ入る時間が、ありますか。
1:05:09 今、何時でしょうか。

聴衆: 1時まで25分です。
1:05:14 K: 1時まで25分。 そうね、私たちは、明日、最後の講話が、あります。 私たちは、死について、話さなくてはいけません - それは、きわめて複雑な事柄です。 そして、冥想の本性について、です- それは、生の一部です。 朝と午後と晩ごとの5分の冥想ではない。 生の動き全体としての、冥想です - 行為より、私たちの日常の行為より、分離して、ではない。 で、私たちは、死、行為、冥想の本性を、 究明しなくてはなりません。
1:06:20 そうね、みなさま。 あなたは、これらを、聞かれるかもしれません。 語り手により刺激されたり、彼に敵対的であったり するかもしれません。なぜなら、彼は、あなたを動揺させつつあり、 自分の虚栄を崩してしまい、 自分のかなり見かけ倒しで小さな楽しみを、示しつつあるからです。 語り手が、あなたの前に置きつつある鏡に、 あなた自身を見ています。 ですが、そのすべては、あなたが行為しないなら、ほとんど意味がありません。 ですが、行為は、きわめて、きわめて複雑です。それはただ、 「私は、自分がしたいと感じることを、しよう」だけではありません。 それが、あなたが今、到ったことなのです - 自分の欲望へ、即座の応答、 即座の冥想と、即座の啓明。 それらは、何という戯言でしょう! それは、心理学者の幾人か、他の人たちが、 言っていることです - 自分がしたいことをしなさい、と。 あなたがしたいこと、あなたがしてきたことは、 私たちが生きるところの、このひどい社会を、もたらしてきたのです。 それが、退廃の始まりです。 この麗しい気候、美しい国でもって、 迅速な退廃が、進みつつあります。 私たちのほとんどは、それに気づいていません。 私たちは、退廃する前に、成熟さえしていません。 私たちは、そこに到ってさえいません。
1:08:56 で、これらすべての講話と議論と、質疑応答は、 自らが聞く芸術を学ぶのでなければ、ほとんど意味がありません - 自分自身に聞く。どんな震えもなく、どんな歪曲もなく、 どんな偽りの応答もなく、ただ、あなた自身に聞くのです。 また、見る芸術も、です - あなた自身を観察するのです。 あなたは、自分の過去の経験をもって自分自身を観察できません。 あなたは、ありのままに自分自身を 観察しなくてはいけません- 動いているのを、です。 そのとき、学ぶ芸術が、あります。 それは、知識と情報の蓄積ではありません。 この生きる事柄全体は、こうも複雑です。 自らは、生の動き全体を、観察しなくてはいけません。 おそらく私たちは、明日、 死と行為と冥想に入るでしょう。