Krishnamurti Subtitles
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OJ80T6 - 行為、観察と、生きている間に死ぬこと
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| 0:36 これは、日曜日の朝の、 面白いことや娯楽や 或る種のいわゆる霊的な高まりの ための集会ではないと、 悟られることを、望みます。 私たちは、かなり真剣ですし、 私たちは、これらの講話と 質疑応答会合の間、 ほとんど、生きることの 複雑な問題全体について、 話してきました。 そして、語り手と ともに、私たちは、 私たちの問題すべてを、 解消しようとしています。 恐れ、貪欲、執着の 問題だけではなく、 そしてまた、私たちが昨日、 話をした問いも、です - すなわち、愛は 欲望ではありません。 愛は、愛の、楽しみの 継続的な表現ではありません。 |
| 2:33 私たちは今朝 - これが、 最後の講話ですから - 行為とは何なのか、 死の意義とは何なのかの問い、 そしてまた、 大いに誤用された言葉、 冥想にもまた、 入りたいと思います。 なぜなら、これは、私たちの生の ほとんどに、関連するからです。 私たちは、何をも証明しようとか、 あなたを、 新しい一組の信念や理想に、 転向させようとか、していません。 どの種類の宣伝をも していません。 語り手は特に、それらへの 恐怖を、持っています。 ですが、語り手とともに、 あなたがよろしければ、 そして、あなたが真剣であるなら、 これらすべての問いに、入りましょう。 |
| 4:01 たぶん、あなたたちのほとんどは、 この二週間の間、 ずっとここに おられたのでしょうが、 私たちは今、進んで、行為とは何かを 考慮しなくてはいけないでしょう。 なぜなら、私たちの生のほとんどは、 行為であるからです。 私たちの関係すべてが、 行為です - 私たちの態度、 私たちの振るまい、 私たちの特定の体質的な表現、 私たちの抑制、 私たちの好きなことや 好きでないことを、 表現する自由、です。 私たちは、暴力的で、 攻撃的です。 服従し、信じている、などです。 そのすべてが、行為です。 ただ、毎日、オフィスへ 行くことだけではない - 次の五十年の間、です - あなたがどうして、それに忍耐 できるのか、私は知りません - または、何か特定の仕事を、 何度も何度も何度も、余生の間、 することだけではない。 そのすべてもまた、 行為です。 これら行為は、過去の知識に 基づいているだけではなく、 現在により修正されて、 未来へ継続します。 |
| 6:13 どうぞ、私たちが言いましたように、 私たちはともに、話し合っています。 私たちは、 何か明らかでないことを、 伝えようとか、言おうとか していません。 ともに、あなたと語り手は、 この行為の問い全体に、 入らなければなりません。 完全である行為があるのか どうかを、見出そうとします - 何も後悔がなく、 不完全な部分的行為の感覚を 持たないものが、です。 (不完全)ゆえに、その(部分的) 行為は、葛藤を生み育てます。 そういう行為は、 分割的である、などです。 |
| 7:24 で、私たちが今朝、 しようとしていることは - あなたが、麗しい日に、 そもそも真剣であるなら、 あなたが、これに 入りたいなら、です。 私たちが、生の他の問題に、 入ってきたように、です。 私たちは、生を 取り扱っています。 すなわち、私たちは、毎日の 生活を、取り扱っています - 私たちの葛藤、私たちの混乱、 私たちの嫉妬、私たちの攻撃、 私たちの執着、私たちの信念、 私たちの、痛みと悲しみとの 常なる格闘です。 それが、私たちの生です。 その騒動より 逃避するために、 私たちは、 様々な種類の哲学へ、 心理分析の主題に、 入ります - 私たち自身の日常の 葛藤と悲惨と混乱を、 解決したいと望んで、です。 私たちは見たところ、けっして それらに、向き合いません。 私たちは、よく気をつけて、様々な 形の逃避を、養成してきました - 宗教的なのも、扇情的なのも、低俗なの なども、ネットワーク全体を、です。 |
| 9:17 で、今朝、以前の朝と同じく、 私たちはともに、 考慮しようとしています 語り手は、行為が何であるかを、 あなたに語っていません。 ともに私たちは、行為の本性を、 理解しようとしています - そして、完全で全体的な行為、 それで、私たちの日常の生に、 葛藤をもたらす跡を、 何も残さないものが、 あるのかどうかを、です。 行為、するとは、 何ですか。 私たちのほとんどにとって、 それは、蓄積された知識、経験に 基づいています。 そして そこから、行為します。 いいですか? 私たちは付いて きていますね - そう望みます。 10:27 すなわち、長年をとおして、 学習し、実践し、 大変多くの知識を 取得し、 そこから行為します - 上手にか、 あるいは、下手に、です。 それが、私たちがいつの時も、 していることです。 大工、科学者や、天体物理学者は、 彼らの動きにおいて、 知識の取得において、同じです - そして、 もっと知識を付け加え、それを修正し、 それを変更することにおいて、ですが、 基礎は、 知識を取得することと、 その知識より 行為することです。 他のことは、行為することと、 そのとき、その行為より学ぶことです。 11:40 自分が即時に楽しめることを、 何かする。 そこから学ぶ。 それを する中で、知識を取得する。 で、どちらも同じです。 私たちが これを理解することを、望みます。 すなわち、知識の取得 - 学習によって、 経験をとおして、 次第に学ぶ。 そして、その知識より、 行為する。 他は、こうです - 行為する。 行為をとおして学ぶ。 ゆえに、もっと 多くの知識を、取得する。 で、どちらも、同じです。 理解されますか。 で、私たちの行為は、 知識に、基づいています - そして、 大変多くの情報に、です。 そして、そこから技能です。 ですね? 13:01 私たちが言っていましたように、 知識は、いつも不完全です。 これは、きわめて明らかに理解し なければならないと、私は思います。 完全な知識は、けっして ありえません。 天体物理学者、科学者、 画家、音楽、 ピアノ奏者、 大工、配管工において、 完全な知識は、けっして、 けっして、ありえません。 それで、知識はいつも、 無知と伴います。 で、私たちの行為は、知識に基づいて いるとき、不完全にちがいありません。 これは、きわめて明らかに 見なければなりません。 |
| 14:08 日常生活において、私たちの 互いとの関係において、 親密であってもなくても、行為は、以前の 記憶、イメージに、基づいています - 私たちが互いについて、築いてきたものに です。 そして、そこから行為します。 どうぞ、これらを、 明らかに見てください。 なぜなら、次の問いは、かなり 困難になるだろうからです - あなたが、この問いを、気を つけて理解しないなら、です。 すなわち、私たちの、 互いとの関係において、 知識に、イメージに 基づいた行為は、 分割的であるにちがいない。それは、 分割されて、葛藤にし、部分的です。 15:15 互いとの、 この関係において、 まったくイメージがなくて、 ゆえに、実際の関係なのか。 あるいは、 イメージがあるなら、そのイメージは、 知識から出てきたものです。 そして、そのイメージから 行為する。 で、私たちの関係は、 親密でも、その他でも、 部分的で、断片化して、 壊れています。 で、その関係には、けっして 愛が、ありえません。 愛は、 思い出ではありません。 父の日、母の日と、 それらの事柄ではありません。 それは、商業的な事柄です。 |
| 16:20 で、時の中から生まれていない 行為が、ありますか。 私は気をつけて、これを、 説明しようとしています。 どの分野でも、知識を取得する ことは、時を必要とします。 互いに知り合うことは、 時を必要とします。 彼らが、より親密であるなら、 それもまた、時を必要とします。 で、私たちの行為すべては、 知識と時から、出てきたものです。 ですね? 時は、時計による、 日の出と日の入りによる だけではなく、また、 心理的にも、です。 すなわち、「私はこうである」、 「私はそうなるだろう」、 「私は持っていないが、 私は持つだろう」、 または、「私は、貪欲だ。 怒っている。暴力的だが、 時が、それを解消するよう、 私を助けてくれるだろう」と。 で、私たちの精神は、 思考と時と知識により 組み立てられています。 で、私たちの行為は、 その中から、生まれています。 18:06 あなたが、よく気をつけて、 それを検討するなら、 私たちの行為すべては、 それに基づいています。 ゆえに、知識は不完全であり、 思考は、不完全であるので、 二人の人たちの間に、 闘争が、あるに ちがいないのです - それが、男、女などでも、 男と男でも、 関係の事柄全体です。 これを理解するなら、または、知的に それに気づいているなら・ ・・ 知的にそれに気づいている ことは、部分的です。 なぜなら、それはただ、私たちの 生の一部だけであるからです。 情動的にそれに気づいている こともまた、部分的です。 が、完全にそれに 気づいていることは - その含意全体に、です。 いいですか? 私たちは、互いに付いてきて いますか - そう望みます。 |
| 19:17 で、そのとき、次の問いは、 こうです - 行為が・・・ どうぞ、気をつけて 行ってください。 知識から出てきたものでない、 行為が、ありますか。 付いてきておられますか。 それが問いです。 私たちは、それはあると、言って いません。 または、ないとも、です。 言語、テクノロジーを 取得するには、 テクノロジー、コンピューター などの技能に巧みであるには、 あなたは、知識に基づいた技能を、 持たなければなりません。 そこでは、それが必要です。 いいですか? 私たちは、何か全然違ったことを 訊ねています - すなわち、 私たちは、心理的に、 知識の中から、行為します。 私は、数年の間、 あなたを知ってきました。 私は、あなたについて イメージを、築いてきました。 その知識から、私は、あなたに 関して、行為します。ですね? 20:30 私たちは、心理的な記憶を、 探究しています - そこから、行為が起きるものを、 です。 いいですか? 私たちは、互いに 付いてきていますか。 どうぞ、私たちは、何かきわめて、 きわめて微妙で困難なことに、 入ろうとしています。 あなたがそう しないなら、仕方ありません。 あなたがそれに、精神を注入するなら、 それは、きわめて単純です。 あなたが、気をつけて、 それを聞くなら - 語り手が言っている ことだけではなく、 また、あなた自身の精神が 働いているのをも、聞く。 あなたは、ここで眠っていたり、 日光浴をしていたり、 或る種の食べ物を食べたり していないのなら、です。 あなたはこれに、或る種の 注意を、注がなくてはいけません。 |
| 21:24 心理的に、私たちは、大変多くの 知識を、築いてきました - そこから私たちが 行為しているものを、です。 すなわち、私たちの知識は、 自己中心的です。 いいですか? 「私はほしい。 私はほしい。 私はほしくない。私は 貪欲だ。私は充足しなければならない。 セックスがなければならない」 などなどと。 で、心理的に、私たちは 私たち自身と他の人たちについて、 イメージを、 築いてきました。 そのイメージ、その象徴、 その言葉が、知識です。 ですね? で、この自己中心的な知識 - そこから私たちが行為するところの もの - は、本質的に利己的です。 いいですか? そして、自己中心的な状態から、 行為が起きるとき、そういう行為は、 有害で、傷つけ、暴力的で、 孤立させるにちがいないのです。 いいですか? あなたが注目したことが ないのかどうか、 あなた自身の生を研究したことが あるのかどうか、私は知りません - すなわち、私たちのほとんどは、 こうも自我本位であり、 自分たちの自己中心的な 虚栄に、根ざしていること、 それで、私たちが、自分自身の まわりに、壁を築くことに、です。 23:29 いいですか? 私は攻撃的であるなら、 私はすでに、自分自身のまわりに 壁を築いてきました。 その状態の中で、私は、 行為したいのです。 いいですか? あなた自身において これらを、見てください。 あなたは実際に、あなた自身を、 観察しています - そうなさるなら、 語り手が提示している 鏡の中に、です。 それは、あなたの鏡です。 私の鏡ではありません。 すなわち、私たちは 人間として、世界中をとおして、 この中心から、動き、 行為するのです。 ですね? 私たちが、この中心から 行為するかぎり、 葛藤があるに ちがいないのです。 私たちが、これらの講話の始めから、 指摘してきましたように、 私たちの関心は、葛藤を 消去することです - 国家的、民族的、経済的、 社会的な葛藤、抗争、戦争 様々な宗教の間、様々な教義、 信念、迷信、儀式 の間の葛藤、抗争 - 儀式は、迷信の一部です。 25:22 この分割的な要素が、 精神にあるかぎり、 葛藤が、あるに ちがいありません。 私たちの行為が、 自己中心的であるかぎり、 この分割的な要素は、 存在します。 ですね? この自己中心的な状態は、 知識と経験の蓄積です - 頭脳に蓄えられたのです。 その状態には、 「私」と、私の表現の、 この常なる追求が、あります。 ですね? |
| 26:08 で、私たちの次の問いは、 こうです - この自己中心なしに、 行為すること、 生きることは、可能ですか。 ゆえに、それは、きわめて 深刻な問いです。 それは、日曜日の朝の、 福音主義者の戯言ではありません。 それは、何か私たちがよく、よく気を つけて入らなくてはいけないことです。 なぜなら、人間たちは、 まさに時の始まりから、 葛藤とともに、 生きてきたからです。 私たちは、 何百万年に何百万年の後、 いまだに、その状態に、 生きています。 ゆえに、何か根本的に 間違ったことが、あります。 すべての哲学、宗教、 信念にもかかわらず、 私たちはいまだに、動物状態です。 私たちは、いまだに、 この破壊的な中心を、持っています - 私たちがそこから行為するものを、です。 27:33 私たちが単に、たくさんの言葉を、 聞いていないのを、望みます。 あなたは、自分の精神を 観察しているのです。 自分の精神が働いているのに、気づいて います。 見つめ、訊ねています。 全的に違った生き方があるのか どうかを、訊ねています - 百万年の同じ様式に、 捕らわれないで、です。 いいですか? どうぞ、大変真剣に、あなた自身に この質問をしてください。 なぜなら、私たちは、自分自身を 破壊しつつあるからです。 私たちは、大地、空気を、 破壊しつつあります。 私たちは、人間たちを、 破壊しつつあります。 |
| 28:38 で、私たちの責任は、 ものすごいのです。 私は、「責任」という その言葉を、 何の罪悪感もなしに、 使っています。 あなたは、責任を感じるなら、 行為します。 ですが、あなたは、行為しないなら、 罪悪を感じないでください。 あなたは単純に、 責任を持っていないだけです。 |
| 29:13 で、この中心は、何ですか。 いいですか? それはどのように、 生じてきましたか。 私たちが言いましたように、私たちは 死についてもまた、話すでしょう。 死が起きるとき、 この行為の中心が、 終わります。 私が言っていることに、 付いてきていますか。 私は説明するでしょう。 私は、 気をつけて、それに入るでしょう。 初めに、私たちは訊ねています - 中心は終わりになり、けれども、 この生を生きることが、できますか。 どこか修道院へ入ってしまい、 何かのイデオロギーや ユートピアと同一視し、 「私は中心を失ってしまった」と言うの ではない - それは、戯言でしょう。 30:15 なぜなら、あなたは単に、中心を 他の何かに、同一視してきたからです。 いいですか? それがお分かりになるのか どうか、私は知りません。 すなわち、 この自我本位の活動は、 その楽しみ、恐れ、 心配などとともに、 その中心、その自我は、 何かを信じていて、 何かにおいて、同一視します - イメージにおいて、 教義などにおいて、です。 または、新しい名前を付けますが、 その中心は、やはり残っています。 これに付いてきておられますか。 よし! |
| 31:08 で、私たちの問いは、こうです - それに死ぬ、けれども、生きていて、 活動的で、働き、続けてゆく ことは、可能ですか。 それは、葛藤なしに、続けてゆく ことです。 よろしいですか。 で、私たちは、探究しなければ なりません - この中心は、何ですか。 精神、頭脳、形態、名が 縋りつくところのものは、です。 理解されますか。 これらに付いてきておられるのか どうか、私は知りません。 私たちは、訊ねています - 自己の本性と構造は、何ですか。 いいですか? あなたは、何ですか。 あなたは、何をも仮定しないなら、 見出せるだけです。 ですね? あなたが、「私は、私なるもの でなければならないな」と言うなら、 あなたは、自分が何であるかを、 見出しつつありません - または、 「私は、自分は何か 霊的な実体だと信じている」と。 またもや、あなたは 見出せません。 または、あなたが、自分の先入観を もって接近するなら、見出せません。 32:43 で、これを探究する中で、あなたは、 自由に観察できなければなりませんね。 なぜなら、観察は、 分析ではないからです。 あなたはまた、気をつけて、これを 理解しなければなりません。 私たちの精神と頭脳全体は、 分析するよう、訓練されています。 それが、ずっと、私たちの 生の様式であったのです。 その生活の様式が、 葛藤が終わることを、 もたらしてこなかったことが、 見えるとき、 あなたは、他の方向を、探究 しなければなりません。 ですね? 他の方向は、観察です。 方向なしの観察。 それは、分析なし、と いう意味です。 すみません。 ここに、他の分析者が いらっしゃるなら、許してください。 あなたが同意されないなら、 それは、だいじょうぶですが、 私とともに、語り手とともに、 それに入ってください。 |
| 34:05 あなたが観察するとき、 思考が、その観察に 介入するとき、 あなたはそれに、 方向を与えています - あなたの記憶から、あなたの動機から、 あなたの欲望からです。 ですね? そのとき、 観察は、ありません。 あなたの欲望、あなたの動機、あなたの 楽しみが、観察を、方向づけます。 いいですか? で、あなたが何であるかを、 実際に観察するには、 自由に、それに 接近しなければなりません。 それが、私たちの困難です。 なぜなら、私たちの精神は、 条件づけられているからです。 条件づけられているので、私たちの 接近は、いつも制限されています。 いいですか? で、あなたは、今朝、 そこに座っていて、 ともに、これについて話し合っていて、 それから自由でありえますか。 あなたの先入観から、 あなたの分析から、 あなたの分析の中でのあなたの攻撃、 それらから、自由である。 ただ観察する - あなたが、櫛で髪を とかしたり、髭を剃ったりするとき、 鏡で自分の顔を、観察する ように、です。ですね? |
| 35:54 そのとき、この「私」、 この自我、この自己は、何ですか - 私たちが、こんなにものすごい 重要性を、与えるものは、です。 なぜなら、それを、見出さ なくてはいけないからです - それが、幻影ではなく、 現実の何かであるのかどうかを、 です。 理解されますか。 何かあなたが触れられ、感じられ、 見られるものであり、 何か自分が創り出してきた 幻影でないのか、です。 そのとき、この「私」の本性が 何であるかを、 見出さなくてはいけません。 なぜなら、私たちはともに、議論 しようとしているからです - 私たちが過去に話してきたこと だけではなく、 また、死は何であるかも、です。 どうぞ、それは 関係しています。 確かに、「私」は、 組み立てられています - 教育をとおして、 比較をとおして、 いわゆる文化、いわゆる個人性の 観念をとおして、です。 そのすべてが、 思考の動きです - それが、「私」を 創り出してきたのです。 37:47 理解されますか。 そうなのです。 攻撃的である「私」、 何か突飛な観念を 強く信じている「私」 - それは、ロマンチックであり、 それは、ひどくさびしく、 そのさびしさから、 あらゆる種類の 白痴的な戯言の中へ 逃避しています。 で、そのすべてが、「私」です - 思考により、そこに置かれています。 いいですか? あなたが、「魂」とそれらの事柄を 言うなら、それはやはり、思考です。 私たちは、 そこから行為が 起きると、言っています。ですね? |
| 38:47 自己中心的でない行為が、 ありますか。 いいですか。 ごく単純に表すと、 それは、自我本位に動機づけられ、 方向づけられていません。 なぜなら、それは世の中に、荒廃を もたらしてきたからです。 ですね? 個人的な関係に、だけではなく、 私たちの隣人とも、です - 彼らが近くても、遠くても、です。 さて、この自己中心的な存在は、 終わりになりえますか。 けれども、この世の中に生き、 行為し、考え、感じるのです。 すなわち、私たちは 心理的に、自分たちについて、 大変多くの知識を 築いてきました。 自らは、そのすべての心理的な 知識に対して、死ねますか。 いいですか? それは、死ですか。 これに、 付いてきておられますか。 |
| 40:12 そうね、私たちは、こうも 死を恐れています。 私たちは、何も恐れを 持たない精神を、 探究したことが、 ありません - 私たちは、先日、それについて 話しました - それだけでなく、 また、死は何であるのかも、です。 いいですか? そうね、私たちの精神は、 継続に、縋りつきます。 ですね? 継続の中に、安全があります。 「私はそうだった。 私はそうである。 私は そうあるだろう」と。 その概念、その観念は、 ものすごい強さを、与えます。 ですね? 私は、安全、安心に感じます。 死は、そのすべてを、 拒否します。 ですね? 私の安全、私の執着 - 私がまとめてきた物事 すべてへ、です。 私たちは、それを 恐れています。 すなわち、何か知られていないものへ 入ることを、です。 ですね? なぜなら、私たちはいつも、知られた ものとともに、生きてきたからです。 41:59 これらに、付いてきて おられますか。 どうぞ、そうしてください。 それは、あなたの生なのです。 あなたの災難、あなたの悲惨、 あなたの抑鬱、 あなたのさびしさ - それは、あなたの生なのです。 あなたは、いつの日か、それに 向き合わなくてはいけません。 すなわち、あなたが 理解して、 違ったように 生きたいなら、です - 唯一つの問題もなく、 葛藤の影もなく、 大変多くの慈しみと 愛をもって、です。 すなわち、あなたが そうしたいなら、ですが、 そうしたくないなら、 あなたは、続けていきます。 古い様式を継続し、 大変多くの悲惨を、あなた自身と 他の人たちに、もたらします - 戦争と、世界で進んでいく すべての悲惨です。 それは、あなたしだいです。 |
| 43:14 で、私たちの生活 - 私たちが知っているような、 私たちが気づいているような、 日々の生活は、一連の継続的な、 互いとの常の闘争、葛藤です。 あなたがどんなに親密でも、 これらについての混乱です。 一人の政治家は、それを言う。 別のは、別のことを言う。 高い位の、一人の経済学者は、 他の経済学者を拒否する。 一人の科学者は・ ・・そうね、 つづいていくゲームです。 これは、互いとの、私たち自身の 中での常なる闘争です。 それが、私たちの生活です。 ですね? それは、現実です。 理論ではない。 誰かがあなたに課した何かではない。 あなたは、それです! |
| 44:30 で、それが、私たちが怯えていること ですか - それらを失うことですか。 私が言っていることを、 理解されますか。 おそらく良い例を、取り上げさせて ください - すなわち、執着です。 またもや反復して、すみません - それを聞いてきた人たちには。 執着の本性と構造は、 見えます - その執着の帰結、 痛み、嫉妬、心配、 憎しみ、楽しみと、 いわゆる愛の 細い線、薄い膜、です。 事務所や工場へ行くこと、 何か速記をする秘書であること - よろしいですか - 来る日も来る日も、常に、 次の五十年間、です。 あなたは、何と悲劇的なさまで 生きるのか! または、あなたは、それらから逃避し、 何か他の愚行へ、入ります。 そこにもまた、葛藤があります。 そこにも また、この攻撃、楽しみが、あります - 違った形で、ですが、 同じ様式が、反復されます。 これが、私たちが、 生きる、と呼ぶものです。 |
| 46:19 そして、それらすべての説教師、 司祭者たちが、います - いわゆる宗教的な権威、 上下関係です。 彼らは、 「あなたはここで、天国を得られない。 それはあちらにある」と、言います - 「あなたは、信仰を持たなければ ならない」と。 いいですか? 「それを理解するには、 それから逃避するには あなたは、信仰を 持たなければならない」と。 あなたが注目なさったのか どうかと、思われます - すなわち、宗教は、書物に 基づいているのです。 いいですか? ここではキリスト教は、 バイブルです。 いいですか? イスラム世界は、コーランです。 仏教とヒンドゥー教の世界では、 きわめて多くの書物が、あります。 「こうしなさい」と言う、 一つの書物は、ありません。 で、書物に基づいている宗教は、 疑いを、拒否します。 私とともに、それに 入ってください。いいですか? 47:43 あなたが疑うなら、宗教的な 構造全体が、終わりになります - 西洋社会では、です。 仏教の世界と、ヒンドゥー教の 世界でもまた、そうです。 で、信仰が、疑いに取って 代わってきたのです。 あなたがこの疑いの問いに、 入ったことがあるのか どうか、私は知りません。 それは精神に対して、何ととてつもない 浄化の効果を、持つのでしょうか! もちろん、あらゆる物事を疑うなら、 あなたは、精神病院に入ってしまいます! ですが、いつ疑うのかを、 知らなければなりません。 それは、あなたが、いつそうすべきかを、 知らなければならない、という意味です。 あなたは、犬を飼っているとき、いつ それを紐に繋ぐかを、知っていますが、 必要なとき、それを自由にさせたい とき、それを放してやります。 それをいつの時も、紐に繋いで おけません - 気の毒な犬です! 49:08 で、疑いは、紐に保っておいて、時に 放してやらなければなりません。 それは、あなたが不確実性から始める、 という意味です。 理解されますか。 確実性からではなくて、です。 どうぞ、これに付いてきてください。 書物は、あなたに確実性を 与えてくれます。 ですね? バイブル、これと他のもの。 あなたは、それを 信じなくてはいけません。 で、それは、確実性から 出発します。 あなたは、検討しはじめます。 それは、不確実性に終わります。 ところが、あなたが、 不確実性から出発するなら、 あなたは、確実性を越え、 他のあらゆる物事を越えた何かに、 終わってしまうかも しれません。 さて、私たちは、直ちに それに入ろうとしています。 |
| 50:09 で、私たちは、親密にでも、 そうでなくても、生きる中で、 執着から、即時に自由でありえますか - それが、死です! 私が言っていることを、 理解されますか。 理解されますか。 死は、あなたと 論争しないでしょう。 死は - あなたは、言わないでしょう。 あなたは、語らないでしょう - そのとき、「私に、もう少し時間を ください。 どうか、待ってください」と。 ですが、あなたは、死が 何であるかを、知るなら - すなわち、終わることを、 です。 ですね? あなたが生きている間に、 終わること。 執着が終わること。 今、付いてきていますか。 それが、死があなたに 言おうとしていることです - 「あなたは、あらゆるものを 残して行かなければならない」と。 ですが、そういう終わりには、 怯えます。 ですね? で、あなたは、輪廻転生を信じます。 あなたは、希望がほしい、 51:30 その他すべてです。または、天国に 復活したのと、それらです。 さて、私たちが生きている間、 あなたは何かを、終わらされますか。 喫煙と、それらの ばかげたことを、ではなく、 はるかに深く、 心理的に、です。 あなたの貪欲を終わらせる。 あなたの攻撃を終わらせる。 あなたの教義的信仰と経験を終わらせる。 よろしいですか。それを終わらせる。 あなたが何かを終わらせるとき、全的に 新しい始まりが、あります。 ですね? これがお分かりになるのか どうかと、思われます。 ですが、あなたが、 分析をとおして、意志をとおして、 それを終わらせるとき、あなたは、 それを終わらせつつありません。 ですね? これは困難です。 いいですよ。説明しましょう。 |
| 52:48 終わるために、動機があるなら、 その動機は、思考により、 欲望により、組み立てられています。 あなたが分析し、ゆえに それを終わらせるとき、 それはやはり、思考の過程です - いいですか? - すなわち、他の形で継続する のですが、あなたは、それを、 特定方向で終わらせました。 ですね? これを理解されましたか。よし。 で、私たちは、言っています - |
| 53:28 方向づけなしに、執着や、攻撃や、 あなたの暴力を、観察してください。 どんな動機、方向づけ、欲望もなく、 それを観察してください。 ただそれを観察してください。 まさにその観察の中、 それが終わることが、ある。 ゆえに、あなたは、生きている間に、 死を招いています。 よろしいですか。 これを理解されるのか どうかと、思われます。 自殺をするのではない。 それは、 別のことです。それはあまりに・・・ 精神は、葛藤、痛み、 苦しみの中に、生きます - 何の慈しみ、 愛の感覚もなく、です。 なぜなら、それは、 自己中心的であるからです。 この自己中心の多くの局面の一つが この攻撃、競争、貪欲です。 それらの一つを終わらせる。 または、 それらの多くを、即時に、楽に、です。 そのときあなたは、この世界に、全く 違った種類の生を、生きています。 |
| 55:01 で、死は、生きている間に、 ある。理解されますか。 これを理解されますか。 生の終わりに、ではない。 あなたが老いていて、 惚けて、病気になって、 無意識で、それらの悲惨を経てゆく とき、ではない。 理解されますか。 精神が収集してきた物事を、 終わらせる - 楽に、 一定の優美さをもって、 それで、違った精神の性質が、ある ように、です。 理解されますか。 そういう精神は、この継続性と 恒常性を、持っていません。 |
| 56:13 また私たちは、ともに、二人の 友人として、話し合うべきです - きわめて、きわめて複雑な問題に ついて、です。 私たちの生は、 不幸にも、複雑な問題です。 また、宗教、冥想についても、です。 物質すべてを越えた何かが、 あるのかどうか。 質問を理解されますか。 |
| 56:58 宗教は、あるいは、むしろ、人は、 いつも探究してきました - 物質的な存在以上の何かが、 あるのかどうかを、です。 日々の課業、仕事、 このさびしさ、 絶え間ない痛みと悲しみを、 越えて、です。 人は、年代のない時から、 何か越えたものが、あるのか どうかを、訊ねてきました。 人はいつも、それを 探し求めてきました。 司祭者たち、そして、 その施設を作りたい精神、 探求、訊ねること、 それらは、それを宗教に してきたのです。 ですね? それを、組織、施設に しました。 で、探し求める人は、 それに、捕らわれています。 お分かりになるのか どうか、私は知りません。 58:15 で、あなたがそれに捕らわれているのか どうかを、見出さなくてはいけません。 または、あなたは探究しています - ですね? 信じているのでなく、信仰ではなく、 探究、観察すること、訊ねることです。 いいですか? すなわち、この存在、 この物質的な幸福以上の 何かが、あるのかどうかを、 訊ねています。 人の有限な存在を はるかに越えた何かが、 あるのかどうか、です。 いいですか? 私たちは、それに 入ろうとしています - ともに、です。 私がそれに入り、 あなたが聞くのではない。 なぜなら、それは、 とても容易いからです。 あなたは、去るとき、これらを、 聞いてきたことを、忘れますが、 それが、あなたの生、あなたの毎日の 関心事であるなら、それはあなたのです。 |
| 59:42 あなたは、どうやって・・・ どうやって、ではない。 どのように、あなたはこれを 探究しますか。 理解されますか。 私たちの精神、私たちの頭脳は、 時の結果です。 ですね? 百万年と、何百万年、 それは、進化し、 成長してきました。 あらゆる種類の知識を、 蓄積してきました - 経験をとおして、 痛みをとおして、です。 私たちの頭脳は、それです。 いつも安全を 探し求めています - 物理的にも、心理的にも、です。 その本質こそが、「私に安全を 与えてくれ」です。 なぜなら、頭脳と精神が、 完全に安全であるとき、 全く違った精神の状態が、 あるからです。 ですが、不幸にも、 私たちの頭脳と私たちの精神と、 私たちの反応などは、安全を 見つけてきませんでした - 物理的な世界においても、 あるいは、内の世界、 心理学の世界において、 心理においても、です。 |
| 1:01:42 安全が、ありますか。 理解されますか。 あなた自身に、訊ねてください。 他の一人とのあなたの関係に、 安全が、ありますか - それを、実地に 降ろしてくると、です。 明白に、ありません。 あなたは、 それを持ちたいと思うでしょう。 その安全は、恒常性を意味して います。 ですね? 継続、です。 あなたは、自分の関係に、 それを持っていますか。 あなたが正直であるなら、 明白に、持っていません。 しかし、精神は、これを 探し求めています。 それを見つけられないなら、 それは、幻影を創案し、 その幻影の中に、安全を持つことを 望みます。 ですね? 理解されますか。 で、思考は、 精神と頭脳の一部分ですが、 思考は、この常なる安全の動きを、 探し求めています。 ですね? そこにそれを見つけないので、 必然的に、何かを考案します - 幻影となるものを、です。 それもまた、実在です。 いいですか。 幻影は実在です。 |
| 1:03:23 で、精神は、自由に、理解し 究明できなければなりません - 物質を越えた何かが、 あるのかどうかを、です。 精神は、どの種の幻影からも、 自由でなければなりません。 いいですか? 幻影は、信念です。 幻影は、信仰です。 幻影は、依存です。 よろしいですか。 で、精神は、どの形の幻影からも 自由でありえますか。 さもないと、それは、さらに 進めません。 あなたが、ではなく、頭脳が進めません。 精神が、さらに動けません。 それは、あなたが幻影を 持っていることに、気づいて、 それを終わらせることです。 背景に保っておいて、 究明しようとするのではない。 そのとき、あなたは、 ゲームをやっています。 で、精神は、幻影を 創り出したい欲望より、 自由でありえますか。 いいですか? それが、冥想の一部です。 ただ、一個所に座り、10分間、 静寂であることだけではない。 朝、晩、午後、あなたがいつ、 それをするにしても、 そして、残りの一日、 悪さをし、 自我中心であることではない。 いいですか? |
| 1:05:19 で、科学者、天体物理学者は、 いつも、この質問をしています - 彼らが、単に発明好きでビジネスの 科学者でなく、真剣であるなら、です。 物質を越えて、何かが ありますか。 理解されますか。 思考を越えて、何かが、 ありますか。 なぜなら、思考は物質である からです。 ですね? なぜなら、それは、脳細胞の中に 保たれているからです - 記憶です。 経験、知識は、脳細胞の 中に、保たれています。 ゆえに、それは やはり物質です。 そして、思考は物質です。 付いてきておられますか。 あなたは、それを 受け入れないかもしれません。 それに入り、それを 検討してください。 で、物質を越えて、 何かが、ありますか。 あなたは、どのように 見出すのでしょうか。 科学者と、他の人たち、 天体物理学者などは、 外のあちらを見ています。ですね? 彼ら自身の外側を、です。 1:06:49 ですね? 私たちは、こう言っています。 あなたが自分自身をどう 見つめるのかを、知るとき - それはまた、物質です - あなた自身を理解する。 あなた自身を、見つめる。 そこで、あなたは・・・ そのほうが、他方より はるかに実在的です。 これを、あなたは試せます - 理解できますか - 自分の日常の行為において、 あなたは、それを試せます。 あれは単に、理論になります。 これらに付いてきておられるのか どうか、私は知りません。 付いてきておられますか。 あなたがこの晴れの天気を、楽しんで おられることを、望みます。 これに興味が、ないなら、 樹々を、見つめてください - 樹の美しさ、木漏れ日と、 輪郭線沿いの遠方の山々、 空の美しさを、です。 ですが、あなたが、 それに敏感であるなら、 あなたは、言われつつあることに 敏感であるでしょう。 |
| 1:08:09 で、発見できる精神、 意識の状態は、 何ですか。 私は、「知る」という言葉を、 かなり広い意味で、使っています。 そうね、「知る」という言葉は、 きわめて制限されていますね。 あなたは自分の妻に、「私は あなたを知っている」と、言えますが、 あなたは実際に、自分の妻や 自分の夫を、知っていますか - または、自分のボーイフレンドを、 です。 あなたは知りません。 あなたはただ、 彼女や彼について、 自分が築いてきたイメージに沿って、 知っているだけです。 で、ここで、「知る」という 言葉は・ ・・ あなたが、「私は、越えた何かを 知っている」と言うとき、 あなたは、それを 破壊してしまったのです。 私が言っていることを、 理解されますか。 |
| 1:09:32 で、冥想は、何かあなたが 実践することではありません。 それは、生の動き全体を 理解することです。 ですね? 悲しみ、痛み、心配、 攻撃、さびしさを、です。 さもないと - 精神が それらより自由でないのなら、 あなたの冥想は、甲斐が ありません。 理解されますか。 インドから来た、 これらの導師を、ご存じですね - 自分たちの、きわめて多くの 形の体系、迷信、概念を、 もたらした人たちです。 チベットの冥想、禅の冥想が、 あります。 目覚めさせるための冥想・ ・・ - 私はただ、彼らの語法を 用いているだけです。 私に食って かからないでください - 彼らのクンダリニーを目覚めさせる ための冥想、様々な形のヨーガ。 1:10:55 ヨーガ、その言葉の本当の意味は、 結びつけることです。 いいですか? すなわち、結びつけること - 彼らによれば、 低い物質的な存在を、 高いものに、結びつけること。 ヨーガの実践は - そうね、呼吸をする、 様々な姿勢を取る、 それら、ですが - 18世紀か、17世紀頃に、 創案されました。 神通力をほしがる人や 一団の人々によって、です。 すなわち、制御をとおし、力づくを とおし - よろしいですか - 方向づけをとおして、彼らは、 こう言いました。 「私たちは、超感覚的な知覚を 目覚めさせるかもしれない」と。 私はそれを、現代語に 表しています! 1:12:17 彼らは、それを 実践してきていますが、 ただ一つのヨーガが、あります。 それは ラージャ・ヨーガ(王のヨーガ)と呼ばれます。 そこに、実践は 何もありません。 人為的な体操 - 歩くこと、 泳ぐことは、ありません。 自然な、 ものすごく道徳的な生です - そこに、(統合された)誠実さが、 あるものです。 よろしいですか。 それが、本当のヨーガです。 あなたが調子を合わせていく、 これらのものではありません。 |
| 1:13:11 あなたが、冥想において、 体系の本性を理解するとき、 すべての体系を、理解します。 ですね? それが、チベットのもの、 禅でも、 あなた自身の特定の種類の 土着の導師でも、 輸入された導師ではなく、 あなた自身の土着のものでも、 あなたは、彼らの一つの体系を、 理解するなら、 冥想に関して、体系すべてを 理解したのです。 すなわち、それらは 本質的に、制御、集中、実践に 基づいています。 ですね? 毎日、これとあれを しなさい、と。 それは - 禅を含めて - 精神を、ますます 鈍くすることです。 それは、反復し、反復し、反復 することです。 理解されますか。 これらを理解されることを、 望みます。 |
| 1:14:28 これらの導師もまた、やってきて、 マントラと呼ばれるものを あなたに与えます。 これらについて、 聞いたことが、ありますね。 あなたが、これらの事柄で重荷を 負っているのは、残念です。 「マントラ」という 言葉の意味は・ ・・ その語源、「マン」、「トラ」、 二つの違った言葉です。 一番目の言葉、「マン」は、 冥想(熟慮)することを、意味しています - 気をつけて 聞いてください - ならないことについて、 冥想するとか、熟考する。 理解されますか。 何かにならないことを、です。 「トラ」は・・・私は、 これらのことに、飽きています! 1:15:17 「トラ」は、自己中心的な活動すべてを、 片付けてしまう、という意味です。 理解されますか。 マントラは、 ならないことを、冥想するとか、 熟考する、関心を持つ、 という意味です。 理解されますか。 それを理解されますか。 何にもならないでください。 あなたは、物質的な世界で、 何かになるかもしれませんが、 内的に、何にも ならないでください。 あなたが、自己中心的な活動を、 持っているなら、 それを片付けてしまいなさい。 それが、その本当の意味です。 彼らがそれを、何へ還元して しまったのかを、見てください! |
| 1:16:13 で、体系は、チベットのでも、 ビルマのでも、禅のでも、 ヒンドゥーのでも、 キリスト教のでも、反復があるとき、 それは、何かを達成したいと望んで、 反復する、という意味です。 その体系は、あなたの導師か、 あなたの超導師などにより、 創案されます。 あなたは 単に、従うだけです。ですね? すなわち、 何か権威に従います。 ゆえに、あなたの精神は、 幼稚に、狭く、機械的になり、 機械的で、その裏に 何の実質をも、もちません。 で、あなたが、一つの体系を理解する とき、終了しました。理解されますか。 1:17:11 あなたは、禅仏教を理解するために、 日本に行かなくていい。 または、インド、その他すべてに 行かなくていい。 「禅」という言葉は、サンスクリットの 「ドヒャーナム」から、来ています。 それは初めに、仏教の時代の後か、 仏教の時代の間に、 シナへ行きました。 或る僧侶が それを、そこに伝えました。 シナ人と日本人は、たぶん ドヒャを発音できないので、 彼らはそれを、禅に変えました。 それが、ほとんど 神聖になったのです! |
| 1:17:56 で、冥想は、終わることです。 あなたの貪欲が終わること、 あなたの執着が終わることです。 いいですか? なぜなら、そのときだけ、 精神は自由であるからです。 そのときだけ、精神は 問題を、持っていないのです。 越えてゆけるのは、 そういう精神だけなのです。 すなわち、 意識をともなった精神 - 意識は、内容すべてから、 作り上げられています。 理解されますか。 内容が、意識を作ります。 あなたの貪欲、あなたの妬み、 あなたの心配、 あなたのさびしさ、 あなたの信念、あなたの執着、 あなたの安心の追求 - よろしいですか。 それらが、あなたの暴力が、 私たちの意識の内容です。 そして、越えてゆく、見出すには、 あるいはむしろ、見る、観察するには、 - このすべてを越えた何かが、 あるのかどうかを、です - それには、精神は、自らの内容すべて から、自由でなければなりません。 1:19:34 これは、理性的です。これは、非論理的 ではありません - 理解されますか。 そのとき、精神は空っぽです。 空っぽは、エネルギーに 満ちています。 それを、彼らもまた言っています - 科学者たちも、ですね? 精神が空っぽであるとき、 何もありません。 何もないとは、思考が創り出した物事が 一つもない、という意味です。 そういう精神は、空っぽなので、 その精神は、エネルギーに満ちています。 ですね? あなたは、それについて 知りません。それに入らないでください - あなたが、他のことすべてを、 してきていないなら、 それは、たくさんの言葉だけです。 |
| 1:20:38 そのとき、エネルギーを越えた 何かが、ありますか。 エネルギーの本源は、 何ですか。 理解されますか。 神ではない。 そのすべては、完全に 脇に置かれてしまいました。 このエネルギーを越えた何か、 このエネルギーの本源が、ありますか。 あります。 精神が 全的に空っぽであり、 慈悲と愛を知るなら、そういう精神は、 それに出くわすでしょう。 |
| 1:21:22 何時ですか。 |
| 1:21:24 聴衆: 1時まで5分です。 |
| 1:21:27 K: ああ、すみません。 1時まで5分です。 こんなに長居をさせてしまって、 すみません。 |