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OJ80T6 - 行為、観察と、生きている間に死ぬこと
第6回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1980年5月18日



0:36 これは、日曜日の朝の、 面白いことや娯楽や 或る種のいわゆる霊的な高まりのための集会ではないと、 悟られることを、望みます。 私たちは、かなり真剣ですし、 私たちは、これらの講話と質疑応答会合の間、 ほとんど、生きることの複雑な問題全体について、 話してきました。 そして、語り手とともに、私たちは、 私たちの問題すべてを、解消しようとしています。 恐れ、貪欲、執着の問題だけではなく、 そしてまた、私たちが昨日、話をした問いも、です - すなわち、愛は欲望ではありません。 愛は、愛の、楽しみの継続的な表現ではありません。
2:33 私たちは今朝 - これが、最後の講話ですから - 行為とは何なのか、死の意義とは何なのかの問い、 そしてまた、大いに誤用された言葉、 冥想にもまた、入りたいと思います。 なぜなら、これは、私たちの生のほとんどに、関連するからです。 私たちは、何をも証明しようとか、あなたを、 新しい一組の信念や理想に、転向させようとか、していません。 どの種類の宣伝をもしていません。 語り手は特に、それらへの恐怖を、持っています。 ですが、語り手とともに、あなたがよろしければ、 そして、あなたが真剣であるなら、これらすべての問いに、入りましょう。
4:00 たぶん、あなたたちのほとんどは、この二週間の間、 ずっとここにおられたのでしょうが、 私たちは今、進んで、行為とは何かを考慮しなくてはいけないでしょう。 なぜなら、私たちの生のほとんどは、行為であるからです。 私たちの関係すべてが、行為です - 私たちの態度、私たちの振るまい、 私たちの特定の体質的な表現、 私たちの抑制、私たちの好きなことや 好きでないことを、表現する自由、です。 私たちは、暴力的で、攻撃的です。 服従し、信じている、などです。 そのすべてが、行為です。 ただ、毎日、オフィスへ行くことだけではない - 次の五十年の間、です - あなたがどうして、それに忍耐できるのか、私は知りません - または、何か特定の仕事を、 何度も何度も何度も、余生の間、することだけではない。 そのすべてもまた、行為です。 これら行為は、過去の知識に基づいているだけではなく、 現在により修正されて、未来へ継続します。
6:12 どうぞ、私たちが言いましたように、私たちはともに、話し合っています。 私たちは、何か明らかでないことを、 伝えようとか、言おうとかしていません。 ともに、あなたと語り手は、 この行為の問い全体に、入らなければなりません。 完全である行為があるのかどうかを、見出そうとします - 何も後悔がなく、 不完全な部分的行為の感覚を持たないものが、です。 (不完全)ゆえに、その(部分的)行為は、葛藤を生み育てます。 そういう行為は、分割的である、などです。
7:24 で、私たちが今朝、しようとしていることは - あなたが、麗しい日に、そもそも真剣であるなら、 あなたが、これに入りたいなら、です。 私たちが、生の他の問題に、入ってきたように、です。 私たちは、生を取り扱っています。 すなわち、私たちは、毎日の生活を、取り扱っています - 私たちの葛藤、私たちの混乱、私たちの嫉妬、私たちの攻撃、 私たちの執着、私たちの信念、 私たちの、痛みと悲しみとの常なる格闘です。 それが、私たちの生です。 その騒動より逃避するために、 私たちは、様々な種類の哲学へ、 心理分析の主題に、入ります - 私たち自身の日常の葛藤と悲惨と混乱を、 解決したいと望んで、です。 私たちは見たところ、けっしてそれらに、向き合いません。 私たちは、よく気をつけて、様々な形の逃避を、養成してきました - 宗教的なのも、扇情的なのも、低俗なのなども、ネットワーク全体を、です。
9:17 で、今朝、以前の朝と同じく、 私たちはともに、考慮しようとしています 語り手は、行為が何であるかを、あなたに語っていません。 ともに私たちは、行為の本性を、理解しようとしています - そして、完全で全体的な行為、それで、私たちの日常の生に、 葛藤をもたらす跡を、何も残さないものが、 あるのかどうかを、です。 行為、するとは、何ですか。 私たちのほとんどにとって、それは、蓄積された知識、経験に 基づいています。そしてそこから、行為します。 いいですか? 私たちは付いてきていますね - そう望みます。 すなわち、長年をとおして、学習し、実践し、 大変多くの知識を取得し、 そこから行為します - 上手にか、あるいは、下手に、です。 それが、私たちがいつの時も、していることです。 大工、科学者や、天体物理学者は、彼らの動きにおいて、 知識の取得において、同じです- そして、 もっと知識を付け加え、それを修正し、それを変更することにおいて、ですが、 基礎は、知識を取得することと、 その知識より行為することです。 他のことは、行為することと、そのとき、その行為より学ぶことです。 自分が即時に楽しめることを、何かする。 そこから学ぶ。それをする中で、知識を取得する。 で、どちらも同じです。私たちがこれを理解することを、望みます。 すなわち、知識の取得- 学習によって、 経験をとおして、次第に学ぶ。 そして、その知識より、行為する。 他は、こうです - 行為する。 行為をとおして学ぶ。 ゆえに、もっと多くの知識を、取得する。 で、どちらも、同じです。 理解されますか。 で、私たちの行為は、知識に、基づいています - そして、大変多くの情報に、です。 そして、そこから技能です。 ですね? 私たちが言っていましたように、知識は、いつも不完全です。 これは、きわめて明らかに理解しなければならないと、私は思います。 完全な知識は、けっしてありえません。 天体物理学者、科学者、画家、音楽、 ピアノ奏者、大工、配管工において、 完全な知識は、けっして、けっして、ありえません。 それで、知識はいつも、無知と伴います。 で、私たちの行為は、知識に基づいているとき、不完全にちがいありません。 これは、きわめて明らかに見なければなりません。
14:08 日常生活において、私たちの互いとの関係において、 親密であってもなくても、行為は、以前の記憶、イメージに、基づいています - 私たちが互いについて、築いてきたものにです。そして、そこから行為します。 どうぞ、これらを、明らかに見てください。 なぜなら、次の問いは、かなり困難になるだろうからです - あなたが、この問いを、気をつけて理解しないなら、です。 すなわち、私たちの、互いとの関係において、 知識に、イメージに基づいた行為は、 分割的であるにちがいない。それは、分割されて、葛藤にし、部分的です。 互いとの、この関係において、 まったくイメージがなくて、 ゆえに、実際の関係なのか。 あるいは、 イメージがあるなら、そのイメージは、知識から出てきたものです。 そして、そのイメージから行為する。 で、私たちの関係は、親密でも、その他でも、 部分的で、断片化して、壊れています。 で、その関係には、けっして愛が、ありえません。 愛は、思い出ではありません。 父の日、母の日と、それらの事柄ではありません。 それは、商業的な事柄です。
16:20 で、時の中から生まれていない行為が、ありますか。 私は気をつけて、これを、説明しようとしています。 どの分野でも、知識を取得することは、時を必要とします。 互いに知り合うことは、時を必要とします。 彼らが、より親密であるなら、それもまた、時を必要とします。 で、私たちの行為すべては、知識と時から、出てきたものです。 ですね? 時は、時計による、日の出と日の入りによる だけではなく、また、心理的にも、です。 すなわち、「私はこうである」、「私はそうなるだろう」、 「私は持っていないが、私は持つだろう」、 または、「私は、貪欲だ。 怒っている。暴力的だが、 時が、それを解消するよう、私を助けてくれるだろう」と。 で、私たちの精神は、思考と時と知識により 組み立てられています。 で、私たちの行為は、その中から、生まれています。 あなたが、よく気をつけて、それを検討するなら、 私たちの行為すべては、それに基づいています。 ゆえに、知識は不完全であり、 思考は、不完全であるので、二人の人たちの間に、 闘争が、あるにちがいないのです - それが、男、女などでも、男と男でも、 関係の事柄全体です。 これを理解するなら、または、知的にそれに気づいているなら・・・ 知的にそれに気づいていることは、部分的です。 なぜなら、それはただ、私たちの生の一部だけであるからです。 情動的にそれに気づいていることもまた、部分的です。 が、完全にそれに気づいていることは - その含意全体に、です。 いいですか? 私たちは、互いに付いてきていますか - そう望みます。
19:17 で、そのとき、次の問いは、こうです - 行為が・・・ どうぞ、気をつけて行ってください。 知識から出てきたものでない、行為が、ありますか。 付いてきておられますか。 それが問いです。 私たちは、それはあると、言っていません。または、ないとも、です。 言語、テクノロジーを取得するには、 テクノロジー、コンピューターなどの技能に巧みであるには、 あなたは、知識に基づいた技能を、持たなければなりません。 そこでは、それが必要です。 いいですか? 私たちは、何か全然違ったことを訊ねています - すなわち、 私たちは、心理的に、知識の中から、行為します。 私は、数年の間、あなたを知ってきました。 私は、あなたについてイメージを、築いてきました。 その知識から、私は、あなたに関して、行為します。ですね? 私たちは、心理的な記憶を、探究しています - そこから、行為が起きるものを、です。いいですか? 私たちは、互いに付いてきていますか。 どうぞ、私たちは、何かきわめて、きわめて微妙で困難なことに、 入ろうとしています。あなたがそうしないなら、仕方ありません。 あなたがそれに、精神を注入するなら、それは、きわめて単純です。 あなたが、気をつけて、それを聞くなら - 語り手が言っていることだけではなく、 また、あなた自身の精神が働いているのをも、聞く。 あなたは、ここで眠っていたり、日光浴をしていたり、 或る種の食べ物を食べたりしていないのなら、です。 あなたはこれに、或る種の注意を、注がなくてはいけません。
21:24 心理的に、私たちは、大変多くの知識を、築いてきました - そこから私たちが行為しているものを、です。 すなわち、私たちの知識は、自己中心的です。 いいですか?「私はほしい。 私はほしい。私はほしくない。私は貪欲だ。私は充足しなければならない。 セックスがなければならない」などなどと。 で、心理的に、私たちは私たち自身と他の人たちについて、 イメージを、築いてきました。 そのイメージ、その象徴、その言葉が、知識です。ですね? で、この自己中心的な知識 - そこから私たちが行為するところのもの - は、本質的に利己的です。 いいですか? そして、自己中心的な状態から、行為が起きるとき、そういう行為は、 有害で、傷つけ、暴力的で、孤立させるにちがいないのです。 いいですか? あなたが注目したことがないのかどうか、 あなた自身の生を研究したことがあるのかどうか、私は知りません - すなわち、私たちのほとんどは、こうも自我本位であり、 自分たちの自己中心的な虚栄に、根ざしていること、 それで、私たちが、自分自身のまわりに、壁を築くことに、です。 いいですか? 私は攻撃的であるなら、 私はすでに、自分自身のまわりに壁を築いてきました。 その状態の中で、私は、行為したいのです。 いいですか? あなた自身においてこれらを、見てください。 あなたは実際に、あなた自身を、観察しています - そうなさるなら、 語り手が提示している鏡の中に、です。 それは、あなたの鏡です。 私の鏡ではありません。 すなわち、私たちは人間として、世界中をとおして、 この中心から、動き、行為するのです。 ですね? 私たちが、この中心から行為するかぎり、 葛藤があるにちがいないのです。 私たちが、これらの講話の始めから、指摘してきましたように、 私たちの関心は、葛藤を消去することです - 国家的、民族的、経済的、社会的な葛藤、抗争、戦争 様々な宗教の間、様々な教義、信念、迷信、儀式 の間の葛藤、抗争- 儀式は、迷信の一部です。 この分割的な要素が、精神にあるかぎり、 葛藤が、あるにちがいありません。 私たちの行為が、自己中心的であるかぎり、 この分割的な要素は、存在します。ですね? この自己中心的な状態は、知識と経験の蓄積です - 頭脳に蓄えられたのです。 その状態には、「私」と、私の表現の、 この常なる追求が、あります。 ですね?
26:08 で、私たちの次の問いは、こうです - この自己中心なしに、行為すること、 生きることは、可能ですか。 ゆえに、それは、きわめて深刻な問いです。 それは、日曜日の朝の、福音主義者の戯言ではありません。 それは、何か私たちがよく、よく気をつけて入らなくてはいけないことです。 なぜなら、人間たちは、 まさに時の始まりから、 葛藤とともに、生きてきたからです。 私たちは、何百万年に何百万年の後、 いまだに、その状態に、生きています。 ゆえに、何か根本的に間違ったことが、あります。 すべての哲学、宗教、信念にもかかわらず、 私たちはいまだに、動物状態です。 私たちは、いまだに、 この破壊的な中心を、持っています - 私たちがそこから行為するものを、です。 私たちが単に、たくさんの言葉を、聞いていないのを、望みます。 あなたは、自分の精神を観察しているのです。 自分の精神が働いているのに、気づいています。見つめ、訊ねています。 全的に違った生き方があるのかどうかを、訊ねています - 百万年の同じ様式に、捕らわれないで、です。 いいですか? どうぞ、大変真剣に、あなた自身にこの質問をしてください。 なぜなら、私たちは、自分自身を破壊しつつあるからです。 私たちは、大地、空気を、破壊しつつあります。 私たちは、人間たちを、破壊しつつあります。
28:38 で、私たちの責任は、ものすごいのです。 私は、「責任」というその言葉を、 何の罪悪感もなしに、使っています。 あなたは、責任を感じるなら、行為します。 ですが、あなたは、行為しないなら、罪悪を感じないでください。 あなたは単純に、責任を持っていないだけです。
29:13 で、この中心は、何ですか。 いいですか? それはどのように、生じてきましたか。 私たちが言いましたように、私たちは死についてもまた、話すでしょう。 死が起きるとき、 この行為の中心が、終わります。 私が言っていることに、付いてきていますか。 私は説明するでしょう。私は、気をつけて、それに入るでしょう。 初めに、私たちは訊ねています - 中心は終わりになり、けれども、 この生を生きることが、できますか。 どこか修道院へ入ってしまい、 何かのイデオロギーやユートピアと同一視し、 「私は中心を失ってしまった」と言うのではない - それは、戯言でしょう。 なぜなら、あなたは単に、中心を他の何かに、同一視してきたからです。 いいですか? それがお分かりになるのかどうか、私は知りません。 すなわち、この自我本位の活動は、 その楽しみ、恐れ、心配などとともに、 その中心、その自我は、何かを信じていて、 何かにおいて、同一視します - イメージにおいて、教義などにおいて、です。 または、新しい名前を付けますが、その中心は、やはり残っています。 これに付いてきておられますか。 よし!
31:08 で、私たちの問いは、こうです -それに死ぬ、けれども、生きていて、 活動的で、働き、続けてゆくことは、可能ですか。 それは、葛藤なしに、続けてゆくことです。よろしいですか。 で、私たちは、探究しなければなりません - この中心は、何ですか。 精神、頭脳、形態、名が縋りつくところのものは、です。 理解されますか。 これらに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 私たちは、訊ねています - 自己の本性と構造は、何ですか。 いいですか?あなたは、何ですか。 あなたは、何をも仮定しないなら、見出せるだけです。ですね? あなたが、「私は、私なるものでなければならないな」と言うなら、 あなたは、自分が何であるかを、見出しつつありません - または、 「私は、自分は何か霊的な実体だと信じている」と。 またもや、あなたは見出せません。 または、あなたが、自分の先入観をもって接近するなら、見出せません。 で、これを探究する中で、あなたは、自由に観察できなければなりませんね。 なぜなら、観察は、分析ではないからです。 あなたはまた、気をつけて、これを理解しなければなりません。 私たちの精神と頭脳全体は、分析するよう、訓練されています。 それが、ずっと、私たちの生の様式であったのです。 その生活の様式が、葛藤が終わることを、 もたらしてこなかったことが、見えるとき、 あなたは、他の方向を、探究しなければなりません。ですね? 他の方向は、観察です。 方向なしの観察。 それは、分析なし、という意味です。 すみません。ここに、他の分析者がいらっしゃるなら、許してください。 あなたが同意されないなら、それは、だいじょうぶですが、 私とともに、語り手とともに、それに入ってください。
34:04 あなたが観察するとき、 思考が、その観察に介入するとき、 あなたはそれに、方向を与えています - あなたの記憶から、あなたの動機から、あなたの欲望からです。ですね? そのとき、観察は、ありません。 あなたの欲望、あなたの動機、あなたの楽しみが、観察を、方向づけます。 いいですか? で、あなたが何であるかを、実際に観察するには、 自由に、それに接近しなければなりません。 それが、私たちの困難です。 なぜなら、私たちの精神は、条件づけられているからです。 条件づけられているので、私たちの接近は、いつも制限されています。 いいですか? で、あなたは、今朝、そこに座っていて、 ともに、これについて話し合っていて、それから自由でありえますか。 あなたの先入観から、あなたの分析から、 あなたの分析の中でのあなたの攻撃、それらから、自由である。 ただ観察する - あなたが、櫛で髪をとかしたり、髭を剃ったりするとき、 鏡で自分の顔を、観察するように、です。ですね?
35:53 そのとき、この「私」、この自我、この自己は、何ですか - 私たちが、こんなにものすごい重要性を、与えるものは、です。 なぜなら、それを、見出さなくてはいけないからです - それが、幻影ではなく、 現実の何かであるのかどうかを、です。理解されますか。 何かあなたが触れられ、感じられ、見られるものであり、 何か自分が創り出してきた幻影でないのか、です。 そのとき、この「私」の本性が何であるかを、 見出さなくてはいけません。 なぜなら、私たちはともに、議論しようとしているからです - 私たちが過去に話してきたことだけではなく、 また、死は何であるかも、です。 どうぞ、それは関係しています。 確かに、「私」は、組み立てられています - 教育をとおして、比較をとおして、 いわゆる文化、いわゆる個人性の観念をとおして、です。 そのすべてが、思考の動きです - それが、「私」を創り出してきたのです。 理解されますか。 そうなのです。 攻撃的である「私」、 何か突飛な観念を強く信じている「私」 - それは、ロマンチックであり、それは、ひどくさびしく、 そのさびしさから、あらゆる種類の 白痴的な戯言の中へ逃避しています。 で、そのすべてが、「私」です - 思考により、そこに置かれています。 いいですか? あなたが、「魂」とそれらの事柄を言うなら、それはやはり、思考です。 私たちは、 そこから行為が起きると、言っています。ですね?
38:46 自己中心的でない行為が、ありますか。 いいですか。 ごく単純に表すと、 それは、自我本位に動機づけられ、方向づけられていません。 なぜなら、それは世の中に、荒廃をもたらしてきたからです。ですね? 個人的な関係に、だけではなく、 私たちの隣人とも、です -彼らが近くても、遠くても、です。 さて、この自己中心的な存在は、終わりになりえますか。 けれども、この世の中に生き、行為し、考え、感じるのです。 すなわち、私たちは心理的に、自分たちについて、 大変多くの知識を築いてきました。 自らは、そのすべての心理的な知識に対して、死ねますか。 いいですか? それは、死ですか。 これに、付いてきておられますか。
40:12 そうね、私たちは、こうも死を恐れています。 私たちは、何も恐れを持たない精神を、 探究したことが、ありません - 私たちは、先日、それについて話しました - それだけでなく、 また、死は何であるのかも、です。 いいですか? そうね、私たちの精神は、継続に、縋りつきます。ですね? 継続の中に、安全があります。 「私はそうだった。 私はそうである。私はそうあるだろう」と。 その概念、その観念は、ものすごい強さを、与えます。 ですね?私は、安全、安心に感じます。 死は、そのすべてを、拒否します。ですね? 私の安全、私の執着 - 私がまとめてきた物事すべてへ、です。 私たちは、それを恐れています。 すなわち、何か知られていないものへ入ることを、です。ですね? なぜなら、私たちはいつも、知られたものとともに、生きてきたからです。 これらに、付いてきておられますか。 どうぞ、そうしてください。 それは、あなたの生なのです。 あなたの災難、あなたの悲惨、あなたの抑鬱、 あなたのさびしさ - それは、あなたの生なのです。 あなたは、いつの日か、それに向き合わなくてはいけません。 すなわち、あなたが理解して、 違ったように生きたいなら、です - 唯一つの問題もなく、葛藤の影もなく、 大変多くの慈しみと愛をもって、です。 すなわち、あなたがそうしたいなら、ですが、 そうしたくないなら、あなたは、続けていきます。 古い様式を継続し、 大変多くの悲惨を、あなた自身と他の人たちに、もたらします - 戦争と、世界で進んでいくすべての悲惨です。 それは、あなたしだいです。
43:13 で、私たちの生活 - 私たちが知っているような、 私たちが気づいているような、日々の生活は、一連の継続的な、 互いとの常の闘争、葛藤です。 あなたがどんなに親密でも、 これらについての混乱です。 一人の政治家は、それを言う。 別のは、別のことを言う。 高い位の、一人の経済学者は、他の経済学者を拒否する。 一人の科学者は・・・そうね、つづいていくゲームです。 これは、互いとの、私たち自身の中での常なる闘争です。 それが、私たちの生活です。 ですね? それは、現実です。 理論ではない。 誰かがあなたに課した何かではない。 あなたは、それです!
44:29 で、それが、私たちが怯えていることですか - それらを失うことですか。 私が言っていることを、理解されますか。 おそらく良い例を、取り上げさせてください - すなわち、執着です。 またもや反復して、すみません- それを聞いてきた人たちには。 執着の本性と構造は、見えます - その執着の帰結、 痛み、嫉妬、心配、憎しみ、楽しみと、 いわゆる愛の細い線、薄い膜、です。 事務所や工場へ行くこと、 何か速記をする秘書であること- よろしいですか - 来る日も来る日も、常に、次の五十年間、です。 あなたは、何と悲劇的なさまで生きるのか! または、あなたは、それらから逃避し、何か他の愚行へ、入ります。 そこにもまた、葛藤があります。そこにもまた、この攻撃、楽しみが、あります - 違った形で、ですが、同じ様式が、反復されます。 これが、私たちが、生きる、と呼ぶものです。
46:19 そして、それらすべての説教師、司祭者たちが、います - いわゆる宗教的な権威、上下関係です。彼らは、 「あなたはここで、天国を得られない。 それはあちらにある」と、言います - 「あなたは、信仰を持たなければならない」と。いいですか? 「それを理解するには、それから逃避するには あなたは、信仰を持たなければならない」と。 あなたが注目なさったのかどうかと、思われます - すなわち、宗教は、書物に基づいているのです。 いいですか? ここではキリスト教は、バイブルです。 いいですか? イスラム世界は、コーランです。 仏教とヒンドゥー教の世界では、きわめて多くの書物が、あります。 「こうしなさい」と言う、一つの書物は、ありません。 で、書物に基づいている宗教は、疑いを、拒否します。 私とともに、それに入ってください。いいですか? あなたが疑うなら、宗教的な構造全体が、終わりになります - 西洋社会では、です。 仏教の世界と、ヒンドゥー教の世界でもまた、そうです。 で、信仰が、疑いに取って代わってきたのです。 あなたがこの疑いの問いに、 入ったことがあるのかどうか、私は知りません。 それは精神に対して、何ととてつもない浄化の効果を、持つのでしょうか! もちろん、あらゆる物事を疑うなら、あなたは、精神病院に入ってしまいます! ですが、いつ疑うのかを、知らなければなりません。 それは、あなたが、いつそうすべきかを、知らなければならない、という意味です。 あなたは、犬を飼っているとき、いつそれを紐に繋ぐかを、知っていますが、 必要なとき、それを自由にさせたいとき、それを放してやります。 それをいつの時も、紐に繋いでおけません - 気の毒な犬です! で、疑いは、紐に保っておいて、時に放してやらなければなりません。 それは、あなたが不確実性から始める、という意味です。理解されますか。 確実性からではなくて、です。 どうぞ、これに付いてきてください。 書物は、あなたに確実性を与えてくれます。ですね? バイブル、これと他のもの。 あなたは、それを信じなくてはいけません。 で、それは、確実性から出発します。 あなたは、検討しはじめます。 それは、不確実性に終わります。 ところが、あなたが、不確実性から出発するなら、 あなたは、確実性を越え、他のあらゆる物事を越えた何かに、 終わってしまうかもしれません。 さて、私たちは、直ちにそれに入ろうとしています。
50:09 で、私たちは、親密にでも、そうでなくても、生きる中で、 執着から、即時に自由でありえますか- それが、死です! 私が言っていることを、理解されますか。 理解されますか。 死は、あなたと論争しないでしょう。 死は - あなたは、言わないでしょう。 あなたは、語らないでしょう - そのとき、「私に、もう少し時間をください。どうか、待ってください」と。 ですが、あなたは、死が何であるかを、知るなら - すなわち、終わることを、です。ですね? あなたが生きている間に、終わること。執着が終わること。 今、付いてきていますか。 それが、死があなたに言おうとしていることです - 「あなたは、あらゆるものを残して行かなければならない」と。 ですが、そういう終わりには、怯えます。ですね? で、あなたは、輪廻転生を信じます。 あなたは、希望がほしい、 その他すべてです。または、天国に復活したのと、それらです。 さて、私たちが生きている間、あなたは何かを、終わらされますか。 喫煙と、それらのばかげたことを、ではなく、 はるかに深く、心理的に、です。 あなたの貪欲を終わらせる。 あなたの攻撃を終わらせる。 あなたの教義的信仰と経験を終わらせる。 よろしいですか。それを終わらせる。 あなたが何かを終わらせるとき、全的に新しい始まりが、あります。ですね? これがお分かりになるのかどうかと、思われます。 ですが、あなたが、分析をとおして、意志をとおして、 それを終わらせるとき、あなたは、それを終わらせつつありません。 ですね? これは困難です。 いいですよ。説明しましょう。
52:48 終わるために、動機があるなら、 その動機は、思考により、欲望により、組み立てられています。 あなたが分析し、ゆえにそれを終わらせるとき、 それはやはり、思考の過程です- いいですか? - すなわち、他の形で継続するのですが、あなたは、それを、 特定方向で終わらせました。 ですね? これを理解されましたか。よし。 で、私たちは、言っています -
53:29 方向づけなしに、執着や、攻撃や、あなたの暴力を、観察してください。 どんな動機、方向づけ、欲望もなく、それを観察してください。 ただそれを観察してください。 まさにその観察の中、それが終わることが、ある。 ゆえに、あなたは、生きている間に、死を招いています。よろしいですか。 これを理解されるのかどうかと、思われます。 自殺をするのではない。それは、別のことです。それはあまりに・・・ 精神は、葛藤、痛み、苦しみの中に、生きます - 何の慈しみ、愛の感覚もなく、です。 なぜなら、それは、自己中心的であるからです。 この自己中心の多くの局面の一つがこの攻撃、競争、貪欲です。 それらの一つを終わらせる。または、それらの多くを、即時に、楽に、です。 そのときあなたは、この世界に、全く違った種類の生を、生きています。
55:01 で、死は、生きている間に、ある。理解されますか。 これを理解されますか。 生の終わりに、ではない。 あなたが老いていて、惚けて、病気になって、 無意識で、それらの悲惨を経てゆくとき、ではない。理解されますか。 精神が収集してきた物事を、終わらせる - 楽に、一定の優美さをもって、 それで、違った精神の性質が、あるように、です。理解されますか。 そういう精神は、この継続性と恒常性を、持っていません。
56:13 また私たちは、ともに、二人の友人として、話し合うべきです - きわめて、きわめて複雑な問題について、です。私たちの生は、 不幸にも、複雑な問題です。 また、宗教、冥想についても、です。 物質すべてを越えた何かが、あるのかどうか。 質問を理解されますか。
56:57 宗教は、あるいは、むしろ、人は、いつも探究してきました - 物質的な存在以上の何かが、あるのかどうかを、です。 日々の課業、仕事、このさびしさ、 絶え間ない痛みと悲しみを、越えて、です。 人は、年代のない時から、 何か越えたものが、あるのかどうかを、訊ねてきました。 人はいつも、それを探し求めてきました。 司祭者たち、そして、その施設を作りたい精神、 探求、訊ねること、 それらは、それを宗教にしてきたのです。ですね? それを、組織、施設にしました。 で、探し求める人は、それに、捕らわれています。 お分かりになるのかどうか、私は知りません。 で、あなたがそれに捕らわれているのかどうかを、見出さなくてはいけません。 または、あなたは探究しています- ですね? 信じているのでなく、信仰ではなく、探究、観察すること、訊ねることです。 いいですか? すなわち、この存在、この物質的な幸福以上の 何かが、あるのかどうかを、訊ねています。 人の有限な存在をはるかに越えた何かが、 あるのかどうか、です。 いいですか? 私たちは、それに入ろうとしています - ともに、です。私がそれに入り、あなたが聞くのではない。 なぜなら、それは、とても容易いからです。 あなたは、去るとき、これらを、聞いてきたことを、忘れますが、 それが、あなたの生、あなたの毎日の関心事であるなら、それはあなたのです。
59:42 あなたは、どうやって・・・どうやって、ではない。 どのように、あなたはこれを探究しますか。理解されますか。 私たちの精神、私たちの頭脳は、時の結果です。ですね? 百万年と、何百万年、 それは、進化し、成長してきました。 あらゆる種類の知識を、蓄積してきました - 経験をとおして、痛みをとおして、です。 私たちの頭脳は、それです。 いつも安全を探し求めています - 物理的にも、心理的にも、です。 その本質こそが、「私に安全を与えてくれ」です。 なぜなら、頭脳と精神が、完全に安全であるとき、 全く違った精神の状態が、あるからです。 ですが、不幸にも、私たちの頭脳と私たちの精神と、 私たちの反応などは、安全を見つけてきませんでした - 物理的な世界においても、あるいは、内の世界、 心理学の世界において、心理においても、です。
1:01:42 安全が、ありますか。 理解されますか。 あなた自身に、訊ねてください。 他の一人とのあなたの関係に、安全が、ありますか - それを、実地に降ろしてくると、です。 明白に、ありません。あなたは、それを持ちたいと思うでしょう。 その安全は、恒常性を意味しています。ですね? 継続、です。 あなたは、自分の関係に、それを持っていますか。 あなたが正直であるなら、明白に、持っていません。 しかし、精神は、これを探し求めています。 それを見つけられないなら、それは、幻影を創案し、 その幻影の中に、安全を持つことを望みます。ですね? 理解されますか。 で、思考は、精神と頭脳の一部分ですが、 思考は、この常なる安全の動きを、探し求めています。ですね? そこにそれを見つけないので、必然的に、何かを考案します - 幻影となるものを、です。 それもまた、実在です。 いいですか。 幻影は実在です。
1:03:23 で、精神は、自由に、理解し究明できなければなりません - 物質を越えた何かが、あるのかどうかを、です。 精神は、どの種の幻影からも、自由でなければなりません。 いいですか? 幻影は、信念です。 幻影は、信仰です。 幻影は、依存です。 よろしいですか。 で、精神は、どの形の幻影からも自由でありえますか。 さもないと、それは、さらに進めません。 あなたが、ではなく、頭脳が進めません。 精神が、さらに動けません。 それは、あなたが幻影を持っていることに、気づいて、 それを終わらせることです。 背景に保っておいて、究明しようとするのではない。 そのとき、あなたは、ゲームをやっています。 で、精神は、幻影を創り出したい欲望より、 自由でありえますか。 いいですか? それが、冥想の一部です。 ただ、一個所に座り、10分間、静寂であることだけではない。 朝、晩、午後、あなたがいつ、それをするにしても、 そして、残りの一日、悪さをし、 自我中心であることではない。 いいですか?
1:05:19 で、科学者、天体物理学者は、いつも、この質問をしています - 彼らが、単に発明好きでビジネスの科学者でなく、真剣であるなら、です。 物質を越えて、何かがありますか。理解されますか。 思考を越えて、何かが、ありますか。 なぜなら、思考は物質であるからです。ですね? なぜなら、それは、脳細胞の中に保たれているからです - 記憶です。 経験、知識は、脳細胞の中に、保たれています。 ゆえに、それはやはり物質です。 そして、思考は物質です。 付いてきておられますか。 あなたは、それを受け入れないかもしれません。 それに入り、それを検討してください。 で、物質を越えて、何かが、ありますか。 あなたは、どのように見出すのでしょうか。 科学者と、他の人たち、天体物理学者などは、 外のあちらを見ています。ですね?彼ら自身の外側を、です。 ですね? 私たちは、こう言っています。 あなたが自分自身をどう見つめるのかを、知るとき - それはまた、物質です - あなた自身を理解する。 あなた自身を、見つめる。 そこで、あなたは・・・ そのほうが、他方よりはるかに実在的です。 これを、あなたは試せます- 理解できますか - 自分の日常の行為において、あなたは、それを試せます。 あれは単に、理論になります。 これらに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 付いてきておられますか。 あなたがこの晴れの天気を、楽しんでおられることを、望みます。 これに興味が、ないなら、樹々を、見つめてください - 樹の美しさ、木漏れ日と、 輪郭線沿いの遠方の山々、空の美しさを、です。 ですが、あなたが、それに敏感であるなら、 あなたは、言われつつあることに敏感であるでしょう。
1:08:09 で、発見できる精神、意識の状態は、 何ですか。 私は、「知る」という言葉を、かなり広い意味で、使っています。 そうね、「知る」という言葉は、きわめて制限されていますね。 あなたは自分の妻に、「私はあなたを知っている」と、言えますが、 あなたは実際に、自分の妻や自分の夫を、知っていますか - または、自分のボーイフレンドを、です。あなたは知りません。 あなたはただ、彼女や彼について、 自分が築いてきたイメージに沿って、知っているだけです。 で、ここで、「知る」という言葉は・・・ あなたが、「私は、越えた何かを知っている」と言うとき、 あなたは、それを破壊してしまったのです。 私が言っていることを、理解されますか。
1:09:32 で、冥想は、何かあなたが実践することではありません。 それは、生の動き全体を理解することです。ですね? 悲しみ、痛み、心配、攻撃、さびしさを、です。 さもないと - 精神がそれらより自由でないのなら、 あなたの冥想は、甲斐がありません。理解されますか。 インドから来た、これらの導師を、ご存じですね - 自分たちの、きわめて多くの形の体系、迷信、概念を、 もたらした人たちです。 チベットの冥想、禅の冥想が、あります。 目覚めさせるための冥想・・・ - 私はただ、彼らの語法を用いているだけです。 私に食ってかからないでください - 彼らのクンダリニーを目覚めさせるための冥想、様々な形のヨーガ。 ヨーガ、その言葉の本当の意味は、結びつけることです。 いいですか? すなわち、結びつけること- 彼らによれば、 低い物質的な存在を、高いものに、結びつけること。 ヨーガの実践は - そうね、呼吸をする、 様々な姿勢を取る、それら、ですが - 18世紀か、17世紀頃に、創案されました。 神通力をほしがる人や一団の人々によって、です。 すなわち、制御をとおし、力づくをとおし - よろしいですか - 方向づけをとおして、彼らは、こう言いました。 「私たちは、超感覚的な知覚を目覚めさせるかもしれない」と。 私はそれを、現代語に表しています! 彼らは、それを実践してきていますが、 ただ一つのヨーガが、あります。それはラージャ・ヨーガ(王のヨーガ)と呼ばれます。 そこに、実践は何もありません。 人為的な体操 - 歩くこと、泳ぐことは、ありません。 自然な、ものすごく道徳的な生です - そこに、(統合された)誠実さが、あるものです。よろしいですか。 それが、本当のヨーガです。 あなたが調子を合わせていく、これらのものではありません。
1:13:11 あなたが、冥想において、体系の本性を理解するとき、 すべての体系を、理解します。 ですね? それが、チベットのもの、禅でも、 あなた自身の特定の種類の土着の導師でも、 輸入された導師ではなく、あなた自身の土着のものでも、 あなたは、彼らの一つの体系を、理解するなら、 冥想に関して、体系すべてを理解したのです。 すなわち、それらは本質的に、制御、集中、実践に 基づいています。ですね? 毎日、これとあれをしなさい、と。 それは- 禅を含めて - 精神を、ますます鈍くすることです。 それは、反復し、反復し、反復することです。理解されますか。 これらを理解されることを、望みます。
1:14:28 これらの導師もまた、やってきて、マントラと呼ばれるものを あなたに与えます。これらについて、聞いたことが、ありますね。 あなたが、これらの事柄で重荷を負っているのは、残念です。 「マントラ」という言葉の意味は・・・ その語源、「マン」、「トラ」、二つの違った言葉です。 一番目の言葉、「マン」は、冥想(熟慮)することを、意味しています - 気をつけて聞いてください - ならないことについて、冥想するとか、熟考する。 理解されますか。 何かにならないことを、です。 「トラ」は・・・私は、これらのことに、飽きています! 「トラ」は、自己中心的な活動すべてを、片付けてしまう、という意味です。 理解されますか。 マントラは、ならないことを、冥想するとか、 熟考する、関心を持つ、という意味です。 理解されますか。 それを理解されますか。 何にもならないでください。 あなたは、物質的な世界で、何かになるかもしれませんが、 内的に、何にもならないでください。 あなたが、自己中心的な活動を、持っているなら、 それを片付けてしまいなさい。 それが、その本当の意味です。 彼らがそれを、何へ還元してしまったのかを、見てください!
1:16:13 で、体系は、チベットのでも、ビルマのでも、禅のでも、 ヒンドゥーのでも、キリスト教のでも、反復があるとき、 それは、何かを達成したいと望んで、反復する、という意味です。 その体系は、あなたの導師か、あなたの超導師などにより、 創案されます。あなたは単に、従うだけです。ですね? すなわち、何か権威に従います。 ゆえに、あなたの精神は、幼稚に、狭く、機械的になり、 機械的で、その裏に何の実質をも、もちません。 で、あなたが、一つの体系を理解するとき、終了しました。理解されますか。 あなたは、禅仏教を理解するために、日本に行かなくていい。 または、インド、その他すべてに行かなくていい。 「禅」という言葉は、サンスクリットの「ドヒャーナム」から、来ています。 それは初めに、仏教の時代の後か、仏教の時代の間に、 シナへ行きました。或る僧侶がそれを、そこに伝えました。 シナ人と日本人は、たぶん ドヒャを発音できないので、彼らはそれを、禅に変えました。 それが、ほとんど神聖になったのです!
1:17:56 で、冥想は、終わることです。 あなたの貪欲が終わること、あなたの執着が終わることです。 いいですか? なぜなら、そのときだけ、精神は自由であるからです。 そのときだけ、精神は問題を、持っていないのです。 越えてゆけるのは、そういう精神だけなのです。 すなわち、意識をともなった精神 - 意識は、内容すべてから、作り上げられています。 理解されますか。 内容が、意識を作ります。 あなたの貪欲、あなたの妬み、あなたの心配、 あなたのさびしさ、あなたの信念、あなたの執着、 あなたの安心の追求- よろしいですか。 それらが、あなたの暴力が、私たちの意識の内容です。 そして、越えてゆく、見出すには、あるいはむしろ、見る、観察するには、 - このすべてを越えた何かが、あるのかどうかを、です - それには、精神は、自らの内容すべてから、自由でなければなりません。 これは、理性的です。これは、非論理的ではありません - 理解されますか。 そのとき、精神は空っぽです。 空っぽは、エネルギーに満ちています。 それを、彼らもまた言っています- 科学者たちも、ですね? 精神が空っぽであるとき、何もありません。 何もないとは、思考が創り出した物事が一つもない、という意味です。 そういう精神は、空っぽなので、その精神は、エネルギーに満ちています。 ですね? あなたは、それについて知りません。それに入らないでください - あなたが、他のことすべてを、してきていないなら、 それは、たくさんの言葉だけです。
1:20:38 そのとき、エネルギーを越えた何かが、ありますか。 エネルギーの本源は、何ですか。理解されますか。 神ではない。そのすべては、完全に脇に置かれてしまいました。 このエネルギーを越えた何か、このエネルギーの本源が、ありますか。 あります。精神が全的に空っぽであり、 慈悲と愛を知るなら、そういう精神は、それに出くわすでしょう。
1:21:22 何時ですか。
1:21:24 聴衆: 1時まで5分です。
1:21:27 K: ああ、すみません。 1時まで5分です。 こんなに長居をさせてしまって、すみません。