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OJ81Q1 - 第1回質疑応答会合
カリフォルニア、オーハイ1981年5月5日



0:19 残念ですが、(書面で)出していただいた質問すべてには、 答えられない、と思います。 それらはあまりに多くあるからです。 あなたの特定の質問が答えられないとしても、 お気になさらないことを、願っています。 集積のなかから、私たちはこれらの幾つかを、選んでおきました。 私たちは、それらに入るでしょう。
0:50 問いに対する自らの接近は、何なのでしょうか。 もしも、これらすべての問いが、あなたに出されたなら、 あなたはそれらへ、どのように答えるでしょうか。 あなたの接近は、どうなのでしょうか。 あなたはどのように、問いを聞くのでしょうか。 その問いへの応答は、何でしょうか。 それは、答えでしょうか。 または、問い自体でしょうか。 あなたは問いを、どのように扱うのでしょうか。すなわち、
1:32 第一の質問: 「あなたは、条件づけの弊害について、話されます。 けれども、多くの心理学者、哲学者などは、 適正な条件づけをとおしてのみ、人は 明晰に考え、行為できるのだ、と言います。 あなたの答えは、どうですか。」
1:58 もう一回、それを読みましょう。 「あなたは、条件づけの弊害について、話されます。 けれども、多くの心理学者、哲学者などは、 適正な条件づけをとおしてのみ、人は 明晰に考え、行為できるのだ、と言います。 あなたの答えは、どうですか。」
2:25 さて、もしも、その問いがあなたに出されたなら、あなたはそれに どのように答えるのでしょうか。 あなたは、それについて考えたにちがいないが、 それへ、どのように応答するのでしょうか。 それへのあなたの接近は、どうなのでしょうか。 あなたは、この種類の問いを、どのように聞きますか。 あなたは、多くを読んできた後 - おそらく、幾人かの哲学者と心理学者と、 それらの種類のことに関する書物を、です - あなたは、自分の収集した記憶から、すぐに応答して、 その問いに答えようとしていますか。 または、他の人たちが言ってきたことを、脇に置いて、 あなたはそれへ、どのように答えるのでしょうか。
3:33 初めに、世界中の人間すべては、 こんなに数百万年もの後で、条件づけられていることは、 明白ではないですか - 私はそうだと思うのです。 それは事実です。 彼らは、条件づけられています- 自らの宗教により、 政府の体制により、 経済状況、 気候、食べ物、衣服により、自らの家族により、 自らの教育などによって、です。 世界中で人間すべては、条件づけられています。 それは、明白な、受け入れられる、合理的な事実です。 そして、あれら哲学者と心理学者が、います - あなたはこの条件づけを受け入れなければならない、と言う人たち、です。 あなたたちもまた、それについて聞いてきました。 彼らは、彼らの幾人かは、条件づけは、けっして 変化させられないと、主張します - 「人間の条件はけっして、変容させられない、 この条件づけからの変異は、けっしてありえない、 だから、それをできるだけ役立てろ」と。 あなたは、利巧な作家であって、 言葉の才能に恵まれているなら、それについて詳しく述べます。 そして、あなたは有名になります。 私たち、あわれな素人は、利巧で博識な人々を、 受け入れます。 彼らの主張を、つづけていきます。 しかし、それらを脇に置き、 自分たち自身を見つめられるなら、私たちはこの事実を、どのように扱いますか - すなわち、私たちはみんな条件づけられている、ということを、です。 あなたは、インドに生活しているなら、特定の形で条件づけられています - 宗教、迷信、無知、貧困、 気候、食べ物、空間の欠如、過剰な人口。 西洋にやって来ると、同じ現象が、つづいています。 キリスト教徒は、二千年の後で、条件づけられています - 自らの社会により、自らの文化などによって、です。
6:30 哲学者と心理学者は、見たところ、 彼ら自身を究明しません。 彼らは、理論を持っています。 彼らは、鳩、動物で実験をしてきました。 そこから彼らは、一定の結論に到ります。 しかし、彼らはけっして、こう言いません - 「私は条件づけられている。 私の条件づけは、私の宗教、私の社会、 私の家族、私の名前、伝統である。 私はとうてい、それらを解けないのかどうかを見て、 精神をこの条件づけから自由にすることが、 そもそも可能なのかどうかを、発見しよう。」と。 ですね? さて、私たちは今、ともにそれをできますか。 質問を理解されますか。 話は、明らかになっていますか。
7:36 私たちは、アメリカで生きるよう、条件づけられています。 あなたは、裕福な社会により、 楽しみへ、娯楽へのこの甚大な衝動により、条件づけられています。 そして、突飛な宗教と、導師たちとそれらのものをもった ロマンチックな東洋、です。 私たちは不幸にも、条件づけられています。 さて、私たちは、この条件づけを発見し、それに気づけるでしょうか。 私は条件づけられています - 仮にそうだとします。私はインドで生まれました。 宗教をめぐって、つづいていく戯言すべてとともに、です。 語り手が生まれた時に、彼らは、きわめて、きわめて正統的でした。 ものすごく、いわゆる宗教的でした。 自らの伝統をもったバラモン階級、などです。 さて、それに気づくなら、 それらの重い二千、三千、五千年来の いわゆる文明より、実際に自由になれるでしょうか。
9:21 それが、質問者が訊ねる問題です。 質問者は言います - 私はこれらから、自由でありうるでしょうか。 誰が真理を語っていますか。 哲学者、心理学者たち - あなたはとうてい、人の条件づけを変化させられないと、 主張する人々ですか。 人間の本性は、修正できるが、 それはけっして、根本的に変容させられない、と。 あなたはそれを受け入れるなら- それはとても便利で幸せです - あなたは余生の間、小走りに駆けてゆけます。 条件づけの小さな円の中に生きて、 それは回避できないと言う。 しかし、はるかに深く、それに入るなら、 見出したいなら - 条件づけとは何なのか、 そして、本当に、きわめて深く、条件づけのまさしく根において、 それらから自由であることが 可能なのかどうか。 それが、問いなのです。
10:55 さて、どのように、それに取りかかりますか。 私は、自分が条件づけられているのが、分かります。 私たちの、その「条件づけ」という言葉は、どういう意味でしょうか。 頭脳は、きわめて柔軟で微妙ですが、 吸収し、保ち、それ自体を一定の制限へ拘禁する とてつもない能力を、持っています - その制限の中で安全である、と感じて、です。 それは本当は、条件づけです。 付いてきておられることを、願っています。 私はあまりに速く行きすぎていますか。 それは、その条件づけの中で、安心を感じます - 保護され、安全だ、と。 それは進んで手放し、見ようとしません。 長い習慣のために、そうしようとしません - 特定の経験、知識、その他すべてへ拘禁され、 制限された数千年のために、です。 で、それは、その条件づけの中で、完全に安全に感じます。 それは、心理学者、哲学者、他の人々が言うことを、 受け入れます - それとともに生きなさい、 その中で幸せでいなさい、それをできるだけ役立てなさい、 もっと良い浴室、もっと良い関係。 いつも、もう少し良い、もう少し便利だ、と。 心理学者すべては、私たちがもう少し幸せであり、 もう少し適応可能であり、 この条件づけに関与するものを、もう少し受け入れるよう、助けてくれます。
13:20 さて、自らが、「私は本当に見出したい」と言うのなら - 心理学者、他の人たちが言うことを、ではなくて、 私は、この条件づけがいったい 解消できるかどうかを、本当に見出したいのです。 初めに、この条件づけの結果は、何でしょうか。 条件づけられている精神に、または頭脳に、何が起きますか - 「私は条件づけから自由になるだろう」と私たちが言える前に、です。 どうぞ、私たちは互いに出会っていますか。 私たちは、これをつづけてゆくでしょうか。 あなたは自分自身、それをしています。 私は自分自身のために、そうしていません。 これは、集団分析や集団療法、 その種の戯言ではありません。 私たちは、頭脳をその重い条件づけから 自由にすることが、可能なのかどうかを、見出そうとしています。 自らが条件づけられているとき、頭脳が条件づけられているとき、 その条件づけは、様々な形の葛藤を、もたらします。 いいですか?私は、仮に、ヒンドゥー教徒として、条件づけられている、とします。 または、カトリックやプロテスタントとして、または、それが何であっても、です。 自然に、頭脳は、そう条件づけられていて、萎縮します。 ですね?私たちは互いに、付いてきていますか。 あなたは、注目したことがありますか - あなたが、自分はキリスト教徒である、 自分はこのように振るまわなければならない、自分はあのようでなければならない、 ただ一人の救い主がいる、などなどと、反復しつづけるなら、 非実在の何かのまさにこの反復、この常なる受け入れが - それは事実としての現実性を持っていません - そのとき、頭脳は必然的に、ますます萎縮するにちがいないのです。 ですね?それは、とても明白です。 あなたは、それらすべてが、見られます。 あなたが常に、「私はイギリス人だ」と反復しているとき - そうね、 または、「私はカトリックだ」、「私はこれだ」、「私はあれだ」と - そのとき自然に、頭脳は必然的に、機械的になるでしょう。 必然的に狭くなり、 次第に萎れ、萎縮するでしょう。 それが、つづいていることです。ですね?
16:35 それは、条件づけの結果の一つです。 この条件づけの要因は、他にも多くあります。 それらは、分離、分割です。 分割があるところ、葛藤があるにちがいない。ですね? どうぞ、私たちは自分たち自身を、検討しています。 自分たちの条件づけを見つめ、その条件づけを、究明しています。 語り手は、究明していません。 あなたが、究明しています。 私はそれを、言語化しているだけです。ですね?その点は、明らかにしましょう。 あなたは、語り手に聞いていません。それで、彼が言っていることを、受け入れていません。 あなたは実際に、自分の条件づけを、見つめています - あなたがそれに気づいているなら、あなたがそれに入りたいなら、です。そうでないなら、それはだいじょうぶです。 しかし、あなたは、それを探究しているなら、 この条件づけの結果と帰結を、観察できます。
17:52 そのとき次の問いは、こうです - これらから自由であることは、可能でしょうか。 なぜでしょう。なぜそれから自由であるべきなのでしょうか。 なぜなら、まさしく検討と、理性、正気が、 狭い小さな轍には、 常に生きられないことを、指し示すからです。ですね? その轍は自然に、自己本位の、自我中心的な活動を、強調します。 ですね?で、何をすべきでしょうか。 私は条件づけられています - もし、そうであるなら、です。私は、それの帰結を悟ります。 そのとき、その条件づけすべてから自由であることは、可能でしょうか。 それは、ちょっとずつ可能でしょうか。 理解されますか。 少しずつ。それで私には、余生の間が、掛かるかもしれません。 私は、ちょうど死につつあるとき、それから自由であるかもしれません。 それは、あまり面白くない。 それは、何の意味もありません。 で、私は訊ねます - 自分の条件づけに気づくことは、 可能でしょうか。 どんな先入観もなく、選択もなく、 ただ気づくのです。 そのとき、この条件づけを 解消するための要因として、時を許さないことは、可能でしょうか。 時を許さない - 理解されますか。 話は明らかになっていますか。 時とは、私はそれを次第にするだろう、です。 で、まったく時の要素なしに、 この条件づけを見つめることは、可能でしょうか。付いてきていますか。
20:29 これは、何か気難しいこと、何か新しい流行り物、 何かあなたが受け入れなくてはいけないことではありません。あなたは、これが見えます。 理性が指し示します。 理性は、あなたは条件づけられている、と言います。理性は、 あなたがそれに時間を、長年を掛けるなら、 つづいている他の形の条件づけを、持つだろうことを、指し示します。 ですね?それで、ただ一つの行為がある - 条件づけの総体を、 絶対的に解消するにちがいないものが、です。ですね? 私はあなたに、この質問をしています。 初めにそれを見つめてください。 「それは可能である。それは可能でない」と 言って、それを払いのけないでください。
21:38 私は、プロテスタントとして、または、カトリックとして、生まれました。 または、私は、民族主義、国家主義に関して、特定の条件づけを、持っています。 または、私は、どんなつけを払っても、楽しみだけの追求に、条件づけられています。 それは、この国(アメリカ)で起きつつあることです - 娯楽です。 さて、私は、時を許さずに - それは、ものすごい問いを訊ねることです。理解されますか。 なぜなら、私たちの頭脳は、時をかけて進化してきましたが - いいですね? - 数百万年に数百万年をかけて、です。 私たちはこの点に、来たのです。 それは大きな悲劇です。 - 私たち自身を見つめてください - 頭脳は時の中、進化してきました。 私たちは、何かを訊ねています。 私たちは、頭脳に、全然違った行動をするよう、要求しています。 私たちはここで、互いに付いてきていますか。 それは、合理的です。理解されますか。 その問いは、不合理なのかもしれません - 問いは、時を許さないことです。 それは、不合理なのかもしれません。 しかし私たちは、時を許すなら、 他の形の要因が入ってきているのが、見えます- それらもまた、条件づけるでしょう。 で、精神が、条件づけの解消に、 時が介入するのを許すなら、精神は条件づけから、 けっして自由になれません。 これは、明らかですか。 で、私は絶対的にこれを・・・頭脳はこれを、理解しなければなりません - すなわち、それは時をかけて進化してきたことを、です。 それは、挑戦されつつある。 危機がそれに、もたらされつつある - あなたは時から自由でなければならない、と言って、です。 それは、「それは不可能だ」と言います。 それが、あなたの自然な反応なのでしょう。
24:30 私たちは、そこから進めるでしょうか。 私は進めます。 ですが、あなたは理解されますか。 未来が今であるとき、何が起きるかを、見てください。 未来は時なのでしょう。明日は時です。 明日がないのなら、私は 今、完全に行為しなくてはいけません。 または、今、未来を招くか、です。 あなたはこれらが見えるのか、と思われます。 そのため、頭脳はこの事実に向き合わなくてはいけません - すなわち、それは、時の過程の中、訓練され、教育され、条件づけられ、 形作られてきたが、 今それは、挑戦に向き合っている、ということです。 「時のでなく、全然違ったように考えろとか、行為しろ」と言う挑戦です。 あなたはこれらが見えるのかどうか、と思われます。 私たちはこれを、あまりに訊ねすぎていますか。 ケスク・ヴ・ディテ?何と仰りますか、ということですが。
26:14 で、それが、本当の問いなのです。 哲学者と心理学者と他の人たちは、 「人間の条件づけを受け入れなさい。それを修正しなさい。時を掛けなさい」と言ってきました - それが、知識をとおして、ますます文化的に 洗練されるように、です。 そして、知識ばかりが重要になる。 知識は時です。 なぜなら、知識は、蓄積を意味しているからです - それは、時を意味しています。 あなたがこれらに付いてきているのかどうか、私は知りません。 私たちはこれらを受け入れます。 なぜなら、それはとても便利であり、 とても自然であるからです - 見たところ、とても自然です。 またそれは、とても便利で、快適です - すなわち、私は長年とか数年とかを持っているということ、などなどは。 さて、条件づけが解消できるのは、時をかけてではない、 ということを、挑戦されているとき、 頭脳は、「それは不可能である」と言って、そこで行き詰まるのです。 それが、今あなたに、起きつつあることです。 あなたが観察するのか、その事実に気づくのかどうか、私は知りません。 ですね?私たちはそこから、少し進めますか。 語り手は、言語的に進めます。説明できます。 ですが、あなた自身が、実際にそれを知覚し、この事実の真理が、見えるのでなければ、 それは、何の価値もありません - すなわち、あなたが時を許すなら、 時は、精神の条件づけを、解消できるとか解ける要因ではない、という事実について、です。 精神が条件づけられているとき、帰結は、私たちが、 それとともに生きているものです - 私たちの格闘、葛藤、悲惨、その他すべてです。 それは、私たちの条件づけの一部です。
28:29 で、頭脳は、自由であり、この問題、この挑戦を 見つめることができますか。どんな恐れもなく、選択もなく、それに向き合うのです。 そのとき頭脳は、とてつもなく活動的になるのでしょう。 あなたはそれに注目するのかどうか、と思われます。 あなたは、伝統を破ってしまったのです。 そのとき訊ねます - 自由とは、そのとき何でしょうか。 理解されますか。 私たちが、当たり前だと受けとってきた自由- 自分のしたいことをすること。 それが、自由と呼ばれるものです。ですね? 特にこの国では、私たちはみんな自由に、自分の好きなことを、できます - 可能なら、即時に、です。 それの帰結 - あなたは、それが何なのかを、ご存じです。 それは自由ではありません。明白です。 そのとき自由は、頭脳が条件づけから自由であり、 時ということに立って考える能力がないことを、意味しています。 ちょっと待ち、ゆっくりそれに入ってください。
30:25 私は、車の運転の仕方を学ぶには、時が必要です。 私は、言語を学ぶには、時が必要です - 一ヶ月、六週間か、三ヶ月、です。 私は、どの技術を学ぶにも、時が必要です。 そこで、私は時が必要です。 しかし私は、心理的に時は、必要でないことを、発見します。 時は、私たちを条件づけてきました。ですね? あなたはこれらが見えるのか、と思われます。 時の問い - 物理的なのとともに、心理的な時間です。 ここから、自分が生活するところへ行くには、物理的な時が、必要です。 しかし、未来としての時 - 私が、もっと良く、もっと良く、もっと良くなる。 私が心理的に、誰かになろうとする時- それは、事実ですか。 または、それは、思考が創り出してきた幻影ですか。 「私は幸せではない。 だが、私は幸せになるだろう」 「天国はあの穴にある。 究極的に私は、そこへ行くだろう」 福音主義者すべてが、約束します。 この国(アメリカ)で、起きつつあることすべてを、ご存じでしょう。
32:24 で、頭脳は、時としての条件づけから、自由でありうるでしょうか。 質問を理解されますか。 哲学者と心理学者は、 「それは不可能だ!」と言います。 そして、専門家たちがいました - 書物を書き、それを出版してきた人たち、です。 それを売り、彼らは有名になります。 私たち、素人は、それを受け入れます。 私たちは、専門家たちを受け入れます。ですね? それは、私たちの条件づけの一つです。
33:17 で、あなたが、これらを見つめるとき - 他の人たちが言っていることに、敏感に気づき、 自分の条件づけに、敏感に気づき、 時が本当に頭脳を、特定の条件づけへ 形作る要因であることが、見える - キリスト教徒が、今つづいているあれらものすごい宣伝を 受け入れるには、二千年が掛かってきました。 ヒンドゥー教徒は、三千年、四千年の自らの宣伝とともに、です。 それは、時が掛かってきました。 常なる反復 - 「イエスが救い主である」と。 インドで、日本で、シナで、彼らは、彼らなりの様式を 持っています - 反復し、反復し、反復する。 明白に、頭脳は萎縮します。 たぶんそれが、人類へ起きつつあることです。 ですね?
34:35 一つの問いについて、そんなに長く掛けてしまって、すみません。
34:47 第二の質問: 「あなたは時々、頭脳について、また精神について語ります。 それらの間に、違いがあるのでしょうか。 あるのなら、それらの関係は、何でしょうか。」
35:03 「あなたは時々、頭脳について、また精神について語ります。 それらの間に、違いがあるのでしょうか。 あるのなら、それらの関係は、何でしょうか。」
35:24 あなたはこの質問に、どのように答えるでしょうか。 そうですね、あなたたちはみんな・・・あなたたちは、見たところ、私から学んでいます。 どうぞ、そうしないでください。 どうぞ、他の一人から、学ばないでください - 特に、心理的な、霊的な、いわゆる霊的な事柄においては、です。 あなたは、あなた自身にとって、光でなくてはいけません。 その光は、他の誰によっても、灯されません。 で、私は、教えていません。 語り手は、教えていません。 私たちは、自分の精神、自分の心、自分の存在を、 観察しています - 私たちが生きるとおりの日常生活を、です。
36:23 で、質問者は言われます - 精神と頭脳との間の 違いは、何でしょうか。 二つの間の関係は、何でしょうか。 頭脳より離れた精神として、何か分離したものが、あるのでしょうか。 または、ただ、精神を創り出してきた 頭脳だけが、あるのでしょうか- 理解できますか - それから二つの間に関係を、確立しようとする頭脳が、です。 それは、それが永久にやれるゲームです。 これらに付いてきていますか。 いいですか? すなわち、頭脳は、自らの制限を悟ります。 なぜなら、それは条件づけられていて、 永久に葛藤の中にある、その他すべてであるからです。 思考は、頭脳の道具です。 で、それは、精神を、超精神を、創案します- ですね? - 超意識を、です。 それから、二つの間に、関係を確立しようとします。 あなたが、それがやるゲームに、付いてきているのかどうか、私は知りません。
37:49 それで私たちは、訊ねています - 頭脳を離れて、思考により、快適な観念として もたらされた精神が、ありますか。 これらに付いてきていますか。 私たちのほとんどは、残念ながら、とても情動的であり、 すばやく反応するので、私たちは、理性を使わないのです。 どうやら理性は、間違っているように、見えます。 で、私たちは初めに、理性の制限を理解しつつあり、 私たちはそれを越えられないのかどうかを、見ます。ですね? 理性の制限は、見えますか。 どれほど合理的であっても、それは制限されています。明白です。 で、初めに、私たちは理性を、正気を行使しなければなりません - どの事柄についても、情動的であるだけではなくて、です。
39:08 で、条件づけられている頭脳が、あります。 それの道具が、思考です。 思考は、様々な感受、経験、知識、記憶をとおして、 もたらされます - 思考、行為です。 それが、頭脳がともに生きている連鎖です。 または、その連鎖の中、その区域の内で、生きています。 知識はけっして、完全ではありえません。 知識はいつも、無知とともに進むにちがいありません - いつも、です。 何についても、完全な知識はありません。 それで、人は、これを悟り、神の観念を投影します - 「神は全能である」 - そうね、その他すべてです。 これらに付いてきておられるのかどうかと、思われます。
40:06 で、頭脳を離れて、精神がありますか。 頭脳は無際限でしょうか。 頭脳は、条件づけすべてから自由であるなら、無際限です。 明白です。 私は単に、たくさんの言葉を紡いでいるだけですか。 私たちは、互いに付いてきていますか。 あなたは自分自身で、そうしていますか。 頭脳は、どの形でも、どの水準でも、どの深さでも、条件づけられているかぎり、 制限されているにちがいない。 その制限、制約、拘禁、条件が、 全的に消去される、完全に消え去るとき、 頭脳は無際限です。 これが理性なのでしょう。 これらに付いてきておられるのか、と思われます。
41:38 質問者: 私はそれに付いてゆけません・・・(聞き取れない)

K: 全体的に知覚する能力、
41:59 全包括的な知覚は、頭脳が制限されているなら、可能ではありません - ですね? - 頭脳が先入観を持つなら、です。 待ってください。いいですよ。 はるかに単純に表しましょう。 あなたが、先入観を持っているなら、考えるのは、いつも制限されています。ですね? この先入観は、自らの条件づけの結果です。ですね? その条件づけは、頭脳の能力を制限します。 私は、余生の間、外科医であるなら - 私は、医学、外科手術の世界で、十年を過ごしてきました。 私はそれを専門としてきました - ですね?私の頭脳は、制限されています。 それは、全包括的な知覚を、持てません。 全包括的な知覚について話をする科学者さえも、 彼らは条件づけられているなら- それは、恐れ、 民族性、嫉妬、その他すべてです。 彼らのほとんどが、そうであるように、です - 彼らの頭脳は、制限されています。ですね? ゆえに、彼らは、全包括的な知覚について 書くけれども、その能力がありません。 これらを理解されますか。 で、条件づけの全的な消去があるときだけ、 全包括的な知覚は、可能です。 人は、それは可能でないと言います。 付いてきていますか。 誰かがやってきて、言います - ただ、あなたがよく気をつけて、 一歩一歩行くなら、それは可能である、と。 理解されますか。 それをきわめて深く理解するなら、です。
44:14 それで、精神は・・・これは、かなり困難になるでしょう。 今あるような頭脳は、自らの条件づけにより、 自らの欲望により、制限されています - 関係において、職において、完全に安全でありたい、 安心したいとの願望によって、です。 そうですね、安全でありたい、と。 なぜなら、それは、完全な安全があるときだけ、 機能できると感じるからです。ですね? すなわち、私は一流の外科医であり、 そこで安全であるなら、頭脳は、幸せに機能します。 話していることを、理解されますか。 もちろん、これは理性です。 で、頭脳は、その作用において、制限されています。
45:30 そして、頭脳を離れて、何かを全包括的に知覚することは、 可能でしょうか。 理解できますか。 これはかなり・・・
45:45 質問者: (聞き取れない)
45:47 K: いえ、いえ、いえ。 これは、それよりもう少し複雑です。 あなたは何かを、全体的に知覚したことがありますか。 どうぞ、それを少し究明してください。 何かを全体的に知覚することは、言葉、イメージ、象徴を、 知覚に介入させないことです。 ですね?それから始めましょう。 私たちは樹を、あれを、樹と呼ぶことなく、見つめられますか。 いいですか。見つめられます。 なぜなら、「樹」という言葉は、あれではないからです。 私たちは、象徴化するために、「樹」という言葉を、使ってきました。 または、私たちは、一定の対象を伝達するために、「樹」という言葉を、使ってきました。 それで、私たちの頭脳は、言葉により、条件づけられています。 どうですか。いいですか。 それで、言葉から自由であって、見つめられるでしょうか。 それは、相当に簡単です。 言葉なく、あれを見つめること- それは、相当に簡単です。 しかし、言葉なく私たち自身を見つめることは、はるかに複雑です。 なぜなら、私たちは言葉によって、生きるからです。 「私はアメリカ人である。 私はカトリックである」 - 言葉、 そして、その言葉の内容です。 言葉は、それ自体では、何をも意味していませんが、 思考は、その言葉に、内容を与えてきました。 あなたがこれらに付いてきているのか、と思われます。
48:22 で、何かを全包括的に知覚すること - それは、時なく知覚することです。 地球的な精神を持つことです。 全体として人類を見ること - 「私は人類と同一視される」のではない。 それは、バカげています。 しかし、すべての闘争、痛み、心配、悲惨、喜び、楽しみ、苦労をともなった 人類が、見えること - 人間たちが経ていく苦労・・・ 人間全体として、見える。 それは精神の一部である、と私は思います。 全包括的な知覚が、精神です。 私は、はるか深く入らないでしょう。 当面は、それで十分です。
49:33 で、精神と頭脳との間の関係は、 頭脳が同等に無際限であるとき、起こりうるだけなのです。 すなわち、頭脳がその条件づけより自由であるとき、です。
49:56 第三の質問: 「私は子どもの頃に、深く傷ついてきました。 何が起きたのかを、理解しようとするにもかかわらず、その傷は残っています。 私は何をすべきでしょうか。」
50:18 「私は子どもの頃に、深く傷ついてきました。 何が起きたのかを、理解しようとするにもかかわらず、その傷は残っています。 私は何をすべきでしょうか。」
50:38 あなたは私に、何をすべきかを、訊ねていますか。 あるいはむしろ、何をすべきかを、ともに、見出しましょう。 ほとんどの人々は、子どもの頃から、今でさえ、育って 成熟するとき、老齢でも、傷つきます。 あなたたちはみな、傷ついているにちがいない。 あなたたちはみな、傷ついていませんか。 或る人たちは、自分の傷に気づいているが、或る人たちは、気づいていない。 傷ついているのは、何ですか。 その傷の帰結は、何ですか。 いつの時にも、まったく傷つかないことは、可能なのかどうか、です。 または、自らが傷ついているとき、その傷から自由であり、 まったく傷つかないことを、発見することは、可能でしょうか。理解されますか。 私たちはみんな、一緒に働いていますか。 または、私が働いていて、あなたは聞いているだけですか。 そうでないことを願います。なぜなら、そこには何も、面白さがないからです。
52:10 で、ともに、これら三つのことを、検討しましょう - 傷ついているのは、何なのか。 その傷の帰結は、何なのか。 その傷に気づいているなら、 何をすべきか、です。 私たちは、傷の帰結が、見えるでしょうか。 ですね? 初めに、私が自分自身に「私は傷ついている」と言うとき、 傷ついているのは、何ですか。 それは、子どもの頃に起きます。 きつい言葉、 仕草、残酷な眼差し。 この現代世界では、あなたも知っているにちがいないですが、 何千何万もの子どもたちが、家出をしています。 逃げ去って、売春婦になっています。 なぜなら、家で、彼らは殴られ、 ひどい扱いをされ、叱られるからです- 付いてきていますか - それらの悲惨です。 彼らはみんな、深く傷ついています。 学校で、彼らは傷つきます。 なぜなら、彼らは、もっと利巧な誰かと比較されてきたからです - より良い点数、より良い地位、と。 一流の試験に、 あなたは、他の人ほど通りません。 傷つきます。
54:27 で、この傷の過程は、生をとおしてずっと、つづきます。 子どもの頃だけではない。 あなたが結婚するとき、妻は、何かあなたを傷つけることを、言います。 または、あなたは彼女に、何かを言います。それは彼女を傷つけます。 で、生は、深い傷の過程になります。 私たちが自分たち自身に対してやっている、これらの悲劇を、見てください。 神様!
55:06 その傷の帰結は、 私たちが、もはやけっして傷つかないよう、 自分自身のまわりに、壁を築くことです。 それで、怯えて、引き下がり、孤立する、 そして、その孤立から行為する。 それは、ますます神経症的になります。 そして、あなたが神経症にならないよう、 助けようとする人々すべてなどが、います。 それで、何をすべきでしょうか。 子どもの頃から、あなたは傷ついています。 親は忙しい。苛立ち、疲れています - 彼らの間の悪い関係。 彼らは、セックスやこれやで、充足したい - 自らの関係につづく或る種の腐れでもって、です。 彼らは、子どもたちに当たります。 あなたは、これらを見てきました。 職長は、労働者を叱るなど、です。
56:30 さて、傷ついているのは、何ですか。 どうぞ、ともに推理しましょう。 語り手は、デルフォイの神託ではありません! デルフォイの神託はありません。 たとえ教会が、それについて話すとしても、です。 で、ともに推理しましょう。 傷ついているのは、何でしょうか。 物理的な傷が、あります - 病気、事故、不具になるなど。 それが一つのことです。 頭脳が無損傷であるなら、自然に、それには応えられます。 そのとき、思考が、その特定の痛みと同一視して、 その痛みとともに続けていかないこと。 あなたは、相当にたやすく、それを扱えます。 しかし、心理的に、内的に、私たちは傷つきます。 私たちは訊ねています - 傷ついているのは、何なのか。 あなたたちはみんな、傷ついています。 傷ついているのは、あなたが自分自身について築いてきたイメージでしょうか。 なぜなら、私たちの一人一人が、自分自身について、イメージを持っているからです。 ですね?それは事実です - すなわち、あなたは利巧である、利巧でない。 あなたは美しい、美しくない。 あなたは、これでなければならない、あれであってはならない、と。 あなたは、子どもの頃から、時をかけて、 次第に、これを築き上げてきました - すなわち、自分はアメリカ人だ、自分はこのように振るまわなければならない、とか、 自分は自由である、とか。付いてきていますか。あなたは自分自身について、一定のイメージを持っています。 そのイメージが、問われ、踏みつけられ、 ピンを刺されるとき、そのイメージが傷つきます。
59:01 ですね?私たちは推理している、と言うんです。 あなたは、語り手が言っていることを、受け入れていません。 それで、そのイメージを、持っているかぎり、あなたは、傷つくでしょう。 さて、子どもの頃から - どうぞ、あなたが興味を持っているなら、これは、本当の教育です - 子どもの頃から、そのイメージを創り出さないこと。 それが、本当の教育です。 さて、問いはこうです -私は、自分が傷ついているのが、見えます。 私は、その傷の起源を知っています。 誰かが何かを言いました。私は撲たれました。 または、私は侮辱されました - すべての種類のことです。 それで、イメージが傷つきます。 イメージが、「私」です。 あなたが築き上げてきた「私」です。 「私は美しい」、 「私は正しい」、「私は間違っている」、「私は、何かにならなければならない」、 「私は、成功しなければならない」、「私は、充足しなければならない」 - 付いてきていますか。 それは、私が自分自身について持っているイメージです。 私がそのイメージを持っているかぎり、あなたが、誰かが、 それにピンを刺そうとしています。 そして、私は傷つきます。
1:00:51 質問者: それだけですか。それは、それだけですか。または、もっと多くですか。 あなたが愛している誰かが、あなたから去るなら、どうですか。
1:00:57 K: 何ですか。
1:00:58 質問者: それは、あなたの自我が突き刺されるだけでないなら、どうですか。 それが、あなたの心であるなら、どうですか。 そこには、それよりもっと多くないのでしょうか。
1:01:04 K: 私は、自分自身についてイメージを持っているかぎり、 全包括的な知覚や愛は、ない。 明白です。 これは、それに入る瞬間ではありません。 私たちは、傷を扱っています。 その傷に、敏感に、気づけるでしょうか - 「私は傷ついてはならない」と言わずに、 それに気づくのです。 そして、自分自身について、まったくイメージを持たないことは、 可能なのかどうかを、自分自身で見て、見出すのです。 私は、自分自身について、イメージを持っているなら、 私は、あなたたちに依存するでしょう - 自分自身を、ものすごい聴衆を持つ人々と、比較して、です。 付いてきていますか。 誰かが、私を馬鹿と呼ぶ。あなたは、自分が偉大な人やあれやこれやである、 と考えるからです。 それで、私は傷つくだろうとの 感じが、いつもある。 そのイメージを持っているかぎり、私は傷つくでしょう。 さて、私は、日常生活で- どうか、聞いてください - 日常生活で、単一のイメージもなく、生きられるでしょうか。 またもや、頭脳は、イメージを持つとのこの事実に、慣れてきました - 私自身、私はどう見えるのか、私はどう見えないのか、 私はどうでなければならないのか- 付いてきていますか - イメージ、です。 社会、教育、司祭者、心理学者、哲学者は、 私の中に、私のイメージ、私の知識を 築いてきました - それは、私のイメージです。 それで、単一のイメージもなく、生きることは、可能でしょうか。
1:03:42 質問者: (聞き取れない)

K: 私はそれを説明しました。 知識は、一定のところに、一定の価値を持っています。 大工は、知識を持たなければなりません。 あなたは車を運転したいなら、知識を持たなければなりません。 しかし、知識が、心理的になるとき- 私が築いてきた、 思考が築いてきたイメージとして、です - その知識は、傷つく手段になる。 明白です。それは単純です。 さて、イメージなく生きることは、こういう意味です - あなたは自分のイメージを見て、 何の選択もなく、それを観察できますか。 それに気づく。 それを見つめる。 あなたの注意すべてを、それに注ぐ。 そして、自分自身で見出す - いかなる単一のイメージもなく、 生きることは、可能なのかどうかを、です。 語り手は、それは可能だ、と言います。 しかし、語り手が言うことを、受け入れないで、見出してください。 よし。