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OJ81Q2 - 第2回質疑応答会合
カリフォルニア、オーハイ
1981年5月7日



0:15 うるわしい朝です。 ここに座って、 お互いの呻き声を聞くことは、なかなか残念です。
0:37 (書面で)出された質問が、幾つもありますが、 そのすべてに答えることが、可能であるとは、私は思いません。 それはたぶん、二ヶ月が掛かるでしょうし、 あなたたちは次の二ヶ月間、ここに座っているのは、 きっとお好きではないだろう、と私は思います。または、私も、です。 それらの質問の中から、私たちは幾つかを、選んでおきました - 私たちの楽しみに沿ってとか、 また、私たちにとって都合が良く、たやすく答えられる質問ではなく、 むしろ、より大きな分野に及ぶ質問を、です。
1:33 問いへの答えは、問い自体より、異なっていますか。 または、問いは答えを収容していますか。 答えは、問いより分離していません。 私たちのほとんどは、答えを見つけようとして、自分自身にか、 誰かに質問をします - 問題と、その問題の解決です。 私たちは、けっして問題自体を究明しないで、 むしろ、問題の解決、その問題の解消に 関心を持つように、見えます。 で、問題への私たちの接近は、答えを探求することです - 都合よく、適当で、快適で、必要だ、などです。 しかし、指摘してもよろしいなら、 問い自体に、答えがあると、感じます。 で、私たちがいかに問いへ接近するのかが、重要であると、私には思われます - どの問い、どの問題へも、です。 それが個人的な問題であっても、 関係の問題であっても、普遍的、地球的な問題であっても、です。 私たちが、いかにそれへ来るのか、いかにそれを受け取るのか、いかにそれを見つめるのか。 そこに、私たちの問題の解決がある、と私は思います - 問題への答えを探し求めるのではなく、 問題自体の内容を理解することに、です。
3:54 ですね?私たちがともに、これについて考えていることを、私は願っています。 私たちは、ともに問いを、分かち合っています。 語り手が問いに答えているのではなく、 むしろ、ともに私たちは、問いを見つめています。 問いを究明しています。 その知覚の中から、 問いへの同情的な気づき、敏感な気づきの中から、 答え自体は、その中にある。
4:36 第一の質問: 「私は、自分が神経症的に行為することを、悟ります。」 うるわしい朝に、お気の毒です。 「私は、自分が神経症的に行為することを、悟ります。私は、心理療法を受けてきましたが、 神経症はやはり、基本的にそこにあります。 私は何ができますか。」
5:04 「私は、自分が神経症的に行為することを、悟ります。私は、心理療法を受けてきましたが、 神経症はやはり、基本的にそこにあります。 私は何ができますか。」
5:22 私たちのどれほど多くが、健全で、理性的で、 頭が明晰で、客観的なのか、と思われます - いつも、自分の自己中心的な利害に、動いていないで、です。 私たちのどれほど多くが、自由であって、自分自身を見つめられるでしょうか。 私は神経症的であるなら - すなわち、奇妙な振るまい、 暴力的だ。それが神経症です。 いつも、自分の弁護士、保険、医師、政府に依存している。 いつも他の人たちに頼っている。 それらはすべて、その神経症的な不全感の部分です。 私たちは、それをも認めるのでしょうか。 私たちは、自分自身に、気づいているのでしょうか - 私たちが、いかにとてつもなく、あらゆる人へ依存しているかに、です。 私たちは、郵便配達人や、 石油、ガソリンの手伝いをする人や、 警察官などへの依存について、ではなく、 依存しなければならない、同一性、独立を持たなければならないとの この感じについて、話しています。 同一性への探求、すなわち充足です - 何らかのものへ、根を持つこと、です。 私たちはどれほど深く、これらに気づいているのか、と思われます。 それらは、神経症の部分、 私たちの奇妙な、異常な振るまいの一部です - それが、きわめて通常になったのです。
8:27 私たちは、自分自身を見つめられるでしょうか - まるで、歪曲しない、 あなたが見つめているものをまさしく示す鏡の中のように、です。 私たちはそれを、できるでしょうか。 心理療法や、他のどの形の体系、 信念や逃避にも、依存するのではなく、 実際に私たち自身を、見つめます。 見るために引き下がるのではなく、 私たちの関係、振るまいにおいて、私たち自身を見つめる - 私たちの話し方、私たちの歩き方、 丘の美しさへの私たちの見方を、です。 それは、そもそも可能でしょうか - 見えるものを、けっして歪曲しないで、です。
9:47 「あるべきもの」よりむしろ、「あるもの」を 観察することのほうが、はるかに重要でないですか。 私たちはみんな、理想主義的に傾倒していて、 そのため、つづいていることが、けっして実際に見えません。 私たちの眼は、地平線に向かっていて、けっしてごく近くにない。 なぜ全世界が、このようになったのでしょうか。 どうか、これらの問いを、訊ねてください。 私たちはなぜ、難事の中にいるなら、誰かへ行くのですか。 私たちはなぜ、その難事に向き合い、見つめられないのですか - 分析的にではなく、その原因を見つけるのではない - それは、時間のむだだと見えます。 ただそれを見つめる。 その知覚の中、原因、帰結、 動き全体が、開示されるのです。 私たちが、ともに話をしているとき、どうぞ、これをしてください。
11:43 自らが神経症的であるなら - その言葉をどんな意味で使うのか、私は知りません。 おそらく全世界が神経症的です。 なぜなら、彼らはみんな、戦争の準備をしているからです - 葛藤、抗争、ものすごい野心、競争、 誰かを欺瞞しようとすること、腐敗。 全世界が、このようになったのです。 腐敗は、高いところだけではなく、普通の日常生活においても、と 私には見えます。 腐敗は、生の規範になったと見えるのです。 おそらくそれが、この神経症の本源なのかもしれません。 何ができるのか。 私は、自分は神経症的であることを、 自分自身で実際に知覚するなら、私は何ができるのか。 誰かが私に、私は神経症的であると、語るのではない - 私が、自分の振るまいは、奇妙で、全く自己中心的で、 全く利己的であることを、見つけるなら、です。 私は、とても情動的であり、均衡がない。 私は、それらが、精神の質をもたらすよう助けているのを、 知覚します - 矛盾していて、葛藤になっていて、 けっして真っ直ぐでない質を、です。 私は何をするのでしょうか。 それが、質問者が訊ねることです。
14:05 確かに、もしも私がその種の問題、その種の神経症を持っていたなら、 私は確かに、分析者、心理療法者へ行かないでしょう。 なぜなら、分析者もまた、分析されなくてはならないからです。 で、私は、何をするのでしょうか。 それが、私たちみんなの前に置かれた問いなのです。
14:38 私をして、私が神経症的であることに、気づかせる危機とは、何でしょうか。 何かが、私をして、それに気づかせるにちがいない。 誰かが私に告げるのか - 私の妻、夫、友だちか。 または、私は、自分が何をしているのかを、観察します。 私は、それが自然であるのかどうかを、観察します - またもや、その言葉はとても難しい。 「自然」というのは、複雑な言葉です。 私は頭が少し奇妙なのかどうか、です。 問題すべてをともなった現代世界は、 人々を、とても変に、表面的にしています。 果てしなく、娯楽で楽しみたくさせています。 私は、自分の神経症を認知して、 それを観察できるでしょうか。 それを変化させようとせず、 「私は、健全にならなければならない。 私は、正常にならなければならない。 私は、他の何かにならなければならない」と言おうとせずに、 それを、ありのままに観察する。 それは、注意を向ける、という意味です。 ですが、神経症の人物は、注意を向けることができないかもしれません。 私は、自分自身を見つめるように、自分の精神全体、心を 向ける能力が、ないかもしれません。 なぜなら、私の神経症的な振るまいの一つは、 私が自分自身を見つめられないことであるからです。 私は、自分の見えるものが、好きでない。 私は、見えるものに、憂鬱になるか、ひどく昂揚します。 しかし、昂揚なく、憂鬱なく、 どの種の歪曲もなく、私は、 神経症的な人物として、自分自身を見つめられますか。 私は神経症であるから、自分自身をさほど明らかに見つめられません。 それで私は、誰かに依存します - 私に、何をすべきかを、語ってくれるように、です。 問題が見えますか。 私は、理性的に、健全に、智恵をもって、 敏感な気づきをもって、自分自身を見つめる能力がありません。 それで私は、何をすべきかを、私に語ってくれる誰かへ、行かなくてはいけません。 他の一人に、何をすべきかを私に語ってくれるよう頼むことが、 神経症の本質である、と私は思います。 ですね? あなたたちがたぶん、不同意するだろうことを、私は知っています。 この国では、特にそうですが、それは世界中に、拡がっています。 私たちは、何をすべきかを語ってくれるよう、 専門家、権威を、頼みにしています。
18:59 それで、私は、いつも誰かに依存しているとき、神経症に留まります。 で、私は自分自身を、見つめられますか。 私は神経症的であるけれども、 自分自身を見守り、あらゆる物事を、鋭敏に見守る。 自己中心的なさまで、ではない - それは、一つの形の神経症です。 ただ見守る。 私が言っていることを、見守る。 これは、全く違った種類の教育を、要求します。 自己教育を助長する教育、です。 ですね?話は明らかになっていますか。 私たちはこれらを、ともに分かち合っていますか。 自己教育 - 誰かに沿った教育ではない。 私がしていること、考えていること、感じていること すべてを観察し、それらの制限を知り、 精神はいったいその制限から、自由でありうるかどうかを、見出す教育、です。
20:45 第二の質問: 「なぜ、この国の人間の振るまいは、 急速に退廃しつつあるのでしょうか。 それを変化させるために、何をできますか。 この国は、残りの世界に、何を与えられますか。」
21:02 「なぜ、この国の人間の振るまいは、 急速に退廃しつつあるのでしょうか。 それを変化させるために、何をできますか。 この国は、残りの世界に、何を与えられますか。」
21:24 この国(アメリカ)は、残りの世界に、何を与えてきましたか - 今、です。 原子爆弾、食べ物 - アメリカ人はひどく気前がよい。 すべての戦争の武器、医薬、保健衛生と、 宇宙について、拡張し収縮する宇宙についての とてつもない知識の蓄積、 どうやって冷蔵庫、テレビを持つのか。 これが、この国がこれまでに世界へ与えてきたものです - 「ノウハウ」です。しかし、世界もまた、「ノウハウ」を学びつつあります。 おそらく、ここで学んでいるのより、さらに良く - 日本のように、です。 で、私たちは世界に、何を与えていますか。 これらを別にして、実際に、です。 私たちは、穀物を与えています。 娯楽に対する継続的で常の要求の感覚 - フットボール、来る日も来る日もテレビで見られるものの 過程全体、です。 私たちは、知識と娯楽の薄い層を、広めています - どうやって互いに破壊しあうのか。 またアメリカは、穀物を、与えています- 自らがやってきた良い物事すべてを、です。
23:59 で、文化とは何でしょうか。 これが、アメリカ人だけが与える文化の一部ですか。 すべての福音主義者 - あなたは、彼らから聞いたことがあります。きっとそうだと思います。 私は彼らに聞きます。語り手は、ほんと頻繁に、彼らに聞きます - つづいている全くの戯言です。 何千何万人もが聞き、 莫大なお金、お金、お金を与えます。 導師たちは、あらゆる種類の戯言をもって、インドから この国へ、渡ってきます。 指摘してもよろしいなら、アメリカ人は、かなり騙されやすいので、 それらを受け入れ、しばらくの間、それを玩んで、棄てます。 導師たちは、豊かに、強力になる。 で、実際に、これらを別にして、アメリカが与えられるのは、何ですか。
25:22 ここは美しい国です - 本当に世界で、最も美しい国々の一つです。 丘、山、川、広大な土地、 砂漠があり、とてつもない能力を持っています。 宗教 - 古い伝統に沿ってではない。 それはまったく宗教ではない。 広大な無意味な反復です。 宗教は、新しい文化が生まれうる、唯一つの本源です。 そのとき問いが、生じます。 アメリカ人は - なぜ私たちはアメリカと言うのか、私は知りません - 世界は・・・ なぜなら、アメリカは世界の一部であるからです。 世界は、新しい宗教を、もたらせるでしょうか - すべての迷信、信念、伝統、 位階制度の受容、救い主、 古い信念と信仰より、全然違ったものを、です。 それらは実際に、まったく宗教ではない。 それらを払いのけ、 世界は、新しい宗教をもたらせますか。 単にアメリカやヨーロッパやインドではなく、全世界が、です。 なぜなら、ただそれのみから、新しい文化は、来られるからです。
27:18 そのとき、アメリカは世界に何を与えられるか、という 問いは、ほとんど意味がないのです。 世界は、新しい宗教を要求します - 新しい・・・宗教ではない。 その言葉は、またもや、司祭者たちにより、だめにされてきました。 信仰や信念の、権威のでない宗教。 最も神聖であるものの宗教です。 この国に、そういうものはありません。 神聖さの尊敬も、ない。 あなたはそれに、唾を吐くでしょう。 それで、神聖であり、名がなく、永遠であるものを、見出すこと、 そこへの道を持たない真理 - それを、人々の集団として見出すこと、 それは、大いなる誠実さの生を生きることを、意味しています - 何の腐敗もなく、自己中心的であることなく、です。 おそらく、その中、宗教的な精神の中から、新しい文化が、訪れうるのです。 それが、私たちの危機の一部です。
29:12 第三の質問: 「あなたは、執着しているとき、 愛はない、と仰っていました。 私はこれを理解できます。 ですが、そこに分離がなく、 欲望がなく、思考がない愛の瞬間が、あります。 けれども、これらの瞬間は、しばしば 自らが執着している人物との関連で、来ます。 執着は、形、境界を創り出し、 その中に、愛の瞬間があるように、見えます。 執着は愛ではないけれども、 何か神秘的なさまで、二つは繋がっています。 それらは自己矛盾的に見えます。 どうか、この見かけの逆説へ、入ってください。」
30:18 「あなたは、執着しているとき、愛はない、と仰っていました。」 - すみません。質問はちょっと長いです。 「私はこれを理解できます。 ですが、そこに分離がなく、 欲望がなく、思考がない愛の瞬間が、あります。 けれども、これらの瞬間は、しばしば 自らが執着している人物との関連で、来ます。 執着は、形、境界を創り出し、 その中に、愛の瞬間があるように、見えます。 執着は愛ではないけれども、 何か神秘的なさまで、二つは繋がっています。 それらは自己矛盾的に見えます。 どうか、この見かけの逆説へ、入ってください。」
31:17 あなたは、何と仰りますか。 あなたは、この問いを聞き、それへ注意を払ってきました。 それに対する私たちの応答は、何ですか。 執着は何ですか。 様々な形の執着が、あります - 人物に対してだけではなく、信念に対して、 信仰と呼ばれるこのものに対して、一個の家具に対して、 そこに住宅が建った、小さな地面、小さな資産に対して。 この取りすがることの原因は、何ですか。 自分の観念、理想、結論、意見、先入観へ、取りすがること。 何か望み、未来へ、または、 過去の物事の何か思い出へ、取りすがること、 それらへ必死に縋りつくこと - これの原因は、何でしょうか。 分析なく、これの理由を、ただ見つける。 私のいうことを、理解できますか。
33:26 すなわち、私たちの頭脳は、分析するよう、訓練されています。 ですね? 問題がある。 それを分析して、解決を見つけよう。 分析には、時間が掛かります。ですが、分析をしようとしている分析者は、誰ですか。 分析者は、分析されるものです- 私はそれに入らないでしょう。 おそらく、私たちが進むにつれて、あなたはそれが見えるでしょう。
34:04 で、人間精神はなぜ、何らかのものへ執着しているのでしょうか。 自分の身体へ - よろしいですか - または、自分がしてきた何か経験へ、です。 それは一種、あなたを捉え、あなたを励まし、あなたを導きます。 あなたは、何か起きたこと、去って、死んだことへ、 ますます依存します。 または、何か未来の概念に、です - それは、私たちに多くの望みを、与えてくれます。 なぜ何かへの、この縋りつき、この必死のしがみつきなのか。 どうか、あなた自身に訊ねてください。 あなたは、語り手に聞いていません。 それは重要ではない。 重要なことは、語り手をとおして、あなた自身を見守ること、 あなた自身を見ることです - 自分が何かへ執着しているのかどうか、です。 それは、さびしさの中からですか- それは、ほとんどの人間において深いのです。 ほぼ人間すべてにおいて、この全的な孤立の感覚、です。 または、何かへのその縋りつき、取りすがり、執着が、 大きな安全の感覚を与えてくれる、ということですか。 あなたは、「私はアメリカ人だ、イギリス人だ、フランス人だ、インド人だ、日本人だ」と言うとき、 それは与えてくれます・・・あなたはそれに、自分の根を持っています。 観念に、概念に根、です。 「アメリカ」は概念です。 その執着には、ものすごい所属の感じが、ある。 それは、金銭的な安全だけではなく、 心理的な安全をも、与えてくれます。 私が、カトリックがとても強いイタリアにいるなら、 そして、私は、「それはすべてごみだ」と言うなら、 私は、自分自身を困難な立場に、見つけるでしょう。私は、職を得ないでしょうし、 私は破門、除名されるでしょう - つづいている戯言すべてを、ご存じですね。 それで、私たちが執着するのは、さびしさの中から、 安全への要求、探求、あこがれの中からですか。 私は、不安定で、混乱していて、明晰さの感じを 与えてくれる何かへ、縋りつくなら - あなたは、それらを知らないですか。
37:53 私は、妻や友だちや、女の子や男の子を愛しているなら、 執着しています。 即時に、思い出、出来事、 私たちの間で言われた言葉の過程全体、です。 そのすべてが、蓄えられています。 自らはそれに、執着しています - 物理的にだけではなく、心理的、内的に、 セックス、楽しみの記憶へ、娯楽、仲間付き合い、 誰か頼れる人、話せる人へ、です。 そうね、それらが、つづきに、つづきに、つづいています。 そういうわけで、私たちは執着しているのですか。 人物へ、信念へ、概念へ、 国へのこの執着において、あなたは葛藤を必然的に、もたらします。 私が執拗に、自分はアメリカ人だ、 私はヒンドゥー教徒だ、私はイスラム教徒だ、と言っていて、 あなたが、この象徴を崇拝し、私が、もう一つの象徴を崇拝するなら、 私たちは永続的に、葛藤の中にいます。 私は、或る人物に執着しているなら、 それを所有したい、それを保ちたいと思います。 あなたは、これらを知りませんか。または、私があなたに、語らなくてはいけませんか。 その中から、嫉妬、心配、恐れが、出てきます。 そこには、優しさ、愛があります。 愛があるのかどうか、私は知りません。 私たちは当面、それを、愛と呼ぶでしょう - 一緒であるとの感覚です。 そこにもまた、葛藤がある。なぜなら、自らはオフィスへ、出かけていくからです - それらがつづいています。自らは、それらに入ったことがありません。明白です。
40:23 で、質問者は訊ねます - 時にこの執着には、愛がある。 或る人物に対してだけでなく、この執着の中に、です。 質問者はたぶん、或る人物に、関心を持っています。 その中に愛の瞬間がある形態、境界の感覚が、ある。 で、私たちは、その言葉が何を意味するか、とても明らかでなければなりません - その言葉の内容、その言葉の裏の感情、です。 それは、とても強い感情です。 あなたは、自分の住宅に執着しています。 あなたは、庭を築いてきました。 あなたはそれに、取り組んできました。 あなたは、それをきれいに保ち、 働いてきました。 それはあなたに、所有権の感覚、 自分はそこにいるとの感情を、与えてくれます。 あなたは、妻として、夫として或る女や男とともに、生きてきたなら、 一緒にいるこの過程全体、 けんか、苛立ち- 全部をご存じですね - 葛藤。 それにもかかわらず、それが壊れていないなら、 あなたたちは、互いへ取りすがっています。
42:27 で、執着するとは、どういう意味なのかを、 きわめて明らかに、理解しなくてはいけません- 執着している感情を、です。 執着しているとき、何が起きるかを、見てください。 執着は、腐敗を生み育てます。 あなたは、それを受け入れないかもしれません。 その言葉に、衝撃を受けないでください。 ただそれを見つめてください。 私が、自分の職に、自分の理想に、自分の概念に 執着しているなら - 真理とは何か、神とは何かの概念に、それが何であっても、 それに執着していて、私の信念の一部、私の血、私の条件づけなら・・・ 私がそんなに執着しているなら、腐敗は回避不可能です。 なぜなら、私は、その特定の集団、派閥に所属しない 他のあらゆる人へ、反対であるからです。 私は寛容さを、持っているかもしれません。 それは、私たちの利巧なごまかしの一つです。 しかし、カトリックである人、イスラム教徒とヒンドゥー教徒や仏教徒である人との間に、 実際の関係は、ありません。 彼らは、「神は愛である」とそれらについて、話すかもしれません。 しかし、関係へ参加することが、実際にまったくありません。 執着には、損失の恐れがあります。
44:28 で、私は、どこに逆説があるのか、よく分からないのです。 私は、語り手は、間違っているかもしれません。訂正は受け入れます。 愛があるところ、執着はありません。 愛は、嫉妬、心配、恐れではありません。 愛は、あの性質、それの美しさ、それの充実、 その裏の甚大な活力、熱情です。 欲情ではなく、熱情です。 一緒にいることはできます - 男、女が自由の中で、です。 自分の好きなことをする自由ではない。 それはまったく自由ではない。 これが、この国で起きつつあることです - 私は、結婚していました。 私は、妻に飽き飽きしています。 私は、彼女を取り替え、離婚します。 あなたは、何が起きつつあるかを、ご存じです。 それで、愛を持っているなら、 それは本当に、甚大な神聖な贈り物です - 養成されるべきではなく、何がそれでないかを、見るべきです。 理解されますか。 否定をとおして、肯定的なものへ来る。 それでないものを、 単に言語的にだけではなく、内的に、 実際に、否認する。 それでないもの、 虚偽であるものを、否認する。 虚偽、幻影、受け入れを 実際に見る。 で、否定をとおして、自然に、肯定的なものへ、来る。 すなわち、不確実性から始める。 そのとき、絶対的な確実性へ、来る。 しかし、私たちは一般的に、確実でありたい、保証されたい、安全でありたいと思います。 あなたは注目したことがないですか - 偉大な作家、文学者、 世界でいわゆる有名な人々の幾人かは、 あらゆることを否認することから、始めて、 それから究極的に、カトリック、仏教徒や 或る種の宗派的な人物に、終わってしまうのです。 なぜなら、彼らは死に、怯えているからです。あなたは全部をご存じです。私がそれに入らなくてもいい。
48:29 で、問いはこうです - 愛の瞬間がない、ということではない。 当面、その言葉が、どういう意味であろうとも、です。 執着の含意すべてを、見る - それの総体を、です。 人物に対してだけではなく、何に対しても、執着すること - 自分の顔、自分の身体、自分の信念、経験、 自分の・・・を、です。 付いてきていますか。 それが自由です。 その自由があるとき、愛がある。 愛があるとき、あなたは、何でもできるでしょう。 よし。
49:54 第四の質問: 「関係の外側には、生きられません。 けれども、その形すべての中に、葛藤があります。 これはなぜ、そうなのですか。」
50:05 「関係の外側には、生きられません。 けれども、その形すべての中に、葛藤があります。 これはなぜ、そうなのですか。」
50:20 ああ、神様! 私は神様に訴えていません。 理解されますか。ただの言い草です。 私たちはなぜ、生を、生きることを、問題にしてきたのでしょうか。 私たちは、大いに洗練されていると、思われています - 無量の時間をかけて進化してきて、 多くの戦争をしてきた、と。 実質的に、五千年に五千の戦争です。 私たちは、教育を受けています。 私たちは、大いに発達した人間たちだと、思われています。 けれども、この問題は、まったく解決されたことがありません - なぜ人間たちは、永続的に葛藤の中に生きるのか。 個人的な関係において、だけではない。 自然との、動物たちとの葛藤。 そうね、あらゆる物事が、葛藤、問題になってきました。 なぜですか。
52:28 どうか、ともに探究しましょう。 私が探究していて、あなたが聞いているのではない。 ともに私たちは、探究しています。 なぜ人間として、なぜあなたは、葛藤の中にいますか。 葛藤とは、矛盾、模倣、順応です。 いつの時も、何かになりたいとの欲望です。 この、ものすごい不満足。 もっと多く、もっと多く、もっともっと多くへの探求。 なぜですか。どうか、探究なさってください。 それで、世界中の僧侶、修道士たちは、言ってきました - 「世界は悲劇だ。 めちゃくちゃだ。悲惨だ。 私たちは、それから引き下がり、 何かの像、何かの象徴などの崇拝へ、孤立しよう」と。 そこでもまた彼らは、葛藤を持っています。 彼らは、性を否認し、純潔の誓いを立て、 余生の間、欲望で燃えるのです。 あなたたちは、月へ行き、一枚の旗、紙切れ、布切れを立てます。 これが、世界中で起きつつあることです。 なぜですか。 人、あなたは、人間として - どうぞ、あなたは、代表し、 残りの世界である人間として、 あなたは、他の人間たちより、分離していません。 なぜなら、あなたは苦しむからです- あなたは心配で、 不安定で、混乱し、怯えていて、楽しみ、 時折の美しさ、などです。 あらゆる人間が、これを経てゆきます。 それで、あなたは残りの人類です- 心理的に、です。 あなたは、金髪、白い肌、 青白い肌、浅黒い、黒などなのかもしれません。 で、あなたは実際に、残りの人類です。 で、あなたは、この質問をするなら、 それを、利己的な問いとして、自己中心的な問いとして、 訊ねていません - 特定の葛藤から自由になりたくて、です。 あなたは、残りの人類である 人間として、この質問をしています。 で、この葛藤は、地球的です。 私の葛藤ではない。 この点は、はっきりさせましょう。 私たちは、他のあらゆる物事より分離して、自分自身と同一視されています - それは、私たちの神経症の一部、私たちの幻影の一部です。 しかし、実際の心理的な事実は、私たちは残りの人類であるのです。 なぜなら、人類は、あらゆる種類の苦悶、苦労、欺瞞、不正直、 涙、笑いを、経ていくからです。 そうね、 残りの世界は、それを経ていっています。 あなたは、それらの一部です。 それで、あなたは、残りの人類です。 あなたは人類です。 小さな片隅に分離した、スミス氏ではない。
57:22 あなたは、この質問- なぜ人間たちは葛藤の中にいるのか - を しているとき、あなたは、 ものすごい質問を、しています。 なぜ私は葛藤の中にいるのか、ではない。 人間たちは、五千か一万年以上か、 - 私は知りません - 百万年、生きてきたが、 一人か二人の人間は、それを解決したが、なぜ、残りの人類は、 この苦労に捕らわれているのかを、あなたは訊ねています。
58:12 これを理解することが、重要です。 そしてまた、全く全的に絶対的に葛藤から自由であることが、 そもそも可能なのかどうかを、訊ねることも、です - 時折、自由なのではなく、 山を、丘の美しさと、陰と 天空を、見つめているときではなく、 日々の生において、です。 なぜですか。
59:10 矛盾があるところ、葛藤があるにちがいない。 分割があるところ、葛藤があるにちがいない。 物理的な分割 - 一つの民族が、もう一つの民族に対立し、 一組の教義が、もう一組の教義に対立し、 一つの迷信が、もう一つの迷信に対立し、 一つの結論が、もう一つの結論に対立し、 一つの経験が、他の経験より偉大である、と。 この常なる分割、矛盾、対立は、 間違いなく、葛藤を創り出すにちがいない。 それは法則です。 私の法則ではなく、それは法則です。 私たちはみんな、これを知っています。 国際連合を見られます。 (ソビエト・)ロシアとアフガニスタンで起きつつあることを、見られます - つづいている恐怖すべて。 一つのイデオロギーが、他のイデオロギーに対立している。 私たちはこの問題を、解決したことがありません。 それは、私たちが葛藤の中に生きるのが好きだ、ということですか。 あなたは、「自然は葛藤の中にあるね」と言います。 それは、私たちのお気に入りの弁解の一つです。 より大きな動物が、より小さな動物を殺すのが、見られます。 一つの植物が、光を探していて、 より大きな樹が、それに影を落としているのが、見られます。 自然には、常に格闘が見られます - 語り手はそれを、問うのです。 私たちはそれを、葛藤と呼びます - 葛藤、悲惨、それらに満ちている 私たちの精神でもって、です・・・私たちは、自然は葛藤の中にある、と言います。 しかし、自然は、放っておくなら、葛藤の中にはない。 あなたは、それらをご存じです。 私がそれに、入らなくてもいい。
1:02:12 私は今、止めなくてはいけません。 ちょっと待ってください。 彼らは、(録画)テープを交換しているからです。 私たちは後で、つづけるでしょう。 いいですか?お待たせして、すみません。
1:02:40 私たちは訊ねています - 何百万年に何百万年もの間、 生きてきた人間たちは、なぜ、 葛藤を許容し、堪えてきたのか、です。 それは習慣ですか。 私たちは、この葛藤、戦争に、慣れてきました - 政府間で、つづいているごまかしに。 それは、私たちはとても鈍いので、けっして自分自身に挑戦しない、ということですか。 あなたは葛藤の中にいるなら、 私たちは、葛藤からの千ものの逃避を、創案します。 私たちは、すばらしい逃避のネットワークを、持っています - 神からフットボールまで。 あなたが逃避しているとき、どちらも同じです。 一方がもう一方より、尊いわけではない。
1:04:08 私たちは今朝、今、二人の友だちとして 話し合っていて、見出せますか - この主題に関心を持つ友だちとして、 それを解消できますか。 それは、時間を掛けない、という意味です。 私たちの葛藤を、見てください。 すなわち、私たちは、 私たちの一人一人は、こんなに自己中心的です。 私たちの一人一人は、こんなに自分自身に、関心を持っています - 自分の幸せ、自分の充足、自分の悲しみ、 自分の逃避、自分の信念、自分が縋りついているこれらに、です。 すなわち、執着があるところ、葛藤があるにちがいない。 それは事実です。 私は、自分のヒンドゥー教や何やらへ 執着しているなら、手放すのに怯えています。 なぜなら、何が起きるだろうかを、私は知らないからです。 私は確実でありたいのです。 また、不確実であり、自己中心的であり、 私は、何かになりたいのです - より尊くないたい、この世界で成功したい。 より多くのお金、より多くの楽しみ、より多くの保証。 神、救い主の一つの概念から、別のへ行く。 自己中心的であり、妻もまた自己中心的であり、 自然に、葛藤があるにちがいない。 これは回避不可能です。ですね? 私は、セックスをとおし、ああ、多くの物事をとおして、自分の充足を探し求めています。 彼女もまた、同じことをしています。 で、彼らは、二つの分離した実体です。 少なくとも彼らは、自分たちが分離している、と考えます - 彼らのものすごい衝動、反応、先入観、残忍さ、野心をもって、です。 どんな付けを払っても、何かであろうとする。 これら二人の対立し、矛盾しあった人間が、どうして、 この骨折りから、この葛藤から、自由でありうるでしょうか。 けっして、自由ではありえません。天国においても、他の場所においても、けっして、です。 どうして自由でありえますか。 理解できますか。これは明白です。 しかし、一般的に私たちは、明白なことを、否認します。なぜなら、それは単純であり、 私たちは、何か複雑なものが、欲しいからです - 何か自分が研究、分析、議論できるもの、そうね、遊び戯れるものが、です。 私たちはけっして、何か明白な単純なことを、見て、 「さあ、それを取り扱おう。本当に、深く、 自己中心的でなく、いられるかどうかを、見出そう」と、言うことができません。 私たちの教育すべて、私たちの宗教的な切望すべてと、 それらは、この自己中心性を、奨励します。 あなたは救われるだろう - そうね、奇怪な宗教的態度、組織された宗教的態度 全体が、これを奨励しています。 インド人たちは、彼らの特定の形で、それを持っています。 キリスト教徒と仏教徒、そうね、世界全体が、です。
1:09:25 で、事実はこうです - 分割があるところ、葛藤があるにちがいないのです。 それの真理が、それの実際が、見えるなら - すなわち、私は自分の欲望を、充足させたい。 彼女もまた、そうです。 で、私の欲望は、彼女の欲望に対立しています。 私たちは、欲望に取り組みません。 私が言っていることを、理解されますか。 私たちは、彼女の欲望に対立したものとして、私の欲望を充足させようとします。 ところが、私の欲望の私の充足ではなく、 欲望の理解が、重要です。 理解されますか。私たちはこれを、互いに伝達しあってきましたか。 私たちは、欲望に、関心を持っています- 私の欲望に、ではない。 これはだいじょうぶですか。 つづけてもいいですか。 で、私の特定の経験、私の特定の欲望、私の特定の恐れとの この同一性 - 私の特定の死への恐れと、です。 で、観念とのこの同一性は- 理解されますか - または、何か実際の事実との同一性、です- 私が痛みを持つ、 私が歯が痛い、ようにです。 「いいよ、私は歯が痛い。 それを堪えよう!」と。 付いてきていますか。 ですが、永久に自分自身についての関心、ではない!
1:11:34 あなたは、これの真理が見えます - 分離があるところ、葛藤があるにちがいないことの、です。 アラブとユダヤ、起きつつあること。 大地は、私たちがそこに生き、分かち合うべきものです。それは、私たちの大地です。 アラブの世界と・・・ではない。 そうね。後生ですから! 見たところ、私たちはそれが見えません。 で、私たちは、それの真理を、知覚できますか- 真理、実際の事実を、です。 分離は葛藤をもたらすだろう、との理論ではなく、 実際の感じ、それの真理、です。 あなたは、それを感じられますか。 それが見えますか。 それの、見えるとの知的概念ではない。 分割は必然的に、葛藤を創り出すにちがいない、との 知的了解ではない。 それの実際の事実です。
1:13:05 もし人々の集団が、それを見るなら- 彼らはやはり、人類の一部です - 彼らは・・・それは、全然違った方向へ、ものすごい動きが 取られたのに、似ている、ということです。 しかし、見たところ、私たちは、これをできません。 この中から、悲惨、葛藤、 混乱、問題が果てしなく、出てきます。
1:13:43 ご存じでしょうが、語り手は、ここ六十年間、 真理は道なき土地である、と言ってきました - それは事実です。 それへの道はない。それへの救い主はなく、 指導者も、体系も、何もない。 真理は道を持たないとの事実への理解、です。 あなたはそれが見えるなら - あなたもまた、どの形の分割も、必然的に 葛藤を創り出すにちがいないことが、自分自身でとても明らかに見えるなら、 ここから、問いが生じます - その法律、政府、宗教がすべて互いに 格闘している社会に、私たちは生きます - 世の中で、他の誰よりも権力を持ちたい、と思って、です。 これが、私たちの円環です。 これが、私たちの文化です。 この文化は百万年の間、このようであったのです。 古代エジプトでは、五千年前、 彼らは、他のあらゆる者の上、最高であろうとしていました。 私たちは生涯をとおして、その同じ様式を、運んでいっています。
1:15:44 で、私たちは、何をするのでしょうか。 あなたは、実際に残りの人類である 人間として、あなたは、何をするのでしょうか。 あなたは、何か真実のことを、聞きます- それは、事実です。 物理的な事実です。アラブ人とユダヤ人、他の誰かに対立するあなた。 あなたは、自分の信念をもち、自分の経験をもち、自分の知識をもっていて、 自分の知識、自分の・・・をもつ他の誰かに、対立します。 いいですか。葛藤、抗争です。 あなたは、何をするのでしょうか。 もし見えるのなら、または、あなたは、 どの形でも分割は、破壊的であり、世界はこの破壊性に 捕らわれているとの真理が、見えるとき、 世界との、あなたの関係は、何ですか。 誰かがやってきて、あなたの資産やこれやあれを 取ってしまい、それで葛藤を創り出すなら、 あなたの行為は、何ですか。 これらを理解されますか。 私たちは、それへの理解では、一緒でしょうか - 私たちが話していることについて、たとえ言語的にも、です。
1:17:40 で、あなたは、この木立を去るとき、葛藤から自由でありうるでしょうか。 葛藤に応えられるのは、葛藤から 自由である人物だけです。 理解できますか。 葛藤の中にいる人物ではない。 彼は単に、もっと多くの葛藤を永続化するだけです。 ですが、葛藤から自由である人間は、 それに応えられます - いずれにせよ、合法的に、です。 なぜなら、彼自身が、この苦悶より解き放たれているからです。
1:18:36 第五の質問: 「あなたは、問題へ・・・」つづけていいですか。 「あなたは、問題へ完全な注意を向けるとき、問題は花開き、 萎れてしまう、と言われました。 これを、さらに説明してもらえますか。」
1:18:55 あなたは、疲れていませんか。
1:18:56 聴衆: いいえ。
1:18:58 K: ほんとに確かですか。 これは娯楽ではありません。 あなたは、娯楽では疲れません。 すみません!
1:19:12 「あなたは、問題へ完全な注意を向けるとき、問題は花開き、 萎れてしまう、と言われました。 これを、さらに説明してもらえますか。」
1:19:23 さて、この葛藤の問題が、あります。 あなたは、自分の葛藤を見守り、それに完全な注意を、向けられますか。 どうぞ、それをただ聞いてください。 二、三分間、聞いてください。 あなたは、問題を持っています- すなわち、葛藤です。 あなたはそれを、見つめられますか。 問題を聞くだけではなく、問題の音色、内容、微妙さ - あなたはそれを、見つめられますか- それを解消しようとせず、 それに何の方向づけをも与えようとせず、何の動機もなく、です。 すなわち、あなたが動機を持っているとき、それは、方向づけを与えます。 ゆえにあなたは、問題を歪曲しています。 理解しましたか。 で、あなたは葛藤に、敏感に気づけますか。 それに対して行為するのではない。なぜなら、あなたは、その葛藤の一部であるからです。 あなたは葛藤です。 で、あなたは、それに対して行為するなら、さらに、もっと多くの葛藤を、創り出しています。 どうですか。理解しましたか。 で、その葛藤を見つめてください。 小さなものと、人間の葛藤全体、 個人的なものと地球的なもの- それを見つめてください。 その物語を聞いてください。 あなたが、物語が何なのかを、語らずに、それをして、物語を語らせてください。 あなたの膝に座っている、あなたが愛している子どもが、 あなたへ物語を、語っているように、です。 あなたはその子に、中止させません。 あなたは、その子に無礼にしません。あなたはその子に、そのすべてを語ってほしいと思います。 同じように、この葛藤にそのすべてを、語ってもらいましょう。 あなたは、それを聞く耳を、持つだけでいい。 耳で聞こえるだけではなく、 内的に、その本性もまた、聞こえるのです。 あなたはそれを、そう聞けますか - 何の努力もなく、 あなたの注意全部を、それに向けて、です。 あなたは、物語を語ってくれている子どもと、一緒にいるとき、 努力していません。 「私は自分自身を、制御しなければならない。 私はもっと辛抱しなければならない」と言っていません。 あなたは聞いています。 あなたはその子を、愛しているからです。 同じように聞いてください。そのときあなたは、問題が花開くのが、見えるでしょう。 それは、成長し、自らの内容全部を、示します。 それは、自らの内容すべてを示したとき、 過ぎ去ります。終了します。 理解されますか。 それが、問題が花開き、萎れてしまうことです - それに時間は掛かりません。 時間を持つのは、「私はこれを解決しなければならない」と言うのは、 辛抱できない精神だけなのです。 しかし、よく気をつけて敏感に聞いている精神、 その小さな動きすべてに、 そのきわめてきわめて微妙な動きに、鋭敏であり・・・ あなたがそれを聞くとき、自らの完全な注意を、それに向けるとき - あなたは、動機を持っているなら、 方向づけを持っているなら、完全な注意を向けられません。 「私はこれをしなければならない」と言うなら、そのとき、何も起きないでしょう。 しかし、あなたが、自らの全的な注意を、向けるとき、 問題は、それ自体を充分に示し、それで解消します。花のように、です。 朝に、蕾がそこにある。 夕べに、それは萎れている。
1:24:49 今朝はそれで十分だと、思います。どうですか。 十分ですか。
1:24:55 聴衆: ええ。