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OJ81Q3 - 第3回質疑応答会合
カリフォルニア、オーハイ
1981年5月12日



0:14 みなさんが暖かいことを、願っています。 カリフォルニアの気候の気まぐれです。
0:34 私たちは、直ちに質問を、始められますか。
0:41 第一の質問: 「智恵と責任との 関係は、何ですか。」
0:49 「智恵と責任との間の関係は、何ですか。」
1:00 その「智恵」という言葉の意味は、何なのか、と思われます。 もしも、私たちの一人一人が、それに意味を、 与えなくてはいけなかったなら- 辞書によってか、 あるいは、智恵とは何かについての自分の知覚によって、です - 私たちはそれを、どのように言葉に表すのでしょうか。 辞書によれば、(インテリジェンス)それは、行間を読むことです。 また、集めること、 たくさんの情報、知識を集めて、 その知識から、推理し、行為することです。 とても学究的で、よく読書し、高度の教育を受けている人は、 行為において、智恵を持たないかもしれません。 で、私たちがいう、その「智恵(インテリジェンス)」という言葉は、 どういう意味なのかが、相当に明らかでなければならない、と思います。
2:39 危険を見て、行為することは、智恵の一部です。 心理的な危険を見て、即時に行為すること - それは、智恵です。 しかし、私たちは外的にも、内的にも、危険が見えて、 行為しないなら、それは智恵ではない。 例えば- 私は、とても単純な、 普通の事例を、取り上げています - 民族性は、世界にとって危険である、と見る。 そして、民族主義者であるとのその感情を、継続する - それは確かに、智恵なき生への見方です。 しかし、民族性が危険であることが、見えて、行為する - それは、智恵がないのでしょうか。 同じく、心理的な葛藤の 落とし穴すべて、微妙さすべて、 人間たちが経ていく苦労すべてが、見えるが、 それを終わらせないで、来る年も来る年も来る年も、 続けていく - それは、智恵なき行為です。 自らが傷ついているのが、見え、その傷から自由であり、 けっして傷つかないことは、確かに、智恵の行為でしょう。
4:50 それは、明らかになるのでしょうか。 私たちが、「智恵」というのはどういう意味かについて話をするとき、これは、明らかですか。 内的に、心理的に、何かが明らかに見えること - それへの伝統的な接近すべては、 私たちの問題を、解決したことがありません。 ですが、それが私たち自身で、とても明らかに見えて、行為する - それが、智恵の行為です。
5:26 また、その「責任」という言葉の意味は、何ですか - 責任を持つ、とは。 自分の子どもたちへ、責任を持つ。 自分の夫、妻などへ、責任を持つ。 自然を破壊しないように責任を持つ、など。 また、人類の全体へも、責任を持つ。 進んでもいいですか。 すなわち、心理的に、人間たちすべては、多かれ少なかれ、同様です。 彼らは苦しむ、心配である、などです。 私たちは、それへ入ってきました。 で、私たちは人間として、人類へ、責任があります。 個人的に、自分の家族へ責任があるだけではなく、 世界で起きつつあることすべてへ、責任がある - アラブ人とユダヤ人との間の分割、 南アフリカで、つづいている戦争、 原子爆弾など - 私たちは、それらへ責任がある。 私たちはそのように感じるのかどうか、と思われます。 または私たちは、問題は、ユダヤ人とパレスチナ人の間にある、と言い、 それで放っておきます。 確かにそれは、智恵なき行為です。
7:22 質問者は、訊ねます - 智恵と責任との間の 関係は、何ですか。 智恵が、(対応できる)責任です。 自体ではそれは、自らの行うことすべてへ、(対応できる)責任がある。 私たちはなぜ、責任と智恵を、分離しますか。 自らは、智恵があるなら、全的に、(対応できる)責任がある。 自らがこのように感じるのかどうか、と思われます。 私たちは、人間として、この奇怪な世界に生きていて - そこでは、あらゆる種類の残酷さが、つづいています - 私たちは、暴力が、人間の本性の一部であるのを、知っています。 私たちは、それを受け入れてきました。 どこへ行こうとも、 暴力は、見たところ、人間存在にあるのです。 暴力を理解し、暴力から自由であることは、 どの智恵ある人の責任でもあります。 私たちは、そういう(対応できる)責任を、感じますか。 または、質問者は単に、訊ね、 質問をしているだけですか- ただ知的に、言語的に、 娯楽のため、或る種の定義のため、ですか。 私たちは、人間として、全的に、完全に(対応できる)責任を、感じますか - 人類すべてに対して、世界で起きつつあるいかなることに対しても、です。
9:44 第二の質問: 「自分の中の、休眠中の 恐れの種子に、どのように取り組みますか。 あなたは幾度も、恐れについて話してきました。 しかし、恐れに向き合うことも、それを根こそぎにすることも、可能ではありません。 それを解消するよう作動する、もう一つの要因が、ある、ということなのですか。 それについて、何かできますか。」
10:13 「自分の中の、休眠中の恐れの種子に、どのように取り組みますか。 あなたは幾度も、恐れについて話してきました。 しかし、恐れに向き合うことも、それを根こそぎにすることも、可能ではありません。 それを解消するよう作動する、もう一つの要因が、ある、ということなのですか。 それについて、何かできますか。」
10:43 問いが明らかであることを、願っています。 私は、もう一度、それを読みましょうか。 それは明らかですか。明らかですか。
10:49 聴衆: 明らかです。
10:57 K: 私たちはそれについて、土曜日に、(次の講話で)話そうとしていましたが、 今そうするでしょう。
11:10 質問者は訊ねます - 恐れのまさしく根を解消する、 根こそぎにするだろう、もう一つの要因が、ありますか。 あなたは、私が答えるのを、待っていますか。 私たちは、ともに、それに入れますか。 私がそういう問いへ答えるのを、待たないで、 きわめて深刻な問題と、 とても複雑な問題を、ともに究明します。 この恐れは、記憶なき時より、人とともに、あったのです。 見たところ、彼らはそれを、解決したことがありません。 私たちは、来る日も来る日も、ほぼ死ぬまで、この恐れの重荷を、運んでいきます。 その恐れは、全的に根こそぎにできますか。 それが質問です。
12:41 質問者は、自分は幾つもの異なった道を、試してきたが、 どうしてか、それは消え去らない、と言われます。 それを根こそぎにするのを助けるだろう、別の要因が、ありますか、と。
13:11 私たちは、ここに座って、自らの恐れを、見つめられますか。 損失の、不安全の物理的な恐れだけではない - 自分の子どもを失う恐れ、 離婚があるときの恐れ、あの不安全の感覚、 何かを達成しない、充足しない恐れ。 様々な形の恐れが、ある。 愛されない恐れ、さびしさの恐れ、 死後、何が起きるかの恐れ、天国と地獄の恐れ。 それらの種類のことは、ご存じです。 きわめて多くの物事に、怯えています。 さて、私たちは、私たちの一人一人は、 意識的に、敏感に、自分の恐れに気づけますか。 私たちは、自分の恐れを、知っていますか。 それは何でもいい。 それは、職を失うこと、 お金がないこと、死などなのかもしれません。 私たちは初めに、それを見つめられますか。 それを解消しようとか、征服しようとか、乗り越えようとかしないで、 それを観察するのです。 意識的に、敏感に、自らが持つ、幾つもの恐れか、 一つの恐れ、支配的な恐れを、観察する。 そして、休眠中の恐れが、ある- 眠っていて、深く根づき、 無意識的で、自分の精神の 奥底にある恐れ、です。 それら休眠中の恐れは、自分の中に深く潜んでいますが、 それらは今、目覚めさせて、見つめられますか。 または、それら休眠中の恐れは、 危機において、衝撃において、 一定の強い挑戦においてのみ、現れなければなりませんか。 または、恐れの構造全体を、目覚めさせられますか。 意識的な恐れだけではなく、また、自分の頭脳の深い、 無意識的な、それら暗がりの奥底も、です- 恐れを収集してきた頭脳の、です。 私たちはこれらに、付いてきていますか。 または、私は、自分自身に話していますか。
17:17 私たちはそれを、できますか。初めに私たちは、自らの恐れを見つめられますか。 私たちはどう、それを見つめますか。 私たちはどう、それに向き合いますか。 仮に、私は - 実はそうではないが - 何か神的な人物によって以外、 私は救われないことに、怯えている、とします。 (西洋には、)二千年の、深く根づいた恐れが、あります。 ですね。 私はその恐れを、観察さえしていません。 それは、私の伝統の一部、私の条件づけの一部です - すなわち、ただそれだけだ・・・私は何もできないが、他の誰かはできる、と。 外部機関が、私を助けてくれる、私を救ってくれるだろう、と。 何からなのかを、私は知りませんが、それは大事でない。 それは、自分の恐れの一部です。 もちろん、死の恐れが、ある。 それは、究極的な恐れ、などです。 自らは、私は、自分の持つ特定の恐れを、観察できますか - それを導く、形作る、乗り越える、 それを合理化しようとするのではない。 それはそこにある。 私はそれを、見つめられますか。 私はそれを、どう観察しますか。 おそらくこれは、かなり重要なのかもしれません。 私は、覗きこんでいる外部者として、それを観察しますか。 または、私はそれを、自分の一部として、観察しますか。理解されますか。 恐れは、私の意識より、分離していません。 恐れは、分離して、私の外側の何かではありません。 恐れは、私の一部です。明白です。 で、私は、その恐れを、観察者と観察されるものとの 分割なしに、観察できますか。 理解されますか。 私たちは互いに、付いてきていますか。 どうか、付いてきてください!
20:18 私は、思考が創り出してきた分割なしに、 その恐れを、観察できますか - 「私は恐れに向き合わなければならない」と言う実体との間の分割なしに、です。 その分割なしに、恐れをただ観察する。 それは、可能ですか。 そうね、私たちの条件づけ、私たちの訓練、 私たちの教育、宗教的な野心は、 すべて、二つが分離していることを、指摘します。 「私」は、「私」でないものより、異なっている、と。 いいですか。 そうね、私たちはけっして、事実を 認識したり、受け入れたりしません - 暴力は、私より分離していないことを、です。 それは、私たちがなぜ恐れから自由でありえないかの 要因の一つなのかもしれない、と私は思います。 なぜなら、私たちはいつも、恐れにおいて作動しているからです。ですね? 私たちはいつも、自分自身へ、「私はそれを取り除かなければならない。 私はそれについて、何をすべきか。 道があるのか」と言っています。 すべての合理化、探究は、 まるで、恐れが、恐れを探究する人物より、 何か分離したものであるかのように、です。 いいですか?私たちは、進んでいけますか。 これは明らかですか。
22:40 で、私たちは、その分割なしに、恐れを観察できますか。 すなわち、「恐れ」という言葉は、恐れではない。 また、その言葉が恐れを創り出すのかどうかをも、見る。 「共産主義者」という言葉のように、です。 多くの人々にとって、それは、怯えさせる言葉です。 で、私たちは、「恐れ」と呼ばれるあのものを、その言葉なく見つめられ、 また、その言葉が恐れを創り出しているのかどうかをも、見出せますか。 私たちはともに、ここにいますか。 すると・・・単なる観察でなく、エネルギーをもたらすか、持っている、
24:00 もう一つの要因が、ありますか- それは、その恐れを消散させるでしょう。 そういう、ものすごいエネルギーを、持っていて、 あの恐れは、存在しません。 理解されますか。 恐れは、エネルギーの欠如、注意の欠如の事柄ですか。 もしそれが、エネルギーの欠如であるなら、 このものすごい活力、エネルギーを持つことは、 自然に、どうやって起きるのですか - あらゆるもの、恐れを、すっかり押しのけるエネルギー、です。 質問を理解できますか。私たちは、互いに付いてきていますか。 いいですよ。どうか、私を助けてください。 私たちは一緒にいますか。 私たちは、ここまで理解できますか。
25:33 で、それは、恐れの感覚を消散させる要因なのかもしれません。 または、そのエネルギーは、その感覚を持たないでしょう。 そうね、私たちのほとんどは、何らかのことへ常に没頭する中で、 エネルギーを消散させます。 常なる没頭 - あなたが、主婦であるなら、ビジネスマンであるなら、 科学者であるなら・・・それは構わない。 立身出世主義者であるなら、 あなたは、いつも没頭しています。 そういう没頭は、エネルギーの消散なのかもしれません。 消散である、と私は思います。 永続的に、冥想について没頭している人、 永続的に、神がいるかどうかへの関心に没頭している人のように、です。 または、そうね、様々な形の没頭です。 そういう没頭は、それについて常に考えること、 それについて悩むこと、関心を持つことですが、それは、エネルギーのむだではないですか。 恐れていて、「私は恐れてはならない。私は何をすべきか」 などと言うなら、それもまた、別種類の没頭ですが、 それは、エネルギー欠如の要因の一つなのかもしれません。 ものすごいエネルギーを持っているのは、没頭より - どの種類のよりも - 自由である精神だけなのです。 それは、恐れを消散させそうな要因の一つなのかもしれません。
28:22 また、もう一つの要因は、時です。 時は恐れです。 あなたがこれらを理解されるのかどうか、と思われます。 時は、「有るもの」と「あるべきもの」との間の間隔です。 今と終わりとの間の時。 私たちは先日、それを説明しました。 私は、あまりに多く、それに入りたくありません。 ですが、私たちは、時が自分たちの生において何と大きな役割を果たすのかが、見られます。 言語を学ぶことは、時を必要とします。 どの技術的な教科について学ぶことも、時を必要とします。 私たちはまた、心理的な世界、心理が機能する区域においても、 時を受け入れます - すなわち、そこで思考が構築し、築き、変化させ、 作動し、推理し、疑っている区域で、です。 付いてきていますか。 それらもまた、時の区域です。 「私は恐れているが、恐れなくなろう」と言うとき、 未来は、時です。 で、「私はなるだろう。でも、今、私はそうでないが、なるだろう」は、 恐れの根なのかもしれません。 あなたはこれを理解されるのか、と思われます。
30:48 または、まったく全然違った要因が、ありますか。 すなわち、私たちは、探究してきました - 恐れに向き合い、実際にそれを観察し、 意識的、敏感に気づき、何の選択もなく、 方向づけもなく、ただそれを見守る。 私たちはまた、見守ることが重要である、とも言いました。 あなたがどう見守るのか、どう観察するのか。 あなたが外部者であって、観察しているなら、 そのときあなたは、二元性を維持します。 そのとき、葛藤が生じます。 もう一つは、時は、恐れの要因です。 いかなる恐れをも持たないエネルギーは、ありますか。 私たちはどこかで、一緒になっていますか。 または、恐れを見て、それから完全に、即時に 自由であるエネルギーが、ありますか。 あなたはこれらを理解されるのか、と思われます。
32:40 で、また、無意識的な恐れも、あります - 時を越えた時から、自らが相続してきた人種的な恐れ、 私たちの過去の諸世代の恐れ - それを、自らが相続してきて、それは、休眠しています。 これらすべての休眠中の、静寂な、隠れた恐れは、 完全に開示できますか - 一歩一歩、一つの恐れから他のへ、行くのではない。 理解されますか。 休眠中の恐れすべてを、開示することだけは、可能です - けっして、観察されたことがなく、 けっして表面化したこともない恐れ、です。 それらが、全的に目覚めさせられますか。 そして、それがまさに目覚める中で、それの終わりがありますか。 あなたがこれらに付いてきているのか、と思われます。 私たちは一緒に動いていますか。または、私は、さびしい小道を、歩いていますか。
34:38 そうね、私たちの不幸の一つは、 私たちは、究明、分析することにとても利巧である、ということです。 私たちはけっして、物事が、即時に、全体として、見えません - 恐れすべての全包括的な知覚、です。 どうぞ、眠らないでください。 ただ互いに付いていきましょう。 すなわち、私たちは心理的に、 恐れの作動全体が、見えますか。 その中で、それへのまさに観察、 全体的に、完全に、絶対的に観察する中で、 休眠中の恐れが、必然的に、出てくるでしょう。 そして観察する。 私たちは、互いに理解しあっていますか。 そうね、私たちのほとんどは、恐れを刈り込むことに、関心を持っています。 樹々、枝を刈り込むように、です。 で、私たちのほとんどは、恐れを刈り込みたい。 私たちは、それで十分だと、考えます。 しかし、私たちはけっして、自分自身に挑戦しません - 恐れから完全に自由であることが、可能なのかどうか、です。 自らは過去に、間違ったことを、したかもしれません。 それもまた、恐れをもたらします。 見つめてください。向き合ってください。 付いてきていますか。
36:51 そうね、私たちのほとんどは、私たち自身に、自由であるよう、要求しません - 私たちが過去の時より相続してきた、 恐れなどのような、これら重荷より自由であるように、です。 「私の頭脳は、恐れより、いったい自由でありうるのか」と言うことと、 それを問い、訊ね、要求すること。 それには、一定の執拗さが、 一定の即時感が、必要です。 しかし、私たちは、まったくそのようではない。
38:11 問いは、答えられましたか。 または、あなたはやはり、それが答えられるのを、待っていますか。 私たちは、これを迎えるエネルギーを、持っている、と私は思います。 全包括的に、恐れの動き全体が、 見えますか - 時、怠慢、私たちの怠け、 恐れを生の一部として受け入れること。 そのすべてが、一定の惰性を、含意しています。 私たちは、このものを、完全に迎えません。 で、私たちはいつも、それとともに生きています。それで十分ですか。 私たちは、質問をつづけていいですか。
39:52 第三の質問: 「あなたは、謙虚さの性質を、 どのように定義し、評価するのでしょうか」。
40:05 「あなたは、謙虚さの性質を、どのように定義し、評価するのでしょうか」。
40:15 「謙虚さ」という言葉は、自己否定を、意味しています。 主張するのではない。 私たちは、その言葉を、検討しています。 物理的にも、心理的にも、自分自身を見せびらかすのではない。 謙虚であること。 それは、その言葉の中に、 一定の恥ずかしがり、慎みの性質、 出しゃばらないことを、含意しています。ですね? その言葉の意味は、それらです。 見たところ、世界に、謙虚さは消え去ったのです。 あらゆる人が、主張したがり、見せびらかし、半ば裸です。 映画で何が起きているかを、ご存じでしょう - 映画の世界と、テレビで、です。 見たところ、私たちは、それを失いつつあるか、それを失ってしまったか、一度も持ったことがない。 謙虚であることは、重要ではないですか。 いつも主張したがり、攻撃的で、「私はこう言う。 あなたはそう言う」、「私はこれがほしい」ではなくて、です。 付いてきていますか。 出しゃばらないことは、重要ではないですか。 語り手は、この瞬間、そうではありません。 彼は明白です。そこに座っています。 しかし、謙虚さのその性質は、 評判すべてを、全然、無視します。 重要な自己を、全然、無視します - そのときそれは、確かに、智恵の欠如です。 なぜ、世界は、特にアメリカ世界は、 この謙虚さの感覚を、失ってしまったのか。 あなたはそれに、答えるでしょうか。
43:59 聴衆: 恥ずかしがりは、精神病と定義されます。
44:03 K: それは、一つの形の精神病ですか。 それは、一つの形の神経症ですか。 それは、一つの形の自己展示ですか。
44:12 聴衆: それは、一つの形の美しさです。
44:15 K: 謙虚さは、美しさですか。 あなたは、何を言っていますか。
44:28 聴衆: 私たちは、謙虚さを否認しませんか。
44:30 K: どうぞ、みなさんが話をするなら・・・ 私たちはどうやって・・・私たちは謙虚でしょうか。 あなたは、その言葉を定義しました。 自制していること、幾らか恥ずかしがりであること。 自己主張したがらないこと、「私が先だ。見なさい」、 「初めに私の身体を見なさい!」と言おうとしないこと。 この世界で、特にこの国(アメリカ)で、何が起きつつあるかを、ご存じでしょう。 私は、批判していません。 私は、ただ観察しています。 誰もがみな、誰かになりたい、新聞、テレビに出たいのです。 付いてきていますか。 何が起きつつあるかは、ご存じです。 謙虚さは、美しさの一部でないですか。 それは、大きな自己否定の感覚を、必要としませんか。 しかし、大成功者になりたい、知られたい、 有名なスターになりたい、もっと本を売りたいと、 望んでいるとき - 全体をご存じでしょう。 見たところ、私たちは、それを失ってしまいました。 ゆえに、私たちは、かなり低俗、鈍感になりつつあります。 謙虚でないなら、 ものすごく多くを、失ってしまったのです- 生の多くを、です。
47:00 第四の質問: 「「私」をどう解消するかを、示してください。 それなしでは、他のあらゆる物事が、無益です」。
47:15 「「私」をどう解消するかを、示してください。 それなしでは、他のあらゆる物事が、無益です」。
47:55 質問者は、「示してください」と仰ります。 自己を全的に否認する道は、様々に指し示せます - 「私」、利己性、自己中心的な活動の、否認です。 が、見たところ、人は、多くの違った道を、試してきました - 宗教的に、政治的に、国家を受け入れ、 適応して、です。 それらはご存じでしょう。 見たところ、人は、自己の本性全体と構造を、 全的に否定したり、片付けたりすることが、できなかったのです。
49:03 初めにそれを、見つめましょう - なぜ「自己」が、こんなに重要になったのか、 なぜ、初めに「私」なのか。 多くの人々は、冥想をとおし、 一定の白痴的な言葉の反復をとおして、 これら、「自己」から、自由になろうとしてきました。 で、人はなぜ、自己へ こういう、とてつもない重要性を、与えてきたのか。 なぜあなたは - 直接的にあなたに話をするとしても、許してください - なぜあなたは、自己へ重要性を、与えるのか。 それは習慣になったのか。 それは、私たちが子どもの頃より奨励されている、ということですか。 それは、すべての宗教が、自己は存在するが、その自己を 何か、より大きなものと同一視すべき、と主張してきた、ということですか。 それらの事柄を、ご存じでしょう。 それは、自己がないなら、何もないと感じる、ということですか。 そして、何でもないことを、恐れています。
51:00 で、質問者は、「示してください。 この自己の拷問より自由になるよう、私を助けてください」と仰ります。 それは、拷問です。 それは、外的と内的につづいている闘いです。 自己は、誰とも何の関係を、持てません。 自己は、まさにその本性において、孤立化の過程です。 それは、実際の実在ではなく、抽象なのかもしれません - 客観的に、触れられ、見つめられる、という意味での、実在でなくて、です。 それは、思考により組み立てられた一連の構造ですか。 なぜなら、自己、「私」、自己本位の行為は、 世界を、引き裂いているからです。 おそらく、私たちは、それが見えません。 その自己は、それ自体を、ユダヤ人として、ヒンドゥー教徒として、 イスラム教徒として、キリスト教徒として、 科学者として、同一視します。 それで、自己のまさに本性において、 その動きは、孤立することになる。 私たちは、互いに出会っていますか。
53:47 質問者は、「私は何をすべきか」と仰ります。 「私はこれらを知っている。私は、これらについて、大変多く考えてきた。 私は、様々な道を試してきた。 私は、冥想してきた。 制御しようとし、 自分自身からあらゆる物事を、否認しようとしてきた。でも、それはやはりそこにある」と。 あなたは、これらをやってきましたか。 あなたたちの幾らかは、玩んできましたか。 そうしてきたなら、問いは、自らは何をすべきか、です。 それは、すべきことは何もない、ということなのかもしれません。 私の答えを、理解されますか。 完全な否定を通して、肯定的な行為が、ある。 あなたがこれらを理解されるのか、と思われます。 否定する。 しかし、私たちは、否定するのを、恐れています。 なぜなら、私たちは、自分自身を自らの身体と、同一視してきたからです - 身体についての永続的な関心です。 ヨーガ、体操、美容、化粧、そうですね、 長髪、短髪、あごひげや、ひげのないこと。 様々な流行り物を、経てゆく。 自らが経てゆくもの、です。 このすべてが、自己を維持しています。 冥想において、制御者は、自己です。 あなたはこれらが見えるのか、と思われます!
56:33 で、何をすべきなのか。 一万の道を試してきました。 この拷問、「私」のこの孤立化の過程より、自由になるために、 きわめて多くの道を、試してきました - あなたがそれを試してきたのかどうか、私は知りません。たぶん、ないでしょう。 しかし、そうするには、ものすごい鋭敏さ、 見守り、注意が、要求されます。 自己には、大きな楽しみが、あります。 聖者たちは、それを、自己抑制、自己拷問を、やってきました。 しかし、そのすべてに終わりに、この自己が、深く根づいて、あるのです。 自己の陰を何も持たないことは、いったい可能でしょうか。 それは、孤立がない、という意味です。 それは、「私は全体である」を意味していません。 それらすべてのごまかしを、ご存じでしょう。 正直さの感覚を持つ。 孤立がない、との絶対的な感じ。 どうか、他方へ、行ってしまわないでください。すなわち、「私は全体である。 ゆえに、私は孤立していない」へ、です。 それもまた、ただ別の思考のごまかしです。 先日、手紙がありました。 或る人が言っていました - 「私は真理です。あなたは、私の一部です。 あなたは、私を受け入れない。ゆえにあなたは、全体でない」と。 つづいている、そういう戯言!
59:26 で、孤立の感じを、すっかり 消去することは、可能でしょうか。 それは、愛なのかもしれません。 それが、自己を全的に消散させる一つの 中心的な要因なのかもしれません。 しかし、その「愛」という言葉はまた、こんなに誤用された言葉です。 それは、唾を吐きかけられ、こんなに醜いものにされてきました。 「私は夫を愛しているが、夫と戦う」、 「私は妻を愛しているが、妻を許容できない。 私は離婚しなければならない」。 それらをご存じでしょう。 「私は、自分の国を愛している。ゆえに、私はすぐに、他の誰をもみな、殺せる」、 「私は神を愛している。 私は、神を信じていない誰をも、拷問に掛けるだろう」と。 カトリックは、それの達人だったのです。 その言葉は、何かとても神聖なものであるけれども - その言葉ではなく、それの内容、深さと 美しさと、全くの実在性。 それが神聖です。 質問者が言われるように、私たちはそれを持っていないなら、 他のあらゆる物事が、無益です。 そのときあなたは、言うかもしれません - 「私はどうやって、この愛を持つべきか」と。 あなたは持てません。それは、何かあなたが養成するものではない - 来る日も来る日も親切にする、寛大である、 社会事業をする、どこか不幸な国へ出かけて行き、 貧しい人たちを助ける、それらではない。 そうね、それは、私たちのふしぎなことの一つです。 私たちは、崇敬すべてを、失ってしまいました。 それは、ブルジョワ的な観念なのかもしれません。 私たちは、当面の間、それに入らないでしょう。
1:03:09 それは、自己を全的に、完全に解消する、 唯一つの要因、唯一つのものなのかもしれません。 「私はあらゆる人を愛している」ではない。 それはまたもや、頭脳の別のごまかしです。 「私は一人を愛している。ゆえに、私はみんなを愛せる」 - それも、別のです。 しかし、あなたの心に、それの美しさを持つ - 言葉で、ではなく、形で、ではない。 孤立の感覚が何もないとき、 そのときおそらく、他方がある。 そのとき、自己がない。 それがあるとき、他方はない。
1:04:37 第五の質問: 「あなたは、洞察と覚りをともに、観察者なしの、 全体への明らかな知覚と、定義されました。 しかし、私たちの多くは、覚りを得ずに、洞察を得てきました。 で、洞察と違いとの間の違いは、何ですか。 そして、何が、洞察が覚りであるのを- ああ、神様! - 阻止するですか」
1:05:07 「あなたは、洞察と覚りをともに、観察者なしの、 全体への明らかな知覚と、定義されました。 しかし、私たちの多くは、覚りを得ずに、洞察を得てきました。 で、洞察と違いとの間の違いは、何ですか。 そして、何が、洞察が覚りであるのを、阻止するのですか」
1:05:29 私は、誰がこの発言をしたのかを、知りません。 語り手は確実に、していません。 語り手は、洞察が何なのかを、説明してきました - 覚りが何なのかを、説明したことはありません。 あなたは、覚りを叙述できますが、 叙述は、実在ではありません。 「私は覚りを得た」と言うどの人物も・・・ それがどういう意味かを、ご存じですね。
1:06:18 で、問いは本当は、こうです - 科学者は、洞察を持っていますが、それは部分的です。 音楽家は、洞察を持っていますが、それはやはり部分的です。 私たちの多くは、洞察、何かへのすばやい知覚を、持っています。 すばやい知覚と行為 - 私たちの多くは、時々、それを持っています。 でも、それはすべて部分的です。 洞察は、私たちの日々の生と行為への洞察を、意味しています。 私は、科学者として、物質の一定の要因へ、 洞察を持つかもしれません。 しかし、私の生は、見かけ倒しで、野心的で、 心配、依存に満ちているかもしれません。 洞察は、生の動き全体への洞察を、意味しています - それのただ一部分へ、ではない。
1:07:59 そして、思考が記憶として不在であるとき、 洞察は起こりうるだけです。 それを考えぬいてください。 それは、計算の結果、数学的な結論ではない。 過去なしの知覚、そのものが完全に見えること。 例えば、受け入れられた既成の宗教すべては - それがインドであっても、ここでも、 他のどこでも - すべて・・・今あるものである、と 見えるときのように、です。 ゆえに、あなたは、その種の洞察を持つとき、 すべての教義、儀式、信念、信仰から、自由です。 あなたは、どの集団にも、どの導師にも、属していません。 そういう洞察は、あなたが本当に 注意深いときだけ、可能です - あなたの全存在が、見出すように、です。
1:09:42 私たちは今、止めたほうがいいと、思います。そう思いませんか。