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OJ81Q4 - 第4回質疑応答会合
カリフォルニア、オーハイ
1981年5月14日



0:21 (書面で出された)多くの質問が、ありました。 私たちはとうてい、そのすべてに 答えられません。で、私たちは、それらの中から、選んでおきました。 おそらく、あなたが訊ねたそれら質問の幾つかは、つづく質疑の中で、 答えられるかもしれません。 ここには、八つの質問があります。 私たちは今朝、それらをやりとおせることを、願っています。
1:17 私は、これらすべての質問に、答えなくてはいけない、と思います。 私たちは、これらの質問を、真剣に、自分自身にするなら、 それらすべてに 真実に、真正に答えることができるのだろうか、と思われます - 他の誰かを引用せずに、自分自身でそれらに答えるのです。 答えは、真実で、適用可能でなければなりません。 それに正確に答えるには、一定量の誠実さと、誠実さにともなう 謙虚さの性質を、持たなくてはいけません。 それで、ともに、これらの質問をし、 正しく的確な答えを、 私たち自身で見出しましょう。 語り手に沿って、ではなく、 答えの真理を、問いと答えの真理を、 私たち自身で見出すのです。
3:03 第一の質問: 「想像と言葉は、 人が生で機能するために、使用する道具です。 常で鋭敏な注意を達成し、そのため、思考の必要な使用と、 どこでイメージが幻影と葛藤につながるのかの間の細かい線が、 いつも見えるようにすることは、本当に可能でしょうか。」
3:37 この問いが、あまりに知的すぎず、 私たちの生へ適用可能であることを、私は願っています。 「想像と言葉は、人が日常生活で 機能するために、使用する道具です。 常で鋭敏な注意を達成し、そのため、思考の必要な使用と、 どこでイメージが幻影と葛藤につながるのかの間の細かい線が、 いつも見えるようにすることは、本当に可能でしょうか。」
4:32 なぜ、他の人たちについて、自分自身について、 イメージを創り出し、 他の人たちについてと、自分自身について、イメージを持ちますか - 私たちが崇拝するイメージ(像)。 私たちが神聖だと考える象徴。 言葉、観念、理想などの哲学的構築の ネットワーク全体を、です。 なぜ私たちは、いつもイメージを創り出しますか。 イメージが私たちの生において、どんなに重要な役割を 果たしてきたのかを、自らが悟るのかどうか、私は知りません。 寺院、神殿は、それらで満たされています。教会、モスクも、です。 イスラム世界では、モスクは像を持っていませんが、 美しい書物 - それは、同じことの象徴です。 で、なぜ人は、イメージを創り出すのか - 手によってか、あるいはまた、 精神によって、頭脳によって、です。 質問者は、知りたいと思います - 常で鋭敏な注意を達成し、そのため、 思考の必要な使用と、どこでイメージが幻影と葛藤に つながるのかの間の細かい線が、 いつも見えるようにすることは、本当に可能でしょうか。
6:43 問いを理解されますか。 私自身はそれを理解するのか、あまり確かではありません。 私は、そういう質問が出されていることが、うれしいです。 そうですね、私たちは伝達するために、いつも言葉を使用します。 互いとの伝達の手段は、多くあります。 言葉をとおし、身振りをとおし、眼差しをとおして、 頭のかすかな動きをとおして、です。 いつもこの伝達が、言葉などをとおして、 つづいています。 言葉は、私たちの生において、とてつもない役割を、果たしてきました。 まず第一に、言葉なしに、イメージなしに、 象徴の構築なしに、思考がありますか。 言葉などなしに、思考が、ありますか。 質問を理解できますか。 または、言葉は思考の一部でしょうか。 観察するなら、私たちの考える様態全体は、 言葉、象徴、観念のネットワークです。 ですね?私たちは一緒に動いていますか。
9:03 質問者は訊ねます。 思考、思考の必要な使用、 知識の必要な使用、 知識より生まれた技術との間 - それと、様々な形の幻影と葛藤に つながるイメージ作りとの 間の分割、線は、何でしょうか。 私たちはともに、問いを理解していますか。 問いは、かなり困難に見えるのでしょう。
10:13 私たちは、思考と、イメージ、 象徴の作用との間の線が、 どこにあるかを、訊ねていますか。 私たちは、想像が生において どんな役割を果たすのかを、訊ねていますか。 想像は、必要ではないですか- 質問者です。 私は、問いを究明しています。 画家として、詩人として、 丘の美しさを想像する能力 - 彼らの想像し、言葉に表す、とてつもない能力をもって、 または、画家などですが・・・ 想像は、必要でないですか。 想像は、私たちの日常生活で、役割を果たしますか。 果たすのなら、その想像は、思考により組み立てられて、 私たちが上手に、使用できる道具ですか。 付いてきていますか。いいですか。 あまりに寒すぎますか。 だいじょうぶですか。
12:19 詩人、作家、画家、彫刻家など、 彼らは、想像を持たなければなりません。 さもないと、彼らは書けません。 しかし、私たちの生、日常生活において、想像は必要ですか。 または、想像、または夢想は、 つづいていることへの実際の知覚を、阻止しますか。 理解されますか。 私たちの日常生活において、実際につづいていることを、 理解するほうが、重要ではないですか。 想像豊かな、理想主義的な仮定すべて、 「もし~なら」と「~のとき」なしに、 つづいていることを、実際に観察するのです。 大きな想像を持つより、そのほうが、はるかに重要ではないですか。 つづいていることを、注意深く観察できるなら、 まさにその注意こそが、「有るもの」へ光を投げかけます。 ですね?「有るもの」へ光を投げかけます。 その注意の光が、問題を明瞭にします。ですね? 私たちは出会っていますか。 私たちは、これについて、ともに考え、 ともに推理していますか。 語り手が言うことを、受け入れないで、 ともに実際に推理しています - 想像には、どんな持ち場があるのかと、 その想像はどこで、幻影をもたらすのかを、見るように、です - こちらは、「有るもの」の実際の理解を、阻止します。 これは明らかですか。
14:48 私は恐れています - 仮にそうだとします。 私は、恐れがないときの精神の状態を、想像します。 その想像は、私にとって、とても重要になる。 なぜなら、それは、実際の恐れからの逃避を、提供するからです。 私は、それとともに、生きます。 その想像の中に生きることは、幻影です。実際ではない。 絶対的に何の恐れもないときの、或る精神や心の状態を、 想像するその能力は、私に、 一定の活力の感覚を、与えてくれます- 一定の神経症、 実際でない一定の夢想的な生き方を、です。 で、おそらく、そういう想像は、 私が直接的に恐れを見つめるのを、阻止します。 完全な注意をもって、それを見つめることは、 恐れの本性全体を、開示します。 その注意のその理解から、恐れは消えはじめます。 しかし、私が、そこに恐れがない精神の状態、心の状態 絶対的に喜ばしい状態について、想像を持っているなら、 私はちょっと狂っています!
16:36 で、想像は、詩人、芸術家にとって、 一定の価値を、持っています。 しかし、芸術は - 本当は芸術(アート)は、(語源的に)あらゆる物事を、その正しい所へ、置くことを意味しています。 それが、その「芸術(アート)」という言葉の真の意味です - あらゆる物事を、その適切な所に、置くことです。 しかし、詩人、画家、芸術家は、かなり大騒ぎの生、かなり葛藤の生を、送ります。 それら芸術家たちにおいて、つづいていることすべてを、ご存じでしょう - 偉大な人たちと、いわゆる芸術家に、です。 で、私たちは、生に、私たちの日常生活に、関心を持っています。
17:45 質問者は訊ねます - 常で鋭敏な注意を達成し、そのため、 思考の必要な使用と、どこでイメージが幻影につながるのかの間の 細かい線が、いつも見えるように することは、本当に可能でしょうか。 今、質問を理解されますか。 いいですか?私たちは、問いを理解しますか。 思考の必要な使用と、どこでイメージが 葛藤と幻影につながるのかの間で、どこに線を引くのか。 そこには思考に持ち場がある常の注意、 鋭敏さの状態を、維持することは、可能でしょうか - (思考の)それは、知識から生まれた技術です。 大工、配管工、科学者としての、です - そして、常に全的な注意にある精神の状態を、維持する。 それが問いです。ですね?
19:13 で、私たちは、気づくとはどういうことかを、探究しなくてはいけません。 私たちは、ゆっくりそれに入って、 その点に来るでしょう - 完全に注意深いとは、どういう意味なのか、です。 私たちはいったい、世界でつづいていることに気づくだけではなく、 また、内的につづいていることにも、気づいていますか。 すなわち、私たちは、ここに座りながら、 樹々に、気づくでしょうか - 幹、大枝の本性、 その美しさに、です。 私たちは、丘、山、斜面、 それらに、気づきますか。 それはおそらく、相当にたやすい。 しかし、私たちはまた、内的につづいていることに、気づいていますか - 私たちの思考、感情、 生に対する特有の態度、確信に、です。 私たちは、気づいているなら、何の選択もなく、気づけますか。 私たちは、互いに付いてきていますか。 何の選択もなく、見つめる、観察する。 いいですね?それは可能でしょうか。 いかに選択が生においてとても重要になったのかを、 私たちが理解するときだけ、それは可能です。 専門職の選択、仕事の選択、 いわゆる女、男の選択 - 選択する。 とても多くの物事の選択。 私たちは、この素材とあの素材との間で、選択します。 それで、選択は、私たちの生において、大きな役割を果たします。 それは明らかです。明白です。 よりよい仕立屋、よりよいシャツ- 付いてきていますか。 その事柄全部です。 一定の水準での選択は、必要です - 良い車と悪い車の間では。 しかし、心理的、内的に選択があるとき、 それは、混乱を、標示しませんか。 どうぞ、一瞬の間、それを見つめてください。 明瞭さがあるなら、選択はありません。 いいですね?あなたはこれが見えるのか、と思われます。 私たちが選択しはじめるのは、私たちが混乱していて、不確実であるときだけです。 いいですか。 これは、論理的でないですか。 しかし、明らかであることは、とても困難ですか。 明瞭さ - 政治と政治家とそれらの事柄について、ではなく、 内的に、絶対的に明らかであり、そのため、 あなたの行為がけっして、混乱の中から、選択の中から、生まれないこと。 それは、いったい可能でしょうか。 それは、思考が自らの正しい所を見つけるとき、 可能なだけだ、と私たちは言っています。 いいですか?これらに付いてきていますか。 私は車の運転の仕方を知らなければならない、という意味で、正しい所、です。 知識は、英語、フランス語やスペイン語や イタリア語を話すために、必要です。 または、職歴があるべきならば、私はそれについて、知識を持たなければなりません。 そこでは知識が、絶対的に必要です。 心理的に私たちは、知識もまた必要である、と感じます。 誰かを知る、 自分の妻や夫を知る - 知る。 で、あなたは、いったい、妻や夫について、知りうるのでしょうか。 あなたは、生きているものを、知りえません。いいですか? あなたがこれらを理解されるのかどうかと、思われます。
25:03 で、心理的に、私たちが、「私は自分自身を知らなければならない」と言うとき - どうぞ、これをちょっと理解してください - 私たちが、「私は自分自身を知らなければならない」と言うとき、 それは、「私は自分自身について知識を蓄積しなければならない」という意味です。 ですね?それは、他方と同じです。 ですね? 良い大工になるには - 私は、職業的専門家、科学者と大物より、むしろ大工を好みます - 良い大工になるには、私は、木材、道具などについて、 大変多くを知らなければなりません。 「私は自分自身を知らなければならない」と言うとき、私は、同じ精神性を持ち運んでいます - それは、「私は自分自身についてたくさんの情報を集めなければならない」という意味です。 ですね?これに付いてきていますか。 それで、私は正しくとか上手にとか、何であれ、行為できるように、です。 で、私はいったい、知識に沿って、自分自身を完全に知りうるのでしょうか。これに付いてきていますか。 または、「自分自身」は、とても微妙で、常に変化し、動き、 行為していて、それはけっして、同じでないのか。 ですね? しかし私は、それにいつも同じであってほしいと思います。 これらに付いてきておられるのか、と思われます。 それで、私は自分自身について、イメージを創り出す - それは静止しています。 私はそれに沿って、行為します。 で、自分自身を知ることは、自分自身について、知識を蓄積することではなく、 起きつつあることへ、すべての完全な注意をもって、 気づくことなのです - そのため、私自身について、何も知識の蓄積がなく、 私自身の動きがあるように、です。 理解されますか。
27:36 私たちは、互いに理解し合っていますか。 私は自分自身を知りたい - それは、とても重要です。 古代ギリシャ人たちは、それについて話をしました。 古代ヒンドゥー教徒もまた、それに入りました。仏教徒も、です。 しかし、西洋世界の宗教世界は、 「あなた自身を知りなさい」というこの問いへ、入ったことがありません。 彼らは、それについて話をしましたが、彼らはそれへ、あまり深く入ったことがありません。 今、私たちは、誰か哲学者、誰か分析者、 心理学者などに沿って、自分自身について 知ろうとしてきました。 それで私たちは、他の人たちより、自分自身について学んでいます。 ところが、他の人たちは、私たち自身です。 理解されますか。 あなたはこれが見えるのか、と思われます。 理解されましたか。よし。 で、私自身を知るには、私は、自分の他の一人への関係において、 それを観察できるだけです。 そこに私は、自分の反応すべてを知覚します - ですね? - 私の欲望すべて、私の葛藤すべて。 私はそこに、それを知覚します。 関係は、私がそこに自分自身が 実際に、ありのままに見える鏡として、作用します。 私がその鏡を、一つの物とするなら、 それは単に、イメージ、心象になるが- 理解されますか - そのときそれは、幻影につながります。 で、何の選択もなく、自分自身に気づけるでしょうか。 何も境界がないとき、制限された知覚- 見守っている「私」 - がないとき、 その気づきは動いて、注意になる。 理解されますか。 あなたがこれらを理解されるのか、と思われます。
30:09 何へでも、注意を向けたことがありますか - 完全な注意を、です。 さて、あなたは今、この語り手、哀れな奴に聞いていますか。 あなたは、聞こえつつあることへ、完全な注意を向けていますか。 あなたは、完全な注意を向けるなら - それは、あなたは言葉が聞こえる、 その言葉の意味の充足を理解する、という意味です。 言葉は重要ではありませんが、 言葉の意味と内容と、 あなたが完全な注意を向けること- あなたの神経でもって、 耳でもって、眼でもって、あなたのエネルギーすべてでもって、です。 あなたがそうするなら、そのとき、注意している「私」がないことが、分かるでしょう。 そこからあなたが注意している中心が、ない。 ただ注意があるだけ。 理解されましたか。
31:25 それで、本当に思考の本性を、きわめて深く理解したとき、 常の鋭敏さと注意が、ありうるだけです - 私たちは、それを十回以上、説明してきました。 この問いに、三十分を掛けて、すみません。
31:56 第二の質問: 「私は作家です。 私は、自分の理解を発言する責任と欲求を、感じます。 けれども、私は、自分の理解が不完全であると、知っています。 何かを見たり理解するし、聞いてもらえる立場にいるが、 彼の理解は全的でない人にとって、 正しい行為は、何ですか。」
32:25 「私は作家です。 私は、自分の理解を発言する責任と欲求を、感じます。 けれども、私は、自分の理解が不完全で、制限されていると、知っています。 何かを見たり理解するし、聞いてもらえる立場にいるが、 彼の理解は 全的でない人にとって、正しい行為は、何ですか。」
33:02 私たちのほとんどは、作家ではありません。 私たちのほとんどは、公衆に、多くの人に 聞いてもらえる立場に、いません。 しかし、私は、語り手より一定のことを、聞いてきました。 または、世の中への 自分の知覚より、自分の見守りより、などです。 私は、自分の理解が制限されているのが、分かります。 私の理解が不完全であり、私が行為しなければならないとき、 生において私は、何をすべきでしょうか。 ですね?私は、しなければなりませんが、 生への私の理解は、きわめて制限されています。 ですね?さて、それは事実でしょうか。 または私は、「自分の理解は制限されている」と言います - これに付いてきていますか。 私の理解は制限されている、ということは、実際の事実ですか。 そのとき、私の理解が制限されていて、私は、それが制限されていることを、実際に悟るなら、 私の表現は、私の理解のように、制限され、不完全であるでしょう。 私は不幸にも、長年、語り手に聞いてきました。 私は彼から、幾つかのことを集めてきました。 私は、それが不完全であることを、知っています - それは、生の全体の全的な了解ではない。 私の理解は制限されている、と。 で、私は、それが制限されているのを、知っています。 私は、それが制限されていないふりを、していません。 私は、それが制限されていることを、自分自身に承認します。 で、私は制限されたさまで、自分自身を表現します。 私は、それが制限されたさまであることを、承認します。 これらを理解されますか。 それについて、ふりは、何もありません。
35:52 もし私は作家であり、 たまたま、公衆に聞いてもらえるほど有名であり、 私はまた、生への私の理解は、制限され、完全でなく、 完璧でないことをも、悟ります。 自然に、私は自己表現をするでしょう。 なぜなら、私は作家であり、 聞いてもらいたいからです。 私はまた、自分自身に、そして、読もうとしている聴衆に対して、 私の理解は制限されている、とも言います。 それがすべて、何を意味しているかを、理解されますか。 公衆は、あらゆる物事に、完全であってほしい。ですね? 彼らは、「私はそれの全体を理解する」と言う誰かが、欲しい。 そして、作家が「ほら、生への私の理解は、制限されている」と言うなら、 彼の出版社は・・・お分かりですね! しかし、作家、彼の責任は、絶対的に誠実さを持つところに、在る。 そこが、彼の責任があるところです。 これらに付いてきておられるのか、私は知りません。 私は、質問者が誠実さを持っていないとは、言っていません。 ですが、正直であること、誠実さを持つこと - そこで、自らは全的、完全でありえます。 どんなふりもなく、裏表を使い分ける話もなく、 完全な誠実さを持つこと- 付いてきていますか - それは、 謙虚さ、謙遜と一定の明晰さを、要求します。
38:15 第三の質問: 「生における質問の役割は、何ですか」。
38:24 「生における質問の役割は、何ですか」。
38:28 すなわち、生において問うことの役割は、何ですか。 質問は明らかですか。 私たちはいったい、根源的に問いますか。 または、ただ表面的にだけですか。 または、或る種の紛糾が、あるときだけ、 私たちは問いはじめますか。 しかし、その問うことは、問題への答えを、見つけようとすることです。 質問者は、いつも問うことの 役割は何なのかを、知りたいのです。 それに、重要性がありますか。 私たちは、危機を別にして、いったいいつ、真剣に問いますか。 危機があるとき、紛糾があるとき、 自分たちが痛み、苦しんでいるとき、私たちは、問いはじめます。 その問うことは、おそらく、痛み、悲しみ、紛糾などから 抜け出す道を、探し求めることです。 私たちは、そのとき問うのです。 しかし、質問者はまた、その役割は何なのか、 問うことは、生においてどんな役割を果たすのかをも、知りたいのです。 危機の瞬間においてではなく、問う精神、です。 それは明らかですか。
40:47 あなたは、自分の経験、自分の欲望、自分の意見、 評価、確信を、いったい問いますか。 究明しますか - それは、問うことの一部です。 または、あなたは、それらを当たり前だと取り、 実際の紛糾があるとき、問うだけですか。 質問を理解されますか。 私たちの精神は、探究し、 見守り、落ち着き、気づいていますか。 または、表面的にだけですか。 問うことは、重要ではないですか - 自分の信念、自分の信条を、問う。 もしも自分の信条を問うたなら、何が起きるだろうを、ご存じですね - 特に、西洋社会においては、です。 理解されますか。もしも、自分の宗教的な信条を、問うたなら、 全部が崩壊するでしょう。そして、問うことに、怯えています。 で、特に、精神、頭脳は いつも、安全の地位を、自らが安心できるところを、 探し求めています。 あなたがこれらを、自分自身で観察したのかどうか、私は知りません。 子どもは、安全でなければなりません。 彼は、母親、父親により、愛されなければなりません - 自らが完全に安全で、保護されたと感じるように、です。 一定の点まで、母親と父親は、そうします - 一定の点まで、です。 しかし、彼らはすぐに、退屈します。 または、どうなるにしても、です。 彼らは、自分の利害、自分の問題、自分の苦労を、持っています。 次第にその子、男の子か女の子は、放置され、出て行ってしまいます。 で、頭脳が機能するには、安全が必要だと、発見します。 ですね? 良い物理学者であること、物理学の知識すべてを 持つことは、頭脳に、一定の保証、安心、 保護の性質を、与えます。 ですね? あなたは、その線に沿って問えば問うほど、 もっと学ぶし、もっと安全になる。 さあ、どうぞ。私たちは、これらを理解します。
44:46 で、それは、知識に安心を、見つけています。 良い外科医のように、彼は百回、手術をしてきました。 彼は知っています。彼の頭脳は、その線に沿って活動的で、安全です。 それは、金銭、地位、それらを、与えてくれます。 で、それは、頭脳に、制限された安全の一定の性質を、与えます。 ですね? で、知識は、安心する手段として、重要になる。 その知識は、私たちが多くの回数、指摘してきたように、 いつも制限されています。 知識すべては、いつも制限されています。 ゆえに、問うことは、きわめて制限されるのです。 当然です。 これらに付いてきておられますか。
46:06 しかし、自らが、専門化された実体でないのなら、 安全は頭脳にとって必要であることを、観察するなら - 衣食住を持つこと。そうね、それは安全です。 でも、その物理的な安全を、持っていて、 頭脳は、心理的な安全を、要求します - 関係における安全、観念における安全、 信条における安全などを、です。 私たちはけっして、それらを問いません。 付いてきておられますか。 私たちは今、言っています - 問うていて、究明している頭脳、精神を、持つ。 けっして、制限された理解に捕らわれないで、 問うている。 そこには、大変多くの智恵が、ある。 そこから、智恵が生じます。 その智恵が、安全です。 あなたがこれらを理解されるのかどうか、と思われます。 私たちは、これらで一緒ですか。 または、私が話しているだけですか。 私たちは、次の問いへ進みましょうか。
47:56 第四の質問: 「生は、死と、物理的な別離をとおして、 友だちを分離します。 この分離は、関係の終わりであり、 記憶以上に何も、残さないのですか。 人々が物理的に現存しているときだけ、彼らの間に、愛はあるのですか。 または、彼らが不在であるとき、思考以上の何かが、ありえますか。 関係すべては、瞬間的であり、長続きする絆は、ないのですか」。
48:41 「生は、死と、物理的な別離をとおして、友だちを分離します。 この分離は、関係の終わりであり、 記憶以上に何も実在のものを、残さないのですか。 人々が物理的に現存しているときだけ、彼らの間に、愛はあるのですか。 または、彼らが不在であるとき、思考以上の何かが、ありえますか。 関係すべては、瞬間的であり、長続きする絆は、ないのですか」。
49:16 神様! この一つの問いには、多くの問いが、関与しています。 で、その中の一つずつを、取りましょう。
49:30 「生は、死と、物理的な別離をとおして、友だちを分離します。 この分離は、関係の終わりであり、 記憶以上に何も、残さないのですか」。 それは、実際の事実なのでしょう。 ですね? 私は、妻より分離しています。 私は、旅行へ行ってしまうかもしれません。 妻は、インドやイギリスやここに、留まっています。 私は、彼女について考え、彼女に電話をし、 彼女に手紙を書く。 それで私は、疎通をつづけます。 ですね?それは、記憶に基づいています。 私は、そこで何が問題なのかが、よく分かりません。 それは、実際の事実です - 記憶以上に何も残さないのです。
50:32 「人々が物理的に現存しているときだけ、彼らの間に、愛はあるのですか。 または、彼らが不在であるとき、思考以上の何かが、ありえますか」。 これが、本当の問いです。 「人々が物理的に現存しているときだけ、彼らの間に、愛はあるのですか。 または、彼らが不在であるとき、思考以上の何かが、ありえますか」。 やれまあ。
51:04 さて、それに入りましょう。 私たちは、思考の本性を、とても深く、とても明らかに理解するなら - すなわち、もう一度、繰り返してもよろしければ、 思考は、記憶から出てきたもの、記憶の応答です。 記憶は、知識から生まれます。 知識は、経験の中からです。 ですね? これが、循環です - 経験、知識、記憶、行為。 その行為から、もっと多くを学ぶ。 それで、もっと多くの経験、 知識、記憶、行為を持つ。 それは、循環です。その中で私たちが作動している連鎖です。 それが、いつの時も私たちの考えがつづいているさまです。 さて、私たちは、考えることの本性について、きわめて明らかでなければなりません。 それは、物質的な過程です。 そこには、いかなる神聖なものも、ありません。 ですね?どうぞ、これを受け入れないでください。 それを受け入れるなら、あなたは、その意味全体が見えません - あなたが、きわめて深くそれへ入ったのでなければ、です。 思考が世界に創り出してきた物事すべて - テクノロジー的に、コンピューター、その他すべて、原子爆弾、 寺院、モスク、教会の中の物事すべては、 思考により、組み立てられています。 ですね? で、これら寺院、教会が収容している象徴、イメージ(像) - そこには、何も神聖なものはない。ですね? しかし、思考は、それを創り出してきて、 それから思考は、それを、神聖と見せるのです。 どうぞ、それを検討してください。 受け入れず、怒らず、 ただそれを見てください。
53:56 思考の動きは、愛ですか。 それが、質問者が訊ねていることです。 質問者は言われます - 「人々が物理的に現存しているときだけ、 彼らの間に、愛はあるのですか。 または、彼らが不在であるとき、思考以上の何かが、ありえますか」。 で、思考が、関係において、唯一つの動きであるなら - 互いについてのイメージをともなった思考が、です - それが、私たちの持つ、唯一つの関係であるなら、 愛に、どんな持ち場がありますか。 これらに付いてきておられますか。 愛は、私たちが互いについて創り出してきたイメージですか - その関係において、快くても、快くなくても、です。 関係の苦労すべて。 その関係において、この葛藤があるとき - 各々が分離的に行為していて、 自分の願望、自分の情欲などを充足させたがっていて、 各々が分離していて、自分の分離したさまで、充足しようとしているとき、 - 野心、攻撃性、貪欲。 つづいているすべてを、ご存じです - 愛がありますか。 そのとき、愛は何ですか。 それは、思考により組み立てられますか。 進んでください。これらにお答えになってください。 愛は、欲望ですか。 愛は、自己充足の追求ですか。 愛は、楽しみの追求ですか。 理解されますか。それが、世の中で起きつつあることです。 それで、それがすっかり失われているとき、 またはおそらく、稀に、時折、起きるとき、 思考は、互いに伝達しあう、唯一つの手段です - 電話、手紙を書くこと、自分の妻や、 友だちについて考えること。 そうね、それらが起こります。
57:15 で、何をすべきでしょうか。 質問を理解されますか。 私は、思考が生において、とてつもなく、 重要になってきたのを、悟ります - ビジネスの世界で、テクノロジーの世界で、 経済の世界で、宗教の世界で、です。 儀式すべては、思考により組み立てられています。 教義、信仰、あらゆる物事が、思考に、基づいています - 伝統をとおして神聖にされた思考に、です。 思考は、他のあらゆる物事を 浄化する炎でないことを、とても深く悟るとき、 それをどう、捉えるべきなのか、保つべきなのか、持つべきなのか。 質問を理解されますか。 付いてきておられますか。 さて、それは問題になります。 私の頭脳は- 気をつけて聞いてください - 私の頭脳は、問題を解決するよう、訓練されています。 テクノロジーの世界で、それは、技術的な問題を解決するよう、 毎年毎年、訓練されてきました - 原子爆弾、コンピューターなどです。 私の頭脳は、心理的な問題を解決するよう、訓練されてきました。 それで私は、この問いに、向き合っています。 すなわち、思考は、私たちが言ってきたすべてではないことを、私は知っています。 私はまた、他なしには、生はとても浅くなることを、知っています。 それで、私は問題を持っています。 私は問題を持っています。 ですね?これを理解されますか。 で、私はすぐにそれを、解決しようとしています! 私の頭脳は、それを解決するために、活動的です。 ところが、愛は、解決される問題ではありません。 理解されますか。 問題は、思考と愛ではありません。 問題は、このものすごい自己本位、 自我中心的な、いつもつづいている動きです。 それが、本当の問題です。 それで私は、またもやそれを解決しようとしはじめます。 私は、「問題がある。それを見つめよう」とは、けっして言いません - 「私はそれを解決しようとしていない。 それを見つめよう」と。 これらに付いてきておられるのかどうか、と思われます。いいですか? 私をして、それを問題にさせないで、初めに、それを見つめさせてください。 思考の動き全体を、見つめましょう。 また、私は、他を知らないので - おそらく私はそれを、きわめて稀に知ります。 すばやく萎れてしまう美しい花のように、です。 私は、それを幾らか知っています。 しかし、それの知識は、本物ではありません。 で、私は見ます。私は、思考に気づいています。 むしろ、「私は思考に気づいている」ではない。 思考が、それ自体に気づきはじめるのです。 これを理解しはじめておられますか。 みなさん、眠っていますか。
1:01:57 そのことは、けっして 何をも問題にしないことです。 この一つのことを、 私たちは理解できるのか、と思われます。 問題を持たない精神だけが、問題を解決できるのです。 理解されましたか。 でも、私たちは、多くの問題を持っています。 私たちは、他の問題を、解決しようとします。 それで、問題を増殖させつづけます。 で、私たちは、問題を持たないことが可能なのかどうかを、けっして自分自身に訊ねません。 でも、問題はあります。 ですが、それらに即座に出会って、それらを終了させる。 そのため、精神、頭脳は、すべての葛藤、問題より自由です。
1:03:33 「関係すべては、瞬間的であり、長続きする絆は、ないのですか」 それは、質問の一部です。すみません。 私はそれを見逃しました。 「関係すべては、瞬間的であり、長続きする絆は、ないのですか」。 あなたのいわれる「絆」とは、どういう意味ですか。 束縛ですか。 互いへ依存しあうこと、互いへ取りすがることですか。 それが、関係なるものですか。 常の長続きする絆の確立。 それが、関係なるものですか。 私は、お訊きしています。 または、関係は、何か全然違ったものですか - そこには、何も束縛がない。 そこには、何も依存がない。 それは、自由と誠実さの深く内的な感覚を、意味しています。 いいですか?この愛を持つ。 そのとき愛は、束縛を持ちません。
1:05:39 第五の質問: 「世界の葛藤、抗争への本質的な応答は、 各個人の意識における 革命である、という事実は、分かります。 しかし、これは、その全的な行為なしには、より小さいが、おそらく役立つ 他の行為すべては、無用である、という意味でしょうか」。
1:06:08 「世界の葛藤、抗争への本質的な応答は、 各個人の意識における 革命である、という事実は、分かります。 しかし、これは、その全的な行為なしには、より小さいが、おそらく役立つ 他の行為すべては、無用である、という意味でしょうか」。 さて、世界の葛藤、抗争への本質的な応答は、各個人の意識における 革命である、という事実は、分かります。 私たちが、よく気をつけて説明してきたように、 そして、この点について、明らかでないなら、私たちが、再び入れることを願っていますが、 私たちの意識は、その内容とともに、 人類すべての共通の基盤です。ですね? あなたの意識 - すなわち、あなたの教育、あなたの信念、 あなたの確信、あなたの価値、あなたの貪欲、あなたの苦しみ、 あなたの痛み、あなたの心配、不確実さ、喜び、楽しみ - は、 人類すべてに共通しています。ですね? そうではないですか。私たちは、それについて不確実ですか。 インドへ行っても、日本へ行っても、ロシア、ヨーロッパまで行っても、ここ(アメリカ)でも、 あらゆる人間は、大いなる悲しみを、経ていきます。 あらゆる人間は、物理的、心理的な、葛藤、痛みを、持っています。 けがをしています。 あらゆる人間は、不安定で、混乱し、暴力的で、楽しみを探し求めています。 それが、人の共通意識です。ですね? それは、あなたの意識と私の意識ではありません。 これを見ることは、とても困難です- この事実を見ることは、です。 なぜなら、私たちはみんな、訓練され、教育されていて、 私たちは、「私の意識は、 他のあらゆる人のより、違っている」と呼ぶことに、喜びを得るからです。 これは、そうですか。そうでないですか。 あなたは、これを受け入れないでしょう。
1:09:30 で、革命は、危機です。 その答えは、意識における全的な革命です - それは、恐れが終わること、 楽しみ - 人は果てしなくそれを追求してきました - その本性全体を理解すること、この心配、不安定、 絶望的なさびしさ、悲しみ、死の 感覚を、理解することです。 それが、私たちの意識の内容です。 その内容が、私たちの意識を作ります。ですね? 私たちは、そこから進めますか。
1:10:45 その内容から自由であることは、可能でしょうか。 私たちが多くの機会に、説明したように、 哲学者、心理学者、それらすべて人々は、言うのです - 「それは可能でない。人間の本性はけっして根本的に変容できない。 なぜなら、人類は、五百万年、一千万年、生きてきて、 ほら、彼は根本的に、変化しなかったから。 だから、ありのままを、受け入れなさい」と。 理解されますか。 「もう少しお行儀が良くなる、などなどように、 それを修正しなさい。制御しなさい。 教育しなさい」と。 「でも、その制限の中に、留まりなさい」と。 これらに付いてきておられますか。 で、冥想は、それの制限の中にある。 神、真理を探し求めることは、それの制限の中にある。 語り手のような、誰かがやってきて、 「いや、その意識を根本的に変容させることは、可能だ」と言います。 それは、初めに、あなたが残りの人類より 分離していないことを、悟らなければならない、という意味です。 あなたが人類です。 ゆえに、あなたは個人ではない。 ですね? そうね、あなたはそれが見えるなら、それはすでに革命です。 ですね?いや、見えないか・・・ それはすでに、思考の様式を、すっかり変化させたのです。 それは、あなたは世界であり、世界はあなたである、という意味です。 それはただ、理論ではなく、理想、ユートピアではない。 それは、絶対的な事実です。 ゆえに、あなたは、世界で起きつつあること すべてに対して、ひどく責任能力を持つのです。
1:14:00 しかし、これは、その全的な行為、その全的な革命なしでは、 より小さく、おそらく役立つ他の行為は、 無用である、という意味ですか。 あなた自身で、それに答えてください! 私たちはけっして、真理に向き合いません。 私たちはけっして、事実に向き合いません。 私たちは、それらを覆い隠そう、それらから逃げ去ろうとします。 ですが、あなたはそれを悟るとき、次の問いは、それ自体で答えられるのです。
1:15:01 第六の質問: 「私は、今日社会で起きつつあることに、愕然としています。 私は、その一部でありたくないと思います。 けれども、私は、自分が分離していないことを、悟ります。 社会に対する私の関係は、何ですか」。
1:15:23 「私は、今日社会で起きつつあることに、愕然としています。 私は、その一部でありたくないと思います。 けれども、私は、自分が分離していないことを、悟ります。 社会に対する私の関係は、何ですか」。
1:15:50 社会に対する、あなたの関係は、何ですか。 なぜあなたは - たいへん尊敬をこめてお訊きしていいなら - なぜあなたは、社会から、自分自身を分離しますか。 社会は、抽象なのでしょう。 社会は、人の、もう一人との関係において、人により、組み立てられています。 ですね?付いてきておられますか。 しかし、私たちは、「私は社会から分離している」と、言ってきました。 それで、私は、社会に対して、行為します。 私は社会を、変化させたいと思います - それは、何か抽象的なものです。 実際ではありません。 社会は、意見、判断、経済、政治的活動です。 そうですね?そのすべてが、「社会」と呼ばれるものの一部です。 その社会は、私たちにより、私たちの親、祖父母、その他すべてにより、 築かれています。それは、私たちにより、築かれています。 で、私たちが、それです。 これはそうです。 これもまた、もう一つの革命ですか。 社会は、私より分離していません。 私が社会です。 語り手は、共産主義者や、その種のもののどれかであるから、 これを言っているのではありません。 共産主義者は、理論として、これを主張してきました。 理論として、彼らは言ってきました - 「社会を、変化させなさい。 制御しなさい。形作りなさい。 独裁者、全体主義者になりなさい。 すると、人は変化するだろう」と。 それらの事柄は、ご存じです。 ところが、反対に、人がそれを、創り出してきました。 人が、変化するのでなければ、社会は、変化しえません - コンピューターが、そのロボットとともにやってきて、 経済社会の構造全体を、変化させるのでなければ、です。 これらに付いてきておられますか。
1:18:37 で、自らは、社会より分離していません。 自らが世界です。 それを悟られるなら、あなたはけっして、この質問をしないでしょう!
1:18:58 そのとき問題は、問いは、こうです - 私は、何をすべきでしょうか。私は、どうやって自分自身を、根本的に変容させるべきでしょうか。 それが、本当の問いなのです。 私はどうやって、永久に、自己中心的でなくすべきでしょうか - 自己中心的な活動すべてが、終わりになるのです。 私たちはけっして、これらの質問をしません。 で、あなたの暇な瞬間に、どうぞ、これらの質問をしてください。 あなたが、自分の楽しみに、自分の職務に、 誰かになりたいこと、成功に、全的に没頭しきっていないとき - そうね、その他すべてに、です - おそらくあなたは、この質問をする時間が、あるでしょう。 それを訊ねて、それとともに留まってください。見つけようとせず、 問いとともに留まり、そのとき、何が起きるかを、見てください。 なぜなら、あなたが、「私は自分自身を変化させなければならない」と言うなら、 変化を要求している人は、誰でしょうか、実体は、誰でしょうか。 それはやはり- これらを理解されますか - で、思考者は思考であることを、発見します。 思考を別にして、思考者はない。 経験を別にして、経験者はない。 分析を、分析されるものを、別にして、分析者はない。 で、あなたがそれを悟るとき、 全然違った動きが、起きています。
1:21:21 みなさんは、疲れていますか。 最後の質問。ありがたい!
1:21:28 第七の質問: 「私の中には、暴力の深い根が、あります。 私は、それが、そこに、自分の他の感情の裏にあるのを、知っています。 私は、どのようにそれを、取り扱いますか」。
1:21:42 「私の中には、暴力の深い根が、あります。 私は、それが、そこに、自分の他の感情の裏にあるのを、知っています。 私は、どのようにそれを、取り扱いますか」。
1:22:04 暴力とは、何でしょうか。 人々を撃つことですか。 それは、暴力の一部です。 他の人たちを、傷つけることですか。 それは、暴力の一部です。 戦争は、暴力の本質です - その獣性、残酷さとともに、です。 おぞましいことを、戦争はします。 怒り、憎しみ、模倣は、暴力です。 順応は、暴力です。 あなたが、これらに付いてこられるのかどうか、私は知りません。 自分自身の中で、これらに、気づいていますか - すなわち、自らがいつの時も、様式へ、理想へ、概念へ、 順応していることに、 模倣し、自分自身を他の一人と比較していること、攻撃に、です。 暴力として、これらに気づいていますか。 または、銃で誰かを殺すことだけに、ですか。 理解されますか。 あなたが、とても強く何かを信じていて、もう一人は、何かの信念について、 同等に強く信じていて、あなたは、その他者を転向させようといていて、 他者は、あなたを転向させようとしているとき、 それは、暴力ではないですか。 葛藤、抗争 - それは暴力でないですか。 宗教の名、あらゆる物事の名において、 つづいている、めまぐるしい宣伝 - それは、暴力でないですか。 そうね、あなたは暴力を、とても小さな事柄へ、制限します。
1:24:25 で、何をすべきだろうか、と質問者は訊ねます。 初めに、指摘してもよろしいなら、 その対極を、創り出さないでください- すなわち、非暴力を、です。 ですね?あなたが理解されるのか、と思われます。 あなたは、これの説明が欲しいですか。 すなわち、私は暴力的ですが、私は、訓練されてきました。 「私は暴力的であってはならない」と言うことが、私の習慣の一部です。 付いてきていますか。私は暴力的なのです。 私は、非暴力的であるとの理想を、創り出してきました。 それで、私は、葛藤を持っています。 いいですか? 暴力的であり、暴力的でありたくないことは、葛藤です。 ですね?まさにその葛藤が、暴力です。 あなたはこれが見えるのかどうか、と思われます!私たちは、疎通していますか。
1:25:44 で、初めに悟るのは、対極を創り出さないことです。 ですね? そのとき私は、対極にではなく、事実に向かい合っています。 対極は、自らの対極に、その根を持ちます。 さあ、どうぞ! で、私は、暴力の実在に、向き合っています - 「私は暴力的であってはならない」という観念に、ではない。 こちらは幻影です。 それは事実ではない。 事実は、私が暴力的である、ということです。 私たちが、事実を扱わないように、いかに訓練されてきたのか、分かりますか。 で、私は、自分が暴力的だと、悟ります。 私は、非暴力になろうとの観念を、持ちません。 それは、私の血から、完全に出て行ってしまいました。 で、私は、事実だけを扱っています。 さて、私はどのように、その事実を見つめますか。 観察される何かを見つめている、観察者として、ですか。 または、観察者自身が、暴力的ですか。 要点を得ましたか。 どうなのかと、思われます。 私たちは、一緒にここにいますか。 さあ、どうぞ!一緒にいますか。
1:27:51 「私は暴力的だ。それは、他の何かへ 変化か変容させなければならない」と言う人、実体や思考、 そして、変容者は、その暴力の一部です。 非暴力的であり、平和である、分離した実体、上位の実体は、 何もない。 理解できますか。 それもまた、もう一つの思考の創案です - 私は暴力的であるとの基本的事実から逃避するための、です。
1:28:36 で、どうぞ、これらに付いてきて、少し注意を向けてください。 あなたは、疲れているかもしれませんが、これに少し注意を向けてください。 すなわち、観察者と観察されるものとの間に、何も分割はないのです。 ですね?ただ事実だけが、ある。 ただ、事実の観察だけが、ある - 「私が事実を観察する」はない。 ですね?ただ、その反応への純粋な観察だけが、ある。 すなわち・・・過去には、その反応へ、名、言葉が、 与えられてきました。 すなわち、「暴力」です。 で、私は、その言葉はそのものでないことを、悟ります - ですが、その感じ、その反応の実際の動き、です。 私とその反応は、分離していない。 ただ反応だけがある、と。 理解されますか - これは、ごく近くで見守ることを、必要とします。 そのときあなたは、その点へ来るとき、見えるでしょう - すなわち、あなたが、事実へものすごい注意を向けているとき、 事実の注意がある。 その注意は、何かに照らされた光に、似ています。 それが、暴力を消散させます。 捉えましたか。 いえ、私から捉えたのではない。 事実を見てください。私たちがいかに欺瞞的なのかを、見てください。 それは、とても欺瞞的になる。 それは、とても不正直になる - これらは、です。
1:30:58 で、あなたが、或る主題を解消するために、時を許すとき、 その主題は、増大し、増殖します。 それは、明らかに見えて、行為する精神だけなのです。 よし。終了です。