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OJ81T2 - 生は、関係の動きである。
第2回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1981年5月3日



0:21 あなたたちは、なぜ自分がここにいるのか、 なぜ自分が、このような、うるわしい朝に来たのかを、知っておられる、と私は思います。 私たちは、昨日、話していたことを、継続してもいいですか。
0:58 もう一度指摘してもよろしければ、 私たちは、どの種の宣伝をも、していません - どの観念のため、信念のため、集団や概念などのためにも、です。 私たちがともにしているのは、 世界で起きつつあることを、観察することです - 私たちの外側の世界にだけではなく、 また内的に、心理的にも、です。 ただ観察する。 その観察から、どんな結論をも引き出さない。 それから抽象して、観念にしない。 どんな先入観もなく、観察する - どんな特定の哲学や宗教や、 フロイトなどの心理学的な結論にも、参与せずに、です。 ただ観察する。 それは、一定の自由、一定の敏感な気づきを、必要とします。 そして、そう観察するなら、 世界中で、大変多くの暴力が、あります。 通りは、危険になりつつあります。 民族的、国家的、宗教的、分派的な分割が、あります。 究極的に、怖ろしい破壊をともなった 核爆弾が、あります。 コンピューターとロボットが、あります。 それらはたぶん、人類の活動すべてに、取って代わろうとしています。 全般的に、世界中で、 退廃が起きています。 もしそれを間近で観察するなら、 外的な世界で起きていることは、 私たち人一人に、内的に起きつつあることの結果です。 私たちが、この社会を創り出してきました - 私たちの親、祖父母、過去の世代、 世代に継ぐ世代が、です。 私たちは、それへ付け加えています。 社会は、何かふしぎな出来事により、創り出された何かではありません。 それは、世界中で、人間たちにより、創り出されています。
5:27 危機は、政治に、政府にはありません - それが全体主義的でも、いわゆる民主主義的でも、です。 危機は、科学者の中にも、 既成の体裁よい宗教の中にも、ありません。 私たちは昨日、これらを言いました。 危機は、私たちの意識にある - すなわち、私たちの精神に、 私たちの心に、私たちの振るまいに、私たちの関係に、あるのです。 危機は、十分に理解できないし、おそらく全的に応えられません - 私たちが、意識におけるこの危機の 本性と構造を、理解するのでなければ、です。 それは、思考により、組み立てられています。 私たちは、昨日言ったことを、反復しています。 なぜなら、おそらく(今日)、日曜日の朝に来た人々が、幾らかいるからです。 で、私は再び、それを反復しなくてはいけません。
7:22 どうぞ、私は指摘したいと思いますが、これは、娯楽ではありません - 知的、ロマンチック、情動的、扇情的ではありません。 私たちは、かなり真剣です。 あなたもまた、そもそも真剣であるなら、 私たちはともに、この危機の本性を、探検できるのです。 それは、他のどこかの危機ではありません。 それは、私たちの精神に、 私たちの一人一人の精神に、私たちの心に、 私たちの互いとの関係に、あるのです。 危機は、私たちが言いましたように、私たちの意識にあります。 この意識は、人類すべてに、共通しています。 どこへ行こうとも、人は、苦しんでいます。不安定で、 不安全で、さびしく、神経症的で、憂鬱で、 昂揚し、次から次へ流行り物を追いかけます - 特に、世界のこの地方(アメリカ)では、です。 この危機は、思考により、もたらされています。 思考が、私たちの意識の内容を、組み立ててきました。 どうぞ、またもや、きわめて明らかに指摘してもよろしいなら、 私たちは、説明していません。 私たちは、ともに観察しています。 語り手は、教師ではありません。 教師はありません - 数学において以外には、 または、あなたが良い大工になりたいのでないなら、です。 しかし、心理の世界に、教師はないし、 弟子はありません。 指導者も、従う者もないのです。 私たちはともに、人の本性を、観察しています - 人に何が起きてきたのか、 なぜ私たちは、私たちが今あるようなのか。 暴力的で、神経症的で、 さびしく、ひどく不安定で、混乱しているのか。 この混乱に - 哲学者たちは、それに付け加えています。 宗教的な人々は、それに付け加えています。 福音主義者、学者なども、です。
11:17 で、私たちは、自身の精神の状態を、学んでいます。または、観察しています。 それが、真の教育が始まるところです- 自己教育です。 私たちは、自分自身について、他の人たちから、あまりに多く学んできました。 私たちはいつも、他の人たちに、導いてくれるよう、頼っています - 外的にだけではなく、 特に心理的な領域で、内的に、です。 どんな紛糾、どんな動揺でもあると、 私たちは即時に、誰かそれを晴らすのを助けてくれるだろう人を、追いかけます。 私たちは、制度、施設に、中毒しています。 私たちは、組織に中毒しています - それらが、私たちの問題を、落着させるだろう、 私たち自身の精神を、明瞭にするのを、助けてくれるだろう、と望むのです。 で、私たちはいつも、誰かに依存しています。 依存は必然的に、腐敗をもたらすでしょう。 で、ここで私たちは、誰にも依存していません- 語り手を含めて、です。 特に、語り手に対しては、です。 なぜなら、特定の方向で考えるよう、あなたを説得しよう、 空想的な言葉と理論により、 あなたを刺激しようとする意図は、ないからです。 むしろ、世界で実際に起きていることと、 内の混乱すべてを、観察する。
13:48 その観察において、観察されるものを、 観念へ抽象化するのではない。 どうぞ、この点について、きわめて明らかにしてください。 私たちがあれを、樹を観察するとき、 「樹」という言葉は、抽象です。 それは樹ではない。ですね? それが明らかであってほしいと、願っています。 その言葉、説明、叙述は、 実際ではない。「有るもの」ではない。 で、私たちは始まりから、この点について、きわめて明らかでなければなりません。 私たちは実際に、世界において、そして、私たち自身の意識において深く、 つづいていることを、観察するとき、 その観察は、清浄に、直接的に、明晰に、留まれます - 観察されるものの、観念への抽象化がないとき、です。 私たちのほとんどは、観念とともに生きます - それらは、実際ではありません。 観念のみが、重要になるのです - 実際に有るものではなくて、です。 哲学者は、様々な意味で、「観念」を、使います - アリストテレス流の人、 様々な哲学者は、観念を自らの特定のさまで、使ってきました。 しかし、私たちは、観念を扱っていません。 私たちは、起きつつあることの観察のみに、関心を持っています - 理論的にではなく、実際に、です。 特定の思考の様式に沿って、ではなく、 「有るもの」です。 「有るもの」のその観察の中、それを、きわめて明らかにするのです。 「有るもの」の、観念への抽象化は、 さらなる混乱だけを、もたらします。 これが明らかであってほしいと、願っています。
16:53 私たちが言いましたように、危機は、私たちの意識に、あるのです。 その意識は、人類すべての共通の基盤です。 それは、特定の意識ではない。 それは、あなたの意識ではない。 それは、人の、人間の意識です。 なぜなら、どこへ行こうとも、極東、中東、 極西、中西部 - 世界中で、 人、人間は苦しむからです。 痛みを持ち、 深い不安定性、さびしさ、 全くの絶望に生き、 様々な空想的な宗教的概念に、捕らわれているからです - 実際には、いかなる意味をも持たない概念に、です。 で、これは、人類すべてに、共通しています。 どうぞ、これを、きわめて明らかに、見てください。 それは、あなたの意識ではありません。 それは、人間たちすべての意識です - こんな苦労、悲惨、葛藤を経てゆき、自分自身を何かと 同一視したがっている、人間たちすべての(意識)、です。 国家、民族と、宗教的な人物と、概念と、同一視したいのです。
18:50 この意識は、人類すべてに共通しています。 どうぞ、これの意義を、掴んでください。 なぜなら、これを理解することは、とても重要であるからです。 なぜなら、私たちは自分自身を、個々人として分離してきたからです - 私たちは実際には、個ではありません。 私たちは、百万年の結果です。 それら百万年に、私たちは奨励されてきました。 私たちは、個人の観念を、受け入れてきました - 観念を、です。 実際に、近くで観察するとき、 あなたは個人ではありません。 あなたは、残りに似ています - 心理的に、残りの人類に、です。 これは、知覚するのが、とても困難なことです。 なぜなら、私たちのほとんどは、この観念に、縋りつくからです - すなわち、私たちはみんな、分離した個々人であり、 自分の私的な野心、貪欲、妬み、 苦しみ、さびしさをともなっている、との観念に、です。 しかし、あなたが観察するとき、これは、あらゆる人がやっていることです。 個人としての概念は、私たちを、はるかに利己的に、自己中心的に、 神経症的に、競争好きにするのです。 それで、競争もまた、人を破壊しつつあるのです。 で、世界はあなたです。あなたは世界です。 それは、驚くべき感じです - あなたが本当にそれを理解するなら、です。 そこには、知覚の大いなる活力が、ある。 そこには、無量の美しさがある - 絵画、詩歌や、愛くるしい顔の、単なる美しさではない。 私たちは世界である、その世界はあなた、私である、ということに、です。
21:57 世界のこの地方(アメリカ)では、自由は誤用されています - 残りの世界でのように、です。 なぜなら、一人一人が、充足したい、ありたい、なりたいと思うからです。 ゆえに、私たちの意識の内容は、 この常なる格闘です - あろう、なろう、 成功しよう、権力を持とう、 地位を持とう、身分を持とうとの格闘です。 それは、あなたが、お金や、特定方向での才能や能力を 持っているなら、得られるだけです。 で、能力、才能は、個人性を奨励します。 しかし、あなたが観察するなら、その個人性は、思考により、組み立てられています。
23:10 で、これらを観察すると、危機は、思考のまさに本性に、あるのです。 私たちは昨日、それに短く入りました。 私たちは、よく気をつけて、再びそれに入るでしょう。 外的な世界と内的な世界は、思考により、組み立てられています。 思考は、物質的な過程です。 思考は、原子爆弾、(スペース・)シャトル、 コンピューター、ロボットと 武器のすべてを、築いてきました。 思考はまた、すばらしい大聖堂、教会と、 それら大聖堂と教会の内容すべてをも、築いてきました。 思考の動きには、いかなる神聖なものも、ない。 思考が象徴として創り出してきたものを、あなたは崇拝しますが、 それは、神聖ではありません。 それは、思考により、そこに置かれています。 儀式、すべての宗教的な分割と、 国家的、民族的な分割は、思考の結果です。 どうぞ、それをごく近くで、見つめてください。 私たちは、説得したり、非難したり、奨励したりしていません。 私たちは、ただ観察しています。 これは事実です。
25:12 で、危機は、思考のまさしく本性に、あるのです。 私たちが昨日、言いましたように、 思考は、諸感覚の起源、 感覚的応答、経験、 何かとの出会いの結果です - それは、知識として、記憶として、記録されます。 その記憶から、思考が生じます。 これが、数百万年に数百万年の間、 思考の過程と本性であったのです。 すべての文化は、紀元前五千年の古代エジプトからと、 それ以前にも、思考に基づいています。 思考は、外側と内側に、この混乱を、創り出してきました。 どうぞ、それをあなた自身で、観察してください。私は、あなたに教えていません。 私は説明していません。 語り手は単に、自らが観察してきたことを 伝達するために、言葉に表しているだけです。 しかし、あなたが観察しています。 私が、ではない。語り手が、ではない。 私たちはどちらも、思考の本性と構造を、観察しています。 すなわち、感覚的反応、経験- あなたは何かと出会う。 それが、経験です。 その経験は、知識として記録されます。 その知識が、記憶になります。 その記憶が、思考として行為します。 で、その行為から、あなたは、もっと多くを学び、もっと多くの知識を、蓄積します。 で、人は、数百万年に数百万年もの間、この過程の中で、生きてきました。 経験、知識、記憶、思考、行為- この連鎖の中で、です。 私たちは、これがきわめて明らかに見えるのかどうか、と思われます。
28:19 私たちは、知識にものすごい重要性を、与えてきました。 すべての大学、すべての科学的知識、 経験をとおして自分自身で取得してきた知識ばかりが、 重要になるのです。 しかし、知識は、けっして完全ではありません。 けっして、です。 それが、科学的な知識でも、 大工の知識でも、主婦の知識でも、 導師や司祭者のいわゆる知識でも、です。 啓示はありません。 ただ、開示する思考だけです。
29:15 で、私たちの危機は、思考のまさしく本性に、あるのです。 これが明らかであることを、願っています。 そのときあなたは、言うでしょう - 「私たちはどうやって、知識なく、思考なく、行為できるのか」と。 それが論点ではありません。 初めに、思考の本性を観察してください - きわめて明らかに、 何の先入観もなく、方向づけもなく、ただ「それはそのようなものだ」と。 で、私たちの頭脳は、この循環 - 経験、知識、記憶、 行為、記憶、より多くの知識 - の中に生きていて、 諸問題を、持っています。なぜなら、知識はいつも、制限されているからです。 で、私たちの頭脳は、問題を解消するよう、訓練されています。 それは、問題解消の頭脳です。 それはけっして、問題から自由ではありません。 あなたが、二つの間の区別が見えることを、願っています。 私たちの頭脳は、諸問題を解消するよう、訓練されてきました - 科学的な世界においても、心理学の世界においても、 関係の世界においても、です。 問題は生じます。私たちはそれらを解決しようとします。 解決はいつも、知識の分野の中にある。 ですね?(一旦中断。再開後) 知識はいつも不完全です。 これは事実です。 頭脳は、問題を解決するよう、慣習づけられ、訓練されます。 それは、問題解決の頭脳です。
31:53 (一旦中断。再開後)他の何かを見つめましょう。 すなわち、美しさとは何でしょうか。 なぜなら、世界には、ほとんど美しさがないからです - 自然を別として、です。 丘、木立、川、鳥、 大地の物事を別として、 なぜ、私たちの生には、ほとんど美しさが、ないのでしょうか。 私たちは美術館へ行き、絵画、彫像を見ます。 人が作ってきた、とてつもない物事 - 詩歌、文学、壮大な建築。 ですが、私たちが内を見るとき、ほとんど美しさがない。 私たちは、美しい顔がほしい。それらに塗り、覆います。しかし内的に、 私たちは再び観察しています。 それを拒否したり、受け入れたりしていません。 美しさ、静けさ、威厳の感覚が、ほとんどないのです。 なぜでしょう。 なぜ人は、このようになったのでしょうか。 人間たちはなぜ、他の方向すべてでは利巧で、博識であり、 月へ行き、 あそこへ布きれを立てたり、 すばらしい機械を創り出しているのに、 私たちのみんなは、なぜ今ある私たちに、なったのでしょうか - 低俗で、騒がしく、凡庸で、 小さな経歴について虚栄に満ち、 自分の小さな知識をめぐって傲慢である- なぜでしょう。 人類に何が、起きてきたのでしょうか。 あなたに何が、起きてきたのでしょうか。
35:05 私は、これが危機である、と思います。 私たちはそれを回避します。私たちは、自分自身を明らかに見つめたくないのです。 自己教育は、英知の始まりです - 書物においてではなく、他の誰かにおいてではなく、 私たち自身の利己的な、狭い、歪曲された活動を、 理解することにおいて、です - 来る日も来る日も来る日も、つづいている活動を、です。 私たちが言いましたように、危機は、私たちの心と精神に、私たちの頭脳に、ある。 知識はいつも制限されているし、 私たちはいつもその分野の中で、行為しているので、 永久に葛藤が、知識の競技場にある。 よろしいですか。これは、明らかに理解されなければなりません。 私たちは、問題を解決しようとします - 政治的、宗教的なもの、個人的な関係などを、です。 これら問題は、けっして解決されません。 あなたは、一つの問題を解決しようとします。 その問題のまさしく解決こそが、他の問題をもたらします - それが、政治の世界で起きつつあります。 それで、あなたは信仰へ、信念へ向かいます。 信念が、頭脳の萎縮をもたらすことを、 あなたが観察されたのかどうか、私は知りません。 それを見つめてください。観察してください。 常なる主張、「私は神を信じている」、 「私はこれを信じている」、「私はあれを信じている」。 それの反復 - それが、教会で、大聖堂で、寺院で、 モスクで、起きつつあることです - 頭脳に栄養を、与えていないで、それを次第に、萎縮させています。 信念に、人物に、観念に執着している人物のように、 その執着には、葛藤、恐れ、 嫉妬、心配があるのです。 それは、頭脳の萎縮の一部です- この常なる反復は。 「私はアメリカ人だ」、「私はイギリス人だ」、「ヒンドゥーだ」 - それら民族主義的な戯言です。 観察するなら、それの反復は、 頭脳への栄養の不足を、もたらします。 それで頭脳は、ますます鈍くなる。 ただ一人の救い主がいる、ただブッダ、キリスト、あれやこれやがいると、 反復し、反復し、反復する人々を、 あなたは、観察したにちがいないですが、
39:15 あなたは、自分自身を観察するなら、 信念へのこの執着は、安全でありたいとの 欲望の一部であることが、分かるでしょう。 そして、安全、どの形でも 心理的安全への欲望と欲求は、 頭脳のこの萎縮をもたらすことが、です。 そこから、あらゆる種類の神経症的な振るまいが、生じます。 私たちのほとんどは、むしろ、これを拒絶します。 なぜなら、これを観察することに、あまりに怯えてしまうからです。 それが、凡庸さのまさしく本性です。 あなたが、或る導師へ、或る司祭者へ、或る教会へ行き、 反復し、反復し、反復するとき - あなたの冥想は、一つの形のその反復です。 その反復には、安全、安心感がある。 で、次第にあなたの頭脳は、萎縮し、萎みます。 それは小さくなる。 あなた自身で、これを見守ってください。 私たちは、あなたに教えていません。 あなたは、自らの生において、それを観察できます。 しかし、危機へのこの観察・・・ 私たちの精神と心にあり、私たちの意識にある危機は、 いつも葛藤を、もたらしています。なぜなら、私たちは、他の諸問題を持つことなく、 けっして、唯一つの問題をも、完全に解決することができないからです。 で、私たちに起きつつあることを、見てください - 問題に次ぐ問題、 危機に次ぐ危機、不安定に次ぐ不安定、です。
41:55 で、頭脳は、精神は、いったい問題から、自由でありうるでしょうか。 どうぞ、これを訊ねてください。 これは、自分自身に訊ねなければならない、根源的な問いなのです。 しかし、頭脳は、問題を解決するよう、こんなに訓練されています。 それは、問題から自由であるとはどういう意味かを、理解できません。 自由であると、それは問題を解消できますが、 逆にではない。どうですか・・・
42:50 で、問いはこうです - 私たちの意識のこの危機 - その危機は、思考により、もたらされています。 思考は、いつも不完全なので、 思考はけっして、問題を解決できません。 それは、問題を増加させたり、多様化させたりできます。
43:29 これがきわめて明らかであるなら、探究しはじめます - 頭脳を問題すべてから自由にし、 そのため、問題に応えられるようにするであろう、もう一つの 道具が、あるのかどうか、です。 違いが分かりますか。 問題に応えられ、それらを即時に解消できるのは、 問題を持たない自由な精神、自由な頭脳だけなのです。 しかし、問題の解決へ訓練されている頭脳 - そういう頭脳は、いつも、葛藤の中にいるでしょう。 そのとき、問いが生じます - 葛藤から自由であることは、どうして可能でしょうか。 そういうわけで、私たちは言ったのです - 思考は、私たちの問題を創り出している道具である、と。
44:52 それを、もう一つの方向で、ごく間近で見つめてください。 私たちは関係に、問題を持っています - 男と女の間や、 男と男の間、同性愛 - この国(アメリカ)には、ますます多く・・・ それは他の国々に存在しない、ということではないが、 ここでは、そうなりつつある。 それについては、すっかりご存知です。 それを、ごく間近で見つめてください。観察してください。 それを変化させようとせず、それを方向づけようとせず、 「それはこのようであってはならない」とか、「それはあのようでなければならない」とか、 「私がそれを乗り越えるのを、助けてくれ」とか言わずに、ただ観察する。 あなたは、あの山の線を、変化させられません。 または、鳥が飛ぶのや、水の速い流れをも、です。 あなたは、ただそれを観察する。 それの美しさを見る。 しかし、あなたが観察して、 「あれは、昨日私が見た山ほど、美しくない」と言うなら、 あなたは、観察していません。 単に比較しているだけです。
46:24 それで、この関係の問いを、ごく近くで観察しましょう。 関係が生です。 関係なしに、自らは存在できません。 あなたは、関係を拒否するかもしれません。 関係より引き下がるかもしれません。 なぜなら、それは怯えさせるからです。 そこには、葛藤、傷があるからです。 で、私たちのほとんどは、関係において、自分自身のまわりに、壁を築きます。 で、ごく近くで見つめましょう。 観察する。学ぶのではない。 学ぶべきことは、何もない。 ただ観察するのです。 それの美しさが、見えますか。 なぜなら、私たちはいつも学びたい、 それを知識の範疇へ入れたいからです。 そのとき私たちは、安心を感じます。 ところが、あなたが、観察するなら - 何も方向づけなく、 動機なく、思考の干渉なく、 ただ観察する。視覚的に裸眼でもって、だけではなく、 また、自由であって観察できる精神と心と頭脳でもって、 何の先入観もなく、です。 そのとき、あなたは自分自身で、関係の美しさを、発見します。 しかし、私たちは、その美しさを持っていません。 で、近くでそれを、見つめましょう。 関係とは何でしょうか。 関係していること。 血縁関係ではなくて、 他の一人へ関係していること。 私たちはいったい、他の一人に関係していますか - おそらく性的にとか、手を取る以外に、です。 心理的に、内的に、深く、 私たちはいったい、誰かに関係していますか。 または、私たちは、深く関係したいのです。 私たちは、それがどうして起きうるのかを、知りません。 で、私たちの、他の一人との関係は、涙で満ちています - 時折の喜び、時折の楽しみと、 性的な楽しみの反復、です。
49:41 で、あなたが観察するなら、 私たちは、そもそも誰かに関係していますか。 または、私たちは、他の一人に、思考をとおして、イメージをとおして、 関係していますか - 思考が、あなたの夫と妻について 築いてきたイメージ、 あなたが彼女や彼について、持っているイメージをとおして、です。明白です。 で、私たちの関係は、あなたが彼女について持っているイメージ、 彼女があなたについて持っているイメージの間に、ある。 一人一人が、このイメージを持ち運んでいます。 一人一人が、自分の方向へ進みます - 野心、貪欲、妬み、競争。 権力、地位を探し求める。 関係に何が起きつつあるかを、ご存じですね - 一人一人が、反対方向へ動いている。 または、おそらく平行であり、 けっして出会わない。 なぜなら、これが、現代文明であるから、 これが、あなたたちが世界へ提供しているものであるからです。 それで、常に闘争、葛藤、離婚、 いわゆる連れ合いの交替が、ある。 何が起きつつあるのかは、ご存じです。
51:46 で、これらを観察するとき、なかなか怯えてしまいます。 これが自由と呼ばれています。 で、あなたが事実を観察するとき - あなたがごく近くで、何の動機もなく、 方向づけもなく、事実を観察するなら - 事実は、変化しはじめます。 なぜなら、あなたは、観察するよう、完全な注意を注ぎつつあるからです。 これに付いてきていますか。 あなたは、何かに完全な注意を注ぐとき、 その主題へ、いわば光を照らします。 そのとき、その光が明瞭にします。 その明瞭化が、有るものを、解消させます。 これらを理解されますか。 私たちは、ここで互いに出会っていますか。 事実はこうです。 イメージが、ある - 二十日、三十日、五日とか十年の間に 思考が創り出してきたイメージ、です。 彼女は、相手は、イメージを持っています。 一人一人が、野心的で、貪欲であり、 性的に、このように、あのように充足したい。 そうですね、このいわゆる関係において、つづいている騒動すべて、です。 そして、それへの観察。それの純粋な観察。 神経症的な事柄すべてが始まるのは、 あなたが、それから逃避したいときだけなのです。 そのときあなたは、心理学者すべてを、持つ - あなたをもっと神経症にするのを助ける人たちを、です。 問題に向き合ってください。 それを見つめ、 それへ全的な注意を注いでください。 あなたが、完全な注意を注ぐとき - あなたの心でもって、頭脳でもって、神経でもって、 持てる物事すべて、 エネルギーすべてでもって、見るように、です - そのとき、その注意深い観察には、明瞭化がある。 明瞭であるものは、何も問題を持ちません。 そのとき関係は、何か全面的に違ったものになる。
55:07 で、生は、私たちのほとんどにとって、尋常でない問題になりつつあります。 なぜなら、生は関係であるからです。 私たちは関係していないなら- 現にそうでないように、です - そこから、他のあらゆる問題、すべての問題が、生じます。 私たちは、関係の欠如から生まれる社会を、 創り出してきました。 共産主義者、社会主義者、民主主義者、政治家たちは、 社会の本性、構造を、変化させようとしています。 基本的な問いは、他の一人と正しい関係を、持つことです。 あなたは、一人の人物とそれを持つなら、あらゆる人と、それを持つ - 自然と、大地の美しさの物事すべてと、です。
56:27 それで、戻って、再び、とても深く探究しなくてはいけません - なぜ思考は、私たちの生に、この荒廃を創り出してきたのか。 なぜなら、私の妻と私自身、私と他の一人について、 このイメージを組み立ててきたのは、思考であるからです。 あなたは、それを解消し、それを見つめるのでなければ、これから逃避できません - 教会へ行く、祈り。 それらはすべて、あまりに子どもっぽく、 全く未熟です。 なぜなら、それらはどの問題をも、解決したことがないからです。 はるか遠くへ行くには、ごく近くで始めなければなりません。 ごく近くで始めることが、私たちの、他の一人との関係を、観察することです - それが何であっても、です。 あなたの上司と、あなたの・・・と。 あなたが、大工であるなら、大工の名匠であるなら、 親方であるなら、労働者であるなら、 あなたの妻と、夫と、それらと、です。 生は、関係における動きです。 私たちは、思考により、その関係を破壊してきました。 思考は、愛ではありません。 思考は・・・ 愛は、楽しみではありません。 それは、欲望ではありません。 しかし、私たちは、あらゆる物事をそれへ還元してきました。 私たちは、次の土曜日と日曜日、それらに入るでしょう。 ですが、明後日、火曜日と、木曜日には、 質問を受けるでしょう。 終了しました。