Krishnamurti Subtitles home


OJ81T3 - 思考は、正しい行為をもたらせるのか。
第3回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1981年5月9日



0:20 私たちがここ二回の講話の間に言ってきたことを、 短く反復することが、必要なのかもしれません。 私たちは、これは宣伝でないことを、言っていました - 観念の、或る種の信念の、または、 何か哲学的結論の宣伝ではない。 また、一般的にその言葉により受け入れられた、何か宗教(の宣伝)でもない、と。 私たちは、世の中で起きつつあることを、 ともに観察しようとしています。 それは、語り手が押し出している 特定の視点とか、 個人的な回想、経験と それらの種類の戯言ではありません。 私たちは一緒です。語り手は本気で、一緒に、ともに、と言っています。 明らかに観察する - どの先入観もなく、 自分自身を、世界のどの特定部分とも、 どの信念、宗教的教義などとも、同一視せずに、です。 世の中で、つづいている甚大な暴力を、観察する - 戦争、原子爆弾の脅威、 宗教的な分割、国家的、民族的な分離 およびその軍備などを、です。 私たちがそこに生きているのは、とても危険な世界です。 残念ながら、ほとんどの人々は、世界中でつづいている 甚大な堕落、退廃を、悟りません - 世界のこの部分で、だけではなく、あらゆるところで、です。 私たちは、これら問題を、政治的に、経済的に、社会的に、 または福音主義的に、解決しようとしています - もちろんそれは、もっともっと多くの混乱、 もっともっと多くの分離、 もっと大きな分割と、ゆえに、もっと大きな葛藤を、もたらします。
3:55 私たちは、政治も、また既成の宗教も、また科学的な知識も、 私たちの問題を解決しようとしていないことを、言いました - また心理学者も、司祭者も、専門家も、そうです。 危機は、私たちの意識にある。 すなわち、私たちの精神に、私たちの心に、 私たちの振るまいに、ある。 狭い制限された視点からの 私たちの世界への見方に、ある。 それが、危機があるところです。
4:52 ともに私たちは、それが人間の精神にとって、そもそも可能なのかどうかを、 ともに探検しよう、究明しようとしています - その精神は、何百万年に何百万年もかけて進化してきて、 時と進化により条件づけられてきましたが、 そういう精神、制限された、条件づけられたそういう頭脳・・・ 見たところ、制限されていて、 狭く、排他的なこの意識・・・ 現在の世界において、その危機をもったその意識は、 いったい変化できるのか、その条件づけにいったい、 根本的な変異をもたらせるのかどうか、です。
6:03 私たちはまた、この意識は全く誤っていることをも、言いました - 私たちが自分自身を、私のとあなたのとして、 同一視してきたところの意識は、です。 なぜなら、私たちの意識は、人類の意識であるからです。 人は、どこにいようとも- もちろん女も含まれます - どこにいようとも、日本、インド、中東、ヨーロッパやここ(アメリカ)でも、 人は、常に苦労の中、葛藤の中にいます。 恐れのどの問題をも、けっして解消せず、 果てしない楽しみを追求し、 悲しみ、痛み、嘆き、さびしさの問題を、けっして解消しないで、です。 このさびしさ、嘆き、痛み、悲しさは、 時折の喜びと愛の閃きとともに、人類すべてに共通しています。 それは、明白な心理的な事実ですが、 私たちのほとんどは、それを見るのを、躊躇します。 なぜなら、私たちは、自分の特定の意識と、自分の特定の嘆きと、 自分の特定の楽しさなどと、 あまりに同一視されているからです。 しかし、実際の心理的な事実は、 あなたが敏感な気づきをもって、注意深く観察するなら、 世界中で、人間たちはまさしく、 あなたが経ていっていることを、経てゆく、ということです - - 彼らが、北や南、東や西に生きていても、です。 で、この意識は、人類すべてに共通しています。 指摘してもよろしければ、これは明らかに理解されるべきだ、と私は思います。 それに、矛盾はありません。 それは、何か或る視点、 何か語り手が創案したことではありません。 心理的には、あなたが、個人的にでなく、 とても深く、客観的に検討するとき、 これが、人類すべての共通の基盤であることが、見つかります。 これは聞きたくないかもしれません。 なぜなら、私たちはみんな、自分は個人であり、他のあらゆる人より 分離していると考えるからです - 自分自身を何かと同一視しようとし、 充足しようとし、何かになろうとしています。 すべて、個人主義的で、狭く、制限されています。 しかし、心理的な事実は、私たちは個人ではない、ということです。 あなたは、集合的なものです。 私たちは、数百万年に数百万年もの結果です。 私たちの意識は、人類すべての共通の意識です。 あなたの意識は、人の意識です。 私たちはこれを、きわめて明らかに理解しないなら、 究明を明らかに、継続しなくなりがちです。
10:32 どこに生きていようとも、世界では、 この個人性の感覚が、強調されてきました。 宗教は、それを維持してきました。 教育は、それを維持してきました。 この仮定上の個人的自由は、 世界にとてつもない混沌を、もたらしてきました - それは事実です。 それはまたもや、一定の結論や、 語り手の視点ではありません。 しかし、これは明らかに見られます。 私たちは、自分たちは選択できるから、自由である、と考えます。 選択は、不確実性、明瞭さの欠如を、含意しています。 明瞭さがあるところ - それは、葛藤がないとき、訪れうるのみです。 そういう明瞭さに、何も選択はありません。 それは明らかです。 選択をしはじめるのは、曖昧模糊とし、 混乱し、不確実である精神だけです。 またもや、どうか、私たちが進むにつれて、これを究明してください。 お願いしてもよろしいなら、私たちは、法を定めていません。 私たちはあなたを、どこへも導いていません。 私たちは、しようとしている、というより、むしろ、実際に一緒に考えています - 受け入れるのではなく、従うのではなくて、です。 心霊(スピリット)の事柄、 深い心理的な究明においては、 誰かに従うとの感覚すべてより、自由でなければなりません。 その領域の中へは、導き手や案内人はない。 自らが何であるのかを、自分自身できわめて明らかに、見守り、観察し、見えなくてはいけません - どの哲学者、どの心理療法者や 心理学者に沿って、でもない。 彼らもまた、人間です。 彼らもまた、痛み、悲しみ、心配、不確実さ、 絶望的なさびしさなどを、経てゆきます。 で、彼らもまた、この混乱の一部です。 彼らもまた、この共通の意識を、持っています。
14:02 この実際の事実を悟るなら - 他の一人からや、語り手から課されたのではなく、 あなた自身が、明らかに、客観的に、 非個人的、非情動的に、観察すると、これは、共通の事実です - 心理的に、私たちは、残りの人類であるのです。 あなたは、違った身体を持っていて、女、男かもしれません。 あなたのほうが、白い肌をしていて、もう一人のほうが浅黒く、目尻がつり上がっているなどかもしれません。 しかし、内的に、深く私たちは、残りの人と 同じ現象を、経てゆきます。 これは論理的です。 これは合理的です。これは全うです。 これをきわめて深く理解し、この事実を知覚するなら、 何であれ、世界で起きつつあることへ、私たちは、 全的に(対応できる)責任が、あるのです。
15:23 どうか、これらの講話の深刻さを、理解してください。 これは、娯楽、面白いこと、知的な概念や 雄弁な演説ではありません。 私たちは、何かひどく深刻なことを、扱っています。 なぜなら、世界中の人間たちは、退廃しつつあり、 自分自身を破壊しつつあるからです。
16:05 私たちが言いましたように、これは共通の要因です。 ゆえに、何であれ、世界で起きつつあることへ、 私たちは、全的に、絶対的に(対応できる)責任があるのです。 私たちは、民族主義的、国粋主義的であり、 世界で一番の国でありたいから、 戦争、競争を創り出しています。 競争は、人々を破壊しています。 で、私たちは、何か怖ろしく深刻なことについて、話しています。
17:00 他のどこでもなく、この意識に、 危機がありますが、その意識は、 思考により組み立てられています。 私たちの意識は、 その内容とともに、思考の産物です。 すなわち、思考は、西洋世界では 宗教的に、二千年の宣伝を受け入れてきました。 東洋世界では、思考は、西洋と同じく、イメージ(像)、 一定の儀式、一定の象徴を、創り出しました。 その思考は、その宗教的、迷信的、教義的な信念、信仰などとともに・・・ それは、思考により、組み立てられています。 またもやこれは、反駁できません。 これは合理的です。 理性の制限は分かりますが、 とても明らかに推理できる能力を、持たなければなりません。
18:34 で、思考は、この世界を築いてきました - テクノロジーの世界とともに、心理的なものをも、です。 思考は、男と女の間の 関係を、もたらしてきました。 その関係には、大変多くの葛藤があります。 私たちは、数多くの年の間、これを言ってきました。 私たちはともに追求し、究明しています。 どうぞ、この点は明らかであってください- お気になさらないなら、です。 私たちは一緒です。 語り手が探検し、説明し、 言葉に表しているのではない。 ともに、あなたと語り手は、 探検しています。なぜ人は - 教育を受け、洗練され、 利巧で、問題を解決しているとされていますが - なぜ人は、幾百万年の後、この点に到ったのか、です。 人は、内でも外でも、永続的な葛藤の中にいます。 人は、混乱していて、神経症的で、 何か実在しないものを信じ、 一定の概念と理想に 取りすがります - そのために進んで殺そうとします。 これが、時、進化の過程であったのかもしれません - それが、私たちをこの点まで、連れてきたのです。 哲学者と他の人たちは、こう言います - 「あなたは、人間の条件づけを受け入れなければならない。 あなたは、自分のあるがままを、受け入れなければならない。 あなたは、それを修正できる。 幾らか表面的に変化させられる。 しかし深く、自分の存在のまさしく深みでは、 この条件づけが、根本的に 変化させられることは、可能でない。 ゆえに、修正し、できるだけ良く生きなさい。 この世界をできるだけ、役立てなさい。 どれほど自分が悲惨でも、 それを受け入れて、あまりに多くの葛藤なしに、 その区域の中で生きようとしなさい」と。 しかし、私たちは、この条件づけ、 意識の中のこの危機は、 根本的な変容を、もたらしうる、と言っています。 どうぞ、私たちが言いましたように、語り手が言っていることを、 受け入れないで、それを究明し、それについてよく考え、観察してください。
22:10 また、語り手は言います - 誰にも従わないでください。 特に、精神・心理の領域では、です。 インドの導師にも、西洋化された導師にも、 これらの人々が創案してきた、いわゆる冥想 - 古い形を取って、それを新しい言葉に表したものにも、です。 人々は、全体としてだまされやすく、 どこかの場所で安全でありたいので、 たやすくこれらの戯言を、受け入れます。 で、どうぞ - 語り手はそれを、何度も何度も反復しますが - 語り手に影響されないでください。 語り手に同意しないで、 彼に影響されないで、 世界を実際に、ありのままに観察してください。 どの方向づけもなく、どの動機もなく、どの先入観もなく、 それを観察してください。見てください。
23:45 この意識は、私たちが言いましたように、思考により組み立てられています。 思考は、物質的な過程です。 思考は、すばらしい建築物、ビルディングを、建ててきました - 最も美しい建築物、絵画、詩歌、彫像を、です。 しかし、思考は、自然を創り出していません。 ですが、思考は、自然を破壊できます。 思考は、虎を作っていません - あの美しいダイナミックな動物を、です。 思考は、川、山、天空を、作っていません。 ですが、思考は、それらを略奪できます。 で、思考の本性を、明らかに理解しなければなりません。 なぜなら、思考が、私たちの意識の内容を、組み立ててきたからです。 危機はそこにあるので、 思考は、よく気をつけて究明されなければなりません - 考えるとは、何なのか。 なぜなら、私たちの行為すべては、考えることに、基づいているからです。 すなわち、私たちの行為は、知識の中から、経験の中から、 生まれます - 頭脳に蓄えられた、 蓄積された知識と記憶の中から、です。 思考は、その記憶の一部、その知識の一部、 その経験の一部です。 経験と知識は、どの境遇のもとでも、 けっして完全でありえないので、 ゆえに、思考は、間違いなくすべての条件のもとで、制限されています。
26:18 思考は、神聖ではありません。 思考が、寺院の中、神殿の中、モスクの中、 大聖堂の中、教会の中に、創り出してきたもの - それらは、思考の結果です。 それらは、何も神聖なものではない。 で、私たちは、次の三回の講話で進んでいくにつれ、見出そうとしています - 生には、何か神聖なもの、思考によりそこに 置かれていないものが、あるのかどうかを、です。 思考は、私たちが言いましたように、物質的な過程です - 科学者たちも、それを受け入れはじめています。 もちろん、宗教的な人々は、そうしないでしょう。 彼らは大多数であるかもしれません。 ですが、大多数は、一般的に凡庸です。 宗教的な精神は、何が神聖なのかを、見出せるだけです。 それを見出すには、冥想が、なければなりません。 その冥想を、語り手は一般的に、講話の終わりに、置きます。 なぜなら、世界と自分自身への理解なき冥想は、 何の意味もないからです。 そのとき冥想は、単に、「有るもの」からの逃避です。 私たちの生に秩序なしでは - 完全な、絶対的な秩序なしでは、 冥想は、何か楽しめて神経症的な行為への 一つの形の耽溺です。
28:44 で、私たちは初めに、見つめて、自分自身で見出さなければなりません - すべての境遇のもとで、正しい行為が、あるのかどうかを、です。 思考は、この行為、正しい行為を、もたらせますか。 私たちのいう、その「正しい」という言葉は、 精確で、客観的で、非個人的で、ロマンチックでない行為 - ますます多くの葛藤をもたらさないもの、という意味です。 私たちは、そういう正しい行為があるのかどうかを、 ともに究明しようとしています。 なぜなら、今、一人一人が、何の抑制もなく、 何の理解の感覚もなく、自分の欲望の、自分の楽しみの 充足を、考えるからです。 それは、現在の現代文明によれば、正しい行為です。 しかし、そういう行為は、観察してきたところ、 ますます多くの葛藤、ますます多くの混沌へ、繋がります - それは、この不幸な大地で、起きつつあることです。
30:46 で、私たちは訊ねています -行為とは何なのか、 そして、葛藤をもたらさない、正しい、正確な、精密な行為は、何なのか。 そういう行為が、いったいあるのか。
31:18 よろしいですか。 うるわしい朝です。 樹々のもとにいるのは、美しいことです。 木漏れ日。あなたは、清浄さをそなえた、あれら山々を、 見つめています。 線は繊細で、明確で、清浄です。 このすばらしい国に、あれらとともに生きていて - それはゆっくりと略奪され、滅ぼされつつあります。 最もとてつもない、優秀な実体であるべき人は、 世の中に、こんなに混沌をもたらしてきたのです。 それは、大きな悲劇ですが、あなたはそれに、気づいていません。 なぜなら、私たちは、自らの自己に気づいていない、 自らの行為に気づいていないからです。 私たちは、永続的に導かれつつあります- 政治家、司祭者、 福音主義者、大学教授、専門家たちによって、です。 私たちは、自己教育をされていません。 私たちは、様式に沿って教育されます - それは、まったく教育ではありません。 それは、教育の一部だけです。 より深い教育は、自己教育です - 自分自身を理解すること、 自分自身の内容全体を、知ることです。 自分自身のその内容を観察するには、 それは、関係において示されます - 私たちが先日、それについて話をしたように、です。 その関係には、葛藤があります。 なぜなら、一人一人が、自分は分離していると考えるとき、その葛藤は生ずるからです - 野心的で、貪欲で、競争好きで、その他すべてであり、 信念に、教義に、人物に、理想に、経験に 執着しているとき、です。 そういう執着は、腐敗を生み育てるのです - 私たちは先日、それを気をつけて、説明しました。
34:25 今、私たちは、いったい正しい行為があるのかどうかを、訊ねています - 表面的ではなく、何か即時の、満足できることではなく、 時から生まれていない行為、です。 私がいうそれが、どういう意味かを、説明しましょう。 これは、或る種の神秘的な、サイエンス・フィクションの行為へ、繋がるかもしれません。 私たちは、それについて、話していません。 時とは何かを、理解しなければなりません。 私たちのほとんどにとって、時はとても重要です - 日の出と日の入り、 昨日、今日、明日、 時計による時間、太陽による時間だけでない。 また、心理的な時間の概念全体も、です。
35:47 私たちの頭脳は- あなたが敏感に気づいているなら - 私たちの頭脳は、時をかけて進化してきました。 一つの細胞から今まで、です。 この頭脳は、時の中で機能します。 それは、時により、条件づけられています。 ですね?それは明らかです。 私たちは、時を、自己推進の手段として、使います。 時を、言語を学ぶ手段として、 時を、知識を蓄積する手段として、使います - 上手にか下手にか行為するために、です。 で、時は、要因です - 私たちの生において、とても深く条件づけられた要因です。 望みがある - 未来、すなわち望みと、 過去としての時は、 すべての記憶、経験をともない・・・知識は、時によっています。 それが科学的な知識や、心理的な知識や、 自己認識であっても、それはすべて、時の区域の中にある。 「私は、もっと良くなるだろう」、「私は、これにならずに、 あれになるだろう」と言うとき、 そこには、時が関与しています。 どうか、理解してください。 ともに考え、観察しましょう。 あなたは単に、語り手に聞いていません。 彼は、どんな観念の組み合わせをも、推進していません - あなたが集めて、それから憶えて、それから、「私は学んだ」と言うものを、です。 私たちは今、ともにそれを、注意深く見つめています。
38:29 で、時は、案内、達成、 自己認識、自己推進の要因であったのです。 時は、こういう意味で使われます - 「私はさびしいが、 それから逃避するだろう」とか、「私はそれを理解するだろう」とか、 「私はそれについて何かをするだろう」とかいう意味で、です。 それらには、時が含意されています。 私たちは、「知識を蓄積した後、私たちは上手に行為するだろう」と言います。 「私は、良い大工になりたい。 私は、大工の師匠の見習いになり、 長年の後で学ぶ」と。 外科医のように、 ビジネスマンのように、司祭者などのように、です。 時は、知識です。 その知識から、私たちは行為します。 または、行為し、その行為から学びます - それは、またもや知識になる。 付いてきていますか。 これら二つの行為の道が、あります - 初めに知識を蓄積する。 医師のように、学習、インターンなどに 十年、です。それから彼は、医師、外科医になる - 研究、学習、知識の集積の後、行為する。 あるいはまた、行為する。 その行為から学ぶ。 それが知識になる。 で、どちらも、同じです。 すなわち、どちらも、知識の取得と、 その知識から行為することに、基づいています。 知識は、いつも不完全です。 それはいつも、無知の陰の中にある。 で、行為はいつも、制限されているにちがいない。 ゆえに、観念から生まれたどの行為も - それは、思考の投影です - 過去の知識、記憶などの想起から生まれたどの行為もまた、 制限されているにちがいない。 ゆえに、葛藤、混乱を、もたらします。 これはまたもや、論理的、理性的で、全うです。 それは、何か、語り手の視点ではありません。 それは明白な事実です。 これが、私たちの行為の仕方、生き方です。
42:15 で、私たちは、全然違った行為の道が、あるのかどうかを、探究しています。 私たちは、きわめて明らかでなければなりません。語り手が反復してもよろしければ、 私たちは、知識の機能について、絶対的に明らかでなければなりません。 あなたたちは、ここ百五十年の内に、かつてないほど、 多くのテクノロジーの知識を、蓄積してきました - ものすごい知識です。さもなければ、あなたたちは、月へ行けなかったでしょう - 宇宙船などなどです。 あなたは、戦争のひどい武器を - 人は、戦争のひどい武器すべてを、創案してきました。 原子爆弾。それは、穀物とブルージーンズを別にして、 アメリカの主な輸出物です。
43:30 私たちは訊ねています - 制限されていない、 ゆえに完全で、全体的であり、 そのため、葛藤をもたらさない 行為が、ありますか。 どうぞ、これを理解することは、重要です - あなたが自らの精神、頭脳を注ぐなら、見出すように注意することは、重要です。 私たちが言いましたように、あなたたちの多くは、冥想に興味があり、 ゆえに、他の何にもないかもしれません。 しかし、あなたが冥想に、興味があるだけなら、 そういう冥想は、無意味です。 正しく、全うに、 理性的に生きないのなら、 そういう冥想は、禅であっても、X、Y、Zの冥想であっても、 単に、現実からの逃避、「有るもの」、すなわち 私たちの日常生活からの逃避です。 私たちの日常生活は、こんな悲惨、混乱です。 こんなに多くの葛藤がある。 冥想しよう、或る種の神秘的な経験に入ろうとすることは、 ただの幻影です。おそらくあなたは、幻影の中に生きるのが、好きです。 そのほうが、夢想に満ちて、楽しめます。 ですが、「有るもの」を見て、 その「有るもの」が変容できるのかどうかを見ること - それが、深遠な冥想の一部です。
45:33 で、私たちは訊ねています - 完全である行為、 制限され、ゆえに混乱させるのでない行為が、ありますか。 それが問いです。 私たちは、訊ねています。私たちは、それがあるとか、ないとか、言っていません。 私たちは、根源的な質問をしています。 表面的な、過ぎゆく要求ではない。 私たちは、何かきわめて深刻なことを、訊ねています。 なぜなら、人は、数百万年に数百万年もの間、 混乱、葛藤、悲惨の中に生きてきて、 けっして人間の葛藤、人間の苦しみを解消してこなかったからです。 人は、宗教をとおし、あらゆる種類の、 夢想的、象徴的な崇拝と祈りをとおして、それから逃避してきました。
46:42 で、どうぞ、私たちはともに、全体的で、全包括的な行為が あるのかどうかを、見出そうとしています。 「全包括的(ホリスティック)」というその言葉は、全うで、健康的で、理性的だ、 という意味です。また、「全体的(ホール)」という言葉は、聖なる、ホーリー、という意味です。 それらが、その一つの言葉、「全包括的(ホリスティック)」に、含意されています。 葛藤をもたらさない、 もっと多くの問題をもたらさない、 そういう行為が、ありますか。 私たちはどのように、ともに、見出そうとしていますか。 あなたはどのように、このような問いに、接近しますか。 あなたはどのように、目の前に置かれた問いを 見ますか。聞きますか。 あなたは、「そういう行為はない」と言い、 それで、そう言うなら、自分自身を遮ってしまったのか。 あるいはまた、あなたは、「それは可能だ」と言うかもしれません。 またもや可能性は、実際ではない。 それで、見出すことが・・・ そういう行為があるのかどうかを、あなたが見出したいのなら、 あなたがどのように、その問いの内容を 聞くのかを、見出すことが、とても重要です。 その問いが出されるとき、あなたの精神は、 あなたの頭脳は、問題を解消しようとしているのか、 答えを見つけようとしているのか、 または、よく気をつけて言葉の意味を、 実際に聞くのか、です。 言葉は単に、伝達の手段です。 言葉は、そのものではありません。 それはけっして、そうでない。 象徴はけっして、実際ではありません。 で、あなたがどのように、挑戦を聞くのかが、とても重要です - あなたはそれを、知的に、理性的に、合理的に 解消しようとしているのかどうか、です。 あなたは、それを合理的に、解消しようとしているなら、 必然的に結論へ到るでしょう- 「それは可能でない」と。 論理の過程は、思考の活動です - それはいつも、制限されています。 ゆえに、挑戦へのあなたの答えは、制限されるでしょう。 ゆえに、あなたは、問いへの答えを、見つけなかったのです。 これがすべて明らかであることを、願っています。
50:24 で、あなたはどのように、問いへ接近しますか。 あなたは、「それは、私がよく理解できない問いだ。 私は初めに、それを見守ろう。 それを聞こう。 答えを見つけようとしないで、 その言葉の内容を見よう」と言う 精神、頭脳をもって、それに接近しますか。 すなわち、記憶の中から生まれていない 行為が、ありますか - 記憶は時です。 私はまた、時が必要である、知識が必要であるのを、 知っています - 車を運転するには、 大工であるには、外科医であるには、 何であるにも、知識は確かに必要です。 しかし、この問い - それは、 記憶の動きである思考により、答えられますか。 理解できますか。 私たちは一緒に、ここにいますか。 それは、あなたがそれに答えようとするとき - 正しいとか間違っているとか、不可能だとか可能だとか、です - あなたは記憶に依存している、という意味です。 ゆえに、思考があなたに、何と答えるべきかを、語っています。 思考は制限されているので、あなたの答えは間違いなく、 制限されるし、ゆえに葛藤を産出するでしょう。 これが明らかであるなら、あなたは、どんな思考の動きもなく、 問いを観察し、聞くのでしょうか。
52:38 私は、問いを反復しましょう。 すなわち、 時の中から生まれていない、正しい行為が、ありますか - 時は思考です。それは知識です。 そういう行為は、ないかもしれないし、あるかもしれない。 それで、私たちの精神、頭脳は自由であって、見られます。 私たちの頭脳は、敏感で、鋭敏で、気づいているので、 問いを聞いています。 それを解決しようとしないで、 それへ、ものすごい注意を払っています。 で、あなたがそうするとき、 すなわち、あなたが完全な注意を向けるとき、 あなたが全的に、敏感に気づいているとき、 その注意には、時の問いがありません。 しかし、あなたが、「私は注意深くなるには、時がなくてはいけない」と言うなら - それは、注意深いとは、どういうことなのかを、学ぶことです - そのときあなたは、知識に沿って行為しています。 それは、注意深くあるよう、学ぶことです。 そのとき、あなたは注意深くない。 ですね?どうぞ、これを見てください。
54:07 で、あなたは、自らの存在すべてでもって、 自らの能力、注意すべてでもって、この問いを聞けますか。 あなたが、その全的な注意を、向けるとき、 それは、何か曖昧模糊としていたものへ、 光を照らす、光を点すのに、似ています。 あなたが、その注意を向けるとき、 問いに、全的な光が、照っています。 そのとき問いは、自らの答えを、開示します。 あなたは、何かが明らかに見えるとき、 その明瞭さが答えです。 理解されますか。
55:10 それで、行為がある - どうか、それを受け入れないで、それを神秘的だと取らないで、 それがあるとか、ないとか言わないで、あなた自身で見出してください。 洞察の中から生まれる行為が、あるのです。 洞察は、過去の物事の思い出ではなく、 何かが直接的に、純粋に、方向づけなく見えることです。 その見えること、知覚は、全的な行為です - それが洞察です。 あなたが、思考の動きをそう見つめられるとき - それは、私たちの意識の内容です。 内容、それは、私たちの貪欲、私たちの妬み、私たちの野心、私たちの民族主義、 私たちの信念、私たちの経験、私たちの楽しみです。 そのすべてが、私たちの意識です。 あなたが、「私は神を信じている」と考えるとき、それは、あなたの意識の一部です。 または、「私は神を信じていない」- それは、あなたの意識の一部です。 その意識は、思考により組み立てられています - 経験などをとおして、です。 さて、その意識の総体を 見る、観察することは、 完全に、一つの行為を注意深く、観察することです。 すなわち、行為の動きへ、洞察を持つことです。
57:13 よし。それで十分です。 終了しました。 あなたが気になさらないなら、私たちは、明日の朝、継続するでしょう。