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OJ81T4 - 私たちは、自分自身に聞く辛抱を、持っているのか。
第4回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1981年5月10日



0:24 すみませんが、私たちが前に、 ここ三回の講話で言ってきたことの幾つかを、 反復しなくてはいけない、と思います。
0:42 私たちが話していることは、特定の視点ではありません。 それは、どの種の宣伝をも、している、ということではありません - どの理想のため、どの人物のため、どの概念のためにも、です。 私たちは、世界は危機にあることを、言っていました - 戦争、人口過剰、貧困、ひどい分割に脅かされています - 民族性、国籍の間の分割、 宗教の名においてつづいている不条理すべて、です。 しかし、危機は、私たちが言いましたように、 人間意識に、精神に、頭脳に、心にある。 それは、政治家によっても、 科学者たちの蓄積された知識によっても、とうてい解決できません。 またそれは、経済的な問題でもありません。 それは危険なほど、人間の問題となったのです。 見たところ、ほとんどの人は、 人間精神のその危機に、関心を持つほど、 傾向や興味を持っていません。
2:52 あなたがそもそも真剣であるなら- 私たちはそうであることを、願っています - 私たちは、世の中で起きつつあることすべての責任に、 関心を持たなければなりません。 なぜなら、私たちがしょっちゅう説明してきたように、 私たちの意識は、 一人物の特定の意識ではないからです - それは、人類すべての意識です。 なぜなら、どこに生きていても、人間すべては、苦しむからです。 彼らは、葛藤、悲惨、混乱の中にあり、 指導者を探求していますが、彼らには、いつも裏切られています。 司祭者に依存していますが、彼らには、 たくさんの言葉と無意味な答えを、与えられてきました。 また、科学者にも、依存できません。 彼らは、自らの専門性でもって、世界を破壊するのを、助けています。 この危機は、他のどこでもなく、私たち自身にあるので、 私たちが指摘しましたように、責任は、 とても大きく、とても深刻になるのです。 私たちは、この意識でもって、 百万年の間、生きてきましたが、 その意識は、いったい、変容できますか。 それはできないと言う人も、幾らかいます - 人間の本性は、今あるものであり、 それを修正したり、受け入れたり、わずかに変化させるとしても、 根源的にそれは、とうてい変化させられない、と。 哲学者と、その様態で考える人たちを、受け入れるなら、 人は、人間存在は、果てしなく苦しまなければなりません。 永遠に葛藤の中に、留まらなければなりません。 果てしなく、戦争があるにちがいありません - 歴史で、ここ五千年の間に、そうであったように、です。 記録された歴史で 実質的に、この地上のどこかで、戦争、です。 ここは、私たちの大地であり、 そこで私たちは、生きるものとされています。 アメリカの大地や、イギリスの大地や、 インドのや、日本のなどではない。 この意識には、この危機があり、 それは、答えられなければなりません - どの特定の専門家、 専門職によってでもなく、私たち、普通の日常的に生きる人間、 仕事をもち、悲惨、混乱をもった者たちによって、です。
7:01 私たちが言いましたように、辛抱は時がなく、 不辛抱は、時に満ちています。 私たち自身に聞くには、辛抱をできなければなりません。 なぜなら、今、私たちは、すべての専門家、教授に、 依存しているからです - 何をすべきかを、語ってくれる人たちに、です。 私たちは、自立を失ってしまいました。 私たちは、多かれ少なかれ、権威の奴隷になっています - それが、科学的な権威であっても、 宗教的、経済的、環境的な権威であっても、です。 私たちは世界中で、誠実さの感覚を、失いつつあります。 私たちは、書物に依存しています。 書物には、その持ち場がある。しかし、書物をとおし、他の一人をとおして、私たち自身を 理解することにより、私たちは、この混乱へ、この危機へ、導かれてきたのです。 私たちが、何度も何度も指摘してきましたように、 私たちはともに、考え、推理し、観察しているのです。 私たちは、語り手が言っていることを、受け入れても、拒絶してもいません。 彼は単に、そこに私たち自身が見える鏡として、行為しているだけです。 私たち自身がありのままに見えはじめるとき、 私たちは、その鏡を、投げ捨てたり、壊したりできます。 鏡は、何の価値もありません。
9:31 で、私たちは、危機は私たちの精神と心にある、と言っています。 私たちは、その危機を理解することができないように、見えます。 理解は、自らの修練をもたらします。 順応の修練ではなく、模倣の修練ではなく、 何かを受け入れる修練ではない - どれほど大きくても、小さくても、です。 修練は - 「修練(ディシプリン)」というその言葉の根本の意味は、 「学徒(ディサイプル)」という言葉から、来ています。 学徒は、学ぶ者です。 どれほど賢明でも、 どれほど覚っていても、どれほど博識でも、他の人からではない。 自分の自己教育より学び、 私たち自身について学んでいます。なぜなら、そこに、私たちの危機が、あるからです。 私たちは、私たち自身を司祭者へ、学者へ、教授へ、 哲学者へ、分析者へ、手渡してきました。 不幸にも近頃、私たち自身を、インドやアジアからの 或る導師たちへ、手渡してきました。 それは、大変に不幸です。 彼らは、豊かになって、人々を搾取しています。 それは大きくなり、今、宗教がそうであるように、 それは、大きなビジネスの事柄になっています- それは、またもや明白です。
11:50 で、自分自身を観察し、自分自身について、学ばなくてはいけない、と 私たちは言っています - 誰からでもない。 なぜなら、彼らは、彼ら自身、研究していないからです - 彼ら自身を、です。 彼らは、理論を、何らかの思弁的観念を、持っています - 彼らは、それを動物、鳩などで、実験してきました。 しかし、彼らはけっして彼ら自身を、見つめたことがない - 実際にあるがままに、自らの貪欲をもち、自らの野心をもち、 自らの競争をもち、自らの攻撃性、暴力などをもっているのを、です。 私たちは、それらです。 それを実際に理解する中 - 単に、私たちなるものの 言語的な叙述を、理解するだけではなく、 私たちの反応、思考、怒り、 傷、攻撃性、暴力などを 実際に理解する。 それを見つめる。 ゆえに、その理解、観察の中から、 この修練が、出てきます - それは常に、新たに学ぶことです。
13:39 おそらくこの国(アメリカ)で、私たちは、 その「修練」という言葉の意味を、失ってしまいました。 私たちはそれを、兵士へ、或る修道士、僧侶などへ、移管してきました。 特にこの国で、私たちは、その言葉の意味を、失ってしまいました。 あなたが、立身出世主義者であるなら、 その経歴の中には、修練への一定の要求が、あります。 あなたが大工であるなら、木材、道具、設計の 本性のまさしく理解 - その観察、 その理解が、自らの学び、自らの修練、 自らの行為を、もたらします。 しかし、見たところ、私たちはそれを、失ってしまいました。 なぜなら、私たちはみんな、やっていくこと、成功の階段を昇ること、 何かになることへ、ひどく関心を、持っているからです - あなたがこれらを観察するなら、です。 ゆえに、私たちは、ますますもっと表面的に、なりつつあります。 あなたたちは、すばらしい国を、持っています - 世界で最も美しい国の一つです。 一番高い雪を被った山々から、 砂漠へ、広大な川へ、 深い谷々と、大きな樹々です。 それは、驚くべき国です。 私たち人間は、それらを破壊しつつあります。 なぜなら、私たちは、やっていきたいからです - どこへなのかは、誰も知りませんが、進んでいきたい。 私たちは、これらを観察しています。 私たち自身を、です - どうぞ、あなたは、語り手に従っていません。 語り手は、あなたの導師、あなたの指導者ではないし、 あなたは、彼に従う者ではない。 それらを拭い去り、私たちが人間として 何をしているかを、間近で検討しなくてはいけません。
16:24 この意識の中に、無秩序があります。 私たちは、順応により、受け入れ、服従により、 そこに秩序を、もたらそうとしています。 私たちは、秩序とは何かを、理解したことがないのです。 語り手は、この国に、 ここ六十年間、いましたが、 私は、あらゆる種類の様相、流行り物を、 見てきました - いつも新しい何か、です。 私たちは、実質的に、社会的に、道徳的に、倫理的に、 無秩序の中に、生きます。 秩序を、その言葉の 最も深い意味において、理解することなしには、 冥想は、全く無意味になります。 私たちは、冥想をとおして、秩序をもたらすだろう、と考えます。 それが、百万年の間、私たちに仕掛けられてきた、ごまかしです。 しかし、秩序は、家で、近くで始まります。
18:11 で、私たちはともに、その秩序とは何かを、究明しなくてはいけません。 なぜなら、私たちが言いましたように、私たちの意識は、全的に乱雑になっているからです。 それは、葛藤の中にある。 それは、何か自らが創り出してきたものに逆らって、それ自体と戦っています。 で、私たちはともに、秩序とは何かを、探究しようとしています。 私たちは、精神の或る状態を、含意するために、その言葉を使っています - 理想としてではない。 そこにいかなる葛藤もない 精神の或る状態、心の或る状態、です。 葛藤は、無秩序を標示します。 選択は、無秩序を標示します。 選択する人は、本当に実際に自由ではない。 彼は、混乱しています。 どうぞ、言われつつあることを、受け入れないでください。 それが重要である、と思います - この懐疑の感覚を養成したり、持ったりしなければなりません。 特に心理的な事柄においては、です。 疑いが、なければなりません。 あなたが観察するなら、アジア世界、インドなどでは、 疑いは、宗教の教訓の一つとなってきました。 ヒンドゥー教徒と仏教徒は、疑いについて、大変多く話してきました。 しかし、キリスト教世界では、疑いは否認されます。 なぜなら、その世界は、信仰に基づいているからです。 あなたは、問うなら、破門、除名されるのか、 または、拷問され、焼かれます - 過去にそうだったように、です。 今、あなたは、許容されます。 大きな違いは、ありません。
20:52 で、どうぞ、あなた自身を、観察してください- 相当の疑いをもって、 あなたの環境、あなたの社会、あなた自身の思考を、です。 また、疑いをもって、疑問をもって、 語り手に聞いてください - あなた自身に要求しながら、です。 あなたは、自らが考え、観察し、学んできたことすべてを、疑っています。 そのため、精神、頭脳は自由であって、観察できます。 また、疑いは、革紐に繋いでおかなければなりません - 犬のように、です。 あなたは、犬をいつの時も、革紐に繋いでおくなら、 そのかわいそうな動物は、弱ってしまいます。 いつそれを放してやり、駆け、追いかけ、跳ばせてやるかを、知らなければなりません。 同様に疑いを、革紐に繋いでおかなければなりません。 また、微妙さ、いつそれを放してやるかをも、学ばなければなりません。
22:27 で、私たちは、訊ねています、言っています - 人が、何百万年に何百万年もの間、 この無秩序の中に生きてきたのかは、なぜなのか。 なぜ私たち人間は、どこにいようとも・・・なぜですか。 この無秩序の原因は、何ですか。 私たちが以前に指摘しましたように、 原因を探究することは、分析的な過程であって、 時を必要とします。 どうぞ、これを少し理解してください - あなたが、言われつつあることへ、注意を向けてくださるだろうなら、です。 分析は、私たちの好みの追求の一つであったのです - 天空を、星々を、この拡張し縮小する宇宙を、 分析するだけではなくて、 また私たちは、自分自身を常に分析しています。 私たちは、分析者が誰なのかを、探究したことがありません。 分析者は、あなたが気をつけて観察するなら、 分析者は、分析されるものです。 思考は、分析者を、分離してきました - まるで彼が、大変多くの知識、経験をもった、 何か優位の実体であり、 彼は、分析する能力があるかのように、です。 何を分析するのか。 あなたは、鉱物を、木々の本性を、 水素爆弾を、分析できます - 大きな利益と大きな破壊をも産出してきた、 様々な科学的な分析、です。
25:10 私たちは、訊ねています - それらの分析について、ではなく、 私たちは、無秩序の原因を探し求めているとき、それは何なのか、と言っていますが、 私たちは、分析に耽溺しますか。 または、この問題には、すっかり違った接近が、ある。 それは、分析ではなく、純粋な観察です。 あなたがそれをできるなら、です。 それは、分析の伝統より、離れてしまうこと、です。 すなわち、例えば - 語り手は、例えを使うのが、好きではありませんが、 私たちは、当分の間は、使いましょう。 なぜなら、例えは、かなり欺瞞的で、制限されているからです。 私は怒っていたり、貪欲であったり、暴力的であるなら、 私は、それの原因を知りたいと思います。 そのとき私は、分析しはじめます- 一歩一歩、辿って遡ります。 私は、それの原因を、見つけるかもしれません。 しかし、「私は、一歩一歩、辿って、真の起源へ遡ろう」 と言う分析者は、誰ですか。 分析をするその実体は、何ですか。 その実体は、やはり思考の一部です。 その実体は、以前の経験、 以前の検討、以前の分析の 容器や器です。 彼は、起きつつあることから、自分自身を分離します。 それから彼は、「私は分析しよう」と言います。 しかし、あなたが、気をつけて観察するなら - 敏感な気づきを、それへ向けるなら、 そのとき、観察者、分析者は、分析されるものであることが、分かるでしょう。 怒りは、私より異なっていません。 私が、怒りです。 しかし私は、怒りより自分自身を分離して、「私はそれを 制御しなければならない。私はそれを形作らなければならない。私はそれを 合理化しなければならない」などと言ってきました。 これが明らかであることを、願っています。 あなたはこの種の考え、観察に、慣れていないなら、 おそらく私たちは、もう一度それを、調べたほうがいい。 なぜなら、私たちのほとんどは、分析が慣習になり、 その習慣へ陥ってしまったからです。
28:34 私たちは、分析には時間が掛かると、言っています。 その分析の中には、 大変多くの欺瞞的な活動が、つづいています。 で、あなたは、秩序とは何か、無秩序とは何かを、観察できますか。 ただそれを観察する。すなわち、 そうね、大変不幸なことに、あらゆる物事が、説明されなくてはなりません。 私たちは、それへ跳びつかない、それがすばやく見えません。 それは、とても多くの言葉ととても多くの説明に、表されなくてはいけません。 しかし、言葉、説明は、そのものではありません。 あなたは、最も美しい山の絵画を、描くかもしれません。 その絵画は、その山ではない。 キャンバスの絵の具での流れる水は、生きている水ではない。
30:03 で、私たちはともに、理解しています。 見出そうとしています - 秩序とは、そして、無秩序とは何か、です。 私たちは言いました - 葛藤があるかぎり、 私たちに矛盾があるかぎり、無秩序がある、と。 欲しいものと欲しくないもの、 欲望と、その欲望の対極(との矛盾) - そこに、私たちは捕らわれています - ごくごく単純に表すと、 欲しいことと欲しくないことに、です。 - それはきわめて複雑な問題ですが。 それは、対極を養成することです。 そこには、葛藤があり、それが無秩序です。
31:13 さて、これを見出すには、それへはるかに深く入るには、 欲望の問い全体へ、入らなくてはいけません。 なぜなら、人間たちは、この欲望とともに生涯の間、 生きてきたからです - あらゆる物事への欲望です。 私たちは一緒に、ここにいますか。 または、語り手は自分自身で、つづけていき、 あなたはそこにいる。 木陰に、美しい木の葉の下に、 座って、この日射しを楽しみ、 日光浴をしている! あなたは、日光浴とそれらを、楽しんでいます。 ここはほぼ、その場所ではありません。 しかし、あなたが人間として、本当に関心があり、 世界全体へ責任を感じるなら - 単に自分の家族へ、自分の子どもたちへ、だけではなくて、です。 そして、あなたが、そこですら本当に責任を感じるのかどうかは、疑われます。 何千、何万の子どもたちが、家出をしています。 叩かれ、拷問されて、です。 つづいている、醜いことすべて、です。
32:59 私たちの意識における、この危機が 本当に、深く根源的な神聖な挑戦であるなら - 「神聖な」という言葉を、その本当の意味で、使っています - 神聖な挑戦なら、 そのとき私たちは、人間として、それに応答しなければなりません。 または、あなたはそれができないなら、私たちは、互いに破壊し合っているでしょう - それは今、つづいています。 強国の間、二大強国の間の競争 - 各々が、他国の上にいたいのです。 それが、最も小さな国でさえも、つづいています。 これは、奇妙な事実でないですか - 世界は、アメリカを模倣しています。 あなたがそれに注目したのかどうか、私は知りません。 たぶんここは、最も模倣しやすい国なのです。 私が言っていることに、怒ったり、 苛立ったりしないで、それを観察してください。 私たちは、穀物、軍需物資、科学的なノウハウを別として、 残りの世界へ、何を与えていますか。 ノウハウは、他の国々も今、自らの知識において、ほぼ同等です - レーザー破壊、原子爆弾。 アメリカ人として私たちは、他に何を、世界へ与えていますか。 どうぞ、気をつけて、それを見つめてください。 世界は、あなたたちに、何を与えていますか。何もない。 なぜなら、私たちは、自らの理解の深さの 深い実質を、失いつつあるからです。 私たちは、自らの自由を、失いつつあります。 施設と組織が、私たちに取って代わりつつあります。 これらは、世界の多くの混乱、多くの破壊、 悲惨を、付け加えています。 私たちは、自らが何をしているかを、悟るとは、私は思いません。 たいへん真剣に指摘してもよろしいなら、 人間たちのこれらの混乱、 これらの悲惨、これらの悲しみ、 これらの苦悶、これらのさびしさを、理解するには、 私たちは、欲望の問いへ、入らなければなりません。
36:29 人は見たところ、けっして、この問題、欲望を、 理解し、それに、きわめて深く入ることが、できませんでした。 彼らは、それを抑圧することや、野放しにすることを、学んできました。 彼らは、欲望のあらゆる形の表現を、学んできました - 性的なもの、所有したいとの欲望、否認したいとの欲望、 強力になりたいとの欲望、無実体になりたいとの欲望。 この欲望の衝動全体を、ご存じでしょう。 様々な宗教は、言ってきました - 世界中の僧侶、修道士は、 自分自身を象徴へ、人物へ、救い主へ、観念へ捧げ、降参することにより、 欲望を変換しなければならない、と。 それが、世界中で僧侶、修道士がみんな、やっていることです。 しかし、内的に彼らは、欲望で燃えています。 私たちもまた、世界のあらゆる人間は、それに消耗しています。 私たちはけっして、欲望の本性を、 理解し、了解することが、できなかったのです - どうぞ、気をつけて聞いてください。 私が言っていることは、あなたがきわめて深く 理解するのでなければ、とても危険なのかもしれません。 私たちは、欲望の単なる制御は、智恵がない。 また、それの抑圧も、それからの逃避もそうだ、と言っています。 しかし、欲望の理解の中 - それは、とても複雑な微妙な過程ですが、 その欲望のまさに理解の中、 それは、自らの修練を持つのです。 修練は - どうぞ、聞いてください - 欲望の動き全体を、学ぶことです。 欲望がどう生ずるのか、その本性は何なのか、それがどう作動するのかを、です。 その理解の充足の中、 欲望における秩序が、来るのです。ですね?
39:56 さて、私たちは- どうぞ、ともに、です - あなたと語り手は、ともに、究明しようとしています - 辛抱強く一歩一歩、欲望の本性を、です。 欲望の動きを、学ぶとき、またはむしろ、知覚し、見るとき - それがどう生ずるのか、 それの複雑さ全体を、です - そのとき、その理解の中から、欲望は、混乱を創り出しません。
40:57 で、私たちは、秩序、無秩序と欲望を、探究しています。 欲望は、無秩序を、創り出してきました。 一人一人が、他の者より違った何かを、欲望します。 楽しみ、痛み、そうね、その他すべてをとおして、その欲望を追求します。 で、私たちはともに、理解しようとしています- 欲望がどう生ずるのか、 それが制御されるとき、制御者は誰なのか、 制御者は、彼が欲望するものより、異なっているのか、です。 私たちは、それらに入ろうとしています。
42:00 あなたが、何かを観察したことがあるのかどうか、 私は知りません - 山、丘、谷、 美しい樹を、あなたの感覚すべてでもって、です。 どうぞ、あなたが、これらの樹々、木漏れ日のもとに、座っているとき、 見えるなら、自らの感覚すべてを全的に 目覚めさせて、樹々、丘を観察してください。 または、あなたは単に、視覚的に観察するのか、 または、言葉をとおして観察するのか。 または、注意すべてでもって、観察したことがあるなら - それは、感覚すべてを全的に目覚めさせて、という意味です。 あなたが海を見つめるとき- 青い太平洋、 光、きらめく水と、はるかに届く波を、です - あなたは、それを観察しますか。または、単に「それは何と美しい」と言って、 自分の目標に到りたいと切望しますか。 で、私たちはめったに、自らの感覚すべてを 充分に目覚めさせて、何をも観察しません。 それが、本当の敏感さです。 あなたが、感覚すべてでもって、そう観察するとき、 あなたがそこから観察をする中心が、ないのです。 これは、何か神秘的なもの、何か得られたものではありません。 あなた自身で、ただ観察してください。 あなたは見えるでしょう。 私たちの感覚は、頭脳に情報を伝えます - それが快いとか、快くないとか、 それが痛いとか、痛くないとか、などをも、です。 で、感覚は、とても重要です。 しかし、それら感覚は、薬物、アルコール、タバコ、 耽溺により、不辛抱でもって、破壊されます。 で、感覚は、観察するのを、助けます。 すなわち、初めにあなたは、自らの感覚でもって、知覚します。 そのとき、接触がある。 そのとき、感受がある。ですね? 付いてきていますか。 私たちは、互いに会っていますか。 さあ、みなさん。
46:10 見る、接触。 そのとき、その接触から、感受。 そのとき - どうか、あなた自身で、間近で観察してください。 語り手が言っていることを、けっして受け入れないで、 あなた自身で、それを見つめてください。 見る、触れる、感受。 そのとき思考が、イメージを創り出す。 その瞬間に、欲望が生まれます。 ですね? それはとても単純です。説明はそれを、少し複雑にしますが、 それは本当に、全く単純です。 あなたは(店の)ウインドウに、ローブやシャツやズボンやドレスを、見る。 内側へ入り、それを感じる。感受。 そのとき思考は、「もしも私がそれを着たなら、何とすてきだろうか」と言う。 ですね?そのとき、欲望が始まります。 理解できましたか。 私はあなたに、語っていません。あなたはそれを、自分自身で見守っています。 見る、接触、感受。そのとき思考が、イメージを創り出す - あなたがその車に座って、運転している、と。 で、思考がイメージを創り出すとき、欲望が始まります。 その瞬間に、欲望が生まれます。 それは、私たち自身にとって、明らかですか。 あなたは、語り手の説明を、受け入れていません。 それらは、単に言葉です。 あなたが単に、言葉を受け入れているなら、それらは、何の意義もありません。 しかし、あなたはそれが自分自身で直接的に見えるなら、 理解するでしょう。 どうぞ、これを少し間近で、追ってください。 そのときあなたは、理解するでしょう- 見る、接触、感受。 それは、そこで止まりえて、思考にイメージを創り出させなくできるのかどうかを、です。 理解されましたか。 あなたはこれを、少し捉えましたか。
49:09 その学びには、修練がある。理解されますか。 制御ではない。 私たちの教育の要因の一つは、制御されるものより分離した、 制御者がある、というものです。 それが、私たちの生き方です - 私は制御しなければならない、 私は修練しなければならない、私は学ばなければならない、と。 で、いつも、制御者と制御されるものとの間に、分割がある。 私たちは、それの訓練をされてきました。 子どもの頃から教育されています。 しかし、それは事実ですか。 それは - 制御者と制御されるものとの間のこの分割は、 もっともっと多くの葛藤を、創り出すかもしれません。 それは今、そうなっています。 それは全的に、生への間違った接近なのかもしれません。 しかし、あなたが理解するなら、制御者は、制御されるものなのです。 ですね?怒り、暴力。例えば、暴力です - 私たちは、暴力の本性とその他すべてに、入らないでしょう。 ただ、「暴力」というその言葉の意味だけです。 それは、世界中に拡がりつつある、等々。 暴力はある。 人間たちは、暴力的です。 ゆえに私は、自分が暴力的である、あなたが暴力的であるのを、悟ります。 そのとき私たちは、言います - 「私はそれを、変化させなければならない。制御しなければならない。 私は、非暴力的にならなければならない」と。 それは、好みの白痴的な幻影の一つです。 で、暴力は、私より分離していません。 私が暴力的なのです。 ですね?あなたがそれを理解されるのかと、思われます。
51:42 で、暴力と、私は暴力より異なっているとの 思考との間に、分離がないなら - 分離がないとき、暴力だけがある。 少しこれに、付いてきてください。 感受のその状態だけが、ある - あなたが暴力と名づけたものが、です。 それを見つめる。その暴力を、その言葉なしに、観察する。 それを観察する - 暴力を見つめている観察者として、ではない。 動いてください! それを見つめてください - 観察者が、ただ、暴力と呼ばれるあのものでしかないように、です。 それは、怒り、嫉妬などとしての感受です。
52:50 同様に、見る、接触、感受。 そのとき、 思考がイメージを創り出すのを、観察する - あのドレス、あのシャツや何であれ、それを持つ、と。 そのときそれが、所有したい欲望、否認したい欲望、それらを、創り出す。 で、頭脳は、見る、接触、感受でもって、止まれますか。 そこで止まって、思考にそのイメージへ介入させない。 それが、欲望について学ぶことです。 あなたはそれを、捉えましたか。 誰かがそれを、捉えましたか。
53:44 聴衆: ええ。
53:53 K: そのため、私たちは、頭脳を解き放ちつつあります。 それは、制御、葛藤、緊張、 それらが慣習化してきました。 私たちは、頭脳が全的に新たにそれ自体を観察するのを、助けています。 そのため、それはひどく生きてきて、 自らが百万年の間、受け入れてきた様式より、解き放たれるのです。 理解されますか。
54:34 で、欲望において矛盾がないなら - 欲しいことと欲しくないことが、です。 成功するために、自らが非情であることを知り、 けれども、成功したいとの欲望 - 付いてきていますか。 この矛盾は、明らかにも、 私たちの条件づけの一部ですが、 あなたは、それを観察するとき、どんな制御もなく、影響もなく、 方向づけもなく、見える。 あなたは、欲望の本性が、見えるのです。 それの理解は、自らの学びを、もたらします。 それは、自らの修練です。 捉えましたか。
55:40 で、そこから・・・すなわち、欲望と時は、無秩序の要因です。 あなたがそれを、本当に深く深遠に理解するとき、 自らの生に、完全な秩序が、あるのです。 全的な秩序です。 時折にではなく、週末にではなく、 私たちの日々の生をとおして、ずっと、です。
56:28 私は、止めなければなりません。 多くのことがあります・・・ ああ、すみません。 私は止めなくてはいけませんが、こう言っているだけです - あと二回、講話があります。 次の週末、土曜日と日曜日です。 質疑応答の会合が、火曜日と木曜日に、あります。 ですが、それら週末の間に、私たちは、他の大変多くのことへ、入らなくてはいけません - 楽しみ、悲しみ、痛み、嘆き、愛、慈悲、智恵のように、 そして、死と冥想とは何か。 私たちは、それら週末の二回に、それらを扱います。ですね? 今は止めたほうがいい。