Krishnamurti Subtitles home


OJ81T5 - 悲しみとともに留まること。
第5回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1981年5月16日



0:25 私たちには、今日と明日、全部で二回の講話が、あります。 明日は、講話の終わりになるでしょう。
0:50 今朝、私たちは、自らの意識の内容に入るべきです。 私たちは、ここ四回の講話の間に、 危機は、政治、経済、社会構造などに ないことを、言いました。 しかし、危機は、私たちの意識にある。 その意識は、人類すべての共通の基盤です。 なぜなら、どこに生きていても、世界中のすべての人は - 男、女 - 彼らは、大きな心配、不幸せを経ていき、 様々な形の娯楽をとおして逃避するからです。 娯楽は、様々な種類なのかもしれません - 宗教を含めて、です。それらは、無意味になってしまっています。 この危機には、応えなくてはなりません。 さもないと、人類は、退廃し、自らを破壊しようとしているからです。 どの考える人にとっても、それは明白である、と私は思います - 自己中心すぎない、観察するどの人物にとっても、です。 彼は、世界で起きつつあることが、見えます - テロ、暴力、戦争などなど、です。 で、危機は、私たちの意識にある。
2:49 今朝、私たちはできるなら、ともに - ともに、です - 繊細に、敏感に、 私たちの意識の内容へ、入りましょう。 内容が、意識を作り上げます。 内容なしには、私たちが知っているような意識は、 何の意味もありません。 で、私たちは、真剣に- よろしければ、ともに、です - 私たちの意識のこの内容へ、入らなくてはいけません。
3:41 どうぞ、指摘してもいいなら、 私たちは、どの種の宣伝をも、していません。 あなたに、何を確信させさせようとも、 あなたに、何を信じさせようとも、していません - 新しい理想、新しいユートピアをも、です。 ともに - 語り手は本気で、ともに、と言っています - この意識の内容を、探検するのです。 意識的であるものと、同じく、無意識的で、 深く自らの頭脳に隠れたものをも、です。
4:26 私は、第一の関心や検討は、 恐れについてであるべきだ、と思います。 恐れの始まりは、何ですか。 恐れはどのように生ずるのかと、それにどのように応えるべきなのかと、 全的にそれから自由であることは、 そもそも可能なのかどうか、です - 意識的な水準で、と、同じく 自らの意識の、より深い層でも、です。 そこに、恐れの根があるのです。 恐れは、人類すべての共通の要因です。 それは、あなたの特定の恐れではない。 あなたは、暗闇を、自分の夫を、恐れているかもしれません - または、何か自分が過去にしてきたことなどなどを、です。 この恐れは、あらゆる人間に、違った形で、 存在します - 彼らがアジア、インド、ヨーロッパやここ(アメリカ)や、 ロシアにすら、生きていても、です。 人類は、記憶なき時より、 この恐れの重荷を、運んできました。 見たところ、彼らはけっして、恐れの問題を、解決することができませんでした - それを全的に解消する、それから自由である、 それのものすごい重荷より 解放された、という意味での解決は、です。 今朝、ともに私たちは、ごく近くで 恐れの本性を、究明、検討しようとしています - その構造、恐れをもたらす要因は何なのかと 自らが、心理的にも物理的にも、完全に、どんな恐れの 陰もなく、いられるのかどうか、です。
7:24 私は、これを理解することが、重要である、と思います - 私たちが真剣であるなら、です。 うるわしい朝に、 美しい日射し、丘、陰、それらがあって、 恐れについて話をすることは、かなり不穏当に見えます。 しかし、私たちは、この二週間、ここに集まってきたので、 この問いへ、相当の注意を 向けるべきだと、思うのです。
8:20 恐れをもたらす要因は、多くあります。 私たちは、恐れの枝々を刈り込むか - 恐れの一つの枝、一枚の葉を次々、取って、 それらを検討するのか - または、それの根を、見出すかです。 単に、それの枝々、表現、作用だけではない。 むしろ、それの始まりを、 恐れの起源と、恐れの帰結を きわめて近くで、検討するのです。 私たちはそうするなら - 集団療法としてではない。 それは、むしろ不必要です。 あなたが、自分の特定の恐れを、取るなら - それが何であっても、です- 死、不安全、 絶望的なさびしさの感覚、 充足したいとの感覚、 自分自身の不充分さの感じ。 その恐れが何であっても、私たちは初めに、それを見つめられますか。 それから逃げ去るのではなく、 別の思考により、それを代替したり、 それを回避しよう、乗り越えようとか、それを征服しようとするのではない。 私たちは今朝、それの根、それの原因、それの起源を、 観察しようとしています。
10:59 世界中で、ほとんどの人間は - これは、要因の一つです - 傷つきます。物理的にも、また心理的にも、です。 外的により、内的に、です。 この傷は、それを完全に解消させるのでなければ、 余生の間、残っています。 それが、傷つくことが、 恐れの要因の一つです。 子どもの頃から、学校、専門校、大学など、 あなたが、運良く大学へ行くなら、です - なぜ大学を出るのか、私は知りません。 しかし、この深いけがが、ある。 それは、意識的なのかも、無意識的なのかもしれません。 心理的、内的に、けがをしたとき、 その傷の帰結は、自分自身のまわりに、壁を築くことです。 私たちがともに、これらに付いてきていることを、願っています。 あなたがそもそも敏感に、その事実に 気づいているなら、ご自身の傷を見つめて、です。 私たちはみんな、子どもの頃から、何らかの形で、傷ついています。 その傷の帰結は、さらに傷つかないために、 抵抗すること、回避することです。 さらに傷つかないことは、 心理的な抵抗を築くことを、含意しています。 それの帰結は、もっと多くの孤立、 もっと大きな恐れです。 それが、恐れの要因の一つです。
13:33 他の要因は、時です。 時とは、 起きてきたことが、もう一度、再発するかもしれない。 そして、望みがない、絶望的に望みがないときの 未来としての時。 時は、私たちの生において、大きな役割を果たします。 「有るもの」と、「あるべきもの」や、 「あるかもしれないもの」との間の間隔としての時。 今と、生の終わり、すなわち、死との間の 時、間隔。 で、時は、恐れの要因です。 要因の一つです。 どうぞ、私たちは知的に、言語的に、検討していません。 私たちは、実際に私たち自身を、見ています。 自身の恐れの本性を、見ています。 誰でもないことの恐れ。 なぜなら、あらゆる人が、誰かになりたいからです。 充足できないこと、達成しないこと、 ならないことの恐れ。 「なること」は、時を含意しています。 で、時は、恐れの構造において、大きな要因です。
15:56 それから、大きな・・・ 底なしのさびしさの要因が、あります。 私たちは、このさびしさに、気づいていますか。 自らは、たくさんの友だち、幸せな家族などを、持っているかもしれません。 しかし、あらゆる人が、このさびしさについて、知っています - 鋭敏に見守っているとき、です。 そこから、憂鬱、心配、 さびしい、全く何にも関係していない ことの恐れが、生じます。 自らが、これらを経て、このさびしさを経てきたことは、 確かです。 これを知っています。 このさびしさに気づいていて、 それから逃避しようとします。 逃避は恐れです。 その逃避は、教会なのかも、神なのかもしれません。 何か夢想、何か想像、或る種の信念、信仰と、 それらなのかもしれません。 または、知的な知識さえも、です。 この苦悶する、破壊的なさびしさから逃げ去ることです。 このさびしさは、自己中心的な活動、 自分自身についての、ものすごい関心です - あろう、なろう、達成しよう などという、この関心です。
18:42 また、この恐れの要因の一つは、執着です。 私たちはともに、これらに付いてきていることを、願っています。 語り手が尊敬を込めて、それをあなたへ指摘するのを、 あなたが、気になさらないなら、 あなたは単に、たくさんの言葉、たくさんの観念を 聞いていません。 そのとき、あなたは単に、知的に、言語的に これら恐れの要因を受け入れているだけなら、 そのとき、恐れは継続するでしょう。 しかし、私たちは、自分の恐れに、敏感に気づいているなら、 恐れは、きわめて多くの原因、多くの要因を、持つことが、見えるでしょう。 私たちはともに、これら要因を、検討しています。
20:03 おそらく、あなたたちの多くは、 この種の間近な究明、検討に、慣れていません。 で、どうぞ、よろしければ、 少し注意を払ってください。 聞くことの芸術を、学ぶことは、重要です。 私たちは、おそらく、けっして、誰にも聞きません - 自分の痛み、自分の心配、自分の悲しみや さびしさなど以外には、聞きません。 私たちは、けっして完全に、他の一人に、聞きません。 私たちが聞くのなら、それは、部分的に聞くことです。 または、私たちは聞くとき、聞こえることを、 翻訳するか、解釈します。 耳でもって聞くことが、ある。 注意でもって聞くことが、ある。 で、あなたが親切に聞いてくださるだろうことを、願っています。 私たちは、あなたに教えていません。 私たちは、何をも指摘しようとしていません。 ともに、この恐れの要因を、見つめています。 完全に聞こえるという、この芸術を、 学ぶことは、重要です。 それは、あなたの全的な注意を、この問いへ向ける、という意味です。 語り手は、これらの言葉を、使うかもしれません。 語り手は、そこにあなたは恐れが見られる鏡として、作用するかもしれませんが、 語り手と鏡は、重要ではありません。 それらは全的に、関連していません。 しかし、本質的で、重要であるのは、 恐れを観察することです。
22:50 私たちは、要因の一つは、とりわけ、 この執着である、と言っていました。 なぜ人間たちは、信念に、理想に、 彼ら自身のイメージに、何か概念に、言語的な構造に、 こんなに執着しているのか。 執着しているとき、その執着において、 どれほど深くても、どれほど瞬間的でも、どれほど気持ちよくても、 その所有欲、すなわち、執着には、 恐れがある。心配がある。 で、それが、要因の一つです。
23:56 主な要因は - あなたが間近で、検討しているなら、 思考が要因、主な要因です。 思考は、過去の物事の思い出です。 思考は、あるかもしれないことと、 ないかもしれないこととの投影です。 思考は、時の動きです。 私たちは、過去の講話の間、幾らか、それへ入りました。 思考は、記憶、知識、経験の応答です。 思考は、制限されているので、その作用は、制限されているにちがいない - 知識が、いつも制限されているように、です。 ゆえに、知識はいつも、無知の陰の中にある。 思考は、この分離、孤立の感覚を、 創り出します。あなたが観察するなら、その思考は、恐れを生み育てます - 私はそうであるかも、私はそうでないかもしれない、と。 私は、過去の楽しみを、知ってきました。 私には、未来の楽しみが、ないかもしれません。 で、過去が現在において、自体を修正し、 未来に、その修正を継続する、 というこの循環 - その未来には、大きな不安定性が、あります。 この不安定性は、恐れの要因の一つです。
26:57 これらが、恐れの多くの要因です。 あなたは、一つずつ要因を取り上げ、 各々の要因を理解しようとするのか。 あるいはまた、それの全体を、単一体として取り上げるのか。 それはすべて、即時に要因すべてを収集し、 恐れの本性と構造全体を見る、 あなたの能力に、依存します。 で、それは、あなたに依存します。 それが、全体としての恐れの知覚であるにせよ - それの全体、です。 検討されたことがない無意識的な恐れと、 私たちが検討している最中の意識的な恐れ、です。 あなたは、一つずつ、自分の恐れを取り上げるのか - それは、果てしなくなるでしょう - あなたは、死ぬまで、これをできます。 しかし、恐れを全体として、取りあげるなら、 そのすべての全体性の中で、主な要因は、時と思考です。 私たちは、時と思考の本性を、説明してきました。 思考は、恐れを生み育てます。 それらを見て、何をすべきでしょうか。 意識的な恐れだけではなく、 自らが気づいていないかもしれない隠れた恐れも、です。 それら恐れは、私たちが気づいていなくて、 無意識的で、自分の意識、 自分の頭脳の奥底に、 深く隠匿されていますが、 それら、隠れた、隠匿された、きわめて微妙な恐れは、 全的に露出され、見つめられますか。
30:45 私たちが互いに付いてきていることを、願っています。 それが可能なのは・・・ すなわち、意識的なものとともに、 私たちが気づいていない、より深い恐れ。 それは、あなたが完全な注意を向けるときだけ、可能です。 それは、あなたが恐れに向き合わなくてはいけない、という意味合いです - 恐れが何なのかに、実際に向き合う。 その恐れは単に、言語的な恐れであるのかどうか。 なぜなら、言葉は、恐れを創り出すからです。 なぜなら、言葉は、自らの連想、自らのイメージを、持っているからです。 あなたが一定の言葉を使うとき、 まさにその言葉が、恐れを創り出すかもしれません。 あなたがこれらに付いてきていることを、願っています。
31:59 で、その言葉の本性と、その言葉が恐れを 創り出しているのかどうかに、気づかなければなりません。 または、私たちが説明してきたように、恐れの多くの要因 - 私たちはそれを、その言葉なしに、観察できますか。 樹を、このオークの樹を、観察するように、 それを、言葉なしに、見つめる。 なぜなら、観察しているとき、 言葉が入ってくるなら、あなたは本当に、実際に観察していないからです。 それを観察する。 恐れの本性全体を、完全に観察する。 それが何であれ、あなたが、自分の特定の恐れを取りあげ、 完全な注意でもって、それを観察するなら - おそらくあなたは、何にも全的な注意を、向けたことがないでしょう。 私たちは、とても不注意です。 ほとんどの人々にとって、自らの全存在でもって 注意深いことは、とても困難です。
33:55 注意は、あなたのエネルギーを向けることを、含意しています。 注意は、完全なエネルギーでもって、 何かへの全的な観察を、意味しています。 あなたがそう、完全な、全的な注意を向けるとき - ゆえに、自らの持つエネルギーすべてでもって、です - そのとき、恐れは消え去ります。 一つの特定の恐れではなく、 恐れは完全に、消え去ります。 あなたが聞く中で、実際に こうしていることを、願っています。
35:03 恐れは、もう一つの形の楽しみです。 人は、見たところ、諸時代をとおしてずっと 楽しみを追求してきました。 この国では、娯楽へ、興奮への 永久の要求が、ますます 観察されます - 性的とか、どの形の楽しみへも、です。 異なった種類の楽しみを、招いています。 またもや、あなたが、ごく近くで観察するとき、 楽しみとは何でしょうか。 興奮への要求。 あなたがテレビで、書物で、 その他すべてで、観察してきたなら、 楽しみへ、興奮へ増大する常のこの要求の感覚、です。 実際の楽しみがあるとき- 実際の楽しみです - それが楽しめることを、意識していますか。 またはそれは、一瞬の後ですか。 それが一瞬の後であるなら、それは、思考の活動です - そちらが、その出来事を、楽しめると憶えてきたのです。 どうぞ、これらを検討してください。 で、思考はまたもや、この楽しめる追求に、大きな役割を果たします。 そういうわけで、思考の本性を理解することが、とても重要であるのです - なぜ思考が、すべての人々にとって、全く重要になったのか、です。 それは、恐れを生み育てます。 それは、楽しみを生み育てます。 それらは、同じコインの裏表です。
38:15 私たちは、今朝、時間があるなら、 苦しみの問いへ、入らなければなりません。 苦しみとは、何でしょうか。 大きな心理的な痛み、嘆き、 心配、自らが流す涙とは、何でしょうか。 苦しみとは、何でしょうか。 またもや、諸時代をとおして、人は、この問題を解決したことがありません。 キリスト教はそれを、棚上げし、 一人の人物と同一視してきました - キリスト教の歴史すべてにおいて、です。 アジア世界は、嘆きへの自らの説明を、持っています - 過去の行為のそれです。 結果が、悲惨、葛藤、 痛み、苦しみです。 それらはすべて、説明です。 それらはすべて、様々な形の逃避です。 すべての逃避は、同様です。 高尚な逃避や下劣な逃避はありません。 逃避は同様です。 もし逃避しないのなら、 悲しみとともに、動じないで、留まれるでしょうか。 どうぞ、もしよろしければ、少しこれに付いてきてください。 なぜなら、私たちはみんな、大きな悲しみを、経ていくからです。 死の悲しみ、さびしさの悲しみ、 孤立の悲しみだけではない。 何らかであることの痛み - 美しくないなど、生の些細なことすべてと、 重大な主題のすべて、です。 私たちはみんな、苦しみます - 適度に、表面的にか、深く、です。 冷笑的になることなく、 言語的、合理的、理性的に、それを説明してしまうことなく・・・ それは可能でしょうか - 自らが深い悲しみの中に、 誰かを失ったとき、訪れる悲しみ、 生の悲惨全体の悲しみの中にいるとき、 それを見つめられますか - 思考のどんな動きもなく、 それとともに留まる、という意味において、です。
43:03 あなたは不幸にも、或る種の悲しみを、持ったにちがいありません。 それを分析せず、それから逃避せず、 それを合理化せず、それを試験管に入れず、 それを、何か化学反応に還元せず、 あなたはそれを、見つめ、観察し、それとともに完全に留まることが、できますか - それが物理的な痛みでも、心理的な嘆きでも、 逃避の何の動きや陰もなく、 全的に、それとともに留まるのです。 それは、実際にあなたのエネルギーと注意すべてを、それへ向ける、という意味です。 なぜなら、悲しみの瞬間に、 あなたは、その悲しみであるからです。 それは、あなたが悲しんでいる、ということではない。 あなたの全存在が、悲しみです。 あなたがこれを理解されるのかどうか、私は知りません。 あなたを離れて、恐れはない。 あなたは、恐れの一部です。 あなたは、恐れの要因すべての一部です。 で、あなたは、この悲しみを もたらすことになる、要因すべてです - 人類はそれを、諸時代をとおしてずっと、運んできました。 個人的な悲しみだけではなく、 また、人類の悲しみも、あるのです。 或る人物の瞬間的な悲しみだけではなく、 地球的な悲しみも、ある - 無知の悲しみ、 貧困の悲しみ、戦争がもたらしてきた悲しみ、 それらの涙、心配、残忍さ。 そのすべてを、見てください。 それと完全に、全的に接触する。 そのとき、その接触の中、あなたが注ぐから、 この全的なエネルギーが、ある。 私たちは、自らのエネルギーを、消散させます - 論争に、果てしない話に、 いつの時も、何やかやへ 没頭することに、です。 頭脳はけっして、没頭から自由ではない。 科学者、ビジネスマン、主婦、 宗教的な人々、司祭者を、観察してください。 彼らはみんな、何やかやへ没頭しています。 その没頭は、どれほど快くても、どれほど不愉快でも、 エネルギーを、消散させるのです - 生のこれらすべての要因に、 応えるために要求されるエネルギーを、です。 生はまた、没頭です。 ですが、果てしなく没頭しているとき、 そのため、頭脳はけっして自由でなく、けっして静かでないのです。 静寂に事実へ向き合う、 静寂に、恐れ、悲しみ、さびしさ、絶望へ向き合うのは、 そういう精神や頭脳だけです - そのときあなたは、そういう静寂が それを消散させることが、自分自身で見えるでしょう。
48:57 私たちは今朝、死について話す時間が あるのかどうか、私は知りません。 それは、生の主な要因の一つです。 大きな要因の一つです。 人類、私たちのみんなが、 それを理解する能力がないように、見えます。 化学的に、ではない。 なぜ人体が、不使用、喫煙、薬物、 果てしない形の耽溺により、滅亡するか、ではない。 死の意義です。 物理的な有機組織が、終わりになることではない - それは、必然的にそうなるでしょう。 使われるものが何でも、擦り切れてしまうように、です。 私たちがそれを誤用してきたときの身体のように、です。 身体は、自らの智恵を持っていますが、 私たちはそれを、破壊してきました。 しかし、私たちは、死の本性、それの意義、意味、 深さを、訊ねています。 それの恐れではなく、老齢、老衰、 何かの病気、事故の恐れではなく、 それの意味、それの深さ、です。 そこには、大いなる美しさが、あるかもしれません。
51:37 私たちが言いましたように、今朝、それについて話をすることは、 可能でないかもしれません - 私は、それは可能だと思いません。 明日の朝、そうするでしょう。 明日の朝、私たちは、それについて議論するでしょう。 また、宗教的な精神とは、何なのか、 崇敬、尊敬とは、何なのか、 思考が創案したことがない、神聖なものが何かあるのかどうかについても、です。 私たちが今、崇拝するものは、思考の産物です。 思考は、物質的な過程です。 で、思考については、いかなる神聖なものも、ない。 思考は、教会と、それら教会、 寺院、モスクの内容を 創り出してきましたが、そこには、何も神聖なものはない。 なぜなら、それらは組み立てられてきたからです - 儀式、つづいているすべては、 思考の結果です。 で、私たちはともに、宗教とは本当に何なのかを、検討しなければなりません。 なぜなら、宗教は、新しい文化を創造するからです。 私たちは、明日の朝、それらへ入らなければなりません。 また、冥想とは何なのかにも、です。
53:36 あなたが気になさらないなら、私たちは今、止めましょう。