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OJ81T6 - 終わることが、死であるが、そこには、大いなる美しさがある。
第6回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1981年5月17日



0:24 よろしければ、指摘したいと思います - これは、どの種の興奮のため、 どの種のロマンチックな霊感や感傷的な事柄のための、 集会でもありません。 それは、かなり真剣な集会です - 少なくとも、語り手はそうです。 新しく来られたらしい人々も、多くおられるので、 どうか、私たちは、どの形でも、宣伝をしていない、 あなたに何をも説得しようとしていないことを、どうぞ、納得してください。 また、何か夢想的で無意味な、インドや 東洋の哲学や、異国風の神々と導師を、 持ってこようとも、していないことも、です。 ここで去る五回の集会の間、ともに探検してきて、 私たちはともに、世界の退廃に、関心を持っています - 戦争、核爆弾の脅威などなどに、です。 私たちは、それらについて、相当に話してきました。
2:18 また私たちは、危機は政治にないことを、言いました - また、経済の世界にも、 いわゆる組織的な宗教の世界にも、ないのです。 危機は、私たちの意識に、私たちの精神に、 私たちの心に、私たちの活動に、あるのです。 この危機を、私たちは相当に、長く検討してきました。 昨日の朝、私たちは、恐れについて、話しました。 私たちはまた、自分たちの生における秩序について、話してきました - そこには、多くの無秩序があります。 そこには、私たちの日常生活には、ほとんど抑制がありません。 いかなる規律、修練もありません。 私たちが、規律、修練(ディシプリン)という言葉を、使う意味は・・・ その言葉は、語源の「学徒」(ディサイプル)から、来ています。 それは、学ぶという意味です。 生きる様態を学ぶこと、 実際に宗教とは何か、冥想とは何か などについて、学ぶことです。 修練(ディシプリン)は、学ぶ、という意味です。 単に、一定の行動様式へ、自己を適応させること、 自分の欲望を抑圧することなどだけではない。
4:22 私たちは、これらについて、詳細に話してきました。私たちは、 思考が、私たちが生きるこの世界を、創り出してきたことを、言ってきました - その災難すべてをともない、戦争をともない、国家、民族の分割をともない、 核爆弾の拡散などをともなった世界を、です。
5:00 昨日、私たちは、恐れの始まりについて、話しました。 私たちは、指摘しました - ともに、です。 語り手は、ともに、というつもりで、言っています。ともに、です。 語り手は、何か異国風の、風変わりなことを、 言っているわけではない。 孤立した視点でもない。 ともに私たちは、自分たちの恐れを、検討しました - 恐れの要因、恐れがいかに生ずるのか、恐れの多くの様相を、です。 様相は、ごく近くで検討できます。 しかし、それらはすべて、この事実、すなわち恐れを、含有しています。 私たちは昨日の朝、それについて相当に、話をしました。
6:14 また、私たちはともに、話をし、 ともに究明し、これらの物事を、ともに考慮しました。 常にこれを、反復しなければなりません。 なぜなら、私たちのほとんどは、何をすべきかを言われることに、慣れているからです。 私たちは、特にこの国(アメリカ)では、慣習になっています - ここでは、あらゆる分野で専門化が、あります。 それら専門家たちは、書物を書いてきました。 私たちは、それらすべての書物を、読みます。 私たちはけっして、自分自身で明らかに考えることが、できません。 私たちは、他の人たちの奴隷になってしまっています。 私たちは、これら講話の始まりに、これへ入りました。
7:17 またもや、きわめてはっきりと、反復しなければなりません。 あなたが、反復を気になさらないことを、願っています。 そこには、きわめてはっきりと、下線を引かなければなりません - 私たちは、世界をありのままに観察している、 そして、世界は、私たちの存在の心理的状態において、 とても複雑である、ということです。 ともに私たちは、それらを検討しています。
7:55 今朝、これは最後の講話ですから、 今朝、私たちはさらに、私たちの意識と その内容への検討に、入ろうとしています。 内容が意識を作ります。 内容なしには、私たちが知っているような意識は、存在しません。 で、私たちは、自分たちの意識のこの内容の様相を、 次から次へ、ごく近くで検討しました。
8:46 私たちは、昨日の朝、ともに話をし、 私たち一人一人に、自分の恐れを観察するよう、頼んでいました - それから逃避しないで、それを抑圧しないで、 それを隠してしまい、閉じ込めてしまわないように、です。 私たちは、それを見つめられ、向き合えなければならない、と 言っていました。私たちはそれに、直接的に応えるように、です。 なぜなら、人は、何百万年に何百万年もの間、諸時代をとおして、 この重荷を、運んできたからです。 私たちは、それらの結果です - 過去の恐れと、現在の恐れの、です。 私たちは、恐れの本性を、深く理解して、 それから自由でないのなら・・・恐れは、愛とともに、生きられません。 私たちは昨日、それについて、話をしました。
10:07 私たちはまた、楽しみについて、かなり短く話をしました。 この世界には、特に、西洋世界には、 さらに、アメリカ、この国には - どうぞ、留意してください。私たちは、この国やあなたたちを、批判していません。 私たちはともに、事実を観察しています。 私の視点、語り手の視点ではない。 特定の視点でもない。 ですが、あなたが、この国で何が、起きつつあるかを、観察するとき、 あらゆる形の興奮、 性的と他の形の興奮、 快楽追求の原理、 自分の欲望の表現の追求と、 その欲望の表現は、楽しみの形を取るのです。 私たちは、それについて、話をしました。 私たちは、欲望の本性に入って、究明しました。 欲望は、感覚の目覚めです。 私たちはまたもや短く、それを反復しています。 作用中の諸感覚、接触、そのとき、感受です。 そのとき思考が、そのイメージとともに、その感受へ入ります。 そのときから、欲望が始まります。 私たちは、それについて、話をしました。 私たちは、よくよく気をつけて、それを説明しました - 詳細に、その事実を、です。 見る。それは感受です。 接触、触れる、 その触れることから、感受、 そのとき思考が、イメージを創り出す。 思考がそのイメージを創り出すとき、欲望が始まります。 私たちはまた、欲望の活動と、 欲望に、それ自体に潜む矛盾などをも、指摘しました - その矛盾から、私たちの葛藤が、生じます。
13:26 楽しみは、幾時代をとおしてずっと、様々な形で、 人の追求でした - ほとんど性的なのと、心理的なの、です。 それは、行為に、物理的世界に、表現されます。 あなたは、自分自身、進んで、それを検討するなら、これを間近で観察できます。 楽しみは、物理的な楽しみでも、 権力の楽しみ、所有の楽しみでも、 互いに依存し合う楽しみでも、 必然的に、その道筋に、恐れを運んでいくにちがいありません。 あなたは、これを観察するなら、それを、自分自身で見られます。
14:32 私たちは昨日、人の苦しみについて話して、始めました。 人は - もちろん、語り手が人(マン)と言うとき、 (男だけでなく、)女も含まれます。 どうぞ、ご婦人方は、それについて興奮なさらないでください。 そこには、女が含まれています。 人は、記憶なき時から、諸時代をとおしてずっと 苦しんできました - 物理的にも、 特に心理的に、内的にも、です。 苦しみは、人の定めであったのです。 アジア世界は、インドを含めて、 それは過去の行為、いわゆる業の結果である、と言います。 その説明は、ほとんどの人々を満足させるように、見えます。 世界のほとんどの人々は、説明に満足するように、見えます。 しかし、説明、言葉は、実際ではありません。 「苦しみ」、その言葉は、実際の身震い、 実際に涙を流すこと、 大きな空っぽ、さびしさの感じではありません。 苦しみは、特にキリスト教世界では、 或る象徴へ、移譲されてきました。 私たちは、自らの苦しみを、誰かへ譲りわたすことにより、 私たちの苦しみが終わるだろう、と考えます - 様々な形で、です。 しかし、世界中で、人は苦しみます。 苦しみは、心配、嘆き、不安定です。 深く長続きし、見たところ、 変化させられない、さびしさの感覚です。 あなたは、自分自身で観察できます。 私たちはともに、観察しています。 あなたは単に、語り手に聞いていません。 私たち自身の中で、実際につづいていることを、 語り手が描写しているにつれて、あなた自身を観察しています。 人はいったい、苦しみを終わらせられますか。 悲しみに、終わりはありますか。
17:53 根源的な問いを、訊ねなければなりません - 表面的な要求と、安っぽい答えではなくて、です。 いつも、自らの根源的、根本的な問いを、訊ねなければなりません。 人は、あなたは、いったい 悲しみを、終わらせられるのかどうかは、根本的な問いなのです。
18:42 恐れがあるとき、愛が - 私たちは、だめにされてきたその言葉に、入るでしょう - 恐れがあるとき、愛がどうして、ありえますか。 それが単に、興奮と楽しみの事柄になってしまったとき、 どうして、そのものがありえますか。 愛は、欲望ですか。 愛は、興奮の事柄ですか。 野心、攻撃性があるとき、愛は存在できますか。 或る人間が、子どもの頃より、傷ついてきたとき、愛はありえますか。 悲しみがあるとき、愛はありえますか。 または、「愛」と呼ばれてきたあの香り、あのものは、 このすべてが終わるとき、ありうるだけですか。 それは可能でしょうか - 知的にではなく、 単に説明で満足するだけではない。 悲しみ、恐れと他のことを、 化学物質、化学の科学的な事柄へ還元してしまい、 それらで満足するのではない。 愛があるならば、私たちはどうして、他の一人を殺せますか - 戦争ででも、暴力ででも、です。
21:09 見たところ、私たち人間は、このひどい悲劇に、捕らわれています - 習慣、伝統の(悲劇)、 萎縮してしまった頭脳の活動の(悲劇)、です。 なぜなら、私たちは、機械的に機能しているからです。 私たちは、信念へ、信条へ、取りすがります - 果てしない無意味な儀式の常なる反復へ、です。 西洋世界の教会すべての中と、 東洋世界での儀式です。 これらすべての儀式は、思考により、組み立てられています。 思考は、物質的な過程です - 私たちが、何度も何度も説明してきたように、です。 幾らかの科学者たちは、それを受け入れはじめています。 科学者たちは、自らの生において、そういう支配的な影響力を、持っているから、 おそらくそのとき、あなたもまた、それを受け入れるでしょう。 しかし、あなたは、思考と、思考の起源を、考えるとは何なのかを、 検討するなら、 それが、記憶から生まれることが、見つかるでしょう - 知識、経験。その経験から、思考。 行為における思考、などです。 これが、頭脳が働くところの連鎖です - 現在に、です。 経験、知識。 頭脳に蓄えられた記憶。 その記憶から、行為 - 上手にか、下手にか、です。 その行為より、もっと多くの知識を、学びます。 で、あなたは、この連鎖をつづけます。 それは次第に、頭脳を萎縮させつつあります。 あなたが何度も何度も、同じことを、反復するとき - 儀式において行われるように、です。 強い信念、確信、結論を持つ中で、 頭脳は必然的に、萎縮するだけでなく、 栄養を欠くにちがいないのです。 この萎縮の要因の一つは、 人が、あらゆる種類の幻影を、堪える、ということです - 宗教的な幻影、心理的な非事実などを、です。
24:36 今、私たちは、悲しみがいったい、終わりうるのかどうかを、訊ねています - 個人的な悲しみだけではなく、人類すべての悲しみが、です。 悲しみは、悲しみです。 それは、あなたのや私のではない。 これら五千年の戦争をとおして、 創り出されてきた、悲しみ。 人間たちが、戦争の準備をしている、悲しみ。 人々の間の、果てしない分割の悲しみ - カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教徒、仏教徒、 イスラム教徒として、アラブ人とユダヤ人、 アメリカ人とロシア人、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒などとして、です。 この常なる分割は、世界に、大きな葛藤、抗争を、もたらしています。 私たちは、これを悟るように、見えません。 私たちは、自らが向き合っているおぞましい危険を、悟るように見えません。 私たちは、何らかの形の 興奮、知識、説明をとおして、それらから逃避したいのです。 これらに敏感に気づく - 人が創り出してきた社会に、です。 それで、私たちは、それらの部分です。 ゆえに私たちは、全く責任能力がある - 世界で起きつつあることすべてへ、 全的に、完全に、責任があるのです。
27:15 あなたは、これらを、受け入れないかもしれません。 しかし、私たちが言いましたように、批判的、懐疑的に、相当の疑いをもって、 これらを検討しなければなりません。 私たちは、自らの頭脳を、その最高の能力まで、行使しなければなりません。 その能力は、私たちの個人的な悲しみにより、個人的な恐れにより、 無能にされます。 私たちは、人類すべての恐れを、縮減します - 人間すべてが抱えるものを、です。 なぜなら、世界中の人間すべてが、苦しみ、不安定で、 心配で、葛藤の中にいて、混乱し、 常に安全を探し求めているからです。 これは、人類すべての共通の基盤です - あなたがインド、極東に生きていても、 ここ(アメリカ)や、ヨーロッパやどこに生きていても、です。 で、私たちの意識は、人類すべての共通意識です。 その意識の中に、悲しみ、恐れ、 楽しみと、時折の愛の閃きが、あります。
28:58 私たちは、見ようとしています - 苦しみは、考えるのを歪曲しますが、 苦しみはいったい、終わりうるのかどうか、をです。 どうぞ、その質問を、あなた自身に、なさってください。 質問者があなたに、自分自身へその質問をするよう頼んでいる、のではない。 それは、あなたの悲しみ、人類の悲しみです。 どの言葉、どの説明、どの説明も、その悲しみを、拭い去れません。 それに、向き合わなくてはいけません。 あなたは、それに斜に、普通に向き合い、 辛抱できずに、それを乗り越えようとするのか - そのとき、そうであるなら、あなたは直に、それに直面していません。 すなわち、完全に、全的に、有るものとともに、留まる - どんな思考が、介入し、 実際に悲しみであるものを、歪曲することもなく、です。 悲しみは、自己憐憫でも、自己虐待でも、自己否定でもある。 自己の様々な活動 - 自らの欲望を充足しようとする。 失敗するか、成功する。 それらが、悲しみの部分と、もっと多くです。 それを間近で見つめられ、それと全的に接触できますか。 あなたと、「悲しみ」と呼ばれるものとの間に、 何も分割がないなら、 それと、全的に完全に、接触できるだけなのです。 あなたは、悲しみより、分離していません。 あなた、観察者は、悲しみは自分より違っていると考えて、 悲しみに対して、行為しています。 逃避しよう、抑圧しよう、分析しよう、逃げよう、 それを乗り越えよう、それを終わらせようとしています。 そのすべてが、あなたと悲しみとの間に 存在する分割を、指しています。 それが、私たちがその中に生きてきた伝統です。 しかし、事実は、あなたは悲しみであるのです。 あなたは悲しみより分離したのではない。 あなたが怒るとき、怒りは、あなたより違っていません。 あなたが暴力的であるとき、その暴力は、あなたより違っていません。 あなたが、宗教的な人物、象徴を創造するとき、 それら創造物は、あなたの一部です。 それらは、あなたより分離していません。 あなたは、それらを、自分より分離した何かとして、崇拝するかもしれませんが、 人がそれらを、創造してきました - 手によってか、精神によって 作られたそれら象徴、イメージです。
33:45 この分割は、葛藤だけをもたらすので、 それを観察する。まず第一に、この分割が存在することを、観察する - それは伝統です。その伝統の教育を、私たちは受けてきました - すなわち、「私」は、悲しみ、痛み、心配、恐れなどより、 または、楽しみよりさえ、分離している、と。 私たちは、子どもの頃から、これへ条件づけられてきました。 その条件づけを破り、それで葛藤を終わらせることは、 観察すること、その悲しみと接触することです - その恐れと、それら欲望と接触する。 外から内を見ている観察者のどんな感覚もなしに、です。 人間たちとの関係すべてにおいてのように、 思考は分割を、創り出してきました。 あなたが、他の一人との自分の関係を、観察するなら、 それがどんなに親密であろうとも、 あなたは他者より分離していることが、見つかるでしょう。 明白です。 関係におけるこの分割や、 国内的に、国際的にも、分割は、 必然的に、葛藤をもたらすにちがいない。 それは法則です。 私たちが指摘してきましたように、 私たちがどこにいようとも、私たちの関係すべてに、葛藤が存在します。
36:04 私たちは、訊ねています - 悲しみと全的に接触していて、 どの種類の分割もなく、 それを乗り越えようとか、 それを説明しようとかする陰もなく、全的にそれとともに、ある。 あなたは、それとともにあるとき、 それへ完全な注意を、向けています。 それは、この注意です - あなたの全エネルギーをともなった、 この全的、完全な注意です。悲しみを消し去る、終わらせるのは、そのエネルギーです。
37:04 また、私たちは、その問いに入らなければなりません - このような、うるわしい朝に、 澄んだ日射しと、木の葉に照る光の美しさと、 陰と、山々と、谷があるが、 私たちは、その問いへもまた、入らなければなりません - あなたが、恐れていないなら、あなたが、探究しているなら、 死とは何かへ、です。 それは、私たちの存在の部分です - 生まれることと死ぬこと、です。 生まれたのと死ぬのと間の、人類の苦労すべてです。 すべてのひどいさびしさ、無秩序。 外的世界について、積み上がる知識。 心理学者たちによる、 内的世界について、積み上がる知識。 そちらは、心理学者が説明するより、はるかに複雑です。 生まれるのと死ぬのと間に、あらゆる種類の関係が、あります - その葛藤すべてをともない、 その中には、喜びと楽しみなどの瞬間が、ある。 生まれたのと死ぬのとの間に、積み上がる戦争の危険が、ある。 不安定、自然と人間たちの、怖ろしい 残忍な破壊がある。 で、死の意義が何なのかを、理解するか、 探究することが、重要です。
39:49 死は、生の一部です。 私たちは、生を、様々な区分、様々な分割へ、砕いてきました - それをあなた自身で、見つめてください - 恐れとして、悲しみとして、憐れみとして、ビジネスとして、政治として、 商業主義として、男、女、性別、セックスとして、痛み、嘆き、 心配、不安定として、です。 私たちは生を、断片に砕いてきました。 私たちは、死を一断片として、見つめます。 私たちは生を、けっして全体として、取りません - どんな分割もなく、砕かれることなく、です。 生は、動きです。 私たちが生を分割するなら- 私たちは、そうしますが - 死は、ひどいこと、無意味な終わりになる。 どうぞ、これをあなた自身で、観察してください。 自分の生は、そのように砕かれています。 「私」と「あなた」、「われら」と「彼ら」、 あの信念に対するこの信念、あの国家に対するこの国家、 あの人種に対するこの人種。 各々が、成功しよう、充足しようとしていて、 痛み、心配など、です。 私たちは、生を、この地上に生きることを、砕いてきました -支離滅裂に、です。 分離があるところ、葛藤があるにちがいない。 分割があるところ、回避不可能な葛藤があるにちがいない。 私たちの生は、生まれた瞬間から、 死ぬまで、終わりなき葛藤です。 その葛藤の中から、あらゆる形の神経症が、生じます。 そのとき、それの問題すべて、です- それらに、心理学者は応えます。 で、私たちは、このように継続します - 生まれた瞬間から、死ぬまで、です。 私たちは、これを、生と呼びます。 これを、生きることと呼びます。 私たちは、これに縋りつきます。 ほとんど意味がなくなったこの存在、 ほとんど意義を持っていないこの生- 私たちが生きているものは、です。 葛藤に、どんな意義がありますか。 前進ですか。 何へ向かう前進ですか。 もっと多くの葛藤ですか。 もっと良い社会へ向かって、ですか。 その社会は、象徴です。 それは、実際ではありません。 もっと良いもの、その社会は、 私たちの、互いとの関係により、創り出されます。 私たちの関係が正しいなら、 私たちの、互いとの関係が、葛藤なしであるなら、 私たちは、そこに葛藤がない社会、政府を、 持つでしょう。 それは、私たちであるでしょう。 私たちが適切に振るまうなら、なぜ政府が、要るのでしょうか。 私たちは、こんなに腐敗しているから、 政府を持ちますが、それらは、ますます腐敗しつつあるのです。
45:10 で、これが私たちの生です - 私たちが生まれた瞬間から、死ぬまでです。 これへ私たちは、必死に縋りつく。 なぜなら、私たちは、死でもってこのすべてが・・・ おそらく私たちは、何か知られていないものへ、入っていくと、思うからです。 これを、私たちは知っています。 私たちはこれに、親しんでいます - 葛藤に、欲望の充足、楽しみに。 私たちはみんな、これを知っています。 しかし、私たちは、死の後に何が起きるかを、知りません。 で、アジア世界、特にインドは、古代に、 「あなたは来世に生まれ変わるだろう」と言いました - 「死後に誕生がある」と。 試験管の中での誕生ではなく、 遺伝学の新しい実験の誕生ではなく、 私たちが生きる生が、その複雑な苦労すべてを、ともなって、です。 今、正しく生きるなら、来世、あなたは、もっと良い機会を得るでしょう。 小屋に生まれるかわりに、宮殿で生活するでしょう、と。 もっと良い生活 - 物理的にも、心理的にも、です。 あなたはいつも、もっともっと良く、もっと高尚になっていくでしょう。 ついに、究極的にあなたが、あの最高原理に、到るまでです - インドでそれは、「ブラフマン」と呼ばれます。 で、輪廻転生は、これらすべての人々のお気に入りの理論です - おそらく、東洋世界の全体、です。 ここ、キリスト教世界で、 あなたたちは、自分の形の復活を、持っています - あなたは究極的に、神の横に座るでしょう。 しかし、輪廻転生を信じている人たちは、 いつものさまで、振るまいます- 残忍で、暴力的です。 彼らは実際に、自らの信念を、信じていません。 もしも信じていたなら、彼らは、何の暴力などの感もなく、 公正に、正確に振るまうでしょう。 ここ、西洋でもまた、私たちは、これらすべてのことについて、話します。
48:52 で、私たちは訊ねています- 死の意義は何でしょうか。 私たちは、その問いを回避するのではなく、それに答えなければなりません。 私たちは、ごく近くで、それを見つめなければなりません - その死が、老齢で、病んだ身体で起きるのか、 有機組織が間違った形で使われることなどで、なのかどうか、です。 死の意味は、何でしょうか。 この質問をすることは、とても重要です。 なぜなら、これは、私たちの生の一部であるからです。 それは、生の終わりの何かではない。
50:17 明白に、有機組織は、終わりになる - 病気、老齢、事故などをとおして、です。 私たちは、今のように、葛藤と悲惨、混乱、不安定の中に生きて、 何らかの空想的な思考の投影へ、信を置いていて、 その事実に、向き合えません - 死とは何なのか。それの意味は、何なのか。 美しさは、何なのか。 意義は、何なのかに、です。 私たちがこれらの講話で、先に指摘しましたように、 私たちの意識は、その内容から作り上げられています。 内容は、私たちの生、信念、教義、儀式、 恐れ、悲しみ、心配、傷、 民族性、国籍の分割、 キリスト教徒、仏教徒とヒンドゥー教徒と、イスラム世界です。 私たちの意識は、実際に、人類すべての意識です。 で、あなたの意識は、人間たちすべての意識です。 あなたは、全世界です。 世界はあなたです。 あなたは、違った肌を持っているかもしれません。 あなたは、違った宗教に所属していて、 自分自身を、民族主義的な名前で呼ぶかもしれません。 しかし、実際に- 心理的に、私たちは話しています - あなたは、残りの人類です。 駆り立てられ、不安定で、 ものすごく心配で、模倣し、順応するなどなどしています。
52:59 で、死があるとき、有機組織は死にます。 人類のその意識は、つづいてゆきます。 それら意識の内容より 自由になる人たちだけ・・・ 彼らは、それから自己を解放します。 彼らは、死の意義から、自己を解放します。
53:36 で、私たちは、ごく近くに行って、探究しなければなりません - 死の意味は、何でしょうか。 あなたは、何かを終わらせたことが、ありますか - 説明なく、抵抗なく、 報酬を求めることや処罰なく、何かを終わらせる。 ありますか。あなたは、執着を完全に終わらせたことがありますか。 それが、死ぬことが、意味することなのです- 終わることです。 死が来るとき、そのすべてが、切り捨てられます - 或る人物へのあなたの執着が、です。 で、死の意義は、 その最も深遠な意味において、終わることです。 で、賢い人は、終わるために、死を待ちません。終わります - 恐れ、執着、さびしさ、悲しみを、終わらせます。 完全に、終わることがあるとき、 全的に、違った次元があります。
55:35 それは、死の意義の一部だけです。 死は、とてつもない美しさの感覚を、持っています。 あなたは、それを聞くと、驚くでしょう。 なぜなら、死でもって、何かが終わることは、また 他の何かの始まりでもあるからです- それは、愛です。 ええ、私はあなたへ、それを示しましょう。 懐疑的であるのは、良いことです。 疑うのは、良いことです。 誰が言う何をも、受け入れないのは、良いことです - 語り手を含めて、です。特に、語り手を、です。 自分の導師を疑いなさい。 すると、彼らは消え去るでしょう。 拍手なさらないでください。 自分の信念、自分のあこがれ、自分の欲望、自分の野心、 自分の宗派的精神を、疑ってください。 またあなたは、疑い、問い、懐疑的であるべきです - そのため、自分自身で、真理が何なのかを、見出すように、です。 誰にも依存しない - 司祭者、儀式、権威に、です。 特に心霊の世界では、 いわゆる霊性の世界では、です。 自分自身にとって、光でなければなりません。 あなたは、いつも他の誰かに依存しているなら、 あなた自身にとって、光ではありえません。 この依存 - それを終わらせなさい! 数年後ではなく、今、です。 すなわち、終わることは死です。 あなたは何かを終わらせるとき、その終わることに、大いなる美しさがある - 継続的であるものに、ではない。
58:33 で、私たちの意識が残りの人類の意識であることを、 悟るとき、個人的な不滅性の観念全体は、 無意味になります。
58:59 また私たちは、その問いへも入るべきです。 私たちは時間があるから- 今朝、私たちに時が与えられていました - 私たちはまた、宗教とは何かの問いへも、入らなければなりません。 なぜなら、世界は退廃しつつあるので、 世界宗教が何もないなら - ヒンドゥー教、仏教、キリスト教、イスラム教ではない - 世界宗教、です。 新しい文化が生じうるのは、宗教的な精神、 地球的な、宗教的な精神の中からだけなのです。 テクノロジーの文化ではない。 それが今、人類の文化です。 車の作り方、コンピューター、ロボット、 原子爆弾、戦争の兵器、 軍艦、航空機、外科手術、 穀物の増産の仕方、などなどです。 すべて、テクノロジーに依存します。 またもや、そのテクノロジーは、思考に基づいています。 思考は、不完全です。 なぜなら、知識は、どの境遇のもとでも、 けっして、完全ではありえないからです。
1:00:50 それで、宗教の意味は何なのかを、 自分自身で、見出さなくてはいけません。 その(レリジョンという)言葉の意味は、ギリシャ語、ラテン語などより - 語り手は学者ではありません。 とんでもない! - 語り手は、少し個人的になってもよければ、 これらすべての書物を、読みません。 彼は、言葉の元の意味を探して、辞書を見ます。 宗教(レリジョン)という言葉は、レリジャレから、来ています。 - 「結びつける」。 私はそれらに入らないでしょう。 語源学者さえ、その言葉の起源を、疑っています。 しかし、とても明らかに見られます - すなわち、現在、世界にある諸宗教は、 極東でも、インドでも、アラブ世界と イスラエルの世界、キリスト教の世界でも、 この宗教は、思考に基づいています - あこがれ、父親像などなどに、です。 それはすべて、決まり文句です。 しかし、実際の事実が、見られます。 それらは、恐れ、深い不安定性に、基づいています - いつの日か、誰かがこれら混乱を晴らしてくれるだろうとの望みに、です。 各人は、混乱していているので、何かイメージ、象徴へ縋りつく - 自らの小さな自己を乗り越えるのを、助けてくれるだろう、と彼が望むものへ、です。 今あるような、私たちの宗教は、全く無意味です。 どうぞ、怒らないでください。 ただそれを見てください。 私たちは、新しい宗教、新しいカルト、新しい一組の儀式を、 提唱しようとしていません。 それらは、すべて戯言です。 私たちは、はるかに深い主題を、覗きみています。 教会、大聖堂、インド、アジア世界の寺院、神殿の 中にある、物事すべて、 彼らの儀式、彼らの像は、すべて思考により、組み立てられています。 思考はけっして、神聖ではありません。 ですが、思考は、それらの物事を作ってきました - 教会、寺院、神殿などの中にある物事を、神聖に、です。 で、思考は、それ自体を崇拝しています。ですね? 思考は、自らが創り出してきたものを、崇拝しています。 または、自らが創り出してきた象徴を、です。 または、自らが知らない実際の人物から、 彼は、イメージを作り、そのイメージを崇拝します。 これが、「宗教」と呼ばれます。
1:05:26 そして、それらすべての無数の導師たちが、います - それらは今、世界中で、増殖しつつあります。 多くのキノコのように、です。 彼らは、何か新しいものを、もたらします。 少なくとも、彼らは自らがそうだと考えます。 しかし、それは、その中に彼自身の 野心、権力、金銭、そのすべてが、関与している、この古い伝統です。 彼らは、この国(アメリカ)で、ますます豊かになりつつあります。 あなたは、これらをご存じです。 これらが、「宗教」と呼ばれます。
1:06:09 アジア世界では、特にインドでは、 仏教徒も、ヒンドゥー教徒も、 教義の一つ、規則の一つとして、 「疑え、問え、懐疑的であれ」と言ってきました。
1:06:40 質問者: クリシュナムルティ・・・

K: ちょっとお待ちください。
1:06:42 質問者: 何かお訊きしてもいいですか。

K: いえ。
1:06:44 質問者: 人類は、不滅ですか。
1:06:45 K: どうか・・・

質問者: 私たちは人類へも死なくていいのですか。
1:07:00 K: お許しください。 質問をなさりたいのなら、 あなたは、先週か、また先々週の 木曜日か、火曜日に来て、 (書面で)質問を出すべきでした。 それら質問は、とても多くのあったので、 私たちは、それらの幾つかに答えようとしていました。 しかし、これは・・・お許しくださるなら、 これは、質疑応答の会合ではありません。
1:07:34 で、私たちは探究しています - 宗教とは、何でしょうか。 どうぞ、ともに探究してください。 何か神聖なもの、何か時がないものが、あるのでしょうか - 何か、思考により束縛されていないもの、 何か創案されていない、実際のもの、 人間の苦しみの中、人間の恐れの中、 人間の混乱の中から、組み立てられていないもの - すべての時を越え、すべての腐敗を越えているものが 何か、ありますか。 あなたはどのように、これを見出すのでしょうか - それは、どの人物にも、どの集団にも、どの共同体にも、 所属していません。 それは、地球的です。 あなたはどのように、探究し、それを発見しますか。 明白に、あなたは真剣であるなら、何にも所属できません。 キリスト教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒にも、イスラム教徒にも、です。 それらから、全的に、完全に自由でなければなりません。 自由は、好きなことをすることではない - それは、あまりにバカげて、あまりに未熟です。 束縛からの自由。それは、絶対的に必要です。 で、頭脳は、いつも安全を探し出しています。 ゆえに、あらゆる種類のイメージ、幻影を創案しています - その中に安全が見つかると望むものを、です。
1:10:40 それで、何か神聖なものが、あるのかどうかを、 本当に、深く探究したいと思っているなら、 そうでない物事すべてを、脇に置かなければなりません - 宗教書も、です。 なぜなら、今それがなされつつあるように、書物に、いわゆる聖典に 頼るなら、あなたは狭く、偏屈になる。 それが、世界で起きつつあることです。 また、何か神聖なものがあるのかどうかを、見出したいのなら、 絶対的に、恐れがあってはなりません。
1:11:40 生は、今そうであるように、砕けています。 その生は、砕けていないとき、 生が全体として、扱われるとき - 悲しみとして、痛みとして、心配として、恐れ、楽しみとして、 何の分割もなく、です。 生が砕かれて、これら区画になっていることがないとき - それは、葛藤の陰一つなく、調和的な生を、 全的に生きることを、意味しています。 それが存在しないなら、どうしてそれを乗り越えられますか。
1:12:44 で、そういうわけで、語り手は、宗教、冥想を、 おそらく何か神聖であるものを、 講話の終わりに、置いてきたのです。 なぜなら、私たちは初めに、家を秩序立てなければならないからです - あなたの家を、です。その家は、あなたです。 それが、全的な、完全な秩序にあり、 調和的な生を生きているのでなければ、 どうしてあなたは、愛とは何か、慈悲とは何かを、とうてい知りうるでしょうか。 その慈悲とともに、愛、智恵が来ます。 その智恵は、完全な全的な安全です。 あなたが冥想しはじめる前に、それがなければなりません。 なぜなら、あなたが自分自身で見出すのは、 深い冥想をとおしてだけであるからです - 何か、時、測量すべてを越え、名がなく、時がないものが、 あるのかどうかを、です。
1:14:25 冥想は、どう冥想するかではありません。 禅の体系。 自らの冥想の体系をもった、近頃の導師たち。 他は何ですか。超越のたわごとです。 それは単に、どんどん金儲けをするだけです。 「マントラ(真言)」 - その言葉を、不幸にも、ご存じですね。 その言葉の実際の意味 - その言葉には、大いなる美しさと意義を、持っています。 それは、冥想の手段として、お金のために、 売買されてきました- それは、無意味です。 「マントラ」という言葉は、その語源的な意味は、 ならないことを熟考する、冥想する。 それはまた、サンスクリットで、自己中心的な活動すべてを、終わらせる、という意味です。 それが、その言葉の本当の意味です。 ならないことを、熟考する、冥想する - この世界で、または、心理的な世界で、ならない。 そして、自己中心的な活動すべてを、終わらせる。 その言葉の意味、それの意義を、理解されますか。 その言葉「マントラ」のために、あなたは、数ドルを払います。 そして、自分は冥想を学んでいると、考えます。 超越のたわごとを創案した人々は、どんどん金を稼ぎます。 彼らは、無限に豊かになっています。 で、それは冥想ではありません。
1:16:54 どの形の「冥想の体系」も、 これらの体系を実践するなら、あなたは、ますます機械的になり、 ますます鈍くなる。明白です。 あなたが、何度も何度も反復するなら、 あなたの頭脳は、萎縮します。 で、私たちは、それらを全的に、拒絶しなくてはいけません。 それは、論理的、理性的、健全です- 私たちが話していることは、です。 何も異常なこと、見知らぬ国からもたらされた異国風な、 ロマンチックなこと、それらの戯言ではない。 冥想は、あなた自身へのものすごい理解を、要求します - 完全に理解し、そのため、あなたは どんな幻影をも創り出さない、それに陥らないのです。 欲望とその活動への理解がないとき、 幻影は、回避不可能です。 で、これらについて、きわめて、きわめて明らかでなければなりません。 あなたは、家を、あなたの家を、全的な秩序に、保たなければなりません - 葛藤の陰もなしに、です。 そのときだけ、あなたは、冥想について話をできます - どう冥想するかではなく、冥想とは何か、です。
1:18:58 あなたが疲れておられないことを、願っています。進んでもいいですか。 冥想とは何かを理解するには - それは、不幸にも東洋世界から、 この国(アメリカ)へ、もたらされています。 あなたたちは、キリスト教世界に、 自分の形の観想を、持っていますが。 「冥想(メディテーション)」という言葉は、辞書によれば、 熟考する、よく考える、観察することなどです。 しかし、それは、単なる説明です。 それは、言語的な定義です。 しかし、それは冥想ではない。 言葉はそのものではない。 で、冥想は、世界で起きつつあることへ、何の選択もなく、 敏感に、全的に気づくことでもって、 そして、あなた自身でもって、始まります。 それは、その一部だけです。 私たちは、自らの生の複雑さすべてを、見つめてきたとき - それがいかに砕けているのか、です - それら観察は、冥想の一部です。 そのため、あなたは、調和の中に自らの生を、確立しつつあるのです。 その中には、葛藤がないのです。 そのとき冥想は - あなたは、秩序の基礎を敷いてきたからです - 心理的に、悲しみ、痛み、苦しみの終わりを、 もたらすことです。 あなたが、それをもたらすのではない。 そのとき、頭脳、精神は、自然に静かになる。 あなたは、精神を静寂にできません。 精神を静寂にする実体は、誰ですか。 そのときそれは、やはり思考です。 で、私たちの日常生活に、毎日の生に、自然に、楽に、 どんな努力もなく、調和の生をもたらすことにより、 精神に、静寂の性質がある- 完全な静寂です。 それが絶対的に必要です。 その静寂が存在しないなら、 思考は、自らが好きなものを、創案します - あらゆる形の幻影、幻惑、イメージを、です。
1:22:40 で、思考が静寂になることは、 時が終わることを、意味しています - それに、私たちは入りました。 そのとき、その静寂の中から - あなたの静寂や、私の静寂ではなく、静寂です - その中には・・・ 静寂。 あなたが、あなた自身、これをしたのでなければ、 これらに入ることは、困難です。 そうね、美しさなしには - 顔の美しさではない。 顔に美しさは、あるけれども。 詩歌の美しさ、文学の中の美しさ、 キャンヴァスの上の美しさは、 丘の美しさ、 川の、日の中できらめく水面の美しさと、違っています。 鳥の飛ぶのと、木の葉への光 - それは、そよ風で、震えています。 その美しさは、あなたがそこにいないときだけ、存在します。 理解されますか。 あなたが、利己的な実体として、そこにないとき、他がある。 で、冥想は、それらが静寂になること、 それらが自然に終わることなのです。 その終わることから、静寂の大いなる深さが、出てきます。 頭脳は、自らの活動を持っています。 ですが、静寂は、頭脳のその活動にもかかわらず、 乗り越えるか、または、頭脳のその自然な動きの一部です。 それは、頭脳もまた、とてつもなく静かになることを、意味しています - あなたが、これらに入ってきたなら、です。
1:25:44 あなたが、神聖なものを、見つけるであろうのは、そのときだけです。 あなたが見つけるであろう、ではない。 永遠に神聖であるものが、あるのは、そのときだけです。 それがあるとき、あなたには、崇敬が生まれます。 人々は、崇敬を、失ってしまったか、一度も持ったことがありませんでした。 彼らは、イメージへ、象徴へ崇敬を持っています - 思考が創り出してきた物事に対して、です。 しかし、それは、実際の崇敬ではありません。 それは、恐れから、葛藤から、さびしさなどから、 生まれています。 しかし、実際の崇敬は、 人物、権力、地位とそれらに対してではない。 測量不可能に神聖であるものが、あるとき、 実際の崇敬は、来るのです。 終了しました。