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OJ82CNM3 - 安心の必要性
第3部 ボーム博士、ヒドレー博士、シェルドレイク博士との対話
カリフォルニア州オーハイ
1982年4月17日



0:05 【 心の本質 】
0:16 ~ 第3部 ~
0:19 ~ 安心の必要性 ~
0:29 これはJ.クリシュナムルティと― その他の人々による一連の対話です これらの議論の目的は心の探求です 心理的無秩序とは何か? 心の変容に必要なものとは何か?
0:49 クリシュナムルティ氏は宗教哲学者として これらの問題に長年携わってきました 米国、英国、インドでは 小中学校を設立しました
1:02 ディビッド・ボーム氏は倫理物理学者 英国のロンドン大学の教授です 倫理物理学などに関する本を 多数 執筆しています 2人は以前― 様々な対話を行いました
1:20 ルパート・シェルドレイク氏は生物学者 彼は最近『形態形成場』という仮説を 本の中で提示しました 現在 インドの国際作物研究所に― 植物生理学者の意見を 求めています
1:38 ジョン・ヒドレー氏は精神科医 クリシュナムルティ学校に 過去6年間携わってきました
1:47 最初の2回の対話では― 次のことを考察しました 自己同一化の過程― 苦痛の問題― 思考と記憶の役割 イメージ そして意識の唯一性と共通性 これらの過程を観察できるのか? 観察と秩序、責任、変容との関係とは? 今回 重点的に取り組むのは 絶対的な安心感の有無についてです
2:21 揺るぎない安心感はあるのでしょうか? 自我をなくすことは可能でしょうか? あなたは言いました もしそれが可能なら そのとき問題が…
2:41 なぜ安心感を求めるのです?身体の安全以外に 地球の安全以外に… なぜ安心を求めるのか
2:55 平穏な瞬間を知っていて それを確かなものにしたいのです
3:02 すぐ それは記憶になります
3:05 真の安心ではありません 幸せだったときの記憶があり その時に戻りたいと思います または観念を投影しいつか得たいと思います しかし なぜ恐らく世界中の人間が― 安心を求めているのか?その理由とは? なぜ安心を必要とするのか? なぜ心理的な安全を求めるのか?
3:44 問題に占領されているからです もし問題を解決できれば もし答えが見つかれば…
3:58 それは安心ではありません そこには大きな不確実性があり― 大きな虚無感、孤独感があります 本当の孤独…例を挙げてみましょう
4:21 はい
4:23 例えば 結婚して子供がいても― 依然として疎外感を抱き 孤独を感じます それは恐ろしく 憂鬱なことです そして私は孤立していることを実感します 結局 孤独とは分離の本質で 誰とも関係してないのです それが安心を求める理由の一つですか? はい それを埋めるためです
5:01 もっと深い理由かも 自分の満足感を確保するため… 自分の恐怖、苦痛から解放されるため それらから解放されて完全な平穏と幸福を― 確保したいのです違いますか?
5:30 だから安心を求めるのでは?
5:33 長期にわたった安定を
5:37 変わらない安定…そんなものがあるとして― それが安心を切望する理由ですか?
5:50 はい
5:56 つまり 恐怖から解放されれば完全な安心感が得られるわけです
6:04 適切に機能するために?
6:11 適切な機能は後で生じます
6:14 と言いますと?
6:16 安心なら 私は機能します
6:20 仮に 何が真で何が偽か強い固定観念を持っていれば― 私はその原則に従って行動します しかし 人間はこの根深い恐怖を 解決することができずにいて― 未だに解決していません
6:46 ‐その通りです‐心理的な恐怖を
6:50 なら それから解放されれば素晴らしく安心なはずです
6:59 つまり 根本的に― 解決できるなら?
7:04 でなければ完全な安心は得れません
7:07 はい…
7:12 では 身体的な安全…衣食住といったものは― 心理的な領域に影響を及ぼしますか? どうですか?
7:30 つまり ある程度の安心感の欲求は そこからやって来ると? 人は衣食住を必要とします それは不可欠なものです 絶対的に
7:48 衣食住を求めるうちに心理的にも同等の安全を― 欲するのでしょうか?
8:00 結び付きがありそうです
8:02 ええ 実際にそうなのか?
8:06 ええ…
8:07 あるいは安心感への欲求が身体的安全を妨げているのでしょうか?
8:24 安心感への欲求は― 現実の中で機能するために生じるのでは?
8:32 私は心理的な安心感を得たいと思います
8:37 はい
8:39 それで団体、社会、国家に所属します
8:43 はい
8:44 そして それが安全を妨げるのです 『安全』とは長期的に持続する安全です しかし心理的な安心感の探求の中で― もし国と同一化するならばまさにその分離が― 私を破壊するのです
9:13 なのに なぜ安心を求めるのか?
9:18 つまり同一化や所属は 間違いであって そこに安心感を求めることは― 根本的に間違っていると…
9:30 いえ 正しいとか間違っているとかでなく
9:34 尋ねているのです 人間がそうする理由を 特定の地域だけでなく― 全世界がです 全人類が欲しているのです 揺るぎない安心を
9:56 なぜでしょう?
10:03 理由はいくつかあります 例えば 幼い子供や幼児は― 両親に愛される必要性を感じていて― ある段階になると― ある種の安心感を必要とするようです しかし両親にあまり面倒を見てもらえなかったせいで 喪失感、孤立、分離を感じるようになり― そして 安心感への欲求が生じます
10:39 幼児には安全が必要です
10:42 はい 心理的にも身体的にも
10:46 ええ 必要です
10:48 しかし成長とともに
10:51 それは変わります
10:53 小さな幼児や幼い子供などは― 保護されなければなりません
11:01 あらゆる点において
11:03 心理的に
11:05 愛情を注ぎ 膝に乗せたり 抱きしめたり 手を握ることで 幼児は愛されていると感じます 面倒をみてくれる人がいて 安心だと感じるのです
11:22 そして成長すると必要としなくなる
11:26 そうですなのに成長するにつれて― 世界に向き合うにつれてなぜ安心を切望するのか?
11:36 最初に愛を得れなかったからでは?
11:40 その通りですつまりそれが問題だと?
11:46 まあ原因の一つでしょう
11:49 実際には愛がないから? 本当に愛があれば 安心の必要性はありません 考えもしないでしょう 私が本当にあなたを愛していれば… 利己的な理由からではなく… 本当に深い愛情を誰かに持っているなら 安心が必要でしょうか? 私の責任はあなたの安心を考えることで 求めたりしないはずです
12:42 しかし人間は求めますということは― 他を愛していないのか?
12:53 つまり我々が愛しているのは…
13:00 愛する理由は打算です
13:02 はい 安心感を与えてくれるからだと
13:07 そうです それで…率直に言って なぜなのでしょう? なぜ安心を欲するのでしょう?十分な満足を感じるために 恐怖、不安、苦痛などを感じないように 恐怖が原因なのでしょうか?
13:37 既に言及された通り 成長過程で愛されなかった幼児は 安心感を必要としそれを覚えていて 大人になってから得ようとします 保護されなかったので 恐怖感があるからです
13:56 もしくは無意識に― 知っているからでしょうか?自我、エゴとは― 非常に不安定なものであることを
14:14 本質的に不安定だと?
14:16 本質的に不安定なので― それ故に 内にも外にも安全に対する不安があるのです
14:28 なぜ非常に不安定だと?
14:30 違いますか? 我々の意識は不安的ではありませんか?
14:38 しかし もし何かが手に入れば― 安定するかもしれません
14:46 そして そこには矛盾があります 安定しないかも
14:52 安定しないかも?
14:54 でも いずれ安定します
14:56 いいえ
14:58 もっと根本的に見て― この自我そのものが変動の状態にあるのではありませんか? 不確実性、執着、執着することへの恐れ― それは安定が欠如した状態です ですから― 人間は無意識のうちに― 自我の不安定さを知っていて 安心を求めるのでしょうか?神や救世主などを…
15:43 絶対的なものを
15:45 ええ 完全な満足感を与えてくれるものを… 我々の意識とはその中身そのものです 違いますか?
16:09 そして その中身は常に矛盾しています 何かを信じる一方
16:14 信じるのが怖いのです
16:19 だから不安定だと?
16:21 どう見ても不安定です明らかに不安定です 何かを欲しても反対の願望が現れて 矛盾を引き起こすのです そこには二重性、恐怖、快楽、死への恐怖があります 意識の中にある全てのものが… 我々の意識の中身はご存知でしょう だから不安定なのです
16:54 それをわかっているから人はこう言うのです “この問題は複雑すぎて―” “手に負えない” “順応するしかない”と。
17:06 しかし その順応の中にもまた安定の欠如があります だから無意識に安心を切望していて― 神を創り出したのです
17:22 安心を与えてくれると― 思うものを…
17:26 神は我々の創造物です 神が我々を創ったのではなく… 逆なら良かったのですが… だから 安心への空虚な欲望があるのです
17:46 空虚な欲望?
17:48 安心を求めて創作するからです
17:51 なるほど
17:57 では もし意識の中身を変えることができるなら― 安心を必要とするでしょうか?
18:11 もし矛盾がなくなれば?
18:13 ええ 矛盾がなければ…
18:15 精神が安定して 安心が得れるかも
18:18 なら 安心を求めないかも 失礼ですが安心感とは実に嫌な欲望です 何に対して安心するというのでしょう? 個人的に私は安心を求めたことがありません 安心を求める必要がない理由は 私の世話を周りの人が してくれるからではなく必要としないからです もちろん衣食住などは 必要ですが…
19:07 心理的な話をされている
19:09 ええ より深い話です
19:13 意識の矛盾がなくなれば 安心を求めなくなると?
19:19 その意識は― 我々が知っているものとは 全く違うものかもしれません 我々が知っているものと言えば恐怖、報酬、快楽― そして死― 人間関係の対立です“愛してる”とは言うものの…
19:46 制限がある… それが愛と言えるのか… つまり意識の中身はそんな具合です それが私ですその意識が私自身なのです この複雑で矛盾していて二面性がある存在… まさにその現実が安心への要求を引き起こすのです
20:19 ええ
20:22 では 自我を消せるでしょうか?
20:28 自我ですか? まるで内側に誰かが居て何とか矛盾を― 消そうとしてるみたいです
20:37 それは あなたが意識とは別物であるという意味です
20:44 ええ…
20:46 しかし あなたが意識なのですあなたが恐怖、快楽― 信念でありすべてがあなたなのです どうか― 私の考えに同調しないでください すべて たわ言かも
21:09 ほとんどの人は 同調しないでしょう
21:13 そうでしょうね 大抵の人は― 見向きもしません
21:18 つまり 別の自我があって それが矛盾を解消するのですか?
21:24 まさか!
21:26 しかし 錯覚かもしれませんが― 我々は問題とは別の存在で 自分の中の何かが 決断をしているように感じます
21:42 私は自分の恐怖と別物ですか? 私は自分の苦痛、絶望から切り離された存在ですか?
21:53 自分の中の何かが それらを観察できることが 別物である証拠です
22:00 つまり観察者は観察されるものとは別の存在だと?
22:07 ‐はい‐そうでしょうか?
22:10 しかし そう思えます
22:12 そう思えるから問題なのです 私の実体験や他の人の体験によると― 実際に観察者がいるみたいに 自分の恐怖や反応などを観察しているんです 例えば 不眠症者の場合― 自分の中の一部分が グルグルと考え事をしていて 他の一部分は― 寝たがっているんです ですから我々は実際に 分離を体験しています
22:48 つまり これは持論などではなく― 事実です
22:54 同感です だが なぜ分裂が存在するのか?
23:05 誰が生み出したのか?
23:11 事実である可能性も…
23:14 何です?
23:16 ‐事実かも…‐では確かめましょう
23:19 ええ つまり意識にレベルがあって― あるレベルが 他のレベルを 観察してるんですか?
23:29 考えて下さい恐怖と私は別のものですか? 私は恐怖に取り組み恐怖を抑圧し 合理化し乗り越えるかもしれませんが恐怖は私なのです
23:46 恐怖に取り組もうとするときのみ 分裂を生み出すのです しかし私が恐怖なのです
24:01 普通に分析すれば― 恐怖とは感じるもので自分とは別のものです 恐怖を感じたくないので そこから抜け出そうとし 何とか乗り越えて逃れるものです これが普通の考え方です
24:20 その何が悪いのです?
24:23 葛藤を持続させます
24:26 彼はそれが必然だと言ってるんです
24:29 ‐必然かもしれません‐本当に?
24:32 では なぜ必然ではないと思うのですか?
24:38 まず第一に 怒りがあるとき怒りの瞬間は― 分裂がありません 違いますか?
24:50 非常に怒っているときは
24:53 我を忘れてしまい 怒りそのものになります
24:59 その瞬間 そこに分裂はありません 分裂は後から生じます “私は腹を立てている”と。 さて なぜこの分裂は起こるのか?
25:19 記憶によって
25:21 ええ 以前怒ったことがあるからです つまり 過去が審査をしていて― 過去が認識するのです つまり過去が観察者なのです
25:40 明白でないかもしれません 例えば 制御できない体の反応があり 手や体などの… 私はそういった身体反応を見て 元に戻したいと思います それと同じように― 心の反応が制御不能になり 一瞬 制御から外れてしまい 元に戻そうとするのです 多くの人にはそう映っているかもしれないのです
26:14 それで…?
26:17 ですから明白ではありません この場合はどうなんですか?
26:23 私が指摘してることが 明白でないようですが 人が本当に驚いたとき― 自己は恐怖から分離しません
26:43 時間の隔たりがあるとき分裂が生じるのです 時間の隔たりとは思考です 思考が入り込むとき 分裂が始まるのです なぜなら思考は記憶であり― 過去だからです
27:13 思考は記憶を伴います
27:15 ええ その他のものも つまり思考、記憶、知識とは過去のものです したがって過去が観察者なのです それが分裂を生み 制御するのです
27:39 ゆっくり行きましょう 観察者とは現在であるように思えます 過去から未来を予測し 今ここで心配しているのでは?
27:52 しかし その心配は過去からの反応です そんな経験を以前したことがあるからです ‐恐怖を感じたことがありますか?‐もちろん
28:12 本当に身震いするような衝撃的な恐怖を―
28:17 体験したことが?
28:20 はい
28:21 そして その瞬間 そこに分裂はなく― あなたは恐怖で一杯になります
28:30 はい
28:33 その通りです
28:35 それから思考がやって来て“私は怖がっている―” “これこれの理由で…私は己を守らなければ” と言って恐怖を合理化するのです 議論するまでもありません
28:54 体の反応の話に戻りますが それもまた あなたを圧倒しますそして次の瞬間― 思考がやって来て “これは体の反応だ”
29:06 と気づくわけです 心の反応と同じことが この場合も言えるのでは? 以前 同じ反応をしたので 対策が取れるわけです
29:22 何の話かわかりません
29:24 反応に圧倒されてから思考が入り込むわけですが さまざまな面において それは正常な流れです 衝撃的なことが起きて少ししてから― “何だろう”と思うわけです 場合によっては
29:45 そうです
29:47 なら 体の反応も同じでは?
29:49 なるほど! どなたか回答を… 散歩中にガラガラヘビに出くわしたとします
30:08 あなたはガラガラヘビを見て― 飛び上がります それは身体の自己防衛であり― 理にかなった反応です 恐怖ではありません
30:35 心理的な恐怖ではないと?
30:39 それも恐怖では?
30:41 恐怖ではありません
30:43 単なる身体の反応に過ぎないと?
30:47 身体の反応であり―
30:49 ヘビに噛まれないための理にかなった反応です
30:55 しかし数秒後に そのヘビの正体が ガラガラヘビではないと 気づくかもしれません
31:03 それなら そのまま通り過ぎます
31:07 思考がやって来ても問題ないと?
31:10 ええ
31:12 ええ
31:14 しかし怒ったり怖がる場合は―
31:17 思考が入り込むことは―
31:20 問題です
31:22 やっと質問がわかりました なぜ問題なのか? なぜなら恐怖は破壊的です 心や思考などを制約します 我々を萎縮させます
31:44 ええ わかります 恐怖の真っただ中では― 合理的に考えられません
31:53 そうですよね?
31:55 身の危険の場合は合理的です
31:58 恐怖の中では不合理になります
32:01 お聞きしますが― なぜ我々はこのひどい混乱を解消しないのか?
32:17 いや それは…
32:19 いいですか我々の意識は混乱しています
32:24 ええ 混乱してます
32:25 混乱し 矛盾してます
32:28 ええ
32:29 多くの恐怖を抱いて混乱しています なぜこれを解消しないのか?
32:39 常にしようとはしています
32:42 いえ 問題があるのです我々は心から認識しません “この混乱した意識が私である”と。 それが私なら私は何もできません お分かりになりますか?
33:05 つまり自分と意識を 別物だと思っていると?
33:10 別物だと思っているからこそ― 常にそれに取り組むのです しかし解消できないのは 混乱した意識が私だからです では どうすればいいのか? 我々は常に取り組みます 混乱した意識に。 自分が意識だと理解すれば 取り組むことはできません
33:53 ‐では どうすれば?‐何もしない事です
33:58 なるほど
34:00 それが まったく違う点です
34:04 ええ 意識そのものに対する― 意識の取り組みが問題であることを 理解すれば それは止みます
34:19 それは非暴力とは違います
34:22 失礼します つまり我々はこの混乱した意識とは 別個の存在であると 考えていますが―
34:31 その通り
34:32 称賛されるときは 分離しません しかし― 悪口を言われると 切り離そうとします
34:40 つまり―
34:41 かなり選択的であるに関わらず 混乱した意識とは別の何かが― 自分の中にあると感じていて― 我々は普通意識の内容を変えようとするか 人や世界との関係を変えようとします けど 分離のことは調べません 自我と意識の間にあるこの分裂… 我々はそれに疑問を持ちません さて 我々が実際に経験するこの分離… 大抵の人は経験するわけですが 実は それが疑問を持つべきことで 混乱した意識が自分だと 我々は直視するべきなのです 明白なことです!
35:32 明白ではありませんし 自覚しにくいことです 普通 そのようには考えません
35:39 では― その条件付けから脱皮できるでしょうか? その条件付けが私なのです 分離し その条件付けに取り組みます しかし それが私なら― 取り組まないことが最も建設的です
36:07 条件付けに取り組まないなら― 何も変わらないのでは?
36:13 ああ!
36:16 つまり それを認めることによって 向き合うことが…
36:23 向き合う?誰が向き合うのです?認める? 誰が認めるのです?我々の観点は常にこうです “私はそれである” 我々は決して理解しないのです 完全に “私の中に明晰な部分がありそれが明晰でない部分に―” “取り組もうとしている” 常にこの調子です
37:02 ‐ええ‐しかし実際には― 我々の意識の中身すべてが曖昧で混乱していて 澄んでいる部分がないのです 我々はあると思っている 混乱していない観察者である部分が。 観察者が観察されるものなのです 教祖なども…
37:38 もしそうだとしたら どのように取り組むのですか?
37:53 事実を理解するなら― まさにその事実で十分です
38:00 その混乱したものが― 自分の混乱を理解すれば… ええ それで片付きます
38:13 混乱したものが己の混乱を理解すれば 混乱を解消できると?
38:19 ええ “私は混乱している”といった分離性の理解ではありません 意識が混乱しているのです 取り組むことはできません 混乱した意識に取り組むのはエネルギーの浪費です それでは解消されません この混乱をなくすために 必死に努力し修道会にさえ入りました けど解消されてません ある程度しか…
39:04 それがもう一つの側面だと思います どうやら我々にはある程度の知恵があるようで 特定の問題を解決し明晰さと秩序を得ます しかし しばらくすると― 問題は形を変えて 戻ってきます
39:26 または同じ形で つまり全体的に― 何とかしなければ… 観察者が混乱した意識に― 取り組む前にです はい
39:44 “時間があればいずれ解決するだろう” それはエネルギーの浪費です
39:55 事実を理解するときエネルギーの浪費は起こりません つまり注意を払うことです
40:09 非常に興味深い話です
40:16 混乱した意識に取り組むことはエネルギーの浪費だと思いませんか?
40:25 ええ さらに無秩序を生み出します
40:29 さらに無秩序を生んで 私と私でないものの間に対立を引き起こします “私”とは観察者です 私は 混乱した意識と戦い制御し抑圧し 不安になり心配します 本質的にすべてエネルギーの浪費です ところが この混乱した意識が私自身なのです 注意を払うことで私は理解に至ります ‐“私”ではなく… ‐つまり意識自体が― 理解に至るということですか?
41:17 “私”ではなく
41:19 その通り つまり完全な注意を意識に払うことです “私が”ではなく…注意と不注意があります 不注意はエネルギーの浪費です 注意はエネルギーです 意識が混乱していることの観察があるとき― 完全な注意があるときのみその事実が現れるのです そして完全な注意があるときもう混乱は存在しません 不注意が問題を生み出すのです 反論してください
42:15 よくわかりません つまり完全な注意とは 今この瞬間にあって 全く回想しない― ということですか?
42:27 注意とはそういうものです 私があなたに注意を払うならば― 回想することなく… 感覚器である耳を使って聞くだけでなく 別の耳をもって聞きますつまり― あなたが言っていることにすべての注意を向けます 実際に この瞬間に そこに中心はありません
43:14 注意と注意されるものが 一つになるからですか? 注意の中に中心がない理由は そこにあるものが― 注意だけだからですか?
43:27 いいえ 混乱がある理由は私が不注意だからです そうでしょう?
43:38 “観察者は観察されるものである”という事実― その観察があるとき― その状態の中に 観察者は存在しませんそれが注意です ところで瞑想について 論じたことはありますか?
44:08 関連がありそうですね あなたが言っている事はある程度起こり得ると思います
44:16 起き得ません ある程度の混乱と非混乱を保持するなら― 同じ状況に逆戻りです
44:26 なるほど
44:28 しかし あなたが言う注意とは 素晴らしい美しさや音楽の中で 多くの人が時々経験するもので 我を忘れてしまうようなことでは? このような経験の中で― 垣間見るものでは?
44:46 その通りです例えば 山を見るとき― その威厳、その深みが我を忘れさせます おもちゃは子供を没頭させます 山は私を没頭させ おもちゃは子供を没頭させました つまり外側に何かがあるということです 我を忘れさせるものが 私を穏やかにするものが つまり外部の媒体が私を静寂にするのです 神や祈りの言葉、崇拝している物事などが もし私が外部の媒体を完全に拒絶するならば 何にも没頭されなければ… 例えば 何かに没頭してもそれが消えれば 我に返ります
45:50 ええ
45:52 つまり 私を没頭させる外部の媒体を 捨ててしまえば 元の自分に戻ってしまうのです
46:02 なるほど つまりある程度しか起こらないのは 依存してるからだと…
46:08 その通りです
46:11 ‐妻に依存するように‐またはセラピーなどに…
46:16 様々なものに
46:17 ヒンズー教やカトリックなどに依存します ゆえに依存が執着を求めるのです
46:29 これでやっとあなたが言ってることを 実践できます
46:36 できませんあなたはまた行為してます そこから何かを得ることを期待しています それではただの取り引きに過ぎません そうではなくあなたが調べていることは 多大な考察を必要とし 多大な知力と注意力を 必要とすることなのです なぜ世界は分裂、混乱してるのか それは我々の意識が混乱しているからです そこで質問が生じます自我をなくすことは可能でしょうか? この混乱した意識を
47:38 意識の中身、さまざまな経験を なくすことはできません 私の目が開いている限り それで先程 注意についての話で 人が山を見るときの話が出ましたが もし同じような注意を― 私が経験する全てのことに向けるなら…
48:03 ほら また!“私が経験する”
48:06 ‐ええ でも…‐あなたがその経験なのです
48:11 はい…
48:13 そうでしょう?つまり そこに経験はありません
48:21 あるのは注意だけだと?
48:28 経験は記憶をともないます 時間も…つまり過去です 故に経験者が経験されるものなのです もし啓発を求めているなら もし悟りを求めているなら― あらゆることをして得ようとするでしょう しかし悟りがどんなものか知りません 悟りについて話を聞いたことはあっても 知らないものを探しているのです ならば 心は完全に自由でなくてはなりません 先入観、恐怖、混乱などから ですから私の関心事は悟りではなく 意識の中身を― 取り除くことです それが私の探求すべきことです 自分と意識を分離している限り 私はそれを経験し 分析し 取り組みます それは私と意識の絶え間ない葛藤を意味します なぜ これらを受容しているのでしょう? なぜ ヒンズー教徒であることを カトリックであることを 受容するのか?
50:26 なぜ人が言う事を受容するのか?
50:30 自分でも言います
50:33 いえ 自分で言うだけでなく 外部の人々によって 助長し 断続するです なぜ受容するのでしょう? 生物学の勉強であれば私は教授を受容します 私よりも知識があるので授業に行き 彼の話に耳を傾けます しかし彼は私の教祖でも指導者でもありません 彼は生物学に関する情報を与えてくれ 私は勉強し 現場に出て したいことがあるのです しかし なぜ我々は― 精神的な権威を― 霊的な権威を受容するのか? またしても安心の問題です どうするべきか分からないので 教祖に頼るのです 私はその立場を拒絶します
51:44 しかし それが権威ではなく 責任だとしても同じ問題に辿り着くのでは? 例えば私が父親で― 子供がいるなら…
51:57 指導が必要です
51:59 世話が必要ですよね
52:01 そして安全のことで頭が一杯になります 子供を養うために…
52:08 仕事のことや 家のことなどで
52:12 その結果 権威からでなく 責任から 安全などに執着します 他人や子供のために
52:21 確かに
52:23 では どうなんですか? 責任を拒絶しろと?
52:28 もし私がお金を稼いでいるなら― 自分自身の面倒や 使用人や子供の面倒 恐らく彼らの子供のことも 私には責任があります
52:44 物理的な責任があります 食事や賃金を与え 子供をきちんとした学校に行かせたり すべて私の責任です
52:59 でも それでは不安定な状況に 引き戻されてしまうのでは? あなたは権威を拒絶していたはずです
53:14 なぜ霊的、精神的な権威が必要なのか理解できません もし自分で文字が読めれば 誰の助けもいりません しかし『自分』という本を本当に読もうとしたことがないので 誰かに助けを請うのです そして全てを見失います
53:43 しかし彼が聞いているのは もし他の人々に対して責任を負うのであれば― ‐それに必要なのは…‐収益力ですか?
53:59 ‐つまり安全です‐ええ 可能な限り 失業者が多くてはいけません
54:08 責任があれば不安になるのでは?
54:11 なりませんしかし もし私が使用人に 身の程をわきまえさせるなら―
54:19 使用人としてあしらうなら―
54:23 ええ
54:25 それは無責任なことになります
54:31 しかし使用人は去りますが子供は去りません 家族ですからね
54:39 つまり こういう質問です 家族への責任があるにも関わらず 仕事が得れず 心配し始め 不安になる可能性も
54:49 あるでしょう?
54:51 私は心配しません賃金を― 払えなくとも使用人が残りたいなら 食物を分け与えます
55:02 家族への責任があるにも関わらず 失業しても心を乱されないと?
55:09 乱されません
55:10 知的な解決方法が?
55:12 対処するのです
55:15 責任があるから心配するのです
55:18 それは心配とは言いません私は責任がある
55:22 ええ
55:24 故に できる限り面倒をみます
55:27 もし できなければ?
55:31 ‐そのときは?‐できません なぜ心配する必要が?“できない”それが事実です
55:40 大きな困難を目の前にして 心配事から完全に免れると?
55:46 ええ それが私の言っていることです 注意があるところに心配事はありません そこには中心がないからです
56:02 依然として問題はあり 責任もあります
56:06 ですから解決するだけです
56:09 もしできないなら?
56:11 なら できません
56:13 なぜ心配する必要が?英国の女王になれますか?
56:17 なれません
56:18 では心配の必要が?
56:20 例えば あるインド人が 家族は餓えているのに 仕事が見つからず でも心配しないんです 驚くことに多くのインド人が 実際に心配しないんです しかし外部の人間から見れば それは運命論です
56:40 それはインドの病と見なされる程 実際に彼らはそんな状況の中で 心配しないんです
56:48 質問がありますこのような話― 意識が混乱していること それを理解し意識の中身を空にすること― 恐怖…こういった話に― ‐興味はありますか?‐はい
57:11 ‐本当に?‐はい
57:13 それなら何を?
57:16 ただ耳を傾けます
57:18 いえ ここで対話をするのです 深く深く 調べるのです つまり自由でなければなりません 己の先入観から己の過去の経験から… でなければ調べられません これは探求なのですから さらに深く踏み込むのです それをやる意志がありますか? 実際に自我をなくすことが? だからと言って妻や子供をおざなりにする― という意味ではありません それは非常に愚かなことです苦行者のように― 山中に入ったり― 修道院に入ったり それは極端な逃避です 実際にすべきことは 家族と向き合うことです 自我を完全になくすことは可能でしょうか? 知的に 問題に対処するために