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OJ82Q1 - 第1回質疑応答会合
1982年5月4日
カリフォルニア、オーハイ



1:00 たくさんの質問が、(書面で)手渡されました。 私は、それらのすべてに答えることが可能である、とは思いません。 で、私たちは、それらの中から、幾つを選びました。
1:25 こういう大きな集団と、議論を行うことや、また対話を行うことも、 可能ではありません - それは、二人の人たちの間の会話です。 で、私たちは、質問を書き留めてもらい、そして答えるよう、講じています。 私は、誰からなのかを知りません。ですが、問いは、答えられなくてはいけない、と思います。 私は、語り手が問いに答えようとしているとは、思いません。 ともに私たちは、問いを、その趣旨を、究明しようとしています - それが表面的に答えられるのでも、深く入るのでも、です。 私たちはともに、答えを見つけようとしています。 語り手が、あなたの質問に応えようとしている、ということではない。 ともに私たちは、問いに接近して、 問いの意味合いを見よう、 私たち自身で答えを見つけよう、としています - そのほうが、はるかに合理的、理性的で、価値があります。 他の誰かが問いに答えるのを期待するなら、 自らはまったく責任を負っていません。 あなたはそのとき、他の誰かに依存しています。 ところが、今朝、もしも私たちがともに、問いを探検できたなら - 気をつけて、それに入ることによって、です。分析的にではなく、 問いの性質、本性、構造を観察するのです。 それが明らかであるなら - すなわち、私たちはともに究明し、 私たち自身で答えを見つけようとしている、ということが、です。
4:17 私はまだ見ていないのですが・・・ああ、私はそれを、言ってはいけないですね?
4:26 第一の質問: 「私たちの子どもたちは、テレビと他の媒体をとおして、 自分たちが生きている脅威の世界に、気づきます - 犯罪の暴力、戦争、核の危機に、です。 私たちはどのように、彼らがこれらに向き合うよう、助けるのでしょうか。」
4:43 「私たちの子どもたちは、テレビと他の媒体をとおして、 自分たちが生きている脅威の世界に、気づきます - 犯罪の暴力、戦争、核の危機に、です。 私たちはどのように、彼らがこれら問題に向き合うよう、助けるのでしょうか。」
5:11 子どもたちよりむしろ、私たちは、どのように問題に向き合うのでしょうか。 なぜなら、結局のところ、親たちもまた、教育者であるからです - 単に学校の教師たちだけではない。 親たちは、彼らを世の中にもたらしたけれども、 彼らもまた本当に、深く、子どもたちを教える責任のある人々です。 で、私たちの責任は、何でしょうか。 私たち自身は、これら問題にどのように、出会うのでしょうか - 戦争、暴力、 テレビで映される恐ろしいものごと、 テロ、その他すべてに、です。 私たちはどのように、それに出会うのでしょうか - 親として、人間として、です。 私たちはそれについて、会話をできたらと、私は願っています - 対話を、です。 でも、それは可能ではありません。
6:41 で、私はどのように、または、あなたはどのように、このひどい世界に出会うのでしょうか。 私たちは、ありのままの物事を、受け入れ、 ありのままの物事に、適応するのでしょうか - 私たちの生を修正するが、物事を、現状を、ありのままに受け入れるのでしょうか。 私たちはそれを受け入れるでしょうか。 または、それらを受け入れないなら、私たちはどのように、問題に向き合うのでしょうか。 私またはあなた本人は、どのようにこの主題に、向き合うのでしょうか。 どうか、私はこの質問をしています。 どうか、ただ座り込んでいて、私に答えさせないでください。 ともに見出しましょう - 私たちは、これら問題にどのように向き合うでしょうか。
7:55 私たちの行為は、何でしょうか。 私たちは、何をするのでしょうか。 もし私が親であり、幾人か子どもを持っていて、 世の中で起きていることが見えるなら - 部族戦争、テロ、誘拐、その他すべてです - 親として私は、どのように彼を、この生に向き合うよう、教育するのでしょうか。 まず最初に、私は親として、どのようにこれら問題に向き合うのでしょうか。 私の応答は普通でしょうか。 私の応答は伝統的でしょうか。 私の応答、すなわち、私はそれについて何もできない。 それはあまりに広大すぎる、あまりに複雑すぎる。 だから、私はそれを、他の人たちに、 政治家、経済学者、社会改革者などに、任せるか。 または私は、世の中で起きていることへ、全的な責任を持つのでしょうか。
9:39 もし私が、暴力的で、不正直であり、 世界の、地球的な見通しの感覚がなく、 偏狭な執着ならば、 それは、可能でしょうか。 すなわち、心理的に、地球的な関係を持つこと、 それは、可能でしょうか。 または、私は特定の国に生きていて、その法律に従い、その規則などに、 従わなくてはいけません。 で、私は、生に関する制限された見通しに、参与しています。 親として、だから教師として私に、それは可能でしょうか。 このすべてから離れ去ることは、私に可能でしょうか - 普通の凡庸な伝統から、離れ去るのです。 残念ながら、私たちのほとんどは凡庸であると、私は思います。 そして、それは可能でしょうか - 私は、私の子どもたちを、 生に対して地球的態度を持つように、教育しはじめることができるでしょうか。 あなたは、それへ何と言われますか。 または私は、そのすべてを、学校で- どれほど先進的であっても、です - 教師たちに任せておき、 彼らに、私の子どもたちを教育してもらうのでしょうか。 家庭で、さらにまた休日などにも、 彼らを教育する責任を、引き受けないのでしょうか。
12:20 本性から、遺伝により、私たちは暴力的な人々です。 攻撃的で、競争好きで、傲慢です。 私たちは、そうなったのです - 様々な生物学的要求をとおし、 またおそらく、心理的な必要をとおして、です。 それらは、習慣的になったのです。 私たちは、暴力的な人々なので、暴力的な社会を創り出します。 私は、自分の子どもたちを、暴力的にならないよう、教育できるでしょうか。 さあ、答えてください。 おそらく私は、時間があるなら、それについて彼らに話ができるでしょう。 たぶん私たちは、時間がない。 私たちは、自分の問題で悩んでいます。 長い一日の後、かなり疲れて、家に着く。 私は、子どもたちを払いのけたい。 でも、私は、もし彼らに教え、彼らがこの残酷な世界を 理解するよう助ける責任を、負うのなら、 彼らに話をするかもしれません。 彼らにそれを、指し示すかもしれません。 しかし、テレビ、子どもの友だちは、みんな、暴力を助長しています。 で、私は・・・家で私は、 彼らに一つのことを教えますが、彼らは、外に出て行くとき、 群れたがるので、伝統に従いたい、 異常でありたくない、他の人たちと違っていたくない。 彼らは、残りの人たちのようになります -凡庸で、残酷で、無思慮です。 あなたは、何が起きているかを、ご存じでしょう。 で、私は何をするのでしょうか。 どうか、これはあなたの問題です。 私は親として、何をするのでしょうか。
15:05 私は、自分の楽しみを、あきらめるでしょうか。 私は、タバコを吸うのが、習慣になっています -仮に、です。私はなっていません。 仮に、私は、タバコを吸う、酒を飲む、ドラッグをやることが - 穏やかな、マリファナとか何でもです -習慣になっています。 私は、子どもたちへ、そうしないよう言います。 彼らは、私を信じようとしません。 彼らは、「あなたは偽善者だ」と言うでしょう。 たとえ、彼らが私にそう言わなくても、です。 で、私は、自分の子どもたちのために、それらすべてのことを、あきらめるでしょうか。 入ってください。それはあなたの問題です。 私は、自分の酒を、自分の苛立ち、怒り、自分のドラッグと アルコールを、子どもたちのために、あきらめるでしょうか。 私は、ヨーロッパと他所の幾人もの親が言うのを、聞いてきました - 「なぜ私が、いまいましい子どもらのために、自分の楽しみを、あきらめるんですか」と。 態度を理解されますか。 「彼らは世の中に向き合わなくてはいけない。 私たちが、彼らを甘やかしたら、彼らは破壊されるだろう。 だから、彼らを、鍛えなければならない」と。 その他すべてを、ご存じでしょう。 で、私は何をするのでしょうか。
17:04 私は、家で親として、子どもたちを、教育しているのでしょうか。 または、私は、子どもたちとともに、自分自身を教育しているのでしょうか。 質問に付いてきていますか。 私は親として、自分は彼らを教育しなくてはいけない、と感じます。 でも、私は続けます。 自分のやり方を続けてゆきます - 不正直であり、誠実さが何もない。 自分の問題に、自分の野心などに占領されている。 私は、自分の子どもたちの親と教師として、 自分の三人、四人の子どもたちとともに、私自身を、教育できるでしょうか。 それは、私は自らが生きてきた様式を、破らなくてはいけない、という意味です。 私は、自分の子どもたちを愛しているなら、そうしなくてはいけません。 なぜなら、おそらく家庭の影響は、学校の影響より はるかに重要であるからです - 家で親たちは、自らの子どもたちを、愛していると、されています。彼らを気づかう 世話をする、彼らの振る舞い、彼らの使う言葉を、見届ける、 彼らの良い趣味、美の鑑賞を養成するのだ、と。 それは、私が・・・私はいつの時も、自分自身を教育している、という意味です - 過去の世代の同じ古い様式、同じ古い習慣と、 面白いことと楽しみに生きない、という意味で教育しているのです。 明白に、私はそれらを、あきらめなければなりません。 しかし、親たちは、こうするでしょうか。 あなたは、ご自分の子どもたちのために、そうするでしょうか。 あなたは親として、新しい学校をもたらす助けをするでしょうか。
20:06 これはずっと問題でした - 語り手が、過去六十年間、関連してきたきたことです。 インドには、幾つか学校があります。 ここには一つ、そして、イングランドにも、です。 そして、これが問題です - 青春期の、生物学的、性的な問題だけでなく、 また社会は、残忍にも強いのです - 外的な環境です。 あなたは、よくよく気をつけて、彼らを育てるかもしれません。 しかし、社会の構造は、とても強力です。
21:11 ここから、かなり興味深い問いが、生じます。 社会は今、技術者、科学者、ビジネスマンを、要求します - コンピューターの専門家、建築家、 道路の建設者、技術者 - 社会は、それを要求します。 で、そこにはお金があるとか、その他すべてです。 もしも社会が、全然違った種類の人々の集団を、要求したなら - 付いてきていますか - すなわち、民族主義、国家主義、暴力、ドラッグ、 アルコール、それらすべてのことに、関心を持たなくて、 深く統合され、誠実さを持った人々の集団- 付いてきていますか。 社会は、そういう人々を、要求するでしょうか。 明白に、しません。 幾年か前、スイスで話をしていました - 私たちが過去二十一年間、行っていたところです。 私たちが話をしていた特定の場所、サーネンで、(講話の)始まりに 私たちはそもそも、その場所に望まれませんでした。 なぜなら、そこに来る人々の大多数は、タバコを吸わない、 肉屋へ行かない、酒を飲まないからです。 で、村の人たちは言いました - 「お金を使わないのなら、なぜここに来るんですか」と。 それの要点が分かりますか?
23:54 この誠実さの感覚を持つ人々の集団を、 社会は、要求しないのです - 自らの生に全体性の感覚、深遠な宗教的な生の感覚を持つ人々を、です。 伝統的な宗教的生活ではない。 それはまったく意味がありません。 社会は、そういう人々を要求しませんが、 私たちは集団として、それらの人々でありうるでしょうか。質問を理解できますか。 それは、とても興味深い点なのです。 そのとき、私たちは、そういう人物、そういう人間を、持つ。 自分自身に、そういう強さ、そういう活力を持つ。 そういう集団が、本質的に重要になるのです。 彼らは、闇の中の光に似ています。 で、そうなる、そのような親たちが、いるでしょうか。 または私たちは、みんな普通で、だらしなく、無頓着なのでしょうか。 どうか、これは、きわめて深刻な問いなのです。 なぜなら、あなたたちは、新世代の人々を、もたらそうとしているからです。 その世代が単に、あなたなるものの継続であり、 暴力すべて、戦争の愚劣さすべてを伴っているなら、 そのとき社会は、ますます不道徳になり、ますます破壊的になるでしょう。 で、親たちの集団として、 私たちが、自分たち自身に、立ち居振る舞い、行いにおいて 最高の優秀さを、要求することは、可能でしょうか。 いいですか? で、私たちは、全然違ったように、子どもたちを教育するように、です。
27:06 第二の質問: 「ブッダ、イエスといった、偉大な教師たちが、地上にいました。 あなたが旅立たれるとき、葛藤、抗争は減り、 理解は増えるだろうと、思われますか。 それとも、世界は、変更不可能な方向へ動いているのでしょうか。」
27:28 「ブッダ、イエスといった、偉大な教師たちが、地上にいました。 あなたもまた旅立たれるとき、葛藤、抗争は減り、 理解は増えるだろうと、思われますか。 それとも、世界は、変更不可能な方向へ動いているのでしょうか。」
28:01 私たちは、注目したことがあるでしょうか - 従う者たちは、指導者を破壊すること、 そして、指導者や教師は、従う者たちを破壊するということに、です。 あなたは、それを考慮したことがありますか。 ブッダは、二千五百年前、 キリスト教が生ずる前に、愛、行いなどについて、 話をしました - 何をも崇拝しないで、です。 彼に従う者たちは、彼の像を作り、彼に従い、 そうして彼を破壊しました。ですね? 様々な聖典が、あります - 記憶から書き留められています。 しかし、弟子たちはいつも、誇張するか、歪曲するか、激賞し、 彼の教えの本当の深さを、失ってしまいます。 キリスト教の世界は - 私は誰のつま先、 足をも踏んでいないことを、願っています。 キリスト教の世界もまた、あの人物を、 何か信じがたいものに、仕立ててきました -それは確かだと思います。 たぶん、語り手がくたばる、死ぬとき、 同じ現象が、起きているでしょう。
30:31 これらは、何かとてつもないことを、指し示します。 なぜ、世界中の人間たちは、 象徴を創り出してきて、象徴を崇拝するのでしょうか。 象徴のほうが、はるかに重要になっています - 全く真実であることを言っていたそれら人々の、真理よりも、です。 なぜ私たちは、解説者が、ほしいのでしょうか。 真理とあなた自身との間の仲介者が、です。 質問を理解されますか。 司祭者 - 司祭者は、古代から存在してきました。 7千年か8千年前、シュメール人は、これら司祭者を持っていました。 エジプト人たちも、持っていました -古代エジプト人たちです。 これら現代の司祭者たちが、います - 福音主義者、地元の司祭者、ローマの司祭者 - 彼らはみんな、あなたに語るか、解釈するか、あなたとあれとの間に入るでしょう。 なぜ私たちは、これらを許すのでしょうか。 質問を理解できますか。 なぜ人間として私たちは、誰かを頼りにするのでしょうか。 なぜなら、人類の歴史全体、人の苦しみ、苦悶、 絶望的な不安定さ、さびしさは、すべて、書物にあるからです。 聖典と聖書とそのすべてに、ではなく、 私たちである書物に、です。 私たちは、人類の歴史です。 私たちが自分自身で、その書物を読めるなら、外側の助けてくれる誰も、要りません。 私たちの困難は、私たちが他の人たちに、それを読んでもらい、 私たちが何なのか、何をすべきかを、語ってもらいたい、ということなのです。 困難は、私たち自身の書物を読むことです。 その書物を読むには、気をつけた観察が要るのです - 思考、感情、反応のあらゆる動きへ、です。 私たちは、そうしません。なぜなら、私たちは何かが、あらゆることへ安易な道が、ほしいからです。
34:23 で、そのとき思考は、儀式すべてを創案します - 古代の大聖堂、寺院、モスクのすばらしい建築、 そして、寺院の中、 モスクと教会の中にあるものごとは、 思考により、組み立てられています。 思考により、創案されています。 思考は神聖ではありません - 私たちは、それについて話をするとき、それに入るでしょう。 そして、それがブッダなどであれ、他の人に依存するかぎり、 私たちはいつも葛藤の中に生きるでしょう。 私たちの生は、偽善的になるでしょう。 これはそうですか、そうでないですか。 または、語り手の単に空想ですか。 究明の正確さは、あなたの柔軟な懐疑を、要求します。 それで、外部の機関が - それは救い主でも、ブッダでも、 インドでのクリシュナなどでも - それが存在するかぎり、人々の間に分割があるでしょう。 その分割は、必然的に抗争をもたらすでしょう。 真理は、キリスト教のや、ヒンドゥー教のや、仏教のや、イスラムのではありません。 それは真理です。それは、誰にも所属していません。 愛が、あなたに、私に所属しないように、です。 それは愛です。慈悲です。 私たちの精神は、こんなに条件付けられています - 二千年の宣伝のキリスト教。 絶えまなく、とっても利巧な、考え抜かれた宣伝です。 アジア世界でも、同じことです。
37:21 で、依存すべてから全的に、完全に自由であることは、 可能でしょうか - 自らの深く長続きする、揺るがぬ誠実さを、持つことは、です。 そこには、恐れなどが関与していません。 さもないと、私たちは、神を、救い主を創り出すのです。
38:06 第三の質問: 「私の振る舞いは、私が恐れていることを、表示しています。 けれど、恐れの実際の知覚は、つかみどころがありません。 私は、この深く根づいた無意識的な情動へ、どのように到って、取り扱うのでしょうか。」
38:22 「私の振る舞いは、私が恐れていることを、表示しています。 けれど、恐れの実際の知覚は、つかみどころがありません。 私は、この深く根づき、定着した無意識的な情動へ、どのように到って、取り扱うのでしょうか。」
38:44 あなたは今、これに入りたいですか。 私は土曜日に、それを扱おうとしていました。 構いません。私たちは二日とも、扱いましょう。
39:07 観察してきたなら、 この恐れの問題は、有史以前の時から、存在してきました。ですね? それは、人とともに存在してきました。 人は、それとともに生きてきました - 意識的にも、または、深く隠れて、その根はきわめて深いのです。 私たちはそれから、論理をとおし、分析をとおし、 何かの形の娯楽をとおして、逃避してきました - それと直接的に接触し、それを保つのを回避するよう、 助けてくれるものを、とおして、です。 または私たちは、それを抑圧してきました。 ですね?私たちは、こうします。 または、それを無視します。 私たちは言います - 「何?私たちは、百万年間、恐れとともに生きてきた。 だから、今何が問題なのだ?」と。 そして、恐れの帰結は、知っています - 身体の萎縮、 偽善的になる傾向、抵抗、 自らが本当に恐れているという事実の回避、です。 で、恐れと呼ばれるその反応から、本当に深遠に、 自由になりたいのなら、 それのまさに根へ、行かなくてはいけません。 生物学的な恐れが、あります。 身体、有機体組織は、それ自体を保護しなければなりません。 そして、病気、老齢、死の恐れと、 過去の記憶の恐れです。 で、恐れはまたもや、人間すべてが依って立つ共通の基盤です。 で、私たちはそれを、表面的に扱うのか、 または、きわめて深く深くそれを探究するのか、です。
42:48 恐れの根は、何でしょうか。 私は、様々な形の恐れを、知っています。 死、老齢、明日の恐れ、不安定の恐れ、 不安全の恐れ、愛されない恐れ、 または、愛して、その愛を受け取らないこと、さびしさの恐れ、 失う恐れ、依存できる人が誰もいない恐れ、など - 様々な形の恐れが、あります - 暗闇の恐れ、光の恐れ。 私たちは、外的な形の恐れを、取り扱うのでしょうか。 すなわち、私は、妻を恐れています。 または、いじめる人を、恐れています。 いじめる人 - (彼は)いつの時も、いじめている。 あなたは、嘘をつく。あらゆる種類のことをする。 そして、あの常なる圧迫の恐れが、あるのです - 攻撃的で、わずかに発狂した人物からの、です。 で、私たちは、恐れを表面的に、扱いたいのでしょうか - すなわち、知的に、言語的に、です。 または、それへきわめて深く深く入りたいのでしょうか。 どうか、これは深刻な問いです - あなたが、ご自身で答えなければならないことです。 あなたがそれを、表面的に扱いたいのなら、それは、果てしがない。 それは、樹に似ています - それから一本の枝や小枝を切り落とした瞬間、 もう一つ別のが、生えてきています。 それは、恐れの永続的な開花です。 または、あなたはそれに入り、まさにその本性、構造を、観察するのでしょうか - それがどのように生ずるのかを、です。 私たちが、それを深く扱いたい、まさにその根へ行きたいのなら、 恐れの根は、何でしょうか。
46:15 どうか、私はあなたに語っていません。 語り手は、指摘していません。 私たちはともに、ものすごい複雑な問題を、究明しているのです - 人類を不具にしてきたものを、です。 恐れの中から、私たちは、あらゆる種類のことを、やってきました。 地上の神々すべてを、創案しました。 絶対的に、心理的な恐れが何もないのなら、 あなたは、神々すべてを越えています。
47:02 で、基本的に、恐れの根は何でしょうか。 それは、時と思考でしょうか。 どうか、私たちは究明しています。 私はあなたに語っていません。私は問うています。 それは、時 - 未来や過去 - でしょうか。 それはまた、思考でしょうか -未来について考える。 過去について考える。起きるかもしれないことや、起きてきたことを、考える。 未来は時です。過去は時です。 過去は、現在において自体を修正し、 明日、未来へ向かって動きます。 或る出来事の思い出 -それが恐れを引き起こしました。 その出来事の未来が、新しい恐れを目覚めさせます。 これらに付いてきていますか。 私は、自分自身に話しているのでしょうか。または、私たちは、互いに出会っているのでしょうか。 で、水平の恐れと垂直の恐れが、あります。 ですね?
49:21 で、私たちは訊ねています - それは時でしょうか。 過去、現在、未来。 現在を恐れている - 不安定さ、戦争の脅威、 爆弾 - どこかの国、 もう一つの部族的な大国が、ここに落とすかもしれないもの、などです。 で、過去、現在、未来を恐れています。 これは動きです - ですね? それは、何か静止的なものではありません。 それは、動きです。 で、動きは、時を意味しています。 ここから村へは、移動する時間が必要です - 村へ行く時間が、です。 一つの点から、もう一つの点へは、時を意味しています。 で、私たちは訊ねています -時が、恐れの要因の一つであるか、です。 論理的に、そう見えます。理性的、健全に、です。 思考もまた、恐れの根でしょうか。 私は、明日、自分が失業するかもしれないと、考えます。 私は、明日、雇用されないだろう。 雇用されている間に、それについて考えること、 その明日について考えることもまた、恐れの始まりです。 ですね?付いてきていますか。 過去について考える - 出来事、心理的な事故、 それらは、一定の形の恐れをもたらしてきました。 過去について考える、未来について考える、 生の実際の動きについて考える。 その動きの中には、こんなにものすごい不確実性が、あるのです。 思考が、恐れを生み育てます。ですね?これらに付いてきていますか。
52:10 で、時と思考 - それらが、恐れの主な要因でしょうか。 実際にはそうですが、そうであるなら、何をすべきでしょうか。 私の問題を理解されますか。 私たちは、互いに出会っていますか。 あなたは私に、これを説明してくれました -時と思考が恐れの根である、と。 あなたはそれに入りました。 あなたはそれを説明しました。 大いに詳細にではないが、私は、あなたが言ってきたことの意味を、捉えました。 さて、今、あなたは私に訊ねます - それは、あなたが受け入れてきた観念でしょうか。 あなたが受け入れてきた言葉でしょうか。または、あなたが私に言ってきたことを、聞いて、 その聞いたのから、それを私は抽象化して、観念にした。 そして私は、その観念と格闘しているのでしょうか。 そのとき私は訊ねます - 私はどのように、その観念を行為に移すべきなのか、と。 違いが分かりますか。理解されましたか。 私が言っていることを、理解しましたか。 これは明らかでしょうか。いいえ、ね。
53:51 私たちは、事実から抽象化する習慣を、持っています。 それら抽象は、理想、観念、概念、結論になります - すべて言語的です。 そのとき私は、自分自身に訊ねます - 私はどのように、これら理想、これら観念、これら概念を、実行すべきだろうか。 すなわち、時と思考が恐れの根である、ということを、です。 理解しましたか。 私は、あなたが語ってくれたことから、抽象化しました - 時と思考が、恐れの根である、と。 私は、観念を追求しています -私はどのように生で実行すべきだろうか。 語り手は、「どうか、そうしないでください」と言います。 あなたが聞いたことを、抽象化しないでください。 すなわち、時と思考が恐れの根である、ということを、です。 それを観念に翻訳せず、それの真理を、それの実際を 見出してください。 すなわち、私は、自分が本当に過去を恐れていることが、見えます - それはそうです。 また私は、現在を恐れています。 なぜなら、まわりの物事が、信じがたいほど破壊的であるからです。 また私は、明日を、未来をも恐れています - 原子爆弾、核爆弾、強盗、 狂ったテロリスト。 ゲームをやっている政治家。 それが現在です。未来もまた、そうです。 で、私は、事実が見えます。観念ではない -時と思考は恐れの根である、と。 次の土曜日、私はそれに違ったように、はるかに多く入るでしょう。 しかし、これが恐れの根です。 さて、私は何をするのでしょうか。 私は、悟ります。事実が見えます。あなたが語ってくれたことの真理が、見えます。 ロマンティック、理想主義的、それらではない。 それは何も意味がありません。 私は、真理が見えます - あなたが語ってくれたことの実際の真理が、です。
56:47 あなたがそこまで行ったのなら、そのとき、困難が生じます。 事実を実際に見ている観察者は、誰なのでしょうか。 これらを理解されますか。それとも、これはあまりに難しすぎますか。よろしい。 「ああ、そうだ。私はそれの真理が見える」と言う観察者は、誰でしょうか。 観察者は、自らが観察するものより、違っているのでしょうか。 質問を理解できますか。 私が、「ええ、私は、あなたが語ってくれたことの真理が、見えます」と言うとき、 私はすでに、ごまかしたのです。すなわち、私はそれの真理が見える、と。 それは、私が真理から異なっている、という意味です。付いてきていますか。 いいですね?これは明らかですか。 一分間、待ってください。 はるかに単純に、表させてください。 私が怒っているとき、その怒りは、私と異なっているのでしょうか。 または、怒りの瞬間に、違いはないのでしょうか。 このものすごい反応があります。 二、三秒後、私は、「私は怒った」と言います。 ゆえに、私は自分自身を、怒っていた「私」として、分割しました。 いいですか。分かりますか。
58:42 で、あなたが、私に真理を、事実を語ってくれたとき - すなわち、時と思考が恐れの要因であると、です - 私はそれを、よく気をつけて聞きます。 そして私は、「ええ、それの真理が見えます」と言います。 その真理の知覚は、何か向こうにあるものであり、 私はそれを見守っています。 付いてきていますか。 または、観察者はなくて、ただそれの事実だけが、あるのです。 違いを理解できますか。 私たちは出会っているでしょうか。 私は、あの樹を観察します。 その観察の中、言葉が跳び出てきます -「あれはオークの樹だ」と。 あの樹のまさに名づけこそが、 私が実際にそれを見るのを、妨げます。 理解しましたか。 私は美術館に行き、絵を見る。 古い巨匠の絵画を見るなら - 私は現代絵画が好きではないが、それは大事なことではない - 私はそこに行って、見ます。 私は、一人の巨匠を他の巨匠と比較するとき、 私は、特定の巨匠の実際の絵画を、見ていません。 私は、比較し、判断しています。 私はけっして、ごく近くで観察していません - ごく近くで、 他の画家たちの感覚なしで、見ていません。
1:00:48 で、私が観察するとき、あなたが語ってくれたことの真理が見えるとき、 観察者と観察されるものとの間に、分割はありません。 ただ、それの真理があるだけです。 「私がそれを見る」ではない。 全包括的であるその知覚が、精神を恐れから、完全に自由にします。 これは捕らえましたか。 どうか、悩んだ顔をしないでください。 ご覧ください。 今、何時でしょうか。
1:01:41 質問者: 12時30分です。
1:01:45 K: あなたは、疲れていませんか。 これを続けてもいいですか。 これを理解することは、とても重要です。 私は恐れています。仮に、私は恐れている、とします - 心理的に、です。 そのとき私は、それを制御しようとします。 私はそれを、合理化しようとします。 私はそれから逃避しようとします。私は、それを解消するのを助けてくれる誰かのところへ、行きます。 で、私はいつも、それに対して行為しています。 それは明らかでしょうか。 それは、私たちがみんなやっていることです。 それに対して行為します - それを消失させるためか、それを制御するためか、 それから逃げ去るためか、それを抑圧するため、です。 これが、私たちのすることです -それに対して行為します。 で、いつもこの葛藤があるのです。 ですね?それは明らかでしょうか。 恐れないための格闘 - それは葛藤です。 さて、その葛藤は終わりうるのでしょうか。理解できますか。 私は違ったように、問いを出しています。 私と恐れの間のその葛藤は - 私が恐れを制御する、抑圧するなどをし、 ゆえに、この分割は、必然的に葛藤をもたらしますが、 その葛藤は、終わりうるのでしょうか。 論点がつかめますか。 それが私の問いです。 私は言います - その葛藤は、どのように終わりうるのでしょうか。 なぜこの分割 - 「私」、 恐れを抑圧しよう、制御しよう、支配しようとしている「私」- なぜこの分割は、あるのでしょうか。 この分割は、現実でしょうか。 または、それは単に意味論的、言語的でしょうか。 または、問題を解決できないので、 思考は、それ自体を、「私」と恐れに分割したのでしょうか。 理解できますか。
1:04:42 私は、自分自身に話しているのでしょうか。 私たちは、続けていいでしょうか。 すみません。あなたたちはたぶん、これらについて考えたことがなかったのです。 で、この葛藤を解消することが、重要です。 なぜなら、私たちは、二元性に生きているからです - 「私はこれである。私はあれになるべきでない。 私はあれになるべきだ。」と。 で、いつも、この二元性がある -葛藤をもたらすものが、です。ですね? さて、私は見出したいと思います。いや、私は「したい」というのは、使わないことにします。 この葛藤は、終わりうるのでしょうか。 どうか聞いてください。 対極は、あるのでしょうか。 私は恐れています。 対極は、恐れないことです。ですね?または、勇気を持つことです。 恐れに、対極はあるのでしょうか。 または、恐れの対極ではなく、恐れの終わりだけが、あるのでしょうか。 あなたはこれらが見えるのか、と思われます。
1:06:08 で、恐れの終わりが、あるのでしょうか。 終わりとは、葛藤がないことです。ですね? 葛藤をとおして、それを終わらせるなら、それは、私は続けるだろう、それは永続的になる、という意味です。 これは捕らえましたか。 で、これは終わりうるのでしょうか。 何かを終わらせるには、それを終わらせようとしている私が、あってはなりません。 ですね? 私がそれを終わらせようとするなら、私は、それと葛藤になっています。ですね? しかし、恐れと呼ばれるこの反応への観察があるでしょうか - 過去がその観察に干渉せずに、です。 過去とは、思い出、私が持ってきた多くの恐れです。 で、過去は、事実を見るのを、控えられるでしょうか - 幾つもの昨日の記憶なく、(見るのを)です。 理解しませんでしたか。
1:07:49 ごらんください。もし私が結婚していて、毎日、妻と会うなら - 毎日です。かなり退屈です、毎日。 どうか、気をつけて聞いてください。 笑わないでください - 毎日、です。 で、私は彼女を知りはじめます。 私は、彼女がどう見えるのか、彼女のしぐさ、 その他すべて、言葉を、知ります。 で、次第に私は、彼女について知識を築き上げてきました。 いつでも私が彼女を見るとき、知識すべてが、出てきます。ですね? 知識は過去です - ですね? なぜなら、私は、来る日も来る日も、 来る日も来る日も、知識を築いてきたからです。 様々な出来事などなどをとおして、それを蓄積してきました。 で、いつでも私が彼女を見るとき、この知識、すなわち過去が、彼女を見つめます。 あなたは、これをしています。 これは何も新しいことではない。 私たちは言葉に表している、というだけです。 で、この知識は、過ぎ去ったものごとの思い出です - 現在に出会い、それで分割しています。ですね? 物理的には、もちろん、妻は私に似ていません - 男性と女性です しかし、心理的に私は、自分自身を、分割してきました。 理解できますか。 蓄積された記憶 - すなわち、 私の妻についての知識 - の思い出が、 「私」と彼女として、分割してきたのです。 捕まえましたか? 過去が、この分割を、もたらしてきました。 さて、同様に、過去の恐れの思い出、 過去の恐れの事故の思い出、 恐れの出来事が、頭脳に蓄えられています。 その頭脳が、過去を思い出しています。 で、現在の反応が起きるとき、 あなたは即時に、それを恐れと名づけます。 それを恐れとして記録します。 付いてきていますか。 ですね?これは明らかですか。 いいえ。これは明らかでないと、私に言わないでください。すみません、仕方がない。 私はそれを、十、または三、四の違った形で、表そうとするでしょう。
1:10:59 過去は時です。 過去は観察者です。 で、観察者は言います - 「ええ、あれが恐れだ。 私は、それが恐れだと知っている。 なぜなら、私はそれを多くの回数、持ってきたから」と。 で、それがそれを認識した瞬間、それは過去の一部です。 ですね?この事実は見えますね。 で、あなたは、その反応を見られるでしょうか - または、過去なしで、その反応の観察が、あるのでしょうか。 過去が観察するとき、あなたは同じ動きを維持します。 しかし、過去なしの観察があるなら、 あなたはそれを新鮮に、見つめています。 すなわち、あなたは、過去から、恐れを観察するとき、 すでに何年も何年も使用されてきたエネルギーを、使っています。 ですね?それは、エネルギーのむだです。 過去なくこの恐れに出会う、新しいエネルギーは、あるのでしょうか。 今、質問を理解しましたか。 ああ、後生ですから!
1:12:42 わかりますか。恐れが存在するのは、ただ・・・ 私は、悟ります。または、見えます - すなわち、時と思考が恐れの根であるという真理が、です。 恐れは、不注意があるとき、注意がないとき、存在しています。ですね? 私が恐れに対して、完全な注意を向けるなら、それは存在していません。 しかし、私の頭脳は、この反応へ 注意を向けないよう、条件付けられてきました。 あなたは、性的な感情があるとき - いいですか? ところが、恐れは、 それに対して、完全な注意を向けるなら - すなわち、それを分析するのではなく、それを合理化するのではなく、 それから逃避するのではなく、それを過去から観察するのではない。 注意は、見るように、全エネルギーを向けることを、意味しています。 ですね?そのとき、あなたがそうするとき、恐れはない。 私はこれに入りつづけられません。 私たちは、違った形で、それに入られます。 土曜日に私たちは、はるかにもっと、それに入るでしょう。 なぜなら、恐れを持つ精神は、破壊的で、攻撃的で、 神経症的な精神であるからです。 ところが、心理的にまったく恐れから自由である精神は、 とてつもない精神です。
1:14:41 私たちは、止めたほうがいいでしょう。 あなたが望まれるのなら、また木曜日にお会いしましょう。