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OJ82Q2 - 第2回質疑応答会合
1982年5月6日
カリフォルニア、オーハイ



1:12 時間厳守ですね。
1:34 これら質問に答える中で、私たちのどちらもが、それらに答えています - あなたと語り手が、です。 で、私たちはともに、それに入ろうとしています。 重要なことは、私たちがどのように問題に接近するか、であると、私は思います。 私たちは先日、それについて大変多く話しました - 私たちはどのような形で、問題に接近するのか、 それは先入観、偏見なのか、または、固定した観点からなのか。 そのとき、問いは、私たちの動機により、方向づけられたり、形作られたりするでしょう。 私たちは、動機なく、方向づけなく、問題に接近できるでしょうか - それで、問題自体が、それ自体の全内容を開示するように、です。 ゆえに、その全内容が示されたとき、それはすでに答えられたのです。
2:59 第一の質問: 「私たちのほとんどにとって、注意の行為は、維持するのが困難です。 自らのほんの一部だけが、乗り気で、真剣な興味を持っています。 この注意を養うために、何ができるのでしょうか。」
3:18 「私たちのほとんどにとって、注意の行為は、維持するのが困難です。 自らのほんの一部だけが、乗り気で、真剣な興味を持っています。 この注意を養うために、何ができるのでしょうか。」
3:42 私たちはともに、問いに入れるのかと、思われます。 注意というのは、どういう意味なのでしょうか。 気づき、集中、注意の間の 違いは、何でしょうか。 私たちはともに、それに入られるでしょうか。 気づくこと。 うるわしい朝に、これら美しい樹の下に座っていると - すてきで、涼しく、暑すぎない - あのキツツキが突いているのに、気づきます。 緑の芝生、美しい樹々、日射し、 木漏れ日に、気づきます。 あなたは、あの方向から見ているなら、 あれら山々に気づきます。 それらをどのように、見つめるでしょうか。 このすばらしい眺めを、どのように見つめるでしょうか。 この場所の美しさ。 それは、あなたにとって、何を意味しているでしょうか。 あなたは、何も選択なく、何も願望、欲求なく、それを観察し、それに気づくでしょうか - 土地のとてつもない美しさを、ただ観察する。 そう気楽に観察し、これらに気づくとき - 光と影、 枝々、幹の暗さと、木の葉への光、 そして、このすばらしい大地の広がり。 それらに対して、どのように反応するでしょうか。 その気づきの裏の感じは、どうでしょうか。 それは、その土地と丘と影のその美しさでしょうか。 それは、私たちの生に関係しているのでしょうか。 それは、私たちの生の一部でしょうか。 または、それは、観察されるべく、そこにあるのでしょうか。 あなたは詩人であるなら、それについて書きます。 画家であるなら、それを描きます。 または、会話や叙述が上手なら、それを言葉に表します。 しかし、この美しさ、これへのこの気づき - 自らの生にとって、それの関係は、何なのでしょうか。 それが、気づきの一部です - 外的なものへの気づきと、 外的なものへの自分の反応への気づきです。 そして、これの動きに気づくこと。 あなたは、そこに座っていながら、シャツやローブの色に、気づいていますか - 何であれ、ご婦人方が着ておられるものの色。 あなたは、それらに気づいていますか。
7:40 または、私たちが気づいているとき、いつも選択が、あるのでしょうか - 「私は、別の土地より、この土地を好んでいる」 「私は、他の谷より、この谷を好んでいる」。 で、いつも記憶と選択が、作動しているのです。 まったく選択なく、気づくことはできるでしょうか。 青空のとてつもない感覚に、ただ気づく。 木の葉をとおした青空。 そのすべてとともに、ただ動く。 そして、自らの反応に、気づいているのでしょうか。 自らの反応に気づいているとき、好みがあるのでしょうか - 一つのほうが、他より願わしい、 一つのほうが、他より切実である、 一つのほうが、より持続的、習慣的である、などと。 で、外から内へ動きます。 私が言っていることを、理解できますか。 そのため、外と内との間に、分割がないのです。 それは、潮の満ち引きに、似ています -外へ引いていき、内へ入ってくる。 それは、私たちの外側のこの世界への気づき、 そして、私たちの内側深くの世界への気づきです - 意識的なものとともに、無意識的なものにも、です。 本当に深く意識している、気づいているなら、 残余の、または隠れた無意識的な動きは、ありません。 あなたが、これらを経てきたのか、単にたくさんの言葉を聞くだけではなく、 それをやったことがあるのか、私は知りません。 で、気づきは、外と内とのこの動きです。 そして、自分自身で発見する - 外と内との間に、分割があるのかどうかを、です。 もちろん、樹と私自身との間に、分割はあります。 私はその樹ではない - そう願います。 しかし、「樹」と呼ばれるあのものを、観察する中で、 それに対する私たちの反応を、発見する - 私たちが美しさ、醜さに、 残忍さ、暴力に、競争、静けさなどに対して、どう反応するかを、です。
10:59 そして、私たちのいう集中とは、どういう意味でしょうか。 なぜなら、それらはすべて関係しあっているからです - 気づき、集中と注意です。 集中は、何でしょうか。 ページに対し、絵に対して集中する。 特定の点に対して、自らの全エネルギーを、集中する。 その集中の中には、集中しようとの努力が、ないでしょうか。 集中しようとの努力。 すなわち、あなたは、特定のページを読もうとしています。 窓の外には、花に素晴らしい光が当たるのが、見えます。 あなたの思考は、あれへと逸れていってしまいます。 そのときあなたは、その思考を引き戻そう、 何かへ集中しようとします。 で、この常なる格闘が、あるのです -視覚など自らのエネルギーの焦点を合わせようと、です。 それで、抵抗、格闘がある。 いつの時も、特定の点へ焦点を合わせようとしています。 私たちは、出会っているでしょうか。 これが正しいでしょう - 私たちが、注意について、集中について話をするときには、です。
13:02 質問者は訊ねます - 注意は時折、起こりますが、 その注意を養うために、どうすべきでしょうか - それが、偶然ではなく、持続的であるように、です。 で、私たちは訊ねています -注意とは、何でしょうか。注意するとは。 あなたは、問いに興味を持っていますか。 注意する。あのキツツキに注意する。 あなたは、あのキツツキを聞いたでしょうか。 そこにいます!
14:03 集中の中には、いつも、集中しようとする者が、います。 その集中の中には、努力と制御が、あります。 で、集中には、制御者と制御されるものが、あるのです。 あなたがご自身で、これが見えることを、願っています。 制御者がいます - 自らの思考の焦点を、特定主題に合わせようとしている者、です。 しかし、思考はいつの時も、動いています。 あたりをさまよっています。 で、彼は、それを制御しようとします。 その制御には、一つの形の抵抗があります。 制御者と制御されるものとの間に、分割があります。 で、努力が、分割の感覚が、あるのです。 分割があるとき、葛藤があるにちがいありません - 制御者と制御されるものとの間に、です。 それが一般的に、集中と呼ばれているものです。 さて、注意には、この分割があるのでしょうか。 付いてきていますか。 制御者は、注意しようとしている。 ゆえに、思考との間に分割がある -「私は注意しなければならない。 私は、注意を保持するとか養うすべを、学ばなければならない」という思考と、です。 これらに付いてきておられることを、願っています。
16:09 で、注意の中には、あなたが注意を行いはじめる中心が、あるのでしょうか。 または、あのキツツキを聞くとき、聞いています。 で、注意の中には、注意している実体が、あるのでしょうか。 または、注意だけが、あるのでしょうか。 それは、聞き、知覚し、見ることでもって、注意する、そして、 何かへ注意するよう、全エネルギーを向ける、という意味です。 あなたは今、注意深く聞いているでしょうか。 語り手に聞く。彼が注意について何を言っているかを、です。 あなたは実際に、聞いているでしょうか。 あなたが本当に聞くとき、 中心はありません -聞いている「私」として、です。 これに付いてきておられますか。 これは正しいですか。 ところが、集中には、いつも中心があるのです。 私たちは、注意は中心がない。 ゆえに広汎である、と言っています。 それは養えません。 あなたは聞いているなら、強烈さがあるなら、注意します。 それが注意しています。 これは相当に明らかでしょうか。 進んでいいでしょうか。
18:20 で、実に、選択なしの気づき、 選択なき気づき、 そして、集中、 そして、広汎な、広大な注意のこの感覚。 注意は、周辺を持ちません。 ところが、集中は持っています。 それは制限されています。
19:10 第二の質問: 「完全に清らかである行為と 存在の状態は、何でしょうか。」
19:18 完全に清らかである行為と、存在の状態は、何でしょうか。
19:41 私たちのいう行為とは、どういう意味でしょうか。 あなたにとって、行為は何を意味しているのでしょうか - 行為することは、です。 原理に沿って、原形、理想に沿って 行為するのでしょうか。 または、何か予め構想された観念に沿って、でしょうか。 そして、その行為を、その理想、原形、概念、結論へ 近似させて、行為するのでしょうか。 どうか、これらに付いてきてください -あなたが興味を持っていれば、ですが。 私たちは、行為について話すとき、動機をもってか、 結論をもって、行為している、という意味でしょうか - すなわち、私たちが経験をとおして至ったものをもって、です。 そして、様式を定めて、それに沿って行為しているのか、 または、理想に沿って行為するか、です -投影された理想です。 すべての理想は、いつも未来にあるのです。 または、あなたは、何か偏見、先入観に沿って、行為します。 または、権威、専門家が定めた様式などに沿って、です。 私たちは一般的に、その形で行為します。 私たちは訊ねています - それは、行為でしょうか。
22:07 行為は、今行っている、という意味です。 あなたが憶えたり、投影したりしてきた何かに沿って、ではない。 そのとき、あなたは、様式に沿って行為しています - 或る権威や、あなた自身の経験などが定めたものに沿って、です。 いいですか?この事柄については、明らかでしょうか。 で、いつも、見たところ、 何らかのものに沿った行為が、あるのです。 私は行為します。私は、何かをします - 習慣をとおし、自分の条件付けをとおし、 自分の蓄積された様々な先入観をとおして、です。 (蓄積された)それを私は、知識と呼びます。 私たちのほとんどにとって、それが行為です。 私の父、私の国が、私に対して、何をすべきかを、語ってきました。 私はそれに沿って行います。行為します。 または、その様式に反逆します。 自分の様式を定め、それに沿って行為します。 様式は同じです。それが、私に与えられたのでも、 私自身で作ってきたのでも、様式は様式です。 型枠、規準は、規準です。 それは、キリスト教の規準やインドの規準や仏教の規準ではない。 それは規準、枠組みです。その中で、私は行為します。ですね? さて、私たちは訊ねています -私たちはともに探検しています。 私はあなたに、どう行為すべきかを言っていません。 それは、あまりにばかげているでしょう。
24:25 そのとき、私たちのいう行為とは、どういう意味でしょうか。 行為は、境遇に沿って、気候に沿って、 圧力に沿って、変わるのでしょうか。 これらすべてが、「行為」というその一言に、関与しています。 あなたが、語り手とともにそれを探検しているのかどうか、私は知りません。 で、私たちは究明しています - 正確で精密な行為が、あるのでしょうか。 自らの気分に沿って、自らの気質、 楽しみなどに沿って、変化しないもの。 真実であり、記憶としての過去や、 理想としての未来に依存していない行為が、です。 これらに付いてきておられますか。 これが、その一言に関与しています。 で、私たちは訊ねています - 条件付けすべてから全的に自由である行為が、あるのでしょうか。 条件付けは、理想を持つことです。 すると、それは、「有るもの」に命令したり、それに賦課しようとしたりします。ですね? 私は貪欲です。私は、無貪欲であるとの観念を、持っています。 私は、「有るもの」でなく、「あるべきもの」に沿って、行為しようとします。 または、私は、商業主義やテレビによって、条件付けられてきました。 貪欲は存在しない。私は買いたい、私は買う、と。 彼らは、私にあれやこれやを買うよう、言います。 私は買います。
26:53 で、私たちは見出せるでしょうか - 何が、正しい振る舞い、すなわち行為でしょうか。 何が正しい動きでしょう - すなわち、様々な境遇に応じて変化をしない動き、です。 それが本当に問題です - その問いの中の問題の一つです。 理解されましたか。 その言葉の十分な意味を、露出させてきました。ですね? その言葉の意味合い、その言葉の広い意義を、です。 そのとき、動機なく、理想なく、どの形の条件付けもなく、 行為することは、可能でしょうか。 条件づけは環境的です。条件づけは宗教的です。 条件づけは、自らが読んできたもの、教育されてきたこと などに沿って、です - 条件付け。 で、そこにある問題は、精神は、頭脳は、 - 当面は、精神という言葉で通しましょう - 精神は、条件づけすべてから自由であり、それで行為することが、できるでしょうか。 それには、大変多くの注意、大変多くの見守りが、 必要とされます。 自らが理想を持っていて、 それに沿って行為を順応させていることに、気づく。 私はこうだ。私はああなるべきだ -それは、自己改善と呼ばれます。 すてきな言い方です! すなわち、自己、それは利己性ですが、それ自体を改善しようとしています。 で、それは、ますます利己的になっているのです。 このすべてを片付けて、有るものを実際に見て、行為することは、可能でしょうか。 理解できますか。これに必要な・・・ 私はもはや、これに入りたいと思いません -私たちは、もっとそれに入りましょうか。
30:02 知識から生まれていない行為が、あるのでしょうか。 さあ、気をつけて。 テクノロジーの行為、物理的(身体的)な行為が、あります。 そこで私は、大変多くの知識を、持たなければなりません。 私は、良いエンジニアに、コンピューターの専門家になるのであれば、 それについて、大変多くの知識を持たなければなりません。 または、良い大工、良い建設業者でも、です。 そこに知識は必要です。 私が心理的に、知識に沿って行為するなら、 私は知識を蓄積していて、 知識に沿って行為していますが、その知識は不完全です。 ゆえにそれは、いつも葛藤になっています。ですね? 私たちはこれが見えるでしょうか。 または、私はあまりに・・・ 不完全であるものは、その作用・行為において、いつも 断片的であるにちがいありません。明白です。 それは正しいでしょうか。進みましょうか。
31:36 で、心理的な記憶から生まれていない・・・ - どうか、私とともに探究してください。 受け入れないで、 これについて少し懐疑的であってください。 理性的な懐疑です - 心理的な記憶から生まれていない行為が、あるのでしょうか。 もし私が、自分の心理的な知識に沿って行為するのなら - その知識は、私が自分自身について集めてきたし、 私は、知識がいつも制限されているのを、知っています - そのとき、私の行為は、制限されるでしょう。ですね? ゆえに、どの制限された行為も、 必然的に、自らの矛盾をもたらすにちがいないのです。ですね? それで、私の行為は、後悔、痛みを生み育てるにちがいないのです - 翌日その行為に相反する、などなどです。 で、自由である行為は、あるのでしょうか - どうか、これらを受け入れないで、ただ見出してください - 過去の想起、過去の記憶、過去の蓄積から自由である行為は、あるのでしょうか - すべての心理的情報、すなわち知識の、蓄積から、です。 その知識は、「私」であり、 ゆえに、その「私」は、制限されています。 私が、「私はこれをしよう」と言って、その形で行為するとき、 その行為は、間違いなく制限されるし、矛盾するでしょう。 ゆえに、混乱させる、などでしょう。ですね? これがはっきり理解されるなら、そのとき、自由な行為はあるのでしょうか - テクノロジーのものとその他すべては、別として - 自由である行為は、あるのでしょうか。 「私」として、記憶、想起としての過去の蓄積された経験から 全的に自由な行為が、です。 たぶん誰も、この問いをしたことがないでしょう。 私が独創的(奇抜)であるということではなく、 たぶん私たちは、その質問をしたことがないでしょう。 私たちは今、それを訊ねています。 それは、とても興味深い問いです。 本当にそうです。なぜなら、そこには - あなたは、私にこれらに入ってほしいですか - それは、あなたにとって娯楽ですか。 私が言っていましたように、 興味がおありなら、私はそれに入るでしょう。 あなたが興味がおありなら、 頭脳はいつも、蓄積し、記録しています。 あらゆる経験が、記録されます。 事故や、何か出来事が、記録されます。 その記録に沿って、あなたは行為します -当然です。 私は、もし自動車事故を起こしたなら、次回、よく気をつけるでしょう。 そこで、それは必要です。 しかし、私たちは訊ねています -以前、記録されていない 行為が、あるのでしょうか。理解できますか。 いいですか?分かりますか。 これに興味はおありですか。
35:58 あなた自身に、この質問をなさってください。 私たちの行為は、過去の記録に基づいています。 蓄音機のように、レコードを掛けて、何度も何度も何度も、奏でます。 それはあなたのレコード(記録)です。 記録、そして、その過去の物音に沿った行為。 さて、心理的記録から生まれていない行為は、あるのでしょうか。 これらに付いてきておられますか。 あなたはどのように、見出すのでしょうか。 ここに問題があります - あなたに出されています。 あなたはそれを拒否するかもしれません -それは戯言だ、それはけっして起こりえないと言って、です。 それは(ただの)可能性だ、と。 また、他の可能性は、それが起きるかもしれないということです。ですね? それは真実かも、虚偽かもしれません。しかし、あなたはそれを、究明しなくてはいけません。 それを究明するには、一方か他方かを主張することはできません。ですね? で、これら二つを、手放さなければなりません - それは可能でないという肯定的な言説や、 それは可能である(にすぎない)という否定的な主張を、です。 で、それらはどちらも脇に置かれます。 そのとき、あなたの精神の状態はどうでしょうか - これらに興味は、おありですか。 過去の記録と、それに沿って行為する感覚から、 解き放たれた、あなたの精神の状態は、どうでしょうか。それは解き放たれています。 それは解き放たれているなら、そして、解き放たれることか可能であるなら、 そのとき、知覚、洞察の性質は、何でしょうか - それは、即座の行為です。 付いてきていますか。理解できますか。 ただ聞いてください。私はもう少し説明しましょう - よろしければ、 そして、あなたがそれに興味がおありなら、それに入る辛抱がおありなら、です。
38:47 私は、山沿いに歩いています。 私は突然、断崖絶壁に来ます。 そこでの行為は、即時です。 行為は、自己保存により、もたらされます - それは智恵です。ですね? 自己保存は、自然です。 「自分を護れ」と言う身体の反応です。 それはまた、養成もされます。 断崖絶壁から落ちないことは、ずっと人類の経験でした。 その過去の持続的な自己保存的動機は、記録されています - 無意識的に、または意識的に、です - そこでの反応は、自然な智恵です。 さて、同様に私たちは、心理的な保存を記録してきました。 これらに付いてきていますか。 すなわち、もし記憶を持たないなら、もし記録することがないなら、 私は何なのでしょうか。 私は何者でもありません。 で、何者でもないことの恐れと、 それについての知識が、中心的な感じを、与えます - すなわち、自分自身を保存しなければならないのだ、と。 いいですね?付いてきていますか。 そこから、あなたは行為します。 ゆえに、記憶、知識が必要です。 そこで、それは同じ動きです - 心理的分野の中へ、持ち越されたもの、です。 これは明らかでしょうか。または、私はごた混ぜにしているんでしょうか。 残念ながら、私はごた混ぜにしています。 ちんぷんかんぷんか!
41:28 さて、私は見出したいのです -この事柄で私は真剣です。 私は、何時間も冥想する、または、考え、取り組むでしょう。私は見出さなければなりません - 以前の記録から生まれていない行為が、あるのかどうかを、です。 それが、あなたの強烈な要求であり、それが、あなたが見出したいことであるなら、 そのとき、よく気をつけて、どの記録が起きるのをも、見守らなくてはいけません。 そして、完全な注意があるとき、記録は起こらないでしょう。 記録を創り出すのは・・・私が言おうとしていたのは、何だったかな? 記録を創り出すのは、不注意だけ、注意の欠如だけなのです。 あなたはこれに、注目したことがありますか。 あなたが、あれらの山を見つめているとき -または、樹々すべてと日射しのある この風景を見つめていて、 あなたは、それに完全な注意を向けている。 すなわち、見守っている。樹々すべて、 木の葉の動きすべてと、 木の葉に照る光と、陰を、見守っている。 完全な注意です - そこに、記録することはありません。 それに注目したことがありますか。または、それは私の空想ですか。 どうか、ここに座っているとき、実験してください。
43:31 で、記録しないことは、可能です - それは、思い出から生まれた行為ではない。 洞察から生まれた行為です。 洞察。その洞察から、行為があります。 私は一例を取り上げましょう。 それが役立つだろうと、願っています。 私は、例を取り上げたくないのですが、それに入りましょう。
44:08 世界中の組織された宗教 - 信念、教義、儀式、迷信、 特定の形の礼拝などなどを伴ったもの - は、 ただ恐れから生まれた、宣伝から生まれた、 社会の脅迫から生まれたことを、論理的に知覚します。 社会の脅迫とは、あなたが、もしカトリックの国でプロテスタントならば、 かなり困難だと分かるでしょう。ですね? で、洞察を持つこと - 宗教の組織された構造の本性全体へ、です。 それへ完全な洞察を持つ。 それは、あなたがヒンドゥー教徒でも、カトリック、プロテスタントや、何でもないことを、意味します。 あなたは、その構造の内容が、即座に見えます。 その知覚、無媒介の知覚が、あなたを、 すべての組織化から、解き放つのです - 宗教的な構造的組織から、です。ですね? すなわち、いわゆる霊的構造、霊的権威はけっして、 人を、悲しみから解き放たないだろう、と、です。 それへの洞察を持つことは、あなたが何にも所属しないことを、意味しています。 そのすべてからの即時の自由があります。 あなたが、断崖絶壁へ来るときのように、 即座の行為があるのです。 これらをつかんでおられますか。 私たちは、幾らか互いに出会っていますか。 それは、幾らかではありえません。 それは全部理解されなければなりません。
46:23 で、過去の思い出や、未来の希望と理想から生まれていない 行為が、あるのです。 それは、全的に、「有るもの」に気づくことです。 そして、「有るもの」への洞察を持つことが、「有るもの」が終わることです。 あなたはそれが見えるのかと、思われます。 次の質問に進みましょうか。
47:07 第三の質問: 「言葉はそのものではないからには、 私たちは、言葉をとおして真に覚りを開ける(啓蒙をできる)のでしょうか。 象徴は、象徴によりなされた損傷を、なくせるのでしょうか。 または、私たちは、覚りの幻影によって、誘惑されつつあるのでしょうか。」
47:37 「言葉はそのものではないからには、 私たちは、言葉をとおして真に覚りを開ける(啓蒙をできる)のでしょうか。 象徴は、象徴によりなされた損傷を、なくせるのでしょうか。 または、私たちは、覚りの幻影によって、誘惑されつつあるのでしょうか。」
48:05 私たちのほとんどは、言葉はけっしてそのものでないことを、悟るのか、と思われます。 私の妻は、けっしてその女ではない。 または、私の夫でも、です。 言葉は - そうですね、あなたが言葉のこの問題に入るなら・・・ あなたは、それらに入りたいですか。 私たちは、言葉は実際のものではないことを、悟るなら - 叙述は現実ではない、象徴はけっして事実ではない、 理想はけっして「有るもの」ではないことを、です - そして、あなたが観察するなら、気づくなら、 私たちの頭脳は、言葉に捕らわれています - 言葉の網に、です。 私はカトリックだ、私はプロテスタントだ、私はアメリカ人だ。 それらはすべて象徴です。 それらはすべて、言葉、画像です。 頭脳は、それに捕らわれています。 すなわち、考えることは言葉です。 言葉なしに、考えることが、あるでしょうか。 私は、これらに入りたくありません。
49:43 あなたにとって、これらすべてのことを見出すことは、とても興味深いのです。 なぜなら、そのときあなたの精神は、とてつもなく鋭敏になるからです。当然です。 言葉から自由であること、けれども、言葉を正確に使うこと。 で、言葉は、そのものではない。 象徴は、けっして現実ではない。 恐れ、「恐れ」という言葉は、その反応ではない。ですね? しかし、「恐れ」という言葉は、私たちの行為を形作ります。 恐れの感情ではなく、その言葉が恐れを創り出すのか、 または、その言葉が恐れを形作るのか、 そして、その言葉なしに、反応を見つめることは、可能でしょうか。 これはまったく単純です。
51:06 「私たちは言葉をとおして真に覚りを開けるでしょうか」 - なんとまあ! 私たちはなぜ、「覚り」という言葉を使うのか、と思われます。 私たちは、その「覚り」という言葉に、入るでしょう。 私たちが覚りというのは、どういう意味かに入ることは、とても興味深いのです。 導師すべてがそれについて、話をします。 それは、或る人々にとっては、神聖な言葉です - 「覚りを開く」ということは、です。 書物をとおしてでなく、知識をとおしてでなく、時をとおしてでない。 理解できますか。 それは、あなたが次第に登り詰めることではない - 実践により、冥想により、あらゆる種類の芸当をすることによって、です。 で、明白に、「愛」という言葉は、愛ではない。 同様に、覚り(啓明)とは、何でしょうか。 誰が、覚りを開いたのでしょうか。 何の覚りですか。 何について覚ったのか。付いてきていますか。 覚りを開いた - それについて私は、おふざけにしたくはない。 確かに、覚りを開いた精神は、条件づけすべてから自由です。 ヒンドゥー教徒 - 自らの迷信でもって 自らの宗教的条件づけの事柄すべてでもって、 また、心理的と環境的な条件づけでもっても、 彼は、自分自身をヒンドゥー教徒と呼んできました。 そういう精神は、条件づけられてきましたが、どうしてそれが、いったい自由でありうるでしょうか。 覚りは、条件づけからの完全な自由でしょうか。 カトリックの人は - 私は、誰もいないことを、私が誰のつま先をも踏んでいないことを、願います - カトリックの人は、自らの迷信すべてをもち、 自らの救い主をもち、自らの儀式と 位階制度の権威などをもって、 いったい彼は、覚りを開けるのでしょうか - 自らの条件づけ、洗礼をもって、です。 人々を、或る様式に保っておく 知的な、ずるい事業全体を、ご存じでしょう。 あなた自身で、答えてください。 精神は - 人間は、怯えているとき、覚りを開けるでしょうか。 彼が覚りの名において、権力、地位を探し求め、 金銭を蓄積しているときに、です - それは、導師たちの幾人かがやっていることです。巨額のお金です。 彼らは、覚りについて話します。
55:15 で、言葉はそのものではないのです。 そして、質問者は訊ねます - 象徴は、人間精神を損傷してきたのでしょうか。明白です。 私がヒンドゥー教徒であるなら -私個人はそうではありません。 私はインドで生まれましたが、それは何の意味もありません - 私がヒンドゥー教徒であるなら、彼らは無数の象徴を持っています。 キリスト教世界のように、です。 彼らの女神たち、 彼らの神々、部族の神々、小さな神々と上の神々。 私は、その中で条件づけられてきました。 私はどうすれば・・・ それら条件づけ、それら象徴は、 精神の、心理の明晰さを、損傷してきました。 いいですね?それは明白です。 象徴は明白に、損傷させてきました。 なぜなら、それは、人間が象徴を崇拝するのではなく、 直接的に真理へ、事実へ行くのを、妨害するからです。
57:03 質問者はまた、訊ねます - 私たちは、覚りの幻影により誘惑されつつあるのでしょうか。 明白です。それは、すてきに聞こえます。 しかし、覚りは、時によりません。 それは過程ではありません。 それは、何かあなたが次第に到るものではありません。 条件づけすべてから自由であること。 それはまた、自己にとって完全に光であることを、含意しています。 どの人物にも、どの観念にも、どの教師にも、依存しない - 自己にとっての光です。 で、全的に、その光から、行為があるのです。 ああ、これはすてきな質問です - 次のは、ね。
58:12 第四の質問: 「なぜ私たちは変化しないのでしょうか。」
58:18 そうです。私は、自分自身にその質問をしようとしていました。
58:29 私は、ここの人々を見ます。 彼らを、私は長年、存じていますが、毎年毎年、来られます。 私は彼らにもまた、訊ねてきました -なぜ私たちは、変化しないのでしょうか。 何が私たちを、変化させるのでしょうか。 あなた自身に、この質問をしてください。 私たちを変化させるであろうエネルギー、衝動、強烈さは、何でしょうか。 変化する - 私たちがいう「変化」というその言葉は、どういう意味でしょうか。 これからあれへの変化。ですね? あれは、予め構想されています。 ゆえに、それはまったく変化ではありません。 あなたはこれが見えるのかと、思われます。 これが見えますか。 もし私が、何かの様式 - すなわち、私が気をつけて確立してきたもの - に沿って 変化するなら、それは、変化ではありません。 それは、「有るもの」の継続です -修正されて、です。 私は、それが自分をさらに導いてくれるだろうと、望みます - さらなる修正です。 しかし、それは同じ鎖です。ですね?同じ動きです。 で、私たちのいう変化とは、どういう意味でしょうか。 語り手にとって、それは、終わることを、意味しています - 「有るもの」の修正された継続ではありません。 理解できますか。 例えば、物理的な革命を、取り上げてください。 共産主義者、レーニン主義者、トロツキー主義者たちは、変化させます。 彼らの革命の観念は、社会の全構造を、外的な環境を、 変化させることです - それにより、 異なった人間をもたらそうと、願っています。 外側の変化の圧迫 -ツァーリ(皇帝)から共産主義者、 ボルシェヴィキなどへ - は、 究極的に、または可能なだけ早く、人を変わらせるだろう、と。 で、彼らは成功したことがありません。 反対に、彼らはひどいことを、やってきました。
1:01:10 で、私たちは心理的に、変化について、話しています。 私たちの意識の内容を、完全に変化させる。
1:01:29 いいですか? 意識を、より良い意識へ、もっと洗練された意識へ、 変化させるのではない - より暴力的でなく、時折暴力的、などなどではない。 意識の内容が終わることが、根本的な変化、 根本的な変異です - 私はそこに、「変化」という言葉を、使わないでしょう。 で、なぜ私たちは、変化しないのでしょうか。 これから全的に離れ去らないのか。 私たちは、問いを明らかにしましたか。 数百万に数百万年の後、なぜ、私たち人間は、 自分たち自身を、現在のおぞましい状況に、帰着させたのでしょうか。 それは、おぞましく、怯えさせます。 暴力、残忍さ。一切れの土地のために殺す。 とんでもない!なぜでしょう。 問いはこうです - なぜ私たちは、これらを終わりにしないのでしょうか。 どうか、これに答えてください。あなたたちはみんな、教育を受けています。仕事をするし、 一定の方向では智恵がある。お金を稼ぐ。 仕事へ行く、その他すべてです。 しかし、あなたたちは、本当の主題を、解決していません。なぜでしょう。 外側の圧迫が、あなたを変化させるでしょうか。 心理の変異を、もたらすでしょうか。 変異とは、全的な変化を、意味しています。 かつてなかったもの、です。 何かへ変化させるのではない - ありつづけたものを、です。すなわち、私の怒り、私の暴力、私の愚かしさ、 私が何かバカな幻影、何か象徴に取りすがることを、です - それはおそらく、私を何らかのものから、救ってくれるだろう、と。 何が私たちを、変化させるのでしょうか。 外側の圧迫は、明白に、そうさせてきませんでした。 ですね?それはとても明らかです。 それは、あなたにとって、明らかですか。 社会を変化させることにより、あなたは変化しないでしょう。 なぜなら、あなたが社会を、創り出してきたからです。 それは明らかですか。私たちが、この社会を、今あるそれを、作ってきました - 戦争。何か国家的な威信や名誉、一切れの土地のために、 互いに殺し合う。これらを理解されますか。
1:04:54 そして、数千年のすべての後、私たちは、恐れから自由ではありません。 何が私たちを、変化させるのでしょうか。 あなた自身についての、もっと多くの知識ですか。 世の中、私たちの外側についての、もっと多くの知識ですか。 私たちは殺してはならないとの知識。 そして、私たちは殺すのです。 私たちは、幾千年の知識を、蓄積してきました。 それは、私たちが人々を殺すのを、助けてきました。 また私たちは、殺すべきではないとの知識をも、持っています。 それは、私たちをどこに導くのでしょうか。
1:05:50 で、苦しみ、痛み、執着、圧迫、 にんじん - 報償と処罰。 そのすべてが、私たちを変化させるのでしょうか。 見たところ、させてきていません。 で、何が私たちを、変化させるのでしょうか。 変化、ではない -何が、私たちを変容させるでしょうか。 何が、私たちをして、終わらせるのでしょうか -この怖ろしい混乱、 悲しみ、痛み、さびしさ、そのすべてを、終わらせるのでしょうか。 涙ですか。私たちは十分に泣いてきました。 悲しみですか。外側の何でもない。 私たちはそれを悟るのかと、思われます。 どの神々、どの救い主、どの外的な力、機関も、 そもそも、私たちを変化させようとしていません。 私たちは、それらにとって、あまりに利巧すぎる。あまりにずるがしこいのです。
1:07:29 これは、自分自身に訊ねるべきとても深刻な問いであると、私は思います。 時は、この変異をもたらすのでしょうか。 あなたは、時を持ってきました - 百万年です。 明白に、時は、もたらさないでしょう。 で、外側の何も、私たちを変化させないし、変異をもたらさないでしょう。 私たちを変化させるであろうのは、ただ、 私たちが生きている混乱への自らの気づきと、 それを見守ること、それとともに完全に留まることだけです - それを変化させようとしない、それについて何かをしようとしないのです。 これを理解されますか。とても興味深いのです。 私たちは、外側の機関をすっかり拒否します -拒否すると、してです。 神々とすべて、それを拒否します。 智恵あるどの人も、それを拒否します。 しかし、彼は、内側の作動者を拒否しません。 理解できますか。 「私はこれをしよう」と言う行為者を、です。 その行為者は、過去の記憶、過去の思い出、過去の知識です。 もしも、それが完全に変容できたなら、 あなたは、「有るもの」を完全に自由に観察します。 完全な注意をもって、そう全的に観察するとき、 「有るもの」は、完全に終わってしまったのです。 で、それは、自らの悲惨、混乱についての、自らの知覚でなければなりません。 そして、それに対して行為しようとするのではなく、それとともに生きること、保つことです。
1:10:03 今、一時間と十分です。あなたたちは、これにもう幾らか、耐えられるでしょうか。
1:10:09 質問者: はい。
1:10:17 K: 本当に耐えられますか。

質問者: はい。
1:10:24 第五の質問: 「聖なることの意味と、特に現代生活、現代世界の中での その持ち場について、もっと深く話してもらえますか。」
1:10:35 「聖なることの意味と、特に現代世界の中での その持ち場について、もっと深く話してもらえますか。」
1:10:55 聖なる(ホーリー)という言葉は、真実ではありません。ですね? 思考は、聖なのでしょうか。神聖でしょうか。 進んでください。究明してください。 思考、考えることは、建築を創り出しました - 大聖堂、10世紀、12世紀の最もすばらしいものを、です。 とてつもない美しさです。 あなたが、ヨーロッパのあれら古代の寺院、古(いにしえ)の大聖堂へ 行ったことがあるなら、 あれら柱の活力のとてつもない感覚、 高い天井の美しさ。 思考が、そのすべてをやってきました。 思考はまた、あの構造物、あのすばらしい石造りの構造物の中の 内容すべてを、創り出してきました。 ですね?それは明白でしょう。 ですね?で、何が神聖なのでしょうか。 すなわち、聖(ホーリー)なるもの、全体(ホール)なるものは、何でしょうか。 思考が神聖であるのなら、それが創り出すものすべてが、聖なのです - 大砲、原子爆弾、 互いに殺し合うこと、 コンピューター、救い主 - 私のではなく、あなたの救い主。 儀式、誰かを叩くこと。付いてきていますか。 すると、ひとたび思考が神聖であると認めるなら、 それがすることすべてが、神聖です。ですね? 思考は、神聖でないものと、神聖であるものとを、 創案、発明してきました。 それは、世界を、分割してきました - 世間と、 世間ではない神聖なものとして、です。 聖人と罪人です。
1:14:31 で、どうか、これは、とても深刻な問いなのです。 それは、幾つか他の問いの最後での、ただの普通の問いではありません。 それは、これは、きわめて深刻です。 なぜなら、思考は、人を引き裂きつつあるからです - イギリス人、フランス人、アメリカ人、ロシア人、アルゼンチン人。 付いてきていますか。 で、あなたがひとたび、思考は、何をしようと、神聖であることを、 認めるとか、黙認するとか、受け入れるなら、 そのときあなたは、何も悩むことがありません。 そのときあなたは、互いに殺し合うでしょう。 今のままに続けていくでしょう。 それが、あなたが望むことなのかもしれません。 それが、人類が望むことなのかもしれません。
1:15:32 あなたは、もし、最も聖なるものを、見出したいのなら、 それを言葉によって、測量することはできません。 無量であるものを、言葉により測量することは、何の意味もありません。 しかし、聖なるもの、神聖なものに出くわすには・・・ 愛は、思考でしょうか。 そのとき、愛は欲望でしょうか。 愛なしには、聖なるものは、ありえません。
1:16:32 で、これらすべての説明は、有るものではないのです。 永遠であるものは、言葉に表されません。 しかし、時と思考が終わりになったとき、 最も神聖なものが、あるのです。 しかし、「私はいかにして、思考を終わらされるのか」「時はいかにして止まるのか」と言うなら、 あなたは、古き良きものへ、戻っています。 しかし、見出す、それに入る -思考は何なのか、それは終わりうるのか。 私はこの場所からあの場所へ行こうとしているので、思考は、終わりえません - 私が車を運転するときや、まさに言語の使用、コミュニケーションにおいては、です。 しかし、内的に、時は止まりうるのでしょうか。 思考は、終わりになりうるのでしょうか - 制御をとおしてではない。 意志をとおしてではない。 始まりからあり、終わりを持たないものを、見出そうとの衝動(によって)です。 それに入るには、見出すのに必要なのは - これが本当の冥想です。 すなわち、生の動き全体です。