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OJ82Q3 - 第3回質疑応答会合
1982年5月11日
カリフォルニア、オーハイ



1:14 多くの質問が(書面で)出されてきました。 幾つかは、かなり突飛です。他のものは、私が指摘してもいいなら、かなり不合理です - なぜ私はあごひげを生やさないのか、というように。 それらを、私たちは脇に置きましたし、 より真剣な問いの幾つかを、採りました。 まったく可笑しいですね - これらは。
2:17 私がもう一度、ご注意を申し上げてもよろしければ- かまいませんか - あなたは、あなた自身にこれらの質問をしているし、 答えを見つけようとしています。 または、問いの意味合いを見ようとしています。 また私たちが指摘しましたように、 あなたがこれらの問いに、どのように接近するかが、重要です - どの問い、生のどの問題にも、です。 私たちはそれに、自ら親しく接近するのか、または、何か明確な、 または、無意識的な動機をもってか、 または、答えをただ見つけたいとの願望をもってか、 それゆえに私たちは、けっして問題自体を理解しないのです。 私たちが先日言いましたように、「問題(プロブレム)」は、何か投げつけられたものを、意味しています。 何か出会わなくてはいけないもの、応答しなくてはいけない挑戦です。 しかし、それに婉曲に応答するなら、または、一定の方向に、なら、 そのとき、その挑戦に完全に出会っていません。 で、もし指摘してもよろしければ、それがとても大事です - 私たちは、あなたに教示していません。 あなたに教えていません。 それがいかに重要なのかを、ただ指摘しています - あなたが問いに、問題にどのように接近するかが、です。 そして、問題の解決より、 接近を学ばなくてはいけません。
4:24 第一の質問: 「小さな幾らか選抜された集団の子どもたちを教育するために、 百万ドルが使われていることを、あなたはどう感じられますか - 彼らは、苦しんでいる者とか困窮者からであるとは、見えません。」
4:41 「小さな幾らか選抜された集団の子どもたちを教育するために、 百万ドルが使われていることを、あなたはどう感じられますか - 彼らは、苦しんでいる者とか困窮者からであるとは、見えません。」
5:05 あなたは、どう思いますか。 この学校、オーク・グローヴ学校は、私が理解するかぎり、 より貧しい人たちのため、いわゆる困窮者のため、 豊かな階級からでない子どもたちのために、奨学資金を持っています。 エリートである人々の集団に対して、 なぜ一般的な敵対や反感があるのか、と思われます。 なぜ私たちは、この種の学校に反対するのでしょうか - そこは本当に奨学金を持っています。 なぜあなたは、それに反対するのでしょうか - 学校のすべての錯綜、学校の諸問題などを、 知らないで、です。 そして、私が指摘してよろしければ、なぜあなたは、 戦争に使われている、莫大な額のお金に、反対しないのでしょうか。 なぜあなたは、それに反対しないのでしょうか。 戦争 - どの特定の戦争、核戦争でもなく、 自らの国のために、人々を殺すという観念全体に、です。 これよりも、それに反対するほうが、はるかに重要ではないでしょうか。 これもまた重要です。 私たちはそれに返答しています。 すなわち、この学校、オーク・グローヴ学校は、 それが得られるとしてですが、百万ドルのお金を、使っています - 少なくとも、その半分が得られるだろう、と私は思います - (初等学校に加えて、)中等学校を持つのです。 そして、学費全部をとうてい支払う余裕のない人たちのためには、 奨学資金があるのです。 あなたは、これを強く感じるなら、それについて、どうするのでしょうか。 その場所を焼き払いますか。 または、問いに入りますか - なぜ、アメリカのように、この国のように、 世界のこの地域のように、裕福な社会において、 なぜ、飢えている人、ほとんど何も持たない人、 教育を受けていない人、 あらゆる種類の恐怖に服従している人々が、いるのでしょうか。 なぜこの国は、何百万に何百万に何百万ドルをも、 軍備などに、使っているのでしょうか。なぜでしょう。 私たちは単に、言語的に反対しているだけか、または、これらについて、行動を起こすのでしょうか。 或る国が、世界中のように、世界の最も未開な社会さえも、 戦争のため、軍事物資を蓄積しているとき、 何ができるのでしょうか。 各国が、フランス、イングランド、アメリカと他の国々のように、 他の国々、より貧しい国々へ、武器を売っています。 それらの国もまた、 あらゆる種類の怖ろしい、人類の破壊手段に、数百万ドルを使っています。 私たちは、これらについて、何を感じるでしょうか。 これらについて、何をできるでしょうか。
9:30 この人の破壊を止めることは、ほぼ不可能に見えます。 で、私たちは、これらの根へ行くのでしょうか。 または、単に、一定の種類の核兵器などを持たないことを、考えるだけでしょうか - 表面的に、です。 または、私たちは、これらすべての事態に深く入るのでしょうか。 すなわち、このすべての原因は、何でしょうか。 貧困の原因は、何でしょうか - この国のだけでありません。 ここは、残りの世界と比較して、裕福ですが。 私たちはそれについて、何をするのでしょうか。 私たちはアジア世界、インドなどに行くとき、 人口は毎年、増大しています。 インドでは毎年、1500万から1300万の人々が、増えています。 そのようなきわめて貧しい国が、 武器に数十億ドルを使っています - フランスから、ミラージュ(戦闘機)を買い、別の国、隣国と対立しています。 私たちはみんな、これをしています。 私たちは、何をするのでしょうか。 これらの困窮、貧困、孤児の原因は、何でしょうか。 アジア世界では、人々は飢えてきたし、飢えています。 語り手は、その一部でした。 少年のとき、子どものとき、充分な食べ物などが、なかったのです。 で、私たちはみんな、貧困が何かを、知っています。 おそらく、あなたはそうではない。 あなたがそれを知らないのが、私はうれしいです。 このすべての根は、何でしょうか。
12:13 それは、民族的、国家的な誇りでしょうか。 それは、或る種の特有の名誉でしょうか - 自分の国のために戦い、 その中で、その名誉のために、数百万の人々を殺すこと。 世界のこの困窮、増大する貧困の原因は、何でしょうか。 それは、民族主義、国家主義が、人々を分割してきた、 ゆえに、一つの国は異常に豊かであり、他の国々はそうでない、 ということなのでしょうか。 地球的な関係、相互関係を持つことは、可能でしょうか - そのため、経済的、社会的に、政治のように、あらゆることが、 アメリカの問題やアジアの問題ではなく、地球的な問題であるように、です。 私たちは、戦争を止めるために、それを考慮できるでしょうか - それは、困窮の一部です。 あなたのような、別の一人間のこの甚大な破壊の一部です。 彼は、自分自身をトルコ人とかアルゼンチン人とかイギリス人とかロシア人とか呼ぶかもしれません。 しかし、その人間は、あなたと私に似ています。 あらゆる種類の悲惨を経てゆき、 民族主義、国家主義に、安全を願っています - それは孤立です。 その孤立に、安全はありません。 で、私たちや或る人々の集団は、すべての民族主義、国家主義から、自由でありうるでしょうか - 戦争に、他の人間たちを殺すことに、絶対的に、全的に反対している人たち、です。 どうか、私はあなたに、そうするよう言っていません。
15:04 古代の社会には、すべての状況下で、殺すことを拒否する 人々の集団が、ありました。 それは、彼らの宗教的な深い確信でした -殺すことは悪である。 そして、もし殺すなら、来世で、そのつけを払うだろう。 ゆえに、殺すな、と - たぶん賞罰です。 しかし、生命は神聖であるから、何かを殺さないとの観念です。 で、それを深く感じるなら、部族主義すべてを、脇に置くのです。 世界の諸政府は、軍備を蓄積しないことが、できるでしょうか。 それは、ほぼ不可能に思われます。 世界は、狂ってしまいました。 あなたは、税金を払わないなら、監獄に送られます。 なぜなら、あなたは、これらへの反対者であるからです。 あなたは切手を買うなら、戦争を維持しています。 あなたは、石油のために支払うなら - この国でそれは、ガソリンと呼ばれますが、 その一部は、戦争へ行きます。
16:41 で、このすべてを見て、一人の人間は、何をすべきでしょうか。 学校の中だけではない - それは小さな事柄です。 人間は、これらすべての問題に直面して、 彼は何をすべきでしょうか。 誰が、これらに責任があるのでしょうか。 政府ですか。政治家ですか。 怖ろしく豊かな人々の集団 - 諸々の政府、大会社を制御している人たちですか。 誰が、このすべての恐怖に、責任があるのでしょうか。 どうか、これらの問いに、答えてください。 私たちの一人一人が、責任がないのでしょうか。 なぜなら、私たちは、外国人を嫌うし、 私たちと同じ色でない人々を憎むから、などです。 私たちの一人一人が、これらに責任がないのでしょうか。 で、私たちが責任能力があるのなら、それは、私たちの義務、私たちの強烈な感情です - それは、新しい社会、新しい人々の集団を、もたらすでしょう。 それが、教育の機能です。 少なくとも、私たちはこの学校で、善い人間たちを、もたらそうとしています - 豊かでも、貧しくても、子どもたちは、子どもたちです - 善い、統合された、正直な人間たちを、です。 それらは、失敗するかもしれません。ですが、その種の何かをしようと試みることは、良いのです。 で、それは私たちの責任です。 私たちには、こう見えます - すなわち、私たちの一人一人が、この甚大な問題を深く理解する。 それに対して、私たちの一人一人が責任能力があるのです。
19:38 あなたは、語り手がこれらを言うのを、聞いてきました。 彼はそれを、インド中、ヨーロッパ、この国で、 オーストラリアなどで、言ってきました。 あなたはこれらを聞きます。見たところ、私たちはそれに専注しないようです。 それは本当に、するには最もひどいことです。 あなたは、何か真なることが聞こえて、それに専注しないなら、それは毒として作用します。 理解できますか。 何か真なる、自然な、健康的なことを聞き、 深遠にそれに専注しないのは、とても破壊的なことなのです。 そのとき、あなたが聞いてきたことと、あなたなるものとは、矛盾をもたらします。 そのとき、葛藤があります - 永続的な葛藤です。 これを何も聞かないで、専注しないほうが、はるかに良い。
21:15 語り手は、パスポートを持っています - インドのパスポート、外交官パスポートです。 しかし、その書類により、彼自身が、その国と同一視されるわけではない。 その書類は単に、旅行の便宜のためです。
21:47 第二の質問: 「なぜ私たちは、機能を、役割と混同するのでしょうか。 例えば、私たちは、教えるとか何か仕事をするかもしれません。 しかし、なぜ私たちは、これら機能を、個人的にするのでしょうか - それらを、私たち自身の属性と主張し、 それにより、意志、地位、権力を導入し、 結果的に、ものすごい害を導入するのでしょうか。」
22:14 「なぜ私たちは、機能を、役割と混同するのでしょうか。 例えば、私たちは、教えるとか何か仕事をするかもしれません。 しかし、なぜ私たちは、これら機能を、個人的にするのでしょうか - それらを、私たち自身の属性と主張し、 それにより、意志、地位、権力を導入し、 結果的に、ものすごい害を導入するのでしょうか。」
22:53 質問は相当に明らかである、と私は思います。 なぜ私たちは、いつも個人的なのでしょうか -ほとんど、あらゆることについて、です。 どうか、この問いを、あなた自身に答えてください。 私たちが世の中を、非個人的に、冷静に見つめられないのは、なぜでしょうか。 なぜ私たちは、機能をとおして、その機能を、地位のために使うのでしょうか。 なぜ私たちは、機能を保っておけないのでしょうか。 例えば、ですね、 語り手は、何か言うべきことを、持っています。 しかし、なぜ彼は - もし彼がそうするとして、です。彼はそうしません - なぜ彼は、この機能をとおして、地位、身分、権力、そのすべての事柄が ほしいのでしょうか。なぜでしょう。 それは、権力が人間たちにより崇拝される、ということなのでしょうか。 地位は、機能よりはるかに重要でしょうか。 総理大臣は、料理人よりはるかに重要です。 教授は、何らかを学んでいる人、 大工の名工などより、 はるかに重要です。付いてきていますか。 私たちは見たところ、機能がそれ自体の重要性を持っていることが、見えません。 しかし、あなたが機能を地位のために使っているなら、あなたの機能は、もろくなります。 それは、自らのエネルギーを失ってしまいました。 そうですね、この頃では - それは古い問題です - 機能は - 教師や大科学者や大政治家のそれのように - 世界中の教師は、かなりまだまだだと、考えられています。 ところが、科学者、博士を、私たちはみんな一種、仰ぎ見ます。 しかし、教師は、他のどの職業よりも、はるかに重要です。 なぜなら、教師は、新しい世代の人々を、もたらしつつあるからです。 彼は、一番高い支払いを受けるべきです。 しかし、私たちはそうしません。 私たちにとり、私たちが創り出してきたこの特有の社会では、 教師は、一番尊敬されません。 一番重要だと考えられません。 あなたは、これらに注目したことがないですか。 教師は、キャデラックやリンカーンやロールス・ロイスを、持てません。 しかし、大ビジネスマンは、それを持てます。 そしてあなたは、キャデラック、リンカーン、ロールス・ロイスを、尊敬します。 それは、地位のほうが、機能よりはるかに重要であることを、示します。
27:23 さて、私たちはみんな、これを知っています。 なぜでしょう。なぜ私たちは、こうするのでしょうか。 それが問いです。 質問者は知りたい - なぜ私たち人間は、地位に到達する手段として、機能を使うのでしょうか。なぜでしょう。 私たちが成功を崇拝することが、理由の一つではないでしょうか - あの成功の女神を、です。 私たちはみんな、訓練されます。 あらゆるテレビなどが、成功しなければならない、成功しなければならない、と言います。 成功は、一定の地位に到達することを、意味しています。 機能 - 何かそれ自体のための、名誉ある、機能する状態、ではなくて、 何かになるために機能を使うこと、 すなわち、有名になる、偉大な何かを持つ -または、それが何であっても、です。 なぜ私たちは、これらをするのでしょうか。 あなたは、それをなさっていますね。 私たちはみんな、それをしています -おそらく、わずかな人以外は、です、 なぜ私たちは、こうするのでしょうか。 それは、私たちはみんな、権力が、他の人たちへの支配がほしい、 金銭をとおしてもっと快適さが(ほしい)、ということなのでしょうか。
29:20 ところで、あなたが注目されたのかどうか、知りませんが、 その言葉を使っていいなら、世の中は、ますます物質主義的になっています。 彼らはみんな、もっと快適になりたい、もっと多くの衣服、多くの住宅、多くの金銭がほしい。 同じことを、何度も何度もやり、 それをもっとほしいのです。 それが文化(カルチャー)と呼ばれます。 これらに付いてきておられるかな、と思います。 すべて、怖ろしく悲劇的になりつつあります。 なぜ私たちは、これらすべてのことを、するのでしょうか。なぜ、権力がほしいのでしょうか。 なぜなら、大きな権力に就いた人々を、見ます - 彼らが何をしているのか。人々に影響を与える。 毎朝、新聞に彼らの名前。 私たちは、毎朝、新聞に自分の名前を載せたいとも、思います。 それは、一つの形の深い、挫折した欲求です - 地位を持ちたい、 仰ぎ見られる尊敬や権威の立場を、持ちたい、と。 私たちはみんな、それがほしいのです。 それで私たちは、あらゆることを、他の何かへの踏み石として、使うのです。
31:20 そうですね、何でもないことは、最も困難なことの一つです。 なぜなら、成功を収めた人物であることは、最も(体裁よく)尊敬できる人物であるからです。 彼は尊敬されます。 しかし、「私は、これらのもののどれもほしくない。 私はただ生きよう。私はこの世の中で 何でもないだろう」と言う人間 - それは、大変多くの内的安定を、必要とします - 自己にとっての光、完全に一人立てる能力を、です。
32:19 第三の質問: 「社会的な変化をもたらすためには、 政治的な行為が、必要でないのでしょうか。」
32:28 「全的な変化をもたらすためには、 政治的な行為が、必要でないのでしょうか。」
32:39 この問いには、たくさんのことが、含意されています - あらゆる問いのように、です。 政治とは何でしょうか。その言葉(ポリティクス)は、どういう意味でしょうか。 統治の技術、統治の科学。 すなわち、人々を統治すること。 なぜなら、人々は、とても不正直であり、 自分たちのことをしたがり、 一人一人が、自分の欲望を充足させたいからです - 他の人々と競争したいのです。 付いてきていますか。それらです。 で、人々は、私たちみんなのような、普通の人間たちは、 自らの私的、個人的な欲望を表明しようと、奮闘しています - 他の人々の欲望、野心などに反するものを、です。 で、私たちは、私たちの一人一人は、他の一人と対立しています。 それで、統治の技術は、人々を支配するためです。 人々は腐敗しているから、 彼ら自身に任せておくと、人々は、危険な動物であるからです。 ゆえに、彼らは制御されなければならない。 支配されなければならない。 法律がなければならない、などです。 これが、世界で起きていることです。 どうか、あなた自身で見てください。 もっと多くの法律、もっと多くの警察官、 もっと大きな軍隊、もっと大きな軍事物資です。 で、統治は、何を意味しているのでしょうか。 統治の技術とは、何でしょうか。
35:13 技術(アート)という言葉の意味を、ご存じですか。 詩を書くこと、絵を描くこと、小説を書くことではない - 芸術(アート)、その言葉です。 その言葉の表現ではない。 芸術(アート)は、あらゆる物事を、その正しい場所に置く、という意味です。 理解されますか。 あらゆる物事を収める -あらゆる行為、あらゆる思考、 あらゆる人間は、自らの持ち場を持っています。 で、私たち人間が、自分たちにこの技術を持っていないとき - 理解されますか。 いいえ、あなたがそうなのか、私は存じません。 どうか同意しないでください。 私の家を、秩序立てる、という意味での技術。 私である自分の家を、です - そのとき、他の誰かが、その家を秩序立てなくてはいけません。 私たちが、この社会を創り出してきました。 私たちはそれを、政治家たちに任せます -社会を変更するように、です。 私たちが、社会と呼ばれる怪物を、創り出してきました。 その社会を制御するために、私たちは政治家を持たなくてはなりません。 政治家たちは、良いのか、 または、小さな集団の きわめて豊かな人々により、支持されているのか - 世の中で、政治家たちの間で起きているゲームすべてを、ご存じでしょう。 語り手は、彼らの相当たくさんを、知っています。 これは、世界中で起きています。 すなわち、私たちは、政治的指導者がほしい。 この期間中のこの指導者は、良くない。 だが、この選挙が終わるとき、私たちは、新しい大統領、新しい指導者を持つだろう、と。 すみません。私は彼らを、大統領とは呼ばないでしょう。新しい指導者です。 彼もまた、彼女もまた、失敗するかもしれません。 だが、私たちは待つ - 次の選挙です。 付いてきていますか。 私たちは世界中で、これをやってきました -新しい指導者を待っています。 現在の指導者は、まったく良くない。 だが、私たちは、次の指導者はもっと良いだろう、と願う、などなどです。 これがずっと、政治の世界すべてでのゲームでした。 私たちの願望は、そうです。 すなわち、私たちはいつも、他の誰かに、導いてほしい、 何をすべきかを言ってほしいと、思っています。 そして、私たちを助けるであろう、どの指導者、どの救い主、どの導師、どの書物も、ないのです。 本当にこれを深く悟るなら - どの外側の機関、どの環境の変化、 社会の一定の構造の変化も、 人間の状況を変化させないだろう、ということを、です。 人間の状況は、私たちなるものです。 私たちが、私たち自身に、根本的変化、根本的変異、変容を もたらすよう、専注しないのなら、 どの指導者、世界の誰も、それをしないでしょう。 私たちは、新しい政治的指導者、新しい政治家、新しい世界的指導者を、 むなしくも、探すかもしれません。 私たちは、待っています。今以上の、もっと混沌とした世界を、創り出しています。 誰でも、見る人、これらを考え、これらを見つめる人にとっては、 それは、怖ろしく明白です。 しかし、見たところ、私たちはいつも誰かに、私たちのために、何かをしてほしいと思っています - 心理的に、です。 そちらのほうが、はるかに重要です。 なぜなら、外的な状態は、心理的状態が何かであるからです。
41:00 で、それを聞いてきて、あなたはそれについて、何をしようとするのでしょうか。 ただ聞く、そして、「とても良い、良い考えです」と言うだけですか。 しかし、私が変化することは、怖ろしく困難です。 なぜなら、私はエネルギーを、持っていないからです。 何が要求されるにせよ、私はそれを持っていません。 で、私たちの一人一人が、怠惰で、無頓着であり、 物事をありのままに受け入れて、続けていくのです。 で、私たちは、世界、社会、戦争、核兵器、 戦争と呼ばれる破壊的なものの怖ろしい脅威すべてを、悟るなら、 そして、私たちが、私たちの一人一人が、これに責任があることを、悟るなら - 燃える責任能力です。 言語上の理想主義的な責任ではない。 燃える責任能力、誰かに対してでなく、私たち自身において 強烈な行為を要求する、責任能力です。 そのときおそらく、新しい社会の可能性が、あるでしょう。 新しい人間たちの集団が、異なった世界をもたらすかもしれません。
43:04 第四の質問: 「私たちは、あなたが語られる真理を、 人類への愛ある奉仕をとおし、愛と慈悲の行為をとおして、見つけないのでしょうか。」
43:17 ああ、これは、うるわしい問いです! 「私たちは、あなたが語られる真理を、 人類への愛ある奉仕をとおし、愛と慈悲の行為をとおして、見つけないのでしょうか。」
43:35 善いことを行う人たちは、いつも社会を、貧しい人たちを、助けています。 自らの生を貧困に捧げています。 他の人たちが貧困を受け入れるよう、 または、その貧困から抜け出すよう、助けています。 これは起こっています。宗教的な人々により、偉大な行為として認識されていて、 彼らを聖者としています。 あなたは、これらをご存じです。ほとんど毎日、新聞で、それについて読まれます。 出かけて行く宣教師たち。それはすべて滑稽です!
44:29 さて、質問者は言います - 愛、慈悲、奉仕の行為をとおして、 私たちは、あなたのや私のではなく、 または、どの宗教にも所属していない真理を、見つけるのでしょうか。 さて、あなたは、愛しているでしょうか。 あなたは、慈悲を持っているでしょうか。 私たちは、他の一人を助けたい、彼に奉仕したいでしょうか。 あなたが、他の一人に奉仕しよう、他の一人を助けようと乗り出すとき、 それは、相手の人が知っているより、あなたのほうが、はるかに良く知っている、という意味です。 これらには、大変多くの虚栄がある、と私は思います - 奉仕の名、愛の名において、です。 そう思いませんか。 大変多くの自己表現 - 私は、様々な活動をとおして、私自身を充足させたい。 たぶん奉仕、たぶん、愛と呼ばれるもの、 または、愛と慈悲と呼ばれるものをとおして、です。 他の一人を助けることは、自然であり健康的な指標ではないですか。 それは自然です。 なぜ私たちは、それについて、歌って踊るのでしょうか。
46:34 そして、慈悲(コンパッション) - それは何でしょうか。 それはどういう意味でしょうか。 その言葉の意味 - すべてに対する熱情(パッション)、 すべてに対する深い熱情を感じること、 それは、大いなる強烈さの感情を、意味しています - 他の一人の人間を殺さない、生き物を殺さないように、です。 するとあなたは、言うでしょう - キャベツを殺すとき、それは何かを殺すことである、と。 では、どこに、線を引くのでしょうか。 人間を殺すことですか。 赤ちゃんアザラシを殺すこと、 攻撃的な敵を、殺すことですか - あなた自身が昨年、攻撃的であったような(敵を)、ですか。
48:14 で、敵対があるとき、競争があるとき、 私たちの一人一人が、成功を探し求めているとき、慈悲は存在できるでしょうか。 愛は存在できるでしょうか。これらに入ってください。
48:48 で、自己認識を持つ中で - このように表しましょう - 私自身を知る中で、 それは、私の意識の内容を知ることです。 それが私自身です。内容が、です -信念、敵対、苦悩、 さびしさ、苦しみ、痛み、安全でありたいとの願望。 そのすべてと、もっと多くが、私の意識です。 それを知ること(なく)、全体的な対立し破壊的な結合、 すなわち私の意識を理解することなしに、 どうして私は、愛せるのでしょうか。 どうして私は、慈悲と呼ばれるあのものを、持てるのでしょうか。 で、自分自身を知ること、理解すること - 自己の改善ではありません。 それは単に、私の利己性の改善です。 あなたがその種のことがほしいのなら、それは、すばらしいかもしれません - 私自身を理解すること、私の反応を理解すること、 私の考え方、なぜ私は考えるのか、そうね、私自身の動き全体を、です。 ギリシャ人、古代ギリシャ人と、古代のヒンドゥーたちは、 「汝自身を知れ」について、話しました。 しかし、ほとんどの人々は、本当に彼ら自身を研究したことがありません。 彼らは動物を研究してきました - ネズミ、モルモット、犬、猿、生体解剖。 そのすべてをご存じですね。 何が起きているか、です。 それらをとおして、彼らは、彼ら自身を理解しようと、望みます。 彼らは、行動について話をしますが、けっして彼ら自身を研究しません。 私たちは、そうするならば、自分たち自身で、最大の実験者です。
51:25 そして、自分自身を知ることは、 私たちの関係の鏡において、理解すること、見ることです。 私が、自分自身について -私はこうなのか、私はああなのかと - 考えるだけでは、私自身は知られません。 しかし、私自身を理解することは、 私の妻への関係において、開示されます - 子どもへ、隣人へ、政府へ、あらゆるものごとへ(の関係において)、です。 私は、ありのままに私自身が見えます - ありたいと思うようにではなく、実際に私のありのままに、です。 そのとき、実際に有るものが見える可能性が、あるのです。 それを変化させる可能性、それに変容をもたらす 可能性が、あるのです。 しかし、私たちはけっして、私たち自身を研究しません。 私たちはいつも、書物を研究しています。 書物は、私たちが何なのかを、語ってくれます。 そして、他の人たちが語ってくれたことに、私たち自身を適応させようとしています。 他の人たちが私たちに語ったことは、私たちなるものです。 で、なぜ私たちは、他の人たちから、私たちなるものを、語られなくてはいけないのでしょうか。 これらを理解されますか。 なぜなら、私たちは、自らが研究するものが正確であることを、すっかり確信したいからです。 で、私たちは、他の人たちへ頼ります。 私たちは、間違えます。「これは正しい。 これは間違い。私はこれをした」と言います。 しかし、自らの関係において自らの反応へ、 この常の鋭敏な気づきが、あるのです。 それには、注意が、必要とされます - 大変多くの敏感さが、です。 薬物をやるのではなく、アルコールをとったり喫煙したりするのではなく、物理的に敏感である - あなたはどうすれば、敏感でありうるのでしょうか。 で、自己がないとき、慈悲、愛は存在できるだけです。 私たちが先日言いましたように、あなたがないとき、無量であるものが、あるのです。
54:08 つづけたいですか。 私はつづけられますが、あなたはつづけられますか。
54:25 第五の質問: 「霊性や意識の諸水準は存在するのでしょうか。(私は質問を見ていません) これらにおいて、精神的癒やし、アストラル(次元)の投射、 オーラと実体を見る能力などは、どんな役割を果たすのでしょうか。 これらは、関係と、はっきりと見る能力に、 介入しうるのでしょうか。」なんとまあ!
55:11 「霊性や意識の諸水準は、存在するのでしょうか。 これらにおいて、精神的癒やし、アストラル(次元)の投射、 オーラと実体を見る能力などは、どんな役割を果たすのでしょうか。 これらは、関係と、はっきりと見る能力に、 介入しうるのでしょうか。」
55:51 私は、これにどう答えるべきかを、すっかりは知りません。 まず最初に、ここでの第一の問いは、こうです - 霊性の諸水準や、意識の諸水準は、存在するのでしょうか。 すなわち、一つは、他よりもっと霊的でしょうか。 理解されますか。もっと霊的です。 すなわち、一人は他の者より、真理に近いのでしょうか。 さて、「もっと」という言葉の意味は、何でしょうか。 「もっと」は、測量ですね。 私はこうである。私は明日、もっと豊かになるだろう。 または、私は今、暴力的である。だが、私は、もう一週間の時間で、暴力的でなくなるだろう。 で、精神はいつも、測量しています - 私は背が高い。あなたは低い。あなたは色白だ。 誰かは黒い。誰かは黄色だ。 誰かはピンクだ - 測量です。 すなわち、測量は比較です。 「測量(メジャー)」という言葉はまた、冥想(メディテーション)にも、役割を果たします。 測量と冥想は、関係しています。 どうぞ、これはとても重要です -あなたがこれを理解したいのなら、です。 なぜ人間たちは、測量するのでしょうか。 衣服のため、ではない。 私はそれについて、話していません。 心理的、内的に、 なぜ私たちは、自分自身を、誰かと測量したいのでしょうか。 すなわち、「有るもの」の、「有るべきもの」へ向けた測量です。 付いてきていますか。 私は今日、良くない。でも、私に時間をください。私は良くなるだろう。 すなわち、時の間隔を許すことが、度量(手段)です。 付いてきていますか。 私たちは、ここに一緒にいますか。 私が、心理的な時の概念を持っているとき、 その時は、測量という意味合いです。 これを捉えますか。
59:10 で、質問者は、言うのです。霊性には、 - その言葉が、何を意味していようとも、 私たちは当面、その言葉の普通の意味、その言葉の 認められた意味を、使っています - 霊性には、測量があるのでしょうか。 測量があるところ、霊性はないのです。ですね? 導師、司教などなど、 誰かが神に近い、真理に近いとのこの概念、この観念が、あるのです。 私がいうのは、神ではない - 真理に近い、です。 彼は何かを達成した。私はあれを達成しなくてはいけない。 あれを達成するには、私は時を掛けなければならない。 私は毎日、自分自身を測量しなければならない、と。ですね? これは明白に、全く世俗的で、全く物理的です。 すなわち、私はオフィスで事務員である。 おそらく来年、私は上級事務員になるだろう。 四年目か、十年後、私は重役になるだろう。 それは、同じ動きが、心理的領域にまで、持ち越されたのです。 で、一番近い弟子がいて、まさにそこでの見習いです。 イタリアには、或る修道院があります。 語り手は行って、そこを訪問したものでした。 そこでは、見習いは九年間、待ちました。理解できますか。 九年の後、彼は、内の聖域に入るのを、許されました。 完全な測量が、あるのです。 それは、霊的な成長と呼ばれます。
1:01:53 質問者はまた、訊ねます -意識には、諸水準があるのでしょうか。 すなわち、無意識と意識がある。ですね? このようにして、私たちは意識を分割してきたのです - 隠れたものと、明白なもの、 暗いものと、明るいものです。 私たちはそのように、意識を分割してきました。 その意識には、幾つもの分割があります。 さて、語り手にとって、意識は全体的です。 それは分割できません。 どうか、なぜかを、見てください。 意識があり、それが十分に目覚めるべきであるなら、 そのとき、何も隠れたものは、ありません。理解されますか。 いえ、どうか、これにそんなに早く同意しないでください。 気をつけて、入ってください。 フロイドと、それらすべての紳士、専門家たちは、これを、分割してきました - 私たちの意識を、様々な範疇へ、です。 私たち哀れな素人は、知らないので、これらを受け入れます。 しかし、語り手と多くの人々は、これらを読みません。 おそらく彼らは、自分の状態を研究してきました。 自らが何かを意識しているとき、きわめてはっきり分かります。 あなたは、十分に意識しているのか、 または、ごくきわめて部分的に、です -私たちのほとんどがそうであるように。 あなたが、このすばらしい田舎を見つめるとき - 丘、樹々、光と影 - あなたが、そのすべてに完全に気づくとき、 あなた自身の精神には、隠れた陰が何もありません。 で、自分自身について、完全に気づくなら、 高い意識と低い意識との間に、分割はありません。 それは、内容すべてをともなった意識です。 分割することはできます。 何か神聖なものへの信念は、 私の性的とか感覚的な応答より、高い。 しかし、それは私の意識の部分です。 それを私は、何か楽しめる理由のためか、 何かを達成したいとの欲望のために、分割したのです。 またはそれは、私が測量として受け入れてきた様式です。 そして、私は自分自身を測量します。 これはこれより良い。これはこれより尊い、と。 しかしそれは、この意識の一部です。 さて、そこには・・・いや、すみません。 私の無意識、すなわち、深いものは- どうか聞いてください - 深い未発見の恐れの跡形は、 私が恐れの動き全体に入ったとき、存在するのでしょうか。 質問を理解できますか。 私は、恐れと、恐れの原因を、検討してきました。 なぜなら、精神は、どの形の恐れも - 隠れた、秘密の、個人的とか身体的な、などでも - どの形の恐れも、破壊的であることを、悟ったからです。 精神はこれを悟りました。 言語的にでなく、実際にです。 で、それは完全に、恐れからの自由に関心を持っています。 全的な恐れからの自由です -部分的な恐れ(から)ではない。 で、それは、進もうとしています。 恐れの隠れた動きすべてに、開いていています -それ自体が、夢をとおし、行為をとおし、 様々な形をとおして、開示されるように、です。 そうですね、あなたが森や道路で自分一人で歩いているとき、 突然に、恐れの動きがあることを、悟ります - 無意識的で、かつて悟っていなかったもの、です。 それは、あなたの精神が、自らの恐れの開示へ開いている、という意味です。 それには、恐れの本性への大変多くの探究が、必要とされます - 私たちは、数日前にそれをやりました で、隠れた暗い恐れ - 精神に、自らの意識の深い奥に、あるもの - が、 自然に出てこられる。露出できるのです - もし、全的な恐れからの自由が、なければならないと、 自らが主張し、切迫しているなら、です。 これらに付いてきておられますか。 恐れから自由であることの必要性こそが、 恐れすべての全的露出を、もたらします。 それは、見守り、敏感さを、要求します - あらゆる種類の感じ、感じのニュアンス、 反応の微妙さへ、鋭敏です。
1:09:11 それで、測量があるかぎり、分割があるにちがいない - 意識においても、いわゆる霊性においても、です。
1:09:24 これらにおいて、精神的癒やし、アストラル(次元の)投射、 見る能力やら何やらは、何の役割を果たすのか、 これらは、関係と、はっきりと見る能力に、 干渉しうるのでしょうか。
1:09:47 この問いに、どのように答えますか。 一人の人間がはっきり見るのを、何が妨げるのでしょうか。 視覚的にだけでなく、内的に見る -物事がありのままに、ごくはっきりと、 何の歪曲もなく、見える。 外側の機関、アストラル投射、 想像、先入観、 偏見、結論 - あなたが取りすがるもの - 経験 - 重要であると、あなたが考えるもの - これらは、知覚の明晰さを妨げる明白な事実でないのでしょうか。 なぜ私たちは、アストラル投射よりむしろ、これらに入らないのでしょうか。
1:11:06 その言葉、「アストラル投射」を、ご存じですね。 すみません。私はそれに入りません。
1:11:17 精神的癒やし。 自己がないときだけ、癒やせます。 これは理解できますか。 しかし、自己はとても欺瞞的で、ずるがしこいので、 あらゆる種類の作法の裏に、隠れるのです。 仮に、私が信心深い宗教者である、としましょう - 何かの形の象徴や観念、投射に、執着しています。 その投射は、私です。より大きい。 より尊い。一番高い形です。 私はいまだに利己的です。私はいまだに「私」です -ただ栄達しただけです。 自己のどの感覚でも、あるかぎり、 癒やしはかなり、けばけばしくなります。 しかし、まったく自己がないとき、癒やしの可能性が、あるのです。
1:13:00 私たちが話したのは、1時間15分です。 それで十分ですか。
1:13:07 質問者: いいえ。
1:13:23 K: もう一つの問い。それで十分だろうと、思います。
1:13:27 第六の質問: 「人類の中で、何か宗教や神と呼ばれるものに向かって、 いつも動いてきたのは、何なのでしょうか。 それはただ、恐れと苦しみの結果としての投影だけで、 助けを探し求めることでしょうか。 またはそれは、何か深く実在し、必要で、智恵あるものなのでしょうか。」
1:13:54 「人類の中で、何か宗教や神と呼ばれるものに向かって、 いつも動いてきたのは、何なのでしょうか。 それは、恐れと苦しみの結果としての 投影だけで、助けを探し求めることでしょうか。 またはそれは、何か深く実在し、必要で、智恵あるものなのでしょうか。」
1:14:38 質問者が指摘するように、歴史的に、そして実際に、 人は、何か自分自身を越えたものを、いつも探し求めてきました。 人はいつも言ってきました - 「これは十分ではない。 私は衣食住を持っている。 私はこの世に生きる、私は死ぬ。 だが、何かもっとあるにちがいない」と。 あらゆる人間は、少なくとも鋭敏な人、 相当智恵のある人は、きっとこの質問をしたにちがいないと、私は思います。 傾倒した共産主義者さえも、訊ねたにちがいありません - これですべてだろうか。 これは苦しみ、痛みであり、それに過ぎないのだろうか、と。 質問者が言われるように、 恐れは、私たちをして、何かを創案させるのです - 私たちを保護し、護ってくれるであろう外側の機関を、です。 それで私たちは、この問いに、きわめて深く入りたいのです。
1:16:21 心理的にいかなる恐れもないとき- いかなるものも、です - あなたの精神の状態は、どうでしょうか。 どうか、ともに進んでください。探究してください。 すべての恐れから全的に、完全に 自由である精神の状態は、どうでしょうか。 それは、探し求めるでしょうか。それは、それ自体を保護したいとの欲望を、持つのでしょうか。 それは、何かを探し求める必要や必然性を、持つのでしょうか - それに対して、祈りや崇拝をできたり、助けを求められるものを、です。 理解されますか。 あなたが完璧に健康であるとき - 身体的に、です - あなたは、医師に近づくでしょうか。 食餌療法の本すべてを、研究するでしょうか。 毎朝、テレビで専門家が体操をしているのを、見るでしょうか。 同様に、きわめて、ものすごく健康的な精神は - 恐れを持たない、完全に恐れがない、という意味で、健康です。 悲しみを終わらせる、 楽しみの動き全体を理解する- 付いてきていますか - (そういう意味で)健康的で、全うで、理性的な精神です。 それは、教会に行かなくてはいけないでしょうか。 さあ、どうぞ、あなた自身で答えてください。 当然、何か助けがほしいのは、不具になり、条件づけられ、 不健康で、恐れをもち、痛み、さびしく、深く悲しんでいる精神だけなのです。 で、それは、神、救い主を投影するのです- 宗教的な円環全体です。 しかし、その苦しみ、そのさびしさ、その恐れを、 彼は解決することができなかった。 それに入ることがなかったのです。 私たちは、救い主たちを持ってきました。 指導者たちを持ってきました。 世の中であらゆる種類の助けを、持ってきました - すべての福音主義者、すべての説教者。 何が起きているかを、ご存じですね。 彼らは、この苦痛から人を解き放ったことがありません。
1:20:08 で、問いは、本当はこうです - 私たちは、自分自身にとって、光でありうるでしょうか。 心理的に誰にも依存しないのです。 葛藤、後悔、悲しみ、痛みを、内的に 生み育てないであろう行為。 理解されますか。 私たちは、自分自身を理解できるでしょうか -完全に、です。 または、それは可能でないのでしょうか。 私たちは、けっして試したことがありません。 私たちは、他のあらゆることを、試してきました。 私たちは、月へ行きました。 大変すばらしい機械、とてつもない手術器具を、発明してきました。 頭脳は、とてつもない能力を、持っています。 しかし、その能力を、私たちはけっして自分自身に、適用してきませんでした。 なぜなら、私たちはいつも他の誰かに、自分たちを助けてくれるよう、頼んできたからです - それが、あなたが今、ここでやっていることです。 語り手は、あなたを助けていません。 あなたに教えていません。 私たちは、あなた自身を見なさい、と言っています。
1:22:06 私たちは、能力、エネルギー、充分な智恵を、持っています - 私たち自身に入り、私たち自身を見つめ、 私たち自身に向き合うように、です。 私たち自身から、けっして逃避しなくて、です。 私たちは、そうするエネルギーすべてを、持っています。 月へ行くのに、どんなエネルギーが必要とされるかを、考えてください - 理解されますか - 甚大な協働のエネルギー、衝動です。 しかし、見たところ、私たちとなると、私たちは一種、たるみます。 私たちは、萎みます。そして、誰かが私たちに水を与えてくれるだろうと、願うのです - 私たちを再び健康に戻してくれるであろう水を、です。 誰もそれを、あなたに与えてくれないでしょう。 それは、一つの絶対的な事実、反駁不可能な事実です。 なぜなら、私たちは、指導者たちを持ってきた。 教師たちを持ってきた。 救い主を持ってきた。あらゆる種類の外側の機関を、持ってきたからです - 私たち自身について、他の人たちから無際限の情報、です。 そのすべては、私たちを恐れから、解き放っていません。 それで、自らの怠けから、自らの無頓着から、 自らの冷淡さから、私たちは、神々とその他すべてを、創案、発明するのです。 そして、不幸は、こうです - 私たちは、自分たち自身を知らないから、他の人間たちを破壊しつつあるのです。 私たちは、このすばらしい大地を、破壊しつつあります。
1:24:15 よろしい。
1:24:28 もう立ち上がってもいいですか。