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OJ82Q4 - 第4回質疑応答会合
1982年5月13日
カリフォルニア、オーハイ



0:40 これが、最後の質疑応答会合です。 またもや、多くの質問が、(書面で)出されています。 それらのすべてには、答えられません。
1:05 私は、よろしければ、本当に、あなたに質問をしたいとも、思います。 あなたたちは、語り手が答えるために、多くの質問をしているので、 語り手は、あなたに質問をしたいとも思います。 あなたたちが気になさらないことを、願っています。 なぜ、こんなに教育を受けていて、裕福な社会に生きていて、すばらしい土地、 林、川、大きな山々があるのに、 私たちが、あなたが、変化しないのは、なぜでしょうか。 それは、出すのがとても重要な問いである、と私は思います。 私たちがこんなに無頓着であるのは、なぜでしょうか - 外的な応答に対してではなく、 何か深い、長続きするものに対して、 何か値するものに対して、です。 私たちが変化しないのは、なぜでしょうか。
2:49 これは、語り手がどこに行こうと、 関心を持ってきた問いでした。 大きな聴衆、小さな討論会、面談などがあります。 そして旅の終わりに、自分たち自身に 根本的な変容を深くもたらす人は、ほぼいません。 彼らは、きわめて仲良しです。 社会活動をする人たちは、います。 幾人かは政治家です。 幾人かは、有名な導師の幾人かです。 彼らはみんな、同じ古い様式に従うように、見えます - 外的に、一定の政治的な変化を、要求しています。 特定の種類の戦争を止めるため、 もう少し多くのお金を持つため、などです。 しかし、深く自らの関係において、 探究において彼らは、一定の点まで行きますが、そこで終わります。なぜでしょう。 私はその問いを、あなたに委ねます。 私たちは、これらの問いに答えるでしょう。 そして、出されている幾つもの問いの終わりに、 私は再び、その問いを取り上げるでしょう。
5:03 第一の質問: 「世の中の混沌が、急速に増大しているのが、見られます。 何十億ドルが、軍備に使われつつあります。 社会正義は、浸食されつつあります。 全体主義のでも、民主主義のでも、政府は ますます攻撃的で、暴力的です。 はるかに深い根源的な人間の変化の必要性は、分かるけれども、 語り手は、能動的な政治的関与の主題について、論評してもらえるでしょうか。」
5:43 「世の中の混沌が、急速に増大しているのが、見られます。 何十億ドルが、軍備に使われつつあります。 社会正義は、浸食されつつあります。 全体主義のでも、民主主義のでも、政府は ますます攻撃的で、暴力的です。 はるかに深い根源的な人間の変化の必要性は、分かるけれども、 語り手は、能動的な政治的関与の主題について、論評してもらえるでしょうか。」
6:20 私は民主党員か、共和党員か。そういうことですか。 冗談は別にして、訊ねてもよろしければ、 なぜ私たちは、政治指導者たちに、こんなに大きな信頼を置くのでしょうか。 それは、すべての国々で同じ主題です - フランスで、イングランドで、ここで、インドなどで、です。なぜでしょう。 私たちは、経済学者、政治家、指導者たちに、 こんなに信頼を置きます。 私たちはなぜ、こうするのでしょうか。 そして、私たちのいう政治的行為とは、どういう意味でしょうか。
7:26 どうか、私たちはともに探究しています。 あなたはただ、語り手に聞いているだけ、 彼の説明と答えを、待っているだけではありません。 私たちは、この問題について、ともに考えています。 それは本当に、とても深刻な問題です。 それは、人類の全体に影響しています。 或る政治的な集団、民主主義者が、権力を得る。 保守党や労働党、共和党員や民主党員。 彼らは、とてつもない権力、地位、権威を 持つように、見えます。私たちは彼らに従います。 彼らは私たちに、何をすべきかを語ります。 私たちは、それらを受け入れます。 彼らへの信用の感覚と、彼らの判断を受け入れるのは、なぜでしょうか。 私たちは、戦争に送られます -何らかの統治者、官僚に応じて、です。 そして、数千、数万人が、殺されています。 なぜなら、大多数が彼らに投票し、権力、地位、指令を得させたからです。 私たちは単に、羊のように、彼らに従うだけです。 一般的に彼らは、私たちの一番低い本能に、訴えかけます - 私たちの民族的、国家的な誇り、名誉、それらの事柄に、です。 私たちは、それらに刺激されます。 私たちはこのために、一切れの土地などのために、進んで他の人たちを殺そうとしています。 なぜでしょう。なぜ私たちは、彼らを信用するのでしょうか。
9:40 どうか、あなたがこの問いに答えるのです。 そして、私たちのいう政治的行為は、どういう意味でしょうか - それは、他の行為すべてより異なっているのですが。 なぜ私たちは、政治を、日々の生活より分離するのでしょうか。 なぜ私たちは、左、右、中道や極左、極右の 政治的活動を、分離するのでしょうか。 お訊きしてもいいなら、 なぜ、政治的行為は、私たちの関係の行為より、 こんなに異なっているのでしょうか - 私たち自身の恐れに関する行為などより、です。 または政治は、私たちの生の一部であり、分離した何かではないのでしょうか。 政治は、先日私たちが説明しましたように、 普通の用法によれば - それは辞書に載っています - 統治の技術、統治の科学です。 なぜ私たちは、この技術を、政治家に与えるのでしょうか。 彼らは、見たところ、別の品種です。 私たちとは違っています。 これは本当に、含蓄のある問いです - なぜ私たちは、政治家、導師、司祭者、 私たちを統治する人に、依存するのでしょうか。 どうか、この問いに答えてください。 なぜ専門家たちが、私たちの生を管理するのでしょうか。 それは、私たちが自分自身に、いわゆる自信を持っていない、ということなのでしょうか。 私たちは、自分自身について定かではありません。 私たちは、この明晰さを、政治家たちと他の人たちに、帰属させます。 それは、私たち自身において、私たちは不充分であり、 向こうの誰かが、私たちを充分にしようとしている、ということなのでしょうか。
12:54 で、私たちは生を、分離した諸要因として、取り扱うべきなのでしょうか - 政治的、宗教的、経済的(要因)などと、です。 今日は、新しい騒音があります。 または、生を、全体として取り扱うべきなのでしょうか。 どうか、これを注視し、問うてください。 質問者は訊ねます - 行いうる、どんな政治的行為が、あるのでしょうか。 質問者は、おそらく - 彼のことを誤って判断しているかもしれません。そうであるなら、許してください - その行為、政治的なものは、宗教的な行為より、理想主義者の行為より、 異なっているのでしょうか。 または、生、生きること全体、 専門校、大学、学校での学び、 関係、恐れ、信頼、心配、政治的な行為 - それは、生きる道全体ではないでしょうか。 これは伝わっていますか。
14:47 私たちは自分たち自身において断片化している、ということなのでしょうか - 宗教的な行為、政治的な行為、家族の行為、 個人的な行為、集団的な行為として、です - 付いてきていますか。 または、私たちは生を、全的な動きとして、取り扱うのでしょうか - その中に、これらの活動すべてが、含まれている、と。 しかし、私たちは、他より一つを分離するなら、 必然的に矛盾をもたらすでしょう。 宗教的な生は、政治的な生と相容れない、と言うでしょう。 宗教的な人物は、政治とは何も関わり合いを持たないでしょう。 なぜなら、一般的に政治は、ねじ曲がった事柄であるからです - 党派のために、大変多くのお金が、要ることにより、 大実業家たちにより、制御されています。 彼らは、豊かな人々に依存している、などなどです。 で、私たちは、私たちの一人一人は、どのようにこの問いに答えるのでしょうか。 軍備の増強があります。 ちょうど今、彼らは互いに破壊し合っています。 互いに殺し合っています - 何のためなのか、神のみぞ知る、です。 民主主義世界も、全体主義世界も、どちらも 質問者が言われるように、ますます攻撃的になろうとしています。 で、あなたはこの問いを、どのように扱うのでしょうか。 質問をするのは、とてもたやすい。 質問をし、他の人から答えを見つけようとすることは、とてもたやすい。 しかし、私たちは、自分自身、この問いに答えなくてはいけないなら、 世界で実際に起きていること - 国家的、民族的、宗教的、経済的な分割、戦争、 軍備へのものすごい金銭の支出 - を受けて、です。 あなたの答えは、何でしょうか。 あなたはどのように、この問いに答えるでしょうか。 もしあなたが、アメリカ人であるなら、「私たちの道が一番良い道だ」などなどと、言うでしょう。 または、あなたは、正しい答え、真実の答えは、こうだと考えるでしょうか - すなわち、私たちはこれら活動を分離できなくて、 生を、全体的動きとして、取り扱うのだ、と。
18:19 そして、政治的な行為は、何でしょうか。 あなたは、新しい党を始めたいのでしょうか - 社会民主主義の政党を、です。 または、次の選挙のために、新しい指導者を探し、 現在の指導者を非難するのでしょうか。 そして、次の選挙で、新しい指導者が出てくると、 またもや、彼について、疑いがある。 そうね、(就任直後の)ハネムーンが終わったとき、問題全体が始まります。
19:04 で、あなたの答えは、何でしょうか。 どうか、あなた自身で、それに入ってください。 それを深く考え抜いたとき、あなたの答えは、何でしょうか。 あなたは、訊ねたいのでしょうか -分割可能でない活動、 行為が、あるのかどうか。 政治、宗教、経済、あらゆること、 生の束全体を、含んでいる行為 - それは、可能でしょうか。
20:06 世界中で断裂、腐敗が見られます - 闇市場。豊かな人々が、ものすごくもっと豊かになる。 特権階級など、です。 あなたは、どこで始めるでしょうか - 行為すべてを含むであろう行為を、もたらすように、です。 あなたは、どこで始めるでしょうか。 はるか遠くへ行くには、ごく近くで始めなければなりません。 ですね? で、ごく近くは、何でしょうか。 私。私が一番近い人物です。それで私は始めます - 利己的な活動や自己中心的な動きとしてではない。 私は一番近いものです。または、私は、そこから私が出発する中心です - 向こうではない。 私は、絶対的に砕けていない生を、生きられるでしょうか - 他のすべての生、活動より分離した宗教的な生ではなく、 政治的、宗教的である生を、です。 付いてきていますか。 私はそのように生きられますか。
22:20 それは、こういう意味合いでしょう - 私は、分離的な活動全体を、完全に理解するのでしょうか。 そして、分離した諸活動の了解において - それらは、次に矛盾し、葛藤、果てしない分割になるのです - 私はそれを、きわめて明らかに理解し、 知覚するなら - 抽象で、または理想としてや、知的にではなく、ではなく、 実際のこととして、です。 その観察から、行為するでしょう -それは完全であるでしょう。 私は問いに答えたでしょうか。 もしあなたが、実際に政治的行為 -あなた自身の新党、 新グループ、新指導者 - を、始めたがっているのなら、 残念ながら、あなたと私は出会わないでしょう。 私たちは、同じ古い様式に、戻っています。 しかし、私たちは言っています -その精神と心の性質から 心理的に完全であり、充分である生。そのとき、行為すべては、そこに含まれているのです。
24:19 第二の質問: 「あなたは、否定から肯定が出てくると、言われます。 抑圧や拒否なく、葛藤なく、 どのように「私」を、否定するのでしょうか。 否定をするのは、誰でしょうか。 この問題に入ってもらえるでしょうか。」
24:45 「あなたは、否定から肯定が出てくると、言われます。 抑圧や拒否なく、葛藤なく、 どのように「私」を、否定するのでしょうか。 否定をするのは、誰でしょうか。 この問題に入ってもらえるでしょうか。」
25:13 あなたが、この問題に入ろうとしています。語り手が、ではない。
25:26 肯定的な行為は、何でしょうか。 否定的な行為は、何でしょうか。 肯定的な行為は、「私はあれをしなければならない。 私はあれをするだろう。 これは正しい。これは間違いだ。」です。 または、肯定的だと考えられること -一定の理想主義的大義に、従うこと。 すなわち、結局異なった世界をもたらすだろうものに(従うこと)、などです。 肯定的な行為、肯定的な思考 - 福音主義者と他の人たちが宣伝するように、です。 肯定的な思考。 そして、否定的な思考は、何でしょうか。 他の人たちについて、悪く考えることですか。 本当に私は、否定的な思考が何かを、知りません。 考えることはそれ自体、否定的です。 が、それは大事なことではない。 私たちはそれに入るでしょう。
26:41 で、質問者は、知りたいのです - 自己、(すなわち)利己性の本質、 自己中心的な活動は、抑圧なく、葛藤なく、 どの形の忌避もなく、拒否できるのかどうか、です。 それが問いです。 私たちは、あなたは「私」を否定しなければならない、と言っていません。 あなたはどうして、「私」を否定できるでしょうか。 それは誰でしょう。質問者が言うように、誰が、否定や肯定をするのでしょうか。 あなたが、「私がいる」と言うとき、「私がいる」と攻撃的に言うのは、誰でしょうか。 そして、「私はいない」と言うのは、誰でしょうか。 肯定的なものも、否定的なものも、それは、誰でしょうか。 進んでください。
28:07 私たちの意識には、分離した意識、分離した精神の状態、 分離した明晰さが、あるのでしょうか。 私の問いに、付いてきておられますか。 このぐちゃぐちゃの意識には、何か明晰さの要素が、あるのでしょうか。 ぐちゃぐちゃで、葛藤になり、攻撃的で、 恐れ、信条、信念、迷信深く、心配である - それらです。 その混乱、すなわち、私たちの意識の中には、 一点の明晰さが、あるのでしょうか -そのとき、「私が指示しよう。私は抑圧しないだろう。 私がこの混乱全体を変化させよう」と言えるものが、です。 質問を理解できますか。あるのでしょうか。 どうか、答えてください。 自分自身に怖ろしく正直であって、 自分自身を欺瞞したくない、 何か慰めてくれる観念を受け入れたり、単に何か伝統に従ったりしたくないのなら、 そのとき、あなたは言うでしょう -このぐちゃぐちゃの意識の中に、 明晰であり、混乱していない分野、 混乱の全分野に明晰さをもたらすであろう分野が、あるのだ、と。 質問を理解されますか。 これは、古い、きわめて古い物語です -すなわち、アジア世界では、 ヒンドゥー教徒たちによれば、 このすべてより別に、一定の実体がある。 それは、アートマン、神とか、何とで好きなように、呼ばれます。 彼は、このすべてを目撃していて、このすべてを見ているが、 様々な形の主張、葛藤などをとおして、 究極的に精神を、混乱から解き放つだろう、と。 たぶん、ここ、西洋世界にも、 恒常的な魂というこの観念が、あります -それが何を意味するにしても、です。 彼は、次第に自己を主張していき、究極的に天国へ行くであろう、と。 これらはすべて、とても慰めになり、功利的な理論です。 しかし、それらはこれまで、人の混乱、人の葛藤、人の苦悩、 人のさびしさ、人の憂鬱などを、晴らしたことがありません。
31:50 で、なぜ、やってみないのですか。 西洋では、あなたたちはみんな、実用的であり、 東洋もまた、きわめて実用的になることにより、あなたたちを真似しようとしているとき、 なぜ、これがまったく非実用的であることを、見ないのでしょうか - あなたの内の神や、内の魂や、 この混乱をたやすく払い去るであろう、内の明晰さ。 それが、見たところ、現にそうであるように、実用的でないのなら - なぜなら、それは、成功したことがないからです。 成功する - その言葉の用法を、はっきりさせましょう。 この世の中で何者かである、もっと多くのお金を持つ、 などではない、成功です。 完全な了解、葛藤の終わりをもたらすなどでの 成功です。 それは成功していないので、違ったように見つめましょう。 それは、これを拒否しなければならない、これを否定しなければならないことを、意味しています。 それは、あなたの宗教的伝統すべてに、逆らいます - バイブル、魂に、です。 私が言っていることを、理解されますか。 そのすべてを否定する。 あなたがそうするなら、そのとき私たちは、それを違ったように見られます。 しかし、あなたは、意識的、無意識的にこのすべてへ、わずかな執着を持っているなら、 他の何をも、探さないでしょう。
34:06 で、まず最初に、自己、「私」は何でしょうか。 すべての属性、すべての傾向、 様々な形の特質、 様々な信念、様々な傷、 関係における葛藤、恐れ、さびしさ、苦悩、 何か幻想上の安全を探し求めること、苦しみ - そのすべて、 名まえと形が、「あなた」です。 ですね?または、それを疑われますか。 あなたがそれを疑うなら - それは疑うべきです - あなたが何かを疑うとき、 それは、あなたが疑うだけでなく、検討しなければならないことを、意味しています。 あなたが、神があることを疑うなら - 疑う。 私は、あなたがそうすべきだとは言っていません。 あなたがそれを疑うなら、 そのときあなたは、そういうものがあるかどうかを、探究しなければなりません。 しかし、単に疑うだけ、「まあな、・・」と言うだけでは、何も意味がありません。 懐疑的なのは、大きな価値を持っています。 しかし、いつの時も単に懐疑的であるだけなら、何の意味があるのでしょうか。 それは、幻のようであり、幻想に捕らわれている。 それらはどちらも同じです。 で、疑いがあるところ、探究の動きもまた、あるのです。 で、私たちはともに、探究しています。 この「私」、この分離主義的活動、いわゆる個人、 すなわち、「私」の本質ですが、 質問者は、それを、私のまさに活動全体を、どのように否定するかを、 知りたいと思うのです - 私の所有物、私の性質、 私の攻撃。いいですか、その全体です。 それをどのように、否定すべきでしょうか。
37:04 さて、質問者は、それを訊ねます -どのようにそれを否定するのか。 それから彼は、さらに訊ねます -否定するのは、誰ですか。付いてきていますか。 初めに彼は、どうやってそれを否定するかを、語ってください、と言いました。 それから彼は、言います - 否定するのは、誰ですか。 付いてきていますか。あなたがこれを理解するのかと、思われます。 で、私たちは、それを否定していません。 私たちは初めに、世の中でそれが何をしてきたかを、見出そうとしています。 この自己中心的で自己本位の活動 -それが、世の中で何をしてきたのか、 そして、それの真実、それの実際を見よう、 それから、いつの時も中心から行為しているのは、誰なのかを、探究しようとしています。 質問を理解されますか。 それは、私たちが自己を否定している、ということではありません。 世の中での自己の活動、 それが世の中で何をしてきたのか、それが家族の中、集団の中、共同体の中、 民族の中、世界の中などで、何をしてきたのか。 それの真実を見る。 それが世の中で何をしてきたかの観念ではなく、 実際の出来事、それの実際の活動を、です。 そこから - それが私たちの基準です - そこから、探究します。その自己は、世の中に こんなに悪さをしていますが、 その自己を、見つめられるでしょうか。 付いてきていますか。
39:14 そのとき私たちは、探究するでしょう -自己を見つめているのは、何でしょうか。 それは、違ったように表された、同じ問いなのです。 で、初めに、それは世の中で何をしてきたのでしょうか。 私はその問いに答えなくてもいい。明白です。 それは、それ自体を、民族、国家、共同体へ、 様々な形の社会的分割へ、分離してきました。 それは、それ自体を、残りの共同体、社会、世の中より、 家族として、分割してきました。 そして、家族から、「私」です - 私の攻撃、私の幸せ、私の追求などなど。 それは世の中に、分割をもたらしてきました。 なぜなら、それは、私の特定の信念、私の特定の宗教、 私の特定の信条としてのその分割の中、 その信条、その信念、その教義の中で、 私は安全だろう、私は安心だろう、と言ったからです。 ですね?これらに付いてきていますか。 で、それは、広大な分割を、信じがたい分割を、創り出してきたのです。 で、分割があるところ、葛藤、抗争があるのです。 で、「私」は、この分割を創り出す者であり、 葛藤の本質であるが - いいですか? その「私」は、終わりになりうるのでしょうか。 抑圧するのではなく、忌避するのではなく、回避するのなどではない。 世の中で、このすべての悪さをしてきた「私」、 これらすべての怖ろしいことをしてきた「私」ですが - 分離した神々、です - それは、百万の戦争を、幾千もの戦争をもたらしてきたのです。 それは事実でしょうか。 あなたにとって、です。私にとって、ではない。 それは事実でしょうか。 またはそれは、誇張でしょうか。 または、それは或る種の概念でしょうか。 そして、あなたはその概念に、適応しようとしているのでしょうか。 すなわち、私たちは、戦争は残酷であると、考えます。 ゆえに、「私」はこうならなければならない、と。 付いてきていますか。 初めに、観念を構想する。 それから、その観念に適応する。 私たちは、言っています - 世の中で起きていることを、偏見なく、何も不公平なく、 観察しなさい、と。 すると、あなたは、「私」、いわゆる個人的拡大、 個人的攻撃、個人的成功などなどが、 世の中で何をしてきたかが、見えるでしょう。
43:05 あなたはその点について、きわめて明らかならば、そのとき私たちは、言います - 今、どんな残忍、獣性が世の中にもたされたのかが、見えて、 「私」であるこの動き、 この動きは、いったい、止まりうるのか、または、根本的に変化しうるのでしょうか。 あなたがあなた自身に、この問いをしてきたとき、 変化をもたらすことになるのは、誰でしょうか。 質問者は、そう言います。 この自己中心的な活動を終わらせるであろうものは、誰でしょうか。いいですか? それが、質問者が言われていることです。 すなわち、私たちはそれへ、はるかに深く入らなくてはいけません - すなわち、観察者と、 彼が観察するものには、違いがあるのでしょうか。 どうか、ただ聞いてください。同意や不同意をしたり、こう言ったりしないでください - 「ああ、あなたは、古いことを繰り返しているね。 私はこれを昨年聞いた。」とか、 二年前とか、二十年前とか、と。 「あなたは、繰り返している。 その轍(わだち)から出てきなさい。」と。 私たちは、その轍から出て行くでしょう。 それは轍ではありません。しかし、あなたはそれを、轍と呼ぶかもしれません。
45:00 あなたは、樹を、あのものを観察するとき、 初めに、その言葉なしに、それを見つめられるでしょうか。 または、あなたがそれを見つめるとき、即座の応答は、こうです - 「あれは樹だ。オークの樹だ。」とか、何であっても、です。 あなたは、その言葉なしに、それを見つめられるでしょうか。 言葉は、象徴、観念、記憶です - それが、言葉を、樹として使います。 付いてきていますか。 一分間、実験してください。一秒か二秒の間、 今、まわりにあるあのものを、見つめるのです。 そして、あなたが言葉なく見つめるとき - なぜなら、私たちは言葉の網に、捕らわれているからです。 それを悟られるのかどうか、私は知りません。 その言葉、象徴が、真実に取って代わりました。 あなたは、「私の妻」と言うとき、完全な絵図を持っています。 または、私の夫や私の息子、私の国、国旗。 あなたが、「共産主義者」という言葉を使うとき -付いてきていますか - 抑揚全体、性質、あの言葉の裏にあるもの、です。 あなたが、「私はアメリカ人です」、 「私は神を信じている」、「私は神を信じていない」と言うとき - 付いてきていますか - 精神が生き、頭脳が生きるところのこの広大な言葉の網、です。 あなたが注目したのかどうか、私は知りません。 あなたがそれに興味を持たれることを、願っています。 質問者はそれを訊ねます。 あなたが興味を持たないなら、すてきな一日です。 それを、悟られるのでしょうか - すなわち、けっして、ものを、生きたもの、死んだもの、動いているものを、 見つめられない、ということを、です。 いつも言葉をもって、です。 川を、流れる水を、見つめる。 それを、ミシシッピ川とか、テームズ川とか、ガンジス川とか、ナイル川とか、呼ばない。 ただ、動く水を見つめる。 それは、まったく異なった性質を、持っています。
48:19 さて、そこで、あなたは、観察できるでしょうか - すみません。あなたが観察するのではない。 自己の動きの観察が、あるのでしょうか - すなわち、怒り、苦み、傷を、です。 言葉なく、ただそれらを見つめる。 これらに付いてきていますか。 言葉は過去です。ですね? 言葉は、過去の内容を指示します。 「私の妻」 - 私は普通の例を取り上げています -私の妻。 あなたが「私の妻」を使うとき、その言葉の内容を、見てください - 様々な出来事、事故、観念、傷の甚大な意味合い。 過去におけるそのすべて、です。ですね? 「私の妻」というその言葉は、過去のものすごい内容を、指示します。 しかし、あなたは、過去なく、その女や男を見つめられるでしょうか - 彼女を見るのです。 進んでください。してください。私から聞かないでください。あなたが専注していないなら、 あなたがしていないなら、私に聞くことに、意味はありません。
50:15 で、まず最初に、私たちは訊ねています - 自己の動き全体への観察が、あるのでしょうか。 それを、私たちは、外的にも、内的にも、叙述してきました。 あなたは、それを見つめられるでしょうか - いいえ。 過去なく、それへの観察が、あるのでしょうか。 捉えましたか。 私が話していることを、理解されますか。 ご覧ください。私は八十年以上、生きてきました。八十七年です。 八十七年、生きてきた人は、たくさんの経験、たくさんの観念を、 収集してきて、たくさんの人々に会ってきました。 これらすべての過去の記憶があり、湧いて去ります。 彼は、過去に生きるバカ者なのか、または - この人物における記憶は、ごくごく選択的です - 過去に生きないで、物事が起きているのを、見守るのか。 観察者なしに、観察する - 彼は過去なのです。 捕まえましたか。私はそれを、明らかにしていますか。 観察する。 自らの反応を観察する - それを、嫉妬と、怒りと名づけずに、です。 ただ観察する。 あなたがそう観察するとき、何が起きるでしょうか。 入ってください。あなたがこうなさっていることを、願っています。 ただ聞いたり、くだらんことに退屈するだけではない。 あなたが聞いているのなら、私たちは質問をしています。すなわち、 方向づけなく、動機なく - それは過去です - 観察があるとき、何が起きるでしょうか。 さて、実際に、何が起きるかを、見出すには、 あなたがそれを方向づけているとき、何が起きるかを、探究しなければなりません - あなたが、それを、自分の反応を、思い出しているときや、 自分の反応に方向を与えているとき、です。 すなわち、観察者と観察されるものとの間に、分離があります。 そのとき、分割があり、ゆえに葛藤があります - 私はこれをしてはならない。あれをしなければならない。これは正しい。これは間違い、と。 私は、自分の動機に沿って、「これは正しい」と言う、などなどです。 で、分割があるところ、必然的に葛藤があるにちがいないとの 観察があるとき - 外的に、心理的に、それは絶対的な事実です。 私が自分自身をイギリス人とかアメリカ人と呼び、私が進んで - そうですね、まさに目の前にある全部、です。 あなたは進んで、何千、何万の人々を、破壊しようとしています。 あなたの国民的な誇りや戯言が指令する何かを、するために、 巨額のお金を使おうとしています
54:29 で、人間精神のこの葛藤ですが - それは私の精神でなく、あなたの精神です。人間精神です - それは、常に苦労し、常に葛藤になっていますが、 私たちは、その葛藤が終わりうるのかを、探究しています。 観察者がなくて、観察だけがあるときだけ、それは完全に終わりえます。 思考者は、思考より異なっているのでしょうか。 見てください。 思考者は、彼が創り出してきた思考より、異なっているのでしょうか。 思考者は、言います - 「私はカトリックだ。 プロテスタントだ。ヒンドゥー教徒だ。 私は、民主主義者だ。全体主義者だ」と。 それが何であっても、です。 思考者はそれを言います。 しかし、思考者が、民主主義者、共和主義者、 左、極左、極右、極中などを、 創り出してきました。 思考者がそれをしてきました。 思考者は、彼の思考より異なっているのでしょうか。 ああ、さあ、これはとても単純ですよ。 明白にそうではない。しかし、私たちは、それを分割してきました。ですね?
56:02 で、もう一つ、問いを見ましょう -経験者は、経験より異なっているのでしょうか。 ああ、これはですね、今あなたは - うれしいです。 今、あなたは、捕らわれています! 私たちはみんな、経験がほしいのです - 月へ行く。 神の経験、1ダースの種類の経験、 セックスのそれ、ヒマラヤへ行き、エヴェレストに登る経験。 付いてきていますか。経験です。 今、私たちは訊ねています - 経験者は、彼の経験より異なっているのでしょうか。 経験者は、経験を認識しなければなりません。ですね? ですね?さもないと、それは経験ではありません。 これらに付いてきていますか。 私は、何か見知らぬ言語を、話しているのでしょうか。 私は経験します - 何を?(例えば)自動車事故を、です。 私は、車での事故で経験をします。 それは記録されます - 快、不快として、傷など、 その出費などとして、です。 それは記録されます。ですね? そのことの経験が、憶えられます。 その経験は、昨年に起きたことより 異なっている記憶です。 で、観察者は、昨年のその経験です。ですね? さあ、どうぞ。 その経験者は、その種の未来の出来事を、回避したいのか、 または、彼は事故を起こしがちなら、それらを招いています。 私たちは訊ねています - 経験者は、経験より異なっているのでしょうか。 もちろん異なりません。
58:56 私は神を創案してきました。 私は、あのすばらしい状態を、経験しようとしています。ですね? 私は幻視します - あなたがキリスト教徒なら -聖母マリアを、です。 もしも私が仏教徒であったなら、仏教的な意識の 様々な種類の経験を、するでしょう。 私がヒンドゥー教徒であるなら -付いてきていますか。 特定の伝統 - それは過去です - に、条件づけられているので、 私はそれを経験します。さあ、来てください。 私はそれを投影してきました。私はそれを経験します。
59:44 それで、経験者は経験です。 経験がないなら、精神の状態は何でしょうか。 これらすべての問いを、理解できますか。 私たちはみんな、経験をほしがっています。 実際に、それにきわめて深く、深く入るとき、 経験が、もっと多くの知識を、もっと明晰さ、もっとこれや、もっとあれを もたらすだろう、と私たちは望みます。 しかし、経験者は経験です。 ゆえに、精神はもはや、何も経験を探し求めていません。 そういう精神のみが、絶対的に明晰です。 それは、何も挑戦を必要としません。 それは別の点です。
1:00:55 で、自己の動きへの純粋な観察が、あるのでしょうか。 なぜなら、その中で自己は、観察者から異なっていないからです。 観察だけが、あるのです - 過去の蓄積された記憶が、観察に干渉せずに、です。 過去の記憶と、蓄積された知識が、干渉するとき、 エネルギーのむだが、あります。 あなたがこれらに、付いてきているのか、私は知りません。 葛藤、抗争の中でのエネルギーのむだ。 拒否する中、抑圧する中、 「なぜ私は」と論争し、全体の事柄を合理化する中で、です - それは、一つの形の葛藤です。 さて、それはエネルギーのむだです。 ところが、過去なしの観察があるとき、 エネルギーすべてが、生じさせられます。 エネルギーすべてが、その観察に入ります - それが、観察されるものを消し去ります。 それは、あなたに掛かっています。 私はそれを、十の違った形で、言ってきました。 それで、自己との葛藤、または、自己の拒否、 または、自己の抑圧が、ありません。 それは、観察の明晰さです -それが、最大の形の智恵なのです。
1:02:41 今、何時ですか。 やれまあ!九つほどの質問があります。 私は、二つの問いに答えただけです。
1:03:02 第三の質問: 「捕食者にならない一方で、どうすれば 餌食にならないのでしょうか。」
1:03:08 「捕食者にならない一方で、どうすれば餌食にならないのでしょうか。」
1:03:14 すなわち、搾取されることなく、搾取するのを、どのように止めるのでしょうか。 それは同じ問いでしょう。 私は、あなたを搾取したくない。 しかし、あなたは、私を搾取しています。 あなたは実際にそうです。付いてきていますか。 それは同じ問いです -とても興味深いです、この問いは。
1:03:53 どうすれば私は - いや - 精神の条件付けを解くことは、もう一つの形の条件づけになりません。 理解しましたか。 この罠を離れて、もう一つの罠に 捕らわれない動きが、あるのです。 私はヒンドゥー教徒です。私は、「それは不条理だ」と言って、カトリックになります。 または、私はカトリックですが、「何とばかげたものか」と言って、 私はヒンドゥー教や仏教に加わります。 または、イスラム教徒になります。 それは同じ現象です。理解されますか。 で、探究しなくてはいけません -自由は何でしょうか。
1:04:59 自らが罠に捕らわれていることが、悟られるのでしょうか。 すなわち、同じ反復的な動きです - それを、コンピューターはしています。 それは、はるかに急速に反復しています - はるかに速く、賢明に、聡く、すばやく、プログラムされています。 私たちもまた、プログラムされています - カトリックであるよう、プロテスタントであるよう、 ヒンドゥー教徒であるよう、仏教徒であるよう - 付いてきていますか - 民主主義者であるよう、右や左であるように、です。 私たちもまた、プログラムされています。 自分をごまかさないようにしましょう。 ゆえに私たちは、反復に反復に反復しています。 さあ、どうぞ!みなさんは、何を待っているんですか。 質問者は訊ねます。 条件づけ - 捕食者と餌食 - から自由であり、 なおかつ、もう一つの形の条件づけに 陥らないことは、可能でしょうか。 私は、問いに対して公正でしょうか。 もちろんです。同意しますか?
1:06:24 で、探究しなくてはいけません -自由とは何でしょうか。 その分野の一つの隅から、他の隅へのこの動き - 理解されますか - その分野は私の意識です。 この世界全体が、私の分野です。 私は、この分野、心理的分野の一つの隅から、 もう一つの隅へ、動きます。 私はそれを、自由と呼びます。 または、北の代わりに南へ動くのを、選択します。 私はそれを、自由と呼びます。 で、私は選択を、自由と呼びます。 私は民主主義者ですが、私は共和主義者になるのを選択します。 しかし、それは同じ動きです。 私たちは、それが分からないほど、バカなのです。 で、それが自由でしょうか。 あなたは、これらに付いてきていますか。 選択が、自由をもたらすのでしょうか。 または、選択があるところ、自由がないのでしょうか。 私は、ロサンジェルスからニューヨークへ移るのを、選択するかもしれません。 全体主義の国では、それができません。 私は、許可を、特別の認可などを、得なくてはいけません。 で、私は、自分が自由な人であると、感じます。 で、どの水準で、どの深さで、または、表面的な水準で、 あなたは、自由があると、考えるのでしょうか。 ここ、この国(合衆国)では、好きなことが言えます - これまでは、です。 しかし、戦争があるとき、好きなことは言えません。 ですね? そのとき、私たちは、みんな団結しています -誰かを憎むよう、誰かを殺すように、です。
1:08:37 で、自由は何でしょうか。探究なさってください。 その問いは、そこに関与しています。 自由は何でしょうか。 罠から罠へ、罠へと動くことですか。 一種類の悲惨から、もう一種類の悲惨へ動くことですか。 私は結婚しています。私は妻に飽きています。 私は離婚して、他の女へ行きたい。 なぜなら、私はそうしたい、そうするのが好きだから- または、どんな言葉を使おうとも、です。 しかし、同じ様式が反復されます。 私はそれを、自由と呼びます。 で、同じ領域の中で動くこのことに、自由があるのでしょうか。 その領域は、広いかも、ごくごく狭いかもしれません。 しかし、それは同じ動きです。 それは自由ではありません。ですね? で、そのとき、自由は何でしょうか。 自由は明白に、全的に自由であることを、意味しています - 意識の内容全体から、です。 理解されますか。 一つの隅の問題は、もう一つの隅とは違っています。 しかし、それは同じ分野にあります。 私たちは、諸問題を分離します。 しかし、それは一つの問題です。 理解されますか。それが分かるのかと、思われます。 問題すべては、相互に関係し合っています。 それは明らかです - 私の性的な問題、 私の生計を立てる問題、私の神の問題。 それはすべて、この果てしない探求の一つの動きです - 何らかのものに対して、なりゆくことの(動き)、です。 それで、自由は、何かになることが、完全に終わることです。
1:11:22 もう止める時間ですか。
1:11:31 第四の質問: 「謙虚さと謙遜は何でしょうか。」
1:11:41 それは、この国に存在していません! ヨーロッパやインドにも、です。 で、謙虚さは何でしょうか。 なぜ世界中の宗教は、「あなたは謙虚でなければならない」と言ってきたのでしょうか。 (バイブルに言う)「地を継ぐ」 - いいですか? 彼らは確かに、言ってきました。理解されますか - 謙虚な者は地を継ごう、と。 そして(現実には)、帝国の建設者たちが、地を継いできました。 あなたはこれが分かるのか、と思われます。 いや、分からない。それは大事ではありません。 謙虚さは、何でしょうか。 自分自身が謙虚であることは、いったい知られる、気づかれるのでしょうか。 自分は謙虚であると知る、気づく、悟るとき、あなたは(実は)そうではありません。ですね? 謙虚さは - 私たちは謙虚でしょうか。
1:13:19 先日、インドで、或るインド人へ話をしていました。 彼は、この国で印刷された雑誌を、見ていました。 それは、半分裸のご婦人たちが見られるそれら雑誌の一つでした。 彼は、「神様!何が起きたんでしょうか。 彼らは謙虚さすべてを、失ったんでしょうか」と 言って、恐怖しました。なぜなら、彼は謙虚さの観念を、持っているからです - すなわち、絶対的にここにまで到らなければならないのだ、と。 これらを理解されますか。 で、なぜ私たちは、謙遜したいとか、謙虚になりたいのでしょうか。 どうか、これらすべての問いを訊ねてください。
1:14:27 私が謙虚になろう、すなわち、進んで学ぼう、言ってもらおうとするとき - 権威の前で私自身を否定し、 あなたが与えてくれている何かを受け取るために、 大著に頭を垂れるとき、 それは、一つの形の虚栄でしょうか。 それは、虚栄心の強い人に似ています -私たちのほとんどは、そうです。 その虚栄の中から、私たちは謙虚になろうとします。 それは、謙虚さでしょうか。 攻撃、暴力に満ちている人が、謙遜しようとする。 理解されますか。それは不条理です。 それは意味を失ってしまいました。 ところが、攻撃的である人が、 攻撃が世の中で何をしてきたかと、 その攻撃の帰結すべてを、悟り、見る。 彼はその攻撃を終わらせるとき、新しいことが、始まりうるのです。 終わること - どうか、何かを悟ってください - 何かが終わることが、新しいことの始まりです。 ですね? 私は、自分の虚栄を終わらせるなら - 私がそれを持っているなら、です。「私は大物だ。 何とかかんとかだ」と。私はそうであり、それを終わらせるなら、全的に新たな何かが、起きています。 しかし、私たちは、終わらせる前に、確証してほしいのです。 すなわち、何かが起きるだろう、保証付きだ、と。 そのとき、あなたが受け取ろうとしていることは、保証ではありません。 それは、もう一つの形での同じことです。
1:16:45 私は、私たちの最初の問いに、戻ってきたいとも思います。 あなたは、これらを聞いてきました。 幾らかの人は、何度も何度もです。 他の人たちはおそらく、初めてです。 なぜ私たち、人間は、 このすばらしい、うるわしい大地に生きてきて、それを破壊していますが、 何千、何万年の後、なぜ私たちは、今ある私たちに、なったのでしょうか - 低俗で、残酷で、獣的で、身勝手で、嫉妬深く、さびしい - 付いてきていますか - 全部です。 なぜ私たちは、変化しないのでしょうか。なぜ私たちは今ある私たちを、終わらせないのでしょうか。 なぜでしょう。 それは、私たちが怠けているのでしょうか。 それは、私たちが特定の轍、様式に捕らわれていて、 それで、その様式を変化させるエネルギーを持っていない、ということなのでしょうか。 私たちは、何かをしたいとき、存分にエネルギーを持っています。 私たちは、月へ行きたいとき、信じられないエネルギーを、持っています。 私たちは、オリンピックでのように、世界チャンピオンになりたいとき、 走るために、信じられないエネルギーを、持っています。 衝動があるとき、要求があるとき、 私たちは、莫大なエネルギーを、持っています。 しかし、見たところ、衝動はないし、要求はないのです。なぜでしょう。 それは、私たちがとる食べ物でしょうか。 セックスへ、酒へ、 これとあれへの耽溺のしすぎでしょうか。 娯楽で楽しみたいとの要求のしすぎでしょうか。 で、私たちは、そのすべてのとてつもないエネルギー、すなわち私たちの一部を、 何か無益なことに、むだにしつつある。 ゆえに、これらのことに向き合い、動き、終わらせるエネルギーが、ないのです。 そうでしょうか。 どうか、このすべての原因が何かを、語ることはできません - 多くの原因があるのです。 しかし、諸原因の説明は、諸原因が終わることではありません。
1:19:36 で、ずっと数多くの年と、 数千年に数千年の後、私たちが、 今の私たちであるのは、なぜでしょうか。 で、それは、あなたが答えるべきことです。
1:20:08 もう立ち上がってもいいですか。