Krishnamurti Subtitles home


OJ82T1 - 私たちは、全的な人間存在に、関心を持っているのか
第1回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1982年5月1日



1:10 よろしければ、指摘したいとも思います - これは、週末の娯楽ではありません。 私たちは、生の全体を、取り扱おうとしています - その複雑な問題すべてとともに、です。 特定の主題、ではありません。 これは講義ではありません。 すなわち、情報を与えるとの視点で、 特定の主題について、話すのではない。
2:07 もしも私たちはできたなら、これら講話のまさに最初から - それらは六回、質疑応答会合は四回 あるだろうと、思いますが、 もしも私たちは、まさに最初から、私たちは誰にも 何をも教示していないということを、理解できたなら、良いだろうと思うのです - 私たちは、あなたに何を説得するためにも、或る種の観念や信念や、 何か結論を、持ち出していません。 これは宣伝ではありません。 むしろ、もしも私たちは、これら講話すべての間に、ともに考え、 ともに観察し、 自らの生の動き全体を聞けたなら - それが南アフリカでも、南アメリカでも、ヨーロッパでも、アメリカでも、アジアでも、です - 私たちは、きわめて複雑な問題を、取り扱おうとしています - よく気をつけて、ためらいつつ、何の方向もなく、動機もなく、 研究されなくてはいけないことを、です。 できるなら、私たちの生の外的な出来事すべてを、観察する。 なぜなら、私たちの外側で起きていることを理解しないなら - それは、私たちが自分たち自身を理解できるための度量(基準)です。 私たちは、世の中で、外的な世界、いわば肌の外側、 心理的分野の外側で、 実際に何が起きているかを理解しないなら、 私たち自身を理解するための度量(基準)を、持たないでしょう。
4:41 で、初めに、できるなら、ともに観察しましょう。 私がいうその言葉は、気をつけて見る、という意味です。アメリカ人や アルゼンチン人やイギリス人やフランス人やロシア人としての偏見なく、 観察する - 忘れてすみません、アジア人も、です。 どんな動機もなく観察する -それは、なかなか難しいでしょう。 できるなら、何が起きているかを、はっきりと見ることです。 観察し、世界を旅してまわると、 大変多くの不一致、不和、 不同意、無秩序があります - 大変多くの混乱、不安定、です。 特定の一つの形の戦争に反対するデモ行進が、あります。 テロがあり、戦争への準備があります。 語りえない金銭を、軍備に使っています。 国家的、民族的な分割が、あります。 一つの国家、民族は、他のと対立し、結果的な戦争の準備をしています。 宗教、宗派の分割があります - カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教徒、 イスラム世界、仏教徒。 世界には、この常なる分割が、あるのです。 分割があるところ、不一致、抗争があるにちがいないのです。 これは、世界中で見られます。
7:19 国家的、民族的な名誉があります - そのために誇りを持ち、進んで他の人たちを殺そうとしています。 様々な宗派、導師があり、特定の支持を持っています。 カトリックの世界、プロテスタントの世界には、 霊的な権威があります。 仏教とヒンドゥー教の世界には、さほど多くない。 しかし、イスラムには、書物の権威があります。 で、どこでも、この不一致、無秩序があるところ、 葛藤、抗争や、互いの破壊があるだけではない。 そして、特定の国民性、民族性への執着です。 それにより或る種の安全 - 物理的な外的な安全 -を、見つけたいと望んで、です。 これが、世界で起きている現象です。 それについては、きっと私たちはみんな、同じことを観察するのだと、思います - 一つの集団はもう一つの集団に対立する。 で、孤立が起きているのです - 一人一人の人間にとってだけでなく、 集団の孤立です。 それは、信念により、信条により、 何か思想的な結論により、束ねられています - 全体主義の諸国のように、そして、 自らの理念をもった民主主義世界のように、です。 で、理想、信念、教義、儀式が、人類を分離しています。
9:51 これが実際に、世界で起きていることです。 外的世界は、私たち自身の心理的世界の結果です。 この外的世界は、私たち一人一人により、創り出されます。 なぜなら、私たちは孤立した人間たちであるからです。 私たちは、自分の特定の専門職、自分の特定の信念、 自分の結論と経験を持ち、それらにすがりつきます。 それで次第に、一人一人が、自己を孤立させつつあるのです。 自己中心的な活動があります。それが外的に表現されます - 国家、民族としてとか、 何か宗教的な集団への所属。 その集団が、カトリックの世界のように、 七億人の人々を持っていようと、です。 私たちの一人一人が、自己を孤立させつつあるのです。 で、私たちは、外的に世界を、産出または創造しつつあるのです - 国家主義、民族主義をとおして、です。 それらは、栄達した形の部族主義です。 各々の部族が、もう一つの部族を、進んで殺そうとしています - 信念のため、土地のため、経済的な貿易などのために、です。
12:03 私たちはみんな、これを知っています -少なくとも、私たちの中で、気づいている人たち、 ラジオを聞き、テレビ、新聞などを見る人たちは、です。 これはまったく変化させられない、と言う人たちが、います - 人間の条件づけが変容される可能性は、ないのだ、と。 世界は、何千年、何万年もの間、このように続いてきた。 この世界は、人間の条件により創り出される。 その条件は、けっして変容させられない、 それ自体に変異をもたらされない、と。 彼らは、修正がありうると、主張します -わずかな変化が、です。 しかし、人はいつも、今のままであるだろう - 互いとの葛藤、抗争(状態)にあり、互いに殺害しあい、 自己と世の中に分割をもたらす。
13:47 そして、様々な種類の社会改革を 試してきた人たちがいます - 世界中に、です。 でも、彼らもまた、人間の意識に、 深い根源的な変異を、もたらしていません。 これが、世界の状態です。 私たちはどのように、それを見るのでしょうか。 それに対して、人間として私たちの応答は、何でしょうか。 テクノロジーの世界 - コンピューターと、 人間の頭脳が創案しつつあるそれらすべてのとてつもないもの - に対して、ではない。 実際に、私たちの関係は、何なのでしょうか - お互いと、だけでなく、この外的な世界と、です。 私たちの責任は、何なのでしょうか。 私たちは、それを政治家に任せておくのでしょうか。 新しい指導者を探し求めるのでしょうか。 どうか、これは - 私たちがともに議論し、 話し合っていること - は、とても深刻な問題です。 新しい救い主ですか。それとも、古い伝統に戻ることですか。 なぜなら、人間たちは、この問題を解決できなくて、 古い習慣的な過去の伝統に、戻るからです。 それもまた、起きていることです。 世の中に混乱があればあるほど、 何か過去の幻影、過去の伝統、過去の指導者、過去のいわゆる救い主へ 戻ろうとの願望、欲求が多くなる。
16:23 で、これらに気づくなら- 気づかなくてはいけません - これらに対して、私たちの応答は、何なのでしょうか。 世の中で起きている現象全体に対して、 部分的ではなく、全的な応答です。 私たちは、自分の個人的生活を考慮するだけでしょうか - どこか片隅で、静かで平穏な乱されぬ生活を、どう生きるのか、と。 または、私たちは、全的な人間存在に、人類全体に、 関心があるのでしょうか。 私たちが、自分の特定の生に関心を持つだけなら、 それが、どれほど面倒であり、それが、どれほど制限されていて、 それが、どれほど悲しみと痛みに充ちていても、 そのとき、部分は全体であることを、悟りません。 で、生を見なくてはいけません。 アメリカの生活や、アジアの生活ではなく、 全体としての生を、です -全包括的な観察です。 特定の観察でない観察 - それは、私の観察や、あなたの特定の観察ではありません。 総体を了解する観察です。 生の全包括的な眺めです。 私たちの一人一人が、自分の特定の問題に、関心を持ってきました - すなわち、もっと多くのお金、失業という問題、 自分の充足を探し求める、 果てしなく楽しみを探し求める、 怯えている、孤立している、さびしい、憂鬱だ、苦しんでいる。 そして、個人的なので、外側に救い主を創り出す、という問題です。 私たち自身のために、私たち一人のために、変容させたり、救済をもたらしたりするだろう 救い主を、というのです。 この伝統は、西洋世界では、 二千年間、続いてきました。 アジア世界は、たぶん インドから東洋中へ炸裂なのでしょうが、 そこでもまた、違った言葉、違った象徴、違った画像、 違った結論で、同じことが、維持されてきました。 しかし、それは、自らの救済へ、自分の特定の幸せへの 同じ個人的な探究です - 自らの多くの複雑な問題を、解消しようとするものです。 それが、私たち一人一人がしようとしていることなのです。
20:45 私たちが、自分の特定の問題を解決できないなら、 様々な種類の専門家がいます - 自らの問題を解消するために行く、心理学の専門家たち。 彼らもまた成功していません。 科学者もまたそうです - 正反対です。 テクノロジー的に科学者たちは、非常に助けてきました。 病気が減り、コミュニケーション、治療、 保健衛生が良くなった、などです。 また、科学者たちは、戦争を維持しています。 科学者たちは、戦争の道具すべてに責任があります。 彼らは、数百万に数百万の人々を一撃で 殺害することに、責任があります。 で、科学者たちは人類を救おうとしていません。 政治家たちも、そうです。 東洋でも、西洋でも、世界の真ん中の部分でも、 彼らは、権力、地位を探し求めます。 彼らは、人間の思考に対して、あらゆる種類の企てをします。 これらはご存じでしょう。 西洋世界では、私たちは彼らを選挙します。 どうやって選挙するのか、神のみぞ知るです。 (ソビエト・)ロシアの世界では、そうしません。 全体主義の独裁制があります - 完全な牢獄です。 それは、宗教的な世界でも、まさしく同じことです - いわゆる宗教的な世界、です。 位階制度の権威、 (ローマ)教皇、司教、大司教と 地元の司祭者の権威です。 思考が創り出した何か像(イメージ)の名において、です。 私たちは、人間として、分離し、孤立し、 自分たちの問題を解決することが、できませんでした。 私たちは、大いに教育を受けています。 ずるがしこく、自己中心的です。 外的に、とてつもないことをできる能力がある。 しかし、内的に私たちは、多かれ少なかれ、百万年の間、そうであったものなのです - 私たちは憎む、私たちは競争する、私たちは互いに破壊しあう。 それは、現在の瞬間に実際に起きていることです。 あなたたちは、専門家たちが最近の戦争について話しているのを、聞きました。 彼らは、殺されている人間について話していません。 飛行場を破壊すること、あれやこれやを吹き飛ばすことについて、話しています。 で、世界には、この全的な混乱があるのです。 それについて、きっと私たちはみんな、気づいていると、思います。
25:31 それから問いが生じます -私たちは何をするのでしょうか。 或る友人が、幾らか前に、語り手に語ったことですが、 あなたは何もできない。 あなたは、壁に頭を打ち付けている。 それはこのように、次の百万年間、続くだろう - 互いに戦う、殺す、破壊しあう。競争。 様々な形の幻想に捕らわれている。 これが続くだろう。あなたの生と時間をむだにするな、と。 この悲劇、怖ろしい出来事 - それは、誰か狂った人が ボタンを押すことで起こるかもしれません。 または、コンピューターが、人の能力に取って代わることで、です。 それは、はるかに速く考え、もっと正確です。 コンピューターもまた、人間を、破壊するかもしれません - 人間精神、人間の頭脳を、です。 なぜなら、ロボットをともなったコンピューターは、あらゆる種類のことができるからです - 日本でやられているように、です。 で、人間たちに、何が起きようとしているのでしょうか。 で、これが、私たちが向き合っている広大な問題です。
27:55 子ども時代から、運が良くて専門校、大学を出るまで 私たちの教育は、 何らかの形で専門化することです - たくさんの知識を集積し、それを頭脳に蓄え、行為することです。 職を得て、できるなら余生の間、 その仕事へ、上手にすがりつく。 朝から晩まで、オフィスへ行く。 そして、そのすべての終わりに、死ぬ。 これは、悲観的な態度や観察ではありません。 これは、実際に起きていることです。 現実、事実を観察するとき、 憂鬱でもないし、楽観的でも悲観的でもありません - そうなのです!
29:13 そして、訊ねます - そもそも真剣であり、責任があるのなら、 何をすべきなのでしょうか。 修道院(僧院)へ引退しますか。 何かコミューンを形成しますか。 アジアへ行ってしまい、禅の冥想や他の形の冥想を 追求しますか。 この問いを、真剣に訊ねています。 あなたは、意識のこの危機に直面するとき - 危機は、私たちの外側、むこうにあるのではない。 危機は、私たちにあるのです。 あのことわざを、ご存じですね - 私たちは敵に出会った。敵は私たちである、と。
30:44 で、危機は、経済的でない - 戦争、爆弾、政治家、 科学者ではない。 危機は、私たちの内側にあるのです。 危機は、私たちの意識にあるのです。 私たちが、きわめて深遠にその意識の本性を理解し、 それを問い、掘り下げて、その意識に全的な変異が、 ありうるかどうかを、自分自身で見出すまで、 世界は、もっと多くの悲惨、もっと多くの混乱、 もっと多くの恐怖を創り出して、続けていくでしょう。 で、私たちの責任は、或る種の利他的な行為、 政治的や経済的なものではなく、 私たちの存在の本性を、了解することなのです - なぜ私たち人間は、この美しい麗しい大地に生きてきて、 なぜ私たちはこのようになったのか、です。
32:33 で、あなたがその気なら、 それがあなたの責任なら、 私たちは、自らの意識の本性を、私たちの存在の本性を、 ともに知覚できるのです。 これは、言いましたように、講義ではありません。 講義は、特定の主題に関する論述です - 情報を与えたり、指摘したりするものです。 それが、講義というものが意味するところです。 しかしここで私たちは、一緒にしようとしています -あなたと語り手がともに、です。 分離してでなく、ともに、 この意識の動きと、世界に対するその関係を、 観察しようとしています - その意識は、個人的で、分離しているのか、 または、その意識は人類の全体であるのか、です。 理解できますか。 私たちは子どもの頃から、個人であるよう、教育されます。 別個の魂を持ったように、です -あなたがその種のことを信じるとして、ですが。 または、あなたは、個人として考えるよう、 訓練され、教育され、条件付けられてきました。 私たちは、そう考えます - なぜなら、あなたは、別個の名前、別個の形態を、持っているからです。 すなわち、肌が黒い、白い、背が高い、低い、金髪、黒髪などと、 あなたの特定の傾向です。 私たちは、自分たちが分離した個々人である、と考えます - 自分たちの特定の経験などをもつ者だ、と。 今、私たちは、まさにその観念を、問おうとしています - 私たちは個々人であるのかどうか、です。
35:33 それは、私たちが一種、無定形の存在である、という意味ではありません。 実際に、私たちは個々人なのでしょうか。 世界全体が、宗教的にも 他の形でも、私たちは 分離した個々人であることを、主張しますが。 その概念から、おそらくその幻想から、 私たちの一人一人が、充足しよう、何かになろうとしています。 その何かになる中で、私たちは、 他の人と競争し、他の人と戦っています。 で、私たちは、生のその道筋を維持するなら、 必然的に、国民性、国籍、部族主義、戦争にすがりつかなければなりません。 なぜ私たちは、国家主義、民族主義に取りすがるのでしょうか。 その裏の情熱 - それは、今起きつつあることです。 アルゼンチン人、対、イギリス人、 アラブ人、対、ユダヤ人、ユダヤ人、対、アラブ人、などです。 なぜ私たちは、民族主義に、こういうとてつもない情熱的な重要性を、与えるのでしょうか。 それは本質的に部族主義です。なぜでしょう。 それは、部族主義の中、部族へ、集団へ取りすがる中に 一定の安全があるからでしょうか - 物理的な安全だけでなく、心理的な安全、 完全性、充足の内的な感覚も、です。 そうであるなら、そのとき他の部族もまた、同じことを感じます。 ゆえに分割、ゆえに戦争、抗争です。
38:15 理論的にではなく、実際にこのことの真理が見えるなら、 そして、この地上に生きたいなら - ここは、私たちの地球です。 あなたのや、私のではない。アメリカのや、 ロシアのや、ヒンドゥーのではない。 ここは、私たちが生きるべき大地です。 そのとき、全く民族主義、国家主義はないのです。 ただ人間存在だけが、あるのです。 一つの生が、です。 それは、あなたの生や私の生ではない。 それは、生の全体を生きることです。 この個人性の伝統は、東洋でも、西洋でも、 宗教により永続化されてきました - 各個人のために、個別の救い主、などです。 さて、これはそうなのでしょうか。 そうですね、疑うことは、とても良いのです。 受け入れないで問う精神、「私たちはもはや、とうていこのように、 この残忍で暴力的なさまで、生きられない」 と言う精神を持つことは、とても良い。 で、疑い、問うことは、とてつもない重要性があるのです - おそらく五十年、六十年とか三十年間、自らが生きてきた 生の道筋を、あるいは、百万年間、 生きてきた道筋を、ただ受け入れるだけではない。 で、私たちは、個人性の実在を、問うています。 あなたの意識は - その言葉、「意識する」という言葉の意味により、 あなたの意識の内容が、理解されます。 意識するとは、気づくこと、知ること、 知覚すること、観察することを、意味します。 あなたの意識、および、その内容は - 内容とは、あなたの信念、あなたの楽しみ、 あなたの経験、特定の知識、 すなわち、あなたが何か特定の外的主題をとおして 集めてきたもの、 または、あなたが自分自身について集めてきた知識、 あなたの恐れ、執着、 さびしさの痛み、苦悩、悲しみ、 単なる物理的存在以上の何かもっと多くへの探求。 そのすべてが、内容をともなった自らの意識です。 内容が、意識を作ります。 内容なしには、私たちが知っているような意識は、ありません。 ここには、議論の余地はありません。 そうなのです。 あなたの意識は、とても複雑で、矛盾していて、 とてつもない活力を持っていますが、 その意識 - それは、あなたのでしょうか。 思考は、あなたのでしょうか。 または、ただ考えることだけがあるのでしょうか -それは、東洋でも西洋でもない。 ただ考えることだけがある。 それは、人類すべてに共通です - 彼らが豊かでも、貧しくても、です。 とてつもない能力をもった技術者でも、 世間から退いて、自己を観念に 献上している僧侶でも、 それもやはり、考えることです。
44:08 この意識は、人類すべてに共通なのでしょうか。 卑近という意味で、共通なのではない。 この意識は、あなたのでしょうか。 または、残りの人類でしょうか。 どこに行こうとも、苦しみ、痛み、 心配、さびしさ、狂気、恐れが 見られます - 安全を探し求め、 知識に捕らわれ、 欲望の衝動、さびしさ。 それは共通です。それは、あらゆる人間が依って立つ基盤です。 あなたの意識は、人類の意識、 残りの人類です。 それは論理的です。あなたは、不同意するかもしれません。 あなたは言うかもしれません -「私の意識は分離している。 それは分離しているにちがいない」と。 しかし、そうなのでしょうか。 これの本性を理解するなら - すなわち、あなたは残りの人類である、ということを、です。 私たちは、違った名前を持っているかもしれません。 私たちは、世界の違った部分に生きていて、違ったように教育され、 裕福か、ごく貧しいかもしれませんが、 仮面の裏へ、深く行くとき、 あなたは、残りの人類に似ています - 痛み、さびしさ、苦しみ、絶望、神経症、 信念 - 何か幻影を信じているなど、です。 東洋へ、または西洋へ行っても、そうなのです。 あなたは、それが好きでないかもしれません。 あなたは、自分は全的に独立した、 自由な個人であると、考えたいかもしれません。 しかし、きわめて深く観察するとき、あなたは残りの人類です。 あなたはこれを、観念、抽象、すばらしい概念として、 受け入れるかもしれません。 しかし、観念は現実ではない。 抽象は、実際に起きていることではない。 しかし、私たちのほとんどは、「有るもの」を、抽象化して、観念にします。 それから、観念を追求します - それは本当に非事実です。
48:13 で、そのとおりであるなら、すなわち、 私の意識とあなたの(意識)は、内容すべてとともに - 内容はそれ自体、矛盾し、混乱しています。 互いに格闘しあっています。事実と非事実、 幸せになりたいが、幸せではない。 平和がほしい。暴力なく生きたいが、暴力的である。 私たちの意識はそれ自体、無秩序です。 それは、不一致の根です。 私たちは、それを理解するまで - 深く深く入って、 全的な秩序を発見するまで、 世界には、いつも無秩序があるでしょう。
49:44 で、真剣な人物は - その言葉で私が言うのは、 理解の追求を、容易に思いとどまらされない、という意味です。 自分自身を、自らの意識を深く掘り下げる追求を、です。 その意識は、すべての人の共通した意識です。 娯楽、面白さにより、容易に思いとどまらされない人。 娯楽もおそらく、時には必要でしょう。 だが、首尾一貫して、毎日、 人の本性の中へ、追求する - すなわち、あなた自身の中へ、です。 自分自身の中で実際に起きていることを、観察する その観察から、行為が起こる。 「分離した人間として、私は何をしようか」ではない。 生の全的な、全包括的な 観察の中から出てくる行為です。 その全包括的(ホリスティック)という言葉でもって、健康的で、全うで、 理性的、論理的なことを、意味しています。 全体(ホール)である知覚、です。 すなわち、ホーリー(聖なる)です。 私たちは、その言葉、「全包括的(ホリスティック)」を、その意味で使っています。 さて、これは可能でしょうか。 それは、人間に - 私たちのような素人に- 可能でしょうか。 専門家ではなく、素人です。 私たちが、これを見つめることは、可能でしょうか - 矛盾した混乱の意識を、全体として見るのです。 それとも、私たちは、その各部分を取らなければならないのでしょうか。 どうか、二、三分間、ただ聞いてください -もし興味があれば、です
53:03 私は、私自身を、私の意識を理解したい。 私はまさに最初から、それがきわめて矛盾しているのを、知ります - 一つのことをほしがり、別のことをほしがらない。 一つのことを言い、別のことをする。 私は、信念が人を分離するのを、知ります。 私は、何であれ、信じています -イエス、クリシュナや何かを、です。 または私は、自分の経験を、信じています -それにすがりつきます。 または、六十年か四十年か十年をかけて 自らが蓄積してきた知識を、信じています。 それは、とてつもなく重要になるのです。 私はそれにしがみつく。 で、私は、信念は人々を破壊し、分割することを、認識します。 けれども私は、それをあきらめられません。なぜなら、信念は、ふしぎな活力を、持っているからです。 それは私に、一定の安心感を、与えてくれます。 私は神を信じている - そこには、とてつもない強さが、あります。 しかし、神は、人が創案しています。 或る人々が信じているように、もし私たちは、みんな神の子であるなら、 神は、とてつもない者にちがいない。 なぜなら、私たちは、自分たちがどうなのかを観察するなら、みじめな実体であるからです。 神もまた、これらについて、かなりみじめにちがいない。
55:17 で、神は、私たち自身の思考、私たち自身の要求、 私たち自身の望みなき絶望からの、投影です。 そして、そのすべての対極です。 または、私は、何かの形の導師を、信じています - そうね、それらを、です。信念です。 私たちはなぜ、そもそも信念を持つのでしょうか。 信念により不具になった精神は、不健康な精神です。 自由がなければなりません。 それもまたもや、きわめて複雑な問題です -自由とは何なのか。 今、私たちはそれに入りません。 で、私は、あなたは、この意識を 深く掘り下げることは、可能でしょうか - 心理学者や精神科医などにより、 説得されず、案内されずに、です。 私たち自身の中を深く掘り下げ、見出す。 それで私たちは、誰にも依存しないように、です -語り手をも、含めてです。 その問いをする中で、 私たちはどのように、意識の錯綜、 矛盾、動き全体を、知るのでしょうか。 私たちは、ちょっとずつそれを知るのでしょうか - 例えば、私たちはちょうど今、信念を取り上げました。 また私たちの意識において、私たちは、傷ついています。 各々の人間は、子どもの頃から、傷ついています。 親により傷つく - 心理的に、私は話しています。 学校で傷つく - 比較をとおし、競争をとおし、 「あなたは、この科目で一流にならなければならない」と言うことなどをとおして、 専門校、大学、そして人生で、です。 それは、傷つくという常なる過程です。 私たちはみんな、これを知っています。 私たちはみんな、傷ついている人間です- 深く、です。 私たちはそれを、意識していないかもしれません。 その傷から、あらゆる形の神経症的行為が、あるのです。 それが、私たちの意識の一部です。 自らが傷ついているとの、私たちの隠れたり開かれた気づきの一部です。
59:02 さて、まったく傷つかないことは、可能でしょうか。 なぜなら、それは問うのがとても重要な疑問であるからです。 なぜなら、傷つくことの帰結は、自己のまわりに 壁を築く、互いとの関係から 引き下がることであるからです - もっと傷つかないために、です。 そこには、恐れが、次第の孤立が、あります。 さて、私たちは訊ねています - 過去の傷から自由であるだけでなく、 また、二度と傷つかないことは、可能でしょうか。 冷淡さをとおして、 無頓着をとおして、関係すべてへの全的な無視をとおして、ではない。 むしろ、探究するのです - なぜかを、そして、傷ついているのは何かを、です。 この傷は、私たちが言いましたように、私たちの意識の一部です。 そこから、様々な神経症的な矛盾した行為が、起こります。 で、私たちは、検討しています - 信念を検討したように、傷を検討しています。 それは、私たちの意識の一部です。 どうか、これは、何か私たちの外側のことではない。 それは私たちの部分です。 さて、傷ついているのは、何でしょうか。 そして、けっして傷つかないことは、可能でしょうか。 理解されますか。全的に自由である人間 - 何によっても、心理的、内的にけっして傷つかないこと。 それは、重要な問いではないですか。 そして、傷ついているのは、何でしょうか。 私たちは、「それは私です」「私は傷ついている」と言います。その「私」は何でしょうか。 子どもの頃から、自己についてイメージを築いてきました。 私たちは、多くの、多くのイメージを持っています。 人々から与えられるイメージだけでなく、 私たち自身が築いてきたイメージも、です。 アメリカ人として - それはイメージです- ヒンドゥー教徒として、専門家として、です。 で、「私」は、私が自分自身について築いてきたイメージです - 大物として、です。 または、私はあれやこれが、とてもうまいのだ、と。 そのイメージが傷つきます。
1:03:01 ですね?あなたは、イメージを持っています。 あなたは、すばらしい料理人、すばらしい大工である。 大した講演者である - 私はそうでない。 大した講演者、著作者、霊的な人、指導者である、と。 私たちは、これらイメージを、自分自身で創り出してきました。 私たちは、他のイメージも持っています -当座、それには入らないでしょう。 これらイメージが、私の全体です。 私たちが、「私は傷ついた」と言うとき、それは、イメージが傷ついた、という意味です。 私は、自分自身についてイメージを持っているなら - 私はそれを持っていませんが、 持っているなら、あなたがやってきて、「バカは止めろ」と私に言います。 私は傷つきます。 すなわち、私は自分自身についてイメージを、築いてきました - バカではない、アホな間抜けではない、とです。 あなたがやってきて、「あなたはそうだ」と言います。私は傷つきます。 私は、余生の間、その傷を持ち運びます。 傷つかないよう気をつけます。 私のバカさについてのどの発言をも、避けます。 笑わないでください。それは、あなたの問題です。私のではない。 どうか、これはとても深刻です。 なぜなら、傷つくことの帰結は、とても複雑であるからです。 その傷から、私たちは充足したいかもしれない。 私たちは、あれやこれやになりたいかもしれない -この怖ろしい傷から逃避するために、です。 で、それを理解しなくてはいけません。 自分自身について、イメージをまったく持たないことは、可能でしょうか。 なぜあなたは、自分自身についてイメージを持っていますか。 あなたは、とてもすてきに、利発、聡明に見え、はっきりとした顔立ちかもしれない。 私は、あなたのようになりたい。 私はそうでないなら、傷つきます。 で、比較は、傷つくことの要因の一つなのかもしれません - 心理的に、です。それなら、私たちはなぜ比較するのでしょうか。 これらすべての問いを、理解されますか。
1:06:05 で、ただ一つのイメージもなく、現代世界に生を生きられるでしょうか。 語り手は、それは可能であると言うかもしれません。 それは可能です。生きられます。 しかし、それには、関係の理解が、必要とされるのです。 関係とは何でしょうか。私たちは、それに入る時間が、あるでしょうか。 私たちは1時間、話をしました。 あなたは、疲れているにちがいありません。

質問者: いいえ。 あなたがこれを、知的、その他の、娯楽として、 扱っているなら、 それはただ、面白いこと、 土曜日の朝にすることだけです。 しかし、あなたが、その(真剣という)言葉の深い意味で、真剣であり、 人間の諸問題の解決に、参与しているなら、 あなたの頭脳は、語り手のそれと同じく、活動的でなければなりません - ただ、たくさんの言葉を受け入れるだけでなくて、です。 おそらく、あなたたちの幾人かは、このすべてに慣れていないでしょう。 なぜなら、私たちは、古い伝統的な路線、習慣に沿って考えるし、 一番楽な生の道筋を、とるからです。 しかし、これには、大変多くのエネルギーが、必要とされます - けっして傷つかないことが可能なのかを、そして、ただ一つの信念もなく 生を生きることが可能なのかを、見出すように、です。 信念は、世界と人間たちを、分割しつつあり、 それで互いを破壊しあっています。 南アメリカ人たちは、一つのことを信じています。 西洋世界は、他の何かを信じています。 観念、理想、イデオロギーは、人間たちを破壊しつつあるのです。 で、ただ一つの信念もなく生きて、 けっして傷つかないのを発見すること。 それは、あなた自身についてイメージを持たないことを、意味しています - ヒンドゥー教徒として、仏教徒として、キリスト教徒、プロテスタント、 カトリックとして、教授として、です。 あなたは、教授職を公言し、教えるかもしれません。 情報を提供するかもしれません。 しかし、あなたが自分自身について創り出してきた、教授としてのイメージです。 あなたが公言する職責ではありません。 理解されますか。 それは、可能でしょうか。 それが、本当の自由です。
1:10:08 私がバカと呼ばれるとき- なぜなら、私は自分自身について イメージを持っているからです。 私がそれを持っているとして、ですが - 言われるときに、その発言に対して、全的な注意を向けることは、可能でしょうか。 理解されますか。 私が自分自身についてイメージを持っていて、あなたが私をバカと呼ぶとき、 私は即座に反応します。 反応は即時です。 反応は即時なので、その即時性へ注意を向ける。 理解できますか。 私の話ははっきりしていますか。 すなわち、私はバカであるとの観念を、とてもはっきりと聞くのです。 あなたは、私をバカと呼びました。 それを注意深く聞く。 あなたが完全に聞くとき、反応はありません。 イメージを創り出すのは、鋭く聞くことの欠如です。 これを理解されましたか。 仮に、私が私自身について、イメージを持っているとします。 なぜなら、私は世界中を旅してきたから、等々です。 私は私自身について、イメージを持っています。 あなたがやってきて、言います - 「いいかい、 見なさい。あなたは、他の導師や他の指導者や、誰か他の教師、 他のバカほど、良くない」と。 あなたは、あなた自身がバカ者だ、と。 私はそれを、完全に聞きます。 言われつつあることへ、完全な注意を向けます。 全的な注意があるとき、中心の形成がありません。 中心を創り出すのは、不注意だけなのです。 これを理解されましたか。
1:13:01 そういう注意を向けられるでしょうか。 理解されますか。 だらしなかった精神、 混乱し、動揺し、神経症的だった頭脳 - 実際に何にも向き合ってこなかった、 それ自体に最高の能力、すなわち全的な注意を、 一度も要求しなかった頭脳。 そして、私はバカであるとの発言へ、全的な注意があるとき、 それは全的に、その意義すべてを失ったのです。 なぜなら、注意があるとき、反応している中心は、ないからです。
1:14:10 今朝は、終了しました。明日、会合があるのだと思います。 立ち上がってもいいですか。