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OJ82T3 - 無秩序な私たちの精神は、秩序を創り出せるのか
第3回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1982年5月9日



1:22 私たちが先の日曜日、止めたところから、継続してもいいでしょうか。 私たちは、正しい種類の関係について、話していました。 私たちの関係のほとんどには、 大変多くの葛藤、闘争が、 互いへの理解の欠如などが、あります。 私たちは、よく気をつけて、それに入りました。 あなたが気になさらないなら、今日、再びそれには入らないでしょう。 それが、先の日曜日、私たちがここで会ったとき、止めたところです。 私たちは、正しい種類の関係を持つことが、いかに重要なのかを、指摘しました - 男、女、または、私たちからはるか離れた人々と、です。 なぜなら、生は関係であり、関係の中の動きであるからです。 見たところ、私たちは、関係に葛藤を持たないとの問題を、 解決することができなかったのです。 私たちは気をつけて、その問題に入りました。 今朝、私たちは、二つのことについて、話をすべきです - 秩序と恐れです。
3:24 秩序(オーダー)は、何でしょうか。 その言葉は、大変多くの意義を、持っています - 将軍からその兵士たちへの命令(オーダー)、 教団(オーダー)、聖職者の教団、 僧院の教団、自宅の秩序(オーダー)、 庭の秩序、などです。 その(オーダーという)言葉は、とてつもない意味を、持っています。 私たちは、社会に秩序(オーダー)を確立しようとしてきました - 法律により、権威により、警察官などによって、です。 社会 - そこに私たちが捕らわれているもの - は、 私たちの一人一人により、創り出されます -私たちの親たち、過去の世代たちによって、です。 その社会は、無秩序になり、混乱しています。 その社会は、ほぼ不道徳になりました。 その社会は、戦争を生み育てています。 莫大な金額が、軍備に使われています。 その社会には、分割、葛藤があるのです。 全体主義の社会があります。そして、いわゆる民主主義の社会、です。 それが、全体主義のであっても、民主主義のであっても、 やはり無秩序、混乱があり、 各個人が、他者たちに対抗して、攻撃的に自己を主張しています。 それで、全般的な無秩序が、あるのです。 その無秩序は、私たちのみんなが創り出すのです。 なぜなら、私たちは無秩序に生きるからです。 私たちの家は、無秩序になっています。 物理的な家ではなく、心理的な家が、 - すなわち、私たちの意識ですが - 乱雑になり、動揺し、壊れて、矛盾しています。
6:29 指摘してよろしければ、 これは、娯楽ではありません -知的のやその他のでも、です。 私たちは、人間の問題について、話しています。 私が再び指摘してもよろしければ、これは講義ではありません。 講義とは、一定の情報を与えるもの、 特定の主題についての講演です - 説得するとか、何かの種類の宣伝を行うことなどを、 視野に入れています。 これは、その意味で、講義ではありません。 ともに、私たちは究明しています。 私たちは、秩序と無秩序の問いを、探検しています。 私たちの精神は、無秩序になっています。 そういう精神が、秩序を創り出せるのでしょうか。 秩序をもたらせるのでしょうか。 それが、私たちが向き合うべき第一の問題です。 私たちのほとんどは、日々の生活において、混乱しています。不安定で、 矛盾し、心理的に深く傷ついています。 心理的に、他の一人との正しい関係を、何も持っていません。 その関係には、矛盾、無秩序、不調和があります。 それで、私たちの生は、たぶん、生まれた瞬間から、死ぬまで、 私たちは無秩序に生きるのです。 それに気づいているのかと、思われます。
8:57 私たちは、自らが無秩序(の状態)にあるとの事実に、 気づくとは、意識するとは、認識するとは、どういうことか、という問いに、入りました。 そもそも、その事実に気づいているのか、です。 気づいているなら、私たちは、それから逃避するのでしょうか。 解決策を探し求めたり、或る秩序の様式、秩序の設計を 受け入れて、ゆえに、特定の規準に順応するのでしょうか。 無秩序から生まれたこれらすべての心理的な動きに、 私たちは、気づいているのでしょうか。 この無秩序は、どのように訪れたのでしょうか。 数千年に数千年の後、なぜ私たちは、 心理的に無秩序に生きるのか。 ゆえに、外的に無秩序に生きるのか。 外的に私たちの無秩序は、多数の形で表現されます - 国民性、民族性として、人々の間の分割、 宗教的分割、戦争などです。
10:48 で、私たちは訊ねています。 この無秩序から自由であることは、可能でしょうか - 無秩序が終わることは、です。 ゆえに、まさに終わることこそが、秩序です。 秩序は美徳です。 秩序正しくなるために、精神を修練することは、とうていできません。 なぜなら、秩序を願望する実体、 その実体自体が、混乱の結果であり、 ゆえに、それが創り出すどんな秩序も、無秩序をもたらすにちがいないからです。 私たちが今朝、みんな真剣であることを、私は願っています。 私たちがたびたび指摘してきたように、これは深刻な事柄です。 生は、怖ろしく危険に、不安定になりつつあります。 それは現実です。 生きることの問題全体に関心を持つ、どの真剣な人物も、 これらを、問わなければなりません - 無秩序はどのように、訪れるのでしょうか。 その根は何なのでしょうか。 私たちがこの種の問いをするとき、 あなたが、問いをしているのです。 語り手が、ではありません。 あなたが、あなた自身に、それを問うていて、 この無秩序の根を、見出そうとしているのです。 それは、欲望でしょうか。 それは、思考自体のまさに本性と 構造が無秩序である、ということなのでしょうか。 すなわち、思考自体が無秩序である、と。 私たちは、その問いをしています。 無秩序は、欲望から生ずるのでしょうか。 無秩序は、まさに考える行為の中から、生ずるのでしょうか。 すなわち、思考は、無秩序の起源でしょうか。 たぶん私たちのほとんどは、そういう問いをしたことすらないのです。 私たちは、受け入れ、無秩序に生きます。 私たちは、それは私たちの状況であり、私たちはその状況を受け入れなければならない、と言います。 それで私たちは、無秩序に慣れるのです。 それを受け入れて、それを修正しようとします。 しかし、私たちはけっして、自らに問いません - なぜ私たちは無秩序に生きるのか、と。 心理的、内的に、いわば肌の中で、です。 そして、その根は、何でしょうか - 無秩序をもたらす、まさに実質は、です。 それは、欲望でしょうか。 欲望はそれ自体、矛盾しています - 一つのことをほしがり、他の何かに抵抗します。 幸せへの欲望、そして、不幸せをもたらすこと すべてを、します。 楽しみを追求します。 楽しみへの欲望。 まさにその欲望こそが、不調和を創り出します。
15:43 で、私たちは訊ねています。真剣にです - 欲望自体が、無秩序の根、本源、始まりなのでしょうか。 そのとき - そうであるなら、 私たちは、そうであるとは言っていません。 なぜなら、私たちは探究しているからです。 私たちは、この欲望のきわめて複雑な問題へ、深く入ろうとしています。 欲望は、大きなエネルギー、衝動を持っています。 とても多くのものごとへの欲望 - 権力、地位へ、 富へ、自由へ、天国へ。 幸せに、快適に生きたいとの欲望。 この欲望が、それ自体、蓄積して、意志になります。 意志は、欲望の本質です。 で私たちは、欲望が何かを、探究しなければなりません- それが、無秩序をもたらすかもしれません。 私たちは、食べ物を得たいと願望します。 それはまったく自然です。 私たちは、家、避難所を持ちたいと願望します。 それもまた、まったく自然です。 衣服を着たい。それは、まったく自然です。 しかし、心理的な欲望 - 権力、地位へ、 実際の自分であるものを越えた、何かになりたい。 何か理想主義的な状態を達成したい。 多くの種類の欲望があり、互いに矛盾し合っています。 時には、一緒に働きます。 で、私たちは、よく気をつけて、入らなければなりません - なぜかと、欲望の本源は何なのか、 それは無秩序をもたらすのか、という問いに、です。
18:51 どうか、私たちは、あなたに、欲望が何であるかを、語っていません。 すると、それにあなたは同意か不同意をします。 私たちはともに会話を行っています。 私たちは、二人の友だちとして、 欲望のきわめて複雑な問題について、一緒に話し合っているのです。 で、あなたは探究しています。語り手が、ではない。 語り手はただ、あなたが行っている探究を、 言語化し、言葉に表しているだけです。 もし、あなたの頭脳が活動的でなく、 言われていることを、単に聞いているだけなら、 そのとき、それは言語的な疎通です -それはほとんど意味がありません。 説明は現実ではありません。 私たちがその詳細に入るにつれて、語り手は、よく気をつけて説明するかもしれません。 しかし、それら説明は、言語的であり、何の意味もありません。 しかし、言語的な説明は、あなた自身の発見の手段です - それを、語り手は言葉に表しているのです。 これが完璧に明らかであってほしいと、願っています - すなわち、語り手は、一定の観念、一定の結論を伝えていないこと、 むしろ、ともに私たちは、欲望の動き全体、 その本性、その内面性、欲望の始まり、起源を、 観察しているのです。
21:25 世界中のすべての宗教 - 組織化された宗教、受け入れられた、権威主義的、正統的な宗教 - では、 彼らはみんな、言ってきました - 欲望を抑圧しなさい、または、変更しなさい、 あなたの欲望を、大いなるものと同一視しなさい、と。 救い主であるものと、 達成したい何かであるものと、 あなた自身を同一視しなさい、と。 それで次第に、どの矛盾した官能的な欲望をも、抑圧します。 これが、すべての宗教の命令でした。 修道院・僧院は、それに基づいています。 修道士たちは、それを追求します。 アジアの僧侶たち、 サンニャーシたちは、それを彼らなりのやり方で、行います。 で、欲望は、非難されてきました。 私たちは、それを非難していません。 私たちは、それは抑圧や変更されなければならない、とか、 弄ばなければならないとか、言っていません。 私たちはともに、このとても複雑な問題に、入ろうとしています。 動機なく観察しています。それが核心です -動機なく、 ただ、欲望は何なのかを、です。 それは、商業的にも、心理的にも、 私たちのほとんどを、駆り立てます。 どうか、私がそれについて考え出し、説明するのを、待たないでください - あなたが、真剣であり、これに入ろうとしているなら、です。 なぜなら、私たちは、できるなら、見出さなくてはならないからです - 秩序ある、全うで、理性的で、聖なる生を、生きることが、可能なのかどうかを、です。 この葛藤の、破壊的、好戦的な生存ではなくて、です。 で、欲望は何でしょうか。 なぜそれは、私たちの生において、こんなに甚大な力を、持つのでしょうか。 私たちが言いましたように、秩序は美徳です。 美徳を持とうとすることは、欲望です。 確立された価値を持つことは、一つの形の欲望です。 あなたは、価値、様式、観念などを、持っているかもしれません。 しかし、欲望のまさに動きを理解しないのなら - それが矛盾しているのか、それが無秩序の起源であるのかを、です。 私たちは、欲望は何なのかを、きわめて深く深く探究しなければなりません。 欲望は、感受の中から生まれないでしょうか。 感覚的応答は、欲望の一部です。 感受。 すなわち、観察をとおして、 眼の知覚、見ることをとおして、です。 そのとき接触、そのとき感受です。いいですね? すてきな庭のついた美しい住宅を、見ます。 まさにその見ることにより、感受がもたされるのです。 その感受から、あの住宅を所有したいとの欲望です。ですね? すなわち、見る、 そのとき、接触、 そのとき、その物理的接触から、感受です。 これは明白です。ですね?そこから進んでもいいですか。 あなたは、すてきな、見目の良い女、または男を、見ます - 特に、この国では広告されているように、です。 まさに見ることが、あります。 そのとき、接触。そのとき、感受。そのとき - どうか、気をつけて、あなた自身を見守ってください。そのとき、思考がイメージを創り出す。 思考がイメージを創り出すとき、そのとき欲望が生じます。 ですね? すなわち、お店のウインドウに、シャツやローブが見える。 中に入っていき、素材に触れる。 そのとき、それの接触こそが、感受を創り出す。 そのとき思考は、「なんてすてきだ。あのシャツやローブは、私に似合うだろう」と言う。 その瞬間に、欲望が始まります。 理解されましたか。
29:05 これをはっきりと理解されましたか - すなわち、感受があるとき、思考は、 そのイメージでもって、欲望を創り出すのです。 いいですか? 私たちは、ともにここにいますか。 これが明らかであるなら - どうか、語り手が言っていることを、受け入れないでください。 それは全然間違っているかもしれません。 気をつけて、この欲望の動きを、見てください。 それで、あなた自身が、欲望の本性全体を、 発見するように、です - それがどのように始まるのか、 欲望への修練は、まさに混乱、無秩序の 行為でないのかどうかを、です。 これらを理解されますか。 なぜなら、ここには、欲望を制御する実体が、あるからです - 欲望から分離した実体が、です。 欲望自体が、観察者ではないでしょうか - 自らが観察するものを、変化させたいと願う観察者です。 あなたはこれらが見えるのかと、思われます。 これを続けてもいいですか。 どうか、私を見つめないでください。 それは重要ではないのです。 あなた自身で、欲望の始まりの実際を、見出してください。 欲望への修練の仕方ではない -私たちは、まもなくそれに来るでしょう。 私たちはただ、欲望の動き全体を、観察しています - 見る、接触、そのとき、感受、 そのとき、思考がイメージを創り出す。 それが、欲望の始まりです。 私は、あなたの美しいシャツを、見ます -良い素材、上手な仕立て。 そのとき、それに触れるのを許してもらえるなら、 私の感覚的応答の中から、一定の感受があります。 そのとき、私はそのシャツが欲しい。 思考は、言います - 「あのシャツは、私にどんなにすてきに似合うだろうか」と。 思考が、あのシャツを着た私のイメージを、創り出す - それが、欲望の始まりです。明らかですか?
33:04 さて、問いは、もしそうであるなら -論理的にそうです。 それを論駁する余地は、ありえません。 それは事実です。なぜなら、語り手がそう言うからではない。そうなのです。 それを観察するなら、それは動きです。 そのとき、問いが生じます - なぜ思考は、感受に干渉するのでしょうか。 付いてきていますか。 私は、あなたがすばらしい車を持っているのを、見ます - きっと確かに、それは、あなたたちみんなに訴えかけるだろうと、思います。 大いに磨き上げられた車です。 通り過ぎていくとき、道路にそれが見えます -それを見つめる。回ってみる。触れてみる。 その中から、その感受があります。 そのときあなたは、自分が車に座って運転しているのを、想像します。 そのとき、想像は、欲望の行為です。 ですね?これは明らかですか。 さて、問いはこうです - 思考が、その想像でもって干渉しないことは、可能でしょうか。 あの車を見る - 感受。 そして、思考が、あなたがそれに乗っているイメージを、創り出さない。 理解できますか。それには、強烈な鋭敏さ、見守りが必要とされます。 で、欲望を制御する修練、規律は、何もないのです。 反対に、 欲望への智恵ある観察は、 それ自体、精神を欲望の切迫から 解き放つ行為です。
35:30 これらを理解されることを、願っています。 なぜなら、私たちは、何かはるかに複雑なことについて、話をしなくてはいけないからです。 もしこれが理解されるなら、 私たちはさらに訊ねるべきです -恐れは何でしょうか。 恐れの起源は、何でしょうか。 精神は、心理的な状態は、 いったい全的に、完全に、恐れから自由でありうるのでしょうか。 それは可能であるとか可能でないとか、言うのではない。 もしあなたが、どちらか一つを言うなら、 それは、あなた自身の探究状態を、条件づけます。 しかし、智恵ある要求があるならば - すなわち、一人の人間の精神、心理、意識は、 いったい完全に、自由でありうるかどうかです。部分的に、ではありません。 或る日、恐れから自由であり、次の日、恐れに満ちるのではなく、 恐れの動き全部、 意識的なのとともに、深く根づいた恐れも、です - 人間精神は、すっかりそれから自由であることは、可能でしょうか。 なぜなら、恐れは、無秩序の要因の一つであるからです - 欲望だけでなく、恐れも、です。 ほとんどの人間たちは、恐れています。 物理的な恐れ、または、心理的な複雑な恐れ、です。 充足しないことの恐れ、ならないことの恐れ、 関係における恐れ、 職がないことの恐れ - 特に今、この国では、です。 失業した一千万の人たちが、います。 暗闇の恐れ、死の恐れ、まさに生きる行為こその恐れ。 きわめて多くの形の恐れが、あります。 当然に、恐れを、恐れの状態を観察すると、 それに入って行くと、恐れがどのように無秩序を創り出すかが、見られます - 安全であることの恐れ、安全でないことの恐れ、 過去の恐れ、現在の恐れ、 未来の恐れ。私たちはみな、それを知っています。 私たちのほとんどは、或る種の恐れを経験してきました - 切実に、きわめて深く、または、表面的に、です。 恐れているとき、 心理の状態全体が、こわばり、緊張します。 それらはご存じです。 恐れがあるところ、 闇がある。その闇からの逃避がある。 そのとき、恐れ自体より、逃避のほうが、はるかに重要になります。 しかし、恐れはいつも、残っています。
40:04 それで、訊ねます - なぜ人間たちは、 この地上に、数百万年間、生きてきて、 テクノロジーの智恵はあるのに、 なぜ彼らは、このきわめて複雑な恐れの問題から自由になるために、 智恵を適用してこなかったのでしょうか。 それは、戦争の、互いを殺し合うことの理由の一つであるかもしれません。 世界中の宗教は、問題を解決してきませんでした - 導師たちも、救い主も、理想も、です。 で、これがきわめて明らかであるなら、外側のどの機関も、 どれほど高尚になり、どれほど宣伝により流行しようとも、 外側のどの機関も、この人間の恐れの問題を、とうてい解決できません。
41:36 で、私たちは見出さなければなりません -もう一度、繰り返していいならば、 あなたが探究しています。あなたが究明しています。 あなたが、恐れの問題全体を掘り下げています。 語り手は、ただ説明するかもしれません。 しかし、説明は何の価値もありません - あなた自身が、この問いに深く入らないのならば、です。 おそらく私たちは、恐れの様式を受け入れてきたので、 そのため、私たちはそれから去ることさえ、望まないのです。 で、恐れは何でしょうか。 恐れをもたらすのに寄与する要因は、何でしょうか。 多くの小さな流れ、小川が、 ものすごい川の水量を作るように、 恐れをもたらす小さな流れ - すなわち、こういうものすごい恐れの活力を持つものは、何でしょうか。 恐れの原因の一つは、比較でしょうか。 自分自身を、他の誰かと比較する -心理的に、です。 明白にそうです。 で、あなた自身を誰とも比較せず、生を生きることは、できるでしょうか。 理解できますか。 あなたが自分自身を、他の一人と比較するとき - 思想的、心理的、または、物理的にも、です - それになろうとする奮闘が、ある。 そして、そうならないかもしれない恐れが、あるのです。 それは、充足したいとの欲望ですが、あなたは充足できないかもしれません。 理解できますか。比較があるところ、恐れがあるにちがいないのです。
44:50 で、探究します、訊ねます - 唯一つの比較もなく、生きることは、可能なのかどうか、です。 けっして比較しない。 あなたが美しくても、醜くても、身体的に色白、金髪であってもなくても、 心理的にあなた自身を、何かの理想、 何かの価値の様式に、近似させる - この常なる比較が、起こっています。 私たちは、訊ねています - それは、恐れの原因の一つでしょうか。 明白にそうです。 比較があるところ、順応があるにちがいない。 模倣があるにちがいない - 内的に、です。 で、私たちは訊ねています。比較、順応、模倣 - それらは、恐れに寄与する原因でしょうか。 心理的に、比較、模倣、順応することなく、 生きられるでしょうか。 明白に、生きられます。 それらが、恐れに寄与する要因であり、 あなたが、恐れが終わることへ関心があるなら、 そのとき、内的に比較はありません。 それは、なっていくことがない、という意味です。 ですね?比較に付随する・・・ まさに比較の意味こそが、あれになることです - あなたが、より良い、より高い、より尊いなどと考えるものに、です。 で、比較、模倣、順応は - すなわち、なっていくことです - それは、恐れの要因の一つ、または、まさしく要因でしょうか。 私たちは、そうであるとは言っていません。 あなたが自分自身で、発見しなくてはいけません。 そのとき、それらが要因であるなら、 精神は、それら要因が、恐れをもたらす要因として見えているなら、 それらのまさに知覚こそが、寄与する原因を、終わらせます。 原因があるところ、終わりがある。 これを理解なさることを、願っています。 腹痛を起こす原因が、物理的にあるならば、 その腹痛が終わることが、あるのです - 痛みの原因が何かを発見することによって、です。 同様に、原因があるところ、その原因が終わることがあるのです。
49:04 そして、時は、恐れの要因でしょうか。 すなわち、物事や事件や出来事のそれとしての時 - すなわち、過去に起きてきたことや、 未来に起きるかもしれないことと、現在のそれとして。 時は動きです - 物理的にここから、あそこへ、 一つの点から、もう一つの点へ。 一つの点からもう一つの点への動きには、時が必要とされます。 言語を学ぶには、時が必要とされます。 どの形の技術を学ぶにも、時が必要とされます。 しかし、私たちが、未来について、何が起こるかもしれないと考えるとき - 私は職を持っているが、それを失うかもしれない。 妻が逃げてしまい、私より去るかもしれない。 未来、です。 で、時は - 私たちは、物理的な時について、話していません。 日の出、日の入り、 時計の動き、年代順の時間ではなく、 私たちは、心理的な時間について、話しています - 私はこうである、私はああなるだろう、私はそうならないかもしれない、と。 で、時は恐れの要因でしょうか。 それは、時をどう止めるのかではない。 時は止められません。 初めにそれを観察する -私たちはそれに入るでしょう。 初めに、事実を観察します - すなわち、恐れの要因の一つは時である、ということを、です。 私は、死を恐れている、としましょう -それは未来にあります。 で、時は、恐れの要因でしょうか。 明白にそうです。 それなら、思考は恐れの要因でしょうか。 これらを理解されますか。 私たちは、恐れに寄与する原因が様々にあると、言いました。 比較、模倣、同一視、 そして、何か他のものになるこの行為 - 私はこうだ、私はああならなければならない。 私はずっと、ああなれないかもしれない、と。 時は、恐れの動きの中の要因でしょうか。 明白にそうです。 今、生きることと、死ぬこととの間に、距離があります。 この点からあの点への距離。 この点からあの点へ動くことは、恐れです。 ですね?時は恐れです。
53:33 で、次に私たちは訊ねています -思考は恐れでしょうか。 見出すことは、とても重要です。 思考は、恐れの根でしょうか。 時は、恐れの根です - 明白です。 比較などと同じように、です。 思考もまた、恐れの根でしょうか。 で、時と思考 - それらは、一緒にないのでしょうか。 これらに付いてきていますか。 これは、あまりに錯綜しつつありますか。 あなたは、疲れつつありますか。 それは、あなたしだいです。 私たちはあなたに、何をも説得しようとしていません。 私たちは、あなたに、語り手へ付いてくるよう、頼もうとしていません。 語り手はあなたです。 語り手はただ、恐れの本性を指摘しているだけです。 あなた自身でそれが見えないのなら、あなたの精神が、鈍いのか。 なぜなら、あなたは、昨夜、あまりに酒を飲みすぎた、あまりにタバコを吸いすぎた、 様々な形の娯楽 - 性的やその他の - に耽溺したからです。 それで、あなたの精神、能力、エネルギーが欠けている。 ゆえに、あなたは聞くだけでしょう - 生に影響しない 一つの形の言語的な娯楽として、です。 しかし、あなたが真剣なら、あなたの頭脳が活動的なら - ただロマンチックに、樹々を眺めているだけ、 そして、そうね、言葉を弄んでいるだけでなく、 もしあなたが、見出したいと本当に要求しているなら、 そのとき、専注しなければなりません! 専注は、それを実際に今、見つめることを、意味しています。 樹々の下、ここに静かに座っていて、たぶんあなたは、恐れていないかもしれません。 しかし、恐れは無意識的に、深く続いています。 あなたが今、それに気づいていても、いなくても、です。
56:33 それで、私たちは言ってきました -時、なりゆくこと、 比較が、その意味合いすべてとともに、 恐れの要因である、と。 私たちは今、訊ねています -思考自体が、要因の一つでないのか、 または、おそらく恐れのまさしく主な要因でないのか、と。 そのとき思考は、何でしょうか。 思考は比較します。思考は模倣します。 思考は、「私はこうだ。私はああならなければならない」と言います - 「私は充足しなければ、私は自己を同一視しなければ、私は何かにならなければならない」と。 それはすべて、思考の動きです。 思考自体が、無秩序なのかもしれません。 私たちは探究しています。どうか、それへ入ろうとしています。 私たちは、否定していません - 思考は制御されなければならないと、指摘しようとしていません。 思考はたぶん恐れの主な要因なのかもしれないことを、見てください。 私は昨年、健康だった。私は今年、そうではない。 だが、来年、完璧な健康になりたいと、願う。 その動きの中には、昨年の痛みについて考えることが、ある。 未来にこうならないよう願うのは、恐れの動きです - 思考です。 ですね?で、思考は何でしょうか。 思考はそもそも止まり、自然のなりゆきに任せられるのか、ではない。 私たちは、思考が何か、考えるとは何かを、探究しています。 そこにもまた、幾つもの要因があります。 ただ単純に見つめてください。 あなたは、自分の名前を訊かれるとき、即時に応答します。なぜでしょう。 あなたは自分の名前を、たびたび繰り返してきたから、 それについて、考えることがありません。 あなたは、一時はそれについて、考えたかもしれません。 しかし、名前の常なる反復は、考えることなしです。 あなたは、複雑な問いをされるなら、 探求しています。思考が、至る所を見ていて、 探究しています - ついに、答えを見つけるまで、です。 あなたは、きわめて複雑な問いとか、 一度も考えたことがない問いを、されるとき、 「私は知らない」と言います。ですね? ほとんどの人々は、「私は知らない」と言いません。 理解できますか。 それには、大きな謙虚さの感覚が、必要とされます - 知らないには。 私たちは、いつか他の時、それに入るでしょう。 それは今、重要ではありません。
1:00:39 で、考えるとは、何でしょうか。 思考は、とてつもない美しい絵、絵画を、創り出してきました。 石から、何か絶妙なものを、創り出してきました - ミケランジェロのピエタ(悲しみの聖母)、大聖堂。 またそれは、潜水艦、ミサイル、原子爆弾をも、創り出してきました。 思考は、戦争、国民性、民族性を、創り出してきました。 思考は、儀式すべてを創り出してきました -宗教的な儀式を、です。 思考は、救い主を創案してきました - ヒンドゥーの救い主でも、キリスト教の救い主でも、です。 で、思考は、最もとてつもないことを、行ってきました。 コンピューターは、人間の頭脳に取って代わるかもしれませんが、 コンピューターがそうして、すべてをやるとき、あなたの頭脳に何が起ころうとしているのでしょうか。 それもまた、異なった事柄です。
1:02:16 で、私たちは、見出さなければなりません -考えるとは何か、 思考自体が、無秩序と恐れの本源かもしれないのかどうか、です。 私たちは、思考に対して、とてつもない重要性を与えます - 知識人に対し、科学者に対し、 すばらしいテクノロジーのものを創造する人たちに対して、です。 しかし、これらを創案、発明してきた、まさにそれらの人々、 偉大な科学者は、彼ら自身が無秩序に生きています。 彼らはとうてい、探究したことがないのです - なぜ思考は、こういうとてつもなく重要な場所を、与えられるのか。 思考は、それ自体、無秩序と恐れの本源なのかもしれません。 私たちは、探究しようとしています。 あなたが、探究しようとしています -語り手が、ではありません。 彼は説明するかもしれません - 私はこれを、何度も何度も、繰り返さなければなりません。 彼は繰り返すかもしれません。 しかし、あなた自身が専注しないなら、それに入らないなら、 あなたがそこに座り、語り手から聞いていることは、まったく無意味です。 それは、時間とあなたのエネルギーのむだです。 古(いにしえ)の日々から、人は、事故、感受、 危険、楽しみを、経験してきました。 この経験は、知識を残してきました。 彼はその経験から、知識を導出します。 その知識は、頭脳の中に、記憶として蓄えられます。 その記憶から、思考が生じます。ですね? で、思考は制限されています。 なぜなら、経験は制限されていて、 知識は制限されているからです。 で、思考は制限されています。 思考は、物質的、質料的な過程です。 なぜなら、経験は、物質的、質料的な過程であるからです。 車で事故がある。 その経験は、憶えられます -それが知識です。 それを思い出すことは、痛みです -それが、思考です。 ですね? で、思考は動きです。 経験から、知識、記憶、思考です。 またもや誰も、その事実を論駁する余地は、ありえません。 あなたは、経験を持たないなら、知識、記憶を持たないなら、 そのとき、考えていません。あなたはただ、記憶喪失の状態にいるだけです。 しかし、私たちは、考える人間である、と思われています。
1:06:32 で、知識はいつも制限されています -何についても、です。 そのとおりです。 思考は、大聖堂の中、教会の中の物事、儀式を、創り出してきました。 それから思考は、それらを崇拝します。 これらに付いてきていますか。 思考は、宗教的活動と呼ばれることすべてを、創り出してきました。 思考が、それを創案してきました。 それから思考は、「あなたはそれを崇拝しなければならない」と言います。 で、訊ねます - 思考はけっして神聖ではない。 それはけっして神聖ではありえない。 しかし私たちは、一定の思考の物事を、神聖にしてきました。 神が思考の創案であるように、です。 あなたがこれを気に入らないのは、知っています。しかし、そうなのです。
1:08:05 で、思考は、恐れの始まり、本源でしょうか。 未来について、考える。私が持っていない何か幸せについて、考える。 死について考える。 私は、ああなるかも、麻痺やその他すべてになるかも、癌になるかもしれないと、考える。 で、思考、時は、同じです。 時と思考は同じです。 これらに寄与する原因は、思考です。 さて、そのとき問いは、こうです - もし思考が、恐れすべての本源であり、 ゆえに、無秩序すべての本源であるなら、 もし思考が、無秩序、恐れの本源であるなら、 そのとき、何をすべきでしょうか。 あなたは、考えることを止められません。 考えることには、その持ち場があります。 あなたは、ここを去るとき、自宅に行きます。 ここからそこへの動きは、時と思考の行為です。 思考と知識は必要です - あなたが、手紙を書いていたり、 言語を話していたり、車を運転しているとき、どのテクノロジーの事柄も、です。 思考と知識は、絶対的に必要です。 しかし、私たちは訊ねています - 精神・心理について、あなた自身についての知識の蓄積、 その知識から考えること -それは、必要でしょうか。 この質問を理解できますか。 どうか、あなたの思考を少し、注意を少し、向けてください。 心理的な出来事を記録することは、必要でしょうか。 侮辱、お世辞、傷、 あなたの意識の内容、 すなわち、民族性、恐れ、信念、信条、儀式、習慣。 そうね、あなたの意識の内容です。 それが精神・心理です。それがあなたです。
1:11:45 心理的な記録が無いことは、ありうるでしょうか。 どうか、あなた自身に、この質問をしてください。 おそらくあなたは、それを一度も訊ねたことが、ないでしょう。なぜなら、私たちは記録するからです。 あなたは、侮辱を記録します。 お世辞を記録します。 子どもの頃から受けてきた傷を、記録します。 あなたは、自らの楽しめる活動を、記録します。 自らの恐れを、記録します。 それで、頭脳が、必要なことを記録することは、可能でしょうか - すなわち、言語を学ぶ、ビジネスをする、 良い大工、エンジニアなどである。 そこでは、あらゆることを、きわめてはっきりと、科学的になど、 記録しなければなりません。 しかし、心理的な出来事を記録することは、必要でしょうか。 - 理解できますか - すなわち、心理的な重荷を生涯、 心理的な問題を生涯、持ち運ぶことは、です。 葛藤、悲惨、 混乱、苦悩、さびしさ、絶望。 そのすべてを、持ち運ぶことは、必要でしょうか -それらは、思考の活動です。 それを見出す - 心理的にまったく記録しないことが可能なのかどうか、です。 それは、問題を何も持たないことを、意味しています。理解されますか。 恐れは、私たちにとって問題です。 秩序は、私たちにとって問題です。 何ものかでないことは、私たちにとって問題です。 私たちの生は、諸問題の束です - 心身でも、物理的、心理的にも、 全部が、生きることが、私たちにとって問題です。 すなわち、あらゆることを、記録する - 楽しみ、痛み、さびしさ、恐れなどを、です。 私たちは訊ねています - 頭脳は、恐れの出来事を記録しないことができるでしょうか。 すなわち、恐れの様式全体に気づくのです。 その様式は、私たちが指摘したように、とても複雑です。 それは、とても複雑で、錯綜しています。 それを、きわめて微妙に、仮初めに、敏感に、観察しなくてはいけません。
1:15:35 そのとき、あなたが気をつけて、観察するなら、 観察者は、彼が観察するものより、異なっているのでしょうか。 彼が観察するものは、彼自身です。 観察者は、観察されるものです。 観察者と観察されるものとの間に分割があるところ、 葛藤があるのです。 さて、観察者は、過去の知識の蓄積であり、 それが、現在の恐れを観察していますが、 分割がある。 そのとき、過去が、現在を乗り越えよう、制御しようとします。 ところが、観察されるものは、観察者です。 それが絶対的に明らかであるとき、葛藤は終止します。 ゆえに、「私」としての恐れの観察があるところ - 私は恐れです。明白です - 私と恐れとの間に、分割はないのです。 私は全的に恐れです。 恐れでない私の部分がある、ということではない。私はそれです。 それへの全的な知覚があるとき - それは、それへあなたの全エネルギーを注ぐ、という意味です - 恐れの完全な終止が、あるのです。 心理的な恐れの全的な終わりが、あるのです - 完全に、です。一日間ではありません。 しかし、終わったものには、新しい始まりがあるのです。
1:17:36 ですね? もう、立ち上がっていいですか。