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OJ82T4 - 人間の葛藤の原因は、何なのか
第4回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1982年5月9日



1:06 昨日、止めたところから、継続してもいいですか。 私たちは、無秩序と、無秩序の原因と、 恐れのとても有害な、破壊的な本性について、 話していました。 私たちは昨日、よく気をつけて、一歩一歩それに入りました。 そして、心理的に恐れの重荷から全的に 自由であることは、可能なのかどうか、です。 私たちはまた、葛藤の主題にも、わずかに触れました - 人間の葛藤、抗争です。 私が提案してもよろしければ、これは、娯楽ではありません。 他にもっと良いすることがないからという、 日曜日のお出かけではありません。 またそれは、知的に面白いことでもありません。 生は、きわめて深刻になりました - いつも、そうであったように、です。 まわりで起きていることすべてに、十分応答しなくてはいけない、 という意味で、深刻です。 怖ろしい戦争が起きています。 宗教的な分割、 特有の娯楽をともった様々な種類の導師。 これは、真剣な集会なので - そう願っています - 自らの頭脳、自らの能力、自らのエネルギーを使うことが、 かなり必要になるのです。 他の人たちにより、または、これら講話により、刺激されるのでなく、 むしろ、私たちは、人間の諸事の現在の状態を、 ともに検討しているので、 この集会が、講義として扱われるべきでないことが、 必要になるのです。 講義とは、情報を与えるためや議論を行うためです - 観念、一定の判定と評価を、伝達するのです。 で、これは講義ではありません。 私たちがここで、何度も何度も指摘してきたように、です。 語り手は単に、鏡として行為しています。 そこには、自らの状況が、見られます - 自らの恐れ、心配、さびしさと、 生の苦悩が、時折の喜びの揺らめきとともに、です。
5:55 で、私たちは、昨日の朝、 恐れ、無秩序について、話をしました。 先の朝に私たちは、人間たちがいかに 子どもの頃から傷ついているのかと、 その傷が生涯、持ち運ばれていくのかと、 これらすべての傷から自由であることが可能であることについて、話をしました。 私たちはまた、関係について話をしました -人間の関係です。 なぜその関係には、こんなに多くの葛藤があるのか、 これらすべての事態にだけでなく、本質的に深く 葛藤なく生を生きることは、可能なのか、です。
7:08 なぜ人間たちは、数千、数万年の後、 一方向、テクノロジーの方向では、驚くほど智恵があるのに、 なぜ人間たちは、その智恵の性質を、 自らの生に適用して、 葛藤なく生きることは可能なのかどうかを、見ないのでしょうか。 人間の葛藤の原因は、何でしょうか。 なぜ日々の生を・・・関係において、行為において、 なぜ、そういう葛藤、闘争、そういう痛みが、あるのでしょうか。 どうか、私たちが指摘しましたように、あなたが、この問いをしています。語り手が、ではない。 語り手は、自らの精神の状態を、自らの生の状態を、 言葉に表しているだけです - 甚大な矛盾。一つのことを言って、別のことをする。 一つのことを考えて、まったく違ったように行為する。 なぜ人間たちは、こんなに多くの世紀の後、 ほぼ何についても、外的に情報を取得してきて、 内的、心理的に彼らは、 自らの問題、自らの苦労、自らの心配、痛み、嘆きを 究明したことがないのです。 それは、私たちがいつも、権威を、何をすべきかを言ってくれる誰かを、 頼りにしてきた、ということなのでしょうか。 観察してきたところ、この国には、 様々な種類の専門家が、います -宗教、心理学などの、です。 彼らは、何をすべきか、何を考えるべきかを、私たちに語っています。 私たちは次第に、彼らに依存しようとしています。 それで、自らの能力、 自らの本来のエネルギーと智恵を、失おうとしています - 私たちの葛藤、闘争、痛みなどの原因を探検し、 発見するための(能力など)を、です。
10:53 今朝、私たちはともに、葛藤の原因について、話し合うべきです。 様々な種類の葛藤が、あります -内的なのと外的なのです。 内的な葛藤は、外的な葛藤、抗争に表現されます。 私たち、人間たちが、秩序ある生、 全うで理性的で健康で聖なる生を、生きないのなら、 秩序ある社会は、ありえません。 それで私たちは、ともに考えるべきです - なぜ私たちはみんな、このように、今あるものに、なったのか、です。
12:09 以前の講話で指摘してきたように、 私たちの意識は、その内容とともに - 内容とは、傷、信念、 結論、判定、評価、 恐れ、楽しみ、 様々な種類の取得したがる執着、 死の恐れ、そして、普通の生の出来事を越えた何かを探し求めることです。 それが、私たちの意識の内容です。 それが、私たちなるものです。 私たちは、または「私」は、内容より異なっていません。 これは明らかにされるべきだと、私は思います。 自らは分析に条件づけられている、ということかもしれません。 私たちは、なぜ自分たち、人間が、今の私たちのように生きるかを、見出したいのです。 それで私たちは、分析しはじめます。 この不幸で厄介な生存の 様々な原因を、発見しようとします。 しかし私たちは、誰が分析者と分析されるものなのかを、一度も探究したことがありません。 分析者は、分析されるものより、異なっているのでしょうか。 分析者は単に言語的に、原因を見つけられ、 それから分析者が、原因を消失させられるでしょうか。 私たちは、幾千年もの間、これをやってきました。 私たちは、諸々の原因を知っています。 ほとんどの智恵ある人たち、ほとんどの、自らの騒動に気づいている人たちは、 分析をとおして、たやすく一つの原因や幾つもの原因を、見出せます。
15:17 それで私たちは、分析者、すなわち、 自分自身の意識を究明しているものを、分離してきたのです。 これが明らかであることを、願っています。 私の意識と、あなたのは、その内容です。 内容なしには、私たちが知っているような意識は、ありません。 自らの意識の内容を、究明したい。見たい。 なぜその意識は、葛藤に、矛盾になっているかを、 見出したいのです。 それで、検討されつつあるものから、自己を分離するのです。 どうか、そうしたいなら、少し、これに付いてきてください。 思考は、それ自体を、分析者として、分離します。 その分析者は、その混乱、その騒動、そのさびしさ、 その絶望を、検討しよう、分析しようとします。 それから、原因を発見しはじめます。 それから彼は、原因を消失させようとします。 それにより、原因の結果を、拭い去りたいと願います。 で、この分割があるのです -分析者と分析されるものとして、です。 ゆえに、どこでも自己に心理的な分割があるところ、 葛藤があるにちがいないのです。 これは法則です。重力のように、です。 すなわち、どこでも内的に、矛盾、分割が あるところ - 分析者と分析されるものとの分離、 観察者と観察されるものとして、です - 葛藤があるにちがいないのです。 〔例えば〕アラブ人とユダヤ人、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒のように、 資本主義社会と、全体主義社会の 思想的な違いのように、です。 葛藤があるにちがいないのです。 その葛藤は、この分割をもたらします。 全体的でないとの感じ、 健全でないとの感じを、もたらします。 なぜなら、私たちには、自分たち自身には、分割があるからです。
19:01 で、知的にではなく実際に、事実を 悟ること、見ることは、可能でしょうか。 痛みの事実が見えるように、 歯痛のこの痛みがあるように、 実際に、悟り、感じ、知覚するのです - すなわち、心理的な分割があるところ、 必然的に、論理的に、葛藤があるにちがいない、ということを、です。 この葛藤は、健全(全体的)であるとの感じを、拒否します。 すなわち、健全(全体的)だとの感じは、誤りからの自由です。 誤る - 「誤り」という言葉を、理解されますね。 で、健全に感じること、全体的であるとの感じは、 今の私たちのように、内的に断片化していない、砕けていない、という意味です。 すなわち、すべての問題、心理的な問題は、相互に関係し合っています。 傷、秩序の欠如、無秩序、 関係での葛藤。 これらすべての問題は、相互に関係し合っています。 私たちはそれらを、分離したものと扱います。 そして、すべての問題、心理的な問題は、何であろうと 相互に関係し合っていることを、 論理的に、真実に知覚することや見ること - 一つの問題を、他の諸問題より分離して、取り出すことはできません。 そして、これを知覚する - 問題全体の感じが、一つの問題です。 問題(プロブレム)とは、辞書によれば、何か投げつけられたものを、意味しています。 それが、問題(プロブレム、という言葉)の意味です。 何か投げつけられたもの。すなわち、挑戦です。 それが、その言葉の意味です。 問題(プロブレム)とはそれです。 それは挑戦です。あなたの前に置かれたものです。 あなたはそれに、正しく出会わなくてはいけません。 しかし、私たちはあらゆる問題に、まるでそれが分離しているかのように、出会います - 他の諸問題に無関係の、解消されるべきものとして、です。私たちが生においてやるように、です。 宗教は - 今あるようなそれは、まったく宗教ではありません - あなたの知的な、テクノロジー的な生から分離しています。 あなたは、偉大な外科医であれば、自らの日常生活に、自らが内的に何なのかに、 関心を持ちません。あなたは、自らの技術に、自らの手術方法などに、 関心を持っています。
23:35 で、私たちは、外的にも内的にも、断片化の感覚をもって、 生を生きるのです。 それは、私たちがけっして生の全体性を感じない、という意味です。 その生は、動きです。 あなたの生と、他の人々の生ではない。 全体としての生は、一つです。 それは、アメリカ人の生やインド人の生、 仏教徒の生やイスラム教徒の生ではない。 それは生です - この地上で、全うに、理性的に生きられるべきものです。 国家、民族として分割されるのでない -それ(国家など)は、観念への部族的な崇敬です。 それが、南大西洋(フォークランド諸島)で起きていることです - 起きているこの部族的な戦争です。
24:54 で、私たちはみんな、安全でありたいのです。 それは自然です。 物理的に、私たちは安全でありたい。 家、避難所、衣服、食べ物がほしい。 それは、自然で、健康的で、全うで、理性的です - 裕福な人々にとってだけではなく、私たちみんなにとって、です。 世界中には、大変多くの貧困が、あります。 この国にさえも、です。 この貧困、 世界の全体へのこの関係の欠如は、 民族、国家の分割、宗教的な分割、 経済的な分割により、引き起こされます。 地球的な関係の感情が、ないのです。 どうか、これらを聞いてください。 私たちがこの地球的な関係を持たないのなら、 私たちの外的な諸問題は、けっして解決されないでしょう。けっして、です。 そういうわけで、気をつけて理解することが、重要なのです - 私たちの意識は、すべての信念、教義、判断、 さびしさ、絶望、心配、恐れ、傷とともに、 人類すべてに共通しています - 人類すべてに、です。 彼らがロシア、シナやこの国に生活していても、です。 それは人類すべてに共通しているから、あなたは人類です。 あなたは、分離した個人ではない。 これを悟るのは、むずかしい。 なぜなら、あなたは苦しむからです。 極東の人もそうなのです。 そこでは人は、不安定で、混乱し、踏みにじられています。 ここのあなたも、です。あなたは混乱し、不安定で、安全、安心を探し求めています。 これは、人間すべての問題です。 それで、その事実を悟る、見ることは、難しい。 なぜなら、私たちは、あまりに個人性に条件づけられていて、 自分たちが残り(の人たち)と似ているという実際の事実が、見えないからです - 私たちは人類です。私たちは人類の全体です。 ゆえにそのとき、私たちの行為は、地球的な関係になるでしょう。 その中で、民族的、国家的分割、宗教的分割は、存在しないのです。
28:37 で、私たちは今朝、考慮すべきです - 人間精神が安全であること、誤りからの安全が、可能かどうかを、です。 質問を理解できますか。 人間たちは、安全を探し求めてきました。 家族、集団、共同体、民族性などをとおして、 物理的にだけでなく、 また、観念に、集団的な観念、集合的な集団に、安全、安心を見つけようとします - 同じ結論、同じ信念、 同じ辺境(フロンティア)を持つことに、です。 人は孤立に、自らの安全を、探し求めてきました。 それは、あなたが、私たちの一人一人がやっていることです。 私たちは、残りの人類から分離して、自分たち自身で安全でいたいのです。 「安全」とは、全体性の、健全であるとのこの感じを持つことを、意味しています。 そのときあなたは、完全に安全です。 しかし、断片化の感覚があるなら、 あなたは、健全ではありえません。 または、総体の完全性のとてつもない感じを、持てません。 さて、語り手からのこの発言は、虚偽かもしれません。 疑い、問わなければなりません。 それは、彼自身の特有の創案や幻想なのかもしれません。 しかし、それを聞いたので、健全(全体的)であり、ゆえに安全である生を、 生きることが、可能なのか可能でないのかを、 見出さなければなりません。 それは、あなたは、この発言を聞いてきましたが、 同意するのでなく、専心しなくてはならないことを、意味しています。 あなたは、問わなくてはなりません。 あなたの生を、存在を、活動全体を、 問わなくてはなりません。 全的に安全であることが可能なのかどうかを、自分自身で見出さなくてはなりません。 あなたは、孤立の中では、とうてい安全ではありえません。 誰がそれを言うかは、大事なことではありません。 それは法則です。 で、あなたが、孤立の中で安全でありえないなら、何が起きるでしょうか。 なぜ世界は、このように分割されてしまっているのでしょうか。 イギリス人、アルゼンチン人、フランス人、ロシア人 - 付いてきていますか。 宗教的にも、です。 キリスト教徒である人たちと、 キリスト教は、その信念において割れています。 キリスト教での、幾千もの異なった信念。 インドでの同じこと。世界中で、それは同じ現象です。
33:14 で、私たちは訊ねています - この事実を悟るとき、 現代世界に生きて、断片化していない、健全であるとの感覚をもち、 ビジネスや、何をするにせよ、できるでしょうか。 専門化は、断片化の要因の一つです。 人は専門家でなくてはなりません -医師、大工、郵便配達人など、です。 しかし、心理的、内的に専門家である必要は、何なのでしょうか。 これらに付いてきていますか。 私たちは人間です。
34:28 で、私たちはまた、楽しみの本性についても、議論すべきです - 恐れについて話をしたように、です。 私たちはまた、苦しみの問いにも、入るべきです - 何千、何万年もの間、私たちは、 この地上に生きてきた人間として、 悲しみを終わらせることは、可能かどうか、です。 どうか、私たちが指摘してきたように、これは深刻な問いです。 それは、日曜日の朝のお説教だけではありません。 ありがたい。私たちは、教会や大聖堂にはいません。 私たちは、麗しい樹々の下にいます。 私たちは、これらすべての事態を探究するほど、真剣であるべきです。 で、私たちは初めに、探究すべきです - なぜ人は、どんな値を払っても、楽しみを追求してきたのか、 なぜそれは、生においてこんなに重要なことになったのかを、です。 あなたは、一つのことを強調するとき、他のことを拒否します。 あなたは単に、楽しみを追求しています。 多くの形での楽しみ - 所有の楽しみ、 執着での楽しみ、 何かになることの楽しみ、 知識を持つことの楽しみ、 一切れの土地を持つことの楽しみ、 自分は何かを達成したと感じることでの楽しみ。 自分は、とても良い身体を持つことができた、と。 酒を飲む楽しみ - そうね、とても多くの形の楽しみです。 性的な楽しみの思い出だけでなく、 探し求める、見つける、達成する、何者かであることの楽しみ。 で、なぜ楽しみが、生においてとてつもなく重要になったのでしょうか。
37:47 楽しみは、何でしょうか。 私たちは、よく気をつけて、恐れの本性を検討し、 それへ詳細に入ったように、 私たちはまた、楽しみをも、注視し、検討すべきです。 楽しみは、何でしょうか。 どうか、あなたが問いに答えてください。 語り手が、ではない。 それは思い出でしょうか。 祈りの楽しみ、崇拝の楽しみ - あなたが何に対して祈り、何へ崇拝するのかを、私は知りませんが、それは楽しみです。 それは、過ぎ去ったことの思い出でしょうか。に または、それは、未来の何かでしょうか。 楽しみを与えてくれるかもしれないものについて、考えること。 または、昨日、喜びを与えてくれた何かを、思い出すこと。 楽しみは、恐れのように、今、存在するのでしょうか - その瞬間に楽しみを持つ、というその意味において、です。 それは、「私は幸せだ」と言う人に、似ています。 彼は、それを言う瞬間、そうではありません。 それは、或る時や昨日、幸せであったことの思い出だけです。 その思い出は、楽しみです。 その思い出の追求が、作用中です。 あなたがこれらに付いてきていることを、願っています。 で、楽しみは、時の事柄でしょうか。 楽しみは、思考の作用でしょうか。 恐れのように、です。私たちは昨日言いましたし、前にこれをたびたび言いましたが、 時と思考は、恐れの根です。 時と思考は、楽しみの根です。 私たちは、恐れを拒否したいが、楽しみを追求します。 それらは、同じコインの両面です。 あなたは、楽しみの本性を理解しないなら、 恐れから自由ではありえません。 曇った朝ですが、あなたが、あの山を見つめるとき、 これらすばらしいオークの樹々と青空を見つめるとき、 それは喜びを与えてくれます。 自然と、山々と川と動物たち -動物園で飼われたのではなく、野生の - を、 見つめるのは、すばらしいことです。 それは、とてつもない広さと美しさの感覚を、与えてくれます。 あなたはそれを、憶えています。 そのとき、その思い出が、主張し、追求します。 同じことをもっと持ち、要求します。 で、思考と時は、恐れと楽しみの要因です。 私たちは、恐れを拒否したり、主張したり、抑圧したりしていません。 それを観察する。 そこに何が含まれているかを、見る。 それを全的に知悉する。
43:20 そのとき、訊ねられるのです -愛は、何でしょうか。 理解されますか。これは、とても深刻です -これらすべての問い、 私たちの日々の生に影響する人間的問いは、です。 愛は、楽しみでしょうか。 人はそれを、それに還元してしまいました。 愛は、楽しみでしょうか。愛は、欲望でしょうか。 国への愛、或る人物への愛、詩歌への愛、絵画への愛、 国への愛、 大変多くの知識を取得することへの愛。 で、愛は何でしょうか。 神の愛 - 神を愛するのは、とてもたやすい。 私たちは、それが何かを知りません。私たちがそれを発明しました。それで、それを愛しています。 理解できますか。自らが発明したものを、私たちは愛しています。 で、愛は何でしょうか。 否定は、最も肯定的な行為です。 虚偽であるものを否定すること、虚偽であるものを、全的に否定することは、 最も肯定的な行為です。 例えば、民族主義の概念全体を、否定する。 または、救い主や、何か外的な機関を、(否定するの)です - 私たちを改革し、変化させ、異なった社会をもたらすための(それら)を、です。 どの種類の外的な機関をも、否定することは、最も肯定的な行為です。 で、愛でないものを、全的に否定する。 すなわち、嫉妬を否定する。 あらゆる形の敵対を全的に否定する。 競争を脇に置く。 分離した実体の感覚を、拒否する。 あなたは、分離した実体ではありません。 あなたは関係しています。あなたは人類です。
47:19 で、虚偽であるものを拒否することが、真理です。 幻想すべてを拒否することは、真実において生きることです。 で、愛でないものを、拒否し、脇に置き、否定することができますか。 執着は愛ではない。 執着の帰結を、見てください。 観念へ、信念へ、結論へ、 我が国としての一切れの土地への執着、 或る人物への執着。この執着には、何が関与しているのでしょうか。 仮に、私は妻に執着しているとします。 執着の帰結は、何でしょうか。 どうか、あなた自身で探究してください。 私は妻に執着しています。または、妻は私に執着しています。 帰結は、恐れ、失うことです。 私が信念に執着しているなら、同じことです -その信念を失うことへの恐れです。 私は、何かの経験に執着しているなら、それに取りすがります。 それを疑うあなたからのどの形の探究にも、戦い、抵抗します。 私はあえてそれを疑いません。なぜなら、それなしでは、私は何でもないと感じるからです。 で、男、女や何とでも - 何とでも、です - どの執着の感覚もなく、 関係を持つことは、可能でしょうか。 もしも私が、妻に対して、「ダーリン、私はあなたに執着していない」と語ったなら、 彼女は、何と言うでしょうか。 彼女は、たぶん、私に何かを投げつけるでしょう。 あなたは笑います。しかし、あなたは、専注したことがない。あなたは、事実に向き合わない - すなわち、執着は全的に愛を拒否する、ということに、です。 あなたは、言うでしょう -「それは論理的、知的に理解します。 でも、私は、自分がそれから自由でなければならないという、この感じがしません」と。 なぜなら、それは、葛藤の要因の一つであるからです。 葛藤があるところ、分割があるだけでなく、愛はありえません。 もし私が、人が創案してきた神と呼ばれるものを、愛しているなら、 葛藤があるのです。なぜなら、私は彼の許し、彼の祈りがほしいからです。 付いてきていますか。
51:46 それで、敵対、競争、執着、葛藤、所有があるところ、 愛は存在できません。 さて、精神は、一人の人間は、そのすべてを否定し、 男や女とともに、社会に、生きられるでしょうか。 あなたは、この発言を聞いてきました。 それは、真実なのか、または、全く無意味です。 それは無意味であるなら、何の価値もありません。 しかし、あなたはそれを聞いてきて、 それに価値があると見るのなら - それは適用できるという意味で、です - 人間たちが、これらを知りながら、適用しないのは、なぜでしょうか。 人間たちが、けっして根本的に変化しないのは、なぜでしょうか。 外側の何も、あなたを変化させないでしょう - どの神も、導師も、大師も、救い主も、権威も、です。 あなた自身が、それの真理が見えるときにのみ、 その条件づけに変異が、あるのです。 それは、あなた自身が個人的にでなく、はっきりと客観的に考えなくてはいけない、という意味です。 それは、全体的であると感じるこのとてつもない感覚を持つ、という意味です。 断片化していないとは、安全である、誤りすべてから自由である、という意味です。 精神がその状態にあるとき、愛があります。 それは、あなたが妻を愛しているのかとか、 他の誰かを愛していないのかとか、ではありません。 愛は愛です。 どうか、これらを見てください。 それは、私は一人の人物を愛していて、別の一人を愛せないのか、ということではありません。 それは、花の香りに似ています。 香りがそこにあるとき、 それは、花に一番近くにいる人のためだけではなく、 花自体が、生の美しさです - 見つめ、讃え、香りを嗅ぎたい誰によっても、そうされるべきものです。 これは、ロマンチックな発言ではありません - そこで、あなたが一種、讃えて、微笑み、 「私はそれを持てたらなあ」と言うものではない。 なぜなら、その愛の香りなしには、生は何の意味もないからです。 あなたは、すばらしい教授、偉大な科学者などなのかもしれません。 それなしには、生は、その活力、その深み、その美しさを、失ってしまったのです。
56:03 また私たちは、美しさは何かについても、話すべきです。 美しさを持っている精神の性質は、何でしょうか。 それは、あらゆる種類の化粧品でもって、うまく取りつくろったお顔、 うるわしい髪、適切な形の目などでしょうか。 美しさは、巨匠の絵画にあるのでしょうか。 美しさは、うるわしい詩歌にあるのでしょうか。 美しさは、何でしょうか。 なぜなら、あなたは、美しさがもたらす、あの深みと明晰さの感覚の その性質を持っていないなら、 愛もまた、何の意味をも持ちません。 なぜなら、二つは伴うからです。 で、よく気をつけて、探究しなくてはいけません。 もし、あなたは真剣であるなら - 深く、です - 美しさは、何でしょうか。 精神が葛藤になっているところ、美しさは、存在しうるでしょうか。 あなたが問題を、一つか多く、持っているとき、美しさは、存在しうるでしょうか。 または、美しさは、あなたがないとき、あるのです。 あなたは、大いなる山を、見つめたことがあるでしょうか - その山の壮大さ、 威厳、不動さを、です。 あなたがそれを見つめるとき、 一瞬の間、それの壮大さが、あなたの問題すべてを、追い払ってしまいます - 一秒の間、です。 すなわち、その瞬間に、あなたは、自らの問題すべてとともに、いないのです。 そしてあなたは、「あれは何とすばらしいものなのか」と言います。 そこでは、外的な偉大さが、あなた自身の些少さを、追い払ってしまいます。 そのとき、無量さ、巨大さのあの感じ、 あの大いなる、言葉なき状態が、 生の小さな諸問題を、片付けてしまいます。 玩具をもった子どものようです。 玩具は、その子を乗っ取ってしまいます。 一瞬の間、その子は、忘れてしまいました。 または、玩具に没入しています。 私たちもまた、何かにより没入しています。 私たち自身から、逃避します。 それは、没入することです。あなたは今、講話により没入しています。 で、当分の間、あなたは静か、などです。 それで、あなたが、自らの諸問題とともに、心配とともに、 さびしさとともに、執着とともに、 ないとき、美しさがあるのです。 美しさ、そして愛があるところ、 生は、とてつもない動きになるのです。
1:00:56 私たちは今、止めたほうがいいと、思います。 私たちは次の土曜日、悲しみが終わることについて、議論するでしょう - 死は何を意味しているのか、冥想は何なのか、 まったく言葉すべてを越え、時すべてを越えている何かと、 神聖なものが、いったいあるのかどうか、です。 私たちは、土曜日と日曜日、それについて話すでしょう。 立ち上がってもいいですか。