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OJ82T6 - 生には、何か神聖なものがあるのか
第6回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1982年5月16日



0:25 なぜみなさんは来られたのかと、思われます。 それは好奇心からでしょうか。 または、うるわしい朝であり、それはあなたにとって、お出かけですか。 または、私たちは真剣でしょうか - 山積していく私たちの問題すべてに向き合うほど、 そして、それらを解消できるかどうかを、私たち自身で見出すほどに、でしょうか。 そして、こんなに多くの人々と議論を行うことや対話を行うことは、 可能でないので、 そのとき私たちは、ともに会話を行えます。 すなわち、あなたと語り手は、日陰の小道を歩いているのです - 陰に満ち、流れる小川、 そして、自分たちの問題について、話しています。 人類すべてが直面する問題、です。 私たちの一人一人だけではなく、 また、世界のあらゆる人間が、経て行きつつあるもの、です。 昨日、指摘していましたように、 私たちは、自らの意識は、何か分離した、 個人的、私的なものであると、想定してきました。 しかし、深く観察すると、この意識は、 全人類の共通基盤であり、 共通の苦しみ、痛み、心配、さびしさと、大きな不安定と、 安全への果てしない探求ですが、 それは、世界のあらゆる人間の問題です。 それは、あなたの特定の問題ではありません。 それは人間すべての問題、すなわち主題です - 彼らがキリスト教徒でも、イスラム教徒でも、ヒンドゥー教徒でも、仏教徒でも、です。
4:00 で、私たちは友好的に、仲良い精神で、ともに、 私たちの生の主題について、話し合っています。 これは最後の講話ですから、 私たちは、先の五回の講話の間に、 会話を行ってきたことすべてを、調べられません。 しかし、私たちは全部のことを、要約できます。 私たちのほとんどは、一つの特殊な問題を取って、それを解消しようとしがちです。 または、他の誰かが、自分の特定の問題を乗り越えたり、解消したり、超越したりするのを、 助けてくれるだろうと願って、ここに来ます。 しかし、より鋭く、批判的に検討するなら、 あらゆる問題は、すべての問題に関係しています。 それらは相互に関係し合っています。 それらは、とうてい分離できません - (私たちは)それらを分離しておいて、それらを個別に、分離的に解消しようとしますが。 私たちは、過去五回の講話の間、様々なことについて、話してきました - 恐れ、生涯、心理的、内的に傷ついてきた 人間たちの本性。 その傷の帰結。 私たちは、よくよく気をつけて、それに入りました。
6:15 また私たちは、人間たちの間の関係についても、話をしました - 男、女、隣人の(間の関係)、です。 その隣人が、きわめてはるか遠くであれ、 その関係が、どれほど親密でも、どれほど個人的でも、 そこには、いつも葛藤がある。 いつも、一定の不安、恐れ、支配、 所有欲、執着の感覚が、あるのです。 これらすべては自然に、二人の人間の間の闘争を、生み育てます。 葛藤が生じます - 私たちは、その問いに入りました。 その葛藤はとうてい、終わりうるのか、 または、果てしなく継続しなければならないのか - 世代から世代へ、と。 また私たちは、恐れについても、話をしました。 それは、きわめて複雑な問題です。 その恐れに寄与する原因 - 順応、比較、模倣、 現にそうでない何かに、なろうとすること、 そして、他の要因が、恐れをもたらします。 私たちはとても深く、それに入りました。 また私たちは、継続について、楽しみへの要求について、 話をしました - それが宗教的な楽しみであっても、生の普通の楽しみであっても、です。 性的、達成の形、成功、所有、 金銭、威信、地位、そのすべて、です。
8:19 昨日の朝、私たちは、愛は何かの問いに、入りました。 なぜ人間たちは・・・どうかしましたか?これを脱ぐの?ああ!いいですか。 昨日の朝、私たちは、なぜ人間たちが、 あの一つの香りを破壊してきたかについて、話をしました - 生において絶対に必要なものを(破壊してきたか)、です。 それなしには、生はいかなる意味もありません。 あなたは、たくさんのお金を持つかもしれません。 海で楽しむ、様々な教会へ行く、 様々な導師に従う、 様々な哲学を、自らの生の道として受け入れるのかもしれません。 しかし、あの性質とあの香り、あの熱情なしには(です) - それは情欲とは違っています -それは、愛があるとき、訪れます。 私たちは昨日の朝、存分に、広汎にそれへ入りました。
10:21 私たちはまた、苦しみの終わりについて、話しました - なぜ人間たちは、一方向では高い教育を受けていて、 とてつもなく智恵があるのに - テクノロジーの世界で、です - なぜ人間たちは、 このすばらしい地上に、幾千年に幾千年も生きてきたのに、 なぜ彼らは、苦しみを理解してこなかったのか、終わらせてこなかったのか、です - 個人的な苦しみだけでなく、人類の苦しみも、です。 そこでは、アフリカに、東洋に、インドに、飢餓がある。 そこでは、貧困が破壊的で、不面目です。 そして、人類を分離する他の経済的な問題です。 私たちは言いました - 民族主義、国家主義なしの 地球的な相互関係のみが、 私たちの外的な経済的、社会的な諸問題すべてを、解決するであろう、と。 私たちはともに、この地上に生きます。それは、私たちの大地です。アメリカの大地や、 ロシアの大地や、ヒンドゥー教徒や仏教徒やイスラム教徒の世界ではありません。 それは私たちの地球です。ですが、私たちはそれを分割してきました - 民族的、国家的に、アメリカのもの、 ロシアのもの、シナのもの、日本のもの、ヨーロッパのもの、ヒンドゥーのもの、などなどと。 分割 - 人種的、経済的、宗教的な分割- が、あるところ、 葛藤があるにちがいない。 戦争があるにちがいないのです。 これら戦争は、数百万年の間、続いてきました。 私たちは、自らの智恵を、テクノロジーの世界に向けますが、 その智恵を、この苦しみの問題を解決するために、適用してこなかったのです。 私たちは、能力を持っています。 エネルギーを持っています。 しかし見たところ、私たちは、機械論的な世界に、捕らわれています。 私たちの文化は、ますます機械的になろうとしています。 それは、機械論的な文化です。 それは、ただ、機械のみが重要になるところだけではなく、 また、文化は機械論的であり、 それは、反復性の生を生きることです。 同じことを、同じ問題をもって、同じ主題、 同じ葛藤をもって、何度も何度も反復することです。
14:01 私たちはまた昨日、話をしましたが、 今朝、もっと深くそれに入るでしょう - なぜ人間たちは、今ある彼らになったのか。浅く、表面的であり、 生について大変多く学んできて、大変多くの知識を蓄積してきましたが、 その知識は明らかに、私たち人間の、日々の葛藤を、解決していません。 で、知識は、悲しみの要因の一つなのかもしれません - 私たちは昨日の朝、それについて話をしました。
14:57 私たちは今朝、幾つか他の主題に、入るでしょう。 しかし、初めにどうか、これは、一般的に理解されているような、 講義ではありません。 講義とは、特定の主題について話をすること、 その主題に関心を持って、他の人へそれを可能なだけ、 はっきりと伝達することです。 で、これは講義ではありません。 むしろ、あなたと語り手との間の会話です - その中で、私たちはどちらも観察し、同じ問題について考えています。 同じ山、同じ樹々、青い空を、見つめています。 それで私たちは、一緒です。 語り手は、本気で、正直にそう言っています - ともに、 これら問題を観察し、私たち自身で見出すのです。 或る哲学者によってではなく、或る司祭者によってではなく、 導師の権威などなどによって、ではない。 そのすべてを完全に捨て去って、 私たち自身で観察する - なぜ私たち人間は、 こう嘆かわしいほど、心理的に不健康になったのか、です。 で、どうか、語り手は一定の物事を、言葉に表すかもしれませんが、 言葉は、実際のものではない。 説明は、説明されるものではない。 私たちは、先日も話をしましたように、言葉の網に捕らわれています。 言葉は、とてつもなく重要になります。 「アメリカ」という言葉は、世界のこの地方に生きる人々にとって、 とてつもない意義を、持っています。 または、「共産主義者」「社会主義者」「資本主義者」など、 「バプテスト」「カトリック」という言葉が、です。 で、言葉は、実際ではありません。 象徴は、実際のものではありません。 で、どうか、大変尊敬をこめて、指摘してよろしければ、 私たちが説明していること、私たちが入っていることは、 単に説明です。一定の言葉の使用法です。 しかし、言葉、説明は、本物ではありません。
18:42 私たちは、文化(カルチャー)とは何かについて、ともに話し合うべきです。 その言葉の普通の意味は、耕す、育てることです - 庭、バラの花壇を耕す、野菜を育てるように、です。 文化(カルチャー)は、反復的、機械的な存在ではなく、 知られたものから自由であり、その自由から行為する、という意味合いです - それが、実際に文化です。 すなわち、私たちはいつも、知られたものに生きています。 どうか、このすべてに付いてきてください -あなたが興味があれば、ですが。 すてきな朝です。あなたは、この集会を、娯楽として、取り扱うかもしれません - それは、たいへん不幸でしょう - または、一種の精神的な刺激、薬物として、です。 しかし、あなたは、これを、一つの形の刺激として、取り扱うなら、 自らの生の実在性、自分の浅さの、 自分の空っぽさ、自分の恐れ、 心配と、生の苦労すべての実在性を、失うでしょう。 で、どうぞ、語り手がそれを言葉に表すにつれて、 彼が言うことを、あなた自身で検討してください。 なぜなら、疑い、懐疑は、大いに浄めるものであるからです。 私たちのほとんどは、たやすく物事を受け入れます - 特に、宗教的な事柄と、 いわゆる霊的な事柄では、です。 そこでは権威が、自らは知っているが、あなたは知らないと、想定します。 彼らは、解釈者として行為します。 しかし、真理が何かを発見するには、それが必要です - 疑いがなければなりません。 東洋の世界、東洋の宗教では、疑いが 強調されてきました。 キリスト教の世界では、疑いは、忌み嫌われるものです。 なぜなら、疑うならば、教会の構造全体は、 それが地元のでも、ローマや他のどこからでも、 それを疑うならば、全部のことが、崩壊します。 で、西洋の世界では、疑いは非難されてきました。 それを疑う人たち、彼らは異端と呼ばれて、焼き殺されてきました。 彼らは、拷問されてきました。 今、世界の様々な地方で、政治犯に対して やられているように、です。 それは同じ現象です。 で、どうか、語り手が言っていることを、何一つ受け入れないで、 あなた自身で見出そうとしてください。 気をつけて聞くことによって、です - あなたが興味があるなら、 これを娯楽として取り扱わないなら、です。 そのときどうか、聞いて、疑い、問い、訊ねてください。 あなたは、自分自身が創り出してきたものを、疑っています。 あなたは、自分の観念、自分の結論、自分の経験、 自分の信念、自分の信条を、疑っています。 あなたは、真理が何かを自分自身で見出すように、疑っています。
23:49 それがとても重要です。 なぜなら、真理は、自由な精神を、要求するからです - 完全に自由である精神を、です。 真理への道はありません。 で、どうぞ、私たちが、このとても複雑な問題に、入って行くときに、 一定の疑いの性質でもって、気をつけて聞きましょう。 疑うには、敏感さが必要とされます。 あらゆるものを疑うなら、それはかなり愚かになります。 手際よく、聡い精神でもって、微妙さをもって、疑う。 そのとき、その疑いは、明晰さ、エネルギーを、もたらします。 私たちは、これらすべての問題に入るには、それらを解消するには、エネルギーが要るのです。
25:16 で、私たちは訊ねています -文化(カルチャー)とは、何でしょうか。 それは単に、知られたものの機械的な反復でしょうか。 すなわち、私たちは過去に生きます。 過去は、私たちの記憶です。 過去は、経験をとおした、私たちの知識です。 私たちはいつも、過去に、知られたものに、生きています。 私たちが、知られたものから行為するとき、それは反復的です。 私たちは、一定の領域では、知識でもって、行為しなければなりません - 科学者のように、です。彼は、大変多くの知識を、持たなくてはなりません。 または、偉大な外科医は、経験を持たなければなりません。 彼は、多くの人に手術をして、知識、技術と、手の敏感さを、 蓄積していなくてはなりません - そこで知識は必要です。 知識は、すべての私たちの憶えていること、 すべての過去の出来事、傷、 恐れ、あこがれ、絶望、たまらないさびしさ。 そのすべてが、私たちの過去の知識の一部です。 私たちが過去から行為しているとき、 それは、反復的にちがいありません。 ゆえに、精神は機械的になります。 コンピューターは、反復的な機械です。 たぶん人間の頭脳より、さとく、速い。 しかし、その機械は、私たち人間と同じく、反復的です。 それで、私たちは問うています - 過去から、知られたものから生まれた、どの文化をも、です。 明白に、それは機械的、反復的です。 それで私たちは、見出そうとしています。 文化をもたらすのは、何なのでしょうか - すなわち、私たちが数千年間、受け入れてきた機械論的な文化より 全然違っているものを、です。 私たちの精神のほとんどは、幾つか稀な例外はあっても、凡庸です - その言葉を使うなら、お許しください。 自分は、とてつもなく群を抜いている、と考えるかもしれません。 しかし、自分は群を抜いていると考えることもまた、 一つの形の凡庸さです。 これは、侮辱ではありません。 私たちはともに、検討しています。
29:07 凡庸であるとは、どういうことでしょうか。 「凡庸(ミーディオーカ)」という言葉は、ギリシャ語、ラテン語から来ています - 「山を道半ばまで登ること」。 それが、「凡庸(ミーディオーカ)」というその言葉の本当の意味です - けっして、道をすべて登り切らないで、 道の半ば、または三分の一まで登ることで、満足する。 それが、「凡庸(ミーディオーカ)」というその言葉の意味です。 私たちの教育は、どれほど幅広くても、 特定主題をとおして、どんな知識を取得しても、 これらすべての教育の要因は、精神を制限しています。 あなたは、注目したことがありますか - 特にこの国では、 残りの世界中に、この事実を広めつつありますが、 いかに専門家たち、 科学の専門家、医師、外科医、哲学者、心理学者など、 いかに彼らが、私たちの一人一人を支配しているか、です。 彼らは、あなたに、何をすべきかを言う権威です。 彼らは、熟達者です - 赤ちゃんの育て方、 適切な性的関係の持ち方、 お化粧の仕方。 彼らは、これらの権威です。 私たちはみんな、彼らに服従します。 私たちの服従には、一定の時に、反逆があります。 しかし、その反逆は、単に反応です。 で、それは、完全な了解や理解ではありません - すなわち、専門化された知識すべては、制限されている、という(理解)ではない。 知識すべてが制限されているように、です。 この制限から生まれた文化は、まったく文化ではありません。 アメリカ文化やヨーロッパ文化は、ありません。 それらは、ルネサンスへ、過去の歴史へ、遡ることができます。 しかし、精神の深い文化は、知られたものからの 自由をとおして、訪れうるのみです。 そういう自由は、ありうるのでしょうか。
32:28 私たちはともに、それについて話そうとしています。 なぜなら、宗教からのみ、 新しい文化は、生じうるからです。 宗教は、権威主義的なもの、受け入れられた形の宗教ではありません - 国家宗教。信念、信仰、教義、儀式、 象徴の崇拝の宗教。 それは、宗教ではありません。明白です。 で、私たちは探究しようとしています -宗教とは何かを、です。 理解されますか。 私たちは、恐れを探究してきました - 愛と呼ばれる、とてつもないあのものの本性を、 (そして)人間たちはいったい、自らの苦しみ、悲惨、 心配を、終わらせられるのかどうかを、です。 また私たちは、ともに探究すべきです -宗教とは何かを、です。
34:08 人は崇拝します。 東洋には、樹を崇拝する人たち、 山を崇拝する人たちが、いまだにいます。 インドでは、ヒマラヤにそれを与えます - 特別な平和、特別な名前を、です。 人々は一時、大地を、樹々、天空、 太陽を、崇拝しました -エジプト人がそうしたように、です。 しかし私たちは、そのすべてを、幻想、戯言と考えます。 私たちは、怖ろしく洗練されているので、 象徴を崇拝します。その象徴に、その救い主に 祈ります。または、インドでのように、もう一つの形の同じことです。 崇拝は、古代の日々から、人間生活の一部でした。 あなたは、樹を崇拝しないかもしれません。 しかし、あなたは、教会や寺院やモスクへ、行きます。 そこであなたは、祈ります。崇拝します。 樹の崇拝と、象徴との間に、あまり違いはありません - その樹は、緑の大地のすばらしい平原で一人きりです。 そして、思考が教会や寺院やモスクの中に 創り出してきた象徴です。 二つの間に、あまり違いはありません。 なぜなら、人は苦しむからです - 彼は、面倒に巻き込まれている。 彼は、誰に頼るべきかを、知らない。 それで、彼は、慰めてくれる神を、創案します。 すなわち、思考が神を創案します。 それから、自らが創案したものを、崇拝します。 これらは事実です - あなたが、それを好きでも、好きでなくても、です。 あなたは、キリスト教の儀式全体を、創案します。 インドでと同じように、複雑な儀式があります。 それは、思考の創案です。 それから思考は、これは神の啓示である、と言います。 あなたが注目されたのかどうか、私は知りません - アジアでは - そこにはインドも含まれます - そして、ここでは、 神の啓示が、とてつもない役割を果たします。 しかし、その神性は、思考により、もたらされます。 その神性の解釈者が、司祭者です。 彼は考えます。 彼の思考は、様々な形の儀式を、創り出してきました。
38:21 で、私たちは訊ねています -宗教は、これらでしょうか。 宗教は、書物に、印刷された言葉に基づいているのでしょうか。 宗教が、書物に基づいているところ - それが、キリスト教のでも、ヒンドゥー教のでも、イスラム教のでも、仏教のでも、です - そのとき、教義がある。 書物の権威ばかりが、重要になる。 偏狭さ、精神の狭さが、あるのです。 イスラム教世界とキリスト教世界のどちらも、書物に基づいています - コーランとバイブルです。 インドでは、彼らにとって幸運にも、 百の書物があります。百の神々です。 いや、それ以上で、三十万の神々です。 笑わないでください。これは、とても深刻です。 それは、可笑しく聞こえます。 そこでは彼らは寛容です。それは、彼らが何にでも耐える、という意味です - 偽りの神、真の神、どんな種類の幻想、 どんないわゆる宗教者の、どんな種類の主張にも、です。 ここ、西洋では、イスラム世界と同じく、 書物が、とてつもなく重要な役割を、果たします。 ゆえに、その書物を信じている者たちは、 その書物のあらゆる言葉で、深く納得しています。 彼らは、偏狭に、教条主義的、断定的、攻撃的になります。 彼らは、半ば文明化していないなら、殺すでしょう。 これは世界で起きています。 で、宗教は - 「宗教(レリジョン)」という言葉、 その言葉の語源的な意味は、知られていません。 それは、一定のラテン語から生じます -私たちは、それに入らないでしょう。 しかし、実際にそれは、一定の辞書によれば、 全エネルギーを集める能力を、意味しています -真実であるものを、発見するように、 それに出くわすように、です。 それが、その言葉の根本の意味です。 で、私たちは、エネルギーを集めています - 私たちの全エネルギーを、です。 特殊化したエネルギー、 思考のエネルギー、情動のエネルギー、情熱的エネルギーではない。 真理とは何かを、探究するように、です。
42:07 それに深く入るには、 私たちはまた、思考とは何かをも、探究しなければなりません。 それが、世界の宗教すべてを、創案してきたのです - すべての儀式、すべての教義、信念、信仰を、です。 それは思考の結果です。 何についても、何も神聖なものは、ありません。 思考は、「私が創案したものは、神聖である」と、言えます。 しかし、思考は、神聖ではありません。 で、思考とは何かとのこの問いに、入ることが、重要です。 私たちは、以前にそれに入ってきました。 しかし、それを見つめるほどに、 思考のまさに本性を、探究するほどに、 もっと錯綜していて、 もっとそれは、微妙な精神を要求します。 それは、精神のすばやさを要求します。 機械的な精神ではなく、受け入れる精神ではなく、 黙認する精神ではなく、 疑いをもち、問い、要求し、 この大きなエネルギーを持つ精神(を要求するの)です。 あなたが、この全的なエネルギーを注ぐとき - あなたが、何かの形の娯楽や、何かの形の安堵、 何かの形の安楽に興味があるからといって、 部分的なエネルギーではありません。 そのとき、すべて部分的なエネルギーです。 ところが、あなたが、人間精神の本性を、全的に理解したいと要求するなら - なぜ私たちは、今生きているようなさまで、生きるのか、 大地を破壊し、私たち自身を破壊し、戦争、悲惨、です - そのときあなたは、自らのエネルギーすべてを、注がなくてはいけません。 この全的なエネルギーがあるところ、 機械論的、反復的な道とは全然違った、生きる道を 理解したい、見出したいとの完全な熱情です。
45:04 で、私たちはもう一度、深くこの問いに、入らなくてはなりません - 思考とは何なのか、 なぜ思考は、私たちの生、私たちの関係において、 こういうとてつもない重要性を果たすのか、です。 思考は、愛でしょうか。 どうか、語り手とともに、探究してください。 本当に、語り手は、あなたの問いを出しています。 それは、彼の問いではありません。 あなたが、自分自身のために、この問いをしています。 思考は、ヨーロッパのすばらしい大聖堂、 壮大な建造物、ここでのその幾つかを、創り出してきました。 思考はまた、大聖堂と教会と寺院とモスクの内側に、 それらのものすべてをも、置いてきました。 それで、訊ねます - 思考は神聖でしょうか。 なぜなら、それはこれら建物の中に、このすべてを置いてきたし、 それからあなたは、それを崇拝するからです。 これの幻影が、皮肉な実際の欺瞞が、 見えるのか、と思われます - すなわち、思考が、象徴、儀式、聖餐のパンと、 インドとアジアの様々な物事を、創案してきた、ということが、です。 思考は、このすべてに責任があったのです。 その幾つかは、古代エジプトより、インドなどより、 真似されています。 それから、思考は、石のこのすばらしい構造物を、創り出しておいて、 それから内側は、すべて象徴、苦悶です。 アジア世界では、異なった象徴です。 それから思考は、あなたはそれを崇拝しなければならない、と言う。 それで、私たちは、訊ねています -思考は、それ自体、神聖でしょうか。 または、それは単に - どうか、聞いてください。 あなたは、同意しないかもしれません。 同意しないで、探究してください。 思考は、物質的な過程でしょうか。 それは、神聖でないのなら、物質的な過程です。 しかし、思考は、これらを創案、発明してきました - 様々な宗教によるところの 天国と地獄、救世主、 彼らの儀式。それはすべて、思考の結果です。 そのとき、思考は、振り返り、「あなたは、それを崇拝しなければならない」と言います。 で、私たちは自分自身で、見出さなければなりません - 霊的、宗教的な事柄での、どの権威に沿って、でもない。 外科医の権威は、あります -それは全然違った事柄です。 しかし、永遠であるものを、発見する、それに出くわすには - 永遠といったものが、あるとして、ですが - あなたの精神は、霊的な事柄すべて、心霊的な事柄すべてにおいて、 自由でなければなりません。 すなわち、心理的な領域 - すなわち、あなた - において、 見出すには、全的な自由が、なければなりません。
49:32 で、私たちはともに、思考の本性を、探究しようとしています。 あなたは、まったく思考を持たないなら、記憶喪失、空白の状態に、生きています。 しかし、それは、稀な形の病気です。 しかし、世界中のほとんどの人間は、 ヒンドゥー教徒、仏教徒、キリスト教徒などであっても、共産主義者であっても、 共通の要因は、思考です。 彼らはみんな、考えます -極端に貧しく、教育を受けていなくても、 大いに洗練された、絶賛された教授でも、 ずるがしこい政治家でも、 教会の最高権威などでも - 彼らはみんな考えます。 私たちの一人一人が日々の生活で、そうするように、です。 その思考は、私たちの生を支配します。 で、指摘してもよろしければ、思考の動き全体を 理解することが、きわめて重要です。 それは、偉大な詩歌、偉大な絵画、偉大な彫刻、文学を、創り出してきました。 思考は、ビジネスをするには、車を運転するなどには、必要です。 思考は、何でしょうか。 その起源、思考の始まりは、何でしょうか。 あなたが、質問をしています。語り手が、ではない。 どうか、あなた自身の精神、頭脳を専注してください - この問いを探究するように、です。 なぜなら、思考は、私たちの生のあらゆる行為を、支配するからです。 思考は、関係における決定的な要因です。 で、思考と呼ばれるそのものは、 考える機構、その起源は、何でしょうか。
52:14 思考は、記憶から生まれないのでしょうか。 あなたは、自分がどこに生活しているか、ここから、自分が行こうとするところへ、 行くべき距離を、憶えています。それは知識です。 その知識は、経験をとおして、取得されてきました。 で、思考の始まりは、経験、知識、記憶 - 頭脳に蓄えられて - です。ですね。 これは事実です。異国風でも、不条理な幻想でもでありません。 あなたは、昨日起きた何かを、憶えています -楽しめるとか、そうでないとか、です。 その憶えたのは、頭脳に蓄えられ、頭脳に記録されています。 その記録から、思考が生じます。 で、思考は、何をしようとも、神聖ではありません。 それは、物質的な過程です。 科学者たちの幾人かは、語り手が長年、 言ってきたことに、同意すらします。 彼らは、ネズミ、ハト、モルモット、犬で実験してきました。 しかし彼らは、自分自身で実験しません。 私たちはまた、物質です。 科学は、物質に関心を持っています。 思考は、物質的な過程であり、 思考が何をしようとも - 宗教的な分野でも、 ビジネスの分野でも、 兵器の収集をとおした戦争の準備でも - それは、思考の結果です。 思考は、人々を、分割してきました -この種の宗教的な人物、 世界の一定地域に生活するこの種の人間などと、です。 人間たちを分割してきたのは、思考です。 思考は、その分裂的な本性から、 思考はけっして完全でないから、 知識から生まれるから、 そして、知識は、何についても、けっして全的ではない。 ゆえに思考はいつも、制限され、分離的です。 なぜなら - 私はそれらに入らないでしょう -それは、分離的です。 分離的な行為があるところ、葛藤があるにちがいないのです - 共産主義者と社会主義者と資本主義者の間、 アラブ人とユダヤ人の間、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間など。 これらはすべて、思考の分裂的な過程です。 分割があるところ、葛藤があるにちがいない -それは法則です。 で、思考が組み立ててきたことは、 書物の中、教会の中、大聖堂の中、 寺院の中、モスクの中でも、何も神聖ではないのです。 どの象徴も、神聖ではないのです。 で、それは宗教ではありません。 それは単に、神聖だと呼ばれるものに対する、 思考にみちた一つの形の表面的な反応です。
56:40 で、私たちは今朝、できるなら、見出そうとしています。 私たちの注意、私たちの注意全体を注いで、 何が神聖なのかを探究するように、です - そもそも何か神聖なものがあるなら、です。 世界中の知識人は、これらを拒否します。 彼らは、宗教に、それらの幻想とそのすべてに、うんざりしています。 彼らは、捨て去ります。 彼らは、事柄全体について、かなり冷笑的(シニカル)です。 なぜなら、世界中の宗教的組織は、 大きな資産、膨大な富、大きな権力を、持っているからです。 そのすべては霊的でなく、そのすべては宗教的でない。 で、私たちが言いましたように、「宗教(レリジョン)」という言葉の 語源的な意味は、知られていません。 しかし、辞書はまた明らかにします - すなわち、真理は何かを探究するには、 全エネルギーを集めなければならない、ということを、です。 そして、勤勉であり行為する能力を、です。 一定の様式に沿って、ではない。 あなたの思考、感情、 敵対、恐れを、勤勉に観察する。 そして、それらをはるかに越えて行く - それで精神は、完全に自由であるように、です。
58:31 さて、私たちは訊ねています -生に、何か神聖なものが、あるのでしょうか。 思考により創案されたものではない。 なぜなら、人は、計り知れない時から、いつも この問いを訊ねてきたからです - このすべての混乱、悲惨、暗闇、幻想を越え、 制度と改革を越えて、 何かあるのでしょうか。 何か本当に真のもの、 何か時を越えたもの、 何か無量であり、思考が来られないものが、あるのでしょうか。 人は、これを探究してきました。 見たところ、ごくごくわずかな人たちだけが、 自由に、その世界へ入って来ました。 古代から司祭者は、探し求める者と、 彼が見つけたいと願うものとの間に、入ってきます。 彼は解釈します。彼は、知っている人になります。 または、自分は知っていると考えます。 彼は、脇道に逸れています。逸脱し、迷っています。
1:00:16 で、私たちは、最も聖なるもの、名がなく時がないものを、 探究したいのなら、 明白に、どの集団、どの宗教にも所属してはなりません。 どの信念、どの信条をも持ってはなりません。 なぜなら、信念と信条は、存在しないものや、存在しないかもしれないものを、 真だと受け入れることであるからです。 それが、信念の本性です - 何かが真実であるのを、当たり前と取ること、受け入れることです。 自分の探究、自分の活力、エネルギーが(何かを) 見つけていないとき、あなたは信じます。 なぜなら、信念には、或る形の安全、快適さがあるからです。 しかし、単に、心理的な快適さを探し求めている人 - そういう人は、時を越えているものに、けっして出くわさないでしょう。 それで、全的な自由が、なければなりません。 それは可能でしょうか - 私たちの条件づけすべてから、自由であることは、です。 生物学的な条件づけから、ではありません- それは自然です - 心理的な条件づけからです。 憎しみ、敵対、誇り(から) 混乱をもたらすすべての物事(から)、 すなわち、自己のまさに本性、すなわち、思考から、です。 見出すには、注意がなければなりません -集中ではない。 「冥想(メディテーション)」という言葉は、 ごく最近、西洋世界に導入されてきました - 一定の規範、一定の冥想様式を受け入れた 幾らかの人たちによって、です。 禅の冥想、チベットの形の冥想があります - それは、南方仏教の冥想の形とは、違っています。 ヒンドゥー教徒の冥想があります -彼らの特別の導師とともに、です。 彼らもまた、自分の形の冥想を、持っています。 それから、キリスト教の形があります -それは、観想です。 「冥想(メディテーション)」というその言葉の意味合い - その言葉の意味は、熟考する、よく考える、ということです。 また、冥想的な精神は、測量より自由でなければなりません。 どうか、眠らないでください -あなたが興味があるなら、です。 すなわち、冥想に入っている精神は、です。 私たちは時間があるなら、少し後で、それに入るでしょう。
1:04:33 で、それらすべての人々が、この言葉をもたらしました - 彼らの体系、方法と実践とともに、です。 それらもまた、気をつけた思考により、組み立てられています。 おそらく、一人か二人の導師は- あれらアジアの人たちです - 或る種の体験をするのでしょう。 即時にそれは、或る種の霊的な地位へ翻訳されます。 そして彼らは、自らの冥想を持つのです。 彼らはここ(アメリカ)に来ます。あなたたちは、それらを飲み込むほど、だまされやすい - そのために金を支払う。 多く支払うほど、冥想が大きくなる。
1:05:25 で、私たちは、冥想が何かを、探究すべきです。 冥想する。 それは本当に重要です。なぜなら、 思考がそうであるように、単に機械論的な精神は、 全的に、至高の秩序であり、ゆえに完全な自由であるものに、 けっして出くわせないからです。 宇宙のように、それは全的な秩序(の状態)にあります。 無秩序になっているのは、人間の精神だけです。 それで、とてつもなく秩序だった精神を、持たなくてはなりません。 無秩序を理解した精神- 私たちは先日それに入りました - そして、無秩序から完全に自由である精神を、です。 無秩序とは、矛盾、模倣、順応、その他すべてです。 そういう精神は、注意深い精神です - 何であれ自らのすることへ、自らの行為すべてへ、 完全に注意深い。 自らの関係などなどにおいて、です。 注意は、集中ではありません。 集中は、制約され、狭く、制限されています。 ところが、注意は無制限です。 その注意には、あの静寂の性質が、あります - 思考が創案した静寂ではない。 物音の後に訪れる静寂ではない。 一つの思考がもう一つの思考を待っている静寂ではない。 あの静寂が、なければなりません - 願望により、意志により、思考により組み立てられていないものが、です。 その冥想には、制御者がありません。 これは、要因の一つです - いわゆる冥想の集団すべてと、 彼らが創案してきた体系において、です。 いつも努力、制御、修練があるのです。 修練(ディシプリン)は、学ぶ、という意味です -順応する、ということではない。 あなたの精神が、ますます微妙になるように、学ぶ。 知識に基づかず、です。学びは、常なる動きです。 で、冥想は、知られたもの、すなわち度量からの、自由です。 その冥想には、絶対的な静寂がある。 そのとき、その静寂のみに、名のないものが、あるのです。
1:09:17 もう立ち上がってもいいですか。