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OJ83Q1 - 第1回質疑応答会合
カリフォルニア、オーハイ
1983年5月17日



0:30 これは、講話ではありません。 質問が(すでに書面で)出されています。 私たちは、きわめて多くの中から、幾つかを選んでおきました。
0:53 質問をすることは正しいと、考えます。 しかし、あなたは、誰に質問をしているのでしょうか。 自分自身に対してか、または、正確に、精密に、おそらく論理的に、まっとうに 答えてくれるだろうと、あなたが望む誰かに対して、ですか。 問いは、答えよりも重要でしょうか。 答えは、問いにあるのでしょうか。 どうか、私たちはともに、それについて話し合っています。 問いと答え - それらは、同様なのでしょうか。 または、答えは、問いより重要なのでしょうか。 で、私たちはともに、見出そうとしています。 私たちは、問いを理解する中、それを深く掘り下げる中で、 答えに出くわすかもしれません。 答えは、問いの外側には、ありません。 私たちはそれに入るでしょう。 おそらくあなたは、それが見えるでしょう。 私たちはともに、それを見るでしょう -それの十分な意義を、です。 問いを出すなら、あなたは、他の誰かがそれに答えることを、期待します。 そこには、知っている誰かという問題全体が、関与しています。 彼は、自らの知識に沿って、自らの情報、 データなどに沿って、答えるでしょう。 私たちの人間的な問いすべてに、答えるであろう人が、誰かいるのでしょうか。 または、私たちは、誰にも依存しないで、全面的に自分たち自身に、頼らなくてはいけないのでしょうか。
3:43 どうか、私たちはともに、そのことについて話し合っています。 私たちは、最終的な、デルファイからのご神託ではありません。それはご存じですか。 問いを究明する中、問いが何を含意するかを見る中で、 おそらく、まさにその含意において、私たちは、答えを理解することができるでしょう。 で、答えは、問いの外側にはないのです。
4:28 また、正しい問いを出すことも、重要です。 そのとき、訊ねます -正しい問いとは、何でしょうか。 問いは、まったく表面的でありえます。 私は、どんな種類の食物を食べるべきか、と。 そのような問いが、たくさんあります。 私は、体操をすべきでしょうか。 あなたは、ヨーガを提唱されますか。 それらはかなり、表面的であると、思います - それらには、一定の必要性が、あるけれども。 しかし、問いを深く掘り下げる。 そして、なぜその問いをするかを、見出すのです。 私たちが、これらすべての年々に、これらすべての講話で、言ってきましたように、 疑い、懐疑が、必要です。 自分の思考を、疑うこと。自分の態度と 結論と知覚を問うこと。 他の一人が言うことに、懐疑的であること - 彼が、きわめて学識があり、専門家などであっても、です。 問うこと、疑うこと、幾らか懐疑的であることは、 頭脳がそれ自体を晴らすのを、助けます。 私たちがともに、これに付いてきていることを、願っています。 なぜなら、私たちの頭脳は、かなり曇っていて、条件づけられているからです。 その背景から質問をして、 誰かがそれを説明し、それに入るのを、待つことが、ありえます - 分析家と分析者のように、です。 そして、他の一人から、答えを見出すことが、です。 人間的な諸問題には、何も指導者、導師、専門家はないので、 このすべてを、自分自身で理解しなくてはなりません。 私たちがこの事柄についてはっきりしていることを、願っています。 もしはっきりしているなら、私たちはさらに、問いとともに進めるでしょう。
7:32 私は、これらの問いを読んでいません。
7:40 第一の質問: 「芸術家とは何でしょうか」- いや、すみません - 「生において、芸術家の役割は、何でしょうか。 私たちの互いへと世の中への関係において、 音楽、詩歌とすべての芸術の意義は、何でしょうか。」
7:57 「生において、芸術家の役割は、何でしょうか。 私たちの互いへと世の中への関係において、 音楽、詩歌とすべての芸術の意義は、何でしょうか。」
8:14 あなたは、この問いに興味がありますか。
8:20 まず最初に、私たちは、芸術というのはどういう意味なのかが、はっきりしていないと、いけません。 ギリシャ語など、ラテン語から、「芸術(アート)」という言葉は、 結びつける、適合させる、ものごとを組み立てる、ということです。 それが、その言葉の根本の意味です。 それはまた、サンスクリットで、度量、作法、使用、という意味です。 根本の意味 - 私たちは、語源的な意味について、話しています。 質問者は訊ねます - 私たちの生において、芸術の役割は、何でしょうか。 その言葉の根本の意味が何なのかを、見ておいて - 根本の意味、です。 美しさは、何でしょうか。
9:41 美しさは、何か組み立てられたものではありません。 で、私たちは、ともに探究しようとしています -その言葉の意味を、 その言葉の意義、その言葉の内容を、です。 私は、教授ではありません。 演台の上に座ることは、残念です -私はそれが好きではありません。 しかし、他の人たちの便宜のために、そうしなくてはいけません。 さもないと、もしも私が地面に座ったなら、あなたたちは、私が見えないでしょう。 私は、地面に座りたいとも思うのですが、ここに座らなくてはいけません。
10:31 これは、とても複雑な問いです。 私たちは、とても深くそれに入られるなら、それは、大きな意義を持っています。 芸術(アート)は、空間、重み、まとまり、深さの 流れる旋律的な様態、という意味合いです。 ここに、幾人か芸術家はいますか。 空間、深さと、まとまりの 流れる旋律的な様態、と私は言いました、 語り手は言いました。言葉、文章の、 または、キャンヴァス上の絵画の、です。 それは正しいでしょうか。 空間の、深さの、一定の物事 - 樹々、人々、言葉 - の、まとまりの、 流れる旋律的な様態。 それらが、一つの形の美しさ、一つの形の芸術です。 あなたはそもそも、これに同意されますか。 すなわち、もし、空間がないなら、もし、何かを見るなら - 例えば絵画です。 私が間違っているなら、誰かが訂正してくださるだろうことを、願っています。 もし、絵画を見るなら - 巨匠の絵画、 古典の巨匠や最近の人たち、本当に偉大な画家たちの、です - 空間があります。空間の感覚です。 姿形は、一定のさまに、まとまっています。 そこには、一定の深さがあります -色に、動きの感覚に、です。 それは、旋律的でなければなりません。 あなたが、これら風景画の幾つかを見るとき、 二、三の樹々のある、平原のコテッジが、描かれるかもしれません。 しかし、空間があります。色の深み、均整、 調和の感覚があります。ですね? それは、偉大な絵画になるでしょう。
14:16 世界の主要な美術館のほとんどを、訪問したことがあります。 おそらくあなたも、旅行客として、あるでしょう。 これらすべての巨匠たちを、見ます - オランダ、イタリア、イングランド、アメリカなどからの、です。 で、私たちは、訊ねています -美しさは、何でしょうか。 美しさは、原理に沿っているのでしょうか。 一定の規則に沿っているのでしょうか。 付いてきていますか。 または、均整とその他すべては、なければならないけれども、 美しさは、何か全然違ったものなのです。
15:13 私たちは、そこの山を見つめるとき、あれらの山、あれらの丘が見えるとき - 連なる山々。夕べに、そして 朝早く、他のあらゆるものの前に、太陽が触れるとき、青い。 あなたは、それが見えるとき、 反応は、大いなる静寂なのか -あなたは静かにしています。 空間があります。あなたとそれの間と彼方の、甚大な空間です。 そういう驚くべき美しい山々が見えるとき - 雪に覆われ、青空を背にしている - 一瞬の間、あなたは静寂になります。 その山のまさに美しさ、まさに雄大さ、荘厳さにより、 あなたは、静かにしています。 絶対的に静寂になります。 あなたは、美しさの衝撃、と言えます。 あなたたちが、あれらの山々を、見つめていることを、願っています - 私を、ではなくて、です 語り手は、まったく重要ではありません。 しかし、彼が言うことは、重要であるかもしれないし、重要でないかもしれません。 あなたは自分自身で、発見しなくてはいけません。 で、あなたは、何かとてつもなく壮大なものが、見えるとき - 大いなる高みと深みの、です - そのとき、その美しさの衝撃こそが、 当分、あなたの問題すべてを、追い払ってしまいます。 自己が、思いを巡らし、悩み、それ自体に話していることが、ありません。 見ている実体、自己、「私」は、ありません。 自己がないその瞬間に、大いなる美しさが、あるのです。
17:50 そして質問者は、訊ねます - 私たちの生において、芸術の役割は、何でしょうか。 私は知りません。 しかし私たちは、ともに見出しましょう。
18:18 なぜ何かが、役割を果たしたりするのでしょうか。 どうか、これは重要な問いなのです。 なぜ、私たちの生において、何かが、役割を果たしたりするのでしょうか。 最大の芸術は、生きることの芸術です - 最大のです。絵画、彫刻、詩歌と すばらしい文学ではない。 それには、一定の持ち場があります。 しかし、生きることの芸術を、自分自身で見出すこと - それが、最大の芸術です。それは、生におけるどの役割をも、凌ぎます。
19:26 で、偉大な画家たちの幾人かは、その人生において、神経症です。 きわめて動揺した生です。ベートーヴェンと他の人たちのように、きわめて動揺していました。 その動揺はおそらく、彼らが偉大な音楽を書くのを、助けるかもしれません。 または、もしも美的な生活を送ったならば - 私たちは互いに付いてきていますか - 美的な生活。 その生は、関係に・・・ 生は、関係に基づいています。 関係なしに、生はありません。 美的とは、知覚の能力です - ですね? 私たちは、互いに出会っているのでしょうか。 または私は自分自身に話しているのでしょうか。 知覚する能力。それは、とてつもなく敏感でなければならない、という意味です。 敏感さは、叫ぶこと、喚くことではありません。 敏感さは、静寂の深さから、来ます。 進みましょうか。 どうすれば敏感であるかを学ぶために、 専門校や大学へ行くことは、何の役にも立ちません。 または、どうすれば敏感であるかを、教えてくれる誰かへ行くのも、です。 私たちが言いましたように、美的であるとは、知覚する能力です。 一定の静寂の深さがないなら、あなたは知覚できません。 あなたは、静寂の中、これらの樹々を見つめるなら、 疎通があります。それは単に言語的ではなく、 自然との疎通、親交です。 私たちのほとんどは、自然との関係を、失ってしまいました - 樹々と、山々と、 大地の生き物すべてと、です。
22:33 私たちの関係における敏感さ、お互いに気づくこと - それは、いったい可能でしょうか。 それは、生きることの芸術です -葛藤でない関係を見出すことは、です。 それは、ともに生きることの旋律的な様態の流れです。 これらは理解されますか。 すべてのけんか、口論、所有欲と所有されること、 さびしさの恐れなしに、です - 付いてきていますか - 人間の闘争の循環全体なしに、です。
23:38 生きることの芸術は、 偉大な画家たちの芸術より、はるかに重要です。 それは、私たちが音楽をとおして、自分自身から逃避している、ということ なのかしれません。世界の美術館すべてへ入り、 それらについて果てしなく話をし、芸術についての書物を読むことをとおして、です。 そのすべては、自分たちの困り事、心配、抑鬱からの逃避なのかもしれません。 で、私たちは、深い知覚の美的な生を、生きられるでしょうか。 私たちの言葉に気づく。この国の雑音に、 人間たちの卑俗さに、気づく。 なぜなら、雑音の中より、静寂の中のほうが、はるかに多く学ぶからです。 これはすべて、平凡に聞こえるかもしれません。 しかし、そうではありません。 これは、自分自身への大変多くの観察を、必要とするのです。 その観察は、どの形の権威によっても、妨害されます - どう観察するかを教えてくれる他の人に、頼ることによって、です。 ただ観察する、見守る -あなたが歩くさま、あなたが話すさま、雑音、 そうね、起きているすべてを、です。 そのとき、その中から、生きることの芸術が、出てくるのです。
26:06 芸術は、私たちが言いましたように、物事を調和的にまとめることです。 自分自身における矛盾を、観察すること - いつもとても強い自らの欲望を、です。 そのすべてを観察する。 その対極を、創り出さない。 ただ事実を観察し、事実とともに生きる。 それが、旋律的な調和の生をもたらす道であるように、見えます。 私たちは、問いに答えたでしょうか。 わざわざ拍手なさらないでください。 なぜそうなさるのか、私は存じません。 たぶんあなたは、正しいことが言われたと、感じたい。 そして、それを鑑賞したいのでしょう。 しかし、語り手が言ってきたことは、あなたが考えていることです - そう願っています。 ゆえに、語り手のために、拍手をしないでください。
27:34 第二の質問: 「思考への観察は、 思考の継続的な使用であり、ゆえに、集中ではないのでしょうか。」
27:46 「思考への観察は、 思考の継続的な使用であり、ゆえに矛盾ではないのでしょうか。」すみません。集中でなく、矛盾です。
28:07 初めに、問いを検討しましょう。 思考への観察は、思考の継続的な使用であり、 ゆえに、矛盾ではないのでしょうか。 あなたは、あの樹を観察するとき、 自らが見てきた樹々の記憶すべてでもって、それを見つめていますか - 樹の下には木陰があり、おそらくあなたは、そこに座ったことがある。 或る朝、樹の下に静かに座ること、 木の葉、枝、幹の美しさすべてを見つめる楽しみ。 そして、幹の音も、です。 あなたは、それらを観察するとき、言葉をとおして、観察していますか。 あなたは、思い出をとおして、観察していますか - または、あれら気持ちいい夕方の記憶をとおして、です。 そのときあなたは、樹の下に座ったり、樹を見つめたりしました。 すると、あなたは、言葉の構造をとおして、見つめています。 ゆえに、実際に観察していません。 それは正しいでしょうか。 で、私たちは、自分たちがあらゆるものごとを、言葉の網をとおして見つめることに、気づいているでしょうか。 言葉は、過去の意味、一定の言葉の用法です - 内容をともない、憶えていることなどを、ともなっています。 すなわち、あなたは、樹を、見つめているでしょうか。または、天の唯一つの星を、です - 昨夜そうであったように、です。 新しい月と金星が一緒でした。 あなたはそれを、言葉をもって、見つめていますか。 または、昨日の晩の現象全体を、 唯一つの言葉もなく、見つめていますか。
31:10 で、観察、知覚は、思考の過程でしょうか - それは、互いへの言語的な疎通です。 過去の記憶と出来事などを収容している、言葉の用法です。 または、時なく、純粋な観察があるのでしょうか - 時は思考です。時は記憶です。 で、見出してください。 私たちが実際に何をするかを、見出しましょう。 私たちは、或る人物を、見つめられるでしょうか - 数多くの日々や年の間、一緒に生きてきた人を、 過去の思い出と出来事すべてなしに、 自らがその人物より導出してきた楽しみと慰めや 敵対 - 付いてきていますか - その過程全体なしに、です。 あなたは、まるでその人物に、新たに初めて会っているように、観察できるでしょうか。 あなたは、彼の顔や彼女の顔を、憶えているかもしれません。 もちろん、それは必要です。 さもないと、かなり厄介です。 しかし、或る人物を見つめること、或る人物に敏感であること。 いつも過去の記憶が、すべての時にそれ自体を投影しているとき、 その敏感さは、可能ではありません。ですね?
33:24 で、そこから、問いを訊ねます -思考は、それ自体に気づけるのでしょうか。 これは、かなり複雑な問いです。 あなたが、その複雑さを見つめるのを、気に掛けられないことを、願っています。 思考、考える過程全体 - その考えるのは、それ自体に気づけるでしょうか。 または、自らの思考に気づいている思考者が、いるのでしょうか。 問いを理解できますか。 これは、あなたにとって、困難になりつつありますか。これらに興味はありますか。
34:13 質問者: 一瞬の間、遮ってもよろしいでしょうか。 もしもあなたが、私が読んだご自分の(録音)テープと書物にある 衝撃的な発言の幾つかへ取り組まれたならば、 群衆は、もう少し興味深いと見るかもしれないと、思われます。 私は、比較的手短に答えられるだろうと思うし、 とても刺激的かなあと思う 種類のことの一例を、示しましょう。
34:40 一つの(録音)テープの中で、あなたは結婚を、「あの怖ろしい制度」と称されます。 私の問いは、ですねえ -詳説してもらえるでしょうか。 あなたは、例えば、若い男と若い女が 結婚なしに一緒に生活すべきだと、思われますか。 または、一緒に生活すべきでない -その種のことは、と。
34:59 私は他のことを持っています。

K: よろしい。幾らか面白くやりましょう。 その問いに答えましょう。 私たちは、これに戻ってくるでしょう。 もう一人の人物と一緒に、生活するかもしれません。 性的にとか、他の一人との関係において、です。 そして、責任を負う。 全責任を、私たちのどちらも、です。 そして、その責任を継続する。 それが自分に合わないとき、 他のその人物に、様々な異なった面で、満足できないときも、変化しない。 ですね? または、あなたは結婚を経ます。 すなわち、認可を受け、 教会へ行き、司祭者が夫妻を祝福します。分かりますね。 そこであなたたちは、結ばれます- 法律的に、です。 その結びつきは、法律的に、もっと責任があるとの感じを、もっとあなたに与えます。 ですね?すなわち、あなたは法律によって捕らわれます。 あなたたちは、私がこれに答えるのを、待っていますか。 あなたはそこで、法律により捕らわれます。 それには、責任が伴います - 持続的で長続きすると考えられるものが、です。 二つの間の違いは、何でしょうか。 あなたは法律的に、制御されています。 離婚するには、時間が掛かります。 あなたたちは、子どもを持っています。 子どもたちは、しばらくの間、あなたたちを束ねるかもしれません。 彼らが成長するまで、です。 それから、彼らが成長するとき、おそらくあなたたちは、お互いへさようならを言うのか、 離婚するか、その他すべてでしょう。 他方は、法律で認めた結婚ではないですが、 もう一方と同じほどか、おそらくもっと多く 責任があるのなら、 そのとき、二つの間の違いは、何でしょうか。 それは、法律に基づいた責任であるのか、 あるいは、便宜、必要性、快適さの責任、 そして、性的と、その他すべての要求か - これらには、どこに愛という問いが、あるのでしょうか。 ですね?
38:55 私たちの一人一人 - 一人一人です。妻と夫、 または、女の子と男の子、または、何であってもです。 彼らは、性的に以外に、いったい一緒にいるのでしょうか。 彼らが、法律的に結婚していても、法律的に結婚していなくても、一緒に、です。 彼らは、人前では、手を取り合うかもしれません- 人前で互いに抱きしめあうように、 この国でそうするように、です。ですね? アジアでは、それはかなり、非道徳的、不謹慎と考えられています。 彼らは自宅で、自分たちだけで、静かにそうします。 で、二つの間の違いは、何でしょうか。 これらにおいて、どこに愛があるのでしょうか。 どうか、この問いに、あなた自身で答えてください。
40:09 愛は、欲望の追求でしょうか。 愛は、楽しみでしょうか。 性的と他の形の楽しみでしょうか。 愛は、単なる交際で、互いに依存しあうことでしょうか。 愛は執着でしょうか。進んでください。 これらを探究なさってください。 もし、智恵をもって否定するなら -なぜなら、それの理由が見えるからです。 すなわち、執着は愛ではないし、無執着もまたそうです。 お互いの過去の出来事を憶えていること、 圧迫と侮辱とそのすべて、 日に日に、月々とか年々、一緒に生活すること、 蓄えた記憶、画像、想像。 そのすべては、確かに愛ではありません。 あなたが、このすべてを否定するとき、 すなわち、否定をとおして、肯定的なものへ来ます。 しかし、肯定的なものでもって始めるなら、否定で終わってしまうのです。 それが、あなたたちがみんな、やっていることです。ですね? 私は、真実であることを、言っていますか。 または、不正確なことを、ですか。
42:07 で、あのお方が、質問をされました - なぜ語り手は、それらについて話をしないのか、と。 生において、何が重要なのでしょうか。 生において、根本や、基礎的な本質的なものは、何でしょうか。 観察するにつれて、ますます- テレビと文学、雑誌、 起きていることすべてにおいて、 ますます表面的になりつつあります。 手っ取り早い答え。 あなたは、困りごとがあるなら、専門家へ行きます。 彼らは、何をすべきかを、言ってくれるでしょう。 それはすべて、表面的で卑俗になりつつあります - 軽蔑的とか侮辱的な意味なく、その言葉を使っていいなら、です。 それはすべて、表面的で、かなり子どもっぽくなりつつあります。
43:39 そして、何が根源的な問いや、根源的な必要性や、 生の深みであるかを、けっして訊ねません。 確かに信念ではなく、教義ではなく、信条ではなく、 知的な長話すべてではない - 共産主義の神学でも、カトリックの神学でも、 マルクス主義の神学でも、レーニンや、聖トマス・アクィナスでも、です。 それらはすべて同じです -理論、結論とイデオロギーです。 信念、信条、教義、儀式に、基づいています。 で、そのすべてが、自らの生において、ますます多くなりつつあります。 外的に、きわめて表面的です。 ちょうどあそこで、です。 私たちは、そのように生きるのです。 これは事実です。私は、そうでないことを、何も言っていません。
45:08 それは、驚くべき娯楽の世界です - 宗教的にも、フットボールでも、逃避するために何でも、です。 わめく、叫ぶ。けっして、静かな会話ではない。 けっして、何をも静かに、美しく見つめない。 で、根源的、基礎的な要求は、何でしょうか。 または、自らの生において、本当に最高に重要である、基礎的なものは、です。
46:00 質問者: あなたは、私たちに答えてほしいのでしょうか。
46:02 K: あなたは、答えたいなら、答えられます。
46:04 質問者: 答えは慈悲です。慈悲です。
46:07 K: 分かります。分かります。聞こえました。 あなたは、その言葉を使われるとき、またもやその言葉を、表面的に使っているのでしょうか。 または、あなたに慈悲があるのでしょうか。 理解されますか。 あなたが、「ええ、慈悲です」と言うとき、それはまったく表面的になります。 あなたはすでに、それに押印したのです。 「慈悲(コンパッション)」という言葉は、すべてへの熱情(パッション)を意味しています。 あなたの家族へだけではない。 あなたは、どの信念、どの教義にも執着しているなら、 慈悲を持ちえません。 完全な自由がないなら、慈悲はありえません。 慈悲とともに、智恵があります。 で、あなたが、慈悲、愛が、 生における、すべての物事の根である、と言うなら - 宇宙(万物)の、私たちの関係と行為すべての根本だ、と。 それを見出す。それに出くわす。 それとともに生きる。そこから行為する。 そのとき、結婚でも非結婚でも、 そのとき、あなたはもはや一個人ではありません。他の何かが、あるのです - 自分の些細な小さな自己からは、全然違ったものが、です。
48:17 ですね? あなたがその水準で訊ねたいとも思うもう一つの問いで、進めてもいいですか。 または、私たちは、この問いを続けられますか - 私たちが真剣にそれへ入られるのなら、それは本当にまったく重要です。 私たちは訊ねました -思考は、それ自体に気づけるでしょうか。
48:51 すなわち、思考は、思考者を創り出してきました - ですね? - 自らの思考から分離して、です。 そうではないですか。捉えましたか。 すなわち、そのとき、こう言う思考者がある-「私は自分が何を考えるかに、気づかなければならない」、 「私は、自分の思考を制御しなければならない」、「私は、自分の思考をさまよわせてはならない」と。 で、自らの思考より分離して、思考者があるのです。 思考者は、思考に対して行為します。ですね? さて、思考者は、思考と違っているのでしょうか。 または、考えること、思考が、思考者を創り出しました。 問いを理解できますか。 思考なしに、思考者はない。ですね? これについて、私たちは互いに出会っていますか。 どうか、なぜなら、これはかなり重要であるからです。 なぜなら、なぜこの二元性が、私たちに存在するかを見出せるなら - 対極、矛盾、「私」と思考、 思考者としての「私」、目撃する者、 観察する者と、観察されるものが、です。ですね? すなわち、そのとき思考者は、思考を制御します - ですね? 思考を形作ります。思考を枠に入れます。 しかし、思考者は、思考より異なっているのでしょうか。 思考が、思考者を、創り出したのではないでしょうか。
51:13 質問者: それは論理的に分かります。
51:15 K: お待ちください。まず最初に、論理的でありましょう。 または、知的にそれを見ましょう。 それはどういうことか?言語的に、です。 言語的に私は、きわめて明らかに分かります- 思考者と思考との間に 分割があるということが、です。 思考は、思考者を創り出しました。 で、思考者は過去です - 彼の記憶とともに、 彼の知識とともに、です。すべて、思考により、組み立てられています。 そちら(思考)は、経験などの後、生じました。 で、それは、過去の活動全体です -思考者は、です。 同意ですか?明らかですか? そのときそれは、言います - 考えることは、 思考者である私より、異なった何かである、と。ですね? あなたは、それを論理的に、知的に受け入れます- なぜでしょう。 あなたが、ではありません。 私たちはみんな、そうするのです。 私たちはみんな、「ええ。私はそれを知的には、理解します」と言います。ごくすばやく、です。 でも、なぜでしょう。なぜ私たちは、そう言うのでしょうか - 「私はそれを知的に理解する」と。
52:44 質問者: それは明白に見えます。

K: いえ、いえ。それに入ってください。 なぜ私たちは、最初の反応で、「私は知的に理解します」と言うのでしょうか。なぜでしょう。 それは、私たちがけっして、全部のことを見つめないからではないのでしょうか。 私たちは、何かを知的に見つめるだけです。 さて、語り手は、よく気をつけて、論理的に説明しました - 思考者と思考を、です。 あなたは、それを論理的に受け入れます。 私は言います - なぜあなたは、そうするのですか。なぜそうするのでしょうか。 それは、私たちのほとんどにおいては、知能が高度に発達している、または、 私たちの敏感さ、直接的な知覚より、はるかに発達している、ということなのでしょうか。 いいですか?もちろんです。 なぜなら、私たちは子どもの頃より、訓練されているからです - 取得するよう、記憶するよう、 頭脳を行使するように、ですね?すなわち、頭脳の一定部分を、です。 それは、言われてきたこと、情報を保ち、それを反復しつづけることに、なっています。 で、あなたは、何か新しいものに出会うとき、「私は知的に理解します」と言うのです。 しかし、新しいものに、けっして全的に、全部、出会いません。 すなわち、知的に、情動的に、 感覚すべてを目覚めさせて、けっしてそれを、完全に受け取りません。 あなたはそれを、部分的に受け取ります。ですね? 部分的な活動は、知的な活動です。 それはけっして、全存在が観察しているのではありません。 あなたは、「ええ。それは論理的です」と言われます。 私たちは、そこに止まります。 私たちは言いません - 諸感覚の一部だけが目覚めているのは、なぜなのか、と。 知的な知覚は、部分的な敏感さです。 部分的な感覚が、作用しています。 発電機を創り出す - そうするには、知的に考えなくてはいけません。 コンピューターを創り出す中、コンピューターを組み立てる中では、 あなたの情動と感覚すべてを、持たなくていい。 あなたは、機械的になっていて、それを反復します。 で、私たちが何か新しいことを聞くとき、同じ過程が、続けられます - 「私は知的に理解します」と言う。 私たちはそれと、全面的に出会わないのです。 で、言明はなされたのです。ですが、私たちはそれを、全的に受け取らないのです。
56:11 で、問題が、ここから生じます - 私たちがけっして、何にも出会わないのは、なぜなのでしょうか。 特に、あなたが樹や山、または、海の動きを、見るとき、です - あなたの感覚すべてを、高度に目覚めさせて、です。 なぜでしょう。 それは、私たちがいつも、部分的に生きる、ということではないのでしょうか。 すなわち、私たちはいつも、自分たち自身の中で、制限された範囲、制限された空間に、生きるのです。 それは事実です。 で、見る。あなたが今そうしたいなら、感覚すべてで、あれら山々を、見つめてください。 それは、その行為が起きるとき、あなたの感覚すべて - 目、耳、 神経、身体組織の反応全部、 それはまた頭脳でもあり、 あのもの全部を、全面的に受け取る、見つめる、という意味です。 そのとき、そうするとき、見ている「私」としての中心は、ないのです。 いいですね?
57:56 で、私たちは訊ねています - 思考は、それ自体に気づけるでしょうか。 これはかなり、複雑な問いなのです。 なぜなら、これは、よく気をつけた観察を、必要とするからです。 思考は、戦争を創り出してきました。 ですね?民族主義をとおし、 宗派的な宗教をとおして、です - カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教徒、仏教徒、と。 思考は、このすべてを創り出してきました。 ですね?それはすっかり確かですか。 神は、これらを、創造しませんでした -教会の位階制度、ローマ教皇、 衣装すべて、儀式すべて、お香を振りまくこと、 ろうそくを、です。ですね? 大聖堂や教会の中で行われる道具仕立てすべては、 思考により、組み立てられています。 その幾らかは、古代ギリシャ人でなく、古代エジプト人などから、まねたのです - 古代のヒンドゥー、エジプト人、ユダヤ人などから、です。 それはすべて思考です。ですね? で、神は、思考により創造されています。
59:50 いかなる恐れをも持たない人 -死ぬこと、生きること、諸問題の、 いかなる恐れをも、です。 彼は、神が要るでしょうか。 で、思考が、このすべてを組み立てたのです。 一歩一歩、思考が何をしてきたのかは、分かります - ですね?
1:00:24 で、思考は、自らの作用に気づきうるのです。 付いてきていますか。 あなたが、これらに付いてきているのかと、思われます。 それで、思考者と思考との間、観察者と観察されるものとの間に、 何も矛盾がないように、です。 何も矛盾がないとき、何も努力がありません。 それは、矛盾が、すなわち分割が、あるときだけです - (そのとき)努力が、あるにちがいないのです。 で、唯一つの努力、矛盾の影もなく、 生を生きることが、可能なのかどうかを、見出すには、 思考の動き全体を、究明しなければなりません。 そして、その時間や傾向を持っていません。 あまりに忙しすぎて、あまりに多く、することが、ある。 しかし、何かをしたいとき、たくさん時間を持っています。 あなたは、ゴルフをしたいとき、幾らでも時間を持っています。
1:01:51 で、思考の活動が何かを、見出すこと。 それを見守ること - それが、冥想の一部です。
1:02:19 第四の質問: 「あなたは、静けさ、静寂は、探し求めずに来ると、言われました。 しかし私たちは、それをもっと容易に来させるであろうさまで、生きられるでしょうか。」
1:02:35 私は、それがどういう意味なのかを、すっかりは知りません。 「あなたは、静けさ、静寂は、探し求めずに来ると、言われました。 しかし私たちは、それをもっと容易に来させるであろうさまで、生きられるでしょうか。」 ああ、はい。それはできます。 錠剤を呑むことによって、ね。ちがいますか? 薬物をとる、酔っぱらうことによって、ね。 問いを見てください。 彼は、何かを容易にほしいのです。 あなたは、(生の)オレンジを搾りたくない。 缶詰のオレンジを買うのです。 付いてきていますか。 何かを容易に、手早く、です。
1:03:27 あなたは、静寂とは何かを、探究したことがありますか。 静寂とは、何でしょうか。 平和とは、何でしょうか。 平和は、二つの戦争の間に、あるのでしょうか。 それが、起きていることです。平和と呼ばれるもの - それは、二つの戦争の間です。 この戦争は、次の戦争と同じく、すべての戦争を終わらせるためだ。 それを理解されますか。 その文句を、理解されましたか。 この戦争は、次の戦争と同じく、すべての戦争を終わらせるためだ。 すなわち、平和は、二つの雑音の間でしょうか。 平和は、二つの戦争の間でしょうか。 平和は、二つのけんか、口論の間でしょうか。 で、静寂は何でしょうか。 それは当然、店や薬局では、買えません。ですね? 私たちは、それをすばやく買いたい、それでやって行きたいとも、思います。 しかし、静寂は買えません。 平和もまた買えません。 ですね?そのとおりであるなら、静寂とは、何でしょうか。
1:05:22 静寂は、空間を、意味するにちがいないでしょう。 私は、小さな空間で、とても静かになりえます。 閉じこもり、目を閉ざし、自分自身のまわりに壁を巡らして、 何かつまらぬ、小さな事柄に、集中する。 そこには、一定量の平和が、 一定量の静寂が、ありえます。ですね? 私は、自分のねぐら、自分の読書室や静かな部屋に入り込み、そこに座ることができます。 しかし、私がそうするとき、空間は制限されています。 私の小さな部屋だけではなく、 私の頭脳においてもまた、空間はきわめて制限されています。 ですね? なぜなら、私たちのほとんどは、これらについて訊ねたこと、考えたことさえ、ないからです。
1:06:35 で、空間は、何でしょうか。 空間は、一つの点から、もう一つへでしょうか。 空間は、制限された次元でしょうか。 または、中心なしの空間でしょうか。 ゆえに、中心なく、ゆえに、境界がない。 理解されますか。 私が、「私」、私の問題、私の利己的要求、 私の、私の、私の、を持つかぎり、それは、とても制限されています。ですね? その制限は、自らの小さな空間を、持っています。 しかし、その小さな空間は、一つの形の自己保護的な壁なのです - その中に留まるため、 動揺しないため、問題を持たないため- 付いてきていますか - 面倒すべてを持たないため、などです。 で、私たちのほとんどにとって、自己のその空間が、自分たちが持っている唯一の空間です。 その空間から、私たちは、空間は何なのかを、訊ねています。 これらに付いてきておられるのか、と思われます。私は問いを、はっきりとさせていますか。
1:08:30 質問者: いいです。あなたは、こう言われています - 私たちは、静寂の理解を持ちうるように、 空間を持たなくてはいけない、と。

K: 何でしょうか。聞こえません。誰か聞こえた人は・・・

質問者: 私たちは、空間を持たなければならない。 楽しさを得られるように、 静寂な旋律の楽しみのための時間を見つけるように、空間を、です。 私たちは、空間なしに、静寂を楽しんだり、理解したり、静寂を持ったりできません。
1:09:10 K: もちろんです。理解するための空間、楽しむための空間、です。 ですが、いつも、それは制限されているでしょう。 で、制限があるところ、広大な空間は、ありえないのです。 それだけです。空間は、静寂を含意しています。 雑音は、空間を含意していません。 それが見えるのかどうか、私は知りません。 町で、人々の間で、つづいている雑音すべて、 現代の音楽の雑音すべて - そこに空間はありません。どこにも静寂がありません。雑音だけです。 それは、快いかも、快くないかもしれません。 それは論点ではありません。
1:10:16 で、空間を持つとは、どういう意味でしょうか。 ピアノでの二つの音の間の空間。 それは、とても小さな空間です。 または、けんかをしてきて、後でけんかを再開する 二人の人たちの間の、静寂。 それらは、きわめて制限された空間です。 で、無制限である空間は、あるのでしょうか。 天にではなく、宇宙にではなく、私たち自身に、 私たちの生きる道全体に、です。 空間を持つ。 想像力豊かではなく、ロマンチックではなく、広大な空間の感覚を、実際に感じることです。
1:11:21 すると、あなたは、「はい。私はそれを知的に理解します」と、言うでしょう。 しかし、あの問いを受け取る - 空間は何でしょうか。それの内容は何でしょうか。 あなたの感覚すべてでもって、それを全面的に受け取る。 そのときあなたは、それが何であるかを、見出すでしょう - 宇宙(万物)に関係している、そういう広大な空間があるのかを、です。
1:12:00 何時でしょうか。

聴衆: 1時まで15分です。
1:12:05 K: 私はもう一つ質問を、つづけてもいいですか。 あなたは疲れていませんか。ああ、これは・・・
1:12:21 第五の質問: 「真のグル(導師)といったものが、あるのでしょうか。 マントラの正しい使用は、いったいあるのでしょうか。」
1:12:35 「真のグル(導師)といったものが、あるのでしょうか。 マントラの正しい使用は、いったいあるのでしょうか。」
1:12:50 その言葉の意味を理解することが、必要であると、私は思います。 これら二つの言葉、グル(導師)とマントラ(真言)です。 それらは、二つのサンスクリットの言葉です。 グル(導師) - あなたは、それがどういう意味かを、知っていますか。 その言葉の根本の意味は、私は、多くのサンスクリット学者から、言われましたが、 本当の意味は、「重み」です。 重み、ウェイト、分かりますね。 それはまた、幻影を消去する者、という意味です。 ですね?それはまた、指し示す者、という意味です。 指し示す - 道をではなく、ただ指し示す。 そして、自らの幻想をあなたに、自らの愚かさを あなたに、課さない者、です。 どうか、これが、その言葉の意味です。
1:14:14 また、「マントラ(真言)」というその言葉の意味、根本の意味は、 熟考する、なりゆかない、という意味です。 それはまた、自己中心的な活動すべてを解消する、片付ける、という意味です。 理解されますか。 熟慮する、なりゆかない。そしてまた、自己中心的な活動すべてを、 解消する、片付ける、放逐する。 ですね?グル(導師)は、それらを意味しています。マントラ(真言)は、これらを意味しています。
1:15:11 そして、質問者は訊ねます -真のグル(導師)はいるのでしょうか。 北インドでは、小学校の 教育者、教師は、グルと呼ばれます。 彼らは(敬称として)グルジと呼ばれます。 なぜなら、彼は教えていて、情報を与えているからです。 さて、グル(導師)という言葉は、あの不幸な国から、 この国(アメリカ)へ、もたされました。 そして彼らは、そこから何百万に、何百万に何百万ドルも、稼いでいます。 あなたに、何をすべきかを言い、五百ドルか百ドルか二ドルで、 あなたに、マントラを授けます- 反復するため、です。 あなたが日に日に常に、何かを反復するとき、 頭脳は、今あるものになります。
1:16:31 そして、正しいグル(導師)はありません。 間違ったグル(導師)だけが、あるのです。 なぜなら、あなた自身以外、誰もあなたに何をも、教えられないからです。 彼らは、あなたに、読み書きの仕方、数学、生物学などを、教えられます。 しかし、誰もあなたへ、あなたが何なのかを、教えられません - あなた自身について、です。 そして、その伝統すべてから、 幾世紀のものすごい条件づけすべてからの自由が、あるのかどうかを、です。 それは、あなたが教師と弟子である、という意味合いです。 あなたの外側に、教師や弟子はないのです。 これの意味合いを、理解できますか。
1:17:37 私たちは、他の人たちに依存しています。 それは自然です。 私は - 人は、郵便配達人に、医師に、 コンピューター専門家に、依存しています。 モーターの組み立て方。 あなたは、それらに依存しています。 薬剤師、化学者に、です。 また私たちは、内的に他の人たちに依存することが、必要であると、考えます - 妻に、私は依存しています。もちろん、幾つもの面で、私は依存しなくてはいけません。 彼女は、私に依存しなくてはいけないし、私は、彼女に依存しなくてはいけない。 しかし、依存は次第に、執着になります。 そして、執着の苦悶すべてが、始まります。
1:18:30 で、自分自身について学ぶことは、無際限です。理解できますか。 学びは、無際限です。 書物については、そうではない。 それには、一定の制限があります。 すべての知識は、制限です。 明白です。明白です。いいですね? 何についても、完全な知識はありません。 科学者たちさえも、それを承認します。 彼らはいつも、付け加えています -もっと多く、もっと多く、です。 で、知識はいつも制限されています -今も、未来にも、です。 外的な知識は必要です。 その同じ波 - それが、内的に継続します。ですね? すなわち、私たちは自分自身を知らなければならない、と。ですね? ギリシャ人たちは - ギリシャ人たちの前、彼らは、「あなた自身を知れ」と言いました。 「あなた自身を知れ」は、他の誰かへ行って、自分自身について見出す、という意味ではない。 それは、あなたがしていること、考えていること、あなたのふるまい、 あなたの言葉、あなたのしぐさ、あなたの話し方、食べ方を、 見守る、という意味です。 あらゆることを、見守るのです。 訂正しない。「これは正しい」とか、「間違っている」とか、言わない。ただ見守る。 見守るには、静寂がなければなりません。 その見守りには、学びがあります。 ゆえに、あなたは、学んでいるとき、教師になるのです。 で、あなたは、教師と弟子の両者です。 地上の他の誰でもない。
1:20:49 あなたが注目されたのかどうか、存じませんが、この世界には、ますます多くの 施設、財団、協会が、あるのです - 外的と内的に、様々なことのために、です。ですね? 正しい行為のため、正しい思考のための財団・基盤。 各々が、自分の小さな基盤に、取りすがっています。 あなたは、「なぜ財団・基盤を持つのですか」と言っていいかもしれません。 私はあなたたちに言いましょう。 この(クリシュナムルティ)財団は単に学校を維持するために存在しています - 普通の学校です。 インドでも、です。そこには六つの学校がある。 イングランドと、ここ、オーハイにも、です。 そして、本を出版するためと、講話を手配するためです。他には何もない! 霊的なものはない - 私は、その言葉が嫌いです。 その言葉の裏に、何も宗教的な内容は、ない。
1:22:13 で、グル(導師)とマントラ(真言)という言葉の意味を理解するとき、 それらは、きわめて深刻になるのです。 マントラは、なりゆく構造全体を、解消する、という意味です。 で、それは、何も進化はない、という意味です- 自己にとって、精神・心理にとって、です。 それはとても複雑です。 私はそれに入らないでしょう。 自分自身を解き放てる人は、誰もいないのです。 外側には、誰も、です - 学ぶための自分の内的な誠実さ、大いなる謙虚さ以外には、です。 よろしいですね。 止めて、立ち上がってもいいですか。 ありがとうございます。