Krishnamurti Subtitles home


OJ83Q2 - 第2回質疑応答会合
カリフォルニア、オーハイ
1983年5月19日



0:25 質問をつづけていいでしょうか。
0:38 もしよろしければ、皆さんはなぜ来られるのか、と思われます。 私は侮辱していません。私はただ訊ねています。 あなたが来られることの動機は、何でしょうか。 私たちみんなが、ここに集まることの、 背景は何でしょうか。 または、意図は何でしょうか。 それは、好奇心からでしょうか。または、それはどういうことなのかを - 私がいうのは生は、です - 自分自身で見出そうとすることでしょうか。 または、あなたは、語り手の声を聴きたいのか、 または、彼がどんな種類の人物なのかを、推し量りたいのです - 彼は偽善者なのか、正気か、理性的か。 なぜ、これらすべての会合に来られるのか、または、どの会合へでも行かれるのか、と思われます。
2:04 懐疑的であり - 私たちの幾人かはそうであってほしいと、私は願っています - 問うのなら、 他の人たちが言いかねないことや、自分自身がやりかねないこと、だけではない。 自分の判断、評価、 自分の事情を、問い、疑う。 そのとき、それは、とてつもない重要性を、持つのです。 しかし、ただ、わずかな言葉を聞く、同意や不同意をするだけではなく、 もしも私たちは、ここに来ることの意図が、 きわめてはっきりできたなら、 そのときその意図は、正しくて正直であるなら、 そこに或る種の深さを、持っています。 もしそれが単に、わずかな観念、わずかな言明を集めるためだけなら、 残念ながら、それは、あまり価値を持たないでしょう。
3:42 で、私たちは、質問を進めてもいいですか。
3:50 第一の質問: 「なぜあなたは、自らが言っていることにおいて、そんなに抽象的でなく、 もっと実践的でないのですか。」
3:57 「なぜあなたは、自らが言っていることにおいて、そんなに抽象的でなく、 もっと実践的でないのですか。」
4:06 実践的、というのは、どういう意味かと、思われます。 「実践的」という言葉は、「行為に適した」という意味です。 またそれは、もう一つの意味を、持っています -反復された行為、習慣的な行為、です。 そして、その言葉の、より複雑な説明です。
4:44 私たちは、実践的でしょうか。 数千、数万年の後に、 戦争が起きているとき、 そして、戦争の継続、それは、実践的なのでしょうか。 それは、習慣的な運用でしょうか。 私たちはこれを、幾千年もの間、やってきました。 互いに殺しあう - 銃砲と、人々を殺傷する他の手段でもって、だけでなく、 誹謗中傷、憎しみでもっても、です。 世の中で起きている暴力的なことすべて。 そのすべては、実践的でしょうか。 または、私たちはその種の生き方に、慣れ切っているし、 私たちは、それを一番実践的と、受け入れるのです。 質問者は、「なぜあなたは、そんなにみだりに抽象的ではなく、 もっと実践的ではないのですか」と、言われます。 「抽象」という言葉は、分割する、分離する、引き出す、という意味です。 事実から引き出す、 自らのあるがまま、実際のものから、引き出すのです。 抽象化する。そうであると私たちが感じること、 実感することから、分離して、それを抽象概念にする。 私たちの感じることから、私たちがあるべきものへ、分離する。 それは抽象です。 で、質問者は訊ねます - なぜあなたは、自らが話していることにおいて、 そんな抽象的でなく、もっと実践的でないのでしょうか。
7:15 で、私たちはそもそも、実践的でしょうか - おそらく、生計を立てること、技能を持つこと、良い大工、 良い化学者、良い著作者や、 優秀な思考者であること以外に、です。 しかし、実践的であること、すなわち、指摘してもよろしいなら、生を生きること - 私たちは助言していません。ばか者だけが助言します。ただ指摘しているだけです - なぜなら、私たちは、私たちのどちらもが、実践的であるとは、 どういう意味なのかを、一緒に考えているからです。 私たちは、その言葉の意味を、定義しました - 様々な良い英語辞書に沿って、です。 辞書は、言葉の普通の用法と、 それら言葉の意味です。 「実践的」とは、「反復的に行うこと、行為すること」を意味しています。 考える、憎む、誹謗中傷、それら。暴力的である- それはすべて、実践的なのでしょうか。 また私たちは、それに慣れています。 私たちは、この作用と反作用(行為と反応)を継続しつづけます。 あなたは私を憎む。私はあなたを憎む。 あなたは暴力的である。私は暴力的になる。 あなたは私を殴る。私はあなたを殴る。 これが、私たちが幾世紀をとおして反復してきた様式です。
9:29 あなたは言うかもしれません - あなたは、何か実践的でないことを、してこなかったのですか。 すなわち、あなたは - あなた、語り手は -反動、すなわち 習慣的な応答、反復された行為でないことを、何か、してきたのでしょうか。 私たちは、行為とはどういう意味かについて、はっきりしなければなりません。 道徳的な行為を、持つのか - 或る種の道徳的な価値、 道徳的、美的な知覚に、基づいた行為か。 もし、自らは何かをするなら、他の人は、何か正確でないことを、するなら - すなわち、道徳的でないことを、です -そのときあなたは、一定の関係を持っています。 行為するための一定の責任を、です。 それは、習慣的でなく、反復された行為でないかもしれません。
10:47 質問者は、また知りたいと思うのです - なぜあなたは、抽象において話をしているのでしょうか。 そうなのでしょうか。 語り手は、抽象において、話しているのでしょうか。 または彼は、私たちがみんな - 私たちの一人一人が - していることを、指摘しているのか。 互いに判断しあっているのではなく、 非難や誹謗をするのではなく、見守っている。
11:49 その、自分自身と他の人たちを見守るなかで、 あの静寂の性質がないならば、 そのときその見守りから、あなたは、実際に有るものから、抽象を作りえます。 それを分離して、観念に、です。 「観念(アイディア)」と「理想(アイディール)」という言葉の本来の意味、 ギリシャ語などの意味は、「観察する」。 「観念」は、観察する、という意味です。 観察されるものから、抽象を作ることではない。 私は、樹を観察します - 樹と呼ばれるものを、です。私は、それの抽象を作ります。 私の知覚から、それを分離します。 それから、その観念を作ります。 で、樹の実際と、樹の観念は、 二つの別々のことなのです。
13:15 仮に、私は恐れている、とします。 それは実際です。恐れは実際です。 しかし、それの抽象は、すなわち、事実から「私は恐れるべきではない」へ 分離してしまうことは、抽象です。 または、「私は勇気を養成しなければならない」へと。 それは、私は恐れているという事実からの、抽象です。 で、観念を、今私たちは受け入れますが、それは、事実から分離した何か、です。 ですね? で、私たちは、抽象について話しているとき、 実際との間に分割をもたらす、という意味です - それの観念を作り、事実でなく、観念を追求するのです。 それが、私たちがいつの時も、やっていることです。 私たちは - 共産主義者たちは、一定のイデオロギーを、持っています - とても強い、残忍である、その他すべてです。 で、いわゆる自由な国々もまた、一定の概念、 価値、判断を、持っています。 世界には、貧困があります。 さて、それの抽象は、何をすべきか、です。 私たちの一人一人や、各々の集団、各々の政党が、 これがされるべきである、あれがされるべきである、と言います。 で、彼らは、事実にではなく、観念に関与しています。 あなたは、事実についてけんかはできません。ですね? 今日、太陽は暑い。それは事実です。
15:32 で、貧困のような問いを解決するには、 それについてイデオロギーを作ること、それについて抽象化することは、何の役にも立ちません。 事実に向き合うこと。 世の中の貧困を解決することが、可能なのかどうか - 観念をとおして、概念をとおして、ではない。 そして、政治的な関係ではなく、地球的な関係が、あるときだけ、 それは可能です。 民族性、国籍がないときだけ、その地球的な関係は、存在できます。 ですね?明白です。 世界では、貧困が増大していますが、 その貧困は、政党や、社会主義政党や 様々な種類の党派によってではなく、事実を悟ることによってのみ、解決できるのです。 それは、抽象ではなく、事実です。すなわち、 これら分割があるかぎり - それらは、事実からの抽象です - この貧困の問題は、とうてい解決できない、ということを、です。
17:03 ですね?そのとき、言うのです -私は何をすべきでしょうか。 民族主義的で愛国的な精神に、満ちている国に、 生活している一人物として、 私は、何をすべきでしょうか。 明白で、とても単純です。 民族主義者でいないでください。 どの集団、どの協会にも、 そうね、その他すべてに、所属しないでください。 問題に関して、分離的な行為があるかぎり、 その問題はけっして、解決されないでしょう。 またはむしろ、その問題 -その問題の解消において、 他の千の問題が、あるでしょう。 これが明らかであってほしいと、思います。
17:55 で、私たちが言っていることは、相当に実践的であると、見えるのです。 何かできること、という意味で、実践的です。 習慣的な、反復された行為ではなく、 何か実践的で、明白で、健全で、理性的なことです。ですね? 質問は、答えられたでしょうか。 または、私たちは次のものへ、進みましょうか。
18:40 アメリカ人は、とても実践的な人々である、と思われています。 そういうわけで、彼らは川すべてを汚染し、 空気を汚染し、森林を、世界の驚くべき動物すべてを、 破壊するのです。 彼らはみんな、とても実践的な人々です。 赤ちゃんアザラシを殺す。あなたはそれらを、起きていることを、ご存じです。 私たちはけっして、なぜ人間たちが殺すのかを、問いません - それを抽象化するのではなく、なぜ彼らが殺すのか、です。 言葉でもって、しぐさでもって、或る種の仕掛けなどでもって、です。 または、実際に互いに殺し合う。自然と、この世界の動物たちを、殺す。 なぜ殺すことは、私たちの生の様式に、なったのでしょうか。 あなたは、私たちはこれをここ百万年間、やってきた、と言うかもしれません - それは、習慣的で反復された行為である、と。 そのため、私たちはとても実践的だと呼ぶのです。 私たちは、これらのいわゆる実践的、習慣的、反復された行為を、けっして問いません - 日曜日ごとに教会へ行く- そもそも行くとしてですが - または、或る徒党や指導者に、服従する。 小集団に、です - それ自体を閉ざし、他のあらゆるものへ、抵抗するのです。 - なぜ私たちは、これらをするのでしょうか。
20:49 それは、私たちは安全がほしい、ということなのでしょうか。 分離に、安全があるのでしょうか。 分割に、です。 (レバノンの)ベイルートで起きていることの、すばらしい事例が、あります。 または、イスラエルとアラブの、です。 私たちはみんな一つ、人間です。 私たちは、自分たちを人種、宗教へ分離してしまい、 その様式を、そのプログラムを、守りつづけます。 私たちは、コンピューターのように、プログラムされてきました。 私たちは、それを反復しつづけます。 私たちはそれを、とても実践的だと呼びます。
21:50 で、幾らか違っていることは、可能でしょうか - 私は、非実践的、と言おうとしていたんです!
22:12 第二の質問: 「私のエネルギーと時間のほとんどは、 生計を立てるための格闘へ、注がれます。 私が、そして私のような人たちが、深く非利己的で 智恵を持つことは、可能でしょうか。」
22:27 「私のエネルギーと時間のほとんどは、生計を立てるための格闘へ、注がれます。 私が、そして私のような人たちが、深く非利己的で 智恵を持つことは、可能でしょうか。」
22:50 あなたは、この問いへ入りたいですか。 なぜあなたは、そんなに熱心なのでしょうか。 他のについて、ではなくて、です。 他の問いは、抽象的でなく、 実践的であることでした -抽象において話さないこと、です。 これが、私たちの生です。 これが、私たちの毎日の生です。 運のいい人たち、彼らは、自分の手段を、持っています。 彼らは、果てしなく働かなくていい。 そういう種類は、ごくわずかに、います。 そして、幸運にも、または不運にも、お金を集めてきた 人たちが、います - 必ずしも、自分たちに所属しないものを、です。 そして、隠遁した、幾らか利己的な生を、生きるのです。 そして、日々のパンを稼がなくてはいけない、それらの人々 - 9時から5時まで、 工場、オフィス、労働、大工仕事など。 私たちはそれらに、大変多くのエネルギーを、使います。 で、私たちは、質問者は、言うのです -私は、この利己性と智恵の事柄を、 探究する時間を、ほとんど持ちません。 私は、あまりエネルギーを、持っていません。 私のエネルギーは、仕事の中、することの中で、消散します。 ですね?そのとおりですか。
24:53 働かなくてはいけません。 社会が、構築されているので、 生計を立てるために、働かなくてはいけません。 または、給付金によって、生きられます。 社会保障と呼ばれるものによって、です。 私たちは、どのように自分たちのエネルギーをむだにするのかを、本当に探究すべきです。 私のエネルギーすべてが、日々の仕事をとおして、取られてしまう、ではなくて、 私たちは、どのように自分たちのエネルギーをむだにするのかを、本当に探究すべきです。 エネルギーを保存して、必要なとき、それを使い、 そうでないとき、保持することは、可能でしょうか。私の話は明らかになっていますか。
25:58 私たちは、どのようにエネルギーを、むだにするのでしょうか。どうか、私の質問を理解してください。 どのようにエネルギーを使うべきか、ではない - 非利己的であることと智恵への探究を、要求するエネルギーを、です。 むしろ、この問いを、探究しましょう。 異なった視点から、 接近しましょう。 すなわち、私たちが、いかにエネルギーをむだにするかを、見出すのです。 ですね?そのときそれは、きわめて明らかになるでしょう。 私たちは、おしゃべり、果てしない話によって、 エネルギーを、むだにするのでしょうか。 ですね?私たちのほとんどが、そうします- 果てしない話です。 常に葛藤になっているのは、エネルギーのむだでしょうか - オフィスで、家などで、です。ですね? 自分自身の内と外側の葛藤は、エネルギーのむだではないでしょうか。
27:23 葛藤からいかに自由になるか、ではない - 当面は、です。 私たちがいかに、エネルギーをむだにするかを、観察するのです。 葛藤。私たちは個々人であるとの概念や幻想、 それで、あらゆる人と闘うこと - ですね? -あらゆる人に対して、です。 自分自身を、小さな神経症的な状態に、閉ざし、 恐れなどをとおして、自分自身のまわりに、壁を築く。 それもまた、大変多くのエネルギーのむだです。ですね? 理想を追求することは、エネルギーのむだです。 事実を終わらせることは、そうでない。 私の話は明らかになっているのか、分かりません。
28:34 仮に、自らが暴力的であるとします。あなたは、非暴力を追求します。それは、非事実です。 非暴力の追求は、エネルギーのむだです。 ところが、暴力の本性を理解する、 それへ、暴力の複雑さへ深く入る、そして、 それを終わらせることが、可能なのかを見ること- それは、エネルギーのむだではありません。 しかし、非事実、すなわち理想を、追求することは、 それが、政治的な理想やマルクス主義の理想や、共産主義の理想であっても、 エネルギーのむだです。 お互いに対して、軍備を築くことは、 ものすごいエネルギーのむだではないですか。 ちがいますか?あなたが、テレビの解説の幾つかを 聞いてきたのかどうか、私は知りません - (ソビエト・)ロシアがいかに、軍備を築き上げているか、そしてアメリカが、についてです。 それをよく気をつけて聞くにつれ、それはすべて、狂気に、とてつもなく非理性的に、 見えるのです。 で、自らが狂おうとしているのかと、思われます。 たぶん、これらに関与している人々のほとんどは、 様々な形で、かなり神経症的です。 たぶん私たちのほとんどは、そうです。
30:27 で、私たちがいかにエネルギーをむだにするかを、自分自身で見出すこと。 最大のエネルギーのむだは、自分自身に関心を持つことです。 ちがいますか。 なぜなら、自分自身に、自分の神経症の状態に、関心をもって、 それに気づかないこと、 自分の主題と自分の問題、 自分の達成に関心をもつことは、 きわめて制限されたエネルギーです。 それは、とても制限されています。 ゆえに、あなたのエネルギーは、制限されています。 しかし、それからの自由があるとき、無量のエネルギーが、あるのです。 しかし、自分自身へと自分の傷へのその関心より、そして、代わりに他の人たちを 傷つけたがることより、自由であること。 その自分自身への関心は、世の中に大きな混沌を、もたらしつつあります。 自分の覚りを探し求めること、 自分の特定の小さな導師に従うことは、 エネルギーのむだなのです。 私たちは、冥想について話をするとき、それについて、もっと話をするでしょう。 で、これらすべての路線に沿ってエネルギーをむだにしないことは、可能でしょうか。
32:48 あなたは、そのエネルギーを持っているなら、それをどうするのでしょうか。 もっと悪さをするのでしょうか。 もっと暴力的に、もっと残虐になるのでしょうか。 で、エネルギーの保存には- 付いてきていますか - それは、エネルギーのむだを理解することから、訪れます。 そのエネルギーを保存することは - それは、あなたがエネルギーを保存する、ということではありません。 エネルギーが、むだにされていないとき、エネルギーが、あります。 自分がいかに、エネルギーをむだにするかを、発見する中で、 智恵の始まりが、あるのです。ですね? その智恵は、エネルギーのむだではありません。 その智恵は、とてつもなく生きています。
34:11 利己的であるなら、とうてい智恵を持ちえません。 ですね?利己性は、分割、分離の部分です。 私は利己的ですし、あなたは利己的です。 私たちの関係において、私たちは利己的です。 で、エネルギーのむだの本性を理解する - 表面的にだけではなく、きわめて深く、です。 その究明、探査、疑問の中から、 一定のエネルギーの性質へ、来るのです - それは、智恵から出てきたものです。 単に、エネルギーのむだを、脇に置いただけではない。 あなたがこれを理解されるのかと、思われます。 私は、それをつづけられるでしょうか。または、あなたは、次の質問へ行きたいのでしょうか。
35:29 で、私たちはここでまた、本当に訊ねるべきです - 智恵は何でしょうか。 きわめて学識がある人々 - 彼らは、智恵があるのでしょうか。 私は、彼らにはないと言っていません。 私は問うています。 政治家であり、軍備などを築いている人々 - 彼らは、智恵があるのでしょうか。 智恵は単に、思考の活動でしょうか。 その思考がどれほど減退していて、より微妙で、より複雑でも、 まさに思考の活動は、智恵なのでしょうか。 あなたが問うていることを、願っています。 私たちのどちらもが、この事柄で、ともに考えていることを、願っています - これらすべての事柄において、です。 語り手が言っていて、あなたは聞いている、ということではない。 ともに私たちは、この智恵の問いを、究明しています。 私たちが、エネルギーのむだと、 何が実践的なのかについて、やったように、です。 で、私たちはともに、智恵が何かを、問うています。 私たちは訊ねています - 考えることは、どれほど微妙でも、どれほど複雑でも、 思考の活動すべては、発明、創案(を含めて)、 きわめて複雑な機械を組み立てることを、含めて- (例えば)コンピューターのように、 ロボットのように、ミサイルや、潜水艦のとてつもない機械や、 これら美しい航空機のように、です。 それらはすべて、ものすごい思考の活動の結果です。 また、思考の活動は、私たちがそれらをどのように使うのか、です。ですね? 私たちのイデオロギー、使用、利得、様々な形の動機に、基づいて、です。
38:22 で、私たちは、とても根源的な問いを、訊ねています - 思考は、そのとてつもなく複雑な活動と、 きわめて表面的な活動のすべてにおいて、 智恵は、思考の根なのでしょうか。 思考は制限されています。 なぜなら、思考は、経験に、知識に基づいているからです - 経験に由来して、記憶として頭脳に蓄えられた知識に、です。 そして、その頭脳への反応が、思考です。 何も記憶がないのなら、何も知識がないのなら、 何も経験がないのなら、考えることはありません。ですね? この地上のあらゆる小さなもの、一番小さなものも、 思考の性質を、持っているにちがいありません - 本能です。 しかし、私たちのような人間 - 私たちは進化してきました。そうだと思われます。 私たちの最大の道具は、思考です。 その思考は、実際には、とても制限されています。 なぜなら、知識はいつも - 過去、現在、未来に- 制限されているでしょう。 明白です。 科学的な世界、生物学の世界、機械の世界 などなどなどにおいて、そうであるように、 何でも、思考により生まれ、もたらされ、組み立てられたものは、制限されています。 その制限された思考は、無制限のものを、創案できます。 しかし、それはやはり、思考の結果です。 思考は世界を、様々な宗教へ、分割してきました。 そして、教会、寺院、神殿、モスクの中にあるすべての物事は、 思考の創案、発明です。 あなたは、それを越えられません。 それは事実です。 思考が創り出してきたもの - それから、それを私たちは崇拝します。 すばらしい自己欺瞞です!
41:27 で、私たちは訊ねています -智恵は、思考の活動でしょうか。 または、それは全的に思考の領域の外側にあり、それから、それが思考を使えるのです。 付いてきていますか。 その逆に、ではありません。 私の話は明らかになっているのかと、思われます。 で、智恵の本性を探究するには、 見たところ私たちが持っている唯一つの道具を、よく気をつけて、 検討しなければなりません -すなわち、思考を、です。 思考は、情動、感覚的応答などなどを、含んでいます。 そのすべてが、頭脳を、中心にしています - それは、人間たちの構造全体です。
42:48 語り手は、頭脳に関する専門家ではありません。 ですが、見守ります。 自分の反応、自分の応答、傷、幻想を、見守ります。 何も動機なく、静寂に見守るとき、 その見守りは、ものすごく多くを、開示します。 騒音の中より、静寂の中でのほうが、大変多くを学ぶのです。ですね? それは、異なった事柄です。 で、私たちは、智恵があるのでしょうか。 ゆえに、実践的であり、 ゆえに、けっして分割を、もたらさないのでしょうか。
44:07 私たちは、それについて、もっと多く話すでしょう - 私たちが、世界全体について、 死、苦しみの意義は何か、そして、 慈悲の大きな問いについて、話をするときに、です。
44:31 第三の質問: 「あなたは、世界を大変多く旅行して、回られます。 しかし、私は、家族とともに一カ所に留まり、制限された地平線に 生きなければなりません。 あなたは、地球的な視野について、語られます。 私はどうやって、これを持つべきでしょうか。」
44:52 「あなたは、世界を大変多く旅行して、回られます。 しかし、私は、家族とともに、一カ所に留まり、 制限された地平線に、生きなければなりません。 あなたは、地球的な視野について、語られます。 私はどうやって、これを持つべきでしょうか。」
45:15 すみませんが、私はけっして、地球的な視野について、話したことはありません。 語り手は、視野(ヴィジョン)に、耽溺しません - または、想像や、空想的、ロマンチックな戯言に、です。 彼は言っていました - あなたは、地球的な関係を持たないなら、 世界に、物理的な世界に、平和を持ちえないのです。 視野(ヴィジョン)、何か空想的なこと、ユートピア、非事実である何か理想、ではない。 事実は、私たちが分割されている、ということです - 民族性、国籍、 宗教、宗派的な小集団、より小さな集団として、分割されています。 そして、この戦争の問いが、あります -それは、高まりつつあり、脅かしつつあります。 そして、人は、平和の本性を - それはとても複雑です -理解したいのかどうか、です。 外的には、地球的な関係が、なければなりません。 それは、民族性、国籍がない、宗教的な分割がない、という意味です - それらが、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教徒、仏教徒とそれらの事柄でも、です。 彼は、視野(ヴィジョン)について、まったく話をしていません。 これは実践的なのです。他方は、非実践的です。 原子爆弾などをとおして、 百万ごとに互いに殺し合うことは、大変、非実践的です。 しかし、見たところ、私たちの精神は、条件づけられていて、 そのため、私たちは非実践的なことへ、縋りつくのです。
47:42 質問者は言います。または、訊ねます - あなたは、大変多く旅行して回りますが、私は、家族とともに、一カ所に留まらなければなりません。 それで、私の地平線は、制限されています。 地球的な視野については、答えました。私はどうやって、それを持つべきでしょうか。 あなたがいわれるのは、あなたの住宅、家族が、 あなたが世界への地球的な見通しを、持つのを妨げる、という意味でしょうか。 ですね? よろしければ、私はこの質問をしています。 自らは、小さな村に生きていて、果てしなく働くとか、または、あなたの神経症的態度とそのすべてが、 存分に動けるどこかの場所に、生きているかもしれません。 しかし、あなたは、小さな村に生きている間は、 地球的な態度を、生への全包括的な接近を 持ちえない、と言うつもりでしょうか。 私は、大変尊敬を込めて、この質問をしています。 地球的な態度を持つためには、世界中を、旅行しなくてはいけないのでしょうか。 あなたたちのほとんどは、たぶん世界中を旅行したことがあります。 旅行客は、そうします。 旅行客は、どこに行こうとも、その場所を破壊します。 私は、かつて麗しい村々と町々があったのを、知っています - 旅行客たちが来る前に、これら巨大なホテルなどではなくて、です。 旅行客たちが来るとき、何が起こるのかは、ご存じです。 食べ物は、より高価になり、旅行客たちは、ごまかされます - そのすべての事柄を、ご存じでしょう。 で、一つの人類の見通し、むしろ感じを持つとは、 どういうことなのでしょうか。 世界、人間世界全体が、あなたであるとの 感じを持つとは、どういう意味でしょうか。
50:47 人間世界には、大きな困り事、大きな心配と悲惨、混乱と、 凶暴で神経症的な活動が、あります。 そして、あなたなるものは、残りの人類であることを、悟ります。 それは事実です - あなたが、それへ単純に入るなら、です。 理論的にではなく、抽象において、知的にではない。 たとえ、あなたが知的に、それへ入るとしても、 私たちの頭脳が個別の頭脳でない、ということは、事実です。 それらは、幾千年をとおして、進化してきたのです。 あなたが、自らの小さな村と仕事から、観察するとき、 何が世界で起きているのかが、観察できるのです - 戦争、戦争、戦争、憎しみ、人対人、 人々の間の永久のけんか、 一人は相手を責める。彼らを法廷に訴える。 離婚するとか、あれやこれや、です。 このすべては、幾らか譲り、智恵を持つなら、調停できるのです。 しかし、私たちはそうではありません。 そして、私たちなるものは、きわめて、きわめて制限されています。
53:12 あなたは、私はどうやって、この制限を突き破るべきだろうか、と訊ねられません。 あなたが全人類であるとの感じを持つには、 「どうやって」は、ないのです。それは、私たちの最も非実践的な問いの一つです。 あなたが、車の運転の仕方を学びたいとき、「どうやって」が、あります。 あなたが、数学や新しい言語などを学びたいとき、「どうやって」が、あります。 しかし、心理的に、「どうやって」は、ないのです。 あなたが「どうやって」を持つなら、それは、体系、方法を意味しています。 あなたは、体系、方法を実践するとき、 同じ古い制限された、狭い、鈍い精神に、再び、戻っています。 で、それは、地球的な全包括的な知覚の道を、理解するために、この制限された生の道から、 どうやって抜け出すかの問いではないのです - 制限を、自分の制限を、観察するため、です。 他の一人についての 自分の狭く醜い先入観や結論、 または、自分の結論と、それらに縋りつくことを、(観察するため、)です。 「結論」という言葉こそが、終わることを、意味しています。 私たちは、平和を締結してきました。 私たちは、戦争を終結してきました。 で、何も結論がなく、 探究、探査、疑問、疑いがあるのです。 そして、私たちが、自分たちのまわりに築く壁 - それが、本当の問題です。 宗教的な壁、人格的な壁、神経症的な壁。 それが問題です - それらに気づくこと。 動機なく観察すること。 神経症の人物にとって、それはとても困難です - 自分はこれである、自分はあれである、とか、他の人物はあれやあれである、と、 結論してきた人物にとっては、です。 地球的な関係のみが、私たちの人間的問題を解決できるのです - 戦争、貧困のように、です。 そして、自らの制限に気づくことが、です。
56:41 第四の質問: 「あなたは、恐れとともに留まって、逃避しようとせず、 自分が恐れであることを悟るなら、そのとき恐れは去ってしまう、と述べられました。 これは、どのように訪れるのですか。 他の機会にそれが 違った形で戻ってくるのを、何が防ぐのでしょうか。」
57:04 「あなたは、恐れとともに留まって、逃避しようとせず、 自分が恐れであることを、実際に悟るなら、そのとき恐れは、おそらく 去ってしまう、と述べられました。 これはどのように、訪れるのですか。 他の機会に、それが違った形で戻ってくるのを、何が防ぐのでしょうか。」
57:35 質問を理解しましたか。 私に、もう一回、繰り返してほしいですか。 もう一度、繰り返していいですか。 「あなたは、恐れとともに留まって、逃避しようとせず、 自分が恐れであること、すなわち、自分は恐れより分離していないことを、実際に悟るなら、 そのとき、見たところ、あなたによれば、 恐れは去ってしまう、と述べられました。 これはどのように、起きるのですか。 これはどのように、訪れるのですか。 他の機会に、それが違った形で戻ってくるのを、 何が防ぐのでしょうか。」 明らかです。今、この疑問は明らかです。
58:34 どうか、語り手が述べてきたことを、受け入れないでください。 それが第一のことです。 彼を疑い、彼を問うてください。 彼を、或る種の愚かな権威に、しないでください - あなたにそれについて、ご注意を申し上げていいなら、です。
58:58 誰かは、または、あなたは、聞きました - すなわち、実際に恐れとともに留まるなら、 そのときその恐れは去ってしまう、と。 恐れとともに留まることは - 私たちはともに、それについて議論しています。語り手は、何をも述べていません - 私たちは恐れとともに留まるなら、それは、それから逃避しない、 その原因を探し出そう、と言わない、という意味です。当分は、ね。 私たちはそれに入るでしょう。私は、よく気をつけて、それに入ろうとしています。 それとともに留まるとは、逃避しない、それの原因を探し求めない、それを合理化するとか、 それを超越するとかしない、という意味です。 理解されますか。何かとともに留まるとは、そういう意味です。 あなたが月を見つめるとき、留まる。 それを見つめる。ですね? なんと美しい、なんとこうだ、なんとああだ、と言わない。 ただそれを見つめる。それとともにいる。 そのとき、恐れは去ってしまう、と述べられています。 質問者は言います - そうなのでしょうか。 彼は、それへさらなる探究を、求めています。
1:00:49 あなたと語り手は、探究をしています。 語り手はそれを、言葉に表すかもしれません。 しかし、私たちはどちらも、一緒に旅を、行っています - 言語的にだけではなく、実際に、です。
1:01:04 言われているように、恐れとは何でしょうか。 時と思考があるとき、恐れは起こりうるだけです。 昨日、起きた何かとしての時、 または、一年前か、四十年前に、です。 そして、何かあなたがすべきだったり、すべきでなかったこと。 または、誰かがそれについて、あなたをゆすっている。見てください。ですね? 時は、起きてきたことです。あなたは、それで脅かされていて、 その脅しを恐れている。なぜなら、あなたは自分自身を、保護しているからです。 そして未来は、恐れないことです。ですね? で、恐れの動き全体は、時なのです。 過去は - いいですね? - それは、現在に出会って、その感情、恐れの反応を、 創り出す。ですね? それは、未来に継続する。 で、それは時の問題です - ですね? これは明らかですか。 私たちはここに、一緒にいますか。 時は、恐れをもたらす要因です。ですね? 私は今、仕事を持っている。しかし、その職を失うかもしれない。ですね? 工場は、閉められるかもしれない。 それは閉められていないが、閉められるかもしれない - それが未来です。 それは、明日なのかも、二十年先なのかもしれません。ですが、それが閉められるかもしれないとの恐れ。 すなわち、明日についての思考、考えること - すなわち時 - が、 恐れを創り出す。ですね? で、思考と時が、恐れを創り出す。 それは十分に単純です。ですね? 何か間違ったことや、正しいことを、してきた。 または、或る出来事がある。 あなたがやってきて、それでもって私を脅す。 ですね?そして、私は怯えます。 または、怯えません。私は、「どうぞ、おやりなさい」と言う。付いてきていますか。 で、時と思考が、恐れの要因です。 明らかですか。
1:04:07 時は思考です。それらは、二つの分離した動きではありません。ですね? 時は、動きでしょう。ここからそこへ。 私は、ここからあそこへ行くには、時が要ります。 私は、言語を学ぶなどには、時が要ります。 思考はまた時です。なぜなら、思考は、経験に基づいているからです。 知識を取得することは、時です。ですね? 記憶は時です - それは、過去です。 で、思考、時は一緒です。 それらは、二つの分離した動きではありません。 ですね?私たちはここに、一緒にいますか。 で、それが、恐れの原因です。 私は死ぬかもしれない。私は生きています。 しかし、終わるとの観念は - それは未来にありますが - 恐れを、引き起こします。 生きることからの隔離と、終わることです。 それについて私たちは、別の時に話すでしょう。 理解されますか。で、それらが、思考・時が、恐れの要因です。
1:05:54 ごく最近、これに向き合いました。 ですね?私たちはみんな、そうです。 私たちは、或る人物たちにより、脅されます。 これは、世界中で起きています。 一つの国が、もう一つの国を脅す- それらはご存じです。 または、一人の個人が、他の一人を、です。 脅しは、一つの形のゆすりです -「おまえは・・・をやった」などなどと。 そして、脅されているとき、気づく - 恐れが生ずるのかどうか。 または、ただ観察する。 理解できますか。 あなたは何の反応もなく、観察できます - 時と思考の本性への理解が、あるとき、です。
1:07:02 質問者は言います - これはどのように起きますか。ですね? あなたが、見守るとき - ですね? -本性を理解し、見守るとき、 恐れは、どのように終わりますか。 逃避すること、それを合理化すること、昇華させることなど、 分析者などへ出かけていくことは、エネルギーのむだです。 ですね?そうでないですか。 これについて、はっきりしてください。 この事柄について、明らかであってください。 逃避することは、エネルギーの完全なむだです。 なぜなら、そうするなら、あなたが戻ってくるとき、それはいつも、あるからです - あなたのフットボールより、教会より、です。 いつも家にあるのです。 または、あなたが、たくさん酒を飲んだ後、それはあるのです。 飲みつづけることはできます。おそらくそれが、一つの抜け道なのかもしれません。 そのとき、ますます病気になる。 または、精神的に病む。 で、逃避は、エネルギーのむだなのです。
1:08:40 分析し、次第に恐れの原因を、発見することは あなた自身について、あなた自身の分析や、他の人の分析をとおしても、 エネルギーのむだなのです。 なぜなら、あなたは見守るなら、原因が何かを、見出せるからです - 即座に、です。 それ(原因)は、時と思考です。ですね? そうですね、不幸にも、私たちは鈍くなるよう、訓練されます。 私は、この問いには入らないでしょう。 知識は私たちを、鈍くしているかもしれません。 私は今、それに入らないでしょう。 それは、あまりに複雑な問いです。 私たちは言っています - 原因があるところ、終わりがあるのです。明白です。 私は或る種の病気に罹っていて、 医師がその原因を発見するなら、それは終わりえます。 またはそれは、終わらせられません。 原因があるところ、原因に終わりが、ありえます。それは事実です。
1:10:06 で、恐れが生ずるままに、それを見守り、それとともに生きて、それから逃避しない。 あなたは、事実を悟りはじめ、見えはじめます- 時、思考がその根である、と。 それが原因です。 私たちが言いましたように、それは、エネルギーのむだです - 逃避する。分析する。原因を探求する。 見出すために、幾つもの日と月と年を使う。 それは、エネルギーのむだです。 あなたは、エネルギーを保存し、それが逃避するため等々でないとき、エネルギーを持っています。 ですね? そのとき、そのエネルギーを、時の事実へ焦点化するそのことこそが - それは、昨日起きた何であり、それが引き起こすかもしれない等です - で、エネルギーを保存することこそが、完全に恐れを、消散させるのです。 ですね?ええ、待ってください!
1:11:28 すなわち、恐れはあなたです。 恐れは、あなたより分離していません。 ですね?それは、事実でしょうか。 私たちは、「私」から恐れを、分離してきました。 それは、抽象、分割です。ですね? 怒りがあります。私は、「私は怒っていた」と言います。 すなわち、私は怒りより、分離しています。 しかし、私は怒りです。怒りより分離した人物は、ありません。 これは本当に、よく気をつけて、入らなければなりません。 またはあなたは、これを即座に理解できます。 あなたは貪欲でしょう。 貪欲は、あなたより分離していません。 私たちは、それを分離してきました。 あなたは言います - 貪欲は私より分離している。 私はそのとき、貪欲に対して行為できる。 私、思考者は、思考より分離している。 そのとき私は、思考を制御する、と。ですね? 私は、制御しようとする。私は、そうですね、集中しようとする。その他すべてです。 しかし、思考者は思考です。 思考が、思考者を、創り出してきました。 ですね?ちがいますか? さもなければ、思考者はないでしょう。ですね?
1:13:28 で、実際の事実、すなわち、恐れはあなたであることを、悟るとき、 分割は終わるのです。ですね? 分割があるかぎり、 あなたと恐れとの間に、葛藤があるのです。 しかし、あなたは恐れであり、ゆえに分割がないのなら、葛藤は終わります。 あなたはこれを悟るのかと、思われます。 いいでしょうか。これは明らかですか。 アラブ人とユダヤ人、イスラム教徒とヒンドゥー教徒、 キリスト教徒との間に、分割があるかぎり- そのすべての分割は、ご存じです - それが、葛藤を創り出します。 これは論理的で、真っ当です。ですね? で、私の中に、「私」と恐れ、「私」と貪欲、 「私」と暴力として、分割があるかぎり、 葛藤が、あるにちがいないのです。 しかし、実際の事実は、こうです - 暴力は私です。 貪欲は私です。妬みは私です。 で、この分割 - すなわち、思考が私と恐れとの間に創り出してきたもの - は、終わります。 ゆえにあなたは、何も葛藤を持ちません。 ゆえに、大いなるエネルギーが、あるのです。ですね? それは事実です。当然、葛藤がないとき、エネルギーがあります。 私たちはそこから、さらに進めるでしょうか。 これは明らかですか。
1:15:27 私は、あなたに教えていません。 あなたは、自分の観察から、学んでいます。 で、あなたは、自分の導師と自分の弟子です。 あなたは、自分の教師と自分の、等です。 で、質問者は言います - 他の機会に、恐れが違った形で、 戻ってくるのを、何が防ぐのでしょうか。
1:16:03 恐れは、多くの枝を持っています。ですね? 多くのさま、多くの表現、多くの形、です。 暗闇の恐れ、世論の恐れ、あなたがするかもしれないことの恐れ、 私がしてきたことの恐れ、とても多くの物事の恐れ。 自分の妻への恐れ、自分の何かを失う恐れ、得ること - そうですね? - 恐れは、千の枝を持っています。 枝々を刈り込むことは、何の役にも立ちません - ですね? なぜなら、それらは戻ってくるだろうからです。 で、その根へ、行かなければなりません。 恐れの上辺の枝、表現を、切りとるのではなく、 恐れの原因や根へ、行かなければなりません -それは、思考と時です。
1:17:07 これの事実、それの真理が、本当に見えて、 それから逃げ去るのではなく、それとともに留まるなら、 そのとき恐れは - どうか、受け入れないでください。私たちは、大変尊敬をこめて、言っています - 語り手が言っていることを、受け入れないでください。 語り手にとって、これは事実です。 あなたは、「何て戯言か。あなたは幻想に生きている」と、言うかもしれません。 あなたがそう言うのは、完璧に正しい。ですが、それは、自分自身にとっては、そうではない。
1:17:51 第五の質問: 「私たちが、問題のまさに終わりへ 行くのを、妨げるのは、エネルギーの何か欠乏でしょうか。 これは、特別なエネルギーを、必要とするのでしょうか。 または、すべての生の根本には、唯一つの基本的なエネルギーが、あるのでしょうか。」
1:18:08 「私たちが、問題のまさに終わりへ行くのを、 妨げるのは、エネルギーの何か欠乏でしょうか。 これは、特別なエネルギーを、必要とするのでしょうか。 または、すべての生の根本には、唯一つの基本的なエネルギーが、あるのでしょうか。」
1:18:30 まず最初に、問題は何でしょうか。 それが、質問者が言われることです。 あなたが、問題のまさに根へ行くとき、 それは、エネルギーを必要とする、と質問者は言われます - それのまさに終わりへ行くために、です。 で、私たちは訊ねています -問題は、何でしょうか。 「問題(プロブレム)」という言葉、ラテン語、ギリシャ語などは、投げつけられたものを、意味しています。 何か向き合わなくてはならないもの、何かあなたより異なっているもの、です。 さて、子どもの頃より、私たちは、問題を解決するよう、訓練されています。 数学の問題、地理学、 書き方 - それは、子どもにとって問題です。 トイレへの行き方 - それは、子どもにとって問題です。 で、子どもの頃から、私たちの頭脳は、問題を解決するよう、訓練されています - 月への行き方、自転車の乗り方、 車の運転の仕方、 問題を生じずに、他の人物とともに生きるすべ。 で、私たちの頭脳は実際に、問題を解決するよう、訓練されています。 ですね?それは事実です。 で、私たちの生全体が、解決されるべき問題に、なるのです。ですね? それを、あなた自身において、ご覧になってください。これがいかに作動するのかを、です。ですね? 私たちはこの事柄は、明らかでしょうか。 私たちはそこから、前進できます。
1:20:25 私たちの教示、情報全体が、諸問題を解消するためです - 子どもの頃より条件づけられて、です。 頭脳はそうです。 そして問題(プロブレム)は、投げつけられたものを、意味しています。 それは、良い辞書で見つけられます。 それは、(語源の)ラテン語などを、教えてくれるでしょう。 で、私たちはいつも、問題を解消しています。 私たちは、生の全体を、解消されるべき問題と、見ます。ですね?
1:21:15 そして質問者は、言われます - 或る種のエネルギー(の欠乏)は、私たちが問題のまさに終わりへ行くのを、妨げるのか、と。ですね? 私は、訊ねています - いかに問題の終わりへ行くか、ではない。なぜ私たちは、問題を持つのでしょうか。 問題がない、ということではない。 あなたは私を攻撃する。それは問題になります -法律的にか、このようにか、あのように、です。 それは問題になります。問題はあります。 しかし、なぜ私たちは、問題を持つのでしょうか- 「私は問題を持っている」と言う精神。 理解されますか。 私たちは少しこれに入られるかと、思われます。 あなたは、これに興味がありますか。
1:22:15 で、そこから、もう一つの疑問が、生じます。 それは、唯一つの問題もなく、生きることです。 問題がない、ということではなく、問題を持たないのです。 私たちはすぐに、そこに来るでしょう。 なぜ私たちは、問題を持つのでしょうか。 あなたは、私を攻撃します。 または、私はあなたを攻撃します。様々な理由 -道徳的、非道徳的、様々な主題 - のためです。 なぜなら、あなたは、一定の結論に取りすがるからです。 神経症的に、または、何か理想主義的な理由のために、あなたは、それらに取りすがります。 あなたは、そのように主張します。 けっして譲らず、けっして謝罪せず、 自分自身と自分の神経症的な生の道以外に、けっして関心を持たずに、です。 質問者は言われます -問題のまさに終わりへ行くこと、 それは、エネルギーを、必要とするのでしょうか。明白です。 特別なエネルギー、ではない。 ただのふつうの、究明のエネルギーです。
1:23:50 さて、問題の錯綜すべてを、きわめて間近で、 きわめて繊細に、深く究明するには、 あなたは、動機を持てません。ですね? あなたは、問題の解消において、動機を持つなら、 問題ではなく、その動機が、答えを指令するでしょう。 ですね?私たちは、一緒になっていますか。 私たちは、出会っていますか。 仮に、私は問題を持っている、とします。 個人的に、私は持っていません。何であれ起こることは、起こる。私はそれを扱うでしょう。 しかし、私は、何も扱おう・・・問題を持とうとは、していません。 問題を持つことは、愚かです -私自身のために、私は言っています。 私は、問題を究明するには、エネルギーが要ります - 戦争の問題。なぜ人間たちは、互いに殺しあうのか。 一歩一歩、それに入る、間近でそれを見つめる -それは、エネルギーを必要とします。 関係の問題を解消するには、 そして、関係は、とてつもなく重要ですが、 よくよく気をつけて、それに入るには、私は、エネルギーが要るのです。 ですね?そして、他の諸問題に、です。 で、間近で繊細に究明するには、エネルギーが、必要です - けっして結論に至らず、動き、動く。 付いてきていますか。 しかし、あなたは、執着し、つなぎ縄へ繋がれているなら、究明できません。 ですね?つなぎ縄、杭(くい)、それへ繋がれる。 そうね、杭へ繋がれた動物、です。 あなたは、そこまで行けるだけです。 その縄の長さが、どれほどであっても、です。 で、究明するには、どの結論、どの動機からも 自由が、なければなりません。 それは明らかです。明白です。 科学者のように、です。彼は、大変多くの仮説、理論を、持っているかもしれません。 でも、彼は究明するには、それらを脇に置きます。 それから彼は、その理論は真実である、と言います。 しかし彼は、究明の前に、その理論は真実である、と主張しません。 ですね?しかし、私たちはそうします!
1:26:44 で、あなたは、問題のまさに終わりへ行くには、エネルギーが要るのです。 自らが持っているどの問題をも、取り上げてください。何ですか?恐れには、私たちは入りました。
1:27:01 質問者: さびしさ。
1:27:06 K: いいです。 それは問題でしょうか。 よろしい。さびしさね。 私たちはなぜ、それを問題にしてきたのでしょうか。 それはあります。ですね? それはあります。あなたは、さびしい。 なぜあなたは、さびしいのでしょうか。 すなわち、分離している。 ですね?分割されている。 あなたは、結婚しているとか、大変多くの友だちを、持っているかもしれません。 しかし、人間の深いさびしさのこの感覚が、あるのです。 そのさびしさは、どのように訪れるのでしょうか。その性質は、何でしょうか。 それは、私たちの日々の行動により、もたらされないのでしょうか。 私たちの行為は、自らの利己的な動機、自己中心的な活動に、基づいています - 私は、大物でなければならない。 私は、成功者でなければならない。 私は、至らなければ、冥想しなければならない。私は、これをしなければ、あれをしなければならない。 あらゆることが、私です。私が、最も重要な人物です。 あなたたちは毎日、それをテレビで、聞きます。ですね? で、あなたが一日中、この制限された性質、制限された精神の状態を、 強調するとき、 それは必然的に、「さびしさ」と呼ばれる一つの形や言葉へ、つながるにちがいありません。 それは、誰とも何も関係を、持たないことです。ですね? それは、私たちの日々の思考と行為の活動により、もたらされます。 そのときあなたは、言います - 私はさびしい。 私は一杯飲まなければならない、と。それから逃避するため、です。 私はさびしい。ゆえに、私はクラブへ行こう。 または、ナイトクラブとか、何をするにしても、です。 または、妻に取りすがろう。 取りすがる、縋りつく。 なぜなら、あなたはさびしいのを、恐れているからです。
1:29:56 さて、あなたはそれの原因が、見えます。 それは、とても単純で、とてもすばやい。 そして、全部のことをまとめる。 そして、「さびしい」という言葉を、使わない。 なぜなら、「さびしい」という言葉は、事実からの抽象であるからです。 理解できますか。事実は、言葉ではありません。 しかし、言葉は、事実よりむしろ重要になってしまいました。 事実の原因は、この常なる格闘です - 神経症的とか、その他の、です。 自分自身の常なる思考です -私は傷ついている。私は偉大になりたい。 私はこれになりたい。 私はあれになりたい。ご存じですね? 人間の頭脳の中で、起きているすべて、です。 で、事実があります。 言葉は事実ではありません。 あなたが、「さびしい」という言葉を、使うとき、 それは、すでに使われたし、過去との関連を持っています。 で、あなたは、「さびしい」という言葉を使うとき、その感情をけっして新鮮に見つめません。 お分かりになるのか、と思われます。
1:31:31 で、その感情とともに新鮮に生きること。 なぜなら、あなたは、それの原因 -自分自身への日々の関心 - が、 見えるときにのみ、それをできるからです。 そのときあなたは、訊ねるかもしれません -自分自身に関心を持ってはいけないのか、と。 そうですね、古き良き疑問です。 あなたが、それを望むなら、あなた自身に関心を持つ - その終わりに、さびしく不幸せにみじめに感じる、その他すべてなら、 それは、あなたの事柄です。 あなたがそれを望むなら、それを追求してください。 しかし、全的に違った生きる道を、理解したいのなら、 そのときあなたは、このすべてをごく近くで見つめ、根源的疑問を訊ねなくてはなりません。 あなたは、疑うこと、問うこと、訊ねることによってのみ、根源的な疑問を訊ねられるのです。
1:32:47 第六の質問: 「智恵の本性へ、入ってもらえるでしょうか。 すなわち、知覚が起きるとき、顕現するものへ、です。 これは、行為の唯一つの真の本源でしょうか。」
1:33:00 これが、最後の質問です。 何時でしょうか。5分ですか。 私たちは、最後の質問を、進められるでしょうか。 これらすべての疑問でもって、引き留められているなら、すみません。
1:33:17 「智恵の本性へ、入ってもらえるでしょうか。 すなわち、知覚が起きるとき、顕現するものへ、です。 これは、行為の唯一つの真の本源でしょうか。」- すなわち、智恵が、です。 私たちは今朝、先に、多かれ少なかれ、智恵について、話をしました。 質問者は、言われます - 智恵の本性は、 知覚が起こるとき、顕現する。ですね? で、私たちは、知覚とは何かを、探究しなくてはいけません。 私たちは先に、智恵が何なのかの 本性と構造を、探究しました。 今、私たちは、知覚するとは何かを、訊ねています。 知覚、見ることは、視覚的、光学的にだけではない。 あなたが、「私は理解します」と言うとき、それは、知的でしょうか。 私は何かを、とてもすばやく理解します。 それは知的です。 それは、人の構造全体の一部です。構造全体、 それの一部だけが、あります。ですね? 知的な理論、概念、結論、知覚は、 全体のとても小さな部分です。 部分は、全体になりません。 しかし私たちは、部分を、とてつもなく重要にしてきました。 ですね?なぜでしょう。 ゆっくり、それに入ってください。 なぜ私たちは、全体の部分である知能を - 全体とは、感情、理解、愛情、そのすべて、ですが - なぜ私たちは、部分に、重要性を与えてきたのでしょうか。 私たちはいつも、そうします。国の部分、
1:35:54 自分の家族の部分。それは一部分です。 大地は、人の全体のため、人類のためにあります。 しかし私たちは、それは私の大地である、私の国、部分である、と言います。 なぜ私たちは、ずっとこれをしてきたのでしょうか。 世界全体を、民族性、国籍へ分割し - 起きていることすべてを、ご存じですね - なぜでしょう。 それは - 私はこれを提案しています。 それを、受け入れないでください。 問い、疑ってください。それらです。 それは、分割してきた思考は、 自らが部分において安全だろうと、考える、ということではないでしょうか - 民族主義的であることにおいて安全だ、部族的であり、部族の中にいる、部族に所属すること、 特定の形の思考 - すなわち宗教 - に 所属することにおいて、安全だ、と。ですね? で、私たちはいつも、部分に安全を、探し求めています。 それは事実です。理論ではない。 それは事実です。 私の資産 - 私は資産に反対ではありません。 私はただ言っています - 私の資産、私の国、私の妻、私の神、私が考えること。 で、私たちはいつも、部分を養成してきました。 そして、部分は知能です。 その知的な了解において、 私たちは、安全があると、考えます。 もちろん、あなたは、利巧であればあるほど、利巧に判別します。分かりますね。 あなたは、教授たち、科学者たちとの世界すべて、 作家すべてを、知らないですか。 彼らが知的であるとき、誰もがみな、彼らを崇めます。 彼らは、偉人たちになります。 すなわち、部分は、表面的なもの、という意味です。ですね? 知覚は、ただの一部だけでしょうか。 部分により、知能により、知覚するのか、 または、ただの情動や、ただの感覚的応答だけですか。質問を理解できますか。 または、知覚は、部分的にでなく、全的に見える、という意味合いです。 理解できますか。
1:39:27 恐れの原因を、知覚します - ですね?言語的、知的、情動的に、ではない。 知覚は、恐れの本性の全体が、見える行為です。ですね? 恐れの様々な枝ではなく、恐れの動き全体が、です。 恐れの動きは、時・思考です。 私たちはそれに入りました。 それを知覚する -言語的にや、理想主義的に、ではない。 恐れの本性全体が、即座に見えるのです - ですね?
1:40:18 さて、あなたは何かが、全体的に、完全に見えるとき、 起こることは、何かすっかり違ったことです。 私は、それに入ろうとしています -あなたが、辛抱をするであろうなら、 あなたが、語り手のみを聞くことから、疲れすぎていないなら、です。 当分の間、です。あなたたちは、家に帰るとき、みなさん、話せます。 しかし今、不幸にも、この人物が、話しているだけです。
1:41:00 見てください。それを、きわめて単純にしましょう。 仮に、私は生涯、民族主義者であった、とします。 または、自分の特定の宗教へ、縋りついています- 引用符つきの「宗教」です。 すなわち、私の頭脳は、民族主義者であるよう、 条件づけられてきました -特定のもの・・・特定の宗派に所属するのです。 その宗派が、億、十億人を持っていても、それはやはり宗派です。 私の頭脳は、そのように条件づけられてきました。 あなたがやって来て、私に語ります -民族主義は、戦争の根、 戦争の原因の一つである、と。 私は、あなたに聞きます。 あなたは私へ、論理的に説明してくれます- 私が進んで聞くなら、です。 私がそうでないなら、もちろんそのとき、あなたは、私について、何もできません。 しかし、私が進んで聞くのなら- 私はそうです - そのときあなたは、私に、戦争の要因や 原因の一つを、説明してくれます -民族主義、人種的偏見です。 あなたは、それを指摘します- 戦争の様々な意味合いを、です。 私は、あなたに聞きます。 私は、「まったくそのとおりです」と言います。 私はそれを、知的に受け入れるのか -それは、大した価値を持っていません。 あるいはまた、私は、それはどんなに真実なのかと、言います。 私は、それがどんなに真実なのかを知覚する瞬間、動いて去りました。 頭脳は、古い様式から、条件づけを解かれていました。 これを捉えましたか。 私は、あなたが言ったことの真理を、知覚する瞬間、 民族主義へ、宗派主義へ 条件づけられてきた脳細胞は、消え去ります。 で、あなたが言ったことへの知覚、または洞察は、 まさに脳細胞それ自体に、根本的な変化を、もたらします。 語り手は、この事柄について、科学者たちとともに、議論してきました。 あなたは、科学者たちの言うことや、 語り手の言うことを、受け入れなければならない、ということではありません。 彼は、それについて、議論してきました。 私たちは、それについて、論争してきました。 彼らは、これに同意します -彼らのうちの何人かは、です。 が、他の人たちは、「そうではない。 これは全くのロマン主義だ」等と言います。 しかし、事実はこうです。事実、です -私は北へ進んできました。 あなたがやって来て、「その道は危険へつながる」と言います。私はあなたに聞きます。 私は、あなたと論争し、あなたと議論します。 私は、あなたが言っていることへ、すばやい洞察を、持つかもしれない。 私は、あなたが言っていることの真理が、見えます。 で、私は、北へ進むのから、離れ去ります。 私は、南か東か西へ行きます。 古い習慣に相反したまさのその動きが、 頭脳それ自体に、根本的な変化を、もたらしたのです。 なぜなら - 理解なさるでしょうか -様式が、壊れるであろうからです。 様式が壊れるとき、何か違ったことが、あります。
1:44:43 で、知覚があるところ - そこには、単に知的な了解だけではなく、 問題への全的な洞察が、あるのです。 例えば、組織された宗教すべては、何の価値をも持たない、という洞察です。 それらは、単なる娯楽、刺激、感動である。 それらは本質的に人間の・・・それは、人間の変化をもたらさない。 それらに、あなたは、すばやい洞察を持つのです。 で、それは終了しました。 あなたは、どの集団にも所属していません。
1:45:34 質問者: (聞き取れない)
1:45:45 K: 私は、恐れを、説明いたしました。 あなたは、組織されたものや施設、制度等への洞察を持つなら - あなたは洞察を持つなら - それは、何が真実であるかについての、すばやい即座の知覚です。 しかし、私たちのほとんどは、その能力がありません。なぜなら、私たちはすばやく敏感ではないからです。 私たちは、かなり鈍い人々です。 どうか、私は言っていません。私は、あなたがそうであるとは、言っていません。 私たちはみんな、かなり条件づけられた人々です。 条件づけへの洞察が、ないのなら、 この条件づけは、変化させられません。 全的な変異を、もたらせません 洞察は、思い出、結論ではありません。 それは、時と思い出の過程ではありません。 それは、物事が、あるがままにすばやく、即時に見えることです。
1:47:03 さて、質問者は言います、または訊ねます - 知覚が起こるとき、智恵がある。 これは - 質問者は言われます -この智恵は、生の本源でしょうか。 すみません。行為の本源でしょうか、と。 もちろんです。 理解されますか。 美化された民族主義になった部族主義は、 生において最も破壊的な要素であり、 戦争をもたらすなどという知覚があるとき、 あなたがそれへ、即座の洞察を持つなら、その洞察は、自らの行為を持つのです。 それは、洞察、次に行為ではありません。 その洞察自体が行為です。 理解されますか。 それは、瞬間です - そのとき、部族主義は、 戦争の要因の一つであるとの知覚が、あるのです。 その洞察が、行為です。 あなたはもはや・・・あなたの中の特定の部族主義 - 或る集団に所属したいことを、拭い去る行為が、あるのです。
1:48:38 それが、質問の終わりです。 このすべての終わりに、訊ねます - 私たちは何を、 自らは何を、見、学び、観察してきたのでしょうか。 私たちは、憎しみと反応、行動(反作用、作用)の同じ古い様式を、つづけていくのでしょうか - 互いにゆすりあって、です。 または、そのすべてが、終わるのか - すなわち、けんかが、親交、愛情の感覚、そのすべてが。
1:49:31 私は止めました。立ち上がってもいいですか。
1:49:48 聴衆: (聞き取れない)
1:49:50 K: 何でしょうか?
1:49:54 聴衆: 彼は、さようならを、言いました。

K: 何のため?