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OJ83T1 - 思考と知識は制限されている
第1回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1983年5月14日



0:36 もしよければ、ご注意を申し上げてもいいですか- これは娯楽ではないのです。 うるわしい朝に、樹々のもとに座ることは、すてきです - 涼しくて、新鮮です。 しかし、そのすべてにも関わらず、これはどのようにも娯楽であなたを、楽しませるためではありません - 知的にも、情動的にも、です。 また、あなたに、何を確信させようともしていません。 私たちは、どの種の宣伝もやっていません。 またこれは、普通に理解されているような、 講義でもありません - 特定の主題について、 情報を与えられ、教示されるための 講義ではないのです。 ともに私たちは、世の中をありのままに見るべきです - 世界の特定の地方や、特定の集団ではなく、 世界全体を、です。 また、当面の間、自分たちの特定の問題に、関心を持つのではない - それらを、私たちは多く持っていますが - むしろ、世界全体を見るのです。 人間たちがそこに生きている大地全体を、です。
2:54 私たちが生きているこの世界は、 様々な形の民族、国籍へ、砕けてきました。 言語的な違い、民族主義的、愛国的な分割へ、 宗教的な分割へ、です - 仏教徒、ヒンドゥー教徒、チベット人、 イスラム教徒、キリスト教徒へ、と。 そしてまた、最近の、共産主義、マルクス主義という宗教も、です - 世界の一定地域中での全体主義諸国。 そこには、何も自由がない - 好きなことを考え、 したいことをする自由が、ないのです。 世界の様々な地方で、戦争がつづいています。 人間たちは、互いに殺しあっています - 何か理想主義的、民族主義的や人種的な分割のために、です。 人間たちは、最新の戦争の機械により、虐殺されます。 私たちは、判定していません。 また、どの先入観の視点や、どの偏見からも、これらを見ていません。 私たちはともに、それを見つめています -私たち自身で見出すために、です。 なぜこれが起きているのか、なぜ世の中にはこんなに多くの悲惨、多くの混乱、 大きな不安定があるのかを、です。 世の中は、そこに生きるには、ますます危険になりつつあります。
5:17 世界のこの地方には、戦争がないかもしれません。 しかし、あなたたちは戦争の準備をしています。 この世界には、大変多くの施設、 財団、組織があります。 特定の指導者をもった小さな集団、 不条理をもった導師たち、 各人や各集団、各共同体が、 他より自らを、分離しつつあるのです。 これが、世界中で起きていることです。 世界のこの地方では、よりそうです。 ここでは各々が、自らの好きなことをしたいのです - 自己を充足させたい、自己を表現したい、自己を主張したいのです。 様々な種類の脅威があるのです。 これが、世の中で実際に起きていることです。
7:01 このすべてを見つめるとき - 恐怖、苦しみ、 諸政府のひどい運営、非効率な運営、 各国が、戦争の準備をし、武器を蓄積しています - おそらく宗教が手助けしています。 このすべてを、何も偏見なく、すっかり客観的に見つめるとき、 訊ねなければなりません -自らがそもそも真剣であるなら、です。 そして、あなたが真剣であってほしいと、願うのです。 今朝、一時間だけではなくて、です。 これは、人間的な問題なのです。 それは大きな危機です。 誰が、このすべてに、責任があるのでしょうか。
8:40 それは環境、社会である、誤った運営であることなどは、 たやすく言えます。 しかし、そのすべてにも関わらず、私たちが本当に真剣に客観的に見つめられるなら - アメリカ人とヒンドゥーや、特定集団としてではなく - このすべてを、見つめる。 私たち自身で見出すように、ともに旅を行う 語られずに、教示されたり、情報を与えられたりせずに、 起きているこれらすべての恐ろしいことへ、誰が責任があるかを、(見出すように)です。 テクノロジーの世界に、だけではない - それは、ますます複雑になりつつあり、 ものすごい前進です。 コンピューター、ロボット、 ミサイル、潜水艦。それらが、起きつつあることですね。 すばらしい外科手術、医薬、それらです。 これらを見ると、訊ねます -何をすべきか、だけではなく、 また、誰が責任があるのか、誰がこれをもたらしたのか、 この混沌、混乱、人の全くの悲惨を(もたらしたのか)、です。
11:01 この社会、そこに私たちはみんな生きていますが、 この社会は、腐敗し、不道徳で、 攻撃的で、破壊的です。 この社会は、数千年の間、つづいてきました - 修正されたり、原始的だったりですが、 それは同じ様式です。数千年に 数千年、反復されたのです。 これらは、すべて事実です。 これは、語り手の意見や判定ではありません。
12:02 で、訊ねなければなりません- あなたが訊ねることを願っています - 誰に責任があるのでしょうか。 そして、この甚大な危機に直面し、向き合って、何をすべきでしょうか - この危機に、そもそも気づいているなら、です。
12:24 危機は外的で、私たちの外側にあるのでしょうか - 経済的危機、社会的危機、戦争の危機、 膨大な軍備の増強、これらのすさまじいむだ。 そして内的、心理的に、私たちはまたとても混乱しています。 内的に、常に葛藤、闘争、痛み、心配などがある。 そして、この社会は・・・ どうか、憶えておいてください -これは講義ではありません。 私たちはともに、旅を行っています - 人類が創り出してきた構造全体の中へ、 人間たちがこの世の中にもたらしてきた無秩序の中へ、です。 で、外的に、悲惨、混沌、混乱があるのです - 社会において、経済的に、宗教的にという意味で、です。 内的に、すなわち心理的に、精神(サイキ)、意識は、 その内容とともに、痛み、信念、闘争などなどです。 私たちは、ここでのこれら(残り)三回の講話の間に、それらに入るでしょう。 あなたは、手間暇をかけて、ここに来られたからには、 自らがこれらについて、何をしようとするかを、訊ねなければなりません。 指導者たちに頼りますか。 もっと良い政治家ですか。 この人は良くない。だが、次の人はもっと良いだろう。 次の人はさらに、良いだろう。 で、私たちはこのゲームを、つづけます。 私たちは、様々ないわゆる霊的指導者に、頼ってきました - キリスト教世界の位階制度全体に、です。 彼らは、私たちと同じく混乱し、不安定です。
15:49 あなたが心理学者や心理療法者に頼るなら、 彼らは、あなたと私に似ています -混乱しています。 そして、イデオロギーすべてが、あるのです。 共産主義のイデオロギー、マルクス主義のイデオロギー、 哲学的なイデオロギー、ヒンドゥー教のイデオロギー、 ここ(アメリカ)にヒンドゥー教をもってきた人々のイデオロギー。 あなたは、自分のイデオロギーを、持っています。 これらに付いてきていますか。 世界全体が、断片化しています。砕けています。 私たちが、様々な欲求、反応により砕かれ、駆り立てられているように、です。 一人一人が、重要になりたい。 一人一人が、自分の利害で行動している。 これが実際に、世の中で起きていることです -あなたがどこに行こうと、です。 インドの最も貧困に苦しむ村々、 または、西洋の最も高度に洗練された人々。 それは同じ主題、同じ問題です - 貧困、空腹、人対人、 イデオロギー対、別のイデオロギー。 これは実際の事実です。 私たちはみんな、それらについて、何をしようとしているのでしょうか。 誰が責任があったのでしょうか。 私たちの一人一人が、責任があるのでしょうか。 あなたと他の人-私たちが、責任があるのでしょうか。 どうか、あなた自身にこの質問を、してください。 どうか、今朝の間、よろしければ、一時間、真剣であってください。
18:49 あなたが他の人に頼るなら -教示されるため、導かれるため、 何をすべきかを言ってもらうためですが、 それらをしようとする人々が、いるのです。 彼らもまた、幾世紀をとおして、人を助けてきませんでした - 異なった世界をもたらすように、です。 また、いわゆる霊的な指導者も、です - その「霊的」という言葉は、好きではありません。それは醜い言葉です。 また、いわゆる政治家も、です。 で、あなたはどこを、見るのでしょうか。 あなたが指導者を探さないのなら - そして、すべての指導者は、指導される者と似ています。 様々な導師たちは、弟子たちと同じく、貪欲で、金もうけをしています。 起きているそれらのことは、ご存じでしょう。 で、世の中の指導者すべてが、失敗してきたのなら - この世代においてだけではなく、過去の世代と 未来の世代においても、です。 指導者たちは、助けてきませんでした。 世界中の政治家たちは - 現在、それがいるとして、です。 それは疑わしいと思います - 彼らもまた、異なった社会を、もたらしてきませんでした。 戦争を終わらせてきませんでした。 で、あなたはどこを、見るのでしょうか。 司祭者たちは、失敗してきました。 組織、制度は、その意味を失ってしまいました。 それらは助けてきませんでした。 財団、小さな集団、 小さい自己主張する利己的な小さい集会 - そのどの一つとして、人に変化をもたらすのを、助けてきませんでした。
21:23 人は、動物から、現在のいわゆる文明化した人まで 進化してきたけれども、変化していません。 長い進化の間ずっと、心理的に 私たちはいまだに、かなり原始的です。 それは事実です。 で、あなたはどこに、助けを探すのでしょうか。 誰かが助けられるのでしょうか。
22:07 どうか、たびたび、ご注意を申し上げていいなら、 これは講義ではありません。 語り手があなたに、何をすべきかとか 何を考えるべきかを、語ろうとしている、ということではありません。 ともにあなたと語り手は、これらすべての問題を、見つめています。 それらを回避するのではなく、逃げ去るのではなく、それらに向かい合っています。 私たちは、逃げ去るように訓練され、教育されてきました - 誰かから、或る種の慰め、或る種の答えを探し求めるように、です。 書物は、この問いに答えられません。 すべての宗教書はこの問いに、とうてい答えられません。 で、どの種の指導者も答えられないのを知り - 地元のや、輸入されたのや、 とても博学なのや、哲学者、心理学者 - 彼らの誰一人として、人を助けてきませんでした。彼自身が心理的に変化するように、です。 私たちは、とても危険な世界に、向かい合っています。 一つのイデオロギー、(ソビエト・)ロシアのマルクス主義イデオロギーが、 いわゆる民主主義イデオロギーに、向かい合っています。
24:17 で、あなたが頼れる人は、誰もいないのです。 あなたは本当にそれを悟るのかと、思われます。 地上の、または天上の誰も、あなたを助けないでしょう。 あなたは、祈ることはできます。 あなたが祈りをささげるものは、 あなた自身の思考の創造物です。 あなたが実際に、この事実に向き合うのかどうかと、思われます。 または、内々に、心配の中、混乱の中で 私たちは、他の人に頼ります。 たぶんみなさんは、そのためにここにいるのです。 あなたは、知りたがっていないのなら、 あなたがこう言っていないのなら、です - 「彼は何について話すのだろうか。 二、三分間、聞いてみよう。 興味が持てないなら、抜け出そう。 すてきな朝だ。ピクニックに出かけよう」と。 しかし、このきわめて深刻な生の問題に、直面しているのです。 私たちを助けてくれる人は、誰もいないこと、 地上に誰も、または、どの外側の機関もないことを、悟ります。 神は、思考の、人の創造物です - 人の恐れの中、心配や、安楽への願望の中から、 助けてくれる誰かを探し求めて、です。 思考は、このいわゆる実体、神を、創造してきたのです。 それは事実です。
26:51 で、これらを悟り、これらに向き合って、 私たちの一人一人が、これらに責任があるのです - 世界で起きているどの種類の戦争、 ベイルート、ヴェトナムなどで起きている戦争に対して、です。 今、四十五ほどの戦争が起きているのだと、思います。 なぜなら、私たちは自分たち自身が分割され、断片化しているからです。 私たち自身が民族主義的、愛国的であるからです。 愛国心は、土地への愛ではありません。 あなたは、土地を愛しているなら、土地を破壊したいとは思いません - 世界中でそれが破壊されつつあるように、です。 私たちの一人一人が充足したい - 即時に、です。 欲望が何であれ、それを充足しなさい。 心理学者たちに奨励されて、です。 で、私たちの一人一人が、責任があるのです -私たちが暴力的であるかぎり、 私たちが無秩序(状態)にあるかぎり、 私たちが、自分の特定の欲求を充足しようとし、 競争的で、攻撃的で、残酷で、怒り、暴力的であるかぎりは、です。私たちはそうなのです。 またもや、これは事実です。 私たちがこれらであるかぎり、私たちの社会は、そうなろうとしています。 で、私たちがこの社会を、創り出してきました。 他の誰でも、ありません。 そして、社会に、世の中に変化をもたらすには・・・ あなたは本当に、何が起きているかを悟るのか、と思われます。 あなたがあまりに自己中心的であり、 ご自分の特定の小さな問題と欲望、楽しみに占有されすぎていないのか、と。 あなたが本当に気づいているのかと、思われます。 新聞などにもかかわらず、何が起きているかに、気づいているのか、と。 あなたは気づいているなら -単に知的にではなく、 起きていることを観察しているなら、 あなたたちは、大いに関心を持っているにちがいありません - 自分たち自身のためだけではなく、 あなたの孫、子どものため、未来のために、です。 人の未来は、何でしょうか。 これらはすべて、訊ねなければならない根源的な問いなのです。 他の誰かに訊ねるのではなく、自分自身に訊ねるのです。
31:19 で、誰が責任があったのでしょうか。 そして、私たちの一人一人は、何をできるのでしょうか。 これに向き合って、私たちの行為は、何でしょうか - 外的な危機だけではなく、 私たち自身の危機なのです。 このすべては、どのようにもたらされたのでしょうか。 私たちはテクノロジー的に、進化してきました。 牛車からジェット機などへ。 ものすごい進化です。 しかし、内的に、心理的に私たちは、ほとんど動いてこなかったのです。 私たちはまだ、きわめて原始的です。 で、私たちは何を、するのでしょうか。
32:49 見出すには、自由に見られるだけではいけません - 偏見すべてから自由、結論すべてから自由で、です。 結論という言葉は、終結させる、という意味合いです。閉ざしてしまうことなのです。 私たちは平和を締結します。それは、一定の戦争を終わらせる、という意味です。 論争を終結させる。それは、その論争を終わらせる、という意味です。 で、何も結論なく、いかなる偏見もなく -それが可能であるとして、です。 あなたがその気であるなら、それは可能です。 どの自己中心的な視点からでもない。 あなたがこれらを見つめるなら、 思考が、これらに責任があるのでしょうか。 思考は、テクノロジーのとてつもない世界を、創り出してきました - 発明、とてつもない通信、 微妙な外科手術、医薬。 テクノロジーの世界での、無限の動き全体、です。 思考は、そのすべてに責任があったのです。 ですね?またもや、それは事実です。 誰もそれを否定できません。
35:11 思考はまた、民族性、国籍、分割をも創り出してきました - 分割に、安全を見つけたいと願って、です。 あなたは、信じているなら、ですが、特定の形の宗教的イデオロギーを、信じています。 またもやそれは、思考の活動です。 世界に存在する政治的分割だけではない。 世界に存在する宗教的分割、 すばらしい建築物、 世界の大聖堂と小さな教会、 そして、世界中の教会と大聖堂の中、 寺院とモスクの中にある物事すべては、 思考により、そこに置かれています。 儀式、典礼、 執り行うときの司祭者たちの衣装。 そのすべては、思考の結果です。 それを受け入れますか。
36:57 質問者: いいえ!

K: ええ。あなたは受け入れないだろう、と私は思いました。 あなたは思考です。そうでないですか。 あなたは記憶です。あなたは思い出です。 あなたは過去です - 経験と知識の蓄積である過去です。 あなたの傾向をともなって、です。 あなたは記憶です。 ですね?単純な事実です。 微妙で、昇華され、ねじ曲がっている。 一つの思考が、もう一つの思考を、抑圧している。 思考は、世の中で起きていること すべてに対して、まったく責任があります。
38:18 どうか、それを検討してください。 否定したり、それは正しいとか間違っているとか、言わないでください。 それを見てください。辛抱、勇気を持ち、それを見つめるほど真剣であってください。 はいとか、いいえとかを言うのは、簡単です。 しかし、それの真理が、それの実際が見えること - あなたが信じることは、思考の活動です。 あなたの他の一人との関係は、思考の思い出です。 で、あなたは基本的に、記憶の束なのです。 あなたは、事実が好きでないかもしれません。 それを拒絶するかもしれません。 しかし、それは事実です。 もしも、どの種の記憶をも持っていなかったなら、あなたは、記憶喪失の状態に、 全くの空白、空漠、空虚の状態に、あるでしょう。 これは、向き合いづらいことです。
40:08 で、思考は、分割に責任があります - 宗教的、政治的、個人的、人種的なものへ、です。 ユダヤ人とアラブ人との間、 様々な宗教集団の間で、起きている戦争。 それはすべて、思考の結果です。 あなたは本当に、それを受け入れますか。 受け入れるなら、それの事実を、真理を、見てください。 迷信ではなく、何か異国風の観念ではなく、 何か語り手からあなたに課されたことではない。
41:17 で、あなたは、それの真理が見えるなら- 客観的に、非個人的に、 いかなる偏見もなく、です - そのとき、問いが生じます。 その思考は、それ自体に気づきうるのでしょうか。 どうか、これらを聞いてください -あなたが聞いてくださるなら、ですが。 あなたが聞きたくないのなら、それもまた、いいのです。
41:55 そのとき、思考をどうするのでしょうか。 もしそれが、そしてそれは事実です。 - 思考が、世界にこの無秩序を、もたらしたということは、です - そのとき誰が、世界に秩序を与えることになるのでしょうか。 誰が、世界に秩序を、もたらすことになるのでしょうか。 または、自分自身に(秩序を)、です。 外側の世界は、自然は別として、私たちの活動の結果です。 私たちの思考の活動が、私たち自身の中の無秩序を、もたらしてきました。 それで、社会は、無秩序になっています。 私たちが家に秩序を与えないのなら、 社会に、私たちの関係に、何も秩序はないでしょう。 それは事実です。
43:00 さて、誰が、私たちに秩序を与えることになるのでしょうか。 誰が、この無秩序の中から、明晰で強く反駁不可能な秩序を、 もたらすことになるのでしょうか。 思考者は、思考より分離しているのでしょうか。 これらすべての問いを、理解できますか。 これらに興味がありますか。 あなたは、そうでないなら、なぜここにいるのでしょうか。 ただ樹々の下に座り、青空を見つめ、 あれら麗しい丘々を見つめるためですか。 あなたはそれをも、できます。 しかし、あなたは、ここにいるからには、そして、語り手は、はるばる来たからには、 私たちはともに、この問いを理解し、 私たち自身で答えを見つけなければなりません -子どものように、言われるのではなくて、です! 正しく正確で精密で真実である答えを、見つけ、 誰にも依存しないように、です。
44:57 ゆえに私たちは、ともに検討しなければなりません。 私たちは、思考者と思考を分離してきました。 思考者はいつも、思考を訂正しています - あなたはそれを、観察したことがありますか。 それを制御し、拒否し、形作り、枠組みに入れています。 で、思考者は、思考より分離していると、私たちは考えます。 どうか、それにゆっくり入ってください。 私はそれに辛抱強く入るでしょう。ともに行きましょう。 私たちが行っているのは、長い旅です。 で、あなたは、長い旅を行うならば、 物事を軽く、運んでいかなければなりません - 辛抱強く、ためらって、です。 長い旅を行うには、ごく近くで、始めなければなりません - それは、あなたです。
46:12 それで、問いが生じます - すなわち、思考者と思考との間に、分割がある、ということなのです。 思考者はいつも、思考を訂正しています。 それを制御しています。 これは正しい、これは間違い、これがあるべき、これはあってはならない、と。 それで、思考者と思考との間に、分割がある。 ですね?それは明らかです。 その分割は、実在でしょうか。 または、虚構でしょうか。 思考なしに、思考者はありません。 これはすべて、少し複雑すぎますか。 それは大事なことではない。 それは、あなたしだいです。 過去である思考者と、今起きている思考との 間には、分割があるのです。 思考者は、思考は正確だとか、間違っているとか正しいとかなどを、言います。 彼はそれを制御します。で、思考者と思考との間に、分割があるのです。 で、それが、私たちにおける断片化の基礎です。 ですね?私たちは、ともにここにいますか?少なくとも、少しは。
48:02 私たちは訊ねています -なぜ人間たちには、内的に、心理的に、 この分割があるのか、と。 世界に分割があるように、です。 人間たちの分離、この断片化 -キリスト教徒、ユダヤ人、 その他すべて。 この断片化の根は、何でしょうか。 その根は、こうです - 二つ、思考者と思考との間に、分割があります。 思考を離れて、思考者はありません。 思考者は過去です。思考もまたそうです。 思考は、記憶の結果や応答や反応です。 記憶は、知識の結果や反応です。 頭脳に蓄えられていて、知識は経験です。 科学的な世界では、テクノロジーの世界では、 内的な世界、心理的な世界では、 知識、経験、記憶。その反応が、思考です。 それは事実です。 知識があるところ - 知識はいつも不完全です。 現在においても、未来や過去においても、です。 何についても、完全な知識はありません。 それはけっして、ありえません。 科学者、生物学者と考古学者などさえも、 彼らは認めるのです - 知識は制限されている、と。
50:34 知識の制限があるところ、 思考の制限があるにちがいない。 あなたが、「私はキリスト教徒である」と言うとき、それは制限されています。 あなたが、自分自身について、自分の問題、自分の関係、 自分の性的な楽しみと充足について、考えているとき、 それは、きわめて制限されています。 思考は制限されています。 それは、無制限なものを、創案できます。 しかし、それはやはり、思考の産物です。 それは、天国や地獄や何でも、創案できます。 それは、創案、発明できます。 それはやはり制限されています。 で、制限があるところ、断片化があるにちがいないのです。 あなたがこれらに、付いてきておられるのかと、思われます。 どうか、これらに付いてきてください。 なぜなら、それはあなたの生であるからです。 私たちは、日々の生について、話しています。 で、制限があるところ、葛藤があるにちがいありません。 私が、「私はヒンドゥーである」と言うとき、それは制限されています。 私が、「私はカトリックである」と言うとき、明白です。 制限があるところ、分割があるにちがいありません。 分割があるところ、無秩序があるにちがいありません。 私たちは、無秩序(状態)に生きています。
52:46 古い世界には、或る種の秩序がありました。 なぜなら彼らは、一定の伝統に従ったからです。 現代世界では、伝統は船外に投げ捨てられています。 何も残っていません。で、あなたは、自分がしたいことを、するのです。 この世の中の私たちの一人一人が、 自分のしたいことを、しています -自分のことを、です。 そして、それが何という混沌をもたらしつつあるかを、見てください - 政治的に、ロビー活動によって、です。 各個人が、自分の特定の傾向に従っています - 宗教的なのやその他のに、です。 これらに、気づいているのかと、思われます -私たちがみんな、何をやっているかに、です。 行われている無量の宣伝 - 宗教の名、これやあれやの名において、です。
54:10 で、そのとき私たちの問いは、こうです - 私たちの関係には - 親密でも、その他でも - 私たちの実際の日常的な関係には、断片化があるのです。 妻や、女の子や、男の子や、男は、自分の傾向、自分の欲望、 自分の性的要求に、従います。 それらは、ご存じでしょう。 二つの分離した実体があり、関係を持っています - おそらく性的に、です。 だが、その他で彼らは、実際にまったく関係を持っていません。 それは事実です。 一人一人が、自分の野心、自分の充足、自分の欲求、傾向を、追及しています - 一人一人の頑固さ。 私たちはこの葛藤を、関係と呼びます。
55:39 その関係がこの分割を、もたらしてきました - それは、まったく関係ではありません。 あなたは、もう一人の手を取り、もう一人を抱きしめ、一緒に歩くかもしれません。 でも内的に、あなたは、その他人より分離しています。 それは事実です。それに向き合ってください。 で、二人の間に、永続的な葛藤が、あるのです。
56:29 そして、訊ねます - もう一人との関係において、葛藤なく生きることは、可能でしょうか。 隠者、僧侶たち -孤独に生きる人たちは、 インドの大きな山々の中でも、この国でも、ですが・・・ 関係は生において、最も大きなことなのです。 あなたは、関係なしには、生きられません。 あなたは、関係が痛みにみちていると見て、 関係すべてから退くかもしれません。 いつも闘争、葛藤の中に生き、所有するのと所有しないのと、 嫉妬深い。起きるすべてを、ご存じでしょう。 関係すべてから退く人たちが、います。 しかし彼らは、関係しています。 彼らは、どの種の関係からも、とうてい逃避できません。
57:54 で、それは必要であるからですが、関係において、 ただ一つの葛藤の影もなく、生きることは、可能でしょうか。 どうか、あなたが、この問いを訊ねています。 語り手が、ではありません。 これは、重要な問いなのです。 深く根源的な問いなのです。 あなたは、お互いとの関係において、葛藤なく生きられないのなら、 葛藤に満ちている世界を、創り出すでしょう。 ウズラさえも、同意します。
59:05 で、私たちは訊ねています。 この葛藤の、この無秩序の原因は、何なのでしょうか - 私たち自身において、私たちの関係において、です。 そして、私たちの外側に存在する無秩序(の原因)、です。 関係の実際の事実は、何なのでしょうか。 事実です-ロマンチックではなく、そうですね、あらゆる種類の感傷的なものではなく、 実際の事実。その残酷な事実は、です。 なぜなら、関係の美しさ、深さ、 活力、偉大さを本当に理解しないなら、 私たちは自分たちの生を、めちゃくちゃにするからです。
1:00:25 私たちの関係は、記憶に基づいているのでしょうか。 それは、思い出に基づいているのでしょうか。 それは、過去の出来事に、基づいているのでしょうか - 様々なイメージ、絵図として蓄積されたものに、です。 それは思い出であるなら、それは様々なイメージであるなら、 そのすべては、思考の産物です。 そのとき訊ねます - 思考は、愛でしょうか。 どうか、あなた自身に、この問いを訊ねてください。私があなたに促している、ということではありません。 私たちはみな、大人たちです。そう願います。 お互いの蓄積された知識は - それはいつも、制限されているにちがいありません - ゆえに、まさにその知識が、葛藤の根なのです。 その知識、その葛藤 - それは、愛でしょうか。 何かロマンチックな観念の愛ではない - 神の愛や何かの愛や、それらの種類のものは、ご存じでしょう。 人間たちの間の愛、友情、 意思疎通、親交の感覚 -非言語的なのと、言語的なのと。
1:02:45 で、他の一人とともに、ただ一つのイメージなく、ただ一つの過去の思い出なく、 生きることは、可能でしょうか - すなわち、あなたに、楽しみや痛みを与えてきたものなしに、です。 どうか考えてください。見つめてください。
1:03:17 そして、他の人についてイメージを築かないことは、可能でしょうか。 あなたは、他の人についてイメージを築くなら - それは知識です - そのときそれは、永続的な分割です。 あなたたちは、子どもを設ける、セックスなどを、するかもしれません。 しかし、それは根源的に分割です - アラブ人とユダヤ人、キリスト教徒とイスラム教徒などのように、です。 で、分割があるところ、葛藤があるにちがいないのです。 それは法則です。 で、私は、あなたは、私たちの一人一人は、そこにいかなる葛藤もない 関係を、持ちうるのでしょうか。 ええ、それに入ってください。
1:04:29 これが、冥想の一部です - 冥想の名において行われている、ばかげたことすべてではないのです。 これが冥想です。 見出すこと、自分自身を掘り下げることなのです - 他の一人とともに幸せに生きることが、可能なのかどうか、です。 支配なく、抑圧なく、 充足したいとの欲求 -その種すべての子どもっぽいことなしに、です。 他の一人とともに、何の分割の感覚もなく、生きるのです。 思考が作動中であるかぎり、分割は存在するにちがいありません。 なぜなら、思考は制限されているからです。 なぜなら、知識は制限されているからです。 その分割には、大きな痛みがあります。 心配、嫉妬、憎しみ、です。 「私が先で、あなたは後で」、です。
1:06:04 この事実を観察する。観察する -「私は分割を持ってはならない」と言わずに、です。 そう言うことは、ばかげて聞こえます。 まず、あなたが分割されているとの事実を、観察する。 けっして出会わない二本の平行線のように、です。おそらく性的に以外は、です。 その他では、二本の分離した線、二本の分離した列、 二本の分離した鉄道線路で、 各々が他を、自らの道を追求し、 互いに縋りついています。 そのすべてが、自らの生に大きな悲惨を、もたらします。 で、事実を、すなわち、あなたが分割されていることを、観察する。 事実を深く掘り下げるのです。 あなたが、私の妻、私の女友達、あれやこれやと、言うとき、 言葉を見つめ、言葉を、言葉の重みを、感じてください。 「関係」という言葉の重みを、です。 言葉の重さを量ることは、言葉を保つことを、意味しています。
1:07:57 関係の意味合い全体を、観察する - 人間関係だけではなく、自然との関係をも、です。 あなたは、自然との関係を失ってしまうなら、人との関係を、失ってしまいます。 観察する。どんな偏見もなく観察する。 それを見つめる。分割を感じる。 あなたが、そう観察するとき - あなたが今そうしていることを、願っています - あなたが、そう観察するとき、まさにその観察は「関係」という問いや言葉に照らされた、 ものすごい光に、似ています。理解できますか。 観察する - 私たちはそれに入るでしょう。 見守る - それは、何の方向づけもなく、言葉もなく、何の動機もなく、 見守ることを、意味しています。 その「関係」という言葉の すべての意味合い、内容を、ただ見守る。 その言葉とともに生きる。たとえ一時間、 十分間、一日間でも、です。見出してください!それとともに生きるのです。 そう観察する - それは、それへ完全な注意を、向けることを、意味しています。 あなたが完全に注意するとき、障害、分割は、消え去ります。 それは、何か壊れつつあるものへ、大きなエネルギーをもたらすのに、似ています。 これらを理解されますか。
1:10:26 で、それは可能です - 語り手が言っていることを、あなたが受け入れるべきだ、ということではありません。 彼は権威ではありません。 ただ一つの葛藤もなく生きることは、可能です。
1:10:47 しかし、あなたは葛藤なく生きるかもしれませんが、他の人は、生きないかもしれません。 問題を理解されますか。 あなたは、関係の問いを理解した、それに入ったかもしれません - 涙を流し、笑い、それについてのユーモア。 あなたは、その言葉の重みを量り、その言葉とともに生きてきた。 それを見て、それに入り、それを了解し、 それの真理を見てきたのかもしれません。 しかし、他の人は、そうでないかもしれません。ですね? あなたの妻は、そうでないかも、あなたの夫は、そうでないかもしれない。 女友達はそうでないかもしれないなど、と。 そのとき、他の人とのあなたの関係は、何でしょうか。 理解できますか。 きわめて智恵のある者と、愚かな者との 間の関係は、何でしょうか。 仮に、あなたはきわめて智恵がある、とします - 当面は、その言葉の普通の意味において、です。 それは、まったく智恵ではないですが。 仮に、あなたはきわめて智恵がある、とします。 そのとき、あなたへの私の関係は、何でしょうか。 私は鈍い。私はかなり愚かです。 私は、自分の先入観に縋りつく。 頑固で、自分の意見に、です。 私はかなり愚かです。 そのとき、私へのあなたの関係は、何でしょうか。 それに入ってください。どうか見てください。 あなたは、私を許容してくれるでしょうか。 私に同情的になりますか。私に親切にしますか。 それは、やはり分割がある、という意味です。 理解されますか。
1:12:59 で、葛藤が終わるとき - 仮に、あなたがそれを終わらせた、とします。 それは、そこに愛の感覚がある、という意味合いでしょうか。 私たちは後で、愛について、話すでしょう。 または、その言葉の意味合いと、 その言葉の深さ、その言葉の美しさについて、です。 しかし、あなたは、その性質、その香りを持っていて、私は持っていない。 私が、あなたの妻や夫や何でも、あなたの父や母であるとき - この国では、ふしぎです。 父親と母親はもはや、勘定に入りません。 彼らは、どこかへ追い払われています。ですね? 彼らは、老人ホームへ送られます。 アジアへ行くと、そこには社会保障がない。 父親と母親は、自らの子どもたちと生活します。 そういうわけで彼らは、「私たちは子どもたちを持たなければならない」と言うのです。 それが、人口がものすごく増えている理由の一つです。 男の子がいなければなりません。 特に、男の子が、です。なぜなら、両親が年老いたとき、 男の子たち、子どもたちが、彼らの世話をするだろうからです。 ここ(合衆国)では、そのすべてが、去ってしまいました。 あなたが、自然との関係について話をするとき、どうか、これらを考慮してください - 私たちがいかに、世界を破壊しつつあり、 世界を、空気を、大地を、海を汚染しつつあり、 大地の美しさを、破壊しつつあるのか、です。 そして、関係の美しさ、 お互いと完全に平和に生きること、です。
1:15:39 平和について話をすると、この世界に、平和はありうるのでしょうか。 天国に、ではありません。それは、古い、古い伝統的な病気です。 人間たちの間に、平和はありうるのでしょうか - 彼らの色、人種、言語、 いわゆる文化が、何であっても、です。 その平和を見つけるには、あなたと他の一人との間に、平和がなければなりません - あなたと、あなたの妻、子どもたちとの間に、です。 理解できますか。平和は、ありうるでしょうか。 それは、葛藤がない、という意味です。 葛藤がないところ、 思考の活動より、はるかに大きな何かが、あるのです。 それは、実際の事実です - その真理に来るなら・・・すなわち、葛藤なく生きることは・・・ それは、あなたが怠ける、植物人間になる、という意味ではありません。反対です。 あなたは、ものすごいエネルギーを、持つのです。 もっと悪さをするためではなく、正しく生きるように、です。
1:17:31 何時でしょうか。
1:17:32 聴衆: 1時10分です。

K: 長く引き留めておいて、すみません。
1:17:47 どうか、立ち上がってもいいでしょうか。