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OJ83T2 - 戦争は症状である
第2回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1983年5月15日



0:33 二、三分間、待ちましょうか。 それとも、進みましょうか。 人々が入ってきています。待ちましょうか。
2:06 昨日、私たちが話していたことから、つづけて、 それを継続してもいいでしょうか。 うるわしい朝です。こんなすてきな一日になったことが、私はうれしいです。
2:26 私たちは、世の中の全般的な混沌について、話をしていましたね - 社会においてだけではありません。世界中で 宗教が創り出している分割、 戦争の脅威と、全般的な混沌です。 私たちは、このすべてのめちゃくちゃに、誰が責任があるのかを、訊ねていました。 私たちは言っていましたね - 思考は、テクノロジー的にとてつもなく進化してきましたが、 心理的に、内的に私たちは、いまだにきわめて原始的なのです。 この原始状態は - そういう言葉があるとして、です。それは疑わしいですが - この悲惨と混乱を、創り出しています。 そこから私たちは、関係について、話をしました。 いかに、関係なしには、人類はないであろうか(について)、です。 関係なしには、そもそも存在がないでしょう。 関係は、生において最も重要なものの一つである、と私たちは言いました。 その関係は一般的に、ほとんどの人々においては、 憶えたことと過去の物事に、基づいています。 私たちは昨日の朝、それへ幾らか詳細に入りました。 もう一回それを調べることが必要であろうとは、私は思いません。 憶えたことと楽しみは、愛ではない、と私たちは言いました。 達成したい、何かになりたいとの欲望は、 愛と呼ばれるあの香りを、拒否します。 それが、昨日私たちが止めたところです。 私たちは短く、平和について話をしました。
5:23 人は生物学的に、たぶんおおよそ百万年、進化してきました。 人はいつも泣いて、地上の平和を求めてきました。 「パーチェム・イン・テリス(地上の平和)」 -古いラテン語の文句です。 見たところ、世界に平和はありません。 平和なしに、私たちはとうてい花開けません。 私たちはとうてい・・・進化するのではなく、 生のとてつもない深さを、見られません。 それの美しさ、すべての生き物の無量性を、です。 平和を持たなければなりません。 どこでも貧困があるところ、その平和は拒否されます。 この国にもまた、大変多くの貧困があります。 この社会は裕福であるにもかかわらず、です。 さらに東へ行くと、貧困は増大します。 アフリカ、中東とインドなどです。 貧困があるところ - それは、どの特別な民族主義的な政府も、けっして解決できません。 なぜなら、それは地球的な問題であるからです。 世界全体の問題です。それが全体主義や、マルクス主義や、 いわゆる民主主義のであっても、特定の政府の(問題)ではない。 貧困は、外的にだけでなく - あなたが、無量の貧困がある国に、生きてきたなら、 それの効果が見られます - 堕落、それの全くの隷属、残忍さ。 私たちは、そのすべてを、生き抜いてきました。 この貧困は、精神のだけではない - 精神の貧困は、書物をとおし、施設と組織と財団や 討論会をとおして、豊かになりません。 自分自身の存在全体と、 広く世の中への自らの関係を、理解するとき、 その精神は、豊かになるのです。
8:47 宗教は、世の中に平和を、助長したり、もたらしたりしてきていません。 彼らは、大変多く話をします - キリスト教世界すべては、パーチェム・イン・テリス、世界の平和について、話します。 しかし、宗教は人を、分割してきました。 カトリック信者、プロテスタント信者がいます。 この小さな村に、どれほど多くの宗教集団があるのか、私は知りません - たぶん何ダースものそれら、施設と財団です。 各々が、他の人たちに、何をすべきかを言おうとか、情報を伝えようとしています。 宗教は、平和を妨げてきました。 彼らは、戦争をしてきました - ヨーロッパの三十年戦争、拷問。 一定の宗教的な概念、教義、信念に基づいた この特定の文化の残虐性すべて、です。 世界中、インドと極東と近東の宗教は、 人が人類との正しい関係を持つのを、妨げてきました。 これらはすべて事実です。 五千年の戦争がありました。 これは歴史的に明言されています。 私たちはいまだに、戦争をつづけています。 互いに殺しあっています - おそらく初めには、棍棒でもって、です。 今、あなたたちは、人を蒸発させます。 百万ごとに人を蒸発させます。 私たちは、心理的に進化していません。 内的に、です。 私たちが心理的に原始的であるかぎり、 私たちの社会は、等しく原始的であるでしょう。
11:20 そして、この地上に平和は、ありうるのでしょうか。 これは、きわめて深刻な問いなのです。 自分自身においてだけではなく、平和に、葛藤なく生きること - それは、そもそも可能でしょうか。 または、人は、葛藤に生きるよう、永遠に運命づけられているのか。 あれに、悩まされていますか - 航空機に?
12:07 聴衆: いいえ。

K: いいです。
12:17 K: 人は、葛藤に、戦争に生きるよう、永遠に運命づけられているのでしょうか。 または、これらから抜け出す道が、あるのでしょうか。 確かに、今あるような宗教をとおしてではない。 政治的組織をとおしてではない - それが民主主義的でも、または全体主義的、マルクス主義でも、です。 また、民族性、国籍の分割をとおして、でもない。 あなたが、アメリカ人に留まり、 語り手が、ヒンドゥー教徒や仏教徒やイスラム教徒に留まるかぎり、 私たちは、地上に平和を持たないでしょう。 人種的な分割(をとおして)でもない。ユダヤ、アラブとヒンドゥーなどとして、です。 また、文化的にでもない。 で、それは、私たち自身に訊ねることが、とても重要な問いなのです - 他の人に、ではない。政府が平和をもたらしうるのかどうか、ではない。 政府は、私たちなるものから、創り出されています。 それらは、私たち自身の要求により構築され、組み立てられています。
13:51 で、訊ねます - この地上に平和を持つことは、可能でしょうか。 これは、幾世紀もの間の泣き声でした。 キリスト教が生ずるはるか前、 二千五百年前に、ブッダがいて、平和について話していました。 私たちはいまだに、それについて話しています。 で、これらを悟って、何をすべきでしょうか。 個人たち - 平和に生きたいとの、いわゆる個人の努力は、 世界全体に影響しません。 あなたは、この麗しい谷に、平和に、静かに生きるかもしれません - あまり野心的すぎず、あまり腐敗しすぎず、 あまり競争的すぎずに、ここに静かに生きる。 おそらく自分の妻や夫とともにやっていく。 だが、それは、人類意識の全体に、影響するのでしょうか。 または、問題は、はるかに大きい。 はるかに深遠です。 それを見出すには - 私たちがそもそも真剣であるとして、です。 そしてどうか、ご注意を申し上げていいのなら、 これは、娯楽ではありません。 これは、はるかに深刻すぎるのです。 私たちは、ともに考えなくてはいけません。 語り手が考えて、説明し、叙述するのではない。ともに、 二人の古い友だちのように、 木陰に座り、これらについて話しています。 単に知的にではなく、二人の心は、動揺しています。 彼らは、世の中で起きていることと、 自分たち自身に起きていることに、大いに関心を持っています。 和やかな会話をする、二人の古い友だちのように、です。 互いを説得していないし、互いを刺激していない。 自分の意見と判断と結論に、縋りついていない。 ともに生きてきて、ともに歩んできて、 世の中の多くのことを見てきた、二人の古い友だち、です。 あなたと語り手は、そのようです。 それで私たちは、ともに考えられるのです。 何を考えるとか、どう考えるとかではない。 ともに考える、観察する。 同じ樹を、空を、鳥たちを、そして、 山々の驚くべき美しさを、観察する。 で、ともに、実際にともに、です。 あなたが語り手に聞くのではない。 ともに、この問いを探検するのです。 問いはこうです - 一人がもう一人に訊ねます - 私たちは、生きられるでしょうか。 あなたと私だけではなく、残りの人類が、です。 なぜなら、この大地は私たちのであるからです -アメリカのや、アイルランドのや、 イギリスのや、フランスのではない。 それは私たちの大地です。 私たちはその客です。私たちは、ここに平和に生きなくてはなりません。
19:00 そして一人は、もう一人に言います -このすべての原因は、何でしょうか。 もし原因を見つけられるなら、結果は終わりうる - 症状は、です。 戦争は症状です。 原因は、きわめて深くて複雑です。 病気の原因を見つけられるとき、 その病気は治せるように、です。 で、二人の友は - 私たちは、一緒に話し合っている二人の友だちであることを、願っています - 二人の友だちは、言います -このすべての原因は、何でしょうか。 なぜ人間たちは、このようになったのでしょうか。 こう無思考で、自分たち自身にのみ関心がある。 自分たちの願望、自分たちの欲求、自分たちの衝動、 自分たちの野心、自分たちの成功以外、何も大事ではない。 その成功が、ビジネスの世界でであっても、専門職の世界でであっても、です。 また心理的、内的に私たちは、何者かでありたい、何者かになりたいとも思います。 で、どうか、一人はもう一人に言います - 私があなたに言っていることを、どうか、気をつけて聞いてください。 そもそも心理的な進化が、あるのでしょうか。 それは、きわめて深刻な問いです。 すなわち、そもそも心理的に、なりゆくことが、あるのでしょうか。 そのなりゆくこと、内的に達成することは、「有るもの」から「有るべきもの」へ、 悲惨から、何かの形の幸せへ、混乱から、覚りへ、と。 それは、なりゆくことです。 「有るもの」から「有るべきもの」へ、です。 それは、なりゆくことです。
22:11 そのなりゆくことは、時という意味合いです。 このなりゆくこと、各々が心理的に何かになろうとすることは、 物理的に、事務員から何にせよ、 なるのと、同じ動きであるかもしれません。 司教に、か。 いや、地元の司祭者が、司教になる。 事務員が重役になるように、です。 それは同じ動き、同じ波であり、 心理的な領域へ持ち越されたのです。 友はもう一人に訊ねています。 私の話が明らかになっていることを、願っています。 彼は言います - あなたの話は、すっかり明らかではない。もう少しそれに入ってください、と。
23:29 すべての宗教と、心理的な世界において、 変化の観念は、なりゆくことです。ですね? 私は混乱しています。私は、明晰になるように、この混乱を変化させなければなりません。 私は妻とけんかをします。 それを止めるためとか、そのけんかを終わらせるための変化は、 暴力から非暴力へ動くことです。 すなわち、今ない何かであろうとする試みが、いつもあるのです。 ですね? で、友は、それは相当に明らかである、と言います。相当に、です。あまりに明らかすぎるわけではない。 でも、私たちは、会話をつづけるでしょう。 うるわしい朝です。私たちは、たくさんの時間を持っています。 日向は暖かい。日陰は多い。 陰は、日向と同じぐらいに大事です。 陰には、大きな美しさがあります。 しかし、私たちのほとんどは、光に、覚り(啓明)に関心を持っています。 私たちはそれを達成したいのです。 まさにこの心理的な達成は、 生における葛藤の要因の一つなのかもしれません。 で - 私の友は言います -その事実を検討しましょう。 なるとは、どういうことですか、と。 私は、友がとても興味を持っていることを、願っています。 この会話を聞くことに、興味を持ってほしいのです - すなわち、あなたと語り手が、です。 あなたと語り手、です。 あなたと語り手の外に、誰も友はいません。 で、彼は言います - それが、分割の根源的な原因でしょうか。 もう一人は説明します -分割は存在するにちがいない。 心理(サイキ)、自己、「私」、 自我、人物が、他の者から 自分自身を分離しつつあるかぎりは、です。 しかし、もう一人は言います -これは長い歴史だったのです。 これが、人間の状況なるものです - すなわち、私たちは、宗教的にも経済的などにも、 自分たちは個人であると受け入れるよう、 訓練され、教育されてきたということが、です。 残りの人類から分離している、他の一人から分離している、と。 友は言います - そのとおりでしょうか。 私たちは本当に個人でしょうか。 私は、これが伝統であるし、これが、宗教すべてが言ってきたことであることを、知っています - キリスト教での分離した魂、そしてヒンドゥー教徒などです。 しかしともに、あなたは友として、語り手はもう一人として、 検討しようとしています - 私たちは、そもそも本当に、個人であるのかどうか、です。 どうか、辛抱してください。 拒否したり受け入れたりする前に、それの意味合いすべてを、見てください。 今、あなたは、それを受け入れます。 それは、あなたの状況です。 個人として、自分のしたいことを、自由にできるのです。 全体主義者は、これを拒否します。 あなたは、社会構造全体の中のただの歯車である、と彼らは言います。
28:57 で、私たちは問うています。 心理的になりゆくことが、幻影であるかもしれないだけではなく、 また心理的に、私たちは分離していないのです。 なぜなら、あなたは苦しむ、あなたは混乱している、 あなたは不幸せである、あなたは心配している、不安定で、不安全であるからです。 あなたは外的に、安全を持っているかもしれません - それさえも、ますます不安定になりつつあります。 この国には、数百万の失業した人々が、います。イングランドにもです。 小さな国、イングランドでは、四百万の人々が失業しています。 インドでの失業は、分からないものです。 この失業は、大きな悲惨、不幸せ、 抗争、憎しみを、引き起こしています。
30:23 で、私たちはともに、問うています。 あなたと、もう一人の友が、問うています - 私たちはそもそも個人であるのかどうか、です。 または、私たちは、残りの人類に似ています。 残りの人類は、不幸せで、悲しみに打ちひしがれ、恐れにみち、 何か空想的、ロマンチックな戯言を、信じています。 彼らは、大きな苦しみ、不安定を経てゆきます。 あなたのように、です。 私たちの反応は - すなわち、私たちの意識の一部ですが - 他のものと同様です。 これは絶対的な事実です。 あなたは、それについて、考えたくないかもしれません。 あなたは、自分は他の一人より全的に分離していると、考えたいかもしれません - それは、まったく不条理です。 で、あなたの意識は - すなわち、あなたです。 あなたが考えること、信じること、あなたの結論、先入観、 あなたの虚栄、傲慢、攻撃、痛み、嘆き、悲しみは、です - 人類すべてにより、分かち合われています。 それは、私たちの条件づけです - あなたが、カトリックでも、プロテスタントでも、何であっても、です。
32:35 で、私たちの意識は、あなたの本質です。 あなたの生なるものです。 それは真理です。 で、あなたは実際に、残りの人類を分かち合っています。 あなたは、残りの人類です。 あなたは人類です。 これを悟るのは、ものすごいことです。 あなたは、一定の形の救い主を、信じているかもしれません。 他の人は、一定の形のイデオロギーなどを、信じています。 信念は、私たちのみんなに共通です。 恐れは、私たちのみんなに共通です。 さびしさ、さびしさの苦悩は、残りの人類により、分かち合われています。 で、それの真理を悟るとき、なりゆくこと、すなわち、 「有るもの」から「有るべきもの」へ変化することは、 全然違った意味を持つのです。 友は言います -私はまったくそれを理解しません。 あなたのいうそれは、どういう意味ですか、と。 友は言います - 私はすっかりは知らないが、検討してみましょう、と。 あなたがこれらに付いてきていることを、願っています。なぜなら、それは、あなたの生であるからです。 私のではない。あなたの日々の生なのです - あなたが、この谷や、ニューヨークや他の大都市、世界の都市すべてに、 生活していても、です。 それは、私たちの生なのです。 私たちは、それを理解しなくてはいけません。 他の人からではなく、 私たちの生の事実を、検討するのです。 私たち自身を見つめるのです。 あなたが、髪を櫛で解かしたり、 髭を剃ったりするとき、(鏡で)自分自身を見つめるように、です。 客観的に、まっとうに、理性的に、何も歪曲なく、 物事をありのままに見る。怯えたり、恥じたりせずに、観察する。
35:54 で、友は言います - 私は生涯、「有るもの」から 「有るべきもの」へ、変化しようとしてきた。 私は、暴力、無秩序を知っている。 私はそれらを、よくよく知ってきた。 私は、その無秩序と暴力を、変化させようとしてきた。 すなわち、暴力から非暴力に、 無秩序から秩序になろう、と。 さて、もう一人の友は言います - ・・・ この虫は私が好きですね。 もう一人の友は、言います -非暴力は事実でしょうか。 または、ただの想像上の結論、 暴力の事実からの反動だけでしょうか。 私たちが互いに理解しあっていることを、願っています。 私は暴力的です。私は、非暴力の観念を投影します。 なぜなら、それは、私の条件づけの一部であるからです。 私は、無秩序に生きてきました。 私は、秩序を探し求めようとします。 すなわち、「有るもの」を「有るべきもの」へ、変化させようとします。 それは、なりゆくことの一部です。 それが、葛藤の原因なのかもしれません。 で、それを、気をつけて検討しましょう。 あなたがそれを検討しています。 語り手がそれを検討しているのではない。 常にそれを、憶えておかなければなりません。 語り手は常に、友に留意させるでしょう - すなわち、それは一方的な会話ではない、 それは一方的な意思疎通ではない、ということを、です。 私たち、友の二人ともが、あなたと語り手が、これらを観察しています。 語り手が、それを言葉に表現していますが、あなたもまた、それを観察しています - 言葉だけを、ではなく、事実を、です。 で、友は言います -この暴力は、終わりうるのでしょうか。 非暴力になるのではない。 妬み、貪欲、恐れは、終わりうるのでしょうか。 勇敢になる、これやあれから自由になる、のではない。 それが問いです。 で、もう一人の友は言います -私はあなたにそれを示しましょう。 ただ、おそらくこれは、あなたにとって、新しいだけかもしれません。 で、どうか、大変注意深く聞いてください。
39:57 初めに、私たちが何をしているかを、悟ってください。 すなわち、「有るもの」が理想に、すなわち「有るべきもの」になる。 理想は、存在していません。非事実です。 「有るもの」は事実です。ですね? で、「有るもの」を理解しましょう。 非暴力の観念ではなくて、です -そちらは、不条理です。 これは、インドで様々な人々により、説かれてきました - トルストイと他の人たちに始まって、です。 これは私たちの伝統です。 これは私たちの条件づけです。 これは私たちの試みです - 何かになろうと、です。 私たちはけっして、何をも達成したことがありません。 私たちはけっして、非暴力的になったことがありません。一度も、です。 で、気をつけて検討しましょう - 「有るもの」を終わらせることが、可能なのかどうか、です。 その無秩序や暴力を終わらせることが、です。 終わらせる - 何かになるのではない。私たちはお互いに理解しあうことを、願っています。 なることは、時を含意しています。 これを理解することは、とても重要です。 私たちは、恐れについて話をするとき -まもなくそうするでしょう - 私たちは、時の問いに入るでしょう。 それは、とてつもなく複雑です。
42:00 で、「有るもの」を終わらせることは、可能なのかどうかを、理解しましょう。 「有るもの」を、私たちがなりたいものに変化させるではなくて、です。 私たちは、暴力という問いを、取り上げましょう。 あなたが、無秩序(という問い)を選ばれるなら、どちらも同じです。 あなたが何を取り上げるかは、大事なことではありません。 暴力は、すべての時を越えてから、継承されています。 動物から、類人猿から、私たちへ。 私たちはそれを継承しています。 それは事実です。私たちは、暴力的な人々です。 さもなければ、私たちは誰をも、殺していないでしょう。 私たちは誰をも、傷つけていないでしょう。 私たちは、誰に反する言葉を、一つも言わないでしょう。 しかし、私たちは生来、暴力的なのです。 さて、その言葉の意味は、何でしょうか。 その言葉を保つこと、その言葉の重みを、 その言葉の錯綜を、感じること。 単に物理的な暴力、テロリストが爆弾を投げることだけではありません。 様々な形の争乱、爆破などをとおして、 社会を変化させたいテロリストたち。 彼らはけっして、社会を変化させたことがありません。 それを面白さのためにやるテロリストたちが、います。 暴力は、物理的なだけでなく、心理的です -はるかにそうです。 暴力は順応です。 なぜなら、何かへ順応すること - 「有るもの」を理解せずに、順応する、模倣するのです。 外的に、内的に分割があるかぎり、 暴力は存在するにちがいないのです。 葛藤は、暴力のまさしく本性です。 友は言います - ええ、私はそれは分かります。 それは相当に明らかです。 さて、あなたはどのように、それを終わらせるのでしょうか。 あなたはどのように、暴力の複雑な問い全体を、終わらせるのでしょうか。 非暴力になることは、暴力の一部であることを、 自分はよくよく理解すると、彼は言います。 ですね?暴力の一部です。 なぜなら、あなたは、暴力から非暴力を、投影してきたからです。 私はそれを、きわめて明らかに理解します -その投影は本当に、幻影です。 で、私は、その概念やその観念、その感情を、拒絶しました - すなわち、自分は非暴力的にならなければならない、というものを、です。 彼は言います - 私はそれをきわめてはっきりと理解します。 ただこの事実だけがあります。 さて、私は何をすべきでしょうか、と。
46:21 友は言います - 私に訊ねないでください、と。 気をつけて聞いてください。 私に訊ねないで、それを見つめましょう。 あなたは、何をすべきかや、どうすべきかを訊ねた瞬間、 他の人を、自分の案内人とします。 彼を、自分の権威にします。ゆえに、友情は無くなります。ですね? で、ともに、それを見つめましょう。 非暴力の観念からすっかり自由であって、 暴力が何かを観察します。それを見つめ、事実に注意を向けます。 それから逃避しない。それを合理化しない。 なぜ自分は暴力的であるべきでないのか、それは私自身の一部である、と言わないでください。 しかし、それがあなた自身の一部であるなら、 あなたはいつも、異なった種類の戦争を、創り出すでしょう - あなた自身と妻との間の戦争・・・他の人たちを殺すこと。
47:51 で、葛藤なく、それを見つめてください。 理解されますか。 まるでそれが、自分より分離していないかのように、見つめてください。 これらを理解されますか。 これはかなり困難です。 すなわち、暴力はあなたの一部です。あなたは暴力的です。あなたが貪欲であるように。 貪欲は、あなたより分離していません。 苦しみは、あなたより分離していません。 心配、さびしさ、憂鬱 -そのすべてが、あなたです。 しかし、私たちの伝統、教育は、あなたはそれより分離していると、言ってきました。 ですね?で、分離があるところ、二元性があるところ、 葛藤があるにちがいないのです。 ユダヤ人、アラブ人のように、です。 私はそれを取り上げています。 たぶんあなたは、そのほうをよく理解するでしょう - 二つの大国の間の葛藤、抗争、分割など。 で、それはあなたです。あなたはそれです。 あなたは、それより分離していません。 分析者は、分析されるものより異なっていません。 ですね?あなたがこれを・・・ 友は言います - 私はもう少し付いていけます。 進んでください。もうちょっと説明してください、と。 彼は言います - そうしましょう、と。
49:46 私たちは、樹を、山々を観察します。 あなたは、妻と子どもたちを、観察します。 そして、誰が観察者でしょうか。 誰が観察されるものでしょうか。 どうか、私はそれに入ろうとしています。 気をつけて、付いてきてください。 観察者は、樹より異なっているのでしょうか。 もちろん彼は異なっています。そう願います。 観察者は、あの山より異なっています。 観察者は、コンピューターより異なっています。 しかし、観察者は、心配より異なっているのでしょうか。 心配は、反応です - 心配として、言葉に表されたのです。 しかし、その感情はあなたです。 言葉は、異なっています -どうか、付いてきてください。 言葉は異なっています。しかし、言葉はけっして、そのものではありません。 そのものは、心配の感情、暴力の感情です。 「暴力」という言葉は、それではありません。 で、気をつけて、その言葉があなたの観察に絡まないように、見守ってください。 付いてきていますか。 なぜなら、私たちの頭脳は言葉の網に、捕らえられているからです。 私が、あなたはアメリカ人であると言うとき、あなたは、とても誇らしく感じます。 私が自分自身を、南アフリカ人とかズールー人とか呼ぶなら - 付いてきていますか - 私は、何か全然違ったことを、感じます。 で、よく気をつけなければなりません。 すなわち、言語が私たちの思考を条件づけないように、です。 これはすっかり別の問題です。 ですね?で、友は、もう一人へ言います - この感情を、言葉なく観察してください、と。 あなたは、その言葉を使うなら、 その特定感情の過去の記憶を、強めます。 付いてきていますか。 これが、観察の行為です - その中では、言葉はそのものではないし、観察者は観察されるものなのです。 私は暴力的であると言う観察者 -その観察者は、暴力です。 ですね?で、観察者は、観察されるものです。 思考者は思考です。 私は、涅槃や天国とか何であれ、経験しなければならないと言う経験者は、 経験です。ですね? 分析者は分析されるものである、などです。 で、その感情のその事実を、見つめてください - 言葉なく、 それを分析せずに、ただ見る。 すなわち、それとともにいてください。 このもののとおりに、これとともに、いてください。 それは、あなたがそれへ注意すべてを、もってくる、という意味です。 ですね?分析、検討することにより -それはすべて、エネルギーのむだです。 ところが、あなたが全的な注意を向けるなら - それは、あなたのエネルギーすべてを、その感情に注ぐことです - そのとき、その感情は、全的な終わりがあるのです。
54:04 友は言います - あなたは、それについて、そう激烈であること、情熱的であることにより、 私を催眠にかけていますか、と。 私は、いいえ、と言います。 私は、あなたを刺激していません。私はあなたに、何をすべきかを、言っていません。 非暴力は非事実であることを、あなた自身が 悟ったのです。それは実在ではありません。 実在するのは、暴力です。 あなた自身が、それを悟ったのです。 あなた自身が、「ええ、私は暴力です」と言ったのです - 私は暴力から分離している、というのではない。 その言葉は分離します。 しかし、その感情の事実は、私です。 「私」は、私の鼻、私の目、私の顔、私の名前、 私の性格、私の・・・です。それが「私」です。 私は、そのすべてから分離していません。 あなたは、分離するとき、それに対して行為します。ですね?それは葛藤という意味です。 ゆえに、あなたはそれであるとき -それより分離していなくて、です - あなたは根源的に、葛藤の原因を、消去したのです。 これは明らかですか。いいですか?
55:45 で、私たちは・・・友たちは、何かを学んできました。 私は、大きな現象を学んできました - 私はかつて、それを悟ったことがありませんでした。 前に私は、自分の感情を分離してきました。 まるで、私は、自分の感情より異なっているかのように、です。 今、私は、自分はそれである、という真理を、悟ります。 ゆえに私は、それとともに留まります。 あなたは、それとともに留まり、それを保つとき、 それから外に出ています。それは、あなたにものすごいエネルギーを、与えます。 そのエネルギーは、その暴力を完全に消失させます。終わらせます。 一日間ではなく、あなたがここに座っている間ではなく、それが、それの終わりです。
56:48 で、私たちは、時間があるなら、次の問いへ進めます。 ああ、よし。たくさんの時間がある。 あなたが疲れていないことを、願っています。 私たちは今、その問いを、取り上げなければなりません - 二人の友は訊ねています。 どのように恐れを終わらせるのか。 なぜなら、それは、時を越えた時から、 私たちの問題の一つであったからです。 人は、恐れとともに、生きてきました。 様々な種類の恐れ - 終わること、死の恐れ、得ないことの恐れ、 人生で失敗者になる恐れ、仕事を失う恐れ、暗闇の恐れ、 世間が何と言うだろうかの恐れ、 私は妻を失いかねないとの恐れ、とても多くの恐れ、 鈍いことの恐れ。 私は、利発な人 - 智恵があり有能であり敏いの - を、見るとき、 私は彼を嫉妬します。それは恐れの一部です。
58:43 で、恐れの本性と恐れの構造を理解する - なぜなら、恐れの中から、私たちは神々を、創り出してきたからです。理解されますか。 私たちは、まったく恐れていないなら、地上で最も解放された人なのです。 そのときあなたは、神々をほしがりません。 あなた自身が神なのです。 で、恐れの本性を理解するには、私たちは、よく気をつけて時を検討しなければなりません。 時は恐れです。私は、明日を恐れています。 私は、二年前に起きたことを、恐れています。 二年前は過去です。過去は時です。 私は、明日起きかねないことを、恐れています。 それは時の一部です。 私は、仕事を持っていますが、それを失いかねません。 それは時です。ですね? で、私たちは、できるなら、理解して、 よく気をつけて、この問いに入らなければなりません - 時は何か。
1:00:11 時は、物理的にだけでなく、心理的に存在します。 言語を学ぶ時、 ここからあなたの家に行くのに必要な時、 時計による時、太陽、日の出と日の入りによる時、 夜の闇と、昼の光。 物理的な時があります。 コンピューターを組み立てるには、時が要ります。 あなたは、そのほうをよく理解するでしょう。 なぜなら、あなたたちはみんな、機械に通じているからです。 どうぞ、それは嘲りではありません。 で、時は、一定の領分では、必要です。 今、私たちは、時がそもそも 心理的、内的に存在するのかどうかを、問うています。 すなわち、「望み」という言葉は - どうか、これらに憂鬱にならないでください。 ただそれを見てください - 「望み」という言葉は、時を含意しています。 私は、ありたいと望む。私は、なりたいと望む。 私は、達成したいと望む。 私は、充足したいと望む。私は、天国へ、覚りへ至りたいと望む。 そのすべては心理的に、時を要求します。 私たちは、一方向、一領分での時は必要である、と言っています。 この心理的な時は、全的な幻影であろうが、です。 幻影(イリュージョン)という言葉 -その根本の意味、 その言葉の語源的な意味は、遊ぶこと、何かと戯れることです。 私たちは、幻影と戯れます。 なぜなら、それは面白いからです。 私たちは、一ダースの幻影を持つことに、大きな楽しみを、得ます。 多いほど良い。なぜなら、それらは、より神経症的であるからです。 その言葉は - そういうわけで、私たちは言葉自体を検討しているのです。 その言葉の根本の意味は、「ルーデレ」、遊ぶことです。
1:03:13 で、心理的に、明日はあるのでしょうか。 見てください。それを拒否しないでください。 私は友に訊ねています - それについて、うろたえないでください。 お手上げになり、「消え失せろ」と言わないでください。 それを見てください。見守ってください。それを拒否したり、受け入れたりしないでください。 あなたはそれを、拒否するかもしれません。なぜなら、あなたは、条件づけられているからです。 あなたは、条件づけられているので、 私は、望みを持たないとの観念でもって生きられない、と言うかもしれません。 そこには、条件づけが関与しています。 条件づけられないことは、可能でしょうか。 これらすべての問いは、相互に関係しあっています。 条件づけられている -それは、どういう意味でしょうか。 制限されること。 私たちの頭脳は、条件づけられています。 どうか、これらを聞いてください- 友がもう一人へ言っています - どうか、これを聞いてください。 なぜなら、これは本当に重要であるからです- あなたがそれを理解できるなら、です。 そのときあなたは、とてつもない人物でしょう -もしあなたが、自らの条件づけから自由であるなら、です。 あなたは、とてつもないだろう。ゆえに、条件づけられていない、ということではない。 初めにそれを理解してください。 そのとき自然に、それは起こります。 人間たちは、人間の頭脳は、いつも条件づけられるだろう、と言う 多くの学者と科学者と他の人たちが、います - 彼らの言語により、食べ物により、衣服、 環境、社会、その他すべてによって、です。 あなたは、その条件づけを修正できる。 でも、けっして、それから自由ではありえない。 それについて書いてきた、偉大な作家たちを、ご存じでしょう。 私たちは、傑出した人たちと、議論してきました - 人間たちは条件づけすべてから自由になれない、と確信している人たちと、です。
1:05:54 で、私の友は言います -それについて語ってください。 条件づけられないことは、可能でしょうか。 条件づけられることの要因は、何でしょうか。 何が頭脳を、条件づけさせるのでしょうか。 まず最初に、それは条件づけられています。 安全への要求があります。 私たちは、不安全を提唱していません。 ただ、それの物語全体を、聞いてください。 私たちは、安全がほしい -物理的にも、です。それは自然です。 衣食住。それは自然です。 わずかな人だけではなく、世の中の誰もがみな、それを持たなければなりません。 その安全は、わずかな人たちのためであるとき、拒否されます。 貧困があります。ゆえに、葛藤があるにちがいないのです。 で、頭脳が探し求めるとき -それは当然、思考です。理解できますか。 頭脳の本質は、考えることです。 それが、頭脳の根本、本性です -考えることが、です。 しかし、考えることは、それ自体が不安定であることを、悟りました。 ゆえにそれは、安全を探し求めます。 その安全を、分割をとおして、です - 私はアメリカ人だ、私の家族、あなたの家族、と - その安全は今、拒否されつつあります。 それは分かりますね。 で、時のでない安全は、あるのでしょうか。 理解されますか。 望みのでないものが、です。 付いてきていますか。 願望により組み立てられていない安全が、あるのでしょうか。いいですか? 友は言います - ええ、絶対的な安全が、あります、と。 改変不可能な安全です。 もう一人の友は言います - 私に示してください。 それについて、利巧すぎないでください。 たくさんのことを、言わないでください。ただ、私にどこに安全があるかを示してください、と。 しかし、もう一人は言います -そんなに辛抱がなくてはいけません。 よく気をつけて、それを見つめてください。 すなわち、私たちは安全がほしい、物理的な安全が、ということを、です。 それは、世界の分割すべてにより、拒否されつつあるのです - 宗教的、政治的、人種的、イデオロギーの分割、戦争、です。 物理的な安全は、次第に浸食されつつあります。 で、それについて、何かをしてください。 で、分離した人間として、内的に安全を見つけたいとの願望が、 それを引き起こしています。 あなたがこれらに付いてきていることを、願っています。
1:10:25 で、内的に安全があるのかどうかを、見出してください。 執着には、何も安全はありません。ですね? 妻へ、友へ、娘へ、彼氏への執着、 または、観念へ、概念へ、イメージへの執着。 それらには、何も安全はないのです。ですね? あなたが、「私はあなたに同意します。 それには何も安全はない」と言われるとき、 何が起きますか。 あなたは、これを検討していなかった前には、ただ執着しています。 しかし今、それを検討することにより、あなたの・・・根本的な変化が、あったのです。 これに付いてきていますか。 頭脳は、執着により、条件づけられてきました。 その執着に、それは安全を探し求めました - 私の妻へ、私の仕事へ、理想へ、何か神へ。 で、それのどれにも安全がないことを発見して、頭脳には、 何が起きたのでしょうか。どうか付いてきてください。気をつけてこれを見守ってください。 あなたの頭脳に、何が起きたのでしょうか。 それは伝統的に、執着するよう条件づけられてきました。 これらに安全を見つけたいと望んで、です。 そして突然、これらには何も安全がないことを、発見します。 頭脳には、何が起きたのでしょうか。 これに付いてきています。 全的な変化がありました。 これらを理解できますか。
1:12:40 あなたは、特定の慰める執着に、縋りつくかぎり - その執着に、あなたは安全を探し求めました。 今あなたは、よく気をつけた観察の後、そこには 何も安全がないことを、見つけます。 動き全体が、そこから動き去ったのです。 で、あなたの頭脳は、条件づけられていません。 ですね?その条件づけられぬことは、あなたは真理が見えたから、 もたされたのです - すなわち、執着には、何も安全がないということが、です。 幻影には何も安全がないと見えることが、智恵なのです。 その智恵、それの始まりは、 あなたに絶対的な安全を与えます -執着においてではなく、智恵において、です。 捕まえましたか。 いいですか?これは明らかですか。
1:13:57 で、友は言います - さあ、恐れに戻りましょう、と。 ああ!私は、1時間15分を過ごしました。 もう15分間を、気にされませんか。 これらは、とても興味深いのです -あなたがそれに入るなら、です。 世界のどの映画より、魅力的です。 あなたは、長い旅を行います。 終わりのない旅です。 それは、終わりがなく、無際限です。 それは、智恵があるところ、慈悲があるということを、含意しています。 私たちは後で、それに入るでしょう。
1:14:53 で、今、私の友と私は、恐れについて、話しています。 友は言います - それに、終わりがあるのでしょうか。 一日間や二、三時間ではなく、それが全的に終わるのです。 彼は悟ったから、言います - 私は、恐れが何をするかを、悟ります。 それは、私の全人生を暗くします。 それは、私の思考を不具にします。 それは、物理的に縮むこと、神経の緊張です。 私は、恐れが何なのかを、よくよく知っています、と、友は言います。 私は、幾つもの形の恐れを、知っています。 でも私は、恐れの形に、関心はありません。 なぜなら、原因を根絶やしにできるなら、 私はその枝々に、思い煩わなくていいからです。
1:16:14 で、友は言います - 私は、恐れの樹の刈り込みに、関心はない。 私は、恐れが終わることに、関心がある、と。 それは可能でしょうか。 または、私たちは永久に、恐れとともに生きなければならないのでしょうか。 人は、何千年もの間、恐れとともに生きてきました。 あなたがやってきて、「あなたはそれを終わらせられます」と言う。 あなたは、それを言うどんな権利を、持っているのでしょうか。 それもまた、ただの言語的な虚構でしょうか。 または、それは事実でしょうか。
1:17:08 で、友は言います - 私たちはともに、それに入るでしょう。 あなたは、あなた自身でそれが見えなければなりません。 私がそれを見て、あなたに語る。そのときあなたが拒絶するとか受け入れるとかではない。 ともに、旅を行いましょう -心理的に恐れを、全的に 終わらせることが、可能かどうかを、見出すように、です。 そのとき外的に、それは自らの表現を得るでしょう。ですね? 心理的に、恐れの終わりがあるとき、 終わりは外的に、自らの表現を持つのです。 その逆にではない。それは明らかですか。 で、友は言います - 時は、恐れの要因です。 それは事実です。 また思考も、恐れの要因です。 私は、明日は危険なのかもしれないと、考えます。 私は、自分は病気になるだろうと、考えます。 私は、世論が何を言うかもしれないかを、考えます。 私は仕事を持っていますが、失業するかもしれません。
1:18:37 で、時と思考は、恐れの根です。 それにゆっくり入ってください。 私たちは、時の本性を説明しました。ですね? 時は望みです。時は、なることです。 車の運転の仕方を学ぶ時など。 外的にと内的に、です。 さて、私たちは、時が恐れの要因であることが、見えます。明白です。それは明らかです。 また思考も、恐れの要因です。 私はここにいます。私は死ぬかもしれません。 思考は、「私は死ぬかもしれない」と言います。 で、思考は - 思考の動きをあまりに詳細にせずに - すなわち、こうです。 思考は、経験です。経験からの知識です。 知識は、記憶として頭脳に蓄えられています。 記憶は、思考への反応です。 思考はいつも制限されています。なぜなら、知識はいつも制限されているからです。 経験はいつも制限されています。 科学的な世界、生物学の世界では、 どれほど知識を持っていても、もっともっと多くを学ばなくてはいけません。 で、知識は、今や過去においてや、未来において、いつも制限されているでしょう。 これは事実です。で、思考は制限されています。 思考が何をしようと、その行為は制限されています。 で、時と思考が、恐れの根です。
1:20:50 友は言います - ええ、私はそれは分かります。 でも、私はどうやって思考を止めるべきでしょうか、と。 彼は言います - どうやってを、訊ねないでください。 それは、訊ねるのが一番やさしい問いです。 あなたは、誰に訊ねているのでしょうか。 私はあなたの友だちです。私は、あなたの案内人ではありません。私は、あなたの導師ではありません。 私は、あなたの権威ではありません。どうやってを、誰にもけっして訊ねないでください。 観察してください。よく気をつけて見てください。 時と思考が恐れの根であるなら - どうか聞いてください。この友はもう一人へ言います。どうか、気をつけて聞いてください、と。 それらが恐れの根です。 それは、思考や時をどう止めるのか、ではありません。 思考が恐れの創始者であるとの事実を、見ることなのです。 それを悟ってください。見てください。 しかし、行くには、時や思考が要ります -ここからそこに行くには、です。 ですね?あなたは、ここに座っています。 あなたは、家に帰らなくてはいけません。 それは、時と思考を、必要とします。 さもなければ、あなたは動けなかったでしょう。 しかし心理的に、時と思考は、恐れを生み育ててきました。 あなたは恐れです。あなたは、恐れから分離していません。 ですね?で、恐れの検討者は、検討されるものなのです。 ですね? よく気をつけて見つめた後、時と思考は恐れの根であると言う検討者、です。 すなわち、時と思考はあなたです。 あなたは、恐れの罠なのです。捉えましたか。 あなたは、恐れです。 これは啓示です。理解されますか。 前に、あなたは言いました - 私は恐れている。 私はそれについて何かをしよう。 私はそれから逃げ去ろう。 私は勇敢になろう。私はこれになろう。 私はあれになろう、と。 ゆえにそこには、葛藤があるのです。ですね? ところが、今あなたは、自らがそれであることが、あなた自身で見えます - 時と思考、です。 で、あなたは、それについて何一つできません。 ですね?あなたが、これを悟られるのか、と思われます。
1:24:07 友はもう一人へ言います - あなたは、その言明の無量性を、それの深さを、 悟るでしょうか - すなわち、あなたはそれである、と。 ゆえにあなたは、それについて、とうてい何一つ、できません。 それは、どういう意味でしょうか。 恐れに関する行為すべてが、終わったのです。ですね? そのとき、何が起きるかを、見てください。 前にあなたは、それに対して行為しました。 今、あなたは行為していません。あなたはもはや、行為者ではありません。 あなたはそれなのです。あなたは、行為者と行為のどちらでもある。 ですね?あなたは、それなのです。 あなたがそれであるとき、何が起きますか。 これは - どうか -これは、冥想の一部です。 よく気をつけて、見つめてください。 それを、あなたの手に取ってください。 宝石のように、です。そして見つめてください。 動きすべてが止まるとき、あなたはそれです。 理解できますか。 あなたがそれであることを悟るとき、動きすべてが、自然に止まります。 動きは、エネルギーのむだです。 ゆえに - 理解されますか? - 何も動きがないとき、あなたは、見るためのあのものすごいエネルギーを、持つのです。 ゆえに、それの終わりが、あるのです。
1:25:57 友は言います - 私は疲れています。 あなたはともに、長い旅を行ってきました。 幾つもの谷と山と牧場と木立をとおって、です。 私は大変多くを理解しました。 私は学びませんでした。 私は、何をも学んできませんでしたが、私は、観察してきました。 その観察が、大きな光、大きな智恵を、もたらしました。 その智恵が作動します - 私がそれに対して作動するのではなくて、です。ですね?
1:27:06 立ち上がってもいいでしょうか。