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OJ83T3 - 何の動機もなく終わること
第3回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1983年5月21日



0:51 先の日曜日に止めたところから、継続してもいいですか。 私たちは言っていました -これは、どの特定主題について、 教示したり、情報を与えたりするための、講義でもありません。 またそれは、一つの形の娯楽 - 語り手により刺激されるもの - でもありません。 また、様々な形の理論と概念と理想の中への 知的な旅でもありません。 むしろ、ともに私たちは、旅を行っているのです。 語り手が旅を行っていて、その旅について あなたに情報を知らせている、というのではない。 むしろ一緒に、です。私たちは友だちであり、 人間の状況の中へ、とても長い旅を行っているのです。 人間たちは、見たところ、 おおよそ百万年ほどの間、進化してきましたが、 なぜ彼らは、いまだにほぼ同じなのでしょうか- 暴力的で、原始的で、分割されて、 戦争、怯えて、不安全などであり、苦しむ。 見たところ、進化としての時は、 私たちの人間の問題を、解決していません。 それらは、減少していないとしても、ますます増大しています。 生は、ますます複雑になりつつあります。
3:06 私たちは、様々な形の指導者たちを、持ってきました - 宗教的なのも、政治的なのも、社会的なのなども、です。 様々な形の施設と組織、 財団と討論会。 それらもまた、どのみち、人に根源的な変化を、もたらしていません。 私たちは、一緒に、何の偏見もなく、 何の結論に至ることもなく、 世界中で起きていること- 飢餓、不安全、混乱 - を見るとき - 戦争をとおし、様々な形の宗教的と民族的な 分割などをとおした人間の苦しみの大きな感覚、です。 テクノロジー的に、私たちはここ百年の内に、尋常でなく 前進してきました。 そこで思考は、ほぼ無際限の能力でもって、作動してきました。 しかし、心理的、内的に、深く、私たちはほぼ同じです - 原始的です。 で、いびつな進化です。 そこで、思考が、とてつもない物理的結果を、もたらしてきた過程です - 通信、交通、運輸、その他すべて、です。 しかし、思考はまた、世の中に様々な分割を、創り出してきました - 宗教的、人種的などのです。 私たちは、分割があるところ、葛藤、戦争があるにちがいない、と言いました。 私たちは、相当充分に、それへ入りました。
5:30 私たちは、関係について、話をしました。 私たちは、ともに旅をしています。 語り手は、自分自身に話をしていません。 私たちはともに、旅を行っています。 考え、観察し、見守っています - 私たちの外側、いわば肌の外側で、起きていることだけではなく、 また内的、心理的にも、 心理(サイキ)の舞台全体において、起きていることを、です。 ともに私たちは、旅を行っています。 で、どうか、もしこれをしばしば繰り返していいならば - 私たちはこの講話と、 明日の講話の間に、そうするでしょうが - 私たちはともに、旅を行っています。 知的、言語的、イデオロギー的な旅ではなく、 事実への実際の観察です -実際に起きていることへの、です。 で、私たちは、関係について、話をしてきました - それが、生においていかに重要であるか、です。 正しい関係なしには、葛藤があるにちがいないのです。 二人の人々の間だけでなく、世界にです。 なぜなら、心理(サイキ)がいつも、打ち勝つからです。 いかなる規制、規則、命令が外部的に敷かれていても、 内がいつも、外に打ち勝ちます。 これもまた、明白な事実です。 共産主義の全体主義世界に、見られてきたように、です。
7:32 また、先の日曜日、私たちはよく気をつけて、恐れの問いに入りました。 恐れの様々な枝々や、恐れの表現ではなくて、です。 きわめて多くの形の恐れが、あります。 しかし、私たちはともに、恐れの根を、検討しています。 訊ね、問い、疑っています -原因は何でしょうか。 原因があり、それを発見することができるところ、 そのとき原因は、終わりになりえます -自らが神経症的でなく、健全であるなら、です。 私たちは、思考と時が恐れの要因である、と言いました。 私たちは、時という問いに入りました。 外的に、ここからそこへ、だけではなく、 思考により案出された時も、です -人間心理が何かになること、 何かを達成することとして、です。 すなわち、「有るもの」は、「(現に)無いもの」になるべきだ、とか、なろうとすべきだ、と。 私たちはともに、旅を行っていることを、願っています! すなわち、私たちは暴力的であるなら - 人間たちは見たところ、時の始まりから、そうであるように、です - 非暴力の概念を、創案や投影することは、まったく役に立ちません。 非暴力は、実際ではありません。 それは理論です。 それは概念です。それは結論です。 で、ただ暴力だけがあるのです。 しかし、私たちは、それの対極を創り出すとき、分割を創り出します。 そして、分割があるところ、葛藤があるにちがいないのです。 で、暴力を扱うことが、唯一つ大事なことです - 非暴力のイデオロギー的な創案が、ではありません。 私たちは気をつけて、それに入りました。
10:18 またともに、私たちは今朝、検討しなければなりません - 楽しみを、または、楽しみ、快楽、満足の 含意全体と、欲望の複雑さを、だけではない。 また私たちは、自分たちの旅において、ともに話し合うべきです - 苦しみの本性を、 なぜ人間たちが、果てしなく苦しんできたのかを、です。 彼らの関係においてだけではなく、戦争などをとおして、です。 苦しみは、いったい終わりうるのか、 または、人は、条件づけられているので、永遠に苦しまなければならないのか。 また私たちは、旅において、慈悲、愛、智恵の本性について、 ともに話し合うべきです。 私たちは、時間があるなら、ともにまた、 死の複雑な問題全体について、話し合うべきです。
11:38 で、あなたは、このような麗しい朝に- 心地よくて、すてきな日射しですが - あまりに疲れていないなら、 木陰すべてをもった樹々の下に、静かに座り、 遠方の山々を見守る。 土地の美しさに、さわやかな新しい朝の 輝きのすべてに、気づく。 私たちはともに、このすべての中へ、旅を行うべきです。 おそらく明日、私たちは、ともにまた、宗教とは何かについて、話し合うべきです。 なぜ宗教は、何千年に何千年もの間、存在してきたのか。 なぜ諸宗教は、人間にほとんど効果を与えてこなかったのか。 また私たちは、冥想とは何かの問いにも、入るべきです。 宗教と冥想を、私たちは一般的に幾つかの講話の終わりに、置きます。 なぜなら、私たちは自分自身に確立していて、 きわめて明晰であり、私たちの分割、断片化 すべてから自由でないのなら- そして、葛藤の終わることなど、です - 冥想は、ほとんど意味がないのです。 私たちは明日、それに入るでしょう。 でも、それは、あなたへの招待ではありません!
13:53 私たちは、他の人から学ぶこと、何をすべきかを言われることに、熱心です - どのように冥想するのかと、それらの戯言です。 私たちはけっして、自分自身で見つけません。 あなたが、知識の問い全体に入ったことがあるのかどうか、私は知りません。 知識はいつも、過去にあります。 私たちは、経験と知識の蓄積に拠って、生きます - それは過去です。 その過去は、一万年なのか、昨日の過去なのかもしれません。 で、私たちはいつも、過去に生きています。 私たちは、現在に生きようとしますが、過去の本性を きわめて深く理解するのでなければ、それは不可能です。 分析、究明するのではなく、 観察する - 何の動機や方向づけもなく、 人間の心理的な蓄積全体を、ただ観察するのです。 すなわち、観察する。 目でもってだけではなく、静寂の中、観察する。 なぜなら、あなたは、静寂、美しさの中、観察するとき、それは、大いなる意義を持つからです。 しかし、あなたは、静寂と美しさについて喋り散らしているなら、 そのどちらをも、理解しそこねます。
16:09 で、私たちは今朝、ともに、第一の問いへ、入ろうとしています - 楽しみの本性へ、です。 なぜ、世界中の人間たちは、特にこの国(アメリカ)では、 この楽しみと呼ばれるものを、追求するのでしょうか。楽しみとは、何でしょうか。 私たちはともに、それが何なのかを、検討しています。探検しています。 探検するとき、一定の疑いの性質が、なければなりません。 それは、懐疑の一部です。 さもないと、探検は可能ではありません。 自分の結論、理論、概念、理想、経験を、疑う。 そのとき、自由に検討できます。 しかし、自分の特定の形の体質、特定の傾向に 縋りつくなら、 そのとき探検は、きわめて制限されています。 楽しみを理解する - 私たちは、それを非難している、ということではない - あれら山々を見守り、木の葉をとおした青空と、 木漏れ日が、見える。 このすべてを見守ることは、大いなる喜びです。 そのすべて、自然の全体性が、見える。 大いなる美しさが、あるのです。 この観察において静寂があるとき、美しさは、けっして欠落しません。 で、ともに私たちは、楽しみを、その根、原因を観察しよう、 楽しみの複雑さ全体を、見ようとしています。
19:02 楽しみに入るには、欲望を、理解しなければなりません - なぜ人間たちは、欲望により駆り立てられるのか - 何かを渇望し、 何かうれしいだろうものを熱烈に探し、付け回し、 あらゆる方向に、満足を探し求めます - 性的に、権力、地位、知識。 支配しようとする。大地、空だけでなく、またお互いをも、です。 で、欲望の本性と構造を理解することなしに、 楽しみの本性を了解することは、かなり困難でしょう。 で、どうぞ、ともに、です。 この語句を、たびたび反復しなければなりません。 ともに、欲望の本性を、検討します。 欲望は、何かの欠乏を、意味しています - 何かにあこがれる、何かを渇望する。 それが、欲望の意味、辞書での意味です - サンスクリットなどでのように、です。
21:09 欲望とは何でしょうか。 なぜ、世界の宗教すべて、 組織された、正統的な、伝統的な諸宗教は、 自らの支持者たちに対して、欲望を抑圧するよう、語ってきたのでしょうか。 世界中の僧侶、修道士は、欲望を抑圧します。 または、欲望を、特定の象徴と、 特定の人物像と同一視します -欲望を超越しようとして、です。 これは、キリスト教に祈りなどをとおして、起こります。 で、私たちは、欲望を非難したり、拒否したりしていません。 私たちは、問うています -なぜ世界中の人間たちは・・・ 衣食住への欲望 - それは正常です。 しかし、それは、世界のこのひどい民族主義により、拒否されます - すべての人々のためには、です、 衣食住へのその欲望は、拒否されます -共産主義者、社会主義者、 資本家のイデオロギーをとおし、 民族主義などをとおして、です。 欲望は本質的に、満足への探求です。
23:12 もし私たちは、ここにおいて一緒であり、 それらの言葉、欲望の言語的な意義を理解するのなら、 そのとき私たちは、訊ねています- 欲望とは、何でしょうか。 それは、どのように訪れるのでしょうか。それはなぜ人をこんなに強く捉えているのでしょうか。 あなたが、問いを訊ねています。 語り手が、それに入るかもしれません。 ですが、あなたが、問いを訊ねています。 そして、ともに - 私たちは、ともに、というのです - よく気をつけて、検討します。 それが、どのように訪れるのかと、なぜそれは、こんなに人を強く捉えてきたのか、と。 生物学的に、欲望の活動は分かります - 性的などです。 しかし私たちは、欲望の心理的な衝動、 反応、要求について、話しています。 そして、欲望をとおし、深い満足、快楽、 充足を見つけようとすることについて、です。 確かに欲望は、何か分離したものです - どうか、初めに聞いてください。 それから、それを問うてください。 あなたは、それを疑うかもしれません。 しかし、ただともに、それを見守りましょう。 感受は通常です。 あなたは、それら山々が見えるとき、 それの知覚が、感受です。 見えること - 視覚的に、です。それから、見えるものへ反応すること。 それが、感受になります。 それは、通常で、健康的で、現実です。 欲望は、いつ生まれるのでしょうか。 それは、感受の中から、生まれるのでしょうか。 あなたは、ともに探究していますか。 あなたは、美しい庭園を、見ます。 または、すてきなオートバイを、 または、あれらすばらしい新車の一台を、です -美しいラインをしています。 あなたは、それが見える。それに触れる -それの色つや、ライン。 その知覚、見ること、接触の中から、感受がある。 それは自然です。 あなたは、樹が見えるとき、それに触れ、枝々、葉っぱの美しさを見つめます。 葉っぱに照る光、ゆらめき、きらめき。 そして、それらに敏感になる。それは自然です。 で、私たちは訊ねています -欲望は、感受から出てくるのでしょうか。
27:46 あなたは店に、すばらしいドレスを、見ます。 あなたが男であるなら、シャツを、です。 あなたが女であるなら、すばらしいドレスを、見ます。 あなたは、中へ入っていき、それに触れます。 感受があります - それがいかにすてきか、なめらかかを、感じる。 そのとき何が、起きますか。 ゆっくり行ってください。あなた自身で、それが見えるでしょう。そのとき、何が起きますか。 あなたはシャツが見える。それに触れる。 感受。そのとき、思考は言います - 「もしも私はあのドレスを持てたなら、何てすてきだろう」、「もしも私はあの車を持てたなら」、 「もしも私はあのシャツを持てたなら」、「もしも私はあの庭園を持てたなら」と。それが何でも、です。 思考が、車に座ったり、シャツを着ているあなたのイメージを、創り出すとき、 思考がイメージを創り出すその瞬間に、欲望が生まれます。ですね?
29:00 私たちはともに、ここにいますか。 あなたは、語り手が言っていることを、受け入れていません。 私たちはともに、欲望の本性を、検討しています。 すなわち、感受があるところ、思考が必然的に、見たところ そのイメージとともに、来る。 そして欲望が、その満足をともなって、生まれます。 ですね?これは幾らか明らかでしょうか。幾らかは? なぜなら、私たちは、この感受の動きと、思考がそのイメージでもって、 感受に取って代わるのを、理解するのでなければ - そして、その中から、欲望が出てきます -それは、満足を見つけるためです。 ローブに、シャツに、車に満足を、です。
30:16 すなわち、感受、欲望と、満足での充足の、 動き全体を、観察してきたのです。 この観察、 自分自身の欲望の動き全体へのこの近い見守り、 その見守りの中から、智恵が出てくるのです。ですね? 私たちは前、欲望を、そして充足したいとの欲望を、自らの状況として受け入れました。 それが充足されないなら、欲求不満を感じます。 欲求不満の苦悶と、 欲求不満の神経症的な結果すべて。 それが一般的に、私たちの過程です。 私たちの生き方です。 私たちの生き方は、明白に、かなり白痴的で、智恵がない。 どうか、私は非難していません。 私は、ただ見守っています。 あなたが、この動き全体を観察するとき - 見る、接触、感受、 そして、欲望 - そのイメージとともに思考をとおして、もたらされるもの。 あなたが、この動き全体を、何も制御なく、 何も動機なく、観察するなら、 まさにその観察が、智恵の始まりです。 そのとき、その智恵が- 「修練」という言葉を使っていいなら - 欲望の動き全体を、修練するでしょう。 理解されますか。理解されましたか。 欲望は、制御や抑圧されなければならない、ということとか、 アメリカでは起こるように、自分のほしいものをすべて、いかに得るのか、ではない。 むしろ、欲望を理解することが、 智恵です。 その智恵が、欲望を修練するでしょう。 どうか聞いてください。私たちは、気をつけて、互いに聞けるなら、です - 修練、です。
33:02 私たちがいう、その「修練(ディシプリン)」という言葉は、どういう意味でしょうか。 その言葉は、「ディサイプル(学徒、弟子)」という言葉から、来ています - 学んでいる人、 教師から教示を受ける人です。 しかし、私たちは修練を、順応にしてしまいました。 一定の様態の作動、習慣、思考に従うことに、です。 或る観念に応じて、自分自身を修練する - 何か、されなければならないことに応じて、です。 あなたが、特定の主題 - 科学的や心理的 - を、研究しているなら、 その研究は、自体の修練を作ります。ですね? あなたは、大工であるなら - 残念ながら、そうではない。あなたたちのほとんどは、あまりに教育を受けています。 あなたが大工であるなら、 まさにその職歴が、あなたの道具の使い方を、修練させます - 木材と、木材の本性と性質などを理解するさまを、です。 しかし、私たちは修練を、従うもの、服従するもの、 順応するもの、抑制するものに、してしまいました。 しかし、修練があるなら、学びがあるのです。 ですね?学ぶ。そして、学びは無際限です。 学びに終わりはありません- 記録することはそうでない。どうかな・・・ 私たちは、これに少し入れるでしょうか。かまいませんか?
35:24 記録する - 頭脳は、出来事、経験、傷を、記録します。 物理的なのも、心理的なのも、です。 外側から、身体的に受けた傷。 そして、他の人が心理を痛めたのからの傷。 これらすべてのことが、記録されます。 記録は過去です - 当然です。 レコード盤を反復するように、です。 で、過去、この常なる記録は、あなたは、それに入ったことがあるなら - 私たちは二人の友として話しています - あなたは、それに入ったことがあるなら、なぜあらゆることが、記録されるべきでしょうか。 車の運転の仕方、文字の書き方は、 記録しなくてはいけません。 あなたは、専門家であるなら、記録しなくてはいけません。 労働者や、ビジネスマンや、 心理学者などであるなら、記録しなくてはいけません - それは、あなたの知識になります。 その知識に応じて、あなたは行為します- 上手にか、下手に、です。 そこでは、記録が必要です。 頭脳は、記録しなければなりません。 しかし、私たちは、訊ねています -なぜ心理は、そもそも記録すべきでしょうか。 これらを理解されますか。 どうか、これは根源的な問いです。 あなた自身に訊ねて、見出してください。 傷を記録する。ですね? 子どもの頃から、私たちは傷つきます。 それが記録されます。 さらに傷つくのを、いつも恐れるという結果が、伴います。 それで、自分自身のまわりに壁を築き、自分自身を孤立させます。 そして、ますます傷つきます。 そう、記録の問題全体ですね。 なぜその傷は、記録されるべきでしょうか。 あなたは、私を傷つけます -仮に、あなたは他の一人を傷つけた、とします。 その傷はなぜ、受け取られ、記録され、保たれるべきでしょうか。 どうか、これは問うのが、重要な疑問です。 あなたは、お世辞を言われます。 あなたは、それを受け入れ、それを記録します。 侮辱とお世辞は、どちらも同じです。 それらは、同じコインの両面です。 私たちは、よく気をつけて、それを記録しておきます。
39:03 この記録は、本質的に記憶なのですが、 それは、心理(サイキ)、「私」、自我、人物の構造全体です。 で、心理は、本質的に記憶、記録機械です。 またはむしろ、そこで現在が役割を果たすところの、記録です。 理解されますか。私たちは、進めますか。 で、記録しないことは、可能でしょうか。 絶対的に必要である物事のみ、です。 それが本当の自由です。 けっして記録を持たない。 起きてきたこと - 快、不快 - の、 心理的な記憶を、です。 そのとき、大いなる広大な自由の感覚があるところ、 何か全的に違った次元のものが、あるのです。 しかし、私たちは今、それに入れません。 私たちは、欲望について、考慮しています。 私たちは、言いました - 了解、その欲望の動き全体への見守り、 その見守る中に、智恵がある、と。 その智恵は自然に、秩序をもたらすでしょう - それは、学ぶこと、修練の本質です。 その智恵は、秩序をもたらすでしょう - 欲望が創り出した無秩序が、あるところに、です。
41:03 私はそれを捉えました。 私自身、それを捉えました。 ですね?私は、それの真理が見えます。 私たちはこの旅で、一緒にいますか。 残念ながら、あなたたちの何人かは・・・もしあなたが、そうでないなら - 何度も何度も繰り返すのは、何の役にも立ちません。あなたはおそらく、その気があれば、 それについて、友だちと話すでしょう。 または、何かしらを読むでしょう。 書物は役立ちますが、それらは教示しないし、語ってくれません。 あなたは探求し、訊ね、要求し、問い、疑い、 一人立たなくてはいけません - もし必要ならば。 そして、何にも依存しないで、一人立たなくてはいけません。 「一人(アローン)」という言葉は、「すべて一つ(オール・ワン)」を、意味しています。
42:07 そのとき、私たちはともに、苦しみが何かを、話すべきです。 なぜ人は - 女も含めます。 私が人(マン)と言っても、そんなにうるさくしないでください。 それは、人類を含んでいます -すなわち、男と女、です。 女が自らの権利より分離されたとか、その他すべての事柄ではない。 私たちは一緒にです。 なぜ人は、男、女は、幾世紀もの間、苦しんできたのでしょうか。 なぜ私たちは今、苦しんでいるのでしょうか。 苦しみとは、何でしょうか。 その原因は、何でしょうか。 涙に、人類の悲惨に、不幸せに、いったい終わりは、ありうるのでしょうか - 私たちが生涯をとおして運んでいく嘆きに、です。 私たちはそれを見つめています。感傷的、ロマンチックにならず、涙ぐまずに、です。 私たちは実際に、この事実に、向かい合っています - すなわち、彼らが、豊かでも貧しくても、高い地位を持っていても、低くても、 世界中の人間すべては、苦しむ、ということに、です。 それは事実です。拒否不可能な、真の事実です。 或る人たちは、キリスト教の教条主義をとおして、それから逃避します - または、或る人物が、人類の全体のために、彼らの罪のために、苦しむ。 そしてまた・・・原罪は思考により、創案されます。 で、私たちは、様々な理由のために、悲しみに、打ち勝とうとします。
44:56 戦争は世界に、悲しみを創り出してきました。 いまだに戦争は、つづいています。 何百万の女と男、 妻と女の子たちが、戦争をとおして泣いてきたのか。 で、人類の全体の苦しみが、あるのです。 また、人物たちの、別々の個人たちの苦しみも、あるのです。 「個人(インディヴィジュアル)」という言葉は、分割不可能だ、断片化していない、という意味です。 しかし、私たちは断片化し、砕けています。 で、私たちはその言葉ではありません。 個人(インディヴィジュアル)は、「唯一」という言葉だけでなく、 砕けていない、断片化していない、という意味です。 で、私たちは個人ではないのです。 だが、それは別の言明です。 私たちは、別の時、それへ入らなくてはなりません - 時間があるなら、です。 で、人物、分離した人物たちと、 世界全体が、苦しんできました - 戦争をとおし、大きな飢饉、 精神の貧困、身体の貧困をとおして、です。 諸々の革命は、社会構造を変化させようとしてきましたが、 それらは成功していません。 しかし、その革命をとおして、数百万の人々を殺す。 それもまた、世界に大きな悲しみを、もたらしてきました。 おそらく、あなたたちの幾らかは、今苦しんでいないかもしれません。 しかし、世の中をありのままに、見つめてください。 あなたは、充足しないとき、苦しみます。 あなたは、貧しい人を見るとき、苦しみます。 大きな無知が、世界で優勢であるのを、見るとき、苦しみます。 - 書物などの無知ではありません。 戦争が人間たちを破壊するという、実際の事実への無知です。 あなたは、世界中の将軍、政治家すべてが、 戦争の資材を蓄積しているのが、見えます。 あなたは、それらを見て、彼らの何人かへ話をするとき、 それは、彼らの無知の悲しみです。
48:39 で、私たちは訊ねています - 人は、この大地に苦しみなく、平和に生きられるでしょうか。 あなたと語り手が、ともに行っている旅において、 どうか、あなた自身に、この問いをしてください。 なぜ私たちは、苦しむのか。 息子を失う。夫、妻を失う。離婚。 そうね、様々な苦しみの形、症状です。 自分は美しくない。他の誰かは美しい。 そうね、悲しみの事柄全体です。 それはいったい、終わりうるのでしょうか。 ともにこの問いに入る。 その根が何なのかを見出す。 分離、分割があるかぎり、 葛藤が、あるにちがいないのです。 葛藤は悲しみを、もたらします。 自らが妻から分離しているかぎり - 生物学的にではなく、心理的に、内的に、です - 二人の人々の間に、その分離があるとき、 彼らがどれほど親密であっても、 その分離、その分割は、葛藤をもたらします。 葛藤は、まさに悲しみの本性です。 なぜなら、その葛藤において、私たちは互いを破壊しつつあるからです。 あなたがこれらに付いてくるのかと、思われます。 自らの妻とけんかするとき、 または、あなたが妻を所有し、妻があなたを所有するとき、 または、あなたが彼女に執着し、彼女があなたに執着するとき、 まさにその執着こそが、葛藤を、嫉妬、心配、痛み、悲しみを、もたらします。 で、二人の人々は、葛藤なく、ともに生きられるでしょうか。 それは、きわめて根源的な問いです。 きわめて複雑な問いです。 二人の人々は、人々の集団は - そうね、「集団」という言葉こそが、分割された、という意味です - 人々、人類は、この世界に、この地上にともに生きられるでしょうか。 それは、彼らの大地です。 それは、私たちの大地です。 アメリカの大地やロシアの大地ではありません。 それは、私たちの大地です。
52:39 私たちは葛藤なく、ともに生きられるでしょうか。 私は、あなたを傷つけたかもしれません。 あなたは、私を傷つけたかもしれません。 なぜ私たちは、それをつづけているべきでしょうか。 なぜ私たちは、その痛みの記録を、保つべきでしょうか。 自分の息子を失ってしまった。 その息子を愛していた。 または、兄弟や、夫や、何でも、です。 涙を流すこと、そして、彼や彼女が去ってしまった、という実際の事実より、 逃避しようとすることが、ある。 そして、その痛み、心配、さびしさを、感じること、 そのさびしさより逃避しようとすることが、ある。 あなたは、逃避するかもしれません。ですが、それはいつも、そこにある。自らの心に深く、 自らの頭脳の深い奥底に、です。 私たちは何に、取りすがっているのでしょうか。 イメージ、記憶、過去に、ですか。 私たちはけっして、そのイメージ、過去を、手放さないように、見えます。 常なる記憶がある。写真や憶えた出来事を、 思い起させるものが、です。 私たちは、これに気づき、写真と記憶を片付けるなら、 不誠実に感じるかもしれません。 それは、またもや偽りの感傷です。 事実は、こうです - 私たちがともに生きていた間、 私たちの間に分割があったのです。 その分割は、大きな葛藤と、幾つかの幸せな記憶を、もたらしたのです。 どちらも、記録された思い出です。 それら記録は、果てしなく反復しつづけます。 で、常に思い起こさせるものです。 で、何も動機なく、何の方向づけの 感覚もなく、見守るとき - 苦しみのこの動き全体を、ただ見守る。 自分の苦しみだけではなく、人類の苦しみの全体を、です。 私たちはその一部です。
56:17 私たちは人類です。 あなたは、自分の悲しみを理解するなら- それを貴重な宝石のように、見守って、です - そのとき、まさにその観察が - それへの観察は、それからの逃避の感覚がないとき、 あの明晰さと純粋さをもって、来られるだけなのです。 そのとき、あの苦しみの終わりが、ある。 そのときあなたは、世界の悲しみに寄与していません。 それは、あなたがもはや、残りの人類より分離していないことを、意味しています。 あなたはもはや、アメリカ人、ロシア人、シナ人ではありません - これらすべてのばかげた部族的な分割、です。 あなたは、全人類です。 で、あなたは、暴力的であるなら、暴力に寄与しています。 あなたは、悲しみを終わらせたなら、 そのとき、人間の精神、人間の頭脳の悲しみからの自由を、 もたらしつつあるのです。
57:57 悲しみの本性を、理解することなしには、愛はありえません。 私は苦しむなら、どうして愛しうるでしょうか。 私は、伝統は、苦しみは愛の一部である、ということであるのを、知っています - 嫉妬が愛の一部であるように、です。 嫉妬は、愛ではありません。憎しみも、野心も、 心理的に誰かになろうとすることも、です。 で、愛は、何か思考の動きすべてではないものです。 愛は、思い出ではないでしょう。 どうか、訊ねてください。私たちは、お互いにその問いを、訊ねています。 私は、特定の理想に執着していて、あなたは、特定の理想に執着しているなら、 どうして慈悲が、ありうるでしょうか。 すなわち、生に対して、制限された見方があるところ - 自らの特定の生ではなく、生、自然の命、 自然の麗しさすべて。 一番小さいものから、大きな象と虎へ、です。 語り手は一度、虎のとても近くにいました。 動物園で、ではない。ありがたい。森で、です。 それを見るのは、とてつもないものでした。 愛があるところ、自己はない。理解されますか。 哀れみは、愛ではない。 出かけていき、インドでも、ここでも、貧しい者を助けること、 社会事業 - それは、哀れみ、寛大さです。 しかし愛は、自らの寛大さを、持っています。 もし私が、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教徒、仏教徒、 その他すべてであるなら、慈悲は、存在しえません。 慈悲があるところ、それは自らの智恵を持つのです。
1:01:39 で、これが、生の事柄全体です - お互いとのこの闘いではなく、 不安全、心配、さびしさ、痛みのこの常なる恐怖と、 楽しみの追求ではない。 生は、動き全体です。砕けていません。
1:02:18 私たちは時間があるなら - 私たちは、もう幾らか時間を、持っています - ともに、死の問いについて、話し合うべきです。 それは、陰鬱な問いではありません。それは、年寄りが問いを立てているのではありません。 私たちが若くても、老いていても、 私たちが、事故をとおして死のうと、病気をとおして、だろうと、 これは人間の問題です。 私たちの一人一人が、向き合わなくてはいけない問題です。 私たちはみんな、死のうとしています。 すみません。おそらく、あなたはそうではない。 でも、私たちはみんな、死のうとしています。 あなたは、かつて考えたことがありますか - もしも、この地上に生きてきた人々みんなが、けっして死ななかったなら、 大地には、何が起きるでしょうか。 で、私たちはみんな、いつの日か、死のうとしています。それは不可避です。 それは、絶対的に確実です。 ここには、大変多くのユーモアが、あるのです。 私たちはともに、理解しなければなりません -この問題に向き合っている二人の友としてです。 彼らは、若くても、老いていても、死と呼ばれるこのものに、向き合っています。 死は、あらゆるものが終わることです -生物学的にも、心理的にも、です。 どうか、これは、とても複雑な問いです。 私たちは、よく気をつけて、これに入ろうとしています。 生物学的に、それは明白です - 常に使われてきた機械のように、です。 誤って使われたのか、よく気をつけて使われたのか、 何であれ、常に使われうるものは、終わりになるのです。 しかし、私たちはそれを、恐れていません。 それだけを、です。 私たちは、終わるとの事実こそを、恐れています - すなわち、死を、です。 死と会話をすること、終わり、すなわち死と 会話をすること。 この会話は、何を意味しているでしょうか。 あなたは、これに興味がありますか。 死のうとしているのは、誰でしょうか。 身体組織は別として、身体組織は名前を持っています - ですね? あなたは、ここ五十年か十年の間、自分の顔を、見守ってきました。 または、二日か八年か、です。 あなたは、自分の顔を、見守ってきました。 あなたは、その顔に、親しんでいます。 あなたは、その名前に親しんでいます。 あなたは、身の回りの、自分の外側の物事すべてに、親しんでいます。 あなたは、自分自身に親しんでいません。 あなたは、自分自身を知りません。 あなたは、自らが何なのかを、言われてきました- 心理学者と、それらの事柄によって、です。 しかし実際に、彼らの説明、彼らの言明は、あなたなるものではありません。 で、あなたはけっして、自分自身に親しんでいません。 で、あなたの、死との対話は、無意味です - あなたが、自分自身に親しんでいないのならば、です。ですね? 私たちが互いに理解しあっていることを、願っています。 で、私は自分自身に、親しもうとしています。 で、私は訊ねています - 私自身は何でしょうか。 私自身は、身体、すべての感覚的応答です。 - 名前、形態です。 外的に、住所、銀行預金、職。 日々の生の親しい物事のすべて、生の日々の活動。 で、私たちは訊ねています - 私たちは、あなたと語り手は、自分たち自身に、親しくなりましょう。 それは、きわめて明らかに、私たち自身を知ることです。理論的に、ではない。 何かイデオロギー的、宗教的、思弁的な幻想や迷信ではない。 あなたは、何でしょうか。私たちは、何でしょうか - 私たちの一人一人が、です。 私たちがよくよく気をつけて、自分自身を知るのでなければ - それを研究し、 それを見守り、学び、「私」の複雑さ全体を見る - 私が全的に、あらゆる小さなこと、あらゆる隅に、親しむまで、 私はとうてい、死と、智恵ある会話をできません。ですね? で、私たちはともに、見出そうとしています- 私たちは実際に何であるかを、です。 恐れないこと。憂鬱になって、「私は何てひどいのか」とか、「何て醜いのか」とか、 「私はどうやって変わるべきか。 私はそうでない」とか何とか、言わないこと。 実際に、私たちが何であるのか。 恐れないで、見る。
1:10:39 私たちは、私たちが言われてきたものです。それは一つです。 私たちは、社会的に、共同的に、人類の広大な伝統の一部です。 私たちが取得してきた知識すべての(一部)です。 それは、一つの部分です。 また心理的、内的に、私たちは何なのでしょうか。 私たちの一人一人は - 初めに、私たちの一人一人、です。それから、 私たちは、自分たちが何かを、見出すでしょう。 私たちの一人一人が、私たちが何かを、です。 私たちは全人類でないのかを、です。 質問を理解できますか。 私たちは、悲しみ、痛み、嘆き、幸せ、不幸せ、痛み、 嘆きと心配、さびしさです。 神への信仰、神への不信仰、信念、 教義、儀式。過去の出来事と事故のすべての広大な記録、 影響、広大な複雑な記憶です。ですね? または、あなたは、「私は魂である。 私の身体より分離している」と言う。 それを、キリスト教徒は信じています。 しかし、その魂は、思考により創案されています。 私たちは、究明において、論理的で健全でなければなりません。 ヒンドゥー教徒は、自分たちの分割、アートマンなどを、持っています。 そこでもまた、その観念は、思考により創案されています。 で、私たちは、この思考の動きの全面的な結果です。 ですね?あなたは、「私は無際限である」と言えます。 まさにその言明こそが、思考により、組み立てられています。 思考は、無際限のもの、最上のもの、最上の何かを、創案できます。 しかし、それはやはり思考です。 で、私たちは、思考の網の全体です。 ですね? 諸々の記憶、経験、知識の網です - それは過去です。 私たちの反応と行為(反作用と作用)です。 そのすべてが、私たちの意識です。 そのすべてが、私です。 「私」は、それより分離していません。 それが私です - 私の怒り、貪欲、妬み、野心、さびしさ、悲しみ、 不安定。安全、満足を探し求めること。 そのすべてが、私です。 職を失うこと、職に取りすがること、 明日を、職を失うことを、恐れる- それが、私です。 私は、旋盤、道具ではない。 「私」は、失うことへの恐れです。 ですね?それが私です。 その私は、それ自体を分離することにより、維持してきました - 私は私だ。 私は、あなたとは全然違っている、と。 それが伝統です。それが、子どもの頃からの受け入れられた規準です。 宗教はこれを維持します。 なぜなら、幻想を助長することは、とても有益であるからです。 しかし、あなたは、あなたの意識は、すべての人間たちにより、分かち合われています。
1:16:06 ですね?どうか、私たちはともに、死について話し合っていることに、留意してください。 で、私たちの意識、それはその内容です。 内容は、信念、教義、儀式、伝統、 記録、記憶、それの全体です。 意識におけるそのきわめて複雑な動きが、 人類すべての動きです。 それは、あなたのではない。 あなたは、自分は分離した人物であるとの素振りをしたり、その観念に、すがりつくかもしれません - 自分は自分自身のために働いている、自分は自分を充足させなければならない、と。 これは、世界のあらゆる人間がやっていることです。 で、あなたは、人類の全体です。 なぜなら、あなたの意識は、ロシア人の、ヒンドゥーの、 地上で最も原始的な人間の意識であるからです。 あなたのは、もう少し洗練されていて、よりよく食べているかもしれません。 しかしあなたは、残りの人類に似ています。 ゆえに、あなたは人類です。 あなたの意識は、です。 あなたは、理解するとき、それの真理を本当に見たとき - おそらく幻想のような結論や言明を、知的に受け入れるのではない。 それは言明ではない。それは結論ではない。 それは事実です。 あなたが苦しむとき、隣人もまた苦しんできました。 その隣人は、お隣で、二、三メートル先なのかも、 一千キロメートル、離れているかもしれません。 彼もまた、あなたのように苦しみます。 で、それは、私たちみんながよって立つ、共通の地盤です。 それは、あなたの地盤ではない。
1:18:50 それの絶対的な真理が見えるとき、死は何でしょうか。 理解できますか。 この事実は、そこにあります。それは事実です。 私の意識は、残りの人類の意識です。 ゆえに、私は残りの人類です。 私は人類です。 それが、ものすごい意味、深みを具えていることを、悟るなら - その裏の熱情を、です。 それの責任は、無量です。 他の一人に対してではなく、人類の全体に対してです。
1:19:56 で、死は何でしょうか。 死は、身体組織が終わることです- それは確実です。 死は、私が自分のであると考えてきたものが、終わることです。 理解できますか。 私の - 私の所有物、私の性質、私の経験、 私の妻。「私」が終わること。 「私」は、残りの人類です。 で、そのとき、死とは何でしょうか。 どうか、これは、とても深刻な問いです。 これは、今朝、理解されるべきだけではありません。 または、あなたがそれへ洞察を持つなら、 すなわち、それの真理全体が、即座に見えるなら - 時間、思考を掛けて、「うーん、あなたが言っていることが、戯言であるのを、望みます。 私は、自分の個人性を選びます」と言うのではない。それは完璧に歓迎します。 それの事実が見える。そして、その事実とともに留まる - すなわち、 あなたは、記憶の束以外の何物でもない、ということに、です。 その束が立てる雑音すべてです -ガチャガチャやって回ること、 残りの人類のために、大きな悲惨を創り出すこと。
1:22:13 そして、身体組織は、死にます。 私の意識は、人類の意識です。 それは事実です。 私が留まっているかぎり・・・私があるかぎり・・・ いや、私は違ったように表しましょう。 その意識が、 すべての苦労と雑音と、記憶の束とともに - その意識は、際限なく、つづいています。 ですね? しかしあなたは、その中から踏み出すなら - それは、終わることを、意味しています。 あなたの信念が終わる。あなたの伝統が終わる。 あなたの人種的な先入観が終わる。 そのすべてが終わる。 あなたの執着が終わる。 そのとき、あなたは出ています。 そのとき全然、違った動きがあるのです。 なぜなら、もはや、その動きはないからです。 もはや、その苦労すべてをともなった、思考の動きは、ないのです。 このすべてに入るには、ものすごい探究、冥想が、必要とされます - 言語的な主張だけではなくて、 そして、その言葉はけっしてそのものではないのを、知って、です。
1:24:03 で、あなたが暴力へ寄与しているかぎり、暴力はつづくでしょう。 あなたは、妬んでいるかぎり、世界に存在する妬みへ 寄与し、それを助長し、維持しているのです。 で、あなたは、妬みを終わらせられるでしょうか。 これは、死がなろうとしていることなのです。 妬みを、完全に終わらせる。 理想への、経験への、体系への執着を、です - 終わらせる。 何も動機なく、終わりがあるところ- 終わるのです - 全然、違った動きがあるのです。 それは、終わらせようとの奨励ではありません。 で、自らが生きている間に、終わること。 理解できますか。 あなたの、妻への敵対を、終わらせる。 あなたの傷を終わらせる。 何者かでありたいとの、心理的な野心を、終わらせる。 で、その終わりには、 他より離れた、全的な動きが、あるのです。 それが、死の深さと美しさです。 不滅性は、個人のためではありません。 なぜなら、個人、「あなた」は、ただ 記憶の構造と、観念などの束であるからです。 それがどうして、不滅性を持ちうるのでしょうか。 永遠は、制限されたもののためではありません。 この全的な分離の観念が、私たちの体系より 完全に去ったときだけ、それがあるのです。
1:27:34 立ち上がってもいいですか。立ち上がってもいいですか。

聴衆: いいえ!