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OJ83T4 - 何の思考の動きもなく見守ること
第4回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1983年5月22日



0:46 これは、説教ではありません。 一般的に説教は、一種の道徳話で、 半ば迷信的な宗教的な性格を、意味しています。 私たちはともに、きわめて長い旅を行おうとしています。 先の三回の講話は、私たちの日々の生について、でした。 私たちは、生の様々な様相へ、入りました。 私たちの日々の道筋、私たちの存在、私たちの格闘、葛藤と悲惨、 そして、世界を分割するイデオロギー的な分割 - 宗教的、社会的、政治的な(分割)などです。 これら分割は、大きな戦争を、もたらしてきました。 私たちはいまだに、何千、何万年の後に、 私たちはいまだ、戦争の準備をしています。 互いに殺しあうために、です。 ほとんどの人々は、起きている狂気へ、注意を払わないようです - 人が人に対してやっている、怖ろしいことすべてへ、です。 私たちは一緒に、それらについて、話してきました。 木立の小道を歩いている、二人の友として、です。 自分たちの個人的な問題について、だけではなく、 世の中に存在する問題について、です - 人間の恐れの問題、関係の問題と、 楽しみの果てしない追求。
3:41 私たちは昨日の朝、訊ねていました。 悲しみすべてを終わらせることは、可能なのかどうか、です - 人間たちの間のこの常なる戦い、 世の中の悲しみと、私たち一人一人の悲しみを、です。 また私たちは、ともに、お互いへ指摘していました。 なぜ人間たちは、今生きるように生きるのか、 なぜ人間たちは、こんなに多くの世紀の後、 古代のシュメール人、ヒンドゥー教徒、エジプト人から、 現代の文明・・・ 私たちは、互いに殺しあうことと、自然を破壊することを、けっして止めたことがないのです。 - 人口過剰、貧困と、世の中に起きている とてつもない分割、です。 科学者たちは、戦争を終わらせることに、あまり注意を払わないようです。 もちろん政治家たちは、けっしてそれをできません。 それは、彼らの職業、仕事です -この対立を維持することが、です。 また私たちは、昨日、慈悲の本性と、 その智恵についても、話していました。 私たちは今日ともに、それがそもそも可能なのかを話し合うべきです - 私たちの頭脳は 条件づけられてきて、コンピューターのように プログラムされてきて、重く条件づけられてきましたが、 その条件づけからの自由を、もたらすことは、可能なのかどうか、ですか。
6:25 自らが宗教的に、道徳的に、 条件づけられていることと、 自由がまったくないことに、そもそも気づくなら - 私たちが条件づけられているかぎり、いかなる自由も、ありえないのです。 で、私たちは今朝、ともに話し合おうとしています - 自由だけではなく、正義、善についてと、 人間たちが、いわゆる条件づけられた文明の流れから、 いったい動いて離れる可能性が、あるのかどうか、です。
7:42 で、初めに私たちは、世の中にそもそも正義があるのかどうかを、検討すべきです。 正義とは、法律なるもの、 道徳的で正確であるものと、平等です。 法律は、私たちはみんな平等である、と言います。 しかし、或る者たちは、見たところ、他の者たちより、平等です。 利巧な法律家たちは、法律を何とでもできます。 彼らは、何をも支持します。 何をも正当化します。 で、そもそも平等があるのかどうかを、訊ねます。 なぜなら、それは、問いの一つであったからです。 アリストテレス、プラトンと、ギリシャの哲学者すべてだけでなく、 彼らのはるか前にもまた、人はいつも訊ねていました - 私たちのみんなにとって、平等の(可能性)、 正確な正義の可能性は、ないのか、と。 見たところ、何も平等はありません。ありえません。 あなたは背が高い、自分は低い。 一人は、とても利巧で、博識で、学究的で、 大変多くのことへの能力を、持っていますが、 他の人はそうではない - 鈍く、服従し、順応する。 単なる機械や、社会構造の歯車です。 二人の間には、巨大な違いがあるのです。 あなたは美しいが、他の人はそうではない。 あなたは、美への感覚、美しさの感覚を、持っていますが、 他の人は、まったく敏感ではありません。 で、どこに正義、平等を、見つけるのでしょうか。 または、それは、まったく存在しないのでしょうか - 哲学者と理論家を別にして、です。 彼らがマルクス主義者でも、神学者でも、です。 マルクス主義者は一般的に、神学者になります。 そして、正義、平等の感覚は、どこに存在するのでしょうか。 見たところ、地上に、この地上において、それは、人間たちの間に存在していません。 で、それを探究しているのなら -私たちが今、ともにそうしているように、です。 どうか、またもや、しかるべき尊敬をもって、ご注意を申し上げていいのなら、 私たちはともに、旅を行っているのです。 語り手が話をしていて、あなたはただ、たくさんの言葉、 観念と概念を、聞いているだけではないのです。 むしろ、あなたと語り手は、小道を歩いていく二人の友として、 そして、友情の中、お互いに長い間、知り合ってきましたが、 彼らは、これらすべてのことについて、話をしているのです。 彼らのうち、どちらも、自らの観念を、もう一人に課していません。 権威の感覚はありません -友だちの間に、権威はありません。 友だちの間には、共感、友情、愛情だけでなく、 究明の感覚も、あるのです。 そして、偏見、先入観すべてからの 自由があるだけではなく、人間存在の事柄全体を 理解したいとの感覚が、 あるときだけ、究明はありえます。 これら二人の友は、互いに疎通しあっています。 それが、私たちの関係です -あなたは、そちらに座っていて、 語り手は、少し高くに座っています。 私たちはともに、旅を行っています。 あなたが、ともに深く旅を行いたくないのなら、それはあなたの事柄です。 しかし、麗しい涼しく新鮮な朝に、あなたは、ここに座ろうとしているのなら、 そして、毎日、毎朝の美しさ、 世の中のふしぎさに、気づいているなら、 それは、すばらしい世界です。 私たちはそれを破壊しています。 お互いとの関係において、 自然への、この大地の生き物すべてへの関係において、です。
14:11 で、どうか、つねに繰り返していいのなら、 私たちはこの旅で、一緒にいます。 そしてこれは、深刻な事柄です。 何か日曜日の朝に、やり過ごすことではない。 これは、娯楽ではありません。 ほとんどの人々は、宗教的とその他の娯楽に、 耽っているのですが、 私たちは、友と語り手は、とても真剣です。 彼らは、表面的、言語的な水準でだけではなく、 より大きな深みで、より大きな意義をもって、会話をしています。 で、ご注意を申し上げていいのなら、あなたと語り手は、長い旅を行っているのです。 この旅は、けっして終わりません。 そこが、それの美しさです。
15:38 で、私たちは訊ねています -人間たちの中に、平等はあるのでしょうか。 法律的には、見たところ、それを見つけられません。 社会的な格言によって、でもない。 何らかのものの名において、 私たちはみんな同胞であるという、宗教的な言葉によって、でもない。 そして、平等がないとき、正義はない。 で、どこに平等は、存在するのでしょうか。 なぜなら、それは、とても重要な問いであるからです。 平等がないのなら、私たちは永続的に、互いに破壊しあうでしょう。 その平等を見つけるには、慈悲がなければなりません。 慈悲においてのみ、平等と正義があるのです。 法律において、ではなく、法律家をとおして、ではない。 様々な形の国際連合などをとおして、ではない。 小さな集団、小さなコミューンをとおして、ではない。 ともに私たちは、慈悲を見つけられるでしょうか。 それは、思考により、創案されるものではない。 それは、決意により、願望により、組み立てられるものではない。 私たち一人一人の間に、正しい関係があるとき、 その慈悲は、来るのです。 私たちは、先の二回の講話か三回の講話において、 きわめて真剣に、その問いへ入りました。
18:13 で、私たちの関係は、永続的な葛藤であるので、 それが終わることが、探究です。 絶対的で即時で切実な変化です。 さもなければ、私たちは互いに破壊しあうでしょう。 私たちはまた・・・彼と私、語り手は、お互いに言っています - 私たちは、善について話をすべきである、と。 その言葉は、古風です。 この頃、その言葉はほとんど使いません。 「善(グッド)」という言葉は、一緒、という意味です。 多くのものを、一緒にまとめる、 私たちの生の多くの面を一緒にまとめる。 それで、私たちがそうであるような、 断片化した、砕けた諸部分すべてが、 一緒にまとめられる、全体にされる、調和的にされるのです。 そして、その善から、行為する。 それが、その「善」という言葉の意味です - そこにおいて、私たち自身に断片化がない生を、生きることなのです。 そして、充足を追求している頭脳は、いつも断片化しています。 で、善、平等、正義と自由。
20:20 自由 - 「自由(フリーダム)」という言葉は、(語源的に)愛を意味しています。 自由は牢獄からではない。 それはただの反応です。 痛みからの自由 - 私たちは、物理的な痛みについてではなく、 心理的な痛みについて、話しています。 それからの自由は、 もう一つの束縛への罠に、掛かることです。 自由は、何かからではありません。 自由は、それ自体でです。 心理的な傷があるなら - 私たちのほとんどは、子どもの頃から傷ついています - その傷は、大きな痛みと大きな悲惨を、創り出しています。 自分自身にと、他の人たちに、です。 傷からの単なる自由は、実際の自由ではありません。 ゆえに自由は、全体的(健全)である善の感覚を、含意しています。 全包括的な - その科学的な言葉を使えるなら - 全包括的(ホリスティック)な生き方です。 一断片が自由を探し求めて、他の諸断片が束縛されているのではない。 断片すべてが一緒に集まるこのことと、 全体的である生を生きることがあるときだけ、 自由がありうるのです。 全体的(健全)という言葉は、物理的に健康だ、という意味です。 全体的(健全)という言葉は、まっとうだ、理性的だ、という意味です。 その言葉はまた、聖なる、ホーリーをも意味しています。 善は、そのすべてを含意しています。
22:58 私たちは、訊ねています - 頭脳は、 条件づけられ、プログラムされてきました。 カトリックであるよう、 プロテスタントであるように。 そして、キリスト教の分裂すべて。 一人物の崇拝が、常に何度も何度も反復される。 インドと仏教の国々で、行われるように、です。 そこでは彼らは、名前をとります。 その名前は、何かを象徴します - 真実であってほしいと彼らが望むものを、です。 キリスト教世界がそうするように、です。 キリスト教世界では、あなたは、プログラムされてきました。 私の友は、プログラムされてきました。 二千年間です。 その人物が存在しても、存在しなくても、です -それは論点ではありません。 彼の存在には、疑いがあります。 しかし、教会とそのすべてが、あの人物から作ってきたものは、 明白に、非現実的で、迷信であり、 理想主義的で、ロマンチックで、感傷的な事柄です。 インドでは、イスラムでは、まさしく同じことをします。 仏教の国々では、神を信じていません - それは、彼らの言い草の一つです -仏教徒は神を信じていない、と。 しかし、彼らはブッダを神にしたのです。 それは同じ様式です。世界中で、世代から世代へ 反復されるのです。 これが宗教と呼ばれます。 私たちはまもなく、それについて話すでしょう。 で、私たちは、これにより条件づけられています。 私たちは、プログラムされてきました。 私たちは、大変多くの印象、強制、宣伝を、受け取ります。 来る日も来る日も、あなたがこの国のコマーシャルを聞くなら、 買いなさい、買いなさい、買いなさい、と。 宗教は、同じことをします。 で、私たちの頭脳は、条件づけられています。 外的な影響力、圧迫と宣伝によって、だけではありません。 また内的に、心理的に、自分たちの欲望、恐れ、貪欲、 信念、それら、自分たちの悲しみと痛みが、頭脳を条件づけるのです。
26:36 で、問いの一つは、訊ねるのがとても重要なのですが、脳細胞は、 - どうか、私の友と私は、ともに話し合っています。何も動揺はないのです。 私たちはともに、どちらもその問いに気づいていて、 お互いに、その問いを訊ねています。 脳細胞はそれ自体、変容、変化できるのかどうか、です。 さもなければ、条件づけは永遠に、つづくでしょう。 条件づけはけっして、根本的に変化させられない、と 言う学派全体が、あるのです。 それは修正できる。それはもっと住みやすく、ともに生きやすくできる、と。 その学派全体があるのです。 しかし、友と・・・私たちは、お互いに言っています - そのとおりだろうか。 または、根本的に変化することは、可能だろうか、と - ちょっとずつ、部分的にではなく、全的に、です。 その根本的な変化がないのであれば、 人は永遠に、葛藤、痛み、悲しみに生きるでしょう - 互いに破壊しあうでしょう。 一人一人が、自分の要求、自分の願望、自分の追求、 自分の充足を、主張するでしょう。 で、一緒にまとまることが、けっしてないのです。 ゆえに世の中に、けっして平和がないのです。 で、友は言います - それは可能でしょうか。 あなたが、意識の全内容を知覚するとき、それは可能です。 私たちの意識は、その反応すべてとともに、 潮の満ち引きに似ています。外に出ていき、内に入ってくる - 行為と反応(作用と反作用)。 それは動きです。それは、永続的な動きです。 内容すべて - 信念、教義、儀式、 様々な種類の追求、願望など - 私たちの意識の内容全体が、私たちなるものです。 私たちの名、私たちの形、私たちの銀行預金。 正しく銀行預金ではなく、執着。 そのすべてが、あなたと友であるものです。 その意識は、人類の意識です。 それは、あなたのや私のではありません。 人類すべての意識です。 なぜなら、人類すべては、苦悶、大きな痛み、さびしさ、絶望、 憂鬱、喋り散らすことを、経ていくからです。 それが意識です - あなたがインド、日本、ロシア、またはここに行こうと、です。 で、私たちは人類です。私たちは昨日、それについて話をしました。 で、私たちの意識に、根本的な変化をもたらすことは、可能でしょうか。
31:17 あなたが、方向づけなく、制御なく、動機なく 気づくなら、それは可能です - すべての思考、心配を、ただ見守る。 それから逃げ去らないで、ただそれを見守るのです。 自らの手のひらの、大きな宝石を見守る、その面すべてを見守るように、です - 色、輝き、鈍い点、空き間。 何も思考の動きなく、それを見守る。 そのときそれは、まさに脳細胞それ自体に、根本的な変化をもたらします。 私たちは昨日の朝、それについて、短く話をしました。
32:21 私たちは今、宗教は何かについて、話をすべきです。 なぜなら、宗教は見たところ、最古の日々から、 生において、とてつもない役割を、果たしてきたからです。 各文明は、どれほど古代でも、自らの宗教の観念を、持っていました - 太陽を崇拝し、樹々を崇拝し、 雷電、稲光を崇拝しました。 たぶん、他のものすべてより、そのほうが、良いでしょう。 最古の日々から人は、何か自分自身を越え、 自分自身を超越するものを、探し求めました。 古代シュメール人、古代ヒンドゥー人、エジプト人、 はるかに後にキリスト教、さらに後にイスラム教、 それらすべての人々は、何千年に何千年の 世代に次ぐ世代をとおして、 様々な種類の宗教を、確立してきました。 それら宗教の中から、文化、文明が出てきました。 キリスト教、仏教 -仏教は、アジア中に炸裂しました。 キリスト教は西洋世界で、同じことをしています。 自らの教義、自らの哲学、自らの救い主などを、広めようとしています。 人は、自らの日々をとおして、何か越えたものがあるのかどうかを、探し求めてきました。
34:49 何か越えたものへの探求の中で、思考は、神を創造しました。 どうか、それで、うろたえないでください。 検討してください。 私の友は、言います - 私はうろたえていません。 私は聞いています。 私は用心しています。 私は、無神論者、不信者になりたくない。 私は進んで、あなたに聞きましょう、と。 思考は、神と呼ばれるものを、創り出してきました。 なぜなら、私たち自身が、こんなに混乱し、不安全で、不確実で、 恐れにみち、苦しみ、さびしいからです。 私は、それらすべてをどう解決すべきかを、知りません。 私は、外側の誰かを、探します - 誰か導いてくれる人、誰か保護してくれる人、誰か安全を与えてくれる人を、です。 思考は永続的に、安全を探し求めています。 それは、誰一人いないのを発見するので - 個々人が互いに戦っているかぎり、 集団が互いに分離しあっているかぎり、 どの種でも部族主義があるかぎり、 戦争、不安全があり、保護がないにちがいないのです。 ゆえに思考は、何か大きな人物像を持とう、と言うのです - 父親的な存在か、母親的な存在。 どちらを選択しようと、です。 インドにも、多くの神々と女神たちがいます。 それらは三十万ほどいます。 あなたは、好きなように一つか二つかを選択できます。そちらのほうが、面白い。 しかし、ただ一人の神を持つことは、かなり面倒です。 しかし、人はいつもこのものを、探し求めてきました。 そして、司祭者がやってきます -彼は、残りの私たちに似ています。 彼は、私はあなたを助けようと、言います。 彼は、解釈者になるのです。 なぜなら、古(いにしえ)の日々に、司祭者は、読み書きのできる 唯一の人物であったからです。 彼は、自らが神と呼ぶものを、解釈しました。 それから彼は、自分自身を重要にするための 道具仕立てすべてを、発明しました - 衣、司教の冠、そうですね、サーカス全体です。
38:08 で、人は、すべての教会と寺院とモスクにも関わらず、 いつも、何か越えたものを、探し求めてきました。 越えているものは、叙述したり、言葉に表したりを、されません。 しかし、それを発見する人は、何か越えたものが、見えます。 彼の友は、言います - それを組織化しよう。 私たちがそれを、すべての人々へ広められるように、と。 で、組織、宗教的組織が、真理を殺すのです。 私は、友がそれの事実を見えることを、願います。 で、私たちは、訊ねています。 すべての宗教と彼らの戯言、無意味な言葉と 儀式にも関わらず、彼らの教義と迷信とともに、です。 それは本当に、迷信の網なのです。 そのすべてにも関わらず、宗教は何なのでしょうか。
39:29 「宗教(レリジョン)」という言葉には、語源的な意味はありません。 その言葉の起源を発見することは、できていません。 しかし、一般的にそれは、「注意」と記されています。 注意すること、 勤勉に働く、考える、行為する、生きる、ふるまうこと。 そして、この問いを訊ねる中で、 思考すべてを越えた何か神聖なものが、あるのかどうか、 私たちはともに、それを探究しようとしています。 人の尽力、人の迷信、人の儀式、 彼らが宗教の名において、やってきた、怖ろしいことすべてにも関わらず - キリスト教徒たちは、 自分たちが、他の誰より多くの人々を殺してきたことを、悟るのかどうか、と思われます - そのすべてにも関わらず、何か聖なるもの、思考が創案していない何か 全的に神聖なものが、あるのでしょうか。 何かロマンチックな、感傷的な想像や、感傷的なあこがれの 結果ではないものが、です。 そのすべてを脇に置き、私たちはお互いに、その問いを訊ねています - 何か神聖なものが、あるのかどうか、です。 あなたにとって神聖であり、他の人にとってそうでない何か、ではない。 それは、すべての時と度量を、越えています。
41:56 さて、これへの探究が、冥想です。 「冥想(メディテーション)」という言葉は、熟考する、という意味です。 じっくり考える。ものごとを、ありのままに正しく観察する。 「有るもの」から逃避しようとしないで、理解する - 言語的にや知的にではなく、理解する。 「有るもの」を深く掘り下げる。 で、「冥想(メディテーション)」という言葉は、観察する、熟考する、という意味だけではない。 またそれは、サンスクリット語でも、ラテン語などでも、測量する、という意味です。 心理的に、測量があるかぎり・・・ テクノロジー的には、ギリシャ人と、古代ヒンドゥー人などから、 測量は必要でした。 さもないと、神殿、寺院は、建てられませんでした。 テクノロジーの世界全体は、もたらせませんでした。 測量は必要です。 しかし、心理的に測量は、比較です。 「有るもの」を、「有るべきもの」に比較する。 昨日、私がそうだったものを、明日、私がなるものと、比較する。 理解されますか。比較の過程全体です。 比較があるところ、測量があるにちがいありません - 私は鈍いが、あなたは利巧だ。 あなたは美しいが、私はそうでない。 私たちの中には、この常なる比較が、ある- 理想と事実との間に、です。 暴力の事実と、暴力的でない理想- それは比較です。 冥想において、その比較は、全的に終わらなければなりません。
45:01 物理的には時々、比較することが、必要です - 良い車と悪い車の間、 良い素材と悪い素材との間、 良い絵画と悪い絵画との間で、です。 高いのと低いのとの間での比較、 光と闇との間などでの比較。そこでは、それは明白です。それは存在します。 しかし、心理的、内的に、なぜ私たちはそもそも、比較するのでしょうか。 比較なしに生きられるでしょうか。 あなたは、比較なく生きようとしたことが、ありますか。 そのときあなたは、実際に「有るもの」とともに、始めます。 そのときあなたは、「有るもの」へ食い込めます。 しかし、あなたがいつも、自分自身を他の何かと比較しているなら - 自分自身を、英雄や、すべての模範と、です - そのときあなたは、けっして自分自身に面と向き合おうとか、 自分自身に親しもうとか、していません。 で、けっして比較しないことは、可能でしょうか。 比較は、葛藤を生み育てます。 比較は、競争したがること、攻撃の一つの形です。
46:55 語り手は一般的に、宗教と冥想を、講話の終わりに置きます。 なぜなら、とても単純な理由のためです。 あなたは、正しい関係が何かを、堅固に確立していないなら、 神聖といったものがあるとして、神聖であるものや、 冥想が何を意味しているのかを、とうてい見出せないのです - そこに何も葛藤がなく、学びがある関係、 そこに心理的に何の恐れもない関係を(確立しないなら)、です。 私たちは、これに入りました。 そして、欲望と楽しみの理解と、 悲しみが終わることに、です。 それが、大きな基盤のように、よく確立されているのでないならば、 冥想することは、無意味です。 あなたは果てしなく、様々な言葉を反復するかもしれません - それらが、サンスクリットであっても、あなた自身の言葉であっても、です。 あなたが、インドの言葉「マントラ」を反復するのでも、です。 たくさんの人々が、それでお金を稼いでいます。 これらの主要産業の一つ、マントラを授ける人は、億万長者です。 その言葉は、私たちが説明しましたように、「マントラ」は、熟考する、 心理的になりゆかない、という意味です。 またそれは、自己中心的活動を、すっかり片付ける、という意味です。 それが、その言葉の本当の根本の意味です - それはすばらしい言葉です。 しかし、彼らがそれを何にしてしまったかを、見てください。 で、宗教は何なのか、そして、そもそも神聖なものがあるのか、 または、神聖といったものはないのか。 ただ何もないのか、 または、何かがあるのか。 それを見出すには、 または、それに出くわすには、または、それが存在するには、冥想が必要です。
50:16 冥想は一般的に、多くの形を持っています。 禅の冥想があります。 私たちは友に頼んでいます - 私は、友が、 あなたが、これらの戯言を通りぬけるのを、気にされないことを、願っています。 禅の冥想があります。 チベットの冥想があります。 仏教の形の冥想、 様々な形のヒンドゥーの冥想が、あります。 この国では、西洋の宗教世界では、 それは観想と呼ばれます。 それらすべては、禅から、 むだ口、戯言をもった最新の導師まで、 思考を制御することです。 思考を制御して、冥想をしてきたいわゆる真剣な人々は、 みんな、見たところ、 けっして - 私は、彼らの何人かはそうであってほしいのですが - 見たところ、誰が制御者なのかを、けっして訊ねたことがないのです。 誰が、思考を制御する制御者でしょうか。 制御者は、思考の一部でないのでしょうか。 制御者は、過去のすべての出来事、 苦労、心配を、憶えてきた実体ではないのでしょうか。 その憶えているのが、制御者でしょうか。 制御者は、思考の一部です。 制御者と制御されるものとの間に、分割があるかぎり、 葛藤があるにちがいないのです。 しかし、思考の制御者は、思考自体です。 で、冥想の提唱者すべては、その多くの形、 来る日も来る日も、何かの体系、方法を実践し、 ますます鈍くなり、ますます鈍感になり - 敏感であることは、本質的です -自然へ敏感であり、 お互いへ敏感であり、大地の生き物すべてへ敏感であるのです。 しかし、あなたの精神が、常に占領されているなら - セックスでもってでも、神でもってでも、 あなた自身の達成、自身の悩みでもってでも、 その頭脳は、ますます鈍く、愚かで、鈍感になるのです。 で、反対に、冥想は、諸感覚のものすごい活動と、敏感さ、 という意味合いです - このすべてに気づくのです。
54:01 このすべては、大変多くのエネルギーを、必要とします。 思考により、葛藤をとおして創り出されたエネルギーだけではなく、 むだにされつつないエネルギーをも、です。 理解されますか。葛藤をとおして、むだにされ、 果てしないおしゃべり、おしゃべりをとおして、むだにされ 無数の欲望、願望の追求に、むだにされる - 欲望が何かなどを、理解することなしに、です。 私たちは、ものすごいエネルギーを、持っています - 月へ行くには、ものすごいエネルギーが、必要とされます - 幾千もの人々の(それ)が、です。 で、私たちは、語りえないエネルギーを、持っています - そのエネルギーが、誤用されたり、むだにされたりしないなら、です。
55:14 そして、神聖であるものを、見つけるには、 疑いを持ち、懐疑的でなければなりません。 なぜなら、その疑い、懐疑、健康的な懐疑は - あらゆることを、疑うことはできません。 しかし、疑う過程において、あなたは頭脳を、清めます - その愚かしさ、迷信、幻想のすべてから、です。 それで、そのとき頭脳は、とてつもなく生きて微妙になるのです。 で、冥想は、思考を制御することとか、 何か体系や方法を実践することとかではありません。 精神を解き放つこと、頭脳を自らの条件づけから自由にすることです。
56:22 それは、ほんの、それの始まりだけです。 その自由があるとき、 私たちは、静寂である頭脳は何であるかを、探究できます。 なぜなら、学ぶのは、観察するのは、ただ、大いなる静寂をとおしてのみであるからです - あなたが、たくさんの雑音を立てているとき、ではありません。 あれらの丘と、これらの美しい樹々を観察する。 あなたの妻と子どもたち、 または、夫と親戚たちや、彼らが誰であるにせよ、観察する。 観察するには、空間を持たなければならないし、静寂がなければなりません。 しかし、あなたは、おしゃべりをし、噂話をしているなら、何も空間や静寂を持っていません。 私たちには、空間が要るのです -物理的に、だけではなく、 はるかに心理的に、です。 私たちが自分たち自身について考えているとき、その空間は、拒否されます。 とても単純です。ですね? なぜなら、空間があるとき- 内、心理的に広大な空間、です - 大いなる生命力、大いなるエネルギーが、あるからです。 しかし、その空間が、自分の小さな自己へ、制限されるとき、 その広大なエネルギーは、全的にその制限の中に、収容されます。 で、そういうわけで、冥想は、自己が終わることなのです。
58:38 このすべてを、果てしなく聞くことはできます。 しかし、あなたがこれをしないなら、あなたが聞くことは、何に役立つのでしょうか。 あなたが実際に、あなた自身に気づかないなら - 自分の言葉に、 自分のしぐさ、自分の歩み、自分の食べ方、 なぜ自分が酒を飲んだり、煙草を吸うのかと、 人間たちがやっている、その他すべてのことに、です。 あなたが物理的に、そのすべてに気づいていないなら、 どうして、起きていることに、深みで、深遠に気づけるでしょうか。 あなたは、人は気づいていないなら、 ごまかしに、中流に、凡庸になるのです。 凡庸(ミーディオーカー)という言葉、その言葉の根本の意味は、 「丘を道半ばまで登る」という意味です。 山を道半ばまで登り、 けっしてその頂上に至らないことです。 それが凡庸さです。 すなわち、けっして、私たち自身に優秀さを要求しない、 私たち自身に、全的な善を要求しない、 私たち自身に、完全な自由を要求しないのです - 自分が好きなことをするためではない。それは自由ではありません。それは些細なことです。 心配、さびしさ、絶望、その他すべての 痛みすべてから、自由であることです。
1:01:02 で、見出す、または、出くわす、または、それが存在するには、 大いなる空間と静寂が、なければなりません。 企画された静寂ではない。思考が、「私は静寂でなければならない」と言うのではない。 静寂は、何かとてつもないものです。 それは、二つの雑音の間の静寂ではありません。 平和は、二つの戦争の間には、ありません。 静寂は、あなたが見守っているとき、 何か自然に来るものです - あなたが、動機なく、どの種の要求もなく、見守っているとき、です。 ただ見守り、空の唯一つの星の美しさが、見えること。 または、野原の唯一本の樹を、見守ること。 または、あなたの妻や夫を、見守ること。 または、何を見守るのであっても、です。 大いなる静寂と空間をもって、見守ること。 そのとき、その見守りの中、その鋭敏さの中、 そのとき、何か言葉を越え、度量すべてを越えているものが、あるのです。
1:02:46 私たちは、測量不可能なものを、測量するために、言葉を使います。 で、また言葉の網にも、気づかなければなりません。 言葉がいかに私たちをだますのか、 言葉がいかに多くを意味するのかに、です - 資本家にとって、共産主義者は、何か怖ろしいものを、意味しています - 社会主義者とか、何か見知らぬ者とか、です。 付いてきていますか。 言葉は、とてつもなく重要になります。 それらの言葉に気づく。 そして、言葉の重みを量る。 「静寂」という言葉の重みを、量る。 それとともに生きる。 その言葉は静寂でないことを、知って、です。 その言葉とともに生きる。その言葉の重み、 その言葉の内容、その言葉の美しさが、見える。 で、思考が静かに見守っているとき、悟りはじめます - 何かすべての想像、疑い、探し求めるのを越えたものが、ある、ということを、です。 そういうものが、あるのです -少なくとも、語り手にとっては、です。 しかし、語り手が言うことは、もう一人にとって、何の妥当性もありません - あなたが、聞き、学び、見守り、 生の心配すべてより、全的に自由であるのでなければ、です。 そのときにだけ、宗教があるのです - すなわち、新しい全的に違った文化を、もたらすものが、です。 私たちは、まったく文化的な人々ではありません。 あなたは、ビジネスでは、とても利巧なのかもしれません。 あなたは、テクノロジー的に、とてつもなく有能なのかもしれません。 または、博士、教授であるかもしれません。 しかし、私たちはやはり、きわめて制限されています。 自己、「私」が終わること、何でもないこと。 「何でもない(ナッシング)」という言葉は、どのものでもない、という意味です。 思考により創り出された、どのものでもない。 ラテン語で「レース」は、「もの」を意味しています。 そして、ものは、思考により創り出されているところのものです。 何ものでもないこと - 自分自身について、何のイメージをも持たない。 私たちは、自分たち自身について、大変多くのイメージを、持っています。 どの種のイメージをも、幻想をも持たない。 絶対的に何でもない。 樹は、それ自体にとって、何でもない。 それは存在しています。 まさにその存在において、それは、最も美しいものです。 あれらの丘のように、です。 それらは存在しています。 それらは、何ものかになりません。 なぜなら、なりえないからです。 オークやリンゴの樹の種子のように、です。 それはリンゴです。それは、ナシや他の果物になろうとしません - それはあるのです。 で、何もないとき、あるのです。 理解されますか。これが冥想です。 これが、探求が終わることです。 そして、真理があるのです。
1:07:35 私は十分言いました。何時でしょうか。
1:07:41 聴衆: 1時まで25分です。

K: よし。
1:08:01 これが最後の講話です。 立ち上がってもいいでしょうか。