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OJ84Q2 - 第2回質疑応答会合
カリフォルニア、オーハイ
1984年5月24日



0:56 (出された)質問を一瞥してみると、 私たちは、自らの日々の生に 関係した質問を、決してしないように見えます。 たくさんの理論的な、 思想上の質問が、ありました - それらは本当に、まったく意味がないのです。 なぜ、自らの生について、 質問をしないのかと、思われます - 憂鬱、心配、 深いさびしさの感覚などについて、です。 私たちは本当に、日々の生に関心がないのでしょうか。 それとも、私たちは見せかけの世界に生きていて、 何かロマンチック、感傷的、理想主義的または宗教的な信念への 答えを見つけようとする、というだけなのでしょうか。 なぜかと思われます。よろしければ、うかがいますが、なぜ 私たちは自己について直接的に単純に、そういう質問をしないのでしょうか。
2:38 私たちはみな、戦争を終わらせたいのです。 少なくとも、或る人々はそうです。 「パーチェム・イン・テリス」 -それは、ラテン語で、地上の平和ですが - 見たところ、それはこの世界では可能でありません 。 デモ行進にもかかわらず、 司祭者たちの説教すべてと、宗教書など すべてにもかかわらず、です。 私たちは見たところ、決してこの世界に平和を持てません。 私たちは、日々の生活で平和に生きられるかを、決して訊ねません - 何も暴力なく、 無数の増大するすべての問題なく 明晰で単純で強い生を生きることを、です。 見たところ、それは可能ではありません。 私たちは、そういう問いをしないのです。
4:02 私が質問してもいいですか。 あなたはなぜ来ますか。 どうか、私は本気で言っています -なぜ私たちはみな、ここにいるのか。 語り手はインドにいて、 すべての会合で、五千から八千人の人々に話をするとき、 彼らはそこに来ます。 彼らのほとんどは英語を理解しますが、 彼らのほとんどは、宗教人の 面前にいるために来るのです。 少なくとも、彼らは、「宗教人」と引用します。 彼らは、語り手が話していることを、すっかり理解はしません。 きっとしないと、私は思います。 しかし、それが伝統であるから、彼らは来るにちがいありません。 それが流行であり、それが評判、 イメージ、それらの戯言(たわごと)であるからです。 私は、もっと強い言葉を使おうとしていました! おそらくあなたは、好奇心からここに来るのでしょう。 または、樹々と木漏れ日の下で、 すてきな朝を過ごすため、です。 または、日光浴をして、こいつめの話を聞くためです。 で、あなたはそのように続けます。 このすべては実際に、深く、深遠に私たちを変化させません。 何が人間たちを変化させるのでしょうか。 これが本当に、とても深刻な問いなのです。 なぜ私たちは、今しているような行動をするのでしょうか。 苦しみ、痛み、心配、 絶望的な憂鬱の感覚 - それらから、自己が 抜け出すことは、 ほぼ不可能に見えます。 そして、ひどい野心、 競争。その種のすべてのことが、起きています。 私たちは、それらを変化させられるでしょうか -一人一人が、です。 あなたは必ずや訊ねるでしょう -私が、自分が変化するとして、 それは本当に大事なことなのか、と。 それは何かの形で、全人類の努力や悪さ、 迷信と暴力に、影響するのだろうか、と。 それは、間違った問いがなされるのだと、思います。 すなわち、それが残りの世界に影響するときだけ、 自分は変化するだろう。 影響しないのなら、自分がどう生きるかは、さほど大事なことではない、と。
8:06 一人の人がいかに全人類の意識を、人間たちを 変化させられるかを、 あなたは考慮したことがあるのかと、思われます。 一人の人が、です。 悪い例では、ヒットラーのような神経症的で狂気の人物 - 彼は、世界にものすごい害を与えました。 彼は、残りの世界を 変化させたり、影響したりしました - 彼らの意識、彼らの行動を、です。 または、二千五百年前の ブッダは、何かの形で世界に影響したのかと、 言ってもいいかもしれません。 または、キリスト教徒は、救い主、イエス、それらを信じていて、 それらは本当に、世界を変化させ、 人間の精神、人間の行動を、 変化させたのでしょうか -果てしない苦しみを、です。 または、世界中の司祭者たちは、 この変化を妨げてきたのでしょうか。 私の問いは理解できますか。 ブッダの直接的な教えは、 ありません。イエスのも、です。 彼の教えは、見たところ、六十年後に解釈されました。 だから、直接的な教えはないのです。 おそらく、それは人間たちが 正しく行為するのを、妨げていました。 で、人生の長い旅の間、ずっと、 なぜ人間たちは自らの生の道筋を、深遠に変化させないのかと、思われます。 もっと苦しみが必要なのでしょうか。 もっと暴力が必要なのでしょうか。 もっと専門家などが、でしょうか。 または私たちは、自分の深い行動様式を変化させるための、 エネルギー、衝動、 情熱、強烈さを、持っていないのでしょうか。
11:33 どうか、自分自身に、これらの質問をしてください。 ここには、多くの質問が出されています。 問いは、問題という意味合いです。 問題は解決されるべきです。 一つの問題の解消中に、 他の一ダースの問題が生ずるのではなく、 問題が終わること - どの問題でも、です。 見たところ、私たちはそれができないように見えます - 政治的、 経済的、社会的になど、または宗教的にも、です。 それは永続的な再組織です。 その再組織が適切に機能しないとき、 それを再組織します。 あらゆる組織を、再組織しつづけます。 あなたがこれに注目したことがあるのか、私は知りません。 これが進歩と呼ばれます。 これが、世の中に秩序をもたらすことと呼ばれます。 組織すべてを、 脇に置けるでしょうか - 特に、霊的(スピリチュアル)なのを、です。 その(スピリチュアルという)言葉は、台無しにされましたが、その言葉を使うなら、です。 何にも所属しない。 どの箱、どの体系にも捕らわれない。 働く、見る、観察する。 自分の行動を知覚し、変化する。
14:01 なぜこれらをしないのでしょうか。 なぜ他の人たちに依存するのでしょうか。 どうか、これらの問いをしてください。 大変真剣に、です - お願いできるのなら、ですが。
14:35 第一の質問: 「気づきの瞬間があり、 そこには大きな明晰さがあり、 恐れ、分割、経験は不在です。 でも、その瞬間は短い。 持続した明晰さ、強烈さ、存在の全体性を 許すには、何が必要でしょうか。」
15:08 「気づきの瞬間があり、そこには大きな明晰さがあり、 恐れ、分割、経験は不在です。 でも、その瞬間は短い。 持続した明晰さ、強烈さ、存在の全体性を 許すには、何が必要でしょうか。」
15:43 あなたは誰に、この質問をしているのでしょうか。 これは見たところ、真剣な問いです。 真剣に見えます。 誰に訊ねているのでしょうか。 あなたは、誰かから返事がほしい。 その誰かが、ここの語り手です - 当面は。 語り手の答えが満足できないなら、 あなたは、他の誰かへ、小走りに行きます。 その他の誰も充分でないなら、他の誰かを追いかけます。 あなたはこれを続けます。 それは、私たちが他の人に 依存している、という意味ではないでしょうか -何をするのか、 何を考えるのか、明晰さ、健全さ、生の全体性を どう見つけるのかを、教えてもらうように、です。 いつも見たところ、私たちは誰かに依存しています。 私たちは決して、この問いをのぞき込まない。 全的に他の人に依存しないでいられるかを、 自分自身に問うて、見ないのです。 絶対的に混乱なくいること、 絶対的に明晰であることが、可能なのかを、 見出さない - 一時的にでなく、 他にすることが無いとき、時折にでなく、 それは可能なのでしょうか。 明晰さの持続ではない。 理解できますか。 仮に、一瞬の間、明晰であるとします。 一秒間のその明晰さは、 恐れ、経験、それらを追い払います。 そのとき、その明晰さの記憶は、 明晰さの事実ではありません。 ですね? これがお分かりになるかと、思われます。 仮に、私が森を歩いているとします。 ここ、カリフォルニアでではない - 太陽が強すぎます。 仮に、森の中を歩いているとします。 鳥たちを聞く。木漏れ日、 木の葉の美しさ。 一瞬の間、絶対的な明晰さがあります。 その明晰さは、頭脳に 印影を残しています。 それは、「おやまあ、何と明晰だったのか。」と言います。 それから、その明晰さに継続してほしい。 そうでしょう? 楽しみのように、それに継続してほしいのです。 継続は、記憶の動きです。ですね? 私はそれらに入らなければなりません。
19:56 そこには、時が関与しているでしょう。 何でも継続するものは、時があるにちがいありません - 時の意味合い、です。 時は、明晰さを許さないでしょう。 明晰さとは、時からの自由なのです。 よろしければ、もう一回これに入りましょう。
20:29 例えば、安全がほしいとします - 心理的に、です。 二、三秒間か、二、三日間、絶対に安全である というこの感じが、します - しっかり保護されている、安全だ。 それから、二、三日後に、それは消えます。 しかし、その感じの記憶は、残ります。 私たちは、二、三日前に 起きたことを、継続したい。ですね? それが、私たちみんなが捕らわれていることです。 すなわち、終了した経験の持続と、 それの記憶を、私たちはほしい。 記憶は、起きたことの継続が、ほしい。 で、もしも私たちが、この疑問を見つめられたなら、 時 - 時計による時、 日の出と日の入りによる時、 昼と夜の時、 一年の時など。すなわち、時があります。 思考もまた時です。ですね? これに、付いてきていますか。 時は、思考の動きです - 過去から現在へ、そして未来へと。 それは、時の動きです。 この動きは、自らの継続を持っています。ですね? 私たちはここに一緒に来ていますか。 頭脳は、時をとおして進化してきましたが、それは、 継続が本質的である、と言います。理解できますか。 なぜなら、 それが継続するには、本質的であるからです。 身体的、生物学的にそれは必要です。 しかし、心理的にもまた、それは継続したいのです。 それで、継続が無いとき、 頭脳は混乱します。 これらに、付いてきていますか。 幾らかは、一緒にここにいますか。
23:35 そして、心理的にそもそも継続があるかどうかを、問うのです。 私の問いを理解できますか。 私たちは問うています。私が述べていません - 心理的にそもそも継続があるのでしょうか。 すなわち、明晰さの瞬間は、恐れすべて、 問題すべて、生の苦労すべてを、 追い払い、脇に置きます。 それは一瞬に起こります。 頭脳は、それは継続しなければならない、と言います。 なぜなら、それはただ、時、継続という立場で考えるからです。理解できますか。 生物学的に、日々継続することは必要です。ですね? 同じ住宅、同じ食べ物、同じ衣服、 同じ頭上の屋根。 心理的にもまた、私たちは関係において、安全が継続してほしい。 ですね?これらに付いてきていますか。 関係に、そもそも安全があるのでしょうか。 すなわち、長い時の期間の持続が、です。 それへの要求があるとき、葛藤があります。 これを理解されるのかと、思われます。 ああ、いいえ。
25:37 関係は、とても重要ですし、 関係は生において、ものすごく重要です。 関係なしでは、この世の中にとうてい存在できません。 あなたは、僧侶、サンニャーシ、放浪者であっても、 いつも過去や或る人物に、関係しています。 または、未来の概念に、です。 それは単に、物理的な関係だけではありません。 関係は、生においてきわめて深刻に重要なので、 関係が、大いなる深さ、静寂と、 ものすごい幸福感を持つ瞬間が、あるのです。 ですね?これらを知らないですか。 語り手はこれらを済ませていませんが、済ませましょう。 それら深い充足感、全体性の感覚の瞬間は、 頭脳に登記、記録されます。 頭脳の機能は、記録し、それを続けることです。 それで記憶が、重要な役割を果たしはじめます。
27:23 で、関係において、そもそも安全があるのか どうかを、問うのです。 私の問いを理解できますか。 私たちはそれがほしい。 それは絶対に必要であると考える。 しかし、それはあるのでしょうか。 あなた自身に、訊ねてください。 安全は、恒常性を意味しています。 生に、何か恒常的なものが、あるでしょうか。 死はいつもそこにあります。 でも、当面、死は放っておきましょう。 生に、何か恒常的なものがあるでしょうか。 私たちは、何か恒常的なものが、ほしい。 見たところ、宗教者たちは、「神は恒常的である」と言います。 それはすばらしい創案ですが、ほとんど意味がありません。 で、私たちは関係に、安全と恒常性を探し求めています。 まさにその概念が、 - どうか一分間、聞いてください - 安全と恒常性を要求するという、まさにその概念が、 執着として翻訳されるのです。 ですね? で、他の人への深い執着が、あるのです。 それは、一ヶ月間か一週間か五十年間かもしれません。 この執着の状態の間に、 葛藤すべてがあるのです - 嫉妬、 疑い、恐れ、得失の葛藤です。ご存じでしょう。 このすべてをご存じでしょう。 で、関係において、恒常的な継続の感覚を 持ちたいとの要求は、 - その中に安全があるものを、です- 執着へつながります。 そして、執着の複雑さのすべてへ、です。 それが見えるなら、それの事実を知覚するなら、 - 理解できますか - それを知覚する。 その樹を知覚する。そして、盲目でなければ、 それに当たらない。ぶつからない。 そのように、この事実、すなわち、関係での恒常性と安全への要求は、 必ずや大変な葛藤と執着と恐れなどに つながることが、見えるなら、 まさにその知覚こそが、安全への 要求を焼き払うのです。 理解できますか。 この問いは、明らかでしょうか。 すなわち、 私たちは時という立場、継続性ということで 考えた瞬間に、 強烈さ、明晰さ、 全体性の感覚は、消えるのです。 これらを捉えられたのかなと、思われます。
31:50 あなたはこれを聞いてきました。 すべて戯言(たわごと)でしょうか。 あなたは、「いったい何の話をしているんだい?」と言いますか。 それとも、健全さ、理性で、論理的なのか。 たいへん尊敬を込めて お訊ねしてもよければ、もしあなたが、 これがきわめて明らかに見えるなら、 - 私たちが生において、日々の生活で、心理的に 継続の感覚、安全の感覚を 要求するという事実が、です。 それは必ずや、葛藤をもたらすにちがいないのです。 ですね? これは見えますか。この事実は知覚できますか。 私たちは、これの真理を知覚するなら、 まさにその知覚こそが、安全と恒常性への要求を 焼き払うと、言っています。 ゆえにそのとき、私たちのお互いとの関係は、何でしょうか。 理解できますか。 質問は理解できますか。 仮に、語り手やあなたが、この安全と恒常性の感覚を 持たない、とします。それは何をも意味しません。 仮に、です。そのとき関係は何でしょうか。理解できますか。 私の妻や夫、ガールフレンドや ボーイフレンドは - 何にしても、です -何でしょうか。 どうかこれを訊ねてください。 考えぬき、解き明かしてください。 親密でもその他でも、他の一人との関係は、何でしょうか。 ただ、何?、隔たりがあるだけか。 または、恒常性がないとき - 恒常性と安全への要求が、 その複雑さとともに無いとき、 新しい目覚めが、愛が何かの新しい感覚が、 可能でしょうか。 質問を理解できますか。 恒常性と執着は、その痛みと楽しみ、 心配と恐れとともに、愛ではありません。 その不在において - 全面的に、 深く、深遠に、です - 他方は、咲いている花のようなのです。 いいですか? これは可能でしょうか。 これらが聞こえるとき、これは可能でしょうか。 あなたの日々の生に、可能でしょうか。 愛は、思考、欲望、 感受ではない。 愛は全然、違った性質を持っています。 他が、安全、その他すべてが、あらゆる人間の要求であるとき、 それは全的に、不在です。
36:26 第二の問い: 「判断とは何でしょうか。 意見と、事実の知覚とを 分割する線を、どのように 決定すべきでしょうか。」
36:41 「判断とは何でしょうか。 意見と事実の知覚とを分割する線を、 どのように決定すべきでしょうか。」
36:52 これは良い疑問です。 事実は何でしょうか。意見は何でしょうか。 二つを分割する線は、どこにあるのでしょうか。 なぜ私たちは、意見を持つのでしょうか。 その意見(オピニオン)という言葉は、判断、評価付けという意味です - 予め構想した概念。そうですね、 一人一人が持つ、断定的、独断的な見解全体です。 なぜ私たちは、こんなに多くの意見を持ちはこんでいるのでしょうか。 どうかこれを探究してください。 私たちはなぜ、そもそも意見を持っているのでしょうか。 私たちはあらゆることについて、意見を持っています。 見たところ、それらはとても強い。 私たちは、あらゆることについて千の意見を 持つことが、自由であると、考えます。 それは、自由の感覚を与えてくれます。 少なくとも、あなたは、自由である、独立だと考えます。 「それが私の意見だ。私は正しい」と。 で、私たちは千の意見を、持っています。
38:32 そして、事実は何でしょうか。事実は何でしょうか。 事実は、起きたことです。ですね? 起きたことです。 出来事や事故は、事実です。 それは昨日、起きました。 事実はまた、今起きつつあることです。ですね? 今、起きつつあること。 あなたと私は、ここに座っていて、会話、対話を、 質疑応答などをしている。それは事実です。 事実でないのは、明日起きるかもしれないことです。 ですね? ここに一緒に来ておられるのかと、思われます。 あなたがこの場所を去り、行ってしまうとき、起きるかもしれないこと - 何かが起きるかもしれません。 で、事実は、起きたこと、 起きつつあることです。 事実は、起きるであろうことではありません。 それは明らかです。 起きるであろうことは、 今起きつつあることにより、決定されます。 これがお分かりになるのかと、思われます。 未来は現在にある。 ですね? 未来は - 今あるあなたが、 未来です。 ですね?修正されますが、基本的に、今あるあなたです。 で、未来は現在にあるのです。 ですね? 過去もまた、現在にあります。 ですね? で、現在はすべての時を含んでいます。 どうか、これを理論として弄(もてあそ)ばないでください。それは無意味です。 それは反復するなら、標語になります。 少なくとも、意味を失います。 しかし、過去が現在に継続を持つことが、 見えるなら、 いいですか? そして未来は、現在に修正された 過去であること、 過去は現在をとおして、修正されます。 で、現在、今は、すべての時を含んでいます。 ですね? あなたは今、変化しないなら、 明日、まさしく同じになるでしょう -わずかに修正されて、です。 だから、未来は現在にある。 これは本当に、理解するのが全く重要です。なぜなら、 行為は何でしょうか。 それに入ってはいけませんね。 あまりに錯綜しています。
42:12 で、なぜ人間たちは、事実ではなく、意見にすがるのでしょうか。 事実から意見を帰結させられます。 ですね? 事実は、意見に変えられます。 しかし、意見は事実ではありません。 私は、車で事故を起こすかもしれません。 あなたはやってきて、それを見て、 それについて、たくさんの意見を持つ。 しかし、事実は、私が事故を起こしたことです。 で、なぜ私たちはそもそも、意見を 持つのでしょうか - 政府について、宗教について、 これについて、あれについて、文学について、詩について。お分かりですね? なぜでしょう。それは一種のゲームでしょうか。 それは、一種のエネルギーのむだでしょうか。 もう一つの形でのおしゃべりでしょうか。 それはすべて、時間のむだ、エネルギーのむだです。 ところが、事実に張り付くなら -すなわち、起きたこと、 起きつつあること、それがただ事実です。 私は樹を見ている。それは事実です。 なぜ私はそれについて、意見を持たなくてはいけないのでしょうか。 私が材木商であるなら- ありがたい、私はそうではありません - 私は、「あれは価値ある樹です。 切り倒しましょう」と言う。 それは違った事柄です。 しかし、あらゆることに、常に意見を持つことは、 エネルギーと時間の愚かなむだだと、見えるのです。 そうですね、役立ちません。
44:33 そして判断 - 問いは、判断は何でしょうか、です。 判事は、判決を下します - 誰か犯人か、無実の人に対して、です。 かつて、語り手がたまたま知った 判事がいました。 彼は法律で上にいて、判事になりました。 長年の判断の後、或る朝、彼は言いました - 「私は何を判断しているんだろうか。真理は何だろうか。 私はあらゆることについて、判決を下している - 判例などに従って、だ。真理は何だろうか。 私がそれを見出さないなら、判断は意味が無い」と。 で、その頃、五十八年ほど前に、 インドでは慣習であったのですが、 彼は家族を呼んで、言いました - 「私は世間から退こう。 どこか遠い村、森へ引っ込み、 冥想して、見出そう」と。 私たちは、それの事実について、あなたに語っています - それについての意見ではありません。
46:13 二十年か四十年後、正確な時は忘れましたが、 誰かが彼を、Kが行っている講話の一つを 聞くよう、連れてきました。 彼は後で、語り手に会いに来て、言いました - 「そうですね。これら四十年間ずっと、私は何をやっていたんでしょうか。 私は真理を見つけようと始めました。 冥想し、あらゆる種類のことをしました。 私は今、自らが自己催眠をしてきたことが、分かります。 私は幻想を生きてきました。」と。 いいですか?これらは理解できますか。 年老いた人が、 そういう発言を承認し、「それが事実です」と言うには、 大変な知覚が、要るのです。
47:12 で、判断は何でしょうか。正義とは何でしょうか。 世の中に正義はあるのでしょうか。 どうか、あなた自身にこの質問をしてください。 世の中に正義はあるのでしょうか。 あなたは、良い家族に生まれた - 金銭、教育、 繁栄、成功。 他の人は、小さなゲットー(スラム)に生活します - 貧困、常なる格闘以外の未来は、ない。ですね? それのどこに、正義があるのでしょうか。 インド人たちは、とても良い説明を持っています - ヒンドゥー教徒、です。それは業です。 理解できますか。 いや、どうか、その「業」という言葉は、行為するという意味です。 それに付けられたこれらすべてのことではありません。 今、正しく行為すること。 なぜなら、今正しく行為するなら、未来は正しい。 または、今、あくどい行為をするなら、 次の日か来世に、つけを払う。
48:54 さて、世の中に正義があるでしょうか。 いかさま師は、利巧な弁護士を雇用し、 逃げおおせることができます。 これは毎日起きています。 あなたは利巧ですが、私はそうでない。 あなたは美しいが、私はそうでない。 あなたは、とてつもなく生きているが、私はそうでない。 これらは事実です。 で、どこに正義があるのでしょうか。 いわゆる法律上の正義があります。 それは、実際の正義とは全然違っています。 自由と慈悲があるところにのみ、 正義は見つけられるのです。 その自由と慈悲は、 動きにおいて智恵ですが、 そこに正義があるのです。 その他で、世の中に正義はありません。 どうか、これは意見でなく、理論でないのです。 あなたが、この大いなる慈悲の感じを持つとき、 - それは全く深い問いですが - そのとき、その慈悲に、正義があるのです。
50:42 第三の質問: 「同性愛の事実に関して、 相当の困難を抱える人々が、多くいます。 幾世紀もの間、教師たちは、この探究を回避してきました。 たとえ短くても、この問いに何か光を照らしてもらえるでしょうか。 私は、この質問をするために、二千マイルを旅してきました。」
51:10 同性愛の事実に関して、 相当の困難を抱える人々が、多くいます。 幾世紀もの間、教師たちは、この探究を回避してきました。 たとえ短くても、この問いに何か答えてもらえるでしょうか。 私は、この質問をするために、二千年を、(笑)マイルを 旅してきました。」 すみません。全くそのとおり。 私は二千年を旅してきました! これは、何千年に何千年、 何千年もの問いでした。 何か新しいことではない。 私たちはこの事柄で、どちら側にも味方していません。 それを非難しません。是認も否認もしません。 これらは事実です。ですね? 異性愛は事実です。 同じく、世の中に、同性愛は存在します。 世界の様々な地域では、 ごくありふれています。 世界の他の地域では、実質的に知られていません。 で、あなたはこの問いに、どのように答えるでしょうか。問いは何でしょうか。 なぜ私たちはそれを、こんなに巨大な問題にするのでしょうか。 見たところ、私たちは異性愛を、 全く問題にしません。 が、こちらを問題にします。なぜでしょう。 それは事実です。 で、私たちはこの問いを、異性愛と 同性愛を、別々に探究すべきでしょうか。 どちらか一方を非難するのでなく、 一方を是認し、他方を否定するのでなく、 なぜ性というものが、どちらも、 途方もなく重要になったのか。 いいですか? なぜでしょう。あなたがこの問いに、答えてください。 テレビで、雑誌で、 ベストセラーすべてが、 この要素を、詳細に 抱えています。 毎日、です。 - 付いてきていますか。私が、これらをお話ししなくていいのです - 毎日、それは強調されています。 性というもの、です。私は同性愛や異性愛、一般的な性愛について 話していません。 なぜ人間たちはこれに、こんなに大きな重要性を与えてきたのでしょうか。 それが重要でないなら、あなたは、自分はどこか間違っていると感じます - すなわち、自分は神経症である。 自分は充足しなくてはいけない、と。 そうですね、心理学者から、専門家から、 性の分析者から、何ダースも何ダースもの説明です。 なぜでしょう。それは楽しみでしょうか。 性の画像での想起でしょうか。 理解できますか。 なぜ人は、時代を通して、これに対して、 こんなにとてつもない重要性を、与えてきたのでしょうか。 あなたは、それを奪われるなら、何かひどいことが起きたと、感じます。 あなたは自発的に、「私はもうしないだろう。 私は禁欲して、僧院に加わるだろう」とも言えます。 僧院に加わらなくても、独身にとどまる。 禁欲の問題すべてが伴います。ですね?
56:25 で、問いは何でしょうか。 なぜこのものは、生において、 こんな場所を与えられてきたのでしょうか。 それは、生の一部です。ですね? 歩くこと、見ること、走ることの一部です。 笑いと涙。それは、生の一部です。 しかしなぜ、この一つのことが、重要性を帯びたのでしょうか。 それは、よく気をつけて奨励されています。 ですね? 娯楽産業によって、です。 どうか、これらに入ってください。 心理学者たちもまた、これを奨励してきました - 「充足しなさい」と。 或る母親たちは、娘や息子が十二、十三歳の後、 ボーイフレンドやガールフレンドを持たないと、 何かが間違っていると、感じます。 これはすべて、世界で起きていることです - 特に、この国では、です。 インドや他の国々のような、伝統的な国々では、 いまだに、 「どうか待ちなさい。耽ってはいけない。 あなたが二十歳や二十二歳になるまで、待ちなさい」と言います - 何歳にしても、ですが。
58:18 で、これらを見て、 これらから何を学ぶのでしょうか。 学ぶのです - 道徳ではなく、 禁欲などではない。 これらから、何を学ぶのでしょうか。 さあ、みなさん! 世界中の宗教は、古代のものは、 - 私はそれらを、すごく古代のものとは呼びません - ヒンドゥー教徒、仏教徒、キリスト教徒は、いつも 言ってきました - 「禁欲しなさい」 「神に従いたいなら、禁欲しなさい」と。 なぜでしょう。 彼らは禁欲の誓いを立てます。 僧院に加わり、僧侶になります。 インドでやるように、放浪の僧侶。 そして、これの責め苦を受けるのです。 いいですか? 彼らは誓いを立てました。 それを守らなければなりません。 彼らがなぜ初めに誓いを立てるのか、私は知りません。 しかし、ひとたび誓いを立てたなら、 自分が受け入れたものに、 従わなくてはなりません。 しかし、心理的、内的に、分泌腺、 あらゆるものが機能しています。 あなたは、ひどい時を過ごします 語り手は、彼らのきわめて多くに、話してきました。 彼らは地獄の目を見ます。 宗教はそれをしてきました。 あなたはこれらをご存じでしょう。
1:00:42 そして、訊ねるのです - なぜ人は、自分自身に対して 言ってきたのでしょうか -「一番崇高なものに到達するには、 禁欲しなければならない」と。 理解できますか。 すなわち、あなたは自分自身に責め苦を与えなければならない。 苦悩を経なければならない。 すると、神に近づくだろう、と。 全体が、とても子どもっぽく見えるのです。ごめんなさい! 私はインドで、きわめて多くのサンニャーシたちに、僧侶たちに会ってきました。 その詳細には入りません。 彼らは、あらゆる形で自己に責め苦を与えます。 なぜなら、一般的な意見は、神に到る、最高のものに到るには、 絶対的な禁欲生活を しなければならない、というものであるからです。 それは、人間たちは、きびしさが何かを 一度も理解しなかった、という意味なのです。 それに入ってもいいですか。 これらに飽きていますか。 あなたが飽きていても、私は気にしません。 たぶんあなたは、これらに入りたくないでしょう。 あなたは、大いに動揺させられるかもしれません。 どうか、動揺しないでください。 なぜなら、私たちは事実を扱っているからです。
1:02:53 きびしさ(オステリティ)は、何でしょうか。 そう、その言葉の根本的な意味は、 先日説明したように、 きびしい(オスティア)とは、ギリシャ語で、 口が渇いた、という意味です。 飲み物からではなく、 口が渇いた。すなわち、きついこと、 鋭いこと、 乾いたこと。 それで次第に人間は、きびしくなければ いけないというこの観念を、持つし、 自己を灰に変えてきたのです。 理解できますか。 日から日、月から月、年から年へ、 自己に強制し、駆り立てているとき、 あなたはおしまいに、 乾いた人間になってしまいます。 あなたはまた、別方向に耽溺しても、 同じ問題があるのです。
1:04:22 で、葛藤なく生を 生きられるでしょうか。 理解できますか。 どの極端でもありません - それらは、葛藤という意味合いです。 感覚的要求と、 感覚的欲求の抑圧です。 その二つの間に、ただ一つの闘い、努力、格闘もなく 生きられるでしょうか。 質問を理解できますか。 それは、大変な探究を必要とします - 欲望、意志、願いと 生物学的欲求の 問題全体への探究です。 理解できますか。 これを続けたいですか。
1:05:50 終わりに、とても良い問いがあります。 私は見たばかりです! 「どうすればこの地上において、その美しさへ・・・」 - どうか聞いてください - 「どうすればこの地上において、その美しさへ 害や破壊なく、他の人へ苦しみと死を もたらさずに、生きられるでしょうか。」 「どうすれば、この地上において、 その美しさへ害や破壊なく、 他の人へ苦しみと死をもたらさずに、 生きられるでしょうか。」
1:06:36 しかし、私たちは、 先に話をしていた一つの問いを、終了させなければなりません。 何時でしょうか。 もう十五分間、耐えられるでしょうか。 あなたは、語り手が働いているのと同じく、働いているでしょうか。 それとも、聞いているだけでしょうか。 あなたの頭脳は、活動的で、働き、 探究し、疑い、 強烈に見出そうとしていますか - 生きる道、全然違った何かを、です。
1:07:34 私たちは言っていました -葛藤なく生を生きることは、 欲望の問い全体への究明が、必要とされる、と。 それはきわめて複雑な問題です。 あなたは本当に、それらに入りたいですか。 いいえ、私は励ましから訊ねていません。 私はただ訊ねています。 私たちが行っていることは、とても真剣なことです。 単に聞いて反復するだけでは、何の役にも立ちません。 全く意味がありません。 ですが、この世の中の事実が何であるのかが見えると - 世界で実際に何が起きているのか、 この国だけでではなく、あらゆる国で、 あらゆるいわゆる文化で、です。 人の葛藤、抗争は、ますます増大しています。 減るのではない。 人(マン)は、女と男という意味です。 どうか、それに興奮しないでください。 「なぜ女について話をしないのか」と。 欲望の動きをとても深く理解しないのなら - その叙述ではなく、 その説明ではなく - なぜ欲望がこんなにとてつもなく重要になるかを、探究するのです。 成功を収めたい欲望、お金を持ちたい欲望、 セックスへ、興奮へ、娯楽への欲望。 付いてきていますか。 そのものすごい衝動と速度、 そして、充足への要求。 またもや諸宗教は、「欲望を抑圧しなければならない」と言ってきました。 それは、また別の闘い、別の葛藤、別の責め苦という意味です。 そうですね、宗教は人間たちに、荒廃を起こしてきました。 それらは今もそうしています。 キリスト教世界だけでなく、 全世界で、です。 イスラム教世界。イランとイラクで何をしているかを、見てください。 「それについて話をするな!」と。
1:10:52 で、欲望は何でしょうか。 どうか、理解してください -私たちは、それを抑圧しようとか、 奨励しようとかしていないのです。それは事実です。 事実は、私たちが欲望により駆り立てられる、ということです。 それを阻むことは、痛みです。 ですね? 充足できないという感覚、です。 で、どんなつけ、どんな犠牲を払っても、私たちは、欲望の充足がほしいのです。 あなたは、「神への欲望、理解への願望」と 言うかもしれません - それはやはり欲望です。 やれまあ、これらに入らなければなりませんか。
1:11:56 樹を見るとき - 樹の美しさ、 葉に照る光、 彼方の山々、谷、 陰と木漏れ日 - 大地の甚大な美しさが、見えるとき、 それは感受です。 ですね? 美しさは感受なのかという問いには、入りません。 私はそれに入りません。それは別の問題です。 いや、問題ではない。それは全く別のことです。 あなたがそれに入るなら、とても興味深いのです -美しさは、感受でしょうか。 それらが、大地とその美しさが見えるとき、 それは感受です。 ですね? 視覚的な眼でもって、見える。 見えること、まさにその見えることが、感受を引き起こします。 ですね? 美しい女や男を見ることが、 様々な種類の感受を、引き起こします。 そのとき、その感受は正確です。 ですね?正常で、健康的で、自然です - 麻痺して、盲目で、聾唖でないならば、です。 すなわち、敏感であるとき、 これらに鋭く気づきます。 これが見えます。 これらの知覚があります。 そのとき、何が起きるでしょうか。 あなたは、あれらの丘を見つめています。 あれらの丘が見えることが、 一定の感受を引き起こします。 そのとき、それへの次の一歩は、何でしょうか。 探究してください。どうか、見つめてください。 そのとき、思考が入ってきて、言いませんか - 「あれは何と美しいものなのだろう」と。 ですね? そのとき思考は、その感受の中から、 イメージを創り出します。 ですね? 私は、事実でないことを、何も言っていません。 これは仮説や虚構ではありません。 感受 - 接触、感受。 そのとき思考が、その感受からイメージを作ります。 いいですか。付いてきていますか。 思考が、その感受の中からイメージを作るとき、 欲望が生まれます。 感受は欲望ではありません。 感受は感受です。 しかし、思考が来て、「そうだ、あれは何とすてきなものなのか」、 「あれは何とすてきなドレスなのか」と言うとき、 - 男であれば、すてきなシャツです。 または女は、「すてきなドレス」と言います。 店内に入る。触れる。感じる。 それを着る。そのとき思考は、 「何と私は美しく見えるのか」、 「それは私に合う良いシャツだ」と言います。 そのとき欲望が生まれます。理解できますか。 これは事実です。 それは何か理論的なことではなく、事実です。
1:16:47 さて、問いはこうです -あなたが、はるかに深く入るなら、 感受 - 美しい絵画を見る。 美しく額に入れられ、美しく照らされて、すばらしい。 それは感受です。 そのとき思考は、「私の部屋にあれを持てたらいいのになあ」と言います。 そのとき、思考が、感受に対して 権威を帯びるとき、欲望が生まれます。 さて、問いはこうです - 感受と思考は、別けておかれるのでしょうか。 これに入ってください。 意志をとおし、強要、努力、それらをとおしてではない。 私たちは、とても深刻で、とても単純な問いを、訊ねています。 感受は自然です。思考もまた、イメージに関して、 幾らか自然です。 それが、起きることです。 さて、隔たり、間隔、隙間がありうるのでしょうか - 感受と思考が分離しているように、です。 理解できますか。 そこに何が含意されているかを、見てください。 それは、ものすごい注意を、大いなる見守りを 必要とします。 見る、感受 - 語り手は、世界で最も美しいものを幾つか、見てきました。 美しい車、 美しい人々、 - どうか、私はそれを普通の意味で使っていません - 美しい人々。 まあ、気にしません。 で、この世界を見つめることは、自然です - この甚大な美しさ、 破壊、人間たちが大地にやっていること。 そして、世界で最も美しい庭園、邸宅、 宮殿などの幾つかを、見る。 私たちはそれらに生活してきました。 そして決して、そのどれとも同一化されないこと。 ああ、あなたはこれらを知りません。 「それを持てたらいいな」と、けっして訊ねたことがない。理解できますか。 それには、大いなる知覚、見守りと明晰さが、必要とされます。
1:20:19 このすべては、大いなる内的な学びの感覚、 という意味合いです。それは修練です。 学ぶことが、修練(ディシプリン)です。 順応ではない。理解できますか。
1:20:38 第四の質問: 最後の問いです。 「どうすれば、この地上において、 その美しさへ害や破壊なく、他の人へ 苦しみと死をもたらさずに、生きられるでしょうか。」
1:20:51 「どうすれば、この地上において、その美しさへ害や破壊なく、 他の人へ苦しみと死をもたらさずに、生きられるでしょうか。」
1:21:05 あなたは、この問いをしたことがありますか。 実際に? 理論的にでなく、実際にその問いを立て、向き合う。 それから逃げ去らず、 「それは必要なんだ」その他の説明をしないで、 見つめ、直面してください。 そういう問いを訊ねたことがありますか。 集団でではない。国立公園やあれこれを 破壊したがる或る政治家へ 反対のデモ行進をするのではない。 こういう問いを訊ねること - それは、あなたがそれで燃えている、という意味です。 それは何かものすごく真実なことです。 昼の時間を過ごすための、ただの空想上の問いではない。 この地上に、そのとてつもない 美しさとともに、生きること。 それを破壊しないこと。 そして、悲しみを終わらせる。 他の人を殺さない。 他の一人を殺さない。 他の生きた人間を死なせない。 インドには、それらの人々がいます - 一定の宗派です。 彼らの交通手段は、歩くことです。 彼らは、列車にも、航空機にも、 馬車にも乗りません。歩くしかない。 彼らは、息を吸い込んで虫を殺さないように、マスクをつけます。 理解できますか。彼らの集団全体があるのです。 その集団の数人が、語り手に会いに来ました。 彼らは、800マイル(約1500キロ)を歩きました。 4月から1月まで、 歩く以外、何の交通手段にも乗らずに、です。 そして彼らは殺しません。
1:24:05 そして、殺す人たちがいます - スポーツのために殺す。娯楽のために殺す。 利益のために殺す。 食肉産業全体。 ですね? 大地を破壊し、有毒ガスを投げ捨てる。 この国でそれらが起きているのは、ご存じでしょう - 空気、水を汚染する。 お互いを汚染する。 これが、私たちが大地と私たち自身に対して、していることです。
1:24:54 質問者は訊ねます - 私たちは、大いなる美しさをともなう この地上において、他の人たちに苦しみや死をもたらさずに、 生きられるでしょうか。 それはきわめて真剣な問いです。 他の人たちに苦しみを引き起こさず、他の人たちに、 死を引き起こさず、生を生きる - それは、人間を殺さない、スポーツのため、 食べ物のために、動物を殺さない、 という意味です。 これらを理解できますか。 これが問いです。
1:26:11 インドには、一定の時に、 一定の階級の人々が、いました。 彼らはけっして、肉を食べませんでした。 彼らは、殺すことは間違っていると、考えました。 彼らはその時に、ブラーフミン(バラモン)と呼ばれました。 西洋文明は決して、探究したことがありません - 殺すことは正しいのかどうか、 どの生き物をも殺すことは、それ自体、 正当化されるのかどうかを、です。 西洋世界は、幾種族もの人々全部を、滅ぼしてきました。 ですね? この国は、この国のインディアンたちを、滅ぼし、 消し去りました。 なぜなら、土地とそれらが欲しかったからです。 で、私たちはこの地上に、殺すことなく、戦争なく生きられるでしょうか。 私は答えられます。しかし、それはあなたにとって、何の価値があるでしょうか。 なぜなら、あなたは殺しているからです。 私は菜食主義を提唱していません。 或る著者が、しばらく前に書きました。 切り抜きが、私に送られてきました。 彼は、「この国で菜食主義は、何か疾病のように 広がりつつある」と、書きました。 たとえキャベツを殺すとしても、です。 ですね? で、あなたはどこに、線を引くのでしょうか。 あなたは、それを問題にするのでしょうか。 質問は理解できますか。 あなたが戦争に反対ならば -一定の人間たちはそうです。語り手も含まれます - 戦争に反対で、いかなる理由のためにも、他の人を殺すことに反対ならば、 手紙も投函できません。 あなたが買う切手、あなたの得る食べ物、 そのすべて、その一部が、防衛、軍備に行くのです。 石油を買うなら - この国では「ガス」ですが - その一部分、 あなたの税金、その一部は、そちらに行く、などなどです。 で、あなたは何をするでしょうか。 税金を払わないなら、罰金を取られたり、監獄に送られたりします。 切手を買わないなら、手紙を書けません。旅行できません。 ですね? これらに付いてきていますか。 これはおもしろいですか。 で、あなたは自己を、窮地に追い込むのです。 窮地に生きることは、かなり無益に見えます。 で、あなたは何をするでしょうか。 あなたが、こう言うなら - 「私は旅行しないだろう。私は手紙を書かないだろう。 これらは、陸軍と海軍を、軍備を、国家を維持するのを助ける」と。 よろしいですか。その仕事全部です。 またはあなたは、違った接近を、するのでしょうか。 なぜ私たちは殺すのでしょうか。 宗教 - 特にキリスト教は、たぶん地上で より多くの人々を殺してきました。 人々を拷問にかけてきました。 彼らを異端者と呼んで、焼き殺しました。 その歴史すべてを、ご存じです。 イスラム教徒は、それをやってきました。 イスラム世界は、そうしてきました。 たぶんヒンドゥー教徒と仏教徒は、ただ一つの・・・ 彼らの宗教は、禁止するのです。
1:31:20 この地上でどうすれば、他の人を殺さず、他の人に苦しみを 引き起こさせずに、生きられるでしょうか。 この問いにとても深く、本当に入るには - それはとても、とても深刻な問いなのです。 この問いに答えた愛の性質が、あるのでしょうか。 あなたは、他の一人を愛するなら、他の人間を愛するなら、 その人間を、進んで殺そうとするでしょうか。 そのとき、何をも殺すのでしょうか。 一定の食べ物が要るの以外に、です - 野菜、ナッツなど、牛乳。 それは別として、あなたは何をも殺すでしょうか。 これらすべての問いに入ってください。それを生きてください。 後生ですから、それについて語らないでください。
1:32:52 世界を分割しているのは、理想です - 一集団に対立した一集団のイデオロギーです。 この永遠の分割、人、男と女などの 間の、見たところ永遠の分割です。 彼らは、論理をとおし、理性をとおし、様々な制度、機関、 財団、組織をとおして、これに橋を架けようとしてきました。 彼らはどの形でも成功していません。 これは事実です。 知識もまた、この問題を解決していません - 蓄積された経験などという意味での知識も、です。 確かに思考は、この問題を解決していません。
1:33:50 で、その中から、ただ一つの主題があるのです - 愛は何かを発見する、見出すことなのです。 愛は欲望ではない。 愛は所有ではない。愛は、利己的、 自我中心的な活動 - 私が一番で、あなたは二の次 - ではない。 見たところ、その愛は、ほとんどの人々にとって、何の意味もありません。 彼らは、それについて本を書くかもしれませんが、それは何の意味もありません。 で、その性質が、あるのでしょうか - その香り、その火、その慈悲が、です。 慈悲は、自らの智恵を持っています。 それは至高の智恵なのです。 その智恵は、慈悲、愛から生まれます。その智恵があるとき、 これらすべての問題は、単純に静かに、解決されるでしょう。 しかし私たちは、けっしてその問いを、まさに最後まで追求しません。 私たちはそれを、知的に、言語的に追求するかもしれません。 しかし、あなたの心、あなたの精神でもって、その裏に あなたの情熱をもって、そうすること。 そのとき大地は、美しいままに留まるでしょう。 そのとき自己に、大いなる美しさの感覚が、あるのです。