Krishnamurti Subtitles
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OJ84Q2 - 第2回質疑応答会合
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| 0:56 (出された)質問を一瞥してみると、 私たちは、自らの日々の生に 関係した質問を、決してしないように見えます。 たくさんの理論的な、 思想上の質問が、ありました - それらは本当に、まったく意味がないのです。 なぜ、自らの生について、 質問をしないのかと、思われます - 憂鬱、心配、 深いさびしさの感覚などについて、です。 私たちは本当に、日々の生に関心がないのでしょうか。 それとも、私たちは見せかけの世界に生きていて、 何かロマンチック、感傷的、理想主義的 または宗教的な信念への 答えを見つけようとする、というだけなのでしょうか。 なぜかと思われます。 よろしければ、うかがいますが、なぜ 私たちは自己について直接的に単純に、 そういう質問をしないのでしょうか。 |
| 2:38 私たちはみな、戦争を終わらせたいのです。 少なくとも、或る人々はそうです。 「パーチェム・ イン・テリス」 - それは、ラテン語で、地上の平和ですが - 見たところ、それは この世界では可能でありません 。 デモ行進にもかかわらず、 司祭者たちの説教すべてと、宗教書など すべてにもかかわらず、です。 私たちは見たところ、決して この世界に平和を持てません。 私たちは、日々の生活で平和に 生きられるかを、決して訊ねません - 何も暴力なく、 無数の増大するすべての問題なく 明晰で単純で強い生を生きることを、です。 見たところ、それは可能ではありません。 私たちは、そういう問いをしないのです。 |
| 4:02 私が質問してもいいですか。 あなたはなぜ来ますか。 どうか、私は本気で言っています - なぜ私たちはみな、ここにいるのか。 語り手はインドにいて、 すべての会合で、五千から 八千人の人々に話をするとき、 彼らはそこに来ます。 彼らのほとんどは英語を理解しますが、 彼らのほとんどは、宗教人の 面前にいるために来るのです。 少なくとも、彼らは、「宗教人」と引用します。 彼らは、語り手が話していることを、 すっかり理解はしません。 きっとしないと、私は思います。 しかし、それが伝統であるから、 彼らは来るにちがいありません。 それが流行であり、それが評判、 イメージ、それらの戯言(たわごと)であるからです。 5:25 私は、もっと強い言葉を使おうとしていました! おそらくあなたは、好奇心から ここに来るのでしょう。 または、樹々と木漏れ日の下で、 すてきな朝を過ごすため、です。 または、日光浴をして、 こいつめの話を聞くためです。 で、あなたはそのように続けます。 このすべては実際に、深く、深遠に 私たちを変化させません。 何が人間たちを変化させるのでしょうか。 これが本当に、とても深刻な問いなのです。 なぜ私たちは、 今しているような行動をするのでしょうか。 苦しみ、痛み、心配、 絶望的な憂鬱の感覚 - それらから、自己が 抜け出すことは、 ほぼ不可能に見えます。 7:02 そして、ひどい野心、 競争。 その種のすべてのことが、起きています。 私たちは、それらを変化させられるでしょうか - 一人一人が、です。 あなたは必ずや訊ねるでしょう - 私が、自分が変化するとして、 それは本当に大事なことなのか、と。 それは何かの形で、全人類の努力や悪さ、 迷信と暴力に、影響するのだろうか、と。 それは、間違った問いがなされるのだと、思います。 すなわち、それが残りの世界に影響するときだけ、 自分は変化するだろう。 影響しないのなら、自分がどう生きるかは、 さほど大事なことではない、と。 |
| 8:06 一人の人がいかに全人類の意識を、人間たちを 変化させられるかを、 あなたは考慮したことがあるのかと、思われます。 一人の人が、です。 悪い例では、ヒットラーのような 神経症的で狂気の人物 - 彼は、世界にものすごい害を与えました。 彼は、残りの世界を 変化させたり、影響したりしました - 彼らの意識、彼らの行動を、です。 または、二千五百年前の ブッダは、何かの形で世界に影響したのかと、 言ってもいいかもしれません。 または、キリスト教徒は、 救い主、イエス、それらを信じていて、 それらは本当に、世界を変化させ、 人間の精神、人間の行動を、 変化させたのでしょうか - 果てしない苦しみを、です。 または、世界中の司祭者たちは、 9:41 この変化を妨げてきたのでしょうか。 私の問いは理解できますか。 ブッダの直接的な教えは、 ありません。 イエスのも、です。 彼の教えは、見たところ、 六十年後に解釈されました。 だから、直接的な教えはないのです。 おそらく、それは人間たちが 正しく行為するのを、妨げていました。 で、人生の長い旅の間、ずっと、 なぜ人間たちは自らの生の道筋を、 深遠に変化させないのかと、思われます。 もっと苦しみが必要なのでしょうか。 もっと暴力が必要なのでしょうか。 もっと専門家などが、でしょうか。 または私たちは、 自分の深い行動様式を変化させるための、 エネルギー、衝動、 情熱、強烈さを、持っていないのでしょうか。 |
| 11:33 どうか、自分自身に、 これらの質問をしてください。 ここには、多くの質問が出されています。 問いは、問題という意味合いです。 問題は解決されるべきです。 一つの問題の解消中に、 他の一ダースの問題が生ずるのではなく、 問題が終わること - どの問題でも、です。 見たところ、私たちはそれが できないように見えます - 政治的、 経済的、社会的になど、または宗教的にも、です。 それは永続的な再組織です。 その再組織が適切に機能しないとき、 12:53 それを再組織します。 あらゆる組織を、再組織しつづけます。 あなたがこれに注目したことが あるのか、私は知りません。 これが進歩と呼ばれます。 これが、世の中に秩序をもたらすことと呼ばれます。 組織すべてを、 脇に置けるでしょうか - 特に、 霊的(スピリチュアル)なのを、です。 その(スピリチュアルという)言葉は、 台無しにされましたが、その言葉を使うなら、です。 何にも所属しない。 どの箱、どの体系にも捕らわれない。 働く、見る、観察する。 自分の行動を知覚し、変化する。 |
| 14:01 なぜこれらをしないのでしょうか。 なぜ他の人たちに依存するのでしょうか。 どうか、これらの問いをしてください。 大変真剣に、です - お願いできるのなら、ですが。 |
| 14:35 第一の質問: 「気づきの瞬間があり、 そこには大きな明晰さがあり、 恐れ、分割、経験は不在です。 でも、その瞬間は短い。 持続した明晰さ、強烈さ、存在の全体性を 許すには、何が必要でしょうか。」 |
| 15:08 「気づきの瞬間があり、そこには大きな明晰さがあり、 恐れ、分割、経験は不在です。 でも、その瞬間は短い。 持続した明晰さ、強烈さ、存在の全体性を 許すには、何が必要でしょうか。」 |
| 15:43 あなたは誰に、この質問をしているのでしょうか。 これは見たところ、真剣な問いです。 真剣に見えます。 誰に訊ねているのでしょうか。 あなたは、誰かから返事がほしい。 その誰かが、ここの語り手です - 当面は。 語り手の答えが満足できないなら、 あなたは、他の誰かへ、小走りに行きます。 その他の誰も充分でないなら、 他の誰かを追いかけます。 あなたはこれを続けます。 それは、私たちが他の人に 依存している、という意味ではないでしょうか - 何をするのか、 何を考えるのか、明晰さ、健全さ、生の全体性を どう見つけるのかを、教えてもらうように、です。 いつも見たところ、私たちは誰かに依存しています。 16:57 私たちは決して、この問いをのぞき込まない。 全的に他の人に依存しないでいられるかを、 自分自身に問うて、見ないのです。 絶対的に混乱なくいること、 絶対的に明晰であることが、可能なのかを、 見出さない - 一時的にでなく、 他にすることが無いとき、時折にでなく、 それは可能なのでしょうか。 明晰さの持続ではない。 理解できますか。 仮に、一瞬の間、明晰であるとします。 一秒間のその明晰さは、 恐れ、経験、それらを追い払います。 そのとき、その明晰さの記憶は、 明晰さの事実ではありません。 ですね? これがお分かりになるかと、思われます。 18:37 仮に、私が森を歩いているとします。 ここ、カリフォルニアでではない - 太陽が強すぎます。 仮に、森の中を歩いているとします。 鳥たちを聞く。 木漏れ日、 木の葉の美しさ。 一瞬の間、絶対的な明晰さがあります。 その明晰さは、頭脳に 印影を残しています。 それは、「おやまあ、何と 明晰だったのか。 」と言います。 それから、その明晰さに継続してほしい。 そうでしょう? 楽しみのように、それに継続してほしいのです。 継続は、記憶の動きです。 ですね? 私はそれらに入らなければなりません。 |
| 19:56 そこには、時が関与しているでしょう。 何でも継続するものは、時があるに ちがいありません - 時の意味合い、です。 時は、明晰さを許さないでしょう。 明晰さとは、時からの自由なのです。 よろしければ、もう一回これに入りましょう。 |
| 20:29 例えば、安全がほしいとします - 心理的に、です。 二、三秒間か、二、三日間、絶対に安全である というこの感じが、します - しっかり保護されている、安全だ。 それから、二、三日後に、それは消えます。 しかし、その感じの記憶は、残ります。 私たちは、二、三日前に 起きたことを、継続したい。 ですね? それが、私たちみんなが捕らわれていることです。 すなわち、終了した経験の持続と、 21:25 それの記憶を、私たちはほしい。 記憶は、起きたことの継続が、ほしい。 で、もしも私たちが、この疑問を見つめられたなら、 時 - 時計による時、 日の出と日の入りによる時、 昼と夜の時、 一年の時など。 すなわち、時があります。 思考もまた時です。 ですね? これに、付いてきていますか。 時は、思考の動きです - 過去から現在へ、そして未来へと。 それは、時の動きです。 この動きは、自らの継続を持っています。ですね? 22:39 私たちはここに一緒に来ていますか。 頭脳は、時をとおして進化してきましたが、それは、 継続が本質的である、と言います。 理解できますか。 なぜなら、 それが継続するには、本質的であるからです。 身体的、生物学的にそれは必要です。 しかし、心理的にもまた、それは継続したいのです。 それで、継続が無いとき、 頭脳は混乱します。 これらに、付いてきていますか。 幾らかは、一緒にここにいますか。 |
| 23:35 そして、心理的にそもそも 継続があるかどうかを、問うのです。 私の問いを理解できますか。 私たちは問うています。 私が述べていません - 心理的にそもそも継続があるのでしょうか。 すなわち、明晰さの瞬間は、恐れすべて、 問題すべて、生の苦労すべてを、 追い払い、脇に置きます。 それは一瞬に起こります。 頭脳は、それは継続しなければならない、と言います。 なぜなら、それはただ、時、継続という立場で 考えるからです。理解できますか。 24:34 生物学的に、日々継続することは必要です。ですね? 同じ住宅、同じ食べ物、同じ衣服、 同じ頭上の屋根。 心理的にもまた、私たちは関係において、 安全が継続してほしい。 ですね? これらに付いてきていますか。 関係に、そもそも安全があるのでしょうか。 すなわち、長い時の期間の持続が、です。 それへの要求があるとき、葛藤があります。 これを理解されるのかと、思われます。 ああ、いいえ。 |
| 25:37 関係は、とても重要ですし、 関係は生において、ものすごく重要です。 関係なしでは、この世の中にとうてい存在できません。 あなたは、僧侶、サンニャーシ、放浪者であっても、 いつも過去や或る人物に、関係しています。 または、未来の概念に、です。 それは単に、物理的な関係だけではありません。 関係は、生においてきわめて深刻に重要なので、 関係が、大いなる深さ、静寂と、 26:32 ものすごい幸福感を持つ瞬間が、あるのです。 ですね? これらを知らないですか。 語り手はこれらを 済ませていませんが、済ませましょう。 それら深い充足感、全体性の感覚の瞬間は、 頭脳に登記、記録されます。 頭脳の機能は、記録し、それを続けることです。 それで記憶が、重要な役割を果たしはじめます。 |
| 27:23 で、関係において、そもそも安全があるのか どうかを、問うのです。 私の問いを理解できますか。 私たちはそれがほしい。 それは絶対に必要であると考える。 しかし、それはあるのでしょうか。 あなた自身に、訊ねてください。 安全は、恒常性を意味しています。 生に、何か恒常的なものが、あるでしょうか。 死はいつもそこにあります。 でも、当面、死は放っておきましょう。 生に、何か恒常的なものがあるでしょうか。 私たちは、何か恒常的なものが、ほしい。 見たところ、宗教者たちは、 「神は恒常的である」と言います。 それはすばらしい創案ですが、 ほとんど意味がありません。 で、私たちは関係に、 安全と恒常性を探し求めています。 まさにその概念が、 - どうか一分間、聞いてください - 28:55 安全と恒常性を要求するという、 まさにその概念が、 執着として翻訳されるのです。 ですね? で、他の人への深い執着が、あるのです。 それは、一ヶ月間か一週間か 五十年間かもしれません。 この執着の状態の間に、 葛藤すべてがあるのです - 嫉妬、 疑い、恐れ、得失の葛藤です。 ご存じでしょう。 このすべてをご存じでしょう。 で、関係において、恒常的な継続の感覚を 持ちたいとの要求は、 - その中に安全があるものを、です- 執着へつながります。 そして、執着の複雑さのすべてへ、です。 それが見えるなら、それの事実を知覚するなら、 - 理解できますか - それを知覚する。 その樹を知覚する。そして、盲目でなければ、 30:24 それに当たらない。ぶつからない。 そのように、この事実、すなわち、 関係での恒常性と安全への要求は、 必ずや大変な葛藤と執着と恐れなどに つながることが、見えるなら、 まさにその知覚こそが、安全への 要求を焼き払うのです。 理解できますか。 この問いは、明らかでしょうか。 すなわち、 私たちは時という立場、継続性ということで 考えた瞬間に、 強烈さ、明晰さ、 全体性の感覚は、消えるのです。 これらを捉えられたのかなと、思われます。 |
| 31:50 あなたはこれを聞いてきました。 すべて戯言(たわごと)でしょうか。 あなたは、「いったい何の話を しているんだい? 」と言いますか。 それとも、健全さ、理性で、論理的なのか。 たいへん尊敬を込めて お訊ねしてもよければ、もしあなたが、 これがきわめて明らかに見えるなら、 - 私たちが生において、日々の生活で、心理的に 継続の感覚、安全の感覚を 要求するという事実が、です。 それは必ずや、葛藤をもたらすにちがいないのです。 ですね? これは見えますか。 この事実は知覚できますか。 私たちは、これの真理を知覚するなら、 まさにその知覚こそが、安全と恒常性への要求を 焼き払うと、言っています。 ゆえにそのとき、私たちの お互いとの関係は、何でしょうか。 33:22 理解できますか。 質問は理解できますか。 仮に、語り手やあなたが、この安全と恒常性の感覚を 持たない、とします。 それは何をも意味しません。 仮に、です。 そのとき関係は 何でしょうか。理解できますか。 私の妻や夫、ガールフレンドや ボーイフレンドは - 何にしても、です - 何でしょうか。 どうかこれを訊ねてください。 考えぬき、解き明かしてください。 親密でもその他でも、 他の一人との関係は、何でしょうか。 ただ、何? 、隔たりがあるだけか。 または、恒常性がないとき - 恒常性と安全への要求が、 その複雑さとともに無いとき、 新しい目覚めが、愛が何かの新しい感覚が、 可能でしょうか。 34:53 質問を理解できますか。 恒常性と執着は、その痛みと楽しみ、 心配と恐れとともに、愛ではありません。 その不在において - 全面的に、 深く、深遠に、です - 他方は、咲いている花のようなのです。 いいですか? これは可能でしょうか。 これらが聞こえるとき、これは可能でしょうか。 あなたの日々の生に、可能でしょうか。 愛は、思考、欲望、 感受ではない。 愛は全然、違った性質を持っています。 他が、安全、その他すべてが、 あらゆる人間の要求であるとき、 それは全的に、不在です。 |
| 36:26 第二の問い: 「判断とは何でしょうか。 意見と、事実の知覚とを 分割する線を、どのように 決定すべきでしょうか。」 |
| 36:41 「判断とは何でしょうか。 意見と事実の知覚とを分割する線を、 どのように決定すべきでしょうか。」 |
| 36:52 これは良い疑問です。 事実は何でしょうか。 意見は何でしょうか。 二つを分割する線は、どこにあるのでしょうか。 なぜ私たちは、意見を持つのでしょうか。 その意見(オピニオン)という言葉は、 判断、評価付けという意味です - 予め構想した概念。 そうですね、 一人一人が持つ、断定的、独断的な見解全体です。 なぜ私たちは、こんなに多くの意見を 持ちはこんでいるのでしょうか。 どうかこれを探究してください。 私たちはなぜ、そもそも意見を 持っているのでしょうか。 私たちはあらゆることについて、 意見を持っています。 見たところ、それらはとても強い。 私たちは、あらゆることについて千の意見を 持つことが、自由であると、考えます。 それは、自由の感覚を与えてくれます。 少なくとも、あなたは、 自由である、独立だと考えます。 「それが私の意見だ。 私は正しい」と。 で、私たちは千の意見を、持っています。 |
| 38:32 そして、事実は何でしょうか。事実は何でしょうか。 事実は、起きたことです。 ですね? 起きたことです。 出来事や事故は、事実です。 それは昨日、起きました。 事実はまた、今起きつつあることです。 ですね? 今、起きつつあること。 あなたと私は、ここに座っていて、会話、対話を、 質疑応答などをしている。 それは事実です。 事実でないのは、明日起きるかもしれないことです。 ですね? ここに一緒に来ておられるのかと、思われます。 あなたがこの場所を去り、行ってしまうとき、 起きるかもしれないこと - 何かが起きるかもしれません。 39:33 で、事実は、起きたこと、 起きつつあることです。 事実は、起きるであろうことではありません。 それは明らかです。 起きるであろうことは、 今起きつつあることにより、決定されます。 これがお分かりになるのかと、思われます。 未来は現在にある。 ですね? 未来は - 今あるあなたが、 未来です。 ですね? 修正されますが、 基本的に、今あるあなたです。 で、未来は現在にあるのです。 ですね? 過去もまた、現在にあります。 ですね? で、現在はすべての時を含んでいます。 どうか、これを理論として弄(もてあそ)ばないでください。 それは無意味です。 それは反復するなら、標語になります。 41:05 少なくとも、意味を失います。 しかし、過去が現在に継続を持つことが、 見えるなら、 いいですか? そして未来は、現在に修正された 過去であること、 過去は現在をとおして、修正されます。 で、現在、今は、すべての時を含んでいます。 ですね? あなたは今、変化しないなら、 明日、まさしく同じになるでしょう - わずかに修正されて、です。 だから、未来は現在にある。 これは本当に、理解するのが全く重要です。 なぜなら、 行為は何でしょうか。 それに入ってはいけませんね。 あまりに錯綜しています。 |
| 42:12 で、なぜ人間たちは、事実ではなく、 意見にすがるのでしょうか。 事実から意見を帰結させられます。 ですね? 事実は、意見に変えられます。 しかし、意見は事実ではありません。 私は、車で事故を起こすかもしれません。 あなたはやってきて、それを見て、 それについて、たくさんの意見を持つ。 しかし、事実は、私が事故を起こしたことです。 で、なぜ私たちはそもそも、意見を 持つのでしょうか - 政府について、宗教について、 これについて、あれについて、 文学について、詩について。 お分かりですね? なぜでしょう。 それは一種のゲームでしょうか。 それは、一種のエネルギーのむだでしょうか。 もう一つの形でのおしゃべりでしょうか。 43:44 それはすべて、時間のむだ、エネルギーのむだです。 ところが、事実に張り付くなら - すなわち、起きたこと、 起きつつあること、それがただ事実です。 私は樹を見ている。 それは事実です。 なぜ私はそれについて、意見を 持たなくてはいけないのでしょうか。 私が材木商であるなら - ありがたい、私はそうではありません - 私は、「あれは価値ある樹です。 切り倒しましょう」と言う。 それは違った事柄です。 しかし、あらゆることに、常に意見を持つことは、 エネルギーと時間の愚かなむだだと、見えるのです。 そうですね、役立ちません。 |
| 44:33 そして判断 - 問いは、判断は何でしょうか、です。 判事は、判決を下します - 誰か犯人か、無実の人に対して、です。 かつて、語り手がたまたま知った 判事がいました。 彼は法律で上にいて、判事になりました。 長年の判断の後、或る朝、彼は言いました - 「私は何を判断しているんだろうか。 真理は何だろうか。 私はあらゆることについて、判決を下している - 判例などに従って、だ。 真理は何だろうか。 私がそれを見出さないなら、判断は意味が無い」と。 で、その頃、五十八年ほど前に、 インドでは慣習であったのですが、 彼は家族を呼んで、言いました - 「私は世間から退こう。 どこか遠い村、森へ引っ込み、 冥想して、見出そう」と。 私たちは、それの事実について、あなたに 語っています - それについての意見ではありません。 |
| 46:13 二十年か四十年後、正確な時は忘れましたが、 誰かが彼を、Kが行っている講話の一つを 聞くよう、連れてきました。 彼は後で、語り手に会いに来て、言いました - 「そうですね。 これら四十年間ずっと、 私は何をやっていたんでしょうか。 私は真理を見つけようと始めました。 冥想し、あらゆる種類のことをしました。 私は今、自らが自己催眠を してきたことが、分かります。 私は幻想を生きてきました。 」と。 いいですか? これらは理解できますか。 年老いた人が、 そういう発言を承認し、 「それが事実です」と言うには、 大変な知覚が、要るのです。 |
| 47:12 で、判断は何でしょうか。正義とは何でしょうか。 世の中に正義はあるのでしょうか。 どうか、あなた自身にこの質問をしてください。 世の中に正義はあるのでしょうか。 あなたは、良い家族に生まれた - 金銭、教育、 繁栄、成功。 他の人は、小さなゲットー(スラム)に生活します - 貧困、常なる格闘以外の未来は、ない。 ですね? それのどこに、正義があるのでしょうか。 インド人たちは、とても良い説明を持っています - ヒンドゥー教徒、です。 それは業です。 理解できますか。 いや、どうか、その「業」という言葉は、 行為するという意味です。 それに付けられた これらすべてのことではありません。 今、正しく行為すること。 なぜなら、今正しく行為するなら、未来は正しい。 または、今、あくどい行為をするなら、 次の日か来世に、つけを払う。 |
| 48:54 さて、世の中に正義があるでしょうか。 いかさま師は、利巧な弁護士を雇用し、 逃げおおせることができます。 これは毎日起きています。 あなたは利巧ですが、私はそうでない。 あなたは美しいが、私はそうでない。 あなたは、とてつもなく生きているが、 私はそうでない。 これらは事実です。 で、どこに正義があるのでしょうか。 いわゆる法律上の正義があります。 それは、実際の正義とは全然違っています。 自由と慈悲があるところにのみ、 正義は見つけられるのです。 その自由と慈悲は、 動きにおいて智恵ですが、 そこに正義があるのです。 その他で、世の中に正義はありません。 どうか、これは意見でなく、理論でないのです。 あなたが、この大いなる慈悲の感じを持つとき、 - それは全く深い問いですが - そのとき、その慈悲に、正義があるのです。 |
| 50:42 第三の質問: 「同性愛の事実に関して、 相当の困難を抱える人々が、多くいます。 幾世紀もの間、教師たちは、 この探究を回避してきました。 たとえ短くても、この問いに 何か光を照らしてもらえるでしょうか。 私は、この質問をするために、 二千マイルを旅してきました。」 |
| 51:10 同性愛の事実に関して、 相当の困難を抱える人々が、多くいます。 幾世紀もの間、教師たちは、 この探究を回避してきました。 たとえ短くても、この問いに 何か答えてもらえるでしょうか。 私は、この質問をするために、 二千年を、(笑)マイルを 旅してきました。 」 すみません。 全くそのとおり。 私は二千年を旅してきました! これは、何千年に何千年、 何千年もの問いでした。 何か新しいことではない。 私たちはこの事柄で、 どちら側にも味方していません。 それを非難しません。 是認も否認もしません。 これらは事実です。ですね? 52:26 異性愛は事実です。 同じく、世の中に、同性愛は存在します。 世界の様々な地域では、 ごくありふれています。 世界の他の地域では、実質的に知られていません。 で、あなたはこの問いに、どのように 答えるでしょうか。 問いは何でしょうか。 なぜ私たちはそれを、 こんなに巨大な問題にするのでしょうか。 見たところ、私たちは異性愛を、 全く問題にしません。 が、こちらを問題にします。 なぜでしょう。 それは事実です。 で、私たちはこの問いを、異性愛と 同性愛を、別々に探究すべきでしょうか。 どちらか一方を非難するのでなく、 一方を是認し、他方を否定するのでなく、 53:43 なぜ性というものが、どちらも、 途方もなく重要になったのか。 いいですか? なぜでしょう。 あなたが この問いに、答えてください。 テレビで、雑誌で、 ベストセラーすべてが、 この要素を、詳細に 抱えています。 毎日、です。 - 付いてきていますか。 私が、 これらをお話ししなくていいのです - 毎日、それは強調されています。 性というもの、です。 私は 同性愛や異性愛、一般的な性愛について 話していません。 なぜ人間たちはこれに、こんなに 大きな重要性を与えてきたのでしょうか。 それが重要でないなら、あなたは、 自分はどこか間違っていると感じます - すなわち、自分は神経症である。 自分は充足しなくてはいけない、と。 55:04 そうですね、心理学者から、専門家から、 性の分析者から、何ダースも何ダースもの説明です。 なぜでしょう。 それは楽しみでしょうか。 性の画像での想起でしょうか。 理解できますか。 なぜ人は、時代を通して、これに対して、 こんなにとてつもない重要性を、 与えてきたのでしょうか。 あなたは、それを奪われるなら、 何かひどいことが起きたと、感じます。 あなたは自発的に、「私はもうしないだろう。 私は禁欲して、僧院に加わるだろう」とも言えます。 僧院に加わらなくても、独身にとどまる。 禁欲の問題すべてが伴います。ですね? |
| 56:25 で、問いは何でしょうか。 なぜこのものは、生において、 こんな場所を与えられてきたのでしょうか。 それは、生の一部です。 ですね? 歩くこと、見ること、走ることの一部です。 笑いと涙。 それは、生の一部です。 しかしなぜ、この一つのことが、 重要性を帯びたのでしょうか。 それは、よく気をつけて奨励されています。 ですね? 娯楽産業によって、です。 どうか、これらに入ってください。 心理学者たちもまた、これを 奨励してきました - 「充足しなさい」と。 或る母親たちは、娘や息子が十二、十三歳の後、 57:40 ボーイフレンドやガールフレンドを持たないと、 何かが間違っていると、感じます。 これはすべて、世界で起きていることです - 特に、この国では、です。 インドや他の国々のような、伝統的な国々では、 いまだに、 「どうか待ちなさい。 耽ってはいけない。 あなたが二十歳や二十二歳になるまで、 待ちなさい」と言います - 何歳にしても、ですが。 |
| 58:18 で、これらを見て、 これらから何を学ぶのでしょうか。 学ぶのです - 道徳ではなく、 禁欲などではない。 これらから、何を学ぶのでしょうか。 さあ、みなさん! 世界中の宗教は、古代のものは、 - 私はそれらを、 すごく古代のものとは呼びません - ヒンドゥー教徒、仏教徒、キリスト教徒は、いつも 言ってきました - 「禁欲しなさい」 「神に従いたいなら、禁欲しなさい」と。 なぜでしょう。 彼らは禁欲の誓いを立てます。 僧院に加わり、僧侶になります。 インドでやるように、放浪の僧侶。 59:45 そして、これの責め苦を受けるのです。 いいですか? 彼らは誓いを立てました。 それを守らなければなりません。 彼らがなぜ初めに誓いを 立てるのか、私は知りません。 しかし、ひとたび誓いを立てたなら、 自分が受け入れたものに、 従わなくてはなりません。 しかし、心理的、内的に、分泌腺、 あらゆるものが機能しています。 あなたは、ひどい時を過ごします 語り手は、彼らのきわめて多くに、話してきました。 彼らは地獄の目を見ます。 宗教はそれをしてきました。 あなたはこれらをご存じでしょう。 |
| 1:00:42 そして、訊ねるのです - なぜ人は、自分自身に対して 言ってきたのでしょうか - 「一番崇高なものに到達するには、 禁欲しなければならない」と。 理解できますか。 すなわち、あなたは自分自身に 責め苦を与えなければならない。 苦悩を経なければならない。 すると、神に近づくだろう、と。 全体が、とても子どもっぽく 見えるのです。 ごめんなさい! 私はインドで、きわめて多くの サンニャーシたちに、僧侶たちに会ってきました。 その詳細には入りません。 彼らは、あらゆる形で自己に責め苦を与えます。 なぜなら、一般的な意見は、 神に到る、最高のものに到るには、 1:02:01 絶対的な禁欲生活を しなければならない、というものであるからです。 それは、人間たちは、きびしさが何かを 一度も理解しなかった、という意味なのです。 それに入ってもいいですか。 これらに飽きていますか。 あなたが飽きていても、私は気にしません。 たぶんあなたは、これらに入りたくないでしょう。 あなたは、大いに動揺させられるかもしれません。 どうか、動揺しないでください。 なぜなら、私たちは事実を扱っているからです。 |
| 1:02:53 きびしさ(オステリティ)は、何でしょうか。 そう、その言葉の根本的な意味は、 先日説明したように、 きびしい(オスティア)とは、ギリシャ語で、 口が渇いた、という意味です。 飲み物からではなく、 口が渇いた。 すなわち、きついこと、 鋭いこと、 乾いたこと。 それで次第に人間は、きびしくなければ いけないというこの観念を、持つし、 自己を灰に変えてきたのです。 理解できますか。 日から日、月から月、年から年へ、 自己に強制し、駆り立てているとき、 あなたはおしまいに、 乾いた人間になってしまいます。 あなたはまた、別方向に耽溺しても、 同じ問題があるのです。 |
| 1:04:22 で、葛藤なく生を 生きられるでしょうか。 理解できますか。 どの極端でもありません - それらは、葛藤という意味合いです。 感覚的要求と、 感覚的欲求の抑圧です。 その二つの間に、ただ一つの 闘い、努力、格闘もなく 生きられるでしょうか。 質問を理解できますか。 それは、大変な探究を必要とします - 欲望、意志、願いと 生物学的欲求の 問題全体への探究です。 理解できますか。 これを続けたいですか。 |
| 1:05:50 終わりに、とても良い問いがあります。 私は見たばかりです! 「どうすればこの地上において、その美しさへ・・・」 - どうか聞いてください - 「どうすればこの地上において、その美しさへ 害や破壊なく、他の人へ苦しみと死を もたらさずに、生きられるでしょうか。 」 「どうすれば、この地上において、 その美しさへ害や破壊なく、 他の人へ苦しみと死をもたらさずに、 生きられるでしょうか。」 |
| 1:06:36 しかし、私たちは、 先に話をしていた一つの問いを、 終了させなければなりません。 何時でしょうか。 もう十五分間、耐えられるでしょうか。 あなたは、語り手が働いているのと 同じく、働いているでしょうか。 それとも、聞いているだけでしょうか。 あなたの頭脳は、活動的で、働き、 探究し、疑い、 強烈に見出そうとしていますか - 生きる道、全然違った何かを、です。 |
| 1:07:34 私たちは言っていました - 葛藤なく生を生きることは、 欲望の問い全体への究明が、必要とされる、と。 それはきわめて複雑な問題です。 あなたは本当に、それらに入りたいですか。 いいえ、私は励ましから訊ねていません。 私はただ訊ねています。 私たちが行っていることは、とても真剣なことです。 単に聞いて反復するだけでは、 何の役にも立ちません。 全く意味がありません。 ですが、この世の中の事実が 何であるのかが見えると - 世界で実際に何が起きているのか、 この国だけでではなく、あらゆる国で、 1:08:47 あらゆるいわゆる文化で、です。 人の葛藤、抗争は、ますます増大しています。 減るのではない。 人(マン)は、女と男という意味です。 どうか、それに興奮しないでください。 「なぜ女について話をしないのか」と。 欲望の動きをとても深く理解しないのなら - その叙述ではなく、 その説明ではなく - なぜ欲望がこんなにとてつもなく 重要になるかを、探究するのです。 成功を収めたい欲望、お金を持ちたい欲望、 セックスへ、興奮へ、娯楽への欲望。 1:09:54 付いてきていますか。 そのものすごい衝動と速度、 そして、充足への要求。 またもや諸宗教は、「欲望を 抑圧しなければならない」と言ってきました。 それは、また別の闘い、 別の葛藤、別の責め苦という意味です。 そうですね、宗教は人間たちに、 荒廃を起こしてきました。 それらは今もそうしています。 キリスト教世界だけでなく、 全世界で、です。 イスラム教世界。 イランとイラクで 何をしているかを、見てください。 「それについて話をするな!」と。 |
| 1:10:52 で、欲望は何でしょうか。 どうか、理解してください - 私たちは、それを抑圧しようとか、 奨励しようとかしていないのです。 それは事実です。 事実は、私たちが欲望により 駆り立てられる、ということです。 それを阻むことは、痛みです。 ですね? 充足できないという感覚、です。 で、どんなつけ、どんな犠牲を払っても、 私たちは、欲望の充足がほしいのです。 あなたは、「神への欲望、理解への願望」と 言うかもしれません - それはやはり欲望です。 やれまあ、これらに入らなければなりませんか。 |
| 1:11:56 樹を見るとき - 樹の美しさ、 葉に照る光、 彼方の山々、谷、 陰と木漏れ日 - 大地の甚大な美しさが、見えるとき、 それは感受です。 ですね? 美しさは感受なのかという問いには、入りません。 私はそれに入りません。 それは別の問題です。 いや、問題ではない。 それは全く別のことです。 あなたがそれに入るなら、とても興味深いのです - 美しさは、感受でしょうか。 それらが、大地とその美しさが見えるとき、 1:13:02 それは感受です。 ですね? 視覚的な眼でもって、見える。 見えること、まさにその見えることが、 感受を引き起こします。 ですね? 美しい女や男を見ることが、 様々な種類の感受を、引き起こします。 そのとき、その感受は正確です。 ですね?正常で、健康的で、自然です - 麻痺して、盲目で、聾唖でないならば、です。 すなわち、敏感であるとき、 これらに鋭く気づきます。 これが見えます。 これらの知覚があります。 そのとき、何が起きるでしょうか。 あなたは、あれらの丘を見つめています。 1:14:28 あれらの丘が見えることが、 一定の感受を引き起こします。 そのとき、それへの次の一歩は、何でしょうか。 探究してください。 どうか、見つめてください。 そのとき、思考が入ってきて、言いませんか - 「あれは何と美しいものなのだろう」と。 ですね? そのとき思考は、その感受の中から、 イメージを創り出します。 ですね? 私は、事実でないことを、何も言っていません。 これは仮説や虚構ではありません。 感受 - 接触、感受。 そのとき思考が、その感受からイメージを作ります。 いいですか。 付いてきていますか。 思考が、その感受の中からイメージを作るとき、 1:15:46 欲望が生まれます。 感受は欲望ではありません。 感受は感受です。 しかし、思考が来て、「そうだ、 あれは何とすてきなものなのか」、 「あれは何とすてきなドレスなのか」と言うとき、 - 男であれば、すてきなシャツです。 または女は、「すてきなドレス」と言います。 店内に入る。 触れる。感じる。 それを着る。 そのとき思考は、 「何と私は美しく見えるのか」、 「それは私に合う良いシャツだ」と言います。 そのとき欲望が生まれます。 理解できますか。 これは事実です。 それは何か理論的なことではなく、事実です。 |
| 1:16:47 さて、問いはこうです - あなたが、はるかに深く入るなら、 感受 - 美しい絵画を見る。 美しく額に入れられ、 美しく照らされて、すばらしい。 それは感受です。 そのとき思考は、「私の部屋にあれを 持てたらいいのになあ」と言います。 そのとき、思考が、感受に対して 権威を帯びるとき、欲望が生まれます。 さて、問いはこうです - 感受と思考は、別けておかれるのでしょうか。 これに入ってください。 意志をとおし、強要、努力、 それらをとおしてではない。 私たちは、とても深刻で、 とても単純な問いを、訊ねています。 1:17:58 感受は自然です。思考もまた、イメージに関して、 幾らか自然です。 それが、起きることです。 さて、隔たり、間隔、隙間がありうるのでしょうか - 感受と思考が分離しているように、です。 理解できますか。 そこに何が含意されているかを、見てください。 それは、ものすごい注意を、大いなる見守りを 必要とします。 見る、感受 - 語り手は、世界で最も美しいものを 幾つか、見てきました。 美しい車、 美しい人々、 - どうか、私はそれを普通の意味で使っていません - 美しい人々。 1:19:07 まあ、気にしません。 で、この世界を見つめることは、 自然です - この甚大な美しさ、 破壊、人間たちが大地にやっていること。 そして、世界で最も美しい庭園、邸宅、 宮殿などの幾つかを、見る。 私たちはそれらに生活してきました。 そして決して、そのどれとも同一化されないこと。 ああ、あなたはこれらを知りません。 「それを持てたらいいな」と、けっして 訊ねたことがない。 理解できますか。 それには、大いなる知覚、 見守りと明晰さが、必要とされます。 |
| 1:20:19 このすべては、大いなる内的な学びの感覚、 という意味合いです。 それは修練です。 学ぶことが、修練(ディシプリン)です。 順応ではない。理解できますか。 |
| 1:20:38 第四の質問: 最後の問いです。 「どうすれば、この地上において、 その美しさへ害や破壊なく、他の人へ 苦しみと死をもたらさずに、 生きられるでしょうか。」 |
| 1:20:51 「どうすれば、この地上において、 その美しさへ害や破壊なく、 他の人へ苦しみと死をもたらさずに、 生きられるでしょうか。」 |
| 1:21:05 あなたは、この問いをしたことがありますか。 実際に? 理論的にでなく、実際にその問いを立て、向き合う。 それから逃げ去らず、 「それは必要なんだ」その他の説明をしないで、 見つめ、直面してください。 そういう問いを訊ねたことがありますか。 集団でではない。 国立公園やあれこれを 破壊したがる或る政治家へ 反対のデモ行進をするのではない。 こういう問いを訊ねること - それは、あなたがそれで 燃えている、という意味です。 それは何かものすごく真実なことです。 昼の時間を過ごすための、 ただの空想上の問いではない。 この地上に、そのとてつもない 美しさとともに、生きること。 1:22:28 それを破壊しないこと。 そして、悲しみを終わらせる。 他の人を殺さない。 他の一人を殺さない。 他の生きた人間を死なせない。 インドには、それらの人々が います - 一定の宗派です。 彼らの交通手段は、歩くことです。 彼らは、列車にも、航空機にも、 馬車にも乗りません。 歩くしかない。 彼らは、息を吸い込んで虫を 殺さないように、マスクをつけます。 理解できますか。 彼らの集団全体があるのです。 その集団の数人が、語り手に会いに来ました。 彼らは、800マイル(約1500キロ)を歩きました。 4月から1月まで、 歩く以外、何の交通手段にも乗らずに、です。 そして彼らは殺しません。 |
| 1:24:05 そして、殺す人たちがいます - スポーツのために殺す。 娯楽のために殺す。 利益のために殺す。 食肉産業全体。 ですね? 大地を破壊し、有毒ガスを投げ捨てる。 この国でそれらが起きているのは、ご存じでしょう - 空気、水を汚染する。 お互いを汚染する。 これが、私たちが大地と 私たち自身に対して、していることです。 |
| 1:24:54 質問者は訊ねます - 私たちは、大いなる美しさをともなう この地上において、他の人たちに 苦しみや死をもたらさずに、 生きられるでしょうか。 それはきわめて真剣な問いです。 他の人たちに苦しみを引き起こさず、他の人たちに、 死を引き起こさず、生を生きる - それは、人間を殺さない、スポーツのため、 食べ物のために、動物を殺さない、 という意味です。 これらを理解できますか。 これが問いです。 |
| 1:26:11 インドには、一定の時に、 一定の階級の人々が、いました。 彼らはけっして、肉を食べませんでした。 彼らは、殺すことは間違っていると、考えました。 彼らはその時に、 ブラーフミン(バラモン)と呼ばれました。 西洋文明は決して、探究したことがありません - 殺すことは正しいのかどうか、 どの生き物をも殺すことは、それ自体、 正当化されるのかどうかを、です。 西洋世界は、幾種族もの人々全部を、 滅ぼしてきました。 ですね? この国は、この国のインディアンたちを、滅ぼし、 消し去りました。 なぜなら、土地とそれらが欲しかったからです。 で、私たちはこの地上に、殺すことなく、 戦争なく生きられるでしょうか。 1:27:30 私は答えられます。しかし、それは あなたにとって、何の価値があるでしょうか。 なぜなら、あなたは殺しているからです。 私は菜食主義を提唱していません。 或る著者が、しばらく前に書きました。 切り抜きが、私に送られてきました。 彼は、「この国で菜食主義は、何か疾病のように 広がりつつある」と、書きました。 たとえキャベツを殺すとしても、です。 ですね? で、あなたはどこに、線を引くのでしょうか。 あなたは、それを問題にするのでしょうか。 質問は理解できますか。 あなたが戦争に反対ならば - 一定の人間たちはそうです。 語り手も含まれます - 戦争に反対で、いかなる理由のためにも、 他の人を殺すことに反対ならば、 手紙も投函できません。 1:29:04 あなたが買う切手、あなたの得る食べ物、 そのすべて、その一部が、防衛、軍備に行くのです。 石油を買うなら - この国では 「ガス」ですが - その一部分、 あなたの税金、その一部は、 そちらに行く、などなどです。 で、あなたは何をするでしょうか。 税金を払わないなら、罰金を取られたり、 監獄に送られたりします。 切手を買わないなら、 手紙を書けません。 旅行できません。 ですね? これらに付いてきていますか。 これはおもしろいですか。 で、あなたは自己を、窮地に追い込むのです。 窮地に生きることは、かなり無益に見えます。 で、あなたは何をするでしょうか。 あなたが、こう言うなら - 「私は旅行 しないだろう。私は手紙を書かないだろう。 1:30:18 これらは、陸軍と海軍を、軍備を、 国家を維持するのを助ける」と。 よろしいですか。 その仕事全部です。 またはあなたは、 違った接近を、するのでしょうか。 なぜ私たちは殺すのでしょうか。 宗教 - 特にキリスト教は、たぶん地上で より多くの人々を殺してきました。 人々を拷問にかけてきました。 彼らを異端者と呼んで、焼き殺しました。 その歴史すべてを、ご存じです。 イスラム教徒は、それをやってきました。 イスラム世界は、そうしてきました。 たぶんヒンドゥー教徒と仏教徒は、ただ一つの・・・ 彼らの宗教は、禁止するのです。 |
| 1:31:20 この地上でどうすれば、 他の人を殺さず、他の人に苦しみを 引き起こさせずに、生きられるでしょうか。 この問いにとても深く、本当に入るには - それはとても、とても深刻な問いなのです。 この問いに答えた愛の性質が、あるのでしょうか。 あなたは、他の一人を愛するなら、 他の人間を愛するなら、 その人間を、進んで殺そうとするでしょうか。 そのとき、何をも殺すのでしょうか。 一定の食べ物が要るの以外に、です - 野菜、ナッツなど、牛乳。 それは別として、あなたは何をも殺すでしょうか。 これらすべての問いに 入ってください。 それを生きてください。 後生ですから、それについて語らないでください。 |
| 1:32:52 世界を分割しているのは、理想です - 一集団に対立した一集団のイデオロギーです。 この永遠の分割、人、男と女などの 間の、見たところ永遠の分割です。 彼らは、論理をとおし、 理性をとおし、様々な制度、機関、 財団、組織をとおして、これに 橋を架けようとしてきました。 彼らはどの形でも成功していません。 これは事実です。 知識もまた、この問題を解決していません - 蓄積された経験などという意味での知識も、です。 確かに思考は、この問題を解決していません。 |
| 1:33:50 で、その中から、ただ一つの主題があるのです - 愛は何かを発見する、見出すことなのです。 愛は欲望ではない。 愛は所有ではない。愛は、利己的、 自我中心的な活動 - 私が一番で、あなたは二の次 - ではない。 見たところ、その愛は、 ほとんどの人々にとって、何の意味もありません。 彼らは、それについて本を書く かもしれませんが、それは何の意味もありません。 で、その性質が、あるのでしょうか - その香り、その火、その慈悲が、です。 慈悲は、自らの智恵を持っています。 それは至高の智恵なのです。 1:34:57 その智恵は、慈悲、愛から 生まれます。その智恵があるとき、 これらすべての問題は、 単純に静かに、解決されるでしょう。 しかし私たちは、けっしてその問いを、 まさに最後まで追求しません。 私たちはそれを、知的に、 言語的に追求するかもしれません。 しかし、あなたの心、 あなたの精神でもって、その裏に あなたの情熱をもって、そうすること。 そのとき大地は、美しいままに留まるでしょう。 そのとき自己に、 大いなる美しさの感覚が、あるのです。 |