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OJ84T2 - 楽しみのどこがいけないのか
第2回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1984年5月20日



0:59 もう一度、ご注意を申し上げてよろしければ、 これは講義ではありません。 講義は、教示、情報、指導を、 伝えたり、与えたりするものとされています。 で、これは講義ではありません。 私たちはともに、旅をしようとしています - 精神の広大な平原の中へ、 心理的な領域へ、です。 或る点までは、大変多くの記述、 究明がありましたが、 これらの講話では、ご注意を申し上げてよろしければ、 私たちは二人の友として、長い旅を、しようとしています。 心理の諸状態全部の領域の中へ、です。 もし時間があり、そのまさに最後まで行けるのなら、です。 何かの途中で - あなたが好きでないとか嫌いかもしれないもので - 止まってしまうのではない。 物事のまさに終わりまで、旅をしなければなりません。
2:51 私たちはまた、言っていました - すなわち、思考が世の中に、一番とてつもないことをしてきたということを、です。 テクノロジーの世界 - 中性子爆弾、ミサイル、コンピューターから、 コミュニケーションの全領域、 速い旅行など、です。 思考は、そのすべてに責任がありました。 また、大いなる外科手術、医療と 保健、衛生など - それが可能として、ですが。 しかしまた、思考は、大きな戦争をもたらしてきました。 おそらくここ百年で、 二回の恐ろしい戦争がありました。 それもまた、思考の結果です。 なぜなら、思考は人類を分割してきたからです - 地理的に、国家的、民族的にです。 また思考は、世界の人類を分割してきました - キリスト教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒、 イスラム教徒と、です。 私たちが言っていたように、分割があるところ 、 - アメリカ人とロシア人、 ヨーロッパ人と南アフリカ人などです - 葛藤があるにちがいない。 戦争があるにちがいないのです。 人々は、何千人ごとに殺し合っています。 殺すのは、歴史上、 ここ六千年間、続いています。 実質的に毎年、戦争があります。 人は、これら四万、五万年の間、 この進化の長い継続の間、 お互いに殺し合うのを、止めていないのです。 または、自然破壊を、止めていない- 特に今は、です。
5:53 思考は自然を創り出していません - 虎、狼と、 すばらしい樹々と花々を、です。 しかし、思考は、男と女との間に 分割を創り出してきました。 生物学的に、男女は異なっているけれども、 彼らの関係において、思考は、 大きな葛藤を、もたらしてきました - 誤解、けんか、 論争、敵意、憎しみを、です。 で、思考は、葛藤を生み育ててきました - 外的に、世界にだけではなく、 内的に、心理的な世界全体にも、です。 社会の外的構造の再組織より、こちらのほうが、 はるかに理解することが重要です。
7:10 社会は、私たちが作ってきたものです - 私たちの貪欲、野心、腐敗、 競争とその他すべてでもって、作ったのです。 で、私たちが、社会を作ってきました。 それは、崩壊しつつあり、 危険になろうとしています。私たちが人間として、 退廃しつつあり、危険になろうとしているからです - 殺す、誘拐する、テロを行う。 私たちは昨日、これに入りました。 私たちはまた、思考、考えることが、宗教的分割に、 責任があることをも、言いました - 分派すべてをともなうキリスト教徒のように、です。 思考は、寺院、教会、モスクすべての、 中の物事に、責任がありました。
8:21 思考は、記憶の結果です。 もしも、記憶がなかったなら、考えることはないでしょう。 記憶は、知識と経験に基づいています。 何についても、完全な経験はありません。 いつも、もっと多くが、あるのです。 もっと多くがあるところ、測量があります。 測量はけっして、完全でなく、全体的ではない。 それで、知識は制限されています - 今も、未来のいつも、です。 それに付け加えられるし、拡大できます。 しかし、まさにその拡大こそが、制限されています。 で、思考は制限されています。 利己性、自我本位の活動が、制限されているように、 それは制限されているので、 何をしようとも、思考は必然的に、 葛藤を創り出すにちがいないのです。 なぜなら、制限されているものは何でも、 宗教的でも、思想上でも、どの概念、 どの理想も、いつも制限されるでしょう。 ゆえにそれは、とてつもない葛藤を、生み育てるにちがいないのです - 人間たちの間に、です。
10:16 昨日は、それについて話していました。 私たちは一緒に、 旅を続けなければなりません。二人の友として、です。 生の道に関心を持ち、 自分たち自身で見出そうとする友達。 何も導師、権威やそれらのがらくたなしに、 自分たち自身で、生き方を、 見出すのです - それは芸術です。 人間たちに、大変な静けさと愛情と もたらすであろう芸術、です。 ・・・生の芸術です。
11:22 これら二人の友だち、あなたと語り手は、 一緒に、長く広汎な旅をしています。 一緒に、です。いつの時も、これを心に留め置いてください。 彼は自分の楽しみために、話していません。 なぜなら、そうしたいのなら、 自室で〔レコーダーへ〕できるからです。 二人の友として、 ためらいながら、何の偏見もなく、 探検し、 懐疑的で、問い、 疑い、客観的に 偏見なく、探検し、観察する。 ともに、です。 なぜなら、私たちは自分たちの生に、関心を持っているからです。 精神・心理(サイキ)の中へのこの探究は、 利己的活動ではありません。 自己中心的な、自我本位の動きを、 助長したり拡大したりしません。 反対に、 宗教的にも、教育をとおしても、 世界中で、 自我中心の活動が、強調されてきました。 キリスト教徒は、魂を信じています - 残りの人類より分離したものを、です。 ヒンドゥー教徒も、そうです -彼らのアートマンなどで、です。 個人性へのこの強調は、 大きな害、大きな競争、 残酷さを、もたらしてきました。 で、問わなければなりません 。 あなたと語り手は、これらを問おうとしています - 私たちはそもそも、個人であるのか、 または、共通の人間性を、分かち合っているのか - 悲しみ、 恐れ、楽しみ、心配、 憂鬱の人間性を、です。 そして、知られていないものの恐れ - 死です。 これが、この地上のあらゆる人間の共通した定めです。 この地上のあらゆる人間は、自分たちの神を、創案してきました。 それにより、或る種の安全、恐れからの逃げ道がありうるのを、 願って、です。 自分たちの複雑さ、自分たちの 痛みと心配を終わらせようと、 彼らなりに祈ってきました。 これは、人間すべてが、分かち合っています。 アメリカ人やイタリア人、ロシア人やイギリス人、インド人としての あなたではなく、 この地上のあらゆる人間が、分かち合っているのです。 友よ、あなたは知的に、その論理を受け入れるかもしれません。 しかし、論理、理性なるものは、 単に表面的なのです。 自らの血、全存在で、これの真理を 実際に感じるとき、 すなわち、私たちの意識は、人類すべてが分かち合っている、ということを、です。 あなたは、或る種の神、或る種の 救い主などを、信じているかもしれません。 しかし、その信念、信じることは、 あらゆる人間が、分かち合っています - 何かを信じることは、です。 で、あなたは人類です。 これは、大いなる真理です。 実際に、自分の心、自分の血、 自分の腸(はらわた)で、これを悟るとき、 大いなる何かです。 そのとき私たちは、世の中を全然、 違ったように考えるでしょう。 他の人を殺すことは、自己を殺すことなのです。 他の人を憎むことは、自己を憎むこと、などです。
17:17 そして、ともに、あなたと語り手は、 旅をしているので、 私たちは、修練とは何か、 超心理学とは何かを、 探究すべきです。 多くの人々が、超心理学、神秘学(オカルティズム)に 関心を持っています - 読心術と、クンダリニーの覚醒。 それらの種類のことを、聞いたことがあるでしょう。 見出すために、インドへ行く。 もし行けるのなら、チベットへ - もはや行けませんが。 または、この他のことすべてを見出しに、 日本へ行く。 語り手は、子どもの頃から、これらに関与してきました。 少し個人的になるのを、許してください。 彼は、それらについて、大変多く、または幾らか知っています。 しかし、これらすべてのことは、 心地よい一日や、すてきな午後に似ています - それは過ぎ去ってしまいます。それらは全く、いかなる重要性もありません。 重要であり、一番本質的なのは、 これら神秘的なことではありません。 それらは全く神秘的でないのです。 自ら身体的にも、 とても敏感であり、 ごくごく静かな静寂な精神、頭脳を持っているなら、 他のすべてのことは、可能です。 可能なことは、理解でき、超越できます。 すなわち、時のないもの、度量を越えたものを、 見出すことのほうが、 はるかに重要です。 これら子どもっぽいことに耽ることよりも、です。
20:08 また私たちは、ともに話し合うべきです - 修練、規律は何でしょうか。 なぜ人間たちは、ますます秩序の感覚を、持っていないのでしょうか。 どうか、これはお説教ではありません。 それなら、退屈でしょう。 語り手はあなたに、何をすべきか、何を考えるべきかを、語っていません。 ともに観察しよう、物事を ありのままに見よう、と語っています - あなたや語り手が願うように、ではなく、 そのとおりに、正確に、 直接的に、物事を ありのままに、見るのです。 私たちは、たいへん無秩序な世界に、生きています - 混沌とし、矛盾し、残酷な世界です。 これは、長い、四万年の 進化の結果でした。 私たちは、この混沌状態に来ました。 それを観察するなかで、秩序は何でしょうか。 そもそも秩序があるのでしょうか。 それとも人、人間は、永続的に 無秩序に生きなければならないのでしょうか - 外面的にだけでなく、内的にも、です。 無秩序は、私たちの定めのように見えます。 はっきりと客観的に考えることは、ほぼ不可能に見えます。 なぜなら、私たちの一人一人が、自分の特定の道筋、 自分の充足、 自分の野心などを、望むからです。
22:47 で、秩序は何でしょうか。 そして、修練への秩序の関係は、何でしょうか。 修練(ディシプリン)という言葉は、語源的に、 「学徒(ディサイプル)、学ぶ人」を意味します。 それは、「学徒(ディサイプル)」という言葉から、来ます。 学徒は、学んでいる人です。 順応しているのでなく、反復しているのでなく、 標語を繰り返しているのでなく、 常に学んでいるのです。 で、学ぶというのは、どういう意味なのでしょうか。 あなたは学校、専門校、大学に行くとき、 書物から、教授から、 教師から学びます。そして、記憶します。 その記憶は、一定の点までは、必要です - 職業、仕事を持つためです。 その記憶を上手に使うのか、だらしなくか、です。 で、私たちが理解するかぎり、学ぶことは、一般的に、 記憶することです。 数学について、またはコンピューターでも、 何でもいいですが、本を読むなら、 それについて記憶し、そこから行為します。 で、それは機械的になるのです。 で、学びはあるのでしょうか。
25:02 どうか、語り手とともに、探究してください。 彼は、友に訊ねています - 一緒に歩んでいる友、 旅をしている友に、です。 彼は訊ねています - 実際に、学ぶとは何でしょうか。 それは単に、記憶が作動することでしょうか。 様々な主題について、大変な 情報、知識の蓄積でしょうか。 それらには、独自の修練、独自の道があります。 次第に頭脳は、 一定の範疇、一定の轍(わだち)に 従います。 それで、それら轍と範疇と専門化は、 知識、記憶を集積する手段、 その記憶から作動する手段に、なるのです。 これが、学びと呼ばれているものです。 しかし、学びはまた、 常の動きをも、含意しています - 数学、地理、歴史やコンピューターの 知識の重荷を負っていない だけの頭脳ではなく、 頭脳はまた、活動的で、探究し、 問い、疑っていなければなりません。 この過程をとおして、けっして・・・ 私は正しい言葉を探しています。 けっして、静止状態がないのです。 知識は、静止します。 大変多くを蓄積してきたとき、 それは反復的になり、静止します。 ですが、学びは動きです。 ゆえにけっして、静止していなくて、生きています。 よく気をつけて、これを理解しなければなりません。 なぜなら、私たちの一人一人は、 自己、「私」、ペルソナとか、 精神・心理(サイキ)へどんな名をつけようと、 記憶の束であるからです。 私たちは、自らが大いなる霊的実体とか神とか、その他すべての 事柄であると、考えるかもしれません。 だが、それはやはり、記憶です。 私たちは、記憶の束なのです。 その記憶へ、私たちはいつの時も、付け加えています。 ですが、それの本質は、静止しています。 ところが、学びは - 知識を蓄積するだけでなく、 常に知識を離れ、さらに 動くことが、 学びの行為です。 その学びは、自らの修練をもたらします。すなわち、秩序へです ゆえに、秩序は生き物です。 順応や様式や、様式に従うことではありません。 それは、あなたが来る日も来る日も変化する、という意味ではありません - それは、あなたたちがみんな、やっていることです。 様々な流行り物を追いかけています。 ですが、学ぶとは、ものすごい観察、という意味合いです - 動機なき観察、です。 動機を持ったとたんに、その動機は静止します。 なぜなら、その動機は、記憶から生まれたからです。
30:06 友がこれらに付いてきていることを、私は願っています。 付いてきていないなら、友は「あんたが一体何を話しているのか理解できない」と言います。 私たちはみな、動機により生きます。 性的な動機、楽しみの動機、 ほしい、満足、達成の動機 - 啓明、そうですね、覚りの達成。 そのすべてです。私たちは、動機により生きます。 そしてあなたは、何か真実なことか、 全く無意味なことを、言っています。
30:56 「動機」という言葉、その言葉の根本の意味は、「動く」ことです。 動くこと - 特定方向にでなく、 自己中心の自我本位の欲望ではない。 これは難しくなります。 言いましたように、 動機は、記憶から生まれます。
31:34 ですね? なぜなら、私は、自分に欠けている何かを、ほしいからです。ですね? それが、動機の一つの形です。 私は名声を達成したい。 おぞましい新聞に載りたい。 有名になりたい。権力、地位。 あらゆる人が、「あんたは、すばらしい人だね」と言う。 動機があります - それは、私たち自身の記憶と欲望の投影です。 ゆえに、その記憶は制限されていて、ゆえに、静止しています。 いいですね?友よ、理解されましたか。 彼は言います - 「進んでくれ。私は、あなたが話していることを、つかもうとしている。 でも、これは、生きることは、可能なのか」と。 そして、常に学びがあるように、 生きることは可能なのか、と訊ねます - ついに、 全く学びがない点に、到るまで、です。 なぜなら、学ぶべき何があるのでしょうか - 数学、工学、科学などを 除いて、です。 テクノロジーの学び、です。 それらは別として、学ぶべき何があるのでしょうか。
33:23 「どうか、分かってください。 友よ、ゆっくり進んでください」と、 彼は、私に、語り手に言います。 「ゆっくり行ってください。私は、私の頭脳は、 あなた自身ほど、速く働かない。」と。 それはお世辞の形態ですが、語り手はそれに陥ろうとしていません。 で、彼は、 「もう少し説明してください」と、言います。 なぜなら、私たちは秩序について、話しているからです。 この秩序が理解され、生きられるのは - 単に知的に理解されるだけでなく、 日々の生で生きられるのです。 その秩序は、 記憶という自己の静的な動きが、 その動機とともに、もはや作動していない ときにだけ、来るのです。 なぜなら、自己は記憶の束であるからです。 私は友に、語っています。 あなたが自己を見守るなら、自分が記憶の束であることが、分かります。 それら記憶へは、大変多くを付け加えられます。 でも、それはやはり記憶です。 ゆえに制限されていて、ゆえに静的です。 何でも静的なものは、動いているものと、 葛藤を創り出すにちがいありません。 で、見出しましょう。 語り手は友へ、見出すよう、 語っています - あなたは、 動機なく生きられ、それでも、いつの時も学べるか、と。 そしてついに、もはや何も 学ぶことが無い時点に、来るのです。 私たちはまもなく、それに入るでしょう。 それで、完全な秩序があるように、です。 私たちのほとんどにとって、秩序は、順応、反復、 調整を、意味しています。 いつも中心から調整です。 で、秩序は、青写真ではなく、 生き物です。 その秩序は、とてつもない安定の 感覚を、もたらします。 大いなる強さを、与えます。 そこからは、 大地から木々が育ち、 あらゆるものが、育つように、 この大いなる安定の感覚、 強さから、他のあらゆるものが、流れてきます。
37:19 で、友は言います - 「すべてすばらしく聞こえる。言葉としては、ね。 でも、あなたが話していることを、すっかり捉えきれない。 漠然とは理解できる。 おそらく、いつの日か捉えるだろう」と。 語り手は言います - 「いつの日かには、決して捉えないでしょう!」 「あなたは今、捉えるのか、または、 今、理解しないなら、 明日、決して理解しないでしょう」と。 なぜなら、「今」は時であるからです。 「今」は、すべての時を、含んでいます - 過去、現在、未来を、です。 ですね? 今あるもの、今のあなたは、 明日のあなたであるでしょう。 あなたが今、根本的に変化しないなら、 未来は、今のあなたです。それは明白です。 で、未来は現在です。 そして現在は過去です。 で、現在、今は、すべての時を、含んでいます。 友が、「それについて考えてみますよ。おそらく 最後には、つかむでしょう。」と言うとき、 彼は単に、先送りしているだけです。 「今」の内容全体に、注意を払っていないのです。 「今」 - すなわち注意です - それが、秩序です。
39:25 で、次のことへ、行きましょう。 友は、訊ねます - 「私が生涯をとおして、楽しみを探し求めてきたのは、 なぜなのでしょうか。」と。 楽しみは、人生において、一番重要なものであると、見えます。 楽しみのどこが、いけないのでしょうか。 人間たちが絶えず、それを追いかけるのは、なぜでしょうか。 セックスをとおした楽しみ、 所有をとおした楽しみ、 権力、名声、悪名をとおした楽しみ。 書物を書くことからの楽しみ。 それは失敗作かもしれない。 人々は買わないかもしれない。 でも、それを書く楽しみ。 楽しみは、人類の共通の定めのように見えます。 なぜでしょう。 なぜそれは、こんなに重要になったのでしょうか。 どうか探究してください - 語り手は、友に、探究するように、と述べます。 「ええ、楽しみがなくてはならない」と、言わないでください。 私たちはいつも、楽しみにより生きてきました。 充足、満足、 達成 - 楽しみの別の形です。 でも、私たちがそれにすがりつくのは、 永続的にそれを追いかけるのは、なぜでしょうか。 私たちは、ドラッグ、アルコールをとります - その悲惨すべてとともに、です。 でも、それは楽しめます。 楽しみの即時性。 理解できますか。 楽しみの先延ばしではない。 いいですね? すなわち、今、楽しみがあるところ、その瞬間に、 思考の干渉や解釈は、ないのです。 楽しみ - 楽しみがある瞬間、 二、三秒後に、 思考が、その楽しみの、その感受のイメージを、 創り出します。 それから、それを追求します。 いいですね?友よ、理解しましたか。
42:39 それで、またも思考は、その瞬間のイメージを創り出す - 日の入りのとてつもない美しさを、見る - 夕方の金色の光すべてが、ともなう。 日の入りの大いなる美しさと静けさ。 緑の光がともなう 。それは、めったに起こりません。 それへの即時の知覚がある。 そのとき思考は、「あれは何とすばらしかったのか!」と言う。 「何と美しい!何ととてつもなく命に満ちていたのか!」と。 それはイメージを、創り出しました。 翌日、もう一度それがほしい。 ですね? で、思考、考える過程の理解が、 とてつもなく 重要になるのです。
43:57 というのも、恐れは、私たちの生の要因の一つです - 楽しみのように。 おそらく恐れは、楽しみより大きな要因でしょう - 楽しみがないことへの恐れ。 で、友は言います - 私たちは、この恐れの問いに、入れるでしょうか、と。 また探検する中で、彼は言います -「それはいったい終わるのでしょうか」 「それとも恐れは、永久に人類の重荷でなければならないのでしょうか」と。 で、一緒に、友よ、私たちは見出しましょう。 語り手が教示しよう、あなたは従う、というのではない - それは、かなり子どもっぽく未熟になります。 むしろ、一緒に、あなたと 語り手は、 この恐れの問いに、入るでしょう。
45:22 人は、何千年に何千年間も、恐れとともに、生きてきました。 自然への恐れ、雷雨、 闇への恐れ、 生(せい)のまさに存在への恐れ、 隣人へ、 妻や夫への恐れ、 達成しないことへの恐れ、 失敗者であることへの恐れ - 特にこの国では。 ここでは、成功が崇拝されるのです。 みなさん、成功がほしくないですか。 もちろん、みんな、ほしいのです。 私たちのほとんどは、幸か不幸か、 大した成功者ではありません。 例外は、おそらくわずかな政治家と、 お金を貯める導師たち - 彼らの戯言がともないます - そして、福音主義者などなどです。 そうですね、気づいたことはありますか - カトリックの世界は、 世界最大の不動産の人たちです。 彼らは世界中に、大量の土地を持っています。 そして、達成、成功、 愛されたいとの願い、 そして、自分が愛されていないことを、知る。 恐れ、苦々しさ、心配、憎しみ。 で、私たちはともに、恐れの問いに、入るべきです。 単に説明や叙述ではない - それらはとても欺瞞的です。 なぜなら、人々は一般的に、 叙述と説明に捕らわれるからです。 それで、けっしてその根に、行き着きません。
47:55 友は言います - 「その根に、行きましょう。 なぜなら、私も説明にはうんざりしているからです。 私は、心理学者、その他へ行けますが、 それら説明は、私から、恐れの感覚を 完全に根絶しなかったのです。 で、私たちがごく深く、それに入らないのなら、 単なる説明は、ほとんど価値がありません。 その感じ、その性質、その構造 - なぜなら、恐れがあるところ、 永久に安全を探し求めることがあるからです。 恐れは、世界の神と救い主すべてを、創り出してきました。 恐れを全く持たない人、 生物学的にも、心理的にも、 持たない人には、神はありません。 なぜなら彼は、宗教的精神の本質を持っているからです。 それには、後で入りましょう。
49:18 で、ともに、それの根が何かを、見出しましょう。 あなたは見出すでしょうか。 それとも、語り手が見出して、それをあなたに語るのでしょうか。 その意味は、あなたの頭脳は、 - 語り手は友に訊ねています - あなたの頭脳は、見出すほど活動的で、 情熱的で、エネルギーを持っているのか。 それとも、あなたは単に言葉の上で、 何かを見出したがっているだけでしょうか。 しかし、あなたが、その見出す強烈さを、持っているなら、 私たちはともに、それに入るでしょう。
50:18 まず最初に、恐れの要因としての時。 時 - 昨日としてのそれについては、 知られています。なぜなら、昨日の記憶が 頭脳に蓄えられているからです。 そして、明日は不確かです。 明日は、千の明日へ進展するかもしれません。 でも、明日は不確かです。ゆえに、恐れがあります。 私は失うかもしれない。私は得ないかもしれない。 さびしい目に遭うかもしれない。 絶望し、心配だ。 で、時は恐れの要素です。明白です。 で、時は何でしょうか。 私たちの生において、時がこんなに重要になったのは、なぜでしょうか。 言語を学ぶ時、 女と婚約する時、 何らかのことに熟達するための時、 手紙を書く時。 でも、コンピューターも、あなたの時を、取り去ろうとしています。 なぜなら、それは物事を、とてつもなく速くできるからです。 今が、コンピューターについて話すべき瞬間なのか、分かりません。 おそらく話すでしょう。 なぜなら、かなり興味深いからです。
52:12 私たちはそれについて、専門家たちに話してきました - コンピューターを製作している人たちに、です。 それらは、人のできることは、ほぼすべて、できます - おそらく、他の人へ愛情をもつこと以外は、ね。 作曲、作文等々ができます。 そうですね、それには入りません。 それはロボットを使って、車を組み立てられます。 日本、ドイツとここで、 様々な工場で、幾らかやっているように、です。 で、コンピューターはプログラムできます。 私たちがプログラムされているように、です - キリスト教徒であり、ヒンドゥー教徒であり、アメリカ人であり、 専門家であるよう、私たちはプログラムされています。 頭脳は、プログラムによって機能します - それが記憶です。 コンピューターは、とてつもない速度で、これらをできるのです。 IBMは近頃、そのチップを発見しました - あの小さなチップに、百万の記憶です。 それは計算できます。付け加えられます。 それは、とてつもないことをできます -コンピューターは。 で、人間たちの頭脳に、何が起ころうとしているのでしょうか。 質問は理解できますか。
53:55 私たちの頭脳は、付け加えるのと 差し引くことに、活動的でした。 お店、スーパーマーケットでは、付け加えなくてはいけません。 付け加えるよう、頭脳を働かせ、使わなくていけません。 しかし、ボタンを押して、コンピューターが付け加えすべてをやるとき、 あなたは全く考えません。 で、頭脳には、何が起ころうとしているでしょうか。 脳は、ますます、 活動的でなくなりつつあります。 ますます機械的になり、制限されていきます。 コンピューターがほぼすべてのことをできるとき、 脳は、今起きているように、きわめて急速に退廃するのか - 私たちのほとんどは、全然それに気づいていません。 または、果てしなく、娯楽で楽しまされるのか。 娯楽産業は、無際限に強いのです。 娯楽産業は、映画、雑誌、 そのすべてだけではありません。 宗教的な娯楽も、です。 そのことで、うろたえないでください。 それもまた、娯楽の一部です。 なぜなら、それは、私たちの日々の生活と、何の関わりもないからです。 で、コンピューターは、頭脳の 衰えゆく状態をもたらすかもしれません。 で、娯楽産業が、取って代わります。 それは今、起きているのです。 どうか、お願いですから、気づいてください。 または、私たちは、精神・心理(サイキ)の広大な全領域を、持つのです - 究明し、違ったように生きるために、です。 これら二つの可能性が、あなたたちに開かれています。 人は、今のとおりなので、必然的に娯楽を選択するでしょう。
56:24 で私たちは、戻って、見出さなければなりません - 恐れの根は何なのか。 私たちは、時だと言いました。 時は、一番とてつもない複雑なものです。 私たちは、時により生きます -一定の時に、昼食へ行かなくてはいけません。 時は、現在に含まれます - 未来、過去、 時の動き全体が、今なのです。 見つめるなら、です。 なぜなら、明日は、今のあなたであるからです。 あなたが今、怒り、憎み、暴力的なら、 明日あなたは、まさしく同じになるでしょう。 おそらく、わずかに修正されたり、拡大したり、です。
57:26 で、未来は今なのです。 どうか、これの真理を、それの事実を、 友よ、見てください。 で、あなたが、根本的、根源的に、 全的な心理的革命を 自らに、もたらさないなら、 明日、あなたは同じでしょう。 で、時は、人の敵なのです。 どうか、見てください。 で、時は恐れの要因です。 私は仕事を持っているが、失うかもしれない。 妻が、私を一人残して、逃げ出すかもしれない。 嫉妬、その他すべてが、続きます。 で、時は、恐れの基本的、根本的な原因です。 時はまた思考です。 どちらも動きです - 心理的にも、 外面的にも、です。 で、時、思考が、恐れの根なのです。 それは事実です。
59:13 そのとき友は、訊ねます - 一体全体どうやって、時、思考を止められるんでしょうか。 私にできるでしょうか。 私は出勤しなくてはいけません。 そこでは時が必要です。 しかし、時は - あなたは私に言っています。 内的に、心理的に、なるため、 あるため、駆り立てるため等に、時が使われるとき、 その時は、敵なのです。 なぜなら、明日は、今あるあなたであるからです。 ゆえに、今、深遠に変化しないのなら、 明日は敵なのです。
1:00:04 で、恐れは - 私たちはみな、それによく気づいています。 この地上のあらゆる人間は、恐れを知っています。 その災難、その悲しさ、 恐れの残虐性。 それが、起きつつあることです。 イデオロギーの残虐性 - (ソビエト)ロシアのイデオロギーと、民主主義のイデオロギー。 そうです。よく気をつけて、覗いてください。 で、時、思考が、恐れの根です。 友は訊ねます - 「私はどうやって、 この時と思考の動きを、止めるべきでしょうか」と。 すると語り手は、それは間違った問いであると、言います。 間違った問いをするとき、 間違った問いに、答えはありません。 正しい問いをしてください。 すなわち、あなたは、時と思考の事実、 実際が、見えるでしょうか。 観念としてでなく、事実、です - すなわち、あなたは、今のあなたになるのです。 事実が見えるなら - 観念をとおした事実ではない。 理解できますか。 私たちの頭脳は初めに、観念を捉えます。 それから観念を、事実に適用します。 ギリシャ語などで「観念(アイディア)」という言葉は、 他の異なった意味を持つだけでなく、 「観念(アイディア)」は、観察するという意味です。 観察をとおして、結論に到るのではなく、 ただ観察する。 そのように深く、熱情と強烈さをもって、 観察するとき、 - それは、あなたの注意を時と思考に向けることです - そのとき、恐れはまったくないのです。
1:02:57 友は言います - 「あなたが 表現しているこの瞬間には、理解できます。 あなたの強烈さが助けてくれます」と。 でも、それに依存しないでください。 で、見出してください - 自分が、その最後まで行くこのエネルギー、 活力、強烈さを持っているなら、です。 恐れの中へ、旅の終わりへ、です。 それは、いつの時も、同じ強烈さを維持しなければならない、という意味です。 どの瞬間にも緩まない。 同じ強烈さ、同じ動きで、 行きなさい。 その終わりに来るまで、です。
1:04:06 しかし、私たちのほとんどは、エネルギーをむだにします - おしゃべりをとおして、です。 果てしないおしゃべり、噂話、批判、陰口。 また葛藤においても、エネルギーを、むだにします。 お互いとの永続的なけんか、です。 私たちは、「何かになろう」として、エネルギーをむだにしています。 何かになることは、そもそも無いのです。 ただ、「有るもの」だけがある。 そして、「有るもの」の完全な変化が、です。 そのとき、言い表せないエネルギーがあります。 もっと悪さをするためではなく、 日々の生を、大いなる愛と 慈悲と智恵をもって、生きるように、です。
1:05:26 今日は止めましょう。 土曜日と日曜日に継続しましょう。 次の土曜日と日曜日です。 でも、火曜日と木曜日には、質問を受けるのだろうと、思います。 或る人たちが、出してくれているものを、です。 そして、語り手からの答えです。 答えではない。私たちはともに、これら疑問を究明しようとしています。