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OJ84T3 - 注意は火のようである
第3回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1984年5月26日



1:01 何とたくさんの人々がいるんでしょうか! 私たちは話していることに、 本当に関心があるのだと、思います。 そういうわけで、あなたはここにいるのです。 何度も繰り返しましたが、これは娯楽ではありません - 知的な 言葉のひねりと当てこすりでもない。 ロマンチックな理論と、思弁と、 感傷的な戯言でもないのです。 私たちは事実を扱っています。 言いましたように、事実は、起きてきたことと、 今起きつつあることです - それらが、事実です。 明日、起ころうとしていることは、事実ではない。 または、千の明日でも、です。 私たちは事実を扱っているだけです。 それら事実を深遠に理解できるなら - どの特定の観点、特定の偏見や 方向からでもありません - そのときおそらく、事実を近くで気をつけて 検討できるでしょう。 表面的にだけでなく、 また深遠に、深く、です。
3:10 私たちが言っていましたように、これらの講話の間、 私たちはともに旅をしています。あなたと語り手は、 とても長い、幅広い旅を、です。 - 未来へだけでなく、現在へも、です。 指摘しましたように、現在は時のすべてを含んでいます。 現在は、過去だけではない - 頭脳に蓄えられた記憶すべて、 記録された出来事すべて。 その過去は今でもある。 それは相当に明白です。 未来は、今あるものです。 未来は、おそらく わずかに修正されるでしょうが、 まさしく現在、今にあるのです。 それで、今の自分が、 明日になるでしょう - 千の明日に、です。 根本的な心理の革命が無いならば - 進化(エヴォルーション)ではなく、 革命(レヴォルーション)、 変異、深い根源的な変化です - (それなしでは、)明日はまさしく、今の私たちになるでしょう。 それで、時のすべて、過去・現在・未来は、 今に含まれています。 これは理論でなく、 思弁的、哲学的概念でなく、現実です。 自己をよく気をつけて見つめるなら、 起きつつあること、 今起きていることは、私たちが何千年も何千年も、 運んできたことです - 心理的に、また生物学的にも、です。 その過去の重荷が その記憶、経験、知識すべてともに、 今です。今の私たちです。 私たちは明日、今の私たちになるでしょう。 で、今は時のすべてを含んでいますね。
6:50 それへの関係で、行為は何でしょうか。 すべての時が今にある、 現在にあることは、事実です。 そのとき、行為は何でしょうか。 理解できますか。しばらくこれで進みましょうか。 どうか、私たちはともに究明しています。 語り手は、教示や情報提供をしていません。 私たちは一緒です。あなたと語り手は、究明し、 探検し、検討しています - 分析はしていません。 分析と知覚の間には、違いがあります。 分析は分析者を含意しています。 分析者は過去です。ですね? 彼が、現在を、今起きていることを、検討しています。 今起きていること、 または、心理的に起きつつあることは、 観察者が何であったのか、または、何であるのか、です。 私たちは一緒にここにいるでしょうか。 観察者、分析者は、 情報、知識、出来事、経験の 多大な蓄積の結果です。 で、分析者は、今起きていることを、検討しています。 または、起きたことを、検討しています。ですね? で、分析者は、分析されるものです -こちらは現在です。 私は自分自身に話しているんでしょうか。 それとも、私たちはこの事柄で、いくらか一緒にいるんでしょうか。
9:33 これはかなり、理解するのが重要な問いであると、私は思います。 なぜなら、分析者が、分析されるものから 分離したものとして分割されるとき、 その分割過程には、 矛盾があり、葛藤があるからです。 抑圧があるか、 外の何かとしての検討が、あるのです。 しかし、分析者は分析されるものです。 自分が暴力的であるとき、 暴力があって、暴力を分析するとき、 きわめてたやすく暴力を分析できます。 遠い従兄弟、類人猿から 今まで、 私たちは暴力すべてを、継承してきました - 数千年の暴力すべての継続などを、です。 暴力はたやすく検討、分析できます。 暴力は、検討者、分析者から異なっているのでしょうか。 分析者もまた、その暴力の一部ではないのでしょうか。いいですか?
11:14 で、分析者は、分析されるものです。 それは、分析者から分離した何かではない。 ゆえに、分析と分析者の間に 分割は無い。それらは一つです。 それが理解されるなら、 分割があるときだけ、葛藤は存在します - あなたの野心と他の誰かの野心の間の分割、 あなたと夫や妻、隣人などとの間の分割、 国をとおし、宗教をとおして もたらされた分割など。 心理的にだけでなく、言語的にも、などです。 で、分析者は分析されるものです。で、私たちは、 分析していないと言いました。 私たちは直接的に知覚しています。 これは私たちにとって、幾らか明らかですか。 そこからさらに行けますか。 これについて一緒に、すっかり単純に、話し合えたらなあと、思います - あなたがそこに座り、語り手が演台の上に座っているのでなく、 存在の問題全体を、見つめている二人の友、です。 仲良く、愛情と気づかいの感覚で、 人のこの苦労すべて、お互いの苦労を見ています。 そうするのは、とても単純でしょう -良い対話をするのです。 でも、ここにあまりに多くの人たちがいるとき、 不幸にもそれは可能ではありません。 でも、一人の人物としてのあなたと、語り手は、 ともに考えられるのです。 どんな特定の線や 特定の視点に沿ってでもなく、 自分の意見を強めるのではなく- それは頑固さになります - むしろ、しばらくの間、お互いを知り合っている 二人の友として、です。 言葉の意義を理解するだけではなく、言葉を越えるのです。 もしも、ともにそれができたなら、 知覚するのは、とてもたやすくなります。 私、語り手が知覚して、特定の形で知覚するよう あなたを説得しているのではない。 その知覚する中、 あなたと語り手は消え去ります。 なぜなら、私たちはただ知覚しているからです。 でも、その知覚への動機、方向づけ、 偏屈、頑固の感覚があるとき、 知覚は歪曲されるのです。 ゆえに、あなたはもう一人とは違った知覚をします。 これが明らかであってほしいと思います。
15:36 で、私たちは訊ねています - すべての時が、今、現在にあるとき- それは、事実です。 抽象概念、イデオロギーや 何か理念ではなく、事実です。 その事実があるとき、行為は何でしょうか。 理解できますか。 これは、理解するのが重要な問いです。 私たちはまた、ともに話し合おうとしています - それだけでなく、なりゆく、という問題全体を、です。 心理的に(なりゆく、ということを)、です。 そのなりゆくのとの関係で、行為は何でしょうか。 また、私たちは、時間があれば、苦しみについて、ともに話し合おうとしています。 おそらくそれは、生の、日常生活の一部分です - 死です。 死は、陰鬱な出来事でなく、 人生でとてつもなく重要な問題です。
17:14 で、私たちは、ともに話し合おうとしています - 行為、日々の行為と、 なりゆくという問い、です。 そのなりゆく中、私たちはみんな、安全でいたいのです。 安全は、私たちみんなにとって、まさに本質的です。 頭脳は、完璧に安全でないなら、 その能力、エネルギーと駆動をもって 充分に機能できません。 ですね? ちがいます? 千の問題があって、自らが混乱し、 不安定であるなら、 頭脳はどうして安全でいられるでしょうか。 ほとんどの人々のように、きわめて多くの幻想を持っているなら、 頭脳は、ガタゴトとし、不安定で混乱します。 で、頭脳が効果的に機能するには - テクノロジー的にだけでなく、 はるかに深刻に、すなわち心理的に、です - 頭脳は、とてつもない安定性が必要です。 頭脳は絶対的に明晰で、 堅固でなければなりません。揺らいではいけません。 あなたが辛抱できるなら、私たちは、それらに入るでしょう。 でも、あなたは興味がないなら - なぜなら、あなたは多くのことに興味があるからです - ボート乗り、ドライヴ。読書への興味。 しかし、注意を払うことは、 興味とは全然違っています。
19:51 私たちのほとんどは、おそらくほぼみんなが、 心理的に何かになろうと試みています。 外面的には、 学生がエンジニアになっていくのは、 理解できます。 彼はエンジニアになり、生計を立て、 ますます、機械工学の熟達者になりつづけます。 心理的に私たちは、同じ概念を持っています - 「今私はこれであるが、 私はあれになるだろう」というもの、です。 ですね? 私は(聴衆の)誰かに話をしましょう。いいですね? 語り手に同意しないで、問い、疑ってください。 心理的に、誰にも 従わないでください。 もちろん、あなたは病気であるなら、医師の指示に従わなくてはいけません。 でも、心理的、内的に、 どの種の権威、どの種の専門家、熟達者にも 服従することは、 自分の知覚の 真正さを破壊します。 心理的に、私たちはみんな、何かになろうと試みています。 ですね?それは明白な事実です。 自分は貪欲である。または、暴力的である。 そこで、そうならないようにしている。 それが、なることです。 戦争があります。 国際連合とそれら組織すべてをとおして、 私たちは世界を統合しよう、 未来に何かになろうとしています。 様々な諸国が統合されるという矛盾した本性には、 私は入りません - それは不可能です。 それは、政治活動です - 自分の野心、特定体制の永続化に 関心を持つ人たちの活動です。 でも、私たち一人一人の側に、 いつも試みがあることは、見えます - すなわち、私たちは これからあれに変化したいのです。 「あれ」、未来は、時の中にある。 はるか遠くか、ごく近くか。 でも、それはやはり、なりゆく動きです - 得たり、失ったり、賞や罰を受けるのです。 このなりゆく過程全体 - いつも、意図をもち、動機をもち、 より良く、より多く、 得ること、失う恐れ。 それは明らかです。
23:53 さて、何かになることには、 時が関与するというのは、事実でしょうか。 いいですか。 私は今、これです。でも、一年か二日かください。 私は違っているでしょう。 すなわち、時が関与しています。 でも、その時は今なのです。理解できますか。 未来は今なのです。 これはなぞですか。(質問者) ええ。
24:38 そうですか?うれしいです!それなら、ゆっくりと、もっとそれに入れます。 言いましたように、私たちは過去なのです。ですね? 頭脳に記録されてきた記憶すべて、 私たちがしてきたすべて - 五十年前だけでなく昨日も、です。 だから、過去は今です。 ですね? 今あるものは、 根本的な変化がなければ、 明日になるでしょう - それが時です。 ゆえに、未来は今にある。ですね? そのとき、なりゆくことは、どこにあるでしょうのか。 付いてきていますか。 どうぞ、これは本当に魅力的です。 とても深刻です。 私たちは、進化の観念に慣れ親しんでいます。 すなわち、人は、四十年、五十年の後、 今の段階に到りました。または、百万年前に、 私たちの頭脳は、類人猿から、 今、いわゆる文明人になるまで、進化しました。 私はそれが疑問ですが、それは大事なことではない。 それは、無量の時が掛かりました。 その四万年の時が、今です。 なぜなら、今のあなたが - 未来は、今のあなたであるからです。 おそらくわずかに修正されますが、 未来もまた、今にあるのです。 それで、今、根本的変化がないのなら、 未来は、明日は、これまでのあなたでしょう。 これは充分に単純です。 今、蒸し返さないでおきましょう。それは明らかです。 明らかでないなら、考えぬいてください- そうね、時間と意向、 その他があれば、です。 なければ、捨ておいてください。 たぶんあなたは捨ておくでしょう -一番便利で、たやすいことです。 でも、あなたは興味があるなら、 根本的な心理的な深い変化を、 本当にあなた自身で発見したいのなら、 その変化に時はありえません。 それは、今起きなければなりません。明らかですか。
28:17 あなたは、歯が痛いなら、 「来週まで待とう。それは進化の一部だ」 とかその他を言いません。即座の行為があるのです。 で、私たちは、時に行為へ干渉するのを 許す危険を、悟らないのなら、 その行為は、あらゆる種類の錯綜を、 生み育てます。明白です。 で、私たちの問いはこうです - 頭脳は、どの種の混乱もなく、 効果的、明晰に機能するには、 安全は何か、 安定性、堅固の感覚は何かを、 理解しなければなりません。 ほとんどの頭脳のように、ぐずぐずと至る所を よろめかないように、です。いいですか。 で、そもそも心理的に、安全があるかどうかを、 検討しなければなりません。 もちろん私たちは、物理的に安全がなければなりません。 それは、経済的な理由のために、ますます困難になりつつあります。 それら経済的な理由は、各国が、 自分の経済が第一だと考えるのです - 各人が、私が第一だと考えるように、です。 世界の経済状況は、とても深刻です。 あなたが観察してきたなら、 毎日、それはテレビで、または、 新聞で、言われます。 彼らは、これら問題を解決しようとしていますが、 これまで成功していません。 けっして成功しないでしょう。 なぜなら、各集団、各共同体、各民族、 各国家が、自分たちは 残りの世界より分離した何かであると、思うからです。 ゆえに、経済状況は、 きわめて制限され、小さく、非効率になるのです。 それは、残りの人類の関心事です。 なぜなら、世界中の誰もがみな、 物理的、経済的に 安全でありたいと願望するからです。 戦争があるとき、 戦争の脅威があるとき、 それは可能でありません。宗教の分割、 国家・民族の分割、イデオロギーの相違のように、分割があるとき、不可能です。 一方には、歴史の解析、 そして、結論に到ります - マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンのように、です。 他方には、民主主義のものなどです。 あなたがこれに、うんざりするだろうことは、分かっています。 しかし、私たちは、この狭い様式を、根本的に変化させないのなら、 ますます多くの戦争、経済問題が あるだろうし、ますます危険になるでしょう。 それはあなたしだいです。 あなたが自分の特定の条件付け -アメリカ人、ロシア人、 インド人、フランス人、イギリス人などとして - を捨てるときだけ、 このすべては、終わりうるのです。 そのため、私たちは一つの人類であるように、です。 それは、私たちの意識が、残りの人類であるように、です。 私はそれに入りました。今は入りません。
33:11 で、なりゆく過程全体が理解されるときにだけ、 頭脳は安定し、 完全な安全を持てるのです。 なりゆくことは、二元性という意味合いです。 二元性があるところ、 葛藤があるにちがいありません - アラブ人とユダヤ人、イスラム教徒とヒンドゥー教徒、 カトリックとプロテスタント。分かりますね。 人間たちが生きている永続的な葛藤状態です。 で、なりゆくことがあるところ、 二元性があり、ゆえに葛藤・抗争がある。 頭脳は、永続的に葛藤に生きられません。 そのとき神経症、精神病になり、 あらゆる種類の幻想を追求します。 ゆえに、心理学者、心理療法家、 精神科医の増殖です。彼らが世界中で増殖しているのは、ご存じですね。 すみません。ここには心理学者たちが、おられます!
34:45 で、その事実が見えるには - 事実の観念ではない。 違いを理解できますか。 事実が見えます。それから、それを抽象化します - それは、それの観念と呼ばれます。 私たちは、事実でなく観念を追求します。 ですね?私たちは一緒にここにいますか。 で、この事柄では、ごく明晰でなければなりません。 私たちは、観念でなく、事実を扱っています。 事実の象徴や事実の言葉、ではありません。 時は解決でないとか 根本的変化をもたらさないという 事実が、見えるとき、 あなたは、事実に張り付きます。 ですね? あなたは事実とともにいます。 事実はあなたと違っていません。あなたが事実です。 あなたは、事実です - 自らが暴力的で、残忍で、 無思慮で、心配し、その他すべてである という事実、です。 自らの意識の内容全体、 それは動揺していて、常に葛藤になっている。 世界のあらゆる人間の意識のように、です。 だから、私たちは本質的に、人類すべてです。 私たちの一人一人が、人類すべてです。 あなたが変化するなら - 明日にではない - 時はない。 時は、変化の敵なのです。 これを悟ってくださるならと、思います。 どうか真剣に考慮してください -あなたがそもそも真剣ならば、です。 そのとき、行為は何でしょうか。 今、含まれた時のすべてがあるだけなら、 今における行為は、何でしょうか。 質問は理解できますか。 少し悩んでいますか。(質問者) ええ。
37:36 よろしい! では、もっと探検できます。 行為は何でしょうか。 毎日の行為。オフィスへ行く。工場へ行く。 妻や夫に話をする。 ボートを漕ぐ。歩く。飛び跳ねる。 観念を追いかける。導師を追いかける- それは同じことです。 あなたは行為しています。生は行為です - 関係が行為であるように。 で、行為は何でしょうか。 私たちの行為は、ごくごく単純に言うと、 賞罰に基づいています。 ですね?私は、生から何を得られるのなら、それが好きです。 私は、正しく行為しないなら、罰せられるでしょう。 ゆえに、私は正しく行為しようと試みます。 で、私たちの行為は、賞罰に基づいています。 私たちの行為は、何か未来への概念や、理想に基づいています。 その理想に応じた行為 - その理想へ順応し、 調整します。ゆえに、葛藤です。 私たちの行為すべては、動機、方向があります - 一般的に利己的で、 自己関心です。 それが賞罰です。 未来での報償 - 「私はこれをするなら、あれを得るだろう」。ですね? 「それをしないと、失うかもしれない。」 ゆえに、失うことの恐れ、です。 で、私たちの行為はいつも、この得ることと 賞罰と恐れの領域にあるのです。ですね? 報償はいつも未来にある。 処罰もまた、未来にそれが起きかねない。 で決して、それ自体の行為は、ないのです。理解できますか。 それ自体のための行為、です。 例えば、すばらしい戸棚を作ってくれる良い大工。 報償や処罰、得でなく、 それ自体への愛です。
40:47 で、時への関係での行為は、葛藤を生み育てます。 ですね?明らかですか。 それ自体のための行為は、あるのでしょうか。 愛は、それ自体で行為でしょうか。 嫉妬、憎しみ、娯楽、おもしろさ、興奮、 セックス、楽しみのある愛ではない。 確かに愛は、それらではない。 愛があるとき、葛藤なき行為があるのが、分かるでしょう。 愛は、時の奴隷ではない。 で、すなわち、 それを理解できるなら、説明し、それの真理を深くつかめるなら、 頭脳は、とてつもなく活発で強くなるのです。 どの形でも混乱していません。 なぜなら、そのときあなたは、今、完全に生きているからです。 未来と過去の恐れは、消え去ります。
42:30 私たちはまたともに、苦しみの問題をも 話し合うべきです。 それは私たちの生の一部です。 世界中の人間の誰一人として - 僧院、修道院にいても、 ヒマラヤの僧侶でも、 どこにでもいる普通の人も、あなたも、 誰一人として - あなたと、地上のあらゆる人間が、苦しみます。 そして私たちは、他の人を苦しめます。 それが循環です。 戦争がもたらした苦しみが、あります。 戦争は、六、七千年、または一万年間、存在しています。 その長い時の継続中に、神の名で、 平和の名、得と利益などの名で、 互いに殺し合う。 人は、自己と他の人たちに、大きな悲しみ、 涙を、もたらしてきました。 泣かなかった人、涙を流し、 失う痛みのなかった人は、 一人もいません。 数百万人が不具になりました。なぜなら、私たちが、 自分の特定の観点、 自分の特定の宗教、 自分の特定のイデオロギーにこだわるよう、 条件付けられているからです。 私はそれを信じていて、それに取りすがります。 あなたは、反対の何かを信じています。 ゆえに私は進んで、あなたを殺そうとします。 これが続いています。 (ソビエト・)ロシアの(共産主義の)イデオロギー、(欧米の)民主主義のイデオロギー。 彼らは進んで、互いを殺そうとします。 互いを木っ端みじんに吹っ飛ばそうとします。 これは、数千年に数千年間、 続いています。 我が国、我が神を護る。我が・・・ ああ、ここではない。ここに王様はいません! これはとても深刻です。あなたは、笑い飛ばすかもしれませんが、 戦争で妻や夫、息子が破滅するなら、 それがどういう意味かが、分かるでしょう。 私たちはみな、それがどういう意味かを、知っていますが、 同じ古い様式を続けます。
46:06 それで、人類の悲しみがあるのです。 人間の悲しみ、です。 また、私たちが考えるのは、自分の特定の悲しみです - 私の息子が死んだ。 私の妻が出て行った、と。 他の人が苦しむのを 見る悲しみがあります。 全く読み書きができない人、 とてつもなく貧しい人たちの悲しみ。 そのすべてが悲しみです。 人類の悲しみだけでなく、 一人一人の悲しみも、です。 一人一人が考えます - それは、私の悲しみだ、あなたのではない、と。 しかし、悲しみは悲しみです。 あなたのや私のではない。それは悲しみです。 これを理解するには、 観察し知覚する自由が、必要です。 でも、私たちはとても個人主義的に、 狭く、小さくなっています。 私たちはあらゆるものを、自分の制限された裏庭に、引き戻してしまいます。 悲しみは、全人類の悲しみです。 あなたのや私のではありません。
48:10 それで訊ねます - その悲しみは、いったい終わりうるのでしょうか。 それとも、自然、動物を殺すのは、 お互いに殺し合うのは、 人間の定めでしょうか。 言葉で殺す、 身振りで殺すだけではなく、 一つの爆弾で数百万人を殺す。 数百万に数百万を破滅させる。 で、このすべてが悲しみです。 病気、痛みの悲しみ、 得ない悲しみ、失う悲しみ - すべてを入れてください。それは、私の息子が死んだ悲しみだけではない。 この悲しみは、いったい終わりうるのでしょうか。 悲しみは、感傷的ではない。 悲しみは、ロマンチックな何かではない。 それは怖ろしいものです。 それは、あらゆる人間に 直接的に関係する何かです。 悲しみのさびしさ。 その痛み、 心配など。 そのすべては終わりうるのでしょうか。 たぶん私たちは、その問いを訊ねたことがありません。 向き合ったことがありません。 私たちはみな、それから逃避したいのです。 苦しまないために薬物をとる。 酔っ払い、 逃避する。 なぜなら、私たちは実際に問題に、その深刻さに、 向き合ったことがないからです - すなわち、悲しみへ完全な注意を向けるのです。 言葉や、或る種の希望的観測などのヴェールで、 覆い隠すのではなく、 陰鬱にならず、 実際にそれとともに生きるのです。 それが、それへ完全な注意全体を向けることです。
51:24 注意は火に似ています。 その注意があるとき、 悲しみ、さびしさ、痛み、心配、涙であるもの すべては、消え去ります。 - その完全な注意があるとき、です。 注意は炎です。
51:52 悲しみ - その語源はまた、熱情(パッション)です。 悲しみが終わることが、熱情です - 欲情ではない。 私たちは、けっして熱情を持ちません。 私たちは楽しみがほしいのです。 熱情(パッション)は、何かとてつもなく違ったものです。 悲しみの終わりがあるところ、熱情があります。 それは、あなたの熱情や私の熱情ではない。熱情です。 それは愛の一部です。 愛があるところ、慈悲(コンパッション)があります。 このとてつもない慈悲の熱情があるところ、 智恵があります。 その智恵が行為します。 その智恵は、あなたのや、私のや、誰それのではない。
53:21 私たちは、時間があれば、ともに、
53:31 とても深刻な問題について、 話し合うべきです - すなわち、死です。 このような麗しい朝に、 死について話すのは、不条理に見えます。 初めに、美しさについて話せるかなと、思われます。 美しさは何でしょうか。 友は言います - 「私はそれに興味が無い。 美しさはさほど大事でない。」と。 愛があるところ、美しさがあります。 自由、善があります。 それは、人類の問題の一つでした。 自由、正義、善、です。 愛があるところ、何をしようと、それは正しいでしょう。 で、明日まで、美しさは置いておきましょう。 それはあまりに複雑です。 私たちはともに、この死の 巨大な問題について、話し合うべきです。 一つのことは、絶対的に確実であって、取り消せません - 私たちはみな、いつの日か死ぬだろう、ということです。それは事実です。 私たちはその問いに入ったことがありません。 なぜなら、ほとんどの人々は、それを恐れているからです。 死は何でしょうか。 死ぬとは、どういうことでしょうか。 なぜ私たちは死を、生、生きることから、 はるか遠いものにしてきたのでしょうか。 質問を理解できますか。 私たちは今、生きています。 死は、私たちが九十、百歳やその後に、来るかもしれません。 はるか、はるか後に、と私はあなたに願っています。 で、今と未来の間に、長く広い隔たりがある - 私の言っていることは、理解できますか。 今と未来の間、です。 検討したなら、今が未来を含んでいることを、知る。 ゆえに、死は今です。 これらを理解なさるのかと、思われます。 なさらないのは、分かります。
57:02 ゆっくり入りましょう。 私は、かつて見えなかったものが、見えたのです。 それは何でしょうか。私たちが死に怯えているのは、なぜでしょうか。 私たちは、生きることに怯えています - 明白です。 生きることと呼ばれるのは、怖ろしい騒動です - 葛藤、闘争、痛み、 心配、経済的な困窮、 お互いとの永続的な不和、 意見と意見の対立、 永久に常に、朝に目覚め、準備し、 オフィスへ駆けつける。 または、研究室や工場へ。 私たちが日々、年々をどう過ごすのか、 あなたが悟られるのかと、思われます。 あなたは、大成功を収め、たくさんお金を持ち、たくさん娯楽を 持っているなら、ご機嫌な生と呼ぶかもしれません。 「私はご機嫌な良い生活をしてきた」と言います。 ほとんどの人々は、お金、権力、 地位、ほしいものすべてを持っているなら、そう言います。 でも、彼らは世の中で、ごくごくわずかです - 幸運にも。 ですが、大多数の、私たちみんなは、 日曜日に教会に駆けつけます。 または、なんとまあ、これを見るために、そこにいるよう、出てきます。 そして、オフィスへ行く。 二十歳から死ぬまで、 働きに働きつづける。 責任、義務、痛み、 恐れ、心配、さびしさ。 これらに気づいておられるのかと、思われます。 あなたは、俳優として成功し、大金を持っているかもしれません。 でも、いつも、その終わりもあるのです - 死、です。
59:58 で、生きると呼ばれることは、 きわめて痛みにみち、混乱し、心配な生です。 ですね?これが、生きると呼ばれることです。 私たちはそれにすがりつきます。なぜなら、それが、知っているすべてであるからです。 私たちはそれから逃避したいのです。 それで、ものすごい娯楽産業があります - スポーツ、エンターテインメント、フットボール、 そうね、娯楽産業です。 また、宗教的な娯楽もあります。 「他方は娯楽ではない。もっと神聖である」 と言わないでください。 それはやはり娯楽です。 それは感受です。 冒涜的であると、思わないでください。 私たちは、事実に向き合っているだけです。
1:01:23 で、生まれた瞬間から死ぬまで、 問題に次ぐ問題と、問題の解決、です。 問題の解決の中で、 十の別の問題があるのです。 子どもの頃から頭脳が、 問題解決の訓練をされてきたとき - 数学の問題、地理学の問題、 テクノロジーの問題、工学の問題。いいですか。 で、私たちの頭脳は、子どもの頃から、 問題解決へ条件づけられています。 問題の理解でなく、問題が何かを 見るのではなく、その解消へ、です。 問題の解消の中、違ったように組織します。 ですね?組織に次ぐ組織。 これが私たちの生です -政治的、経済的、社会的に、です。 私たちは一瞬も自由ではありません。 特にこの国では、 いつの時も、自由について話しています - 選択する自由、 この小さな所から他の所へ行く自由、 仕事を変える、 妻を変える。 で、私たちは、選択が自由であると、考えます。しかし、そうではないでしょう。 頭脳が不確実であるときだけ、選択は存在します。 明らかであるとき、選択は全くありません。 で、この大きな深い混乱、 不確実さ、さびしさ、絶望、憂鬱 - 私たちの生活の循環全体ですね。
1:04:02 死が来るとき、私たちは吹き飛ばされます。 他に何もありません。 で、私たちは輪廻転生を創案します。 あなたは、輪廻転生を信じていますか。 信じているなら、正しく生きなさい。 今、正しく生きなさい。なぜなら、今、正しく生きないなら、 来世は、今のあなたと、まさしく同じことになるでしょう。 当然です。なぜなら、時が一千年であっても、今であっても、 正しい行為が無いからです - この性質、この香り、愛と呼ばれる、このとてつもないものが あるところにのみ、正しい行為は起こりえます。 それが無いなら、来世は、今のあなたとまさしく 同じことになるでしょう -わずかに修正されただけです。 おそらく、もっと大きな家 - それが、あなたが欲しいすべてです。 もっと大きな車、 もっと多くの楽しみ。 しかし、それは同じことの継続です。
1:05:23 で、死は何でしょうか。 私たちは、生が何かを理解しました。 少なくとも、生は何だと考えるのかを、です - 時へのものすごい束縛です。 そして、死は何でしょうか。 身体組織には、死があります。 私たちはみな、毎日、年老いていきます。 生まれた瞬間から、 ますます老いていき、死にます。 私たちは、死が何かを 訊ねたことがありません -それは、何を意味するのか。 終わりに来たときでなく、生きている間に、です。 生きている間に、死の意味、 意義、深さが何かを、訊ねたことがないのです。 私たちは、生、生きることの深さを、訊ねたことがありません。 そこには、生きることには、甚大に意義深い何かが、あるにちがいありません。 でも、私たちはそれを、こんなにちっぽけな事柄に変えてしまいました。 で、私たちは、そこで訊ねたことがなく、 確かに、死が何かを、訊ねたことがないのです。 二人の友として、見つめましょう。 怯えるのではない - なぜなら、そのとき、けっして、それを理解しないだろうからです。
1:07:27 で、先週、恐れの問い、その終わりに入ったように、 恐れの終わりが、なければなりません - 死の本性と性質と深さを理解するには、 恐れが終わることが、です。 言いましたように、生物学的に、器官的に、私たちは 日々、身体組織を費やしています。 私たちが間違った生活をしているなら- このすべての苦労、悲惨、 混乱、楽しみ、痛み、 ものすごいエネルギーのむだです。 それが終わりになろうとしています。 それが、死の一部です。 また、死んでいくのは、何でしょうか。 物理的、生物学的存在は別にして、 死んでいくのは、何でしょうか。 「私」は何でしょうか - 「私」、自我、人物、ペルソナ、 自己 - その一言で通しましょう。 死のうとしている自己、 「私」は、何でしょうか。 いいですか? それが、私たちが怯えていることです。 死について、ではない。 「私」 - この人生で 記憶、知識、経験として 蓄積してきた「私」、 私の利己性、私の貪欲、私の野心、 記録のすべて。 それは、頭脳に蓄えられています - 「私」です。 私たちは、その「私」が終わりになろうとしていることに、怯えます。 で、私たちは、「私」が何なのかを、間近で検討しなくてはいけません。 あなたの名前と銀行預金、あなたの生活場所と その種のことすべてを別にして、あなたは誰でしょうか。 物理的な私、身体 - 背が高い低い - それらは別にして、あなたは何でしょうか。 それに向き合ったことは、ありますか。 怯えないで、今、向き合いましょう。
1:10:35 あなたは何でしょうか。 あなたは、蓄積した記憶すべてでないでしょうか - 楽しい記憶、痛み。 五十年、三十年、または十日間の記憶。 あなたは、そのすべてでないでしょうか。 あなたの楽しみの記憶、 欲望の痛みと心配、 さびしさ、 憂鬱、 格闘の記憶 - あなたは、そのすべてでないでしょうか。 それはすべて記憶です。 ですね? 今、それをあるがままに、見てください。 「記憶を越えた上の何かがないのか」と言わないでください。 私はそのゲームを知っています! あなたは、上の何かを考案できます - 魂がある、と。 ヒンドゥー教徒は、それをアートマンと呼ぶなどです - 上の意識、神聖な何か、 きわめて明晰な何か。 それらはすべて理論、不条理です。 実際は、あなたなるものです - 人類の、人間たちの 記憶のあの広大な集合です。 もしあなたが、偉大な技術者であり、 原子爆弾、中性子爆弾を 組み立てるなら、 多大な知識を蓄積しなくてはいけません。 そして、死がやってくるかもしれません。あなたは、 「ちょっと待ってくれ。これを終えさせてくれ。」と言います。 それはすべて、集める、 施行する、集める、という過程です。 あなたはそれです。 それは事実です。 しかし、私たちは事実を見たくありません。 私たちは、「いや、私はもっと多くの何かだ。」と言いたいのです。 「もっと多くの何か」は、欲望です。 思考が言っているのです - 「それは小さすぎる。確かに私は、それより はるかに重要な何かだ。」と。 で、それもまた、思考の創案です。 で、あなたは、記憶の束です -思考が組み立てたのです。 向き合いなさい! 死はやってきて、「友よ、それで終わりだ。」と言います。 あなたは、「待ってください。 もう少し長生きさせてください。」と言います。
1:14:03 で、どうか、これに近く付いてきてください。 すると、あなた自身で、見えるでしょう。 時は今です。 時は含まれています - 過去、未来は今です。 だから、死は今です。 それが意味するのは、私が妻や何かに、 家具に執着しているなら - いいですか? あなたは何かに執着していませんか。 死は来て、「それで終わりだ」と言います。 切り離します。 で、あなたは執着から自由になれるでしょうか。 ゆえに、あなたはそのとき生きていて、 同時に生きて、死んでいきます。 理解できますか。いえ、いえ! やってください。すると、それが何ととてつもないことであるかが、分かるでしょう。 あなたが、自分の記憶に、自分の経験に、失敗に、 野心に執着しているなら、 そのすべてが終わりになろうとしています。 で、あなたは、死とともに 生きられるでしょうか - それは今、野心を終わらせることです。 野心なく生きることは、ものすごいエネルギーを、意味します - もっと悪さをするため、ではありません。
1:15:52 で、死と生はいつも一緒です。 これが実際に起きるとき - 理論的にでなく、 想像上にでなく、それを願うのでなく、 実際にそうする。 あなたが何に執着していても、です。 私は、それが難しいのを、存じています -もし夫が妻に向かって、 「ダーリン、私はもう君に執着していない」と言うなら、 彼はたくさんの厄介を抱えるでしょう。 そこから、もう一つの問題が生じます- ものすごい問題です。 あなたは執着から自由かもしれないが、彼女はそうでない。 または、彼女は自由だが、私はそうでない。 そのとき、関係は何でしょうか。 関係は単に、記憶の蓄積でしょうか - 楽しみ、痛みとしての、です。 そのとき関係は、単に感受でしょうか。 お互いのイメージ。それが関係でしょうか。 で、これら分離したイメージが あるとき、葛藤、 痛み、心配があるのです。 で、痛み、心配、恐れがあるところ、愛はないのです。
1:18:00 で、死と生はいつも、一緒に進みます。 そのとき、私自身の小さな苦労から、 絶対的な自由の感覚が、あるのです。 時のないものを理解するには、 それが必要です - 永遠といったものがあるなら、ですが。 私たちは別の時に、それについて話すでしょうが、 これらを生の動きとして見る - 死ぬことと生きることを、です。 ゆえにその意味で、あなたはけっして他の人を殺さないでしょう。 けっして意図的に、他の人を傷つけないでしょう。 よろしい。終了しました。