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OJ84T4 - 愛は意識の一部だろうか

第4回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1984年5月27日



1:07 これが最後の講話です。 または、二人の友の間の会話です。 私たちは、ここ三回の講話の間、 生の様々な様相について、話をしてきました。 私たちは、あらゆることを疑う能力、 問う能力を持つことが、いかに重要であるかを、言いました - 世の中で起きているすべてを、問うのです。 外面的にだけでなく、内的にも、です。 私たちの思考、 感情のすべてを、です。 自分の幻想に気づいているのなら、 それらすべてを問うのです。 なぜなら、シニシズム(冷笑癖)なしの懐疑は、 大きな有益な効果が、あるからです。 私たちの頭脳は、プログラムされてきました。 キリスト教世界によれば、 二千年間、ヒンドゥー教徒と仏教徒によれば、 三千年から五千年間です。 それらは、コンピューターのように、プログラムされてきました - カトリック、アメリカ人、ロシア人、 信じる者、信じない者、 専門家、心理分析家、精神科医など、 科学者、博士たち、です。 私たちはプログラムされてきました。 それについて、疑いはありません。 なぜなら、そのプログラム化は、私たちが条件づけられるという結果に、なったからです。 私たちは、問い、疑い、 多大な健全な懐疑を持たないのなら、 頭脳はけっして自由ではありえません。 自由と、自由であることは、二つの別々のことなのです - それらに入られるならば、です。
3:48 今朝、私たちは、様々なことについて、話をしようとしています。 自由、欲望、 そして、思考の重要性、 そして、宗教は何か - それに、ほとんどの文明は基づいています。 ほとんどの文化は、 生のこの宗教的様相の中から、生まれます。 私たちはまたともに、冥想とは何かという とても複雑な問題を、話し合おうとしています。 今朝、これらについて、ともに話し合おうとしています。 また、もう一度、留意させていただけるなら、 - これがあまりに繰り返しでないならば - これは、どの形でも、娯楽ではないのです。 何かあなたが週末に出席し、 後ですっかり忘れてしまうことではないのです。 むしろ、それは、私たちの日々の生と関係しています。 その生は、こんなに動揺し、混沌とし、 不確実で、混乱してしまっています。
5:34 この条件づけ、 このプログラム化 - 私たちは、その本性を理解して、 それから自由であることが、そもそも可能かどうかを、見なければなりません。 さもなければ、けっして創造はないでしょう。 考案、発明すべてはあるでしょう。 考案は、創造とは全然違っています。 技術的な考案は、思考の産物です。 どちらのほうの考案、発明も、 - 詩的でも、宗教的などでも - それは、相当、比較的、たやすいのです。 しかし、見出すには - ほとんどの宗教が、見出そうとしてきたように - 創造とは何かを見出す、 そして、その本性、その深さ、 その美しさを理解するには、 プログラムされたのを理解して、それから自由でなければなりません。
7:06 で、自由であるとは、どういうことでしょうか。 自由は、何かからです。 自分たちの悲惨から、自分たちの面倒と 問題からの自由。 すべての人間に供給している 経済社会を持つ自由、 腐敗しすぎていない社会を持つ自由、などです。 自分たちの束縛からの自由。 自分たち特有の傾向、意見と判断からの自由 - 私たちのほとんどは、それらに絡め取られています。 意見、判断、結論は、 私たち一人一人において、とても強い。 それは、知覚を妨害します。世の中で 何が起きているのか - 外面的にも、 そして、もっとはるかに内的にも - を、 見るのを、妨害します。 自分の生の心理的な複雑さ全体を見ることを、です。
8:40 で、自由であるとは、どういうことでしょうか。 何かからの自由ではない。 それなら、反動になります。 資本主義からの自由は、全体主義につながってきました。 その悲惨と残酷さすべてをともなって、です。 自分たちの特定の恐れからの自由は、 やはり、反動の領域の中にあります。 「ああ、もしも、何か特有の衝動や傾向からの 自由があったなら、自分は とてもすばらしくなれるだろうに。」などとです。 ところが、自由であることは、何か全然違ったことです。 「自由(フリー)」という言葉は、 語源学的に、あまりはっきりと確立されていませんが、 自由(フリー)であるとは、 その言葉には、他の意味の中でもとりわけ、 (「フレンド」などと同じく)愛という意味合いです。 なぜなら、私たちは本当に、自分たちの生において、 愛するとはどういうことかを、了解しないからです。 もし愛が、憎しみの対極であるならば、 もし愛が、嫉妬の対極であるならば、 もし愛が、執着の対極であるならば、 あらゆる対極は、自らの対極に根づいています。 これは理解できるでしょうか。 私たちのほとんどはそうですが、自分は貪欲であり、 衝動は貪欲にならないことであるなら、 その矛盾は、自らの貪欲の中から生まれます。 理解できますか。 これは幾らか明らかですか。
11:24 ごらんなさい。私たちはともに会話をしています。 語り手は重要ではありません。 語り手は本気でそう言っています。 これらに、個人崇拝の戯言はありません。 その種のことすべては、愚かです。 しかし、彼が言ったことは、きわめて重要です。 懐疑をもって、査定されるべきです。 彼が言うことを、何一つ受け入れないで、です。 彼は、職業的専門家、熟達者ではありません。 一緒に、二人の友として、 私たちの生全体、自分の生を、検討しています。 それはとても複雑です。 それは、注意、気づかい、知覚、観察を、要求します。 そして、二人の友として、自分たちの生について、話し合うことを、です。 だから、これは講義や説教ではありません。 講義(レクチャー) - その言葉の意味は、情報を与えること、教示することです。 私たちは、教示したり、情報を与えたりしていません - まるで、自分が生についてすべて知っていて、 相手はそれについて知らないかのように、です。 むしろ、ともに、です。 そして、ともに働く、考えるとは、 どういう意味かを理解することが、重要です。 なぜなら、私たちのほとんどは、何についても、ともに考えないからです。 あなたは、とても多くの意見、多くの判断などを、持っています。 私たちはけっして、ともに考えません。 私たちは、思考について意見を、持っています - 同意や不同意。 「あなたは正しい」、「私が正しい」などと、です。 しかし、あらゆることについて、 ともに考える能力、要求は、 自由を必要とします - 慈しみ、気づかい、注意の感覚が、必要です。 さもないと、私たちはとうてい、ともに考えられません。 そのときあなたは、従う者、聞く者になり、 情報を与えられ、教示され、服従するのです。 そのとき私たちは再び、古い様式に戻っています。 ところが、自由であるとは、どういうことかを、 もしも、ともに考えられたなら - 自由であるとはどうかを、あなたが考えることとか、語り手が、とか、ではなく、 ともに見出すのです。 そう言っていいなら、その「ともに」の中に、 あなたと語り手はないのです。 ただ、私たちがともに検討している、 懐疑的に、健全に見ている、という感じだけがある - 自分自身の問い全体と、 まわりのあらゆるものの存在を、覗くのです。
15:30 自由(フリー)という言葉、自由であることは、多くの意味を持っていますが、 だいたい、自由(フリー)は、友(フレンド)であること、愛することを、意味しています。 愛は、何か思考が進展させられるもの、 組み立てられるもの、 養成(カルティヴェイト)できるもの ではないのです。 庭を耕作、栽培(カルティヴェイト)することはできます。 何でも、養成(カルティヴェイト)はできます - 耕す、栽培する、成長させることは。 しかし、愛は、何か思考が養成できるものではありません。 で、思考、考えることの本性を、すっかり、 とても深く理解することが、きわめて重要です。 もしも私たちは、本当にそれを根源的に理解できたなら、 自分たちの問題のほとんどを、解消できるでしょう。 なぜなら、私たちは何ダースもの問題を、持っているからです - 関係の問題、経済的問題、社会的問題、 あらゆる種類の問題です。 人間たちは、それらの重荷を負っています。
17:03 で、ただ、何かからの自由の本性を理解するだけではなく、 自由であること - 完全に自由です。何かからではない - 思考がいつの時も作動しているとき、 それはそもそも可能でしょうか。 質問は理解できますか。 で、ただ言語的にではなく、 説明をとおしてだけではなく、 思考の動き全体を理解することが、 重要ではないのでしょうか。 なぜなら、私たちは思考によって生きるからです。 あらゆる行為は、思考に基づいています。 私たちの生のあらゆる領域、あらゆる部門、 あらゆる分野で 、外的にも、内的にも、 思考が作動しています。 私たちは思考へ、ものすごい重要性を与えてきました。 私たちは、思考の構造と本性の全体、 その動きを、解きほぐすまで、 単に自由であろうとすることは、 - すなわち、自由を養成することは - 不可能になるのです。
18:48 で、私たちは二人の友として、一緒に関心を持っています - 自由とは何でしょうか。 全的に自由であるとは、どういうことでしょうか。 そして、そこに自由があるこの全体性の 感覚が、ありうるのでしょうか。 私が言っていることが、分かりますか? で、私たちは、それに入ろうとしています。
19:26 私たちはプログラムされているかぎり- カトリック、プロテスタントと、 プロテスタントの数千もの分派や、ヒンドゥー教、 イスラム世界と、仏教世界。 私たちは、プログラムされつつあるのです。 私たちがプログラムされつつあるかぎり、 - 私たちの頭脳全体は、数千年間、プログラムされてきました - 全的な自由の感覚は、何もありえません。 これは明らかですか?私たちはともにここにいますか? で、自由であることは、可能でしょうか。 または、私たちは、コンピューターのように、プログラムされることを、 永久に運命づけられなければならないのでしょうか。 私たちの頭脳の機能は・・・ 語り手が、専門家、頭脳のスペシャリストであるということではなく、 彼は、六十年、七十年の経過の中で、 きわめて多くを、観察してきました。 人々の頭脳がどのように働くのかを、観察しました。 また、自分の頭脳が作動するのを、観察しました。 それは、機械的、反復的になってしまっています。 その知識のまさに蓄積こそが、それを制限しています。 これを理解なさるのかと、思われます。 多大な知識を持っているとき - 科学のような、様々な専門分野について、です。 外科手術、医療、 テレコミュニケーションなどの熟達者であると、 私たちの頭脳は実際に、とても小さくなるのです。 特定の方へは、拡大できますが、 その拡大もやはり、制限されています。 あなたたちが、これらを捉えておられることを、願っています。 さて、これらから全的に 自由であることは、可能でしょうか。 さもないと、私たちは、創造的であるとはどういうことかを、けっして知らないでしょう - 何か全然考えられなかったこと、全的に新しいことを、です。 「地上には何も新しいものはない」(といわれます。) しかし、その標語を受け入れるなら、 私たちは、創造的であるとはどういうことかを、けっして見出さないでしょう。
22:37 で、このプログラム化と、 なぜ私たちがそれを受け入れるかを、理解するには、 昨日の朝、安全でありたいとの欲望全体に入ったように、 入らなければなりません。 私たちは昨日の朝、よく気をつけて、それに入りました。 もう一度それには入りませんが、 私たちはまた、思考の本性に、何度も何度も入りました。 しかし、私たちのほとんどは本当に、その深さ、 思考の性質を、見たことがないのです - 思考がどれほど制限されているのかを、です。 それは、テクノロジーの世界で、一番とてつもないことを、 やってきましたし、また心理的な世界でも、そうです。 しかし、それがしてきたことは何でも、やはり、ごく制限されています。 なぜなら、昨日指摘したように、 いつも、「もっと多く」があるからです。 テクノロジーの世界にだけでなく、 また内的にも、「もっと多く」、「より良く」です。 「もっと多く」、「より良く」は、測量です。 測量があるところ、制限があるのです。 これは、宗教的な人々の問題の一つでありました。 私たちはこれに入りました。すなわち、 ギリシャ人、古代のギリシャ人たちは、 測量に関心を持っていました。 さもなければ、西洋世界に、 このとてつもないテクノロジーは、ないでしょう。 なぜなら、西洋世界は古代ギリシャに根ざしているからです。 インドでは、古代の人々は、 どの形態でも測量は幻想であると、言いました。 無量のものは、とうてい測量できない、と。 理解できますか。 で、二つの矛盾しあった発言が、あります。 テクノロジー的には、測量を持たなければなりません。 心理的にもまた私たちは、測量があることを、受け入れてきました - 「もっと多く」、「より良く」、「なりゆくこと」として、です。 ところが、古代のヒンドゥーは言いました - 「あらゆる形の測量は、制限である。」と。 彼らは、それを言いましたが、それについて、すっかり忘れてしまいました。 しかしたぶん、彼らは一度も・・・ 語り手は、彼らが言ったことを、十分には承知していません。 なぜなら、彼は書物を読まないからです。 測量は思考という意味合いです。 思考は、知識、経験と記憶に、基づいています。 知識は、いつも制限されています- 今も、未来も、です。 で、思考はいつも制限されています。 それは、無量のものを、想像できます。 地上の神々すべてを、儀式すべて、 それらの事柄すべてを、創案できます - それは、とてつもなく非現実的です。
26:34 で、思考はけっして自由ではありえない。 または、思考はけっして、 全的に自由である感覚を、もたらしえないのです。 ですね? あなたがこれを理解されるのかと、思われます。 なぜなら、思考自体が制限されているからです。 ゆえに、それがすることは何でも、やはり制限されるでしょう。 そして思考は、欲望により駆り立てられるのでしょう。 ですね? で、私たちは、欲望の本性と構造を、探究しなくてはいけません。 「欲望」ということは、言い回しでは、あこれがれることを、 意味します。それは、何かをもっと欲しいことです。 その言葉の意味は、そうです - 持っていないで、あこがれること、欲しがること。 ですね? で、私たちはともに、欲望は何かを、理解しようとしています。
28:06 あなたが観察したことがあるのかどうか、私は存じません - あなた自身を、だけではなく、 まわりのすべての人々を、です。 司祭者たち、司祭者たちの位階制度、 歴史をとおした教皇たち、世界の僧侶すべて、 そして、世界の人間すべてが、 今の自分たちに、不満足です。 彼らは、もっと何かをほしがります。 もっと何かへ、あこがれます。 みなさんは、もっと何かへ、あこがれていませんか。 私たちはみな、欲望により、駆り立てられていませんか - 成功をするように、お金を持つように、 地位を持ち、有名になるように。 それらの事柄は、ご存じですね。 私たちは、欲望で一杯です。 そして、欲望と思考の間の、 関係は、何なのでしょうか。 いいですか。 どうか、この疑問を訊ねてください。 一緒に話し合っている二人の友として、です。 語り手は、友へ言っています - 見てください、と。 彼は訊ねています - 二つの間、欲望と思考の間の 関係は何でしょうか。 なぜ宗教的領域で、思考は、 欲望の抑圧を、主張してきたのでしょうか。 理解できますか。 世界中の僧侶たちは、言ってきました - 「あなたは欲望を持ってはならない。抑圧しなさい。 または、その欲望を、神、救い主と呼ばれるものと 同一視しなさい」と。そう、象徴と、です。 ですね? で、欲望は、私たちの生において、とてつもない重要性を、持っています。 私たちは、それを抑圧しようとか、超越しようとかしていません。 または、その欲望を、より高尚なもの、象徴的な、意義深いもの、それらのものと 同一視しようとしていません。 私たちは、そのすべてを拭い去れます。
31:00 で、私たちは今、欲望の本性を理解しようとしています。 あなたは、語り手が前にそれを説明するのを、聞いたことがあるかもしれません。 でも、彼が前に言ったことは、忘れてください。 私たちは今、新たに、 新しく、このことを検討しています。 そして検討するには、 個人崇拝から自由であるだけではなく、 また、無欲望でないことの恐れからの 自由も、なければなりません。 理解できますか。 知覚の感覚が、なければなりません - そこに、歪曲がなく、動機がなく、 欲望の動き全体を、 ごく近くで観察する知覚、です。 それを、さらに進められるでしょうか。
32:34 私たちは、樹の下に座っています- 一本か、数本の樹の下に、です。 木の葉を通して、青空があります。 遠い山々、丘々。 私たちみんなへの木漏れ日。 これらをはっきりと見る。 それらの美しさを見る。 そして、欲望に対する美しさの関係は、何なのでしょうか。 質問を理解できますか。 で、私たちはまた、美しさは何かをも、探究しなければなりません。 だいじょうぶでしょうか。
33:30 美しさは、何でしょうか。 飛行機を待ちましょう。 飛行機が通り過ぎるまで、待ちましょう。 私たちは訊ねています - 美しさは何でしょうか。 美しい詩歌、美しい絵、 孤独な野原の一本の美しい樹、 波の美しさ、 青い海の静かな美しさ、 大きな山々の美しさ、 無量性、それらの威厳、 それらの不動性、 そして、青空へ際立つ線、雪を被っている。 世界の美術館すべて、 それらでの古代の彫刻、 現代の絵画、 古典的な彫像。 私たちのほとんどは、これらすべてを見たことがあります。 私たちは、それらを見るとき、 「それらは何と美しい!」と言います。 あなたが、ギリシャのパルテノン(神殿)を、初めて見たのなら、 建造物の美しさへ、ほとんど跪かんばかりです。 そして、美しい男や女を見るとき、です。特に子ども、です。 この世界の美しさすべてに、 一瞬の間、息をのみます。 美しさは、知覚者にあるのでしょうか。 質問は理解できますか。 美しさは、教示の事柄でしょうか - 世界の絵画すべての情報に通じていて、 誰がそれを描いたのか、現代のピカソから 古代の(イタリア、ルネサンスの)マサッチオなどまで、 よく情報を知っている、それについて話をする、 そうね、それを弄ぶ。それらが、美しさでしょうか。
36:31 で、美しさは、何でしょうか。 あなたはいつ、美しさを知覚するでしょうか。 顔に、山に、 樹に。または、朔日(ついたち)の月が現れるときの 細長い月。 ただ銀色で、 しんとした晩の静けさ。 あなたはいつ、これらを知覚するでしょうか。 そして、「美しさ」という言葉は、私たちのほとんどにとって、 充分であると見えるのです -ただ「それは何と美しいのか」と 言って、次のことへ移っていくだけです。 レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなどの すばらしい絵画を、見る それから、去って行き、お茶をする。 ですね? これが、私たちが一般的にやることです。 私たちはけっして本当に、美しさは何かという問いに、入りません。 あなたはいつ、この無量性の感覚と、 美しさの真理を、知覚するのでしょうか。 あなたは、大いなる山を見るとき、 - その深い谷々と、 青空に際立つ雪 - あなたは、一秒間、 山の威厳と壮大さによって、 自分の問題すべてを、一秒間、忘れてしまっています。 自分の悲惨、混乱、悲しみのすべて、 その他すべてを、忘れてしまっています。 雪を被った頂上のあの大いなる無量性が、 あなたを吹っ飛ばす。 あなたの自己を、吹っ飛ばすのです。 ですね?これらに注目したことがないですか。
39:03 で、自己が無いときだけ、美しさは存在しうるのです。 理解できますか。 精神が、頭脳がおしゃべりをしていないとき、 言葉の網に捕らわれていないとき、 本当にすっかり静かであるとき、 「私」、自己、自我、ペルソナの 全的な不在があるとき、 そのときあなたは本当に、美しさのとてつもない感覚が、見えるのです - 世の中の、樹と空の美しさ、です。 そのとてつもない美しさの感覚の、 欲望に対する関係は、何でしょうか。 私たちは、その美しさを、捉えたい。 私たちは、それを保ちたい、それとともに生きたい。 この感覚を持ちたい。 世の中の騒動、騒がしさ、 俗悪さすべてから、全的に自由でありたいのです。
40:29 で、私たちは合理的に、明晰に、健全に、 探究しなければなりません - 欲望は、何でしょうか。 欲望は、生において大変多くのものごとを、築いてきました - 偉大な建築物。 また、戦争と破壊などをも、創り出してきました。 で、私たちは本当に、このものすごい衝動を、理解しなければなりません - 人間たちが持っていて、私たちが その奴隷である衝動を、です。 あなたは、これら樹の下に座り、 光の美しさを見つめるとき、 今はあいにく、いくらか暑いけれども、 大きな感受の感覚があるでしょう。 あなたは鋭敏ならば、諸感覚が目覚めています。 諸感覚が、これらに応答します。 で、これら樹々、光、丘、静けさの感受 - それで感受が目覚めます。 あなたが高速道路を行くと、太平洋が見えるとき、 あなたは、感覚すべてでもって、あれらの水を、見られるでしょうか。 それをしたことがありますか - 感覚すべてが十分に目覚めて、鋭敏で、です。 そのとき、感覚すべてでの全的な感受の中 - 部分的に、一つが他よりも 作動しているのではなく、身体組織全部、 神経、人間の全体が、です。 あなたが感受でもって、そういうものすごい注意を 向けるなら、 自己が全く無いことに、注目したことがあるでしょうか - 「私」が全く無いのです。 私たちはまもなく、そこに来るでしょう。
43:13 で、私たちは感受とともに生きるのです。 それは相当に明白です。 これら感受は、思考に取って代わられ、 形やイメージを与えられます。 ですね? ごく単純にしてください。 あなたは店に、何か美しいものを、見る。 中へ入って行き、 それに触れる。接触する。 絹や素材の性質を感じる。 感受がある。ですね? そのとき思考がやってきて、言う - 「なんとすばらしい。それが持てたらな。」 「それは、私にどんなにすてきに似合うだろうか」と。ですね? 感受から、思考がイメージを創り出すとき、 欲望が生まれます。 ですね?つかまえましたか? 思考が、その感受から イメージを築く、または作り出すとき、 - それは、あの美しいシャツやあのローブや あの車やあの家、 冷蔵庫を持つことです -何が欲しいにしても、です。 そのとき、その瞬間に、欲望が生まれます。 その動き全体を毎秒、知覚するなら、 これはこんなに明解、明白です。 が、それには、何一つ見過ごさない、大きな注意が、必要とされます。
45:24 で、問いはこうです - その感受を、思考がイメージ、画像、 楽しみとして模(かたど)る - その瞬間に、欲望が生まれます。 さて、問いはこうです - 感受と、思考がその感受から イメージを創り出すのとの間に、 広い間隔が、ありうるのでしょうか。 理解できますか。間隔、です。 それは、ものすごい注意を必要とします。 そして、注意があるところ、修練(ディシプリン)があるのです。 理解できますか。さあ、みなさま、誰か。 みんな眠っているのか、何かでしょうか。 これは重要です。 なぜなら、私たちは永続的に葛藤に生きるからです。 葛藤を理解することは、 事実を見る、そして、事実の結論を見ることです。 理解できますか。 事実、そして、その事実から私たちが作り出すものです。 事実から作り出されるものは、抽象です- 観念や理想と呼ばれます。 そして、事実と理想との間には、いつも葛藤があるのです。 ですね? 動いてください。 感受があることは、自然です。 健康的で、明解です - - 全的に麻痺していないならば、です。 感受がある。思考はその感受に、形を与える- それを表象するイメージを、です。 これら二つが、しばらくの間、分けておけるなら、 それらを分けておくには、大変な注意が、必要とされます。 ですね? で、けっして、欲望の抑圧がない。 欲望の見守りがあるのです。 これを理解なさるのかと、思われます。 なぜなら、それを抑圧するなら、それは葛藤になるからです。 あなたが、「私は欲望を超越しよう」と言うなら、 それもまた、葛藤の手段になるのです。 ところが、大いなる注意と見守りがあるなら、 - 思考がどのように感受を形作るのか、です - そのとき、その注意、その見守りは、 自らの智恵を持っています。 それが必要であるとき、 店に入って、それを買い、それでやっていく。 でも、それについて葛藤にしない。理解できますか。 少なくとも、その幾らかを理解するなら - なぜなら、これらを理解することは、本当に重要であるからです。 人がこの美しい地上に、葛藤なく生きられるのかどうかは、です。 私たちは人生の日々すべてを、葛藤とともに生きるのです。 一番古い時代から今まで、 それは私たちの継承物でした - 外面的に、戦争などだけではなく、 はるかに内的にも、葛藤と生きるのです。 お互いとの葛藤、 親密など、お互いとの 関係での葛藤。 この葛藤は、いったい終わりうるのかどうか - そのため、頭脳が全的に自由であるように、です。 そういうわけで、欲望の本性を理解すること、生やこの大地の この無量の美しさの感覚の本性を 理解することが、重要であるのです。
50:29 そのとき私たちはまた、愛とは何かの問いにも、入るべきです。 それについて、感傷的とかロマンチックとかに、 ならないようにしましょう。 私たちが、「あなたを愛している」と言うとき、 それは、どういう意味なのでしょうか。 「私はあなたを愛している」と、女が男に言う、または、 男が女に言う、または友が互いに言うとき、それはどういう意味でしょか。 書物の愛、詩歌の愛があります。 スポーツの愛、 セックスの愛。 私は、有名であるのを愛している。 私たちはこの言葉を、とてもたやすく使います。 しかし、見たところ、けっして、 その充分な意味に、入ったことがありません - 愛するとは、どういうことでしょうか。 愛は、見たところ、もう一つの葛藤の手段になっています。 自分は妻を愛している。 葛藤、けんか、嫉妬、 敵対、離婚 - その関係の痛みすべてが、あります。 その楽しみも、です。 で、私たちはよく気をつけて、この問いに入るべきです。 なぜなら、それは、私たちの問題すべての解決であるかもしれないからです。 それは、まさにその一つのことなのかもしれません - それが、頭脳の中にあるのか、 頭脳の外側にあるかが、理解されるときに、です。 質問を理解できますか。 愛は、頭脳に収容されているのか - 思考、 心配、痛み、憂鬱、恐れ、さびしさとして、です。 すなわち、私たちの意識の内容全体、です。 愛は、その意識の一部でしょうか。理解できますか。 さあ、どうぞ、みなさま。 それとも、全的に外側にあるのか - 意識の外側、頭脳の外側に、か。 たぶん私たちは、この問いを訊ねたことすらないでしょう。 これらの問いを訊ねることを、あなたが気になさらないであろうことを、願っています。
53:39 で、私たちが知っているような愛は、何なのでしょうか。 愛は、私たちの生に、大変な葛藤を、もたらします - 大変な楽しみ、 大変な心配、恐れ、 嫉妬、妬みを、です。 あなたは、これらを知らないでしょうか。 で、欲望は愛でしょうか。 楽しみは愛でしょうか。 愛は、思考の領分や分野にあるのでしょうか。 見たところ、私たちのほとんどにとって、それは、その分野にあります - 愛の葛藤、痛み、心配と思考です。 愛は何かを理解するには 、 - そうですね、理解するのではない - その深さ、その偉大さ、その炎、 その美しさがあるには、 どうして嫉妬が、ありうるのでしょうか。 どうして野心、攻撃性、暴力が、 ありうるのでしょうか。 これらすべてのことから、完全に自由になれるでしょうか。 どうか、この問いを訊ねてください。 愛があるところ、何をしようと、それは正しい行為でしょう。 それはけっして、人生に葛藤をもたらさないでしょう。
55:53 で、嫉妬、敵対、葛藤と、 関係の痛みすべては、愛において 持ち場がないことを、 見ることが、重要です -愛があるところには、です。 そのすべてから自由になれるでしょうか - 明日ではなく、今、です。 質問は理解できますか。 なぜなら、昨日指摘しましたように、 時は、過去、 現在と未来であり、 すべての時は、今に含まれているからです。 私たちは昨日、気をつけて、それに入りました。 私たちが、「私は愛を養成しよう」とか、 「自分の嫉妬を取り除こう」とか言うなら、 あなたは自由になろうとしているとき、 けっして自由ではないでしょう。 いいですか? これを理解なさるのかと、思われます。 あなたが、「私は最善を尽くそう」と言うとき- それはとてもばかげています。 それは、自らが本当に、真理を十分に知覚していない、 という意味なのです - すなわち、時のすべて、過去、現在と未来は、 今に、実際に現在にあるという真理を、です。 なぜなら、あなたが今何かをしないなら、 それは、明日、継続されるでしょう。 未来は今にある。理解できますか。さあ!
57:57 で、葛藤の原因すべてを、 完全に脇に置けるでしょうか - すなわち、自己、「私」を、です。 そのため、この炎の感覚が、 美しさの、愛の偉大さがあるように、です。
58:20 また私たちは、時間が許すなら、議論すべきです - ともに、宗教は何かについて、話し合うべきです。 世界の組織された宗教すべては、 儀式、仮装服などとともに、 象徴、あらゆるものへ十字を切ることともに - そのすべてが、宗教でしょうか。 その言葉の根本の意味は、語源的にはっきりしませんが、 宗教(レリジョン)は、人と神との間の 結び、しばりである、 絆であるなどと、言われてきました。 で、検討するとき - 検討するには、懐疑がなければなりません。 自分の信仰、自分の信念を問わなければなりません。 さもないと、とうてい検討し、 宗教についての真理を、見つけられません。 私たちのほとんどは、宗教についての幻想に、生きています。 私たちは、思考がすべての儀式、彼らの衣装と 神々、式典、お香に対して責任があったことが、けっして見えません。 その仕事全体が、思考により組み立てられているのです。
1:00:20 で、宗教は何でしょうか。 そのものを見出すことは、重要です。 なぜなら、人はいつも、時の始まりから、 これを、いつも探究してきたからです - 単なる物理的な世界以上に、何かもっとあるのだろうか - その騒動すべて、その複雑さ、格闘、 痛みなどすべてをともなう世の中以上に、です。 これらをはるかに越えた何かが、あるのでしょうか。 あなたがその問いを、訊ねています。 誰かがやってきて、言います -「私はそれについて知っている。 それについて、あなたへすべて教えよう。」と。 そのようにして、始まったのです。 古代シュメール人から、 古代エジプト人と、古代ヒンドゥーから、 彼らは、「私たちがあなたに教えよう」と言いました。 彼らは司祭者になりました。 読み書きなどをした 元来の人々です。 彼らは、人に対して、それの解釈者になりました。 それは、他のどの専門職とも同じく、良い専門職になりました。 それは、有史以前の時から、継続してきました。
1:02:09 さて、宗教的な精神は何か、宗教の真理は何かを 見出すには、権威すべてから、 信念、信仰すべてから、自由でなければなりません。 何一つにも所属しない。 いいですか? 全的に自由である感覚が、なければなりません。
1:02:52 そのとき、真理が何なのかを、 探究、または観察、または知覚できるのです - 「まさしく真理」や「真の実在」ではない。 二つを区別しましょう。 わぁ、説明すべきことがたくさん、ありますね。 なぜこれらを説明しなくてはいけないのか、私は知りません。 残念ながら、あなたたちはみな、あまりに学識がありすぎます。 あまりに多くの知識を持っています。 あまりに多くの本を読み、教授たちから聞いてきている、その他です。 実在は何でしょうか。 実在は、あなたはそこに座っている、語り手はここに 上がっているというものです。 実在は、樹々です。 実在は、自然です - 鳥たち、大海、鯨たち。 海の深い深みでの あれら巨大な生物たちの美しさ。 実在は、外的にも内的にも、有るものです。 ですね? 自然は実在です。虎は実在です。 また実在は、内的に幻想です - あなたが創り出してきて、取りすがるものです。 象徴、画像、理想化された絵図。 どれほど幻想的でも、あなたはそれに取りすがる。それは実在です。 ですね? で、実在と真理は、二つの異なったことなのです。 真理は、推測、思弁、 理想化という事柄ではありません。 それは、思考の創案、発明ではありません。 その真理を見つけるには - 見つけるのではない。その真理が存在するには、 冥想をしなければならないと、言われてきました。 永久のものを見つけるには - 度量すべてを越え、思考すべてを越え、 言葉すべてを越えているものを見つけるには、冥想しなければならない、と。 彼らはまた、言いました - 冥想をするためには、体系、方法に従わなければならない、と。 そして、私たちがあなたに、方法と体系が何かを教えよう、と。 ですね? 導師たちは、この主題を果てしなく奏でて、どんどん金儲けをしてきました。 ですね?
1:06:27 で、私たちは、探究しようとしています- どのように冥想するのか、ではない。 それを訊ねるのは、ばかげて見えます。 むしろ、冥想は何であるか、です。 そもそも、冥想することが必要でしょうか。 冥想(メディテーション)、その言葉の意味は、 じっくり考える、よく考えてみる、ということです。 それはまた、より深い意味をも持っています - 測量する。 冥想(メディテイト)するとはまた、測量する、という意味でもあります。 さて、冥想は、測量から 完全に自由であることです。 測量は比較です - 「私はこれである」、「私はあれになるだろう」。 比較することです。 比較の影一つも無く、日々の生を生きること。 あなたはそれを、したことがありますか。いいえ。 そのように生きること、 けっしてお手本や、けっして目標や けっして終わりを持たないこと。 けっして未来を持たないこと - 未来は、比較です。「私はこれである」、「私はあれになるだろう」と。 なりゆくことは比較です - それなしに、生きること。 あなたは、美術館に行くとき、比較します。 あなたは、二つの素材を比較します。 一つの布のほうが、他の布より良い。 あなたは、一台の車を、別の車と比較します。 それは自然です。それは必要です。 しかし、内的な比較の感覚を、いつの時も持っていること - それから完全に自由であること。 それが、冥想の一部です。 そのとき頭脳は、比較の感覚すべてから自由です。 物理的に必要なところ - 車、シャツ、衣服など - 以外は、です。 これは可能でしょうか。 けっして比較せず、そのように生きられるでしょうか。 比較しないなら、何が起きるかを、見てください。 葛藤の終わりもまた、あるのです。ですね?
1:09:49 で、冥想は、実践ではなく、 体系ではなく、マントラの反復ではない。 あなたは、その言葉を知っていますか。 その言葉の意味を、知っていますか。 いいえ。でも、あなたはそれを反復します。 ここは、たいへんすばらしい国です! その「マントラ」という言葉の意味は、 じっくり考える、なっていかない、というものです。 それはまた、自己中心的な活動すべてを終わらせる、という意味です。 サンスクリットでその言葉の根本の意味は、 じっくり考える、考慮する、 なっていかない - なりゆくという問いの全体です。 それはまた、自己中心的な活動すべてを、 すっかり片付ける、という意味です。 あなたが幾つかの言葉をもらって、それを反復するのなら、 ゲームをして遊んでいるだけです。 それは値しないのです。 語り手はあなたに、それをしないよう、言っていません。 あなたは、それをしたいのなら、するでしょう - それが楽しいなら。 しかし、それは何の意味もありません- あなたの反復、 ダース単位のアヴェ・マリア、 または、あなたの特定のマントラは。
1:11:49 で、冥想は、恐れから、葛藤の感覚すべてから 自由である、という意味です。 それについて、私たちは話をしてきました。 また、はるかに真剣に、 思考が終わること、です。 思考は - それは時ですが - 止まることが、あるのかどうか。 理解できますか。 で、全的に自由であるという 感覚がないのなら、 そのとき頭脳は、制限されるし、 その活動すべてが、制限されるでしょう。 そして、制限無きもの、時のないものは、けっして見られない。いや、存在できません。
1:13:02 で、私たちは訊ねています - 思考は、時に依り、 時自体なのですが、思考は止まりうるのでしょうか。 たぶんあなたは、この問いを訊ねたことがないでしょう。 もちろん、あなたが意志により それを止めるのではない。それは、ばかげています。 意志により、思考は止められません。 意志は欲望の本質です。 欲望は、前に説明しました。 で、思考が、自発的に 終わりになることが、あるのでしょうか。 当然、あなたが車を運転するとき、思考が使われなければなりません。 あなたがここから自宅へ行くとき、料理するとき、 お皿を洗うときなど、 思考がなければなりません。 心理的な世界において、思考の必要性は、そもそも何なのでしょうか。 思考が本当に理解されるなら - その活動、 その始まり、その起源のすべてが、です。 その起源は、経験、知識、 頭脳に蓄えられた記憶である、と言いました。 その記憶への反応が、思考です。 このすべての過程が、制限されています。 なぜなら、未来も今も、知識は制限されているからです。 あなたが、思考の制限を見る、実際に知覚するとき - それについての想像ではなく、 終わるとの観念ではなく、 実際に、あなた自身で、見える - すなわち、思考は、テクノロジーの世界でも、 心理の世界でも、何をしようとも、 いつも制限されるであろうということを、です。 それの絶対的な事実と、 一定の領域での思考の必要性が、見えるとき、 それに全的な注意を向けるとき、 あなたは、思考が終わりうることを、自分自身で見出すでしょう。 もしあなたが、「すると、どうなる?」と言うなら、あなたは迷っています。 もしあなたが、「思考が終わるなら、何があるのか」、 「もっと何かがあるのか」と言うなら - 私たちの頭脳がどのように働くのか、分かりますか。 すなわち、もし代わりに何かを与えてくれるのなら、 思考が終わりうることは、分かるだろう、と。 いいですか。 思考が終わりうるのなら、あなたは、 何か全然違ったものがあるのを、見出すでしょう。 これが冥想です。 制御ではない。思考の制御ではない。 なぜなら、制御者は思考の一部であるからです。 ですね? で、制御者は、ゲームをして遊んでいるのです。 で、思考を制御しようとしている制御者が、いつもあるのです。 しかし、思考でもある制御者は、制御されるものなのです。 制御者と制御されるものとの間に、分割はありません。 生をとおしてずっと、これを深遠に理解できるなら、 あなたは葛藤を、すっかり消去するでしょう。 頭脳は、条件づけられ、狭められてきて、 ものすごい活力、偉大な無量の能力を 失ってきました。 ゆえに、そのように活動的であるなら、 あなたが、年を取るにつれて、 それは、はるかに活動的になるでしょう。 耄碌(もうろく)するということではない。 これらを理解できますか。
1:18:08 で、冥想は、何か 束縛すべてから、測量すべてから、葛藤すべてから、 全的に自由であることなのです。 それで頭脳は、静かになり、すっかり止まります。 その静寂、静けさは、自らの美しさ、自らの真理を、持っています - 測量不可能なものの絶対的な感覚を、です。 で、冥想は、報償ではありません。 それは、何か、あなたが実践することにより、 覚る、というものではありません- それはすべて子どもっぽいのです。 で、真理は、何か測量されえないものです。 それへの道はありません。 それが美しさです。それが愛です。