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OJ85Q1 - 第1回質疑応答会合
カリフォルニア、オーハイ
1985年5月14日



0:09 (今日は)私は自分の時計を持っています。
0:39 多くの質問が、出されています。 書きとめられています。 それらの中から、幾つかが選ばれています。 私個人は、それらを見ていません。 それら質問すべては、とうてい答えられません。 あまりに多くあるのです。 とても長い時間が掛かるでしょう。
1:10 私たちは自らに問うべきだと、思うのです -なぜ私たちは質問をするのでしょうか。 当然に私たちは、質問をするにちがいありません。 しかし、なぜ質問をするのでしょうか。 誰から答えを期待するのでしょうか。 語り手からか、 誰かものごとを説明してしまえる人からか。 または、私たちは一つの問いについて、対話をできるでしょうか。 すなわち、 あなたは質問をする。 語り手は、その問いに返事する。 すると、あなたは、語り手の応答に返事する。 すると、語り手は、その問いに応答する。 で、それは、テニスをするのに似ています - 行ったり来たり、 ついに、問い自体が、私たち二人の間で、 保留(サスペンディッド)になるまで、です。 すなわち、あなたは質問をする。 すると、私は、語り手は、その質問へ、 返事する。 するとあなたは、私の応答へ応答する。 そして、私たちはこれを続けます。 ついに、あなたの応答と私の応答が、もはや活動を持たなくなるまで、です。 で、問いは、いわば、留保(サスペンディッド)されます。 もしあなたが、それをやってみるなら、 もしあなたが、それをしたことがあるならば - たぶんないでしょう - そのとき問いは、自らの活力を、持ちはじめます - それ自体へ答える自らの緊迫性、 自らの能力を、持ちはじめます。 しかし、私たちが問いに答えるとき、 それはいつも、記憶の背景からです。 それは、先入観かもしれません。 それは、或る種の結論や、 或る信条などなのかもしれません。 で、もしも私たちは、それらを留保して、 問い自体を見つめ、 問いに進展させ、 成長、拡大させられたなら、 そのとき、答えがほしいのなら、それは問いにある - あなたの背景からではないのです。 私の話は明らかになっているのかと、思われます。 それに入るなら、なかなか興味深いのです。 そういう対話をすることは、ごく稀です。 なぜなら、私たちは、答えを見つけることに、とても熱心であるからです。 私たちはけっして、問いを見つめません。 問いを進展、拡大させ、その物語を語らせません。 あなたが、何も、いわば、逸脱なく、 問いを見守るにつれて、 問い自体が、とてつもない意味を持つのです。 これは明らかですか。
5:09 で、私たちはそのように、これら問いを見つめましょう。 私たちは、問いを見守り、聞こうとしています。 語り手は、これら質問を読んでいないので、 あなたと語り手は、このゲームを 、行ったり来たりを、 できるのです。 ついに、ボールが、空中に留保されるまで、です。 もしもこれができたなら、 それが本当に、対話を行う芸術です - その中で、参加者が参加しない会話、 疎通の技術です。 面白半分で、これをやってみますか。 すると、あなたは分かるでしょう - 問いが、問いのまさに中心から 応答しはじめるということが、です。 では、やってみましょう。 すなわち、あなたと語り手は、対話しようとしています。 その中に、あなたと語り手は、参加しています。 彼らは、質問者と、質問に答える人という 役割を演じません。 むしろともに、私たちは、自分たちの背景を、脇に置こうとしています - 何かそれを持っていれば、ですが。 そのとき、問い自体が動きはじめます。 自らの活動を持ちはじめます。 それをしましょうか。
7:25 そうですね、 語り手は、幸か不幸か、 世界中で話をしてきました - 鉄のカーテンや 竹のカーテンの向こう以外では、です。 彼には、あらゆる種類の質問が、出されます。 語り手は、単に記憶から答えるのなら、 彼にとって、何も面白くはありません。 それは、蓄音機を繰り返すようなものでしょう。 しかし、自分の性向と指向と、 自分の取得した知識を、 脇に置いて、 問いと、問いを訊ねている人物を 見つめるなら - 彼の顔、身振りを見つめ、 なぜ彼は質問をしているのか、 彼の表情はどうなのかを、見つめるなら、 そのとき、それはきわめて表面的な問いであり、 ただあなたの気を引くために、出されたのか、または、 あなたのすばやい応答がどうだろうかを見るためか、などが、分かります。 しかし、ちょうど今言いましたように、もしもこれができたなら、 - すなわち、行ったり来たりが、です - そして、問い自体に応答させられたなら、 そのとき、問いの中の答えは、とてつもなく意義深くなるのです。 いいですね?私たちはそれができます。
9:30 第一の質問: 「どうか、罪悪の機構と、 自我に対するその関係を、さらに探検してくださるでしょうか。」
9:42 「どうか、罪悪の機構と、 自我に対するその関係を、 さらに探検してくださるでしょうか。」
9:54 自我とは、人物、 精神・心理(サイキ)、 主観的な実体です。 それが、一般的に自我と呼ばれるものです。 「私」と「あなた」です。 質問はこうです - 罪悪は、その機構は、 自己の構造全体にとって、どんな関係があるのでしょうか。
10:27 今、私はあなたに対して、その質問をしています。 あなたは、それへ返事しようとしています- 私に対し、語り手に対してです。 すると、私はあなたに答えるし、すると、あなたは私に答えるでしょう。 で、私たちはこれを続けます - ついに、私たちが疲れ果ててしまい、 もはや腕に力がなくなるまで、です。 それで、問いが残ります。 問いは挑戦です。 問いは、あなたが向き合い、解消しなくてはいけない問題です。 私たちは、何の問題をも、けっして解消させません。 なぜなら、私たちはいつも、自分の背景から答えているからです。 ですね? で、この問いに入りましょう。 あなたは、ゲームをしています。 ただ私から、語り手から 聞かないでください。
11:34 罪悪とは、何でしょうか。 そして、自我に対するその関係は、何でしょうか - 人類の、男、女などの 意識全体に対して、です。 罪悪は、何でしょうか。 なぜ、この甚大な罪悪感を、持っているのでしょうか。 それは、ごくごく表面的なのかも、 ごくごく深いのかもしれません - 子どもの頃から根づき、 年を重ねるにつれて、成長するのを許される。 その罪悪感により、 とても空っぽに感じさせられるのか - これらはご存じでしょう。空っぽ、 何もできないとの感覚です。 その罪悪の中から、自己のまわりに壁を築きます。 その壁は、さらなる疎通を妨害します。 または、その罪悪に怯えます - あなたは、子どもの頃から私に対して、何かをするよう言ってきました。 私はそれができません。でも、それをしなければならないと感じます。 私は、やり損ねると、罪悪を感じます。 親たちは、これにひどい役割をはたします。 すみません。 彼らは、意識的、無意識的に、この罪悪を助長します。 それで、この罪悪が、自我の一部、 私の一部になるのです。
13:48 その質問 - 二つの間の関係は何か - を問うことは、 間違いだろうと、私は考えます。 質問がいかに進展しつつあるのかは、理解できますか。 それは、二つの別々のことではないのです。 それは、他の要因とともに、罪悪を感じることの結果です。 それが、自我を構成するのです。 それらは、二つの分離した活動や、二つの分離した反応ではないのです。 で、罪悪は、精神(サイキ)の一部、 自我の一部、「私」の一部です。
14:35 さて、なぜ罪悪を感じるのでしょうか。 あなたに罪悪を感じさせ、 あなたをその状態に抑える人々は、別にして、です - それは、彼らにとって、とても便利であるからです。 彼らは、人々をいじめるのが好きですし、 罪悪感をもたらします - あなたは服従しなければならない、 受け入れなければならない、従わなければならないとの感じを、もたらします。 あなたは、それに反逆するけれども、 それを地下に保っておき、自分の罪悪にすがりつくのです。 ですね? 他の要因も、自我を、「私」を 作り上げます。 また、罪悪により、 ひどくさびしく感じます。 ですね?私たちは、お互いに話をしているでしょうか。 憂鬱の感覚。 その罪悪が、きわめて深く強いのなら、 私はそれを解消できません。 ゆえに、私はあなたへ来て、 「どうか、この罪悪を乗り越えるのを手助けしください」と言う。 すると、あなたは、上役であるなら、 もう一つの罪悪の反応を、賦課します。 で、それが続きます。
16:15 私は訊ねています、私たちは訊ねています - なぜそもそも、この感じは存在するのでしょうか。 それは、宗教において、助長されるのではないでしょうか - 正統的な諸宗教、です。 キリスト教には、原罪があり、 救い主があります。 ゆえに、私は罪悪を感じ、懺悔しなければなりません。 そして、全サーカスが、始まります。 その言葉を使うとしても、お許しください。 それは様々な形を取ります。 キリスト教世界では、懺悔、赦免です。 アジア世界では、違った形を取ります。 彼らは寺院に参ります - そうですね、あらゆる種類のことを、彼らはします。 しかし、それを感じることは、必要でしょうか。 これが何もない教育が、ありうるでしょうか。 どうなんでしょう。 どうか、私たちはともにゲームをしているのです。 この罪悪感や助長がない 種類の子育てが、 あるのでしょうか。
17:51 罪悪は問題となります。 ですね? すると、私たちは、問題とは何かを、理解しなくてはいけません。 これらに付いてきていますか。 これらに興味がありますか。
18:12 質問者: 何かを言ってもいいですか。
18:14 K: はい、マダム。
18:16 質問者: 私は理解できないことがあり、 あなたにお訊きしたいのです。 罪悪が今の瞬間、起きていないのなら、どうやって罪悪を、見つめられるのでしょうか - 自分の背景をのぞきこまないで、です。
18:31 K: 質問が理解できません。

質問者: 罪悪が今の瞬間に起きていないのなら、 自分の背景をのぞき込むことなく、 どうやって罪悪を見つめられるのでしょうか。
18:38 K: それには、一分後に入るでしょう。 これを終了させてください。 私たちは、或ることを追求しています。 それは少し後に、持ち込んでください。 私はどこにいましたか?
18:55 質問者: 罪悪なしの子育てです。
18:58 質問者: 問題とは何か、です。

K: ああ、そうだ!
19:05 K: 罪悪は問題となります -それをどのように解消するのか、 それをどのように済ませるのか。 それとともに、あらゆる種類のことが、始まります。 そのとき私たちは、それを問題とするのです。 さて、問題とは何でしょうか。 人間たちは見たところ、幾千もの問題を持っています - 政治的、宗教的、経済的、 性的、関係 - お分かりですか。 生、生きることは、問題となりますし、 一般的に罪悪と関連づけられます - その一部は、です。 問題(プロブレム)とは、何でしょうか。 その言葉の意味は、 かなり長い言葉を使ってよければ、語源的に、 「何か投げつけられたもの」という意味です。 挑戦が叩きつけられたように、です。 問題は、何か投げつけられたもの、浴びせかけられたもの、という意味です。 それには、向き合わなくてはいけません。 何が起きるでしょうか。 政治的な問題などがあります。 これら政治的な問題は、けっして解決されません。 一つの問題のまさに解決において、 他の諸問題が増大し、 発達します。 で、まず初めに、その問いに入りましょう - なぜ人間たちは、そもそも問題を持つのか、です。 私が訊ねていることを、理解できますか。 あなたは問題を持っているでしょう。 なぜあなたは、問題を持っているのでしょうか。 ただ一つも - 私たちはその問いに入るでしょう。 少し後に、それに答えてください - ただ一つも問題を持たないことは、可能でしょうか - 性的、宗教的、政治的、経済的、 関係など。 で、見出しましょう - あなたは、私とゲームをしています - なぜ人間たちは、問題を持つかを、見出しましょう。
21:49 子どもの頃から - そのとき、子どもは学校へ行きます。 その子にとり、書くことが問題になります。 ですね? 読むこと、字を綴ること、 それから、数学、地理学、歴史、 生物学、化学、理科、 考古学など。 で、まさに始まりから、 その子は、問題を持つよう訓練されるか、条件づけられるのです。 ですね?これは明白です。 で、彼の頭脳は、問題を持つよう、条件づけられます。 ですね?あなたはゲームをしていますか。 実質的に、生まれた瞬間から死ぬまで、彼の生のすべて、です。 頭脳は、諸問題の中に生きるのを、継続します。 なぜなら、彼は教育され、養成されてきたからです。 そして、比較、試験、 賞罰などの システム全体です。 それらが、頭脳に、問題を受け取るだけでなく、 自らの問題を持つよう、させてきたのです。 それはそのように条件づけられます。 ゆえに、けっして問題を解決できません。 で、まさに最初から、 子どもに、または私たち自身に、 問題を与えないことは、可能でしょうか。 それはこういう意味です - 頭脳は、 諸問題とともに生きる自らの条件づけから、自由になれるでしょうか。 頭脳は、自由であるとき、問題を解決できます。 それらが何であるかは、大事なことではありません。 私たちは、ともにここにいますか。
24:07 質問者: どうやって取りかかれば・・・

K: 取りかからないでください。
24:13 質問者: いえ、私は身体組織の原因について、話しています。例えば、 仮に私は癌に罹っている。私は死にかけていて・・・
24:18 K: お待ちください。あなたは死にかけていません。 あなたはここに座っています。 理論を持ち込まないでください。 ただ見る、聞く。ただ聞く。 お分かりでしょう、私たちは即時に、理論的になるのです。 それは、ゲームをすることではない。 あなたの前には、ボールがあります。あなたは、 「まあ、太陽や月について、話そうか。 死やこれやあれについて」 とは言えません。 お許しください。
24:50 で、何も問題を持たないで、問題に答えられる頭脳を、 持つことは、可能でしょうか。 なぜなら、私は問題を持っているからです。 さて、それは可能でしょうか。 なぜなら、あなたは問題を持っているかぎり、 それらを解消しなければならないとの感じを、持つにちがいないからです。 それらを解消できないなら、罪悪を感じます。 それで私たちは、これを続けます。 そのとき、他の人たちが来て、私たちを手助けします。 再び全部のことが、違った形で始まります。
25:36 この問いの中から、もう一つのことが、浮かんできます。 なぜ私たちは、助けを探し求めるのでしょうか。 あなたたちは、語り手から、助けを探し求めようとしていますか。 それについて、少し正直でありましょう。 あなたは、彼から助けを探し求めようとしていますか。 彼は言います - 「すみません。 私はあなたを助けようとしていません」と。 心理的に、主観的な状態のために、 他の人の助けを求めるのは、怖ろしいことです。 私たちは、幾千年もの間、助けを求めてきました - 神、 司祭者と、 司祭職の育成、 それから、心理学者たち。 私たちは指導者が欲しいのです。 物理的に彼らは、どのように生活すべきかを、言ってくれるでしょう - どのように体操すべきか、何を食べるべきか、 どのように櫛で髪をすくべきか等を、です。 で、なぜ私たちは、そもそも助けを求めるのでしょうか。 問いを理解できますか。問いを聞いてください。 すなわち、罪悪の機構へ、 自我に対するそれの関係へ、入る。 私たちは、二つを分離しないでください、と言いました。 なぜなら、罪悪は自我の一部、「私」の一部であるからです。 それは分離していません。 ゆえに、それは、何か関係したものではありません。 それはそこにあります。 で、私たちはそれを理解しました -行ったり来たり、です。 それから私たちは言いました -なぜ私たちは問題を持つのでしょうか。 問題は、子どもの頃から存在します - 学校へ行く子どもから、です。 その子は、問題を持つよう教育されます。 で、彼の生全体が、問題となります - 憂鬱、心配などです。 私は行って、他の人に訊ねます。 それは、私は他の人から助けを求めている、という意味です。 その他者は私自身です。 彼は、自らの問題を持っています。 彼は憂鬱になる。彼はさびしく感じる。 彼は導師になりたい。でも、お気の毒、彼はなれません。 ですね?笑わないでください。 彼は、自尊心で燃え立ってます。 または、自分の知識等で、です。 で、その他者はあなたです。 あなたがこれを悟られるのかと、思われます。 ゆえに、助けを求めることが、何の役に立つのでしょうか。
28:52 で、私たちは発見します - 問いの究明や探検の中で、 問いが、これらに答えはじめるのです。 語り手がそれを創案したのではない。 それは地図に似ています。 それを拡げる。地図の全体を見つめる。 地図の特定部分を、ではない。 しかし、地図を見つめるとき、 私たちは、特定の町や道路へ行きたいのですが、 全体を取り込みません。 もし全体を取り込み、それからその地点に来るのなら、 それは、異なったそれの見方です。 ですね?私たちはともに、ここにいますか。 よろしい。
29:39 質問: あなたが誰かを傷つけるとき、不正を行ったとき、 直接的には子ども時代に関連していない 別の形の罪悪が、あります。 それは別の種類の罪悪です。それは実在です。
29:53 K: 聞こえませんよ、ワイニンガー博士。
29:58 質問者: 別の種類の罪悪が、あります - 他の人に対する傷や不正ゆえのものです。
30:04 K: ああ、はい。もちろんです。 あなたが私を殴ったが、私は殴り返せない。 でも、私は感じる、等です。 それらを含めてください。 様々な部分を取って、それらを組み立てないでください。 諸部分では、全体になりません。 全体が見えるなら、諸部分が見えます。 それが、問うことの趣旨です。 問いを見つめる - 行ったり来たりし、付け足し、付け足すのではなく、見つめるなら、 問い自体が、全領域を覆います。 ですね?ここまでは、明らかですか。 次の問いへ行ってもいいですか。
30:49 質問者: すると、罪悪の根は、 実際にあるものと、自分のなりたいもの、提起された理想との間の 相違、分割なのでしょうか。
31:03 K: あなたは、こう訊ねておられるのでしょうか - 私たちは事実を見つめて、 事実から理想、観念を創り出さないことは、できるのか、と。

質問者: はい。
31:15 K: さて、問いをただ聞いてください。 すなわち、事実があり、 そして、理想です。 または、事実から乖離した理想です。 ですね?それが、彼が訊ねておられることです。 戦争があります。 理想は、戦争がないこと、平和です。 ですね?事実は戦争です。 なぜあなたは、その中から理想を創り出すのでしょうか。 観念を、です。 で、観念は事実ではありません。 で、私たちは、事実とともに留まり、戦争について 理想や理論を持たないことが、できるでしょうか。 戦争中に、あなたは私を殺します。 あなたは私を殺す - それは事実です。 あなたは励まされる。愛国心、その他すべてです -あなたは私を殺します。 しかし、戦争について観念を持つ人々が、います。 すなわち、殺してはいけない、正気でないといけない、 合理的でないといけない、親切でないといけない、寛大でないといけない、と。 しかし、それらはすべて無意味です。 実際にあなたは、私を殺しつつあるのです。 で、事実とともに留まり、事実を見つめましょう。 そのとき、それについて何かをできるのです。 ですね? 次へ移りましょう。 一息つきますか。
32:51 第二の質問: 「進化は、人種的集団に、 一定の身体的違いをもたらしてきました。 また、特定人種の幼児に生まれた 並行的な心理的違いも、あるのでしょうか。 それらは、(後天的に)取得された条件づけだけでしょうか。 条件づけが(遺伝的に)継承されるのなら、 それは本当に変化されうるのか、それとも、後に残るのでしょうか。」
33:27 長い質問です。 で、お気になさらないなら、もう一度、読みましょう。 「進化は、人種的集団に、一定の身体的違いを もたらしてきました。 また、特定人種の幼児に生まれた 並行的な心理的違いも、あるのでしょうか。 それらは、(後天的に)取得された条件づけだけでしょうか。 条件づけが(遺伝的に)継承されるのなら、 それは本当に変化されうるのか、それとも、後に残るのでしょうか。」 質問を理解しましたか。
34:11 質問者: はい。
34:17 K: 仮に、私が中国に生まれた、としましょう。 黄色い肌、 つり上がった目です。 どうか、私はただ観察しているだけです。 私は批判していません。 他のほうが美しい、他はそうでないとは、言っていません。 私は中国に生まれました。 一定の特有の心理的、生物学的な事実をもって、 - 背が低い。 ピンクっぽい肌ではない。 そちらのほうが、流行ですが、 そして、つり上がった目など。 それは物理的な事実です。 質問者は訊ねます - その物理的事実は、 中国人の精神(サイキ)に影響するのでしょうか、と。 理解できますか。 いいですか。私たちは一緒にここにいますか。 後で、「私ははっきりしない」と言わないでください。 すなわち、私は中国で生まれました。 私は中国人です。 私は、一定の身体的、生物学的な特徴を、持っています - 顔、手足、両手、歩み。 私は、たくさんの重荷に耐えられる - 物理的な重荷に、などです。 その外的な生物学的、生理学的な事実は、 精神・心理(サイキ)に、 精神の構造に、影響するのでしょうか。 人種的な条件付けは、 精神・心理(サイキ)に影響するのでしょうか。 それが問いです。
36:29 私は、理論的には知りません。 しかし、仮に、私がインドに生まれた、とします。 それは同じことに到ります。 彼らは、違った肌色をしています。 彼らは、はるかに微妙で、はるかに神経質で、 はるかに利巧です - すみません。ごめんなさい。 はるかに理論的で、 はるかに分析的です。 しかし彼らは、それを越えません。 彼らはみんな、ここまで上がっています -彼らの何人かは、です。 彼らは、行きつ戻りつ、議論できます。 のべつまくなく議論します。 つづけに、つづけ、つづけます。 で、その能力すべて、 三千五百年のその知的訓練すべて - それは、精神(サイキ)に影響するのでしょうか。 それは、条件づけに影響するのでしょうか。 (仮に、)私はこの国の黒人に生まれました - 特有の身体的現象すべてをもって、です。 身体組織のその外的構造は、内へ影響するのでしょうか。 私は(遺伝的に)身体的なものを継承し、 それが精神へ影響するのでしょうか。 理解できますか。私たちは一緒にここにいますか。 精神(サイキ)、主観的状態 - それは、残りの人類と違っているのでしょうか。 あなたは白い。あなたは背が高い。 あなたは一定のことができる。 そして、私はインドに生まれた - 異なった生物学的、生理学的条件づけをもつ。 それは、精神・心理(サイキ)へ影響するのでしょうか。 あなたは苦しまないですか。私は苦しまないですか。 あなたは、様々な形の恐れを経ませんか。 私もそうです。私がシナで生活しても、ここでも、 または、黒くても、白くても、紫でも、何であっても、です。 子どもは、生物学的条件付けを、(遺伝的に)継承するのでしょうか。 これらに付いてきておられますか。 あなたが問いを聞くことを、私は願っています。 そのときあなたは、問いに答えられます - あなたが本当に問いを聞くなら、です。 質問者は言います - 身体的な条件づけは、精神・心理(サイキ)を形作るでしょうか。 それは人種的に、子ども時代を条件づけるでしょうか。 私がこの国で黒人として生まれたら、あなたは、 私をわずかに脇に押しやります。 むしろ私を非難するか、私を見下します。 私は、劣等に感じ、罪悪を感じます。 これらに付いてきてください。罪悪 -それであなたは、私を搾取します。 これは、世界中で起きています。 これは、何かこの国に限定されただけのことではありません。 インドには、大変多くの肌の色の先入観が、あります。 色白なほど、良いのです。 彼らは、色白の女の子や男の子と結婚したがります。 付いてきていますか。これは、世界中で同じです。 それは可笑しく聞こえるし、かなりバカげていますが、それは事実です。 質問者は言います - その人種的、生物学的条件は、その子に 影響するのか。 その子は、成長するにつれて、生物学的な例外になるのか。
41:07 私は、ならないと思いますね。 これは理論ではありません。 私は、世界中でこのゲームが行われるのを、見守ってきました。 すなわち、自分たちは人種的に優位だと考える人たち - なぜなら、自分たちは色白であるとか何でもであるから、と。 そのとき、彼らはさらに進んで、そうでない他の人たちを、条件づけます。 そのとき、彼らは、それは人種的な遺伝であると考えるし、 罪悪を感じるとか、その他すべてです。 しかし、これらのことを、ごく近くで観察するにつれて - 研究せず、書物とそれらに入らずに、です - 旅行するとき、たとえこの国で生活していても、 これらを観察します。 そして、根源的に、私たちは心理的に同じであるのが、見えます。 あなたは苦しむ、私は苦しむ。 白人、黒人、それら、です。 私たちは苦しむ。私たちは苦悶する。 私たちは罪悪を感じる。 私たちは、心配、不安全、混乱、 憂鬱等を感じる。あなたのように。 ですが、私たちは、それを認識しません。 なぜなら、私たちはとても非人間的であるからです。 私たちは、心理的に似ています。 それはこれを意味します - どうか聞いてください。 それは、あなたが全人類であることを、意味します。 なぜなら、あなたは苦しむし、あなたは苦悶を経るからです。 私はそうですし、彼はそうです。 シナ人、ロシア人などです。 で、あなたは全人類です。 それは、ものすごい悟りです。 その他すべてをともなった、個のアメリカ人ではない。 それは、理論ではない。 それは、理想、何かユートピア的なことではない。 それは、実際の日常的な事実です。 私たちはゲームをしているでしょうか。 それは、実際の日常的な事実です。
43:32 質問者: 条件付けは、それぐらい深く行くだけだと、あなたは、おっしゃっています。
43:38 K: ええ、条件付けは皮膚の深さだけ - あなたがそのように表したいなら、です。 生物学的な条件づけです。 他の形のあらゆる種類の条件づけが、あります - それは、人種に関係していなくて、 精神・心理(サイキ)の条件づけです。 そこには、安全でありたいとの願望があります - 「私はアメリカ人だ。
44:07 私は安全に感じる」と。

質問者: それはまだ・・・ 

K: どうか、お願いです。 または、イギリス人やフランス人、そう、その全部です。 そして、他方の問いは、こうです - この心理的な条件付けや、 継承された条件づけ - 親に言われるという意味で、です。 私は少年の時、初めてイングランドへ来たとき、言われました - 「あなたはインド人だ。生け垣の向こうを覗くな」と。 理解できますか。すでに植え付けられた。罪悪です。 幸いに私は、その種のゲームをやりませんでした。 で、この心理的な条件づけを、置き去りにするか、 それから自由になることは、可能でしょうか。 理解できますか。 明白に、自らの注意をそれに向けるなら - 分析的にでなく、ただ観察する - あなたが、鏡で自分の顔を観察するように、自分の反応を観察する。 歪曲なく、です。 それは、他の一人との関係において、できるだけです。 そのとき関係は、鏡になります。 その中に、まさにありのままに、あなた自身が見えるのです。 あなたが、そのイメージを保っておきたいのなら、保ってください。 それが好きでないなら、壊してください。 それは、何かものすごく難儀なことや困難なことではありません。 私たちはそうしたいのです。 なぜなら、私たちは、より深い感覚で、罪悪を感じているからです - 「私たちはこれをしなければならない」、「あれをしなければならない」、 「私たちは高尚で、勇敢でなければならない」と。
46:20 で、その問いは、 私たちが何も先入観なく、それに来て、 何も結論なく、接近するなら、 そのとき、問いはものすごい区画を覆うのです。 理解できますか。 次の問いへ進んでもいいでしょうか。

質問者: はい。
46:49 K: 私はこの問いに答えたでしょうか -誰にせよ、それを出したご婦人は? よし。 それに答えたのではなく、あなたはそれを解消しました。
47:09 第三の質問: 「あなたの本からの収入は、個人的に あなたへ行かない、と言われます。 あなたはどう生活されるのかを、お訊きしてもいいですか。」
47:24 「あなたの本からの収入は、個人的に あなたへ行かない、と言われます。 あなたはどう生活されるのかを、お訊きしてもいいですか。」
47:35 本当にこれに興味がありますか。 答えましょう。それはとても単純です。 あなたは本当に、この問いに関心がありますか。
47:49 質問者: いいえ、本当はそうでもない。 飛ばしてください。
47:52 K: そこに出されているので、答えましょう。 それに入りましょう。 個人的に、私は何もお金を持っていません。 私はほしくありません。 私は、城、お屋敷を提供されたことがあります。 私は、映画に出るよう、頼まれたことがあります - 大変多くのお金が、私に提示されました。 私はお金を持ってません。 で、起きたことは、ごく、ごく、ごく単純に表すと、 私がインドへ行くとき、そこの財団が、私の世話をしてくれます - 私の衣服、洗濯、食べ物、 私が病気なら、医師と、 そこでの旅行のために、です。 私はインド中を旅行します。 私がヨーロッパへ行くとき、ヨーロッパの財団、 すなわち、イングランドの財団に加えて、フランスなど、 彼らがKを支援します。 私がここに来るとき、全く同じことがなされます。 とても単純です。それは答えられましたか。
49:04 質問者: はい。

K: よし。 いいえ、どうぞ。
49:11 第四の質問: 「なぜあなたは、心理的な進歩はないと、言うのでしょうか。」
49:17 「なぜあなたは、心理的な進歩はないと、言うのでしょうか。」
49:24 これは本当に、とても深刻な問いです。 前のものとは違って、これはとても深刻な問いです。
49:38 私たちがいう進化とは、どういう意味でしょうか。 私はあなたに訊ねています。 それには言語的に答えられません。 なぜなら、あまりに多くの人がいるからです。 しかし、答えなければなりません。 あなたがいう進化とは、どういう意味でしょうか。 ここのオークの樹は、 そのドングリを落とします。 それから、樹が成長します。 それは、進化すること、成長すること、 増殖することです。ですね? また私たちは、最古の時代から進化してきました。 ついに、今ある私たちまで、です -生物学に、 身体組織的に、です。 これに、私たちは二、三百万年が掛かりました - 心理的に、今ある私たちへ成長するには、です。 これは明白です。 私たちはゲームをするのでしょうか。 あなたはゲームをしているでしょうか。 それは、あなたのコートにあるのです。
50:52 で、私たちは生物学的だけでなく、心理的、内的、 主観的にも、進化してきました。 私たちは、三本目の腕や四本目の腕を、成長させられません。 それはありえません - 私たちはたぶん生物学的に、限界に達したのでしょう。 しかし、心理的、主観的に私たちは、 自らが成長できる、 何かになれると、考えます - もっと高尚で、もっと勇敢で、 より暴力的でなく、より残忍でなく、残酷でない何かに、と。付いてきていますか。 私たちにとって、心理的成長の観念は、 ものすごく重要です。 さもないと、自我は何の意味をも持ちません。 あなたがこれに付いてくるのかどうか、私は知りません。 「私は、なるために冥想する。」 「私は、頭脳を静かに保つために、呼吸する。」 私はいつの時も、なりつつあります。 ビジネスの世界でも、 テクノロジーの世界でも、 技能の世界でも、私はいつも、より良いものになりつつあります。 私は、二年前の自分より、もっと良い大工である - もっと良い電気技師、もっとより化学者、もっと良いこれ、もっと良いあれである。 私は同じ動きを、精神・心理(サイキ)に適用します。 あなたがこれらに付いてきているかどうか、私は知りません。 すなわち、私は、何かになろうとしています - 心理的に、です。 これに付いてきていますか。 それは事実ですか。 いいえ、どうか、これはとても重要です。なぜなら、 本当にこれを理解し、それに入るなら、 私たちの生全体が、変化するからです。 理解できますか。
53:09 善は、 より善いものの敵でしょうか。 質問は理解できますか。

質問者: いいえ。
53:22 K: 善、およびその意味すべて -私たちはそれに入るでしょう - そして、私はより善くなろう。 私は善いであろう、とか、私は善い。 だが、私は明日、より善くなるだろう。 より善い、と。 で、より善いは、善いものの敵なのです。 あなたがこれに付いてきているかどうか、私は知りません。 私はこれに入るでしょう。 で、心理的な進化が、あるのでしょうか。 または、今日の私なるものに、私は明日、なるでしょう。 理解できますか。 私たちは心理的に、五千から三千年、進化してきました。 - もっと、もっと、です。 とんでもない。私は何を言っているのか、 八千年、一万年です - それに入ったことがあるならば。 私は、人類のいにしえの動きには、入りません。 これを研究した人々が、私に語ってくれました。 ゆえに、私は、彼らが語ってくれたことを、繰り返すだけでしょう - それは、あなたが見出せます。 しかし、私は問うています、私たちは問うています - 心理的な成長、より良くなることが、 そもそも、あるのかどうかを、です。 そして、私たちが時間をとおし、百万年、 五万年をとおして、より良くなってきた、 はるかに進化してきたということなら - それは、事実でしょうか。
55:22 K: 答えてください。

質問者: 私が思うには・・・
55:26 K: マダム、みなさんが話をするなら、不可能になります - あなたは話すでしょうし、彼は話すでしょう。 ただ考え、それを見つめてください。 すると、私たちは意思疎通するでしょう - 言語的にだけでなく、それから、非言語的にも、です。 私は、この地上に 二、三百万年前か、五万年前、 または、たとえ八千年前から 生きてきた人間として、 私は進化したのでしょうか。 進化した -
56:08 あなたは心理的に そうなりましたか。 あなたは、始まりに自らがそうだったようではないですか - 多かれ少なかれ、です 多くというより少なく。でも、多かれ少なかれ、です。 残忍で、暴力的で、攻撃的で、 安全でない。 自分の部族のため、神のため、国のために、殺したいと思っている。 それは存在してきました - 同じ現象は、 時の始まりからです。 そこでは、棍棒で男や女を殴りました。 それから、弓矢がありました。 それから、素朴な銃がありました。 今、私たちは進化して、中性子爆弾を持っています。 考えてください - ものすごい進歩です。 いいえ、お笑いにならないでください。 気をつけて見つめてください。 しかし、弓術者の裏、 銃の裏、鉄砲の裏の人と、 上空、五万フィートにいて、 中性子爆弾を落とす人 - 人は同じです。 ですね?これは事実です。 彼は、月に旗を立てるかもしれません。 そして彼は、「あそこに表象されているのは、わが国である」と言う。
57:54 いいえ、見てください。 気をつけて、これらを考慮してください。 私は、自分が言っていることを信じるよう、お願いしていません。 見てください。 それで訊ねます - 心理的な成長は、あるのでしょうか。 それとも、心理的に終わることでしょうか - 成長でなく、何かへなっていくことではない。 私が言っていることを、理解できますか。

質問者: はい。
58:29 K: 私は、今日暴力を終わらせないなら - その暴力は、人間の中に百万年前に 存在してきました - 私はその暴力を、置き去りにしないか、落とさないか、 根源的に変異をもたらさないのなら、 私は明日、暴力的になるでしょう。 それは事実です。 で、進化としての、精神・心理(サイキ)の 進歩、発達が、あるのでしょうか。 私にとって個人的には、ありません。 私にとって、です。受け入れないでください。 私はゲームをしています。 あなたへボールを返しています。
59:23 で、そのとき問いが残ります - 私は、現在の私なるものです。 ですね? 私は、これまで私であったものでした。 私は、これまで私であったものなのです。 私は、記憶すべてです - 人種的、 宗教的、教育的、旅行。 そのすべてが、過去です - それが「私」です。 ですね? 私の経験、大物になりたいとの私の欲望、 重要になりたいとの私の欲望、 導師になりたいとの私の欲望、 誰かになりたいとの私の欲望 - 私はそうではないですが、言っているだけです。 そのすべてが過去です - それが「私」です。 私は、それらを落とさないなら、明日、まさしく同じものになるでしょう。 この発言から、問いが生じます -それは可能でしょうか。 理解できますか。 それらを手放すことは、可能でしょうか。 努力をとおしてではなく、 決意、欲望をとおしてではない - それは再び、もう一つの達成になるのです。 このすべては、落とされるでしょうか。 それは、あなたのコートにあります。 私が答えるのを、待たないでください。 それは、あなたのコートにあります。 あなたが、その質問をしています - 自らが背景であるのを悟って、です あなたは、蓄積されたすべてです。人種的、宗教的、 経済的、科学的、 政治的 - そのすべてが、精神・心理(サイキ)のあなたの条件づけです。 あなたは二千年間、キリスト教徒であるよう、プログラムされてきました。 他の人たちは、彼らなりの形で、訓練されています。 先日、誰かが言いました。 彼らは、ブッダの座った像を見て、 そうですね、あなたは仏像を見たことがありますね。 そして誰かが言いました - あの男が、一日中あのように 座っていて、何の役に立つんだろう、と。 それは、キリスト教徒が言いました。 気をつけて、聞いてください。 私の横に、他の誰かがいて、言いました - 「あの男が一日中、あの十字架にぶら下がっていて、何になるんだろう」と。 いいえ、笑わないでください。これらを見てください!
1:02:34 私たちは、自らの先入観、条件づけに応じて、行為し、考え、感じます。 私は仏教徒であり、もしもあなたが、それを私に言ったなら、 私は怖ろしくうろたえるでしょう。 私は怒り、暴力的になるでしょう。 なぜなら、私はあの仏像を崇拝するからです。 しかし、もしも私がキリスト教徒であって、あなたが、 「あの壁にあの男がぶら下がって、何になるんだろう」と言うなら - お分かりですか。あなたはショックを受けます。受けるにちがいありません。 で、これらを見つめられるでしょうか - 先入観の影一つなしに、です。 理解できますか。 意見、条件づけの影一つなく、 そのため私たちは、 各人がイメージを創り出し、それを崇拝することを、悟るのです。
1:03:34 昔、昔、私たちが知っている人がいました - 彼は、浜辺を歩いていて、 枝を一本、拾いました。 それぐらいの棒きれです。 それは、人の姿をしていました。 彼はそれを家に持ち帰り - それは事実です - それを、(暖炉の)マントルピースに載せました。 或る日、彼はそれに花を置きました。 数日後、彼はそれに花輪を掛けて、 礼拝をはじめました。お分かりですか。 人間たちは、自らの条件づけから、 自らの像を創り出す。 で、そもそも心理的な進化が、あるのでしょうか。 それとも、終わることだけが、あるのでしょうか - なりゆくことではない。 すなわち、暴力が終わることです。 私はそれを、一例として取り上げています。 暴力を完全に終わらせる - 明日ではなく、今、です。 暴力の意味合い全体を、理解する - 攻撃性、野心、 罪悪感の一部、そして、私はなりたくない、と。 お分かりですか。 成長、心理的成長の 概念全体。 もちろん、赤ちゃんは成長して大人になる。 老齢になり、ぽっくり逝く。 そうなのです。 それは、直しえない一つの事実です - すなわち、私たちはみんな、墓に収まるか、火葬されるかになります。 で、この問いを見つめ、私たち自身に 質問し、それの真理を見出さなくてはいけません。 ただ、「はい。私はそう思う」とか「そう思わない」とか言って、 来る日も来る日も、続けていくのではない。
1:06:03 第五の質問: 「平和に生きることは、大きな智恵を必要とします。 どうか、これを詳しくしてください。」
1:06:13 「平和に生きることは、大きな智恵を必要とします。 どうか、これを詳しくしてください。」
1:06:21 語り手は、第一回の講話か以前に、言いました - 平和に生きるには、大きな智恵が必要である、と。 問いは、こうです - それに入り、それについて議論し、対話をしてください、と。
1:06:46 智恵は、何なのでしょうか。 私はあなたに質問をしています。 あなたはそれに答えなければなりません。 あなたたちのみんなではない。 あなた自身に答えてください。 智恵(インテリジェンス)は何でしょうか。 その言葉の意味は、ラテン語などで - 辞書の意味です - 「行間を読む」、 「情報を集める」、 「知識を取得する」、 「他人と自己の経験を蓄積する」という意味です。 経験から知識、 そして、もっと知識を与えてくれる情報を、集めることです。 それが一般的に、その言葉の意味です - 辞書では、です。 それが普通の用法です。
1:08:00 月へ行くには、 多大な智恵が、要ります とてつもない種類の智恵です。 数千、数万の人々 - 文字通り、数万の人々が、協働し、 あらゆる詳細が、完璧でなくてはなりませんでした。 私は、三千とか三十万とか、聞かされました。 私はその数を忘れてしまいましたが、 彼らは、一人一人が完璧なことをし、一歩一歩協働しなくてはなりませんでした。 それから、彼らは構築等をし、月へ行きました。 それは、智恵を必要とします。 また、コンピューターを構築することもまた、智恵を必要とします。 それをプログラムすることは、智恵を必要とします。 コミュニケーションを創案、発明する - こことニューヨークとデリーとモスクワの間の急速なコミュニケーションです - それは、ものすごい種類の智恵を必要とします。 その智恵は - どうか聞いてください。 私たちはゲームをしています - その智恵は、知識に基づいています。 経験に基づき、技能に基づいています。 ですね? それは、思考のとてつもない智恵です。 これははっきりしていますか。 手術を行う外科医 - 彼は、技能が優れた腕を、持っていなければなりません。 彼は、大変多くの経験をしていて、その瞬間には、 完全な注意を向けて、自らの身体へ ものすごい制御をしていなくてはなりません。 そのすべてが、経験、知識、記憶、技能に、基づいています。 それが、智恵と呼ばれます。 ですね?私たちは一緒にいますか。 バカ者の智恵でも、 きわめて偉大な数学者の智恵や、 生物学者と考古学者などと、 科学者、画家たちのでも、です。 で、それは、制限された智恵です。 でないですか。 確かですか。どうか、同意しないでください。 それはあなたのコートにあります。 ゆえにあなたは、あなた自身とのゲームをしています。 それが見えるなら、そのとおりです。 なぜなら、それらの種類の智恵は、 経験、知識、記憶、思考に基づいているからです。 思考は制限されています - 先日、私たちが入ったように、です。 なぜなら、思考は記憶に基づいているからです。 記憶は、知識から出てきたものです。 知識は、経験から出てきたものです。 経験はいつも、制限されています。 完全な経験はありません。 なぜなら、いつも経験者が、あるからです - 「私は経験している」と言うものが、です。 あなたがこれらに付いてきているのか、私は知りません。 ゆえに、経験者があるかぎり - 彼は記憶の背景です。その背景により、 彼は経験を認知するのです。 あなたが付いてきているのか、私は知りません - その経験は制限されています。ゆえに、考えるのはすべて制限されています。 その制限の中から、 一定の種類の智恵があります。 その智恵は、他の人たちを殺すために、適用されます - 他の人たちを制御するため、 他の人たちの自由を否定するため、 彼らを強制収容所へ、 送るため、です。その収容所は今、起きています。 異常なドイツ人だけでなく、 今、起きています。 私たちは、それについて、あまり騒ぎません。 私たちは、四十年前(大戦中)に起きたことについて、 ものすごく騒ぎます。
1:13:02 私たちは 日々自らがそれでもって作動するこの智恵は、理解できます。 もしも智恵を持っていないなら、車を運転できないでしょう。 その智恵は、車の運転の仕方を学んだことに、基づきます。 すなわち、あなたは実習します。 あなたの親や専門家が、車の運転の仕方を、教えてくれました。 それは、自動的にならなくてはならなかった。 経験、知識、記憶、思考。 それは制限されています。 で、私たちは訊ねています - 制限されていない智恵は、あるのでしょうか。 制限された智恵に、対立してではない。 あなたが理解なさるのかと、思われます。 これは分かりますか。 私は、制限された智恵を、きわめてはっきり理解します。 それは明白です。 私たちは、その狭い制限された智恵の中で、生きます。 私たちは、その智恵の中から、神を創案します。 私たちは、儀式すべて、儀式の備品すべてを、創案します - 司祭者たちの中世の衣服と、 司祭者たちの位階制度を、です。 そのすべてが、黙認されています -人々に感銘を与えるため、 人々を特定の信念にまとめるため、 などなどです。 そのすべてが、制限された一つの形の智恵です。 これはコートにあります。 あなたは、鋭敏なら、これらに気づいているなら、当然、訊ねます - 制限されていない智恵は、あるのでしょうか。 制限された智恵の活動を、実際に見るとき、 あなた自身と他の人たちに観察するときだけ、 あなたは、その質問をできるのです。 さもないと、その質問をできません。 制限された智恵は、互いに殺し合うことです。 それはとても明白で、非実用的です。 動物等と人間たちを意図的に殺すこと、 故意に組織された殺しより、怖ろしいことを、 私は思いつきません - それは、殺害と呼ばれません。 それは、何とでも好きなように、呼ばれます。 高尚な名を付けようとも、それはやはり殺すことです。 それは智恵です。智恵の一部です - 現代の機械を創案することは、です。 理解されますか。 戦争の用具、です。 それには、多大な思考が、 必要とされます - 幾世紀も 互いに殺し合う多大な経験が、です。 彼らはこの地点に到りました。 百万ごとに人間を蒸発させるのです。
1:16:31 これを悟るとき - 知的や言語的にでなく、あなたの心で、 ロマンチックにでなく、事実を、です。 そのときあなたは、他の質問をできます - 制限されていない智恵が、あるのでしょうか。 見出してください。 あなたは、ここに片足を、そこに片足を置くことは、できません。 あなたは、そこに片足を、 制限されていない智恵に置き、 それから、他方へ来ることができます。 しかし、制限されたものから、あれへは行けません。 あなたがこれらを理解なさっているのか、私は知りません。 あなたは、冥想できます。爪先立ったり、逆立ちしたり、何でもできます。 何をしようとも、 制限されたものから、制限されないものへは、行けません。 で、私たちは訊ねています。 制限されたものに対立して、ではなく - なぜなら、そのとき、他方を見出すために、 制限されたものから訊ねているなら、けっして見出せないからです。 で、制限されない智恵が、あるのでしょうか。 それを見出すには、あなたは自らの生を、それに注がなくてはいけません - 一つの朝、ここに座るだけではない。 あなたは、それを見出すには、自らのエネルギー、 きびしさ、心、頭脳、あらゆるものを、注がなくてはいけません。 愛と慈悲があるときだけ、それは存在しうるのです - 他の何物でもない。
1:18:50 あなたは、他の質問に入りたいですか。
1:18:54 第六の質問: 「あなたは世界中で、大きな聴衆を持っておられます。 私たちのみんなが願望するのは、何なのでしょうか。」
1:19:04 繰り返しましょう。 「あなたは世界中で、大きな聴衆を持っておられます。 私たちみんながここに来るのは、何でしょうか。私たちが欲しいのは、何でしょうか。」 「あなた、大きな聴衆を持っておられます。 私たちみんなは欲しいもの、みんな願望するもの、 みんなが得たいと望むものは、何でしょうか。」 あなたはそれに答えるでしょうか。
1:19:46 それは何でしょうか - 問いは、たいへん尊敬をこめて、人間的に 出されました - すなわち、謙虚に、です。 あなたたち、みんなが欲しいのは、何でしょうか。 あなたが、あこがれているのは、何でしょうか。 人々を教会に行かせるのは、何でしょうか。 みなさんが願望するのは、何でしょうか。
1:20:26 答えられますか - 真剣に、正直にです。 一瞬間、私はこれがほしい、次の瞬間、私はあれがほしい、 三番の瞬間、三年目、他の何かが、ではない - 分かりますね? この国で起きているように、 一つのものから次へ、と。 新しい最新の導師が来て、みなさんは・・・ で、それは何でしょうか - 今そうであるように、あなたが静かに座っているとき、です。 私たちみんなが欲しいのは、何でしょうか。 共通の欲求、共通の願望、 共通のあこがれが、あるのでしょうか。 それとも、すべて分離していて、 各人が、他とは全然違った何かを、ほしいのでしょうか。 たぶん自己へ真剣にその質問をしたことさえ、ないでしょう。 あなたが本当に真剣にその質問をするなら、 それは何でしょうか。 それは、幸せでしょうか。 幸せが、生の目的でしょうか。 それは、安全でしょうか - 安全であること、 自分の欲しい自由の中で、完全に安全であること。 安全と自由。 クラブの中、社会の中、集団の中、 国の中、信念の中での安全。 そして、同時に自由であること。 どうか、たいへん真剣に見てください。 ご自身のために、見てください。 他の誰かと、より良い関係を持つこと、 夫や妻や何であれ、完全に 葛藤なく、ともに生きることですか。 あなたは、自らの条件付けから完全に自由になりたい、ということですか。 それとも、死を恐れないことですか。 あなたはこれらを見つめるとき - 様々な形の私たちの願望、 あこがれ、逃避と執着 - それらの中から、私たちが欲しいのは、何でしょうか。 誰か頼れる人ですか。 私は、年老いていきます。 私は、誰か頼りにできる人を、持たなければなりません。 私は、その人物と幸せに生きるが、他の人たちとは生きられない。 どうか、その人物と私が余生の間、 一緒にうまくやっていくであろうよう、私に保証してください 、と。 これらに付いてきておられますか。 私は、複雑さや障壁、 条件付けを、持っています。 私は、それらすべてを、乗り越えたい。 そのすべてを見つめるなら、私たちは学識があっても、 すぐれた知識人であっても、 ロマンチックなどであっても、 科学者や政治家などであっても、私たちが心から欲しいのは、何でしょうか。
1:24:56 一つの答えが、全区域を覆うでしょうか。 理解できますか。 私は、何かの根を、このすべての根を 見つけられるなら、 あらゆるものを、手放せるでしょう。 質問を理解できますか。 それは自由でしょうか。 自分の好きなことをするのではない -それはあまりに子どもっぽい。 あまりに未熟で、あまりに制限されている。 自由(フリーダム) - その言葉自体が、 用語に、愛を含んでいます。 それが、あなたが欲しいものですか。 それとも、全く責任を持たないことか - 戦争に送られる兵士のように、です。 彼は、何の責任をも持たないから、完璧に幸せです。 それが、あなたが欲しいことですか -いかなる責任もないことが。 そういうわけで、あなたはドラッグをやるのでしょうか。 または、もっと興奮を得るためですか。 あなたは、もっと興奮、もっと感動がほしい。 このすべてをまとめ、さらにそれへ付け加えてください。 このすべてには、根があるにちがいない。理解できますか。 すべての問いに答えるであろう、一つの問い - そういうものが、あるのでしょうか。 あなたは、自己利益の増大が欲しい、ということなのでしょうか。 自己利益を安定させる、強める、 それに深く根を張ることですか。
1:27:45 私はそれに答えられます。が、それはあなたのコートにあります。 あなたが、ボールを返さなければなりません。 あなたはただ、「まあ、しばらくの間、ボールを持っていようか」とは言えません。 あなたはゲームをしています。 これらすべての問いに、答えるであろうものは、何でしょうか。 あなたが、絶対的な無条件の心理的自由を持つとき、 これらすべての問いは、答えられないのでしょうか。 そして、自由は、愛を意味しています -他の何を、でもない。 愛は、欲望、楽しみ、感受、 執着ではない。 愛があるところ、 慈悲が、そして、あの無制限の智恵がある。 それがそこにあるとき、あなたはあらゆることに、答えたのです。 これを理解なさるのかどうか、私は知りません。 そのとき、戦争は無いでしょう。 葛藤は無いでしょう。 愛があるとき、関係に、葛藤は無いでしょう。 お互いについてのイメージ、互いとの戦いは、無い。 質問は理解できますか。 それが答えでしょうか。 それが、私たちの欲望、願望、ほしがり、 あこがれ、祈り、崇拝すべての根でしょうか。 問いは、答えられましたね。