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OJ85Q2 - 第2回質疑応答会合
カリフォルニア、オーハイ
1985年5月16日



0:15 あなたたちは、何について 話をしたいのかなと、思われます。

質問者: (聞き取れない)

K: ちょっと、お待ちください。 私は始めたばかりです。 私は、できるなら、あなたたちが何について 話をしたいのかを、知りたいとも思います。 たくさんの質問があります。 とうてい答えられない多くの疑問です。 幾つかだけに、答えられます。 ここに、それらはタイプで打ち出してあります。 私はそれらを見ていません。 しかし、これら質問を始める前に、
1:05 あなたは何について話をしたいのかな、と思われます。 一斉に、あなたたちみんなが、ではない。 それは不可能になるであろうからです。
1:13 質問者: あなたの言われていることを、 人々がつかむ条件について、話したいです。
1:24 K: 聞こえませんでした。
1:26 質問者: あなたが話されていることを、 すべての人々がつかむ条件について、 その条件を整えることについて、話したいです。 なぜなら、クリシュナムルティ、あなたはこれをご存じだからです。 理解できますか。疑わしいが、私は続けなければなりません。 何か欠けているものが、あります - 頭脳が捉えないもの、です。
1:58 K: 質問がよく理解できません。
2:02 質問者: あなたが話されていることを理解するためには、 どんな条件が必要でしょうか。
2:07 K: Kが話していることは、どんな条件が必要なのか。 そういうことですか。
2:16 質問者: あなたが話しておられることを、つかむため、 あなたが言われていることを、つかむために、です。
2:24 K: あなたが話していることを、つかむために、何が必要でしょうか。 それが、あなたが話をしたいことですか。 あなたは、お一人です。 みなさんが話をしたいことは、何でしょうか。
2:40 質問者: 私たちは子どもたちへ、何を教えるのでしょうか。
2:51 質問者: 水曜日に言われたこと - 自由は愛を意味する、 ということについて、もっと話をしてください。 あなたはそれについて、大変多く話されました。
3:09 K: 火曜日について話したこと、愛について、 それに入ってもらえるでしょうか。ですか?
3:16 質問者: はい。あなたは、自由は愛を意味する、と言われました。
3:20 K: さて、見てください。私たちはとても多くいます。 第一の質問は、こうでした -あなたが話していることを 理解するには、つかむには、何が必要なのか、 どんな種類の頭脳を持たなければならないのか。 それは、語り手が話していることではありません。 あなた自身について、つかむ、自身を理解することなのです。 Kが話していることは、捨ててしまうか、脇に置いてください。 そして、自己を理解するには、自己に入るには、 何が必要なのかを、見ましょう。 それですか? それについて、話をしたいんでしょうか。
4:11 聴衆: はい。
4:15 K: 質問は別として、です。
4:25 私たちが自己を理解するのを妨げる 障害は、何でしょうか。 意識的水準、 日常活動の水準でだけでなく、 また、はるかに深く自己に入ることを、です。
4:51 それが、みなさんが話をしたいことですか。
4:54 聴衆: はい。
5:04 K: 自分自身にその質問をするなら、 何が、私やあなたが、自己を理解するのを、 きわめて深く掘り下げるのを、妨げるのでしょうか。 欠けているものは、何でしょうか。 そういうことでしょうか。 何だと思われますか。 みんな一度に言わないでください。 私たちが自分自身にその質問をするとき、 私たちの一人一人は、何と言い、答え、応答するのでしょうか。 私は一日中、ビジネスや、ここやそこへの旅行で、 忙殺されています。 私は、芸術家であるなら、絵を描く、詩を書く、 文学を書くことに、関心を持っています。 私は、政治家であるなら、政治に大いに関心を持っています - そこでの私の地位と、私の自己の利害、 私の野心、それから後で人々への関心です。 で、欠けているのは、何でしょうか -エネルギーでしょうか。 知的な能力でしょうか。 私たちはまさに、それをともに究明しようとしています。 知的な能力でしょうか。 または、私たちはあまりに情動的すぎるのでしょうか。 または、私たちは、他の人たちと自分たち自身について、 ロマンチックな幻想的概念、イメージを、あまりに多く持っていて、 それが、私たちが自らの存在全体を つかむのを、妨げるのでしょうか。 私はあまりに占有されている、ということなのでしょうか - 自分の子ども、妻、仕事、 自分の娯楽、社会での自分の立場などに、です。 この永続的な占有。 自分の問題について、 環境への自分の賛成、反対についての常なるおしゃべり、 または、原理主義的な - あなたがこの事実に注目されたのか、私は知りません - 原理主義はこの国で、とてつもなく広がろうとしています。 それはまた、イランとイラク、レバノンでも 広がっています。 それはまたインドにも、次第に染み込もうとしています。 このすべてが、私たちの大変多くの時間を、取っています。 ゆえに私たちは、一日の終わりや一日の始まりに、 エネルギーや衝動を持っていない、ということなのでしょうか。 それで、私たちは充分、冷静沈着でない、 深く関心を持っていない、と。 私たちは、金銭、セックス、 地位などなどには、 関心を持っています。
8:59 すなわち、 私たちは、表面的なものごとに、大変多く占有されています。 それで私たちは、深掘りするエネルギーを、剥奪されるのでしょうか。 私は、これら質問をしているだけです。 または、私は本当は、これらに興味がないのでしょうか。 私は、ここそこで少し捉えたいと思います。 様々な導師、様々ないかさま師、 理論家と神学者と、 宗教の専門家へ行き、 これらを少し捉えます。 それらは、食卓での良い会話になります。 これが、私たちが一日のほとんど占有されていることなのでしょうか。 または、あなたは朝か・・・ - 私たちは、何をも提唱していません。 私たちはただ、それについて話しています - またはあなたは、朝か午後か晩に、 幾らか時間をとり、 真剣になるよう、少し試みるのでしょうか。 または私たちは、生の各部分を、区分、部分と取って、 それら部分を扱うのでしょうか。 私はつづけられます。 またはあなたは、私たち自身のこの構造全体を、全体として 見つめられるでしょうか -断片化したものとしてではなく。 それは可能でしょうか。 すなわち、あなたは - 指摘してもよろしければ - あなたは、Kを理解しようとしていません。 あなたは、あなた自身を理解するための鏡として、Kを理解または使用しているのです。 鏡は、重要ではありません。 それが、悟るべき最初のことです。 鏡、人物は、重要ではない。 彼が言っていることは、あなたが何なのかを、反映するかもしれません - かもしれません。 それは逆なのかもしれませんが、あなたは、あなた自身を見つめはじめています - 疑い、問い、訊ねている。
11:56 で、あなたはこの問いへ、どのように接近するのでしょうか。 なぜなら、接近は、事実よりはるかに大事であるからです。 私たちは一緒にここにいますか。 接近(アプローチ)は、科学的な問題でも、 芸術的な問題でも、人道的な問題でも、 社会的、政治的などや、宗教的なものでも、 あなたはそれへ、どのように接近し、近づくのでしょうか。 なぜなら、あなたがどのように近づくのかが、大いに重要であるからです。 問いとか問題とかが、 何なのか、ではない。 なぜなら、予断的、イデオロギー的な イメージをもって、私がそれに接近するなら、 そのイメージが、接近と、 接近されるものとの間に、介入します。 私たちは一緒にここにいるでしょうか。 少しですか? で、どれほど些細でも、どれほど深くても、 或る主題、挑戦、問題へ、 すべての黙認なく、接近できるでしょうか - すべての以前の結論、 先入観なしに、それへ 新鮮に来られるでしょうか。 私たちはそれができるでしょうか。 または、それは不可能でしょうか。 なぜなら、子どもの頃から、訓練または教育されてきたからです - カトリック、プロテスタント、 ヒンドゥー教徒、仏教徒等であるように、です。 そして、そもそも智恵があり、活動的であるならば、 それらに反逆し、 「それらは何という戯言なのか」と言うのです。 しかし、それでまた、自らの生は、きわめて浅くもなるのです。 そのときあなたは、その浅さを満たそうとします - あらゆる種類の面白いこと、ドラッグ、娯楽、セックス等でもって、です。 で、その問いに、どのように接近するのでしょうか。 どうか、あなた自身に、この質問をしてください。 あなたは、ビジネスマンであるなら、きわめて用心深く、それに接近します - 褒美が何かを見て、です。 報賞ではない。賞罰を見て、です。 報賞が大きいなら、あなたはさらに進みます。 それが大きくないなら、かすかにためらいます。 あなたは、それについて話し、次第に学びます - 益にならないものを回避します。 同じように、 私たちは、賞罰の視点から、生を見つめます。 私は、これをするなら、天国や涅槃へ 行ける - 何であれ、覚りなどであっても、です。 で、いつも、損得のこの背景が、 あるのです。 ですね? それらを脇に置き、問題を見つめ、 自由に問題へ接近できるでしょうか。
15:55 ちょうど今、訊ねられた問い - あなたが火曜日に話したことの問いへ、入ってもらえるでしょうか。 それは、愛と、その複雑さすべてについて、でした。 ですね? なぜあなたは、私に、それについて話してほしいのでしょうか。 私たちが自分自身で、とても用心深くそれに入られないのは、 なぜでしょうか - 何をも想定せず、 おそろしく正直であり、 それがすべてどういう意味かを、見る。 それは、不可能でしょうか。 そうですね、不幸にも、 私たちの困難の一つは、私たちがあまりに多く読みすぎることです。 私たちは、あまりに多く言われてきました - 哲学者、熟達者、専門家によって、です。 世界中を旅し、情報を集め、様々な聖者とペテン師と 導師と彼らの全部に会ってきた人たちによって、です。 彼らは言います - 「ええ、私はこれらすべての人々に会った。私は知っている」と。 私たちは、とてもだまされやすくて、熱心です。 私たちは、彼らの色合いに染まります。 私たちはこうなりますか。 すべての新聞、雑誌 - それが、彼らが私たちへやっていることです。 毎晩のコマーシャル。 付いてきていますか。これらを見てください。 私たちは、これらに爆撃されつつあります。 そのため、私たちの頭脳は次第に狭まります。 この爆撃のためにです。 それは、常に衝撃を与えられているようなものです。
18:25 で、あなたは、考慮なさるでしょうか - このすべてを脇に置き、それらを新たに新鮮に 見つめることは、可能かどうかを、です。 まるで、ものごとを初めて見ているかのように、です。 私たちはこれをできるでしょうか。 または、それはただ、わずかな人に与えられているのでしょうか。 それなら、無意味です。 人々は、そのふりをします - 「ええ、私はそれをできる。私はあなたへ、それについてすっかり語りましょう。」と。 私は、そういうことを受け入れないでしょう。 なぜ私たちの頭脳は、そんなに些少になったのでしょうか。 「些少」という言葉 - 狭い、制限された、 利己に深く根ざしている、と。
19:46 これらが、問われうる問いですね。 しかし、答え、または、これらの根の発見は、 自己を掘り下げたり、それに入らなくてはなりません。 一日中、お互いへ話をするのは、何にもなりません。 または、一時間でさえも、です。 お互いに聞くのは、良い。 どのように聞くのかもまた、ものすごく大事です。 あなたが実際に聞くのかどうか - あなたが、何も決定なく、方向なく、自分の反応を持ち込まず、 聞いている、という意味で、です。 ただ聞く - 子どもが、わくわくする優れた物語を、聞くように。 彼は、見出したいとの熱意、好奇心に、満ちています。 私たちはそれをできるでしょうか。 鳥たちなどを聞くだけでなく、 また、私たちの思考すべて、 感情すべてをも聞く。そして、 私たちが常に築いているイメージを、見守るのです。
21:22 質問に戻っていいですか。 私たちが言いましたように、ここには、幾つも 質問があります。八つです。 私たちは初めに、問いを聞けるでしょうか - 何も反応なく、 「ええ、理解します」と言わずに、 ただ問いを捉える。 それは、地面に種子を植えるのに、似ています - 健康な肥えた土に、 種子を植える。 種子が、生命力、エネルギー、 自らの本来的価値を、持っているなら、 あなたは、何もしなくていい。時折、水をやる。 見守ると、それは成長するでしょう。 で、問いは種子なのです。 問いに、動いてもらいましょう。 問いに、発達し、拡がってもらい、 問いの中にそもそも何かがあるのか、それとも、 ただの草なのかを、見てみましょう。 幾つかの草は、見目も良くて、価値があります。 幾つかの草は、全く無用で、破壊的です。 で、私たちは見出そうとしています。 これらすべての発言をして、すみません。 私たちは、問いの価値を、見出そうとしています。 問いは、表面的に出されるかもしれません。 大きな意図をもって、かもしれません。 問いは、他の誰かにより出されません。 問いは、私たちの一人一人へ、出されようとしています。
24:13 第一の質問: 「あなたが話をされてきた 「恥ずかしがり」と、恐れとの違いは、何でしょうか。」
24:24 「あなたが話をされてきた「恥ずかしがり」と - 引用符つきです - 恐れとの違いは、何でしょうか」 私は、自分がいつ話したのかを、知りません - すみません。
24:37 質問者: たぶんそれらは、謙虚さという意味でしょうか。
24:43 K: 臆病さ?

質問者: 謙虚さ?
24:52 K: 私たちは先日、恐れについて話しました。 恐れは、自我と、「私」と 同一視されます - 私の精神・心理(サイキ)の構造全体と、です。 それは、私の精神の一部、私の一部です。 恐れはまた、罪悪を、 様々な種類の罪悪をも、生み育てます。 このすべてにより、かなり神経質になる。 臆病、 恥ずかしがり、引きこもる感覚を、持つ。 それでも、自己を表現したい。 で、自己に矛盾がある。 その矛盾はさらに、罪悪を生み育てます。 私たちは、このように続けていきます。
25:58 さて、これの根は、何でしょうか。 質問を理解できますか。 恐れ、罪悪、 かなり臆病なことと、 他の人たちを傷つけたくないこと、 けれども、あなたの言う言葉こそが、他の人たちを傷つけるかもしれません。 もし、ヒンドゥー教徒が、 「あなたが話していること、あなたの宗教すべては、たわごとだ」と言うなら、 あなたは傷つきます。 あなたは彼を傷つけます。 それで、これがつづきます。 初めに、日々の生活を、恐れなく生きることは、可能でしょうか。 それが重要です。その枝葉すべて、ではない。 罪悪、 臆病、 抵抗したい気持ち、 やり返したい気持ち - そのすべては、恐れの感受に、根ざしています。 あなたは、それに同意なさるでしょうか。 それが見えるでしょうか。 私たちは、それが見えますか。 私が叙述しているからではない。 語り手が、それを解き明かしているからではない。 あなたは、静かに見守るなら、それが見えます - 恐れの諸活動、 それがどのように障壁を創り出すのか、 私たちの関係においてだけでなく、 また、全人類への態度などにおいても、です。
28:03 で、私たちは初めに、訊ねています - 恐れなく、生きることは、可能でしょうか - 「私は勇敢でなければならない」と言うのではない。 あなたは、或る種のドラッグをとることで、勇敢にはなれます。 私たちは、ラム酒を生産している友人を、知っています。 彼は、ラム酒を軍隊に供給しています。 彼は言います - 「まあ、とても儲かるビジネスです。 前線へ行く兵士たちは、きわめて神経質であるからです。 これが、彼らに一定の勇気を与えてくれるんです。」と。 そして、他の様々な理由です。 で、もしも私たちが本当に、深くこの問いを掘り下げられたなら - ともに、です。私が説明し、あなたが受け入れるのではない。 それは、何も意味がありません。
29:12 私たちが先日、それについて話したように、 時と思考が、恐れの製造において - 私がその言葉を使えるなら -二つの主な要因です。 私たちは、時の問いに入りました。 再びそれに入りましょうか。 はい?
29:43 K: あなたたちは、かなり沈黙しています。

聴衆: はい。
29:47 K: 私は、あなたたちに強いていません。 これはかなり複雑な問いです。 ゆえに、ごく単純に接近しなければなりません。 私たちのみんなが、時の過程の半径内、または 直径内、その中で、生きます。 私たちのみんなが、時の過程に生きます。 すなわち、私は何かをしてきました。 私は明日、再びそれをするでしょう。 それを変化させるか、修正する。 私は明日、再びそれをするでしょうが、 修正されます。 あなたが、よく気をつけて、あなた自身を見守るなら、 記憶すべてが、経験、知識の結果です - 頭脳の中に、収容されています。 おそらく、頭脳の全体ではなく、 頭脳の主要部分、です。 どうか、語り手は、脳神経学等の専門家ではありません。 彼はただ見守ってきました。 見守ることにより、あなたはたくさん学びます。 書物からだけでない。 幸いにも、語り手は書物を読みません。 彼は、他の種類の本を読みます - スリラーなどです。それは気に掛けないでください。
31:32 で、時は、 或る意味で、進化です。 生存としての時、 何か獲得されるべきもの、 達成されるべきものとしての時、 追求されるべき理想、 または、神学、結論、 強く保たれるイデオロギー。 そのイデオロギーが実行されるよう、見届ける。 同じことは、神学者にも該当します。 彼らは、神について一定の理論を持っています。それを作り出します。 このすべてには、時が掛かります。 ですね? また、「私は今日これだ。私は昨日もこれだった。 それを変化させるには、時が必要だ」と言うにも、時が必要です。 「変化」という言葉は、時という意味合いです。 あなたがこれらに付いてきておられるのか、私は知りません。 これらに興味がありますか。 よろしい。私は、話のために話しましょう - 話のためではない。 私は自分自身、それにものすごく興味があります。
33:03 時の循環に、私たちは捕らわれています。 それが最大の科学者や、 最大の宗教者であっても - いわゆる宗教ですが - 私たちのような普通の素人、俗人でも、 私たちはこれに捕らわれています。 日の出と日の入りによった時と、 時計による時が、あるだけではない。 あなたが待ち合わせへ行くには、時が要ります。 言語、技能などを学ぶには、時が要ります。 もっと多くの知識を取得するため -このすべてが、時を必要とします。 人は訊ねてきました - 時に終わりがあるのだろうか。 人はこれを訊ねてきました。 それは、様々な文献、文学に見つかります。 シェークスピア。私は聞かされました -「時は止まらなければならない」 また東洋の哲人たち。 東洋の聖者と東洋の人々は、それについて考えてきました。 彼らは、それを探究してきました。 彼らは、様々な形の時の終わりを、 様々な方法を、創案してきました。 あなたは、これらに興味がありますか。 すなわち、知識は時ですが、それに終わりがあるでしょうか。 あなたがこれを捉えるのかと、思われます。 私は、知識を取得するには、時が要ります。 ですね? 私は、空の飛び方を知らない。 だが、私は学ぶだろう。 私は、すぐれた大工の達人へのなり方を、知らない。 だが、私はそれについて学ぶだろう。取り組むだろう。 それは、技能について知識を取得することです - 空を飛ぶことでも、科学でも、何であっても、です。 彼らは訊ねました - 知識に終わりはあるのだろうか。 または、それはいつも、つづきにつづき、つづいていかなければならないのか、と。 その退屈さ。 理解できますか。
35:37 で、あなたがその質問をしています。 すなわち、私たちは時によって 生き、行い、行動し、考え、感じますが、 それを見守るとき、 それらにかなり、うんざりし、 退屈します。 また、この技能を取得する中で、さびしくなります。 さびしさの中から、行為します。 様々な種類の活動をします。 あなたは、神経症と精神病等になります。 それで、これがつづきます。 で、よく気をつけて、訊ねます - 過去は何でしょうか。 それは時です。 考古学者、科学者などによれば、 人類はこの地上に、 二、三百万年以上、生きてきました。 または、近頃では、五万年です。 ですね? 私たちは進化してきました。 その長い時の期間に、 私たちの頭脳は、無際限の情報を集めてきました。 互いに戦ってきて、互いに殺し合ってきました。 様々な恐怖、蛮行、 残虐、とてつもない残忍、 大虐殺を、経てきました。 近頃のドイツの 大虐殺(ホロコースト)だけでなく、 アッティラ、チンギス・ハーン、 ナポレオン、カエサルがいました。 その人間の虐殺は、今、つづいています。
37:53 で、この長い期間の終わりに、私たちは今、何なのでしょうか。 質問を理解できますか。 あなたは、何でしょうか。 私たちはやはり、未開人、野蛮人でしょうか - 大いに教養のある野蛮人、洗練された野蛮人です。 互いに戦い、攻撃的で、残忍で、殺す。 それが、起きていることですよ。 あなたは注目なさっていますか、一人の - 私はこれについて、強調しすぎてはいけません - 一人の司祭者、カトリック教会の 位階制度、 彼らの誰も、「戦争を止めなさい」と言いませんでした。 「もはや殺してはいけない」と。 ですね?彼らの誰一人も、です。 もしも彼らがそれを主張したなら、教会は崩壊するでしょう。 なぜなら、人々は、互いに殺し合うのを、愛しているからです。 違いますか? そうです。 彼らは、互いに傷つけ合いたいのです。 彼らは互いに対して残虐です。 で、このすべてが、訪れました。 進化の長い期間、すなわち時ですが、その間に、 それはやはり、私たちにあるのです。 あなたがこれらを捉えておられるのかと、思われます。 それで、訊ねます - このすべてに、終わりはあるのでしょうか。 それは、時が終わることです。 時はまた心理的に、何かになることです。 そちらのほうが、はるかに重要です。 それは、私が一定の理想、 一定の概念、理論、ヴィジョンを持っている、 という意味です。 それを達成するには、時が掛かるだろう。 すなわち、私はそれになるだろう、と。 それも再び、賞罰です - 違った言葉で同じことです。
40:15 で、そのすべてに、時が関与していますが、 それは終わりうるのでしょうか。 訊ねてください。これにガッツ(腸)を注いでください。 - その言葉を使って、すみません。 見出すよう、あなたの心(ハート)全部を注いでください。 すなわち、 私は過去に、数世紀の間、 こうでした。 それら世紀は、今なのです。 ですね? 幾世紀、それらすべての経験 - そのすべてが、今です。それが私にある。あなたにある。 明日は、近頃の挑戦により修正されます - 経済的、社会的なもの、戦争などによって、です。 過去は、修正される。そして、未来へつづく。 これは事実です。 で、未来は今である、と言うのです。 あなたはこれが見えるのか、と思われます。 よろしいですか? どうか、これを本当に見てください。 言語的にでなく、それの真理を見てください。 未来は、今なのです。 なぜなら、私は幾世紀、数百万年の間、それであったなら、 今、根源的に変異をもたらさないなら、 私は明日、修正された同じものになるからです。 それで、明日は今なのです。 あなたはこれが見えるのか、と思われます。
42:08 で、そのとき、明日を頼りにしない 頭脳の位置や 頭脳の状態は、何でしょうか - 「私は変化するだろう」、 「私はあれになるだろう」を頼りにしない頭脳、です。 なぜなら、そのすべては今であるからです - 全的な心理的革命がないなら、です。 共産主義者は、革命に怯えています。 なぜなら、彼らは、自分たちのイデオロギーに、はまり込んでいて、 変化しようとしないからです。 彼らは、そのように続けるでしょう。 ついに、別の物理的革命があるまで、です。 で、私たちは、より穏やかな形で、まさに同じことをしています。 で、過去は、今日をとおして自体を修正し、 明日として継続します。これは事実です。 で、明日は今なのです。 精神・心理(サイキ)に深い革命がないのなら、 明日は、同じになるでしょう。 で、根本的に終わることは、可能でしょうか。 私は、貪欲で、暴力的で、 取得したがり、所有したがってきました - (例は)それで十分です。 そのすべてが今、終わりうるでしょうか。即座に、です。 この質問をなさってください。 あなたは、全体のことを観念として扱うのか、または、事実か。 すなわち、あなたは、これが聞こえます。 聞こえるものを、観念、概念へ翻訳します - ユートピア、達成されるべき何かへ、です。 そのときあなたは、全循環に戻っています。 しかし、あなたは事実を見つめ、事実とともに留まれるでしょうか。
44:57 あなたはどのように、事実を観察しますか - 分析でなく、観察、です。 あなたはどのように、事実を観察しますか。 そこには、オークの樹があります。 あなたはどのように、それを見つめますか。 どうぞ、あのオークの樹を見て、 ご自分がどのように観察するかを、見出してください。 視覚的、光学的に、 神経的応答、そのすべてだけでなく、 観察の過程は、何でしょうか。 あなたは、これらに興味がありますか。

質問者: はい。
45:40 K: いいえ、熱心にならないでください。 あまりに早く、「はい」と言わないでください。 偏らず、何も先入観なく、 その樹を観察するのは、たやすい。 あなたは、「ええ、それはオークの樹です」と言う。 または、山々と川と谷と、 牧場(まきば)と木立を、です。 それは相当に単純です。 しかしあなたは、自分の妻、 友だち、敵対者を、 何も方向なく、偏見なく、 観察できるでしょうか - 選択なく気づくこと。 ですね? それをできるでしょうか。 見出すことは、とてつもなく興味深くなります - それができるのかどうか、です。 ですね?
47:04 私たちはまだ、最初の問いについて、話しています。 十二時十五分近くです。 私たちは進まなければならないから、それをごく手短に表すと、 あなたは、鏡で自分の顔を見守るように、見守れるでしょうか - 髪を整え、櫛ですき、ひげを剃るなどしているときのように。 あなたは鏡で、自分自身を見守られるでしょうか。 それで、心理的に、あらゆることが、細かく詳細に見えるように、です。 ありのままのあなたが、です。 質問を理解できますか。 心理的な鏡が、あるでしょうか - 物理的な鏡があるように、です。 良い鏡は、歪曲しません。 それは、あなたがどう見えるかを、そのとおりに示してくれます - あなたが、自分がどう見えるかに、興味があれば、です。 で、心理的に、何一つ歪曲しない 鏡が、あるのでしょうか。 あなたが動くとき、見るとき、心理全体が見えます。 あなたの顔の詳細が、観察できます - 眉毛、目、 鼻、鼻の形、鼻の彫り、 耳、そのすべて。 そうですね、ほとんどの人々が、こうします。 特に、ご婦人たちは、です。 で、あなたは見つづけます。 私たちは訊ねています - 内的に、そんな鏡があるのでしょうか。 細かい詳細が、 そのとおり見えるように、です - 最新のしわ。 そのように見られるでしょうか。 そういう鏡があるのです。 その鏡は、あなたの関係です。 ですね? あなたと他の一人との間の関係です - あなたとその妻や 夫、子どもたちの間。 関係です。 その関係は、きわめて表面的であり、 単に感受や性的なのか。 - 鏡を見るなら、 そこでさえも、きわめて明らかに見えはじめます - あるいは、とても親密で、とても近く、 その関係で、すごく観察しやすくても、です。 その関係は、鏡です。 それはけっして歪曲しないでしょう。 しかし、その関係に、 感受と所有、 支配があるなら - 単に感受などが、です - そのとき、鏡は歪曲します。 ですね? で、よく気をつけて、その鏡に、 一番細かい活動をも、観察する。 それを観察するにつれて、 鏡は、物語全部を語ってくれるのです。 そのときあなたは、鏡を脇に置けるのです。 なぜなら、鏡は重要でないからです。 そのとき関係は、とてつもなく重要になるのです。 やれまあ。
51:30 第二の質問: 「自然の世界全体は、 生存のための競争です。 同じ理由のために、闘争することは、 人間に生来的でないのでしょうか。 私たちは、変化しようと求める中で、 自らの基本的な本性に対して、闘争していないでしょうか。」
51:53 「自然の世界全体は、生存のための競争です。 同じ理由のために、闘争することは、 人間に生来的でないのでしょうか。 私たちは、変化しようと求める中で、
52:18 自らの基本的な本性に対して、闘争していないでしょうか。」 変化しないでください。 今のあなたに留まりたいなら、続けていってください。 誰も、あなたを妨害しないでしょう。 宗教は、人を文明化しようとしてきました。 しかし、彼らは成功していません。 反対に、 キリスト教のように、幾つかの宗教は、 地上の誰より、多くの人々を殺してきました。 ですね? あなたがこれを見てこられたのか、私は知りません。 彼らは、二回のおぞましい戦争を、してきました。 何百万人をも、殺してきました。 スターリンと毛沢東だけではない。 これら戦争が、破壊してきました。 ですね? 私たちは、変化したくなくて、このように続けていくなら、 それはかまいません。 しかし、問いはこうです - 自然は、闘争します。 例えば、林で光に到達するために、です。 それは闘争です。 ですね? 自然では、大きいもの、強いものが、弱いものを殺します。 虎は鹿を殺します。 ライオンは、何か他のものを殺します。 これが続きます。これは自然の一部です。 そして質問者は、言われます - それが自然の一部であるなら、私たちはなぜ、そもそも変化すべきなのか。 なぜなら、それは本来的であるから、と。 なぜ私たちは、それは本来的である、と言うのでしょうか。 なぜ私たちは言うのでしょうか -「そこではだいじょうぶだ。 ゆえに私たちについても、だいじょうぶだ。 では、なぜわざわざ変化するのか。 それは私たちの一部、自然の一部、私たちの存在の一部だ。 本来的にこれが、私たちなるものだ」と。 もし、そのとおりであり、 それは本能であり、それが私たちに生来的であるのなら - それは深く深く問われます - そのとき私は、何をも変化させられません。 しかしなぜ、私たちは、それが自分たちに生来的であると、受け入れるのでしょうか。 「お願いだから、すべて放っておけ」と言うのは、私の怠惰でしょうか。 それは、私の疲労感でしょうか。 または私たちは、人間として、 もう少し智恵があり、 もう少し理性的であり、 もう少し正気であるべきと、思われています。 私たちは、違ったように生きるために、 自らの正気、智恵、経験を使うべきと、思われています。 ですね?違ったように生きるため、です。 おそらく、その違いが、全的なのかもしれません - 凡庸な人物に留まるだけでない。 それが今、奨励されつつあります - 人間たちが教育等をとおして、 凡庸に留まることが、です。 私は(今)それに入らないでしょう。
56:18 で、私たちと戦っているのは、凡庸さでしょうか - 私たちが取りすがり、「私たちはゆっくり動いている。だいじょうぶだ」と 言うのは、です。 ゆっくりと断崖へ向かって、動いています。 またはあなたは、私たちの存在の過程全体を、問いはじめるなら - 常識、論理、理性、 気づきを使って、です - 直観は問われます。それはかなり疑わしい。 なぜなら、それは、自らの願いの充足なのかもしれないからです - それを本能とか直観と呼んで、です。 しかし、これらには、論理を使わなくてはなりません - 「まあ、それは生来的だね」と言うだけでなく。 次の問いへ行きましょう。
57:21 第三の質問: 「普遍的に人類が、神と呼ばれるものを 探し求めてきたのは、なぜでしょうか。 それはただ、恐れと、安全への必要からでしょうか。 それとも、何か本質的な宗教的本能が、 すべての人間にあるのでしょうか。」
57:44 「普遍的に人類が、神と呼ばれるものを、探し求めてきたのは、なぜでしょうか。 それはただ、恐れと、安全への必要からでしょうか。 それとも、何か本質的な宗教的本能が、すべての人間にあるのでしょうか。」
58:08 どう思われますか。 その問いに対するあなたの応答は、何でしょうか。 それは、恐れでしょうか。 安全への願望でしょうか。 それは、究極的に報われたいとの願望でしょうか。 それは、安楽への願望でしょうか。 それは、私たちが まわりのすべてに 不満であるので、 何か到るもの、獲得するものが欲しい、ということでしょうか。 宗教は、神が人を創った、と言ってきました。 様々な言葉で表しました。 明白にそれは、とてつもなく変な神であるに、ちがいありません。 人が神を創ったのでしょうか。 理解できますか。 神が私たちを創ったのなら、何かが間違ったのです。 いいえ、どうか、これはとても深刻です。 それは見つめるとき、笑えますし、 悲劇的です。 私たちは殺してきました - いえ、あなたはそれらをご存じです。 で、人を、人間をして、何かを創り出させているのは、 何でしょうか - その(神という)言葉で呼ばれるものを、です。 あなたはその言葉を持っていないなら、他の何かを創り出します。
1:00:15 で、問いは、神がいるかいないかではなく、 なぜ人間たちは、幻想をもって生きるのか、です - 幻想、イメージ、象徴を、です。 なぜでしょう。 あなたは、ご自身を見つめるなら、たくさんのイメージを持っています - 初めに、あなた自身についてイメージ、 それから、妻と、子どもについてのイメージ - あなたが親であるなら、です。 またはあなたは、政治家、宗教者について、イメージを持っています。 付いてきていますか。 私たちは、イメージを蓄積しますが、それらは幻想です。 私は、妻についてイメージを創り出すなら - 私たちはそうします。 私は、近づきすぎていますか。痛い所へ近すぎますか。 私が妻について、イメージを創り出すなら - そのイメージは、五十年か十日か一日をとおして、築かれました - 私たちの関係に、何が起きるでしょうか。 イメージが、事実よりはるかに重要になるのです。 ですね? で、私はこのイメージを、妻へ賦課します。 または、夫へ、誰へでもです。 または、政治家へ。 そのときこのイメージは、妻より、実際より、 はるかに大きな潜在能力を持ちます。 みなさんは結婚しているし、みなさん、そのゲーム、けんかを ご存じです。 それは、このイメージがいつの時も介入する、という意味です。 で、この、または、これらイメージは、私たちを分離します。 彼女は、自らの野心を、充足しようとしています - 社会の中での自らの地位。 ものすごい女たちの活動、 そして、男たちの活動です。 で、これらイメージと、 それらイメージの追求、充足は、 私たちを分離しつつあります - 男と女を、です。 これはすべて常識です。
1:03:29 そのとき頭脳は、言います - なぜ私は、これらイメージを創り出すのか、 これの存在理由は何だろうか、と。 何一つない - あなたがそれに入るなら、です。 妻は、彼女なるものです。 私、男は、私なるものです。 あなたは、そこから始めます。何かができます。 あなたは、イメージを壊し、 「いいさ、ありのままの物事に向き合おう」と言えます。 あなたは所有したがるが、私は所有したがりたくない。 あなたは、所有されるのが好きです -男でも、女でも。 私は、「すみません。お願いですから、私にすがりつかないでください」と。 それで、私たちはけんかを始めます。 なぜなら、私は自分自身について、イメージを持っているからです。 付いてきていますか。 すなわち、「私は、すがりつかれたくない。 彼女からでなく、他の誰かからだ!」と。 で、それがつづきます。 で、私たちは - そこで、それが本当の問いです。 神を信じるか、信じないかではない。 ここで本当の問いは、こうです - 私たちは、ただ一つの幻想もなく、生きられるでしょうか。 それが本当の自由です。理解できますか。 それは、あなたがいつの時も事実に向き合っている、という意味です - 事実を変化させようとするのではない。 あなたがただ事実を見守るとき、変化は起こります。
1:05:22 第四の質問: 観察と洞察を妨げる 最初の基本的な障害は、何でしょうか。
1:05:30 観察と洞察を妨げる 最初の基本的な障害は、何でしょうか。
1:05:46 私たちはちょうど今、観察について、話をしました。 で、再びそれには入らないでしょう。 なぜなら、飽き飽きするからです。 洞察は、何でしょうか。 人々は、それについて話してきました - ものごとへの洞察を持つこと、です。 すなわち、イメージ、幻想へだけでなく、 事実へ 知覚を持つことです。 あなたはどのように、ものごとへ洞察を持つのでしょうか。 どのように洞察を持つのでしょうか。 私はそれを、一例として取り上げています - 宗教的組織すべては、単に 便宜、恐れ、それらの活動である、ということです。 すべての宗教組織が、です。 キリスト教でも、ヒンドゥー教でも、です。 理解できますか。 洞察 - それは、どういう意味でしょうか。 私は、ヒンドゥー教にすがりつくなら、 ヒンドゥー教への洞察を持たないでしょう。 ですね? で、私は、洞察を持つには、自らの条件づけから、自由でなければなりません。 洞察は、記憶の継続を持たない、という意味合いです その継続は、過去、その他すべてです。 むしろ、それが終わること。 何か新たなものを、見ることです。 私は、カトリック、ヒンドゥーとして、プログラムされてきたなら - それが何であっても、 民主党でも、共和党でも、長老派教会でも、 神のみぞ知る、他の何でも、です。 私が条件づけられてきて、 その条件付けがいつも活動的であるなら、 私は洞察を得られません。 私は、創案、発明する能力を、持つかもしれません。 当然、創案、発明は、知識に基づきます。 創造はそうではありません。 私は(今)それに入らないでしょう。 それは全然違った主題です。 創造は、連続的です。 それは、創造、そして終わりだけではない。 私たちは土曜日、日曜日に、時間があるなら、それについて話すでしょう。
1:08:20 で、ものごとへ洞察を持つには、 記憶からの自由が、なければなりません。 すなわち、条件づけからです。 私たちがそうであるように、プログラムされてきた頭脳は、洞察を得られません。 それは、わずかな、部分的な洞察を、持つかもしれません - それを、科学者たちは持っています。 それは部分的です。 なぜなら、そのとき創案、発明は、他の結果をもたらすからです - 有害、有益等の、です。 そのすべてが、起こります。 しかし、全的洞察は、頭脳の条件づけから自由であることです。 その自由、全的自由は、 完全なホリスティック(全包括的)な洞察を、与えてくれます。
1:09:32 第五の質問: 「私たち自身と他の人たちへの 責任は、何でしょうか。」
1:09:40 「私たち自身と他の人たちへの責任は、何でしょうか。」 私は質問をよく理解できません。 問いを見つめましょう。 責任 - どういう意味でしょうか、責任とは。 「責任(レスポンシビリティ)」という言葉。 それは、応答する(レスポンド)、という意味です。 それは、「応答する(レスポンド)」という言葉から、来ます。 応答するとは、 それは遡及的です。 ですね? 気をつけて見てください。私たちは、その言葉を究明しているだけです。 私は、妻に対する責任があります。 それが、私たちの言うことです。 私たちは、「責任(レスポンシビリティ)」という言葉を、見ています。 私は一定の形で、彼女に応答(レスポンド)します - 他の人たちへは、私は同じ形で応答しないのです。 ですね? 私は、自分の背景にしたがって、応答します - 私が彼女について学んできたことの背景、です。 そして彼女は応答します。彼女が私について学んできたように、です。 その応答、それは遡及的です。 それは、振り返って見ることです。 なぜなら、彼女は私の妻であるからです -私は彼女について学んできました。 その学びは記憶です。
1:11:39 で、責任(レスポンシビリティ)という言葉は、記憶、認知を含意しています。 認知は、記憶の一部、 それらです。 で、彼女に対する責任と、 私たちの関係での責任 - 性的に、など 感受、赤ちゃんを造る、 私たちは一緒に、その赤ちゃんへ応答する責任があります。 私たちは、その教育に責任があります - 表面的な教育です。 学校、専門校、大学。もしお金があれば、です。 または、途中までです。 それで、一定の年齢まで、私たちは彼らに責任があります。 後で、彼らは去っていい。 老齢で、彼らは私を放り出す。 私を、フロリダかどこかへ、送り出す。 または、老人ホームへ、です。 この国で、何が起きているかを、ご存じですね。 そのすべての悲劇 - あなたたちは、それが見えません。 インドでは、社会保障がありません。 私は昨日、聞かされました - インドは世界で一番人口の多い国なのです。 それは、この国、アメリカの三分の一の広さです。 人口は毎年、増加しています -一年に千五百万人の割合で、です。 そこでは、八億以上の人々です。 そこには、社会保障がないので、 子どもを持たなければなりません -特に、男、男子たちを、です。 なぜなら、私たちみんなそうですが、彼らが年を取るとき、 息子が、世話をしてくれるであろうからです。 それが、三、四人の子どもを持つとの観念です。 ただ一人の子どもではない。 理解できますか。 どうか、これらの悲劇を、理解してください。 男の子は大きくなり、仕事に就くにつれて、 これが、彼らの重荷の一つであったのです - 両親の世話をし、 弟、妹たちを教育することが、です。 理解なさりますか。 彼らはそれができません。 私は、自殺を遂げた男の子と女の子を、幾人も知っていました。 なぜなら、彼らはもはや、それを成し遂げられないからです。 彼らは、親たちにとても責任を感じます。 で、「責任」という言葉は、とても複雑です。 理解できますか。 私たちは、自分たち自身へ責任があるのでしょうか。 それが問いです。 私たち自身と他の人たちへの責任は、何でしょうか。 私たちは、私たち自身へ責任があるでしょうか。 それは、どういう意味でしょうか。 「私たち自身」とは、誰でしょうか。 理解なさりますか。 「私たち自身」は誰でしょう。 「私たち」は誰でしょう。 「私」は誰でしょうか。 私は、私自身へ責任があるのでしょうか。それは - 理解できますか - 分割を意味しています。 あなたはこれが見えるのか、と思われます。 自分自身へ責任のある人物が、います。 私が妻へ責任があるように、 私の内側か外側に、誰かがいます - 私に責任のある者が、です。 それは、なかなかバカげて聞こえるでしょう。 または、責任のあるそういう人物が、いるのでしょうか。 神ですか。 (ソ連の最高指導者、)ブレジネフですか。 栄光のある父ですか - 付いてきていますか。 私たちの頭脳がどのように働くのか、分かりますね。 私たちが、「私は責任がある。 私自身への責任だ」と言うとき、 それは、私が自分自身を、何か実体へ分割した、という意味です - 私に責任がある誰かへ、です。 ゆえに私は、その実体に責任がある。 私は気をつけて、それを分離してきました -それは、私自身です。 あなたがそれに入ったことがあるのか、私は知りません。 すなわち、 思考者は思考です。 思考なしに、思考者はありません。 ですね? しかし、私たちは、思考者と思考を分割してきたのです。 「私は、あの思考を制御しなければならない」、 「あれは悪い思考だ。私は正しく考えなければならない」と。 それは、私は思考とは違っている、という意味です。 で、思考者は思考です。分離はありません。 心理的に、観察者は、観察されるものです。 経験者なしに、経験はありません。 ですね? 経験者が経験です。
1:17:57 で、そのとき、他の人たちへの責任は、何でしょうか。 ですね? あなたへの私の責任は、何でしょうか。 私への、あなたの責任は、何でしょうか。 ここには、聴衆がいます。私への、あなたの責任は、何でしょうか。 あなたへ責任がある私は、何なのでしょうか。 ご覧になってください。 私はただそれを見つめています。初めて、です。 そして、これらが出てきます。 なぜなら、私は本当に、この責任という問いへ、入りたいと思うからです。 私は見たいのです - 私は、あなたへ責任があるでしょうか。 あなたは、私へ責任があるでしょうか。 もし私が、「私はあなたへ責任はない」と言うなら、 そのとき私は、自己を分離しています。 ですね? もしあなたが、私に対して、「私たちはあなたへ責任はない」と言うなら、 そのときあなたは、私を片付けます。 あなたはこれが見えるのか、と思われます。
1:19:19 責任は、分割という意味合いです - 基本的に、です。 ですね? 私は彼女に責任がある。彼女は私に責任がある。 私はあなたに責任がある。あなたは私に責任がある。 それは、私は妻から自分自身を分離した、という意味です。 私はあなたから自分自身を分離した、 あなたは私から分離した、という意味です。 それで、私たちはけんかをします -私はあなたを理解できない、 私たちはあなたを理解できない、と。 私たちは、同じことを言いました。 すなわち、私はアラブ人である、あなたはイスラエル人である。 または、イスラエル人がお好きでないなら、 私はイスラエル人である、あなたたちはアラブ人である。 私はイスラム教徒である、あなたはヒンドゥー教徒である。 それがお好きでないなら、私はイスラム教徒である、 あなたはヒンドゥー教徒である。 それで私たちは、互いに戦います。 それは私の国である。私はそれを保護しよう。 それはあなたの国である。保護する、と。 私たちは互いのために、戦争をします。 それはあなたのイデオロギーである。 私はあのイデオロギーへ責任を持とう。 あなたは、他のイデオロギーへ責任を持とう。 ですね? これが、世界で起きていることです - それを責任と呼んで、です。 特に、エリートたちは、です。 エリートはそう呼びます -「私たちは国民に責任がある」と。 そのエリート支配、上へ到った上で、 彼らは、「私たちは責任がある」と言う。 それは、私にとって、すべて腐っています。 私にとって、個人的に、です。 なぜなら、私たちは一つの人間であるからです。 あなたは、あらゆる種類の苦労を、経てゆきます。 他の人間もそうなのです - 心理的に、です。 インドの人たちは、涙を流してきました。 ヨーロッパの人たちは、涙を流してきました。 ここの人たちは、涙を流してきました。 ですね? 涙は、私たちみんなに共通です。笑いのように、です。 あなたたちは、ここで、レッド・インディアンの文化全体を 破壊しました。 彼らを消し去りました。 それは、あなたたちの大虐殺(ホロコースト)です。 そうです。向き合ってください。 そしてこれは、つづいています - 時の始まりからです。 責任は、義務という意味合いです。 義務 - 私はこれをしなければならない。 私の国への義務、 私の理想への義務。 これらを見てください。
1:22:51 で、分割なく生きることは、可能でしょうか。 私に妻がいるとして、彼女と私の間に 何の分割の感覚もなく、彼女とともに生きることは、可能でしょうか - 共通の野心ではない。 理解できますか。 それは共通の野心であるなら、それは再び分割です。 私たちの一人一人が自己の充足をしつつあるなら、 再び分割です。 あなたはこれらが見えるのか、と思われます。
1:23:44 で、どんな国籍、民族性もなく生きることは、可能でしょうか。 語り手は、外交官のとインドのパスポートを、どちらも持っています。 インド政府が、それを私にくれました。 なぜなのか、私は知りませんが、彼らはそれをくれました。 国境を越えるとき、一定の形の書類を持つのは、 退屈です。 それで、自分がインド人になるわけではありません - 書類で、です。 理解できますか。 で、ただ一つの国籍、民族性もなく生きることは、可能でしょうか - どの国とも同一視されずに、です。 なぜなら、それは私たちの地球であるからです -あなたの大地と私の大地ではない。 どの宗教とのどの同一視もなく、 生きることは、可能でしょうか。 考え抜いてください。ただ同意や不同意をしないでください。 または、どの集団とも、どの組織とも、 どの機関、制度とも、 同一視されないで、です。 それは、あなたが世間から退きつつある、あなた自身を孤立させている、 という意味ではありません。反対です。 なぜなら、そのときあなたは、全人類であるからです。 その観念だけでなく、その感じ、 それの宗教的な感じです - すなわち、あなたは全人類である、と。 私は兄弟の番人です。 それは、私はあいつに干渉しよう、何をすべきかを彼に言おう、 という意味ではない。
1:26:03 で、みなさま、これは、最後の質疑応答の会合です。 ここには、問いが幾つも、残っています。 今、私は、それらをやり遂げられません。 お聞きしてもいいなら、 あなたはこれらから、何を受け取りましたか。 私は、大変尊敬を込めて謙虚に、お聞きしています。 それは攻撃的に出されていません - この問いは。 いくつかの事実を、聞いた後 - 観念と理論と意見と判断を、ではない - 何を捉えた、受け取った - 助け、ではない - 自分自身で、見たのでしょうか。 よろしい。終わりました。
1:27:23 立ち上がってもいいですか。